| 私の考える「雨ニモマケズ」について。 |
0 名前 : だめおやじ 投稿日 : 2005年06月07日(火) 09時18分45秒
私の考える「雨ニモマケズ」について。 朝日新聞5月22日の記事(シンポ「雨ニモマケズ」の心を探る) を読んで。 「雨ニモマケズ」のメモ書きに宮沢賢治の友人斉藤宗次郎を重ねた 記事は大いに興味を持つ内容でしたが、一生懸命働いていた彼らを 誰もデクノボーとは呼ばなかっただろうし、死を目前にした賢治に 禁欲や蕩尽が何故必要なのか? 昔越後のある村に背が高く、村人が仕事に精出す昼日中、子供達 を寺の境内や辻道に集め手毬やおはじき、かくれんぼなどをして 遊び、日が暮れたら山に帰る乞食坊主がいました。 しかし雨の日には雨の中を、風の日には風の中を托鉢しながら病気 の人あれば行って慰め、貰ったものをやり、死にそうな人あれば行 ってお経を上げて回復を祈り、日照りの時はひび割れた田畑に涙を 流し、冷夏には育たぬ稲穂を見て畔道をオロオロアルキ、それでも 村人にはデクノボートヨバレ、ホメラレモセズ、クニモサレズ、罵 声に対してはイツモシズカニワラッテイル。 賢治が病床のまどろみの中で脳裏をよぎったものは、昔から人伝 てに聞いていたあの良寛さんのことで、次の世に生れたら自分と 同じ法華経の信者である良寛さんのように自由奔放に生きたいな と言う『呟き』であり、サウイウモノニワタシワナリタイと手帳に 綴ったもので、詩として後世に残そうとは思っていなかったんじ ゃないでしょうか。 賢治が生きた時代、良寛さんはすでに有名人でしたが、それ以前 に夏目漱石や正岡子規が良寛書を高値で購入していた話は驚きです。 私はふとしたきっかけで良寛さんに関心を持ち早30年になりますが、 ある時もしかしてあの雨ニモ負ケズは良寛さんのことを言っている のではないかと思い、改めてじっくり読み返してみました。 驚いたことにあのメモ書きは良寛さんの人柄を誰よりも一番言い 当てている内容で、目から鱗とはこのことだと痛感しました。 はじめから終わりまで一行一行に良寛さんの生き様が的確に刻み込 まれていて、それを読んでいた私の手の震えが長い時間治らなかっ たことを思い出しました。 一日ニ玄米四合トとありますが、これは野原ノ松ノ林ノ蔭ノ小サ ナ萱ブキノ小屋ニイテ・・・・新潟の国上山にある国上寺の無住庵 五合庵の事で代々そこに居た聖が一日五合の玄米をもらって生活し ていた事から五合庵と命名されたようで、一人一日五合の玄米では 多すぎるとみた賢治は四合としたのではないでしょうか。 このようにあのメモ書きと符合する点はいっぱいあるので賢治ファ ンの皆さん是非良寛さんの研究をして見て下さい。きっと目から鱗 ですよ。 他にメモ書きとぴったり符合する人物が居たらぜひ教えてください。 あくまでもこだわりますあれはメモ書きで賢治の(呟き)です。 詩ではありません。 欄外かもしれませんが道元から良寛へ良寛から相田みつをへ愛と 座禅の思想は継承されました。 以上 だめおやじの 本邦初公開(後悔かも) でした。
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3 名前 : てつ 投稿日 : 2005年06月14日(火) 21時39分46秒
考えさせられました。良寛さん。研究してみたいと思っております。
朝日新聞5月22日の記事(シンポ「雨ニモマケズ」の心を探る)も読んでいませんが、私の「デクノボー」論は、『雨ニモマケズ手帳』にあるように、常不軽菩薩のように生きようとした賢治の生き方です。亡くなる10日前の昭和8年9月11日、賢治のかつての教え子であった柳原昌悦に宛てた手紙に初見する「慢」の語が手掛かりになります。自分の心髄まで「慢」が巣くっていたという事実に気づいた時、賢治は恐らく、絶望と狂気に襲われたと思います。自分を「修羅」と位置づけた傲慢(「慢」)、「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」という思い上がり(「慢」)を、猛省すればするほど、「空【くう】」(「無」)の位相を熱望したしたのではないでしょうか。しかし、「空」を熱望すればするほど、「空」から益々遠ざかり、心の底にあった「エゴ」がむき出して来るという事実―それを否定する形で書いたのが、「雨ニモマケズ」であったと思います。「デクノボー」は賢治が考えた「空」ではないでしょうか。 宗派が違いますが、晩年の親鸞の「自然法爾」(じねんほうに)が、賢治の「デクノボー」と重なりところがあります(吉本隆明『最後の親鸞』参照)。恐らく良ェにも同じ位相があるのではないでしょうか。 |
4 名前 : だめおやじ 投稿日 : 2005年06月21日(火) 00時46分37秒
たつ 様 ありがとうございました。 是非良寛研究もしてみて下さい。 あの夏目漱石や北原白秋を唸らせ大勢の人々を魅了した 漢詩、書、和歌などの良寛芸術や、自然の中に天真を任せた生き方にきっと驚かれることでしょう。 雨ニモマケズを語るとき私は宗教観は抜きにして語りたいなーと常々思っているのですが、一般的 にはどうしても宗教抜きでは語れない風潮があるのは残念です。 手元に雨ニモマケズ手帳のレプリカがあります。雨ニモマケズの前ぺ^−ジにこんな作品がありました。 一部分を紹介します。 一塵をも点じ 許されては 父母の僕となりて その億千の 恩にも酬へ得ん 病苦必死のねがひ この外に なし この句を読んでまさに俗人の賢治を見る思いがして、おやじの目にも涙でした。 さて、やはり法華経って魅力のある経典なんですね。その中でも特に人気の菩薩様で常不経菩薩品 第二十品が日蓮をはじめ著名宗教家の憧れの的になっていたのです。 ご多分に漏れず、良寛さまもそのお一人で、漢詩に法華転として残されています。 口を開けば法華を転じ、口を閉ずれば法華を転ず 如何(いかん)が法華の転 合唱して曰く 南無妙法華 後略 新潮社発行 良寛さん より
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5 名前 : だめおやじ 投稿日 : 2005年06月21日(火) 00時50分50秒
失礼しました。てつ様でした。お詫びと訂正です。 |
6 名前 : けんいち 投稿日 : 2005年06月23日(木) 16時56分35秒
雨ニモマケズのシンポジュームを聴講し、また「だめおやじ」さんの コメントを読ませていただいた者です。 シンポジュームでは賢治の日蓮信仰についての論及はなく「だめおやじ」 さんも宗教観をぬきに出来ない風潮は残念とおっしゃっています。 ところで良寛さんの生活態度は宗教観ぬきには語れないのではと思いま すし、雨ニモ・・・の後に続く略式本尊マンダラも無視出来ないのでは ないでしょうか? なぜならば雨ニモマケズ手帳の中に何箇所かマンダラめいたものが記入 されていますが、日蓮の遺した本尊マンダラは唯一雨ニモ・・・の後に 続くものだけで、他のは賢治の創作で、法華経寿量品を体現する日蓮の 本尊とは考えられません。(比較してご覧になると一目瞭然です) どうも雨ニモマケズは前置きで、マンダラが賢治にとっては重要だった のではないかと思えてならないのです。 気をもたせて申し訳ないのですが、何時か明快にその理由を説明したい と思います、ちなみに私はとりたてて信仰者ではありません。
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7 名前 : だめおやじ 投稿日 : 2005年06月25日(土) 22時39分24秒
けんいち 様 コメント有難うございました。 私は無信仰者ですが、経典には少なからず、興味を 持っています。とくに法華経や観音経に引かれますが、 それはさておき、あの手帳の曼荼羅は賢治さんがいかに日蓮証人に 帰依していたかを書き表したものですね。 だから証人の志を引継ぎ「賢治はさながら実験劇場のように短い人 生の間に法華経を思い、春と修羅や注文の多い料理店などを書いた のです。」法華経入門・大法輪閣刊より そして北上地方にイーハトーボ王国の建設を夢見たのでしょうか。 一方賢治とは対照的に「良寛は黙して語らずの人であった。どんな 毀誉褒貶(きよほうへん)を受けても、それについて何ら言い訳が ましいことは言わず、いつも淡々としていた。」(栗田勇 著 良寛 入門より。 私には黙して語らずの良寛さんと不経菩薩行を実践している姿が 雨ニモ負ケズの句節に重なって見えて来るのですが。 良寛さんの生活態度は確かに宗教観ぬきには語れないのですが、 良寛が残した夥しい詩歌のうち数点しか宗教について書いていない のです。栗田勇さんの著述より もし雨ニモ負ケズが最初から日蓮の思想を書き込んだものである として世に出したらこれほどの話題作にはならなかっただろうし、 宗教観抜きだからこそ多くの人々に受け入れられたのではないでし ょうか。? 日蓮曼荼羅については武田信玄の風林火山と同じで日蓮が布教の為 に作った旗印程度にしか想像出来ないダメなおやじです。
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9 名前 : けんいち 投稿日 : 2005年07月02日(土) 08時02分47秒
だめおやじ様コメント有難うございました。 するどいご指摘ですね! 宗教は、多分特に仏教は、法律のように人を指導するものでなく、人が 生まれつき身の奥底に知らずにしまい込んでいる何か嬉しいものを呼び 起こすものなのでしょう。 良寛さんの生活態度にひかれ、雨ニモ・・・にひかれるのも仏典でなく て、私達の奥底の何かに呼びかけるものがあるからでしょうか。 法華経は七つの比喩で表現され、私達がしまい込んで気ずかぬ素敵な何 かを呼び起こすように仕掛けているとの事です。 賢治作品に面白さは感じるけれど、埋まっているに違いない素晴らしい 爆弾の信管にはまだ手が届いていません。 見当違いのガラクタを掘っているのは、残念ながら自分が意地悪じじい の証拠かもしれませんね?
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10 名前 : だめおやじ 投稿日 : 2005年07月05日(火) 23時32分18秒
けんいち様。 何かが嬉しいものを呼び起こすもの…と言う けんいち様の表現、誠に同感です。 賢治のように「材料の多い童詩人」に関しては、 かなり専門的知識がないと読解できないものが あるようですね. 1996年2月号科学朝日誌に「生誕100年イーハトーブ 科学の彼方に」という特集記事が掲載されていました。 天文学、児童文学、地質学の3専門の学者による作品の 専門的解析が紹介されていました。 その中でヨダカの三兄弟についての記述に当時としては 最先端の科学的知識を持ってカワセミやハチドリを弟に したことが書いてありました。 けんいち様がガラクタを掘っているとご謙遜されていま したが、爆弾の信管に手が届く人は専門的な知識を学ん だ者だけのご褒美ではないでしょうか。 良寛書にしても万葉集や秋萩貼、寒山や道元などを理解 しないとなかなか真意が伝わってこないようです。
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11 名前 : ラリックス 投稿日 : 2005年07月10日(日) 14時25分54秒
皆様、こんにちは。宜しくお願い致します。 非常に興味深い記事、有難うございます。私も皆様同様 『道を極めようとする人』に大変興味を持っております。 特にこちらは専門的な記事が多いので『賢治』を調べる際 非常に役立ち、こちらに書き込みされる方々を尊敬しております。 賢治を語る際、宗教に思いを馳せて生きた賢治に対して宗教を抜きに というのは、難しいかも知れません。ただ、確かにこちらのサイトの 関係上、飽くまで調べるべきは、『人間賢治』あって、宗教を核と すべきではないでしょうね。 それは、良寛さん、道元についても言えるのかも知れません。 賢治が愛して止まなかった『妙法蓮華経』につきましては、 当時の情報内では、確かに賢治の情熱を持ってしてもそこに 行き当るのかも知れませんが、現代賢治がいきていたなら、 原典である阿含経のサンスクリット語翻訳、若しくは 全経典解釈までするに違いないと思うのです。 『雨ニモマケズ』を含め賢治作品の解釈につきましては、 著名な方々が研究されておりますが、『銀河鉄道の夜』なども 然り、必ず専門的な根拠がありますね。 私は、その根拠(爆弾の信管)の一部に触れ、驚き、歓喜するのが ひとつの愉しみになっております。 逆に申しますと、『私の思う賢治論』は、飽くまで私的なものであって 山ほど積み上げられてはいても、公表には至らないと自負しております。 その位、賢治を知ることは難しく、難しいからこそ面白いのでしょうね。 結局、自分の思いを述べてしまい、甚だ、恐縮に存じます。 |
12 名前 : だめおやじ 投稿日 : 2005年07月25日(月) 01時19分28秒
皆さまこんばんは。 だめオヤジです。 ラリックス様 コメント有難うございました。 私もこのスレに参加させていただいて改めて賢治を 真剣に研究されている人たちの多さを知ると同時にコメント を寄せて頂く度に、知識の豊富さ、思慮の深さに感心しな がら、大変な所へ足を踏み入れてしまったものだなと反省 しながら、楽しく拝読させていただいております。 私如き者の浅学の意見に皆様からコメントを頂けることを 心よりお礼申し上げます。 私たちが日頃賢治作品に対して思い描いていることを 例え公表とまでは行かない事でもこうして掲示板上で意見 交換できることの意義を大切にしたいと思います。 さて、これまでは賢治と良寛の法華経に関する意見を頂き ましたが,両人にとって最大のテーマは子どもについての考え 方、接し方ではないでしょうか。 賢治は詩を通して子供達に語りかけ、良寛はあの通り 朝と言わず昼と言わず子供達と遊びほっけて居たわけです からね。 「雨ニモ」の中に子供についての部分が何故書かれていな いのか、僅かに東に病気の子供あればと言うくだりがある だけなんですよね。 賢治生誕100年の年にテレビの特集番組の中で賢治に 教わったというおばあさんがいっていたことですが、大勢の 子供を集めて一晩中野山を歩き回って、翌日心配した 親たちに賢治先生こっぴどく叱られたそうです。 私としてはこじつけになりますが、賢治も子供に関しては 良寛と同じようなことをしていた訳で改めて雨ニモに書く 必要は無かったのではないかと考えますが皆様方は如何 にお考えでしょうか。 当掲示板を運営されているスタッフの皆さんこころより お礼申し上げます。ありがとうございます。 これからもよろしくお願いいたします だめおやじ
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13 名前 : だめおやじ 投稿日 : 2005年07月31日(日) 15時57分38秒
兼ねてより宮沢賢治と良寛の接点は無いものかと調べていた所 栗田勇氏の著書の中に、詩人、草野心平の名が出てきました。 この人は言わずと知れた賢治作品売り出しの総合プロデューサー のような人です。 栗田氏が白井成一〔建築家〕草野心平らと鼎談したとき、話しは、 良寛書評に移り白井氏は良寛風の書は臭みがあって嫌いだと言い、 心平さんは中国臭いのは嫌だと言ったそうですが、おもしろい ことに心平さんは中国の大学で青春を過ごしているし、白井さん は、京の禅寺で幼い日を過ごしている。ともに自分の身についた ものを否定して行き違ったとのではと書いてあります。 又、ある時栗田氏が心平さんの展覧会を見に行った折「千字文」 の冒頭の句、「天地玄黄」という書のとなりに「天上大風」の四 文字があった。心平さんは、天と富士山を唱う詩人だ。 その人の天上大風は、まさに、心平さんの詩そのもののように 見えた。ところが実は、この言葉は良寛のものである。それを 心平さんが書いていた。(良寛入門より) 心平さんが良寛を知っていたと言う事はおそらく、賢治とも 法華経の話しが出れば良寛の話しもしたのではないでしょうか。 賢治は良寛和尚を知っていた? と想像しているわたくしです。 最近某掲示板にイーハトーブ館の掲示板で「雨ニモ」のモデル は良寛和尚ではないかと言い出す人もいるが、そうなると不毛 になる。と苦言が書いてありましたが、不毛大歓迎です。 私のように有るか無いか分からないものをうろうろ探し歩いて いる人はかなり多いのではないかと思いますで是非ご意見をお 寄せいただければ幸いです。 沢山の謎解きを残してくれた宮沢賢治に感謝です。
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