宮沢賢治学会・セミナー報告集

1996年冬季セミナー報告(要旨)

 
イーハトーブ社会とスウェーデンの社会
シャスティーン・ヴィーデーウス
1996年11月30日:宮沢賢治イーハトーブ館

 今年度の宮沢賢治賞受賞について、改めて花巻市と宮沢賢治学会へ深く感謝します。

 本当にきれいな日ですね、今日は。

 私は日本に来ておよそ30年になります。論文から少し自由になったこともあり、これからは宮沢賢治作品の翻訳を続けていくつもりです。

 本日の題名で、イーハトーブの世界ではなくて、社会にしたことについて、話したいと思います。

 私は、先日までスウェーデンで二ケ月過ごしてきて、今までそんなことを考えたことはないのですが、もし宮沢賢治がスウェーデンに行ったらどう感じるか、あるいは淵沢小十郎にどう映るだろうかと考えたら、イーハトーブ社会という言葉が浮かんできたわけです。

 最初のスウェーデンの数日間で、スウェーデン人の自我の意識と日本人との違いを非常に感じて、その時、この社会では宮沢賢治は合わないんじゃないかという気持ちが強かった。

 その時に、知り合いのお坊さんの「仏教では自己主張しません」という言葉を思い出すことによって、これを忘れなければ大丈夫と思ったわけです。日本語には「郷に入れば郷に従う」という言い方がありますが、そうではなくて、私はスウェーデン人として日本にいる立場を失いたくないですね。スウェーデンに宮沢賢治を紹介することを考えた場合、そういう姿勢が大切だと思います。

 スウェーデンは、経済的将来のため、ECに加盟したばかりですが、その結果はまだ出ていません。今の失業率は13%で、非常に多くの人々が因っています。今までの世界のモデルとしてのスウェーデンが消えてしまったのかどうかということがあります。

 先日のスウェーデン帰国に、二つの印象的なことがありました。 一つは、移民が非常に多いということ。スウェーデンのイメージとして、もともとのスウェーデン人と移民が半々くらいに見えます。クルド人もたくさん住んでいて、ヨーロッパで印刷されたクルド人の本が一番多いのは、スウェーデンなのです。私の友人のクルド人は小説家なんですが、彼は今はスウェーデンの国の援助で、クルド人の国会図書館を造っでいます。経済的に因っているスウェーデンであっても、まだ援助は続いています。

 もう一つは、スウェーデンの小説家からの電話で、ある総合病院で図書館をやめようとしている、これはけしからんということで、スウェーデンの詩人と小説家の協会で話し合って、院長にかけ合いにいくことになっているといいます。その結果はわかりませんが、やはりスウェーデンは経済的に大変であっても、とにかくそういうことを確立していることを、私は誇りにしてもいいと思っています。

 最後に私は、出来るだけスウェーデンの多くの人々が、宮沢賢治の文章、そして宮沢賢治のことを触れることができるようなことをしていきたいですね。そこで、宮沢賢治の『注文の多い料理店』の広告ちらしにあるように、ドリームランドであらゆることが可能であれば、このことも簡単に出来るのではないかと思います。


 
農業技術者「宮沢賢治」−詩「稲作挿話」に学ぶ−
藤根研一
1996年11月30日:宮沢賢治イーハトーブ館

 宮沢賢治の詩の中でも、よく使われる詩ではないかということで、「稲作挿詰」を取り上げました。「あすこの田はねえ」というはじまりの作品です。私どもは、よく賢治さんの詩を読んだ時に、感覚的にとらえるんですね。例えば、私ども農業改良普及員でもそうなんですが、あすこの田はねえと言える人は、これはもの凄い人なんだということに、なかなか気がつかないでいる。この「あすこの田はねえ」という最初の意味において、賢治は非常に卓越した農業技術者だったということがわかる人が、サイエンチストとしての実力がわかる人なんだろうと、長い間思ってきました。

 賢治さんの先生というのは、関豊太郎教授、今の農芸化学の部長さんでございました。その先生のもとで、宮沢賢治さんが高等農林学校二年の時に書いた論文に「盛岡附近地質調査報文」があり、その内容は、地質を構成する要素は、母岩の中の養分にあるんだということを、盛岡の地質を調べながら分析した論文なんです。つまりこの論文を書く時点で、現場を歩きながら、母岩から地質への変化過程を知っていたということが一つあります。

 もう一つは、盛岡高等農林の得業論文「席食質中ノ無機成分ノ植物二対スル価値」です。これは単純にいいますと、岩手山火山灰の植物に対する生産力といったほうが分かりやすいですが、つまり土壌分析をしております。

 それで三点目はなにかというと、皆さんよくご存知の「稗貫郡地質土壌調査」です。これは、まさにさっき言った二つの論文のより具体的なものとして、自分のふるさとの土を調べながら考えたということになるでしょうか。

 そして、単純に言いますと、三つの論文の集大成として、たぶん「あすこの田はねえ」ということが出てくるわけでございます。

 賢治さんは、どんな作物に限らず、例えばトマトもレタスも作りましたし、稲についても大変詳しかった訳ですけれども、そこで私たちとは違って、土の中で、ある意味では遊べた方なんです。土の中で遊ぶというのは、この土がどの母岩から出て、どの川に運ばれて、どう混ざって、その養分がどういうふうに組合わさった土なのかと考えたということです。その中で、宮沢賢治さんが最も気にしたのは、不可給態ということだと思います。不可給態、これは何かといいますと、土壌学用語で、その養分はあるんだけれど、作物の為に使われる形態になっていないことをいいます。これは、「腐植質ノ無機成分ノ植物二対スル価値」に何度も書いています。最後にやろうとしたのが、不可給態を可給態にするということで、その一つの仕事として、東北砕石工場で炭酸石灰を売り歩くという行為になったんだろうと思っています。賢治さんの東北砕石工場の石灰の宣伝文を見ていただければわかりますが、石灰も窒素であります、石灰も加里であります、石灰も燐酸でありますと書いているんですね。それは炭酸石灰を施すことによって、可給態の養分が溶出してきて、作物にプラスになるというようなことを考えられたからだろうと思っております。

 農業技術者としてみるならば、盛岡高等農林学校で関先生に学んだのから、最後の東北砕石工場の技師までの道というのは、ある意味ではすごく一貫した土壌改良技術者としての道だったんだろうと、私は感じているわけです。

 今、私も花巻の農業改良普及員なものですから、有機栽培とか環境保全がどうのとか、いろいろな話がされておりますが、その基本になるのはなにかというと、やはり石灰なんですね。植物を・艮く作るには石灰がなくてはならんということが、案外農業技術者も、農協の職員も、農家自身も忘れているということがあるのではないでしょうか。

 農業技術者・宮沢賢治というところを考えた場合、やはり最後には「稲作挿話」の詩の重みに帰するのではないかと思っております。あらゆることを農業技術者としてやる時に何が重要かというと、SEE・よく見るなんですね。あすこの田はねえという言葉が出てくるためには、SEEがまず大切だということです。今の時代というのは、これを馬鹿にして、何が喜ばれるかというと、PLAN・DOだけですね。私はそれだけでは絶対成功しないと思います。宮沢賢治にとって、「稗貫郡地質土壌調査」「腐植質中ノ無機成分ニ対スル価値」そして「盛岡地質調査報文」が、農業技術者としてのSEEの部分だったろう。PLANというのは、多分、羅領地人協会の土壌用務一覧であり、植物生理要綱であり、ある意味では農民蓑術概論だったと。そして、DOは、まさに羅須地人協会の活動であり、肥料設計であった、そして最後のCHECKは、私にいわせたら作品だったのではないかと思います。そしてその基礎に何があったかというと、大地だったろうと思うのです。


 
賢治とシュルレアリスム
−「近代」を超える試みの行方−

塚原 史
1996年12月1日:宮沢賢治イーハトーブ館

 ちょうど今年は、宮沢賢治はもちろんですけれど、もう一人の詩人アンドレ・ブルトン−シェルレアリスムの創設者ですが−その生誕百年にもなっている。そしてもう一人、あまり知られていませんけれど、タダイズムを始めたトリスタン・ツゥアラーの生誕百年でもあります。ヨーロッパの場合一八九六年生まれの詩人の特徴として、一九一四年第一次世界大戦が始まるときに18歳であったという、多感な時期に破壊を体験するトップランナーとしていたのではないかと思います。その経験から、シェルレアリスムやタダが生まれたのではないでしょうか。賢治の場合は、戦争という意味でのプルトンとの共通性は薄いが、ヨーロッパ的な外なる戦争ではなく、価値観の転換という内なる戦争という意味で、私は共通性を感じます。

 ここで、ボードレールの詩「秋の歌」 (1859年11月30日の雑誌に発表) とランボーの詩「感覚」 (ランボー15歳の時の詩)を読んでいきます。

 この二つの詩の持っているトーンの違いに、時代の切れ目のようなものがあります。詩人が今まで暮らしていた共同体に切れ目を感じていて、詩人が社会的意味をなくしている苦悩のようなものをボードレールの詩に感じます。ところが、ランボーの詩には、そういった詩人の苦悩を乗り越えて、新しい時空へ飛び立とうという地点にいる。二つとも「出発」というところで、その詩はおわるのですが、その行き先がボードレールは「死」であり、ランボーの場合は「自然と一体となった愛」と、全く異なるわけです。

 1848年のフランス二月革命において、この社会に大きな亀裂 (ブルジュワジーとプロレタリアート)があることがわかってきたわけです。かつて芸術家は社会の進んでいく方向と同じ方向に歩いているように見えた。ところが19世紀半ばから、詩人とか芸術家は社会の存在価値をなくしてきている。そこにボードレールに見られる詩人の孤独感とか無力感があったわけです。

 ランボーの詩にあるのは、感情ではなく感覚であり、自然との一体感ほど「私」を消してしまうところから、詩の方向、シュルレアリスムやアバンギャルドといったものが見えてきたのではないでしょうか。

 シユルレアリスムは、アンドレ・ブルトンが1924年、『春と修羅』発刊と同じ年に、シユルレアリスム宣言を発表し、そこでは「心の純粋な自動運動」と定義しています。しかし実際にアンドレ・ブルトンが「自動記述」を発想する最初のきっかけは1919年にあり、その年から自動記述の実際にとりかかっているわけです。

 「自動記述」とは、作詩法なのでしょうか。シュルレアリスム=超現実主義は、詩の作り方のメソッドにすぎないのか。日常世界の中に、ディメンションが違う超現実があるという、それは詩の書き方ということではなく、その超現実にたどりつくための自動記述ということで、文字が自己表現にこだわることを越えようとして、「自己」を開放しようとしたのが、ブルトンの方法なわけです。

 それでは、心象スケッチは、自動記述なのかどうなのか。ここで『春と修羅』の「序」を読んでみると、私を現象ととらえることは、詩を狭い意味での自己表現から解放することになったのではないか。また「交流電燈」という言い方に、無意識と意識、または個と全体との往復としてとらえているのではないかと考えられます。その上で、「青い照明」の「青」という言葉から、太陽に象徴される自我系列から、映し出された世界への転換があるのではないか。さらに、風景、自然、みんなといっしょになるということが、「近代」が100年以上かけて創り上げてきた「理性的個人」という思いこみから解放してくるという、シュルレアリスムと非常に近いものがあると思います。そこには自己感覚を越える共通感覚があります。

 ヨーロッパにおいてかつて「近代」が創り上げた価値のひとつひとつに疑問をなげかけてきた時代があり、宮沢賢治が、その時代認識の影響をうけたかどうかわからないのですが、そこに、ある時代的な通底性を感ずるわけです。

 この世界と人間の認識のある種の共通性について、賢治が東京という中心から遠くにいたことによって、東京というせまい文化圏に自己完結しない方向を可能にしたのではないかと私は考えます。世界のどこにいても、スペースレスに知識を共有できるという、今で言えばインターネット的発想であり、そのことにより文学というものが、ブルトンとは違った意味で、同時代の限定された現実の表現で終わらず、超現実を模索することを可能にしたのではないか。そしてそのことが、「近代」を越えるまなざしをもたらしたのではないかと思います。

 ファシズムの波がヨーロッパにおしよせた一九三〇年代、アンドレ・ブルトンが、「世界を変革することとマルクスは言った、生活を変えることとランボーはいったが、この二つのことはわれわれシェルレアリスムにとって一つのことでしかない」 とい、つ言葉を残しています。ここには知的分業を越えていくあらたな姿勢が示されています。つまり近代の大きな特徴は分業であり、芸術家が職業的芸術家になっていくわけですが、近代の知的分業ではない、越える地点に「詩人」はあったのではないでしょうか。賢治は「農業芸術概論」において、職業芸術家を否定しており、そのことによって「近代」を越えるものだと賢治が思っていたとすれば、不思議に賢始のシュルレアリスムは重なってくることになります。

(冬季セミナー要旨の文責は事務局にあります。)