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宮沢賢治学会・セミナー報告集 |
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大正デモクラシーと宮沢賢治
今回の宮沢賢治生誕百年記念特別企画展における「大正デモクラシーと宮沢賢治」という展示は、関係者の先生方にて決定したタイトルをいただいて、私が担当いたしました。 このタイトルは、「と」ということで並列のようですが、比重はどちらかというと、大正デモクラシーの方に一置かれているかと思い、ます。そして、いろいろな構成の取り上げ方の可能性を考えた末に、やはり大正十五年間というのは、短いようで、やはり広範囲な領域なものですから、骨格はやはり賢治の関心をもって触れた領域で、そして、その領域と関係、接点をもちながら各分野の時代状況をみていこうと自ずとなっていきました。 構成上、どうしても区分けをしていく必要がでてくるわけですが、賢治の活動分野でよく分類される宗教と科学、思想、それから芸術といった区分けを利用しながら、さらに大正デモクラシーが発生してきた特徴としてもう一つ重要な要素である実践という分野を加えて、四つのジャンルを考えることにいたしました。 まず大パネルにおいて、その四つのジャンルを賢治のまわりに、時代の中で活動してきた人達の動きを置いてみました。そして、佐藤栄二さんのアイデアにより、曼陀羅風にしあげてみたものです。私たちは、便宜上、この大パネルを「曼陀羅図」と呼んできました。ここでもできるだけ本格的にということを目指したのですが、どうしても不完全な部分があるかと思います。皆様の中にお気づきの点がありましたら、むしろ教えていただけたら幸いです。 さて、この展示をやり遂げてみて、何となく「賢治の魅力」と思っていたものに、「大正時代」という時代の魅力が重なってきたというのが印象です。この展示の全体象を通して、「自由」、それとともに「生命」つまりいのちの根源を大切にしていこうという傾向を一本の筋としてまとめたものと受け取っていただけたらと思います。 命の根源を大切にしようとする道がいろいろな分野で試みられていったとするならば、マルチ人間というのは、賢治だけではなく、大正期にはいろいろ見出されるところです。具体的にこの展示の中でたどつていきますと、例えば、科学の最先端をいきながら、新短歌運動を進めていった石原純が上げられますし、生態学を中心にしながらエコロジー運動をやったり、あるいは民俗学を手がけていたという南方熊楠もおりますし、それから、宗教の運動をしていくことと、文芸的なものに関わっていくことが一体となった田中智学という人もおります。また、音楽方面で活躍した山田耕作は、他にも舞台芸術とか、他の芸術との融合ということを考えていました。それと、最後のあたりにでてきます自由画運動をした山本鼎は、もちろん美術を専門としながら、農民美術学校というのを開いて、農民の中に美術・芸術といったものを実践的にやっていこうとする学校を造り、そして様々な教育的な活動をやっていったというような、そういった人たちは、様々見えてきます。 私たちは、賢治ってすごい人だ、特殊な存在だという風にみてしまいがちですけれど、時代の中に置いて、そして時代の戸口を見た上で、そこから影響されて生まれてくる部分、それらをふまえながら見ていくと、その時代の中で育まれていた賢治らしさ、さらにその中で賢治自身の突出した特徴というのがあるという、そういう見方を私自身教えられました。 また、賢治も一つの時代を生きてきた一人の人間ですから、時代の享受者として存在しているわけで、そういう見方も同時にもっていかなければいけないということも思いました。そうした賢治なりに時代から受け止めたものを、今度は賢治なりにどう消化し吸収して、そして新たな賢治の個性の伴った表現へと結びついていったのかということを見ていく、本企画展がそのための一つのワンステップになればというふうに思っております。 それでは、企画展示の内容につきまして、その構成にそって説明させていただきます。 (春季セミナー要旨の文責は事務局にあります。)
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ただあらたなる−東山町バスツアー報告−
「石灰岩を粉砕した肥料を、従来石灰岩抹石灰岩粉石灰石粉等と称して居りますが、これらの名林は、どうもまだ一般購買者の理解が進まない為に不利かと思はれます。則ち『石のままでは利くまい』とか『石なら山にいくらでもある』とかいった風の考が多いのであります」 賢治が東北砕石工場に対して書いたこの「献策」を読むたびに、私は義父のことを思いだす。 明治四十二年生れの義父は、若いころ北海道のコメの北限地で農協運動に加わり、後年になってから養鶏用飼料添加剤としての炭酸カルシウムの販売をしていた。松島湾の牡蠣が赤潮の被害をうけ、カルシウム錮料が不足したところをねらって、石灰砕石を八戸の砕石会社と組んで売りだしたのである。ちょうど輸入雛が盛んになり、大型養鶏が目立ち始めたころで、義父の説明では 「カルシウム吸収と消化機能促進を高めるもの」であった。が、見るとただの石の細かな欠片である。鋭角状に砕石したことで効果も高いというが、たいていの養鶏家は「石なら山にいくらでもある」といった。 「グリット」といって、消化促進のために火山礫を細かくしただけの商品も売りだされていたから、それから見ると義父の方が商品らしかったが、夏の夕方、灯りのついた養鵜場をまわるたびに、義父の化学的な説明をきいたあと、どの人たちもき、まっていうのは、「石のままでは利くまい」であった。 貨車積みを手伝うと、セメントのように重く、誤って破袋をかつぐと、こぼれ落ちて飛散する細かな石は、そのまま地面の石屑となった。重いサンプルを持ち歩きながら、義父は失意のうちに他界した。 賢治が、東北砕石工場に助言だけでなく資金も営業にも手助けし、広告宣伝文などつくり、サンプルをつめた重いトランクをもって上京したあげく、高熱で倒れたことを思うと、義父の姿とかさなる。くらべるべくもないが、石をもって歩きまわった男たちの苦渋には、暗たんたるものがある。どうして、石、であったのだろう。 賢治学会春季セミナーで、東北砕石工場のある岩手県東山町を訪ねた。賢治ゆかりの行事を毎年開催しているその町にも興味はあったが、ふと、義父について理解できなかったことがらを見つけられるような気もしたからである。 すでに使用されていない工場は、荒廃していた。賢治が、ここに技師として訪れたのは昭和六年春であった。そのとき工場の人たちと記念写真をとり、それがそのまま彫像群となっている。バラ敷きの石灰石の上にすわるもの、肩よせあって立つもの、唇を結んだ男たちの像は、春の陽ざしに輝いている。 灰色の石粉で塗りつぶされたような工場の中、クラッシヤーの下、粉末がたちこめるそこに賢治が立って そのもうもうたる石煙にまかれ、まるで雲のなかにでもいるような想像にかられると、天空と地下の世界の間には、感知はできても解釈できないものがある、と書いた宇佐見英治氏の文を思いおこした。「ノヴァーリスのいうように岩石の中には下万の星が燦いているのだ」 という。石と雲と。 「あらたなるよきみちを得しといふことはただあらたなるなやみの道を得しといふのみ」−詩碑の前では胸がつまった。 (会員・北海道穂別町)
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