宮沢賢治学会・セミナー報告集

1997年夏季特設セミナー

 
夏季特設セミナー
1997年8月2日・3日
宮沢賢治イーハトーブ館

 本年より、宮沢賢治の「文語詩」をめぐって、四年間にわたる長期企画夏季特設セミナー『宮沢賢治「文語詩」の謎にせまる』の第一回が、八月二日、三日の二日間、宮沢賢治イーハトーブ舘を会場に、約八十人の受講者を得て開催されました。

 初日は、まず原代表理事のあいさつの後、本セミナーのコーディネーターである入沢康夫さんより「はじめに」と題し、特設セミナー開講にあたっての基本的心構え、また宮沢賢治の文語詩に関わる基礎的データ資料をもとに文語詩創作にいたる経緯や「双四聨」等の表現形態についてのいくつもの謎について講話がありました。続いて、歌人で京都精華大学教授の岡井降さんの「賢治の文語詩をめぐって」の講演は、「雨ニモマケズ」がはたして文語か口語かというところから始まり、具体的に「母」や「田園迷信」などの作品をとりあげつつ、読者の側から宮沢賢治の文語詩をトータルなまなざしから考察していただきました。

 二日目は研究発表として、まず島田隆輔さん(島根県立横田高校教諭)による「文語詩/初期構想の<現>風景」では、簡やノート、そしてインク使用の分析などテクスト現場へ入り込む緻密な考察が発表され、続いて栗原敦さん(実践女子大学教授)による、賢治文語詩の校異における使用のあり方や、賢治の時代における言語表現のあり方に着目した「賢治における文語使用・口語使用と文語詩」と題する発表がありました。それぞれの発表後の質疑応答では、暑さをものともしない白熱した議論のやりとりが続き、予定終了を三十分も延長となりました。

 今後の本セミナーへ期待する声も多く、今回の成果をふまえつつ、研究者の問でもその評価の大きくわかれる宮沢賢治文語詩の謎へ迫るその一歩として、今後の多角的に堀り下げが期待されます。


1997年熊谷・秩父地方セミナー報告

 
熊谷・秩父地方セミナーを終えて
根津道子
1997年9月5日〜7日

 1997年度宮沢賢治学会イーハトーブセンター地方セミナーの一つが、9月5・6・7日の三日間にわたり熊谷・秩父で開催されました。一時はどうなるものかと心配しましたが、無事終えました。このために関わってくださった皆様にお礼申し上げます。実は、事務局を引き受けた『くまがや賢治の会』は、1996年3月に発足し、歌碑建立に向け活動をしていました。くまがや賢治の会発足の経緯は、寄居賢治の会の歌碑がきっかけでした。)そして、賢治が熊谷を訪ねた9月2日に因んで、建立式典が執り行われた所でした。

 初日は、入沢康夫氏の講演『若き日の賢治の肖像』で始まりました。「今までに開けなかった話しをきけて良かった。」と参加者の声。藤原健次郎宛ての手紙を取り上げ、「雨ニモマケズ……」ばかりでない賢治の一面、青年期の短歌、及びその後の文語詩について、恋愛経験も含んだ青年像を語ってくださいました。又、秩父研修旅行時に賢治たちの乗った列車の時刻については、大正時代の時刻表に当たり、新提案を山されました。余談ですが、田舎で探したところ、前後の年のものがみつかったと言うのを開いて、保存の良さと同時に大正時代に親近感を覚えました。

 講演後は、北に隣接している熊谷寺本堂において、副住職漆間氏の 「直実と敦盛」の話しを開きました。賢治もやはり当時の住職から話しを聞いたのでしょうか。「蓮生坊が建てし碑の……」にうたわれている碑は、今はありません。しかし、最近敦盛と直実の碑が並ぶ、それと思われる写真がみつかっています。

 尚、直家・直国そして安芸熊谷氏・三河熊谷氏・奥州熊谷氏・近江熊谷氏と全国に熊谷姓の繋がりがあるのは、直実の子孫であります。

 副住職の話しの後、下恩田の人達に「恩田のささら」を境内でしてもらいました。賢治のみた鹿踊りのルーツを採る様な楽しみを覚えました。

 その後の懇組合には、57名の方々が集いました。語り合い、皆で歌い明日への旅行の楽しみも膨らんでいきました。

 6日の朝は熊谷駅に集合し、寄居に出発しました。8月に完成した川の博物館に着いた時には、日本一の水車が回っていました。近くの荒川沿いの歌碑の前で、寄居賢治の会の方たちが出迎えてくれました。大沢氏が、賢治短歌の博多帯の岩石の解釈や荒川地質の説明をしてくれました。博多帯は、「虎石ではなく荒川岸の断層面であると言う説に、興味を持ちました。寄居から小鹿野に向う途中、車中より賢治が泊まったであろうと思われる旅舘「梅乃屋」を眺めました。株父鉄道の線路も当時は、宿にもっと近かったようです。

 その後、「化石会館」へ行きました。小鹿野賢治の会の方々が、待っていてくださいました。説明後、庭でおいしい昼食を取りました。小鹿野には、三基の歌碑がこの8月に建ったばかりです。保坂嘉内と賢治の歌碑は、ここ「ようばけ」で、仲良く並んでいます。残る一基は、町役場の敷地に賢治の歌碑が建ちました。賢治一行は、小鹿野に一泊し、当地のポストから保坂宛てハガキを投函しました。今は焼けて蔵は少ないですが、生糸で栄えた町なので、きっと土蔵もたくさんあったことでしょう。

 小鹿野旅舘「寿屋」を見学した後、三峰へ向かいました。三峰山には、秋田から駆けつけてくださった宮城一男氏が到着していました。霧雨の為、野外ではなく三峰神社報特殿において、芸術的な素晴らしい幻燈を2本上演してくださいました。神社の方が、三峰で詠んだ賢治の短歌を報特殿に書いて置いてくれました。牛崎氏の朗読「あすこの田はねえ−……」と、「雨ニモマケズ……」はとても感動しました。

 7日の早朝の三峰山は、朝霧の幽幻さに満ちていました。賢治もほぼ同じ日程で来ているので、きっと同じ様な体験をしたのではないでしょうか。朝のお勤めを終え、私たちは下山し、長瀞自然史博物館に向かいました。車中で、参加者に自己紹介や賢治への思いなど一人ずつ語ってもらいました。博物館の中に入ると、小鹿野で発見された恐竜パレオ・バラドキシアが迎えてくれました。河原の暑さは、厳しかったですが、参加者たちは、紅廉変岩の説明など熱心に開いていました。

 昼食は、有隣倶楽部の竹膳料理でした。大広間の掛軸は、明治時代の埼玉の実業家渋沢栄一翁が書いた物です。「徳不孤必有隣」の中の「有隣」を取ったのだそうです。秩父鉄道の憩いの施設でした。旅行社の配慮で、ここでも賢治の詠んだ入り口に掛けてありました。食事後、親鼻橋から長瀞間のライン下りを楽しみました。

 三日間のセミナーはS LのPALEO・EXPRESS号で締め括られました。余韻に浸る参加者に、熊谷までの蒸気機関車の中で、今回の感想を書いて頂きました。パンフレットの差し替えのため、夜中までかかって皆で手作業をした事を思い出しました。セミナーを終えた今、全力疾走した後のあの快感と疲労感が、入り交じっています。手助けをして下さった参加者、講師の先生方に心からお礼申し上げます。この絆は、「くまがや賢治の会」への賢治さんからの大きなプレゼントとして大切にしていきたいと思います。

(会員・埼玉県熊谷市)


1997年三朝地方セミナー報告

 
三朝方セミナー カンパネルラをさがしてもむだだ
斉藤征義
1997年11月9日

 盛岡高農で宮沢賢治らと同人誌「アザリア」の仲間だった河本義行は、卒業後、故郷鳥取県の旧制倉吉農学校の教諭となった。芸術好きの青年たちが「砂丘社」を結成し、河本は「緑石」の名で詩や俳句を書いた。

 旧家に生まれ、教師としても専門の農業だけではなく数学や体育も教え、学生たちからも慕われたが、賢治のように貧しい農村のためにとか、宗教的信仰のために思いきった生き方をする人ではなかったらしい。

 「胸にうっ屈したものを抱きながらも、親に言われる通り故郷に帰ってきた。律義で生まじめな山陰人なのである」

 と鳥取女子短大助教授の今村実さんが、セミナーで語ってくれた。

 しかし、詩集「夢の断片」にうけた「一種異様な官感附憂鬱症」の評や、定型を脱して自由律俳句に才能をぶるい、荻原井泉水から「あたたかく、あかるく、ぼっくりとしてぬうっとしている」と許された作品に接すると、賢治とは異なった面での激しさと鋭敏さを感じる。そのことをふくめて今村さんは、
 「遠い遠い世界を瀕視し続けていた人であったか」
と述べた。

暗い空の雪風に眼がゐる
うつろなほら穴に息をすひに釆た
死んだ俺が水の中にすんでいる夢だった

 昭和八年七月、鳥取県八橋町海水浴場で生徒を監視中、同僚が溺れたため救助しようとして、その同僚を助けたが、緑石は溺死した。小沢俊郎編年譜に記されている通り、まさしくこの事件は「『銀河鉄道の夜』のカンパネルラの死と酷似して」おり、賢治がこの年の九月に亡くなったところから、「恐ろしいまでの暗合」とも、「賢治が河本の訃報を受けてのち、カンパネルラの死を書き改めたかもしれないという推測」の「魅力」は、多くの研究者たちが伝えている。

 肋膜炎を思った賢治が、大正七年に盛岡から花巻へ帰るとき、駅まで見送る河本に
 「私の命もあと十五年はありません」
と言った。

 その十五年後に、二人は他界した。

 これらの「恐ろしいまでの暗合」のことを、私は北海道から、セミナーの開かれる鳥取までの飛行機の中で、北の白鳥座から南へ走る汽車の中でのように、奇妙な仮想感覚として味わった。

 カンパネルラの幻影は、北の涯へさがしもとめた妹トシの幻影であり、「ただ一人の友」保阪嘉内との激しい訣別と悲痛の投影が語られてきた。登場する「黒い大きな帽子の大人」は、泣きじやくるジョバンニに言う。

 「カンパネルラをさがしてもむだだ」

 「みんながカンパネルラだ」という声を耳にしながら、賢治がカンパネルラに託したものは本当は何だったろう、と考えたりした。

 今回のセミナーは三朝町商工会が実行委員会を組み、河本緑石生誕百年にあわせて開かれた。文学や研究団体のではなく、郷土を愛した緑石のすぐれた業績をたたえる。あたたかさに満ちた行事であった。会場に飾られたコスモスの花や、賢治と緑石の詩編からつくられた曲や合唱にも、おそらく二人の微笑が会場のどこかにあるに違いないと想うほどやさしさにあふれていた。

 緑石の息女御船道子さんが営む喫茶店「カンパネルラの館」が、三朝町の温泉通りにある。「アザリア」の青春が、ここにひっそりと息をしていた。それにしても緑石がみつめていた「遠い遠い世界」とは、どこだったのであろう。

(会員・北海道穂別町)


1997年冬季セミナー報告(要旨)

 
美しい星〜ミヤザワケンジ星誕生
米田康男
1997年11月29日:宮沢賢治イーハトーブ館

 本日は、はじめに美しい星空という宇宙の話しをさせてもらって、二つ目は私ども天文台と賢治さんとのつながりについて、三番目にミヤザワケンジという名前のついた星が生まれたという話しでしめくくりたいと思います。

 僕は、天究館という天文台の館長をしておりますが、それはちょうど十年前に、紙を扱うダイニツクという会社が文化事業として天文台をオープンした際、その仕事にあたったということで、専門の天文学者ではありませんし、また宮沢賢治さんの研究者でもありませんので、その点おくみとり願いたいと思います。

(天体写真のスライドによる解説−略−)

 ここで、小惑星の話しに入っていくんですが、火星と木星の間には何方という小惑星があります。新しい星を発見した場合、彗星では百武やへ−ルポップなど発見した人の名前を付けますが、小惑星は、発見した人の名前はもちろん付けられますが、そのほかいろいろな人の名前をつけております。

 現在、何方個とある小惑星のうち、大体八千個近くが人類によって観測され、そのうち、日本人が発見したのは大体八百個くらいですかね。僕のところの天文台でもいくつか発見し、それぞれ名前を付けているんですが、一番最初の名前は天究館のある多賀町という名前から、「多賀」という名前をつけました。二つ目の星は、滋賀県の本当に大事にしなくてはいけない自然ということで、知事さんと相談して「琵琶湖」、三つ目には「京都」という名前をつけております。

 天究館と宮沢賢治さんとの関わりといえば、宮沢賢治記念館でやられた「星の図誌」展のパネルをお借りして、1991年に天究館で展示いたしました。それは非常に美しい藤井旭さんの天体写真と、斎藤文一先生の味わいのある文章で出来あがっている展示でして、またそのときに初めて宮沢清六先生が天究館におこしになりました。これをきっかけに、賢治さんとかかわることを断続的にやるようになってきたわけです。

 そこで天文台にふさわしいご恩返しとして、宮沢賢治という星の名前を付けられないかなとなったわけです。予め過去に付いた名前を調べたところ、「宮沢賢治」という名前はつけられていないことがわかり、早速花巻に出向いて、清六先生に 「宮沢賢治」という名前を小惑星につけることをお話しにでかけました。

 何方とある小惑星の中の、人類が発見した五千八番目の小さな星。十六等星ですから肉眼では全くみえません。大きさが大体5キロ位、岩手山ぐらいの星です。その小さな星が、宮沢家と天究館が親しくなったという時間の流れをうけて「ミヤザワケンジ星」になったわけです。

1996年、4月22日に花巻で命名式を行わせてもらいました。その式で、清六先生が「兄も今年は恥ずかしがっているだろう」といわれたことを印象的に覚えています。  最後になりますが、賢治さんが居ておられるミヤザワケンジ星は、三年三ケ月で太陽を回っています。この地球を賢治さんがどういう思いで見て居られるか、いつも僕たちは考えていかなければならないと思います。


 
宮沢賢治・植物の世界
桜田恒夫
1997年11月29日:宮沢賢治イーハトーブ館

 賢治植物の世界ということで、まず資料のはじめに載っているマグノリアについてお話します。私は宮沢賢治全集にある作品の中の植物が表現になっているものを調べておりまして、私なりに、この場合はコブシですが、その表現がきれいだという詩あるいは童話の中からとって、植物の説明ということになっているが、要するに、童話や詩の語句の説明、合わせて植物がそこでどういう役割をしているかということです。

「ごらんなさい、そのけはしい山谷にいまいちめんにマグノリアが咲いてゐます。」「ええ、ありがたう、ですからマグノリアの木は寂静です。あの花びらは天の山羊の乳よりしめやかです。あのかをりは覚者たちの尊い偈を人に送ります。」

 宮沢賢治先生が在職されました花巻農学校の一部が現在は文化会館、庭南のほうは、ぎんどろ公園としてあるわけですが、そこの一角の看板にこの文章が書いてあります。どなたがえらんでも、コブシを引用するのであれば、この文章になろうかと思います。

 「あの花びらは天の山羊の乳よりしめやかです。」この表現は、コブシだとか、あるいは木蓮の花びらをみますと、ちょっと花弁が肉厚といいますか、色も真っ白というのではなくて、白というべきか透き通るというべきか、不思議な色をしているわけです。そういう表現が、しめやかな山羊の皮膚、あるいは山羊の乳を連想させるのでしょうか。

 「あのかをりは覚者たちの尊い偈を人に送ります。」「あのかをり」とは、こぶしとか木蓮の花そのものは、鼻をつくような芳香属化合物、それはきれいというか、透き通るような香りは、実際のにおいが和尚さんから我々のほうに教えを示してくれるようなものだという、香りと宗教からくる悟りの境地を、実際の匂いをかりた宗教表現ということができます。

 ここでいいたいのは、宮沢賢治先生の場合、ただ普通に詩人や童話作家なりが文筆の中で扱う美しさとはちがって、だいたい七通りくらいの役割を植物にあたえておりまして、この場合は、マグノリアという植物の形をかりて語らせているわけです。

 これは、昨年1月1日から今年の2月15日まで毎日連載しました岩手日報の 「イーハトープ植物園」 の文章をそのまま書いたのですが、新聞の文章というのはかなり短いという制約がありまして、ここでは植物といっても具体的に作品の中で扱われているものをご紹介して、宮沢賢治さんという人は植物をこういうぶうに扱っていたのかというふうに、これを知っていただければと思います。

 はじめに、次回企画展示の監修者ということでご紹介いただきましたが、要するにおおよそ三月頃から、イーハトープ館の展示ホールにおきまして、宮沢賢治心象の世界を、植物を題材に語らせるという企画になっております。具体的には、これから相談しながらすすめていくこととなりますが、宣伝と紹介をかねまして、全体のおおよその具体的構成と内容につきまして、ご説明いたします。

(企画展示「宮沢賢泊・植物の世界」展は、3月2日から6月30日まで、宮沢賢治イーハトーブ館にて開催されております。)

 
非対称のバランス〜宮沢賢治の方法〜
西 成彦
1997年11月30日:宮沢賢治イーハトーブ館

 宮沢賢治ほど世界の誰もが読もうと思えば読めてしまう日本語で書いた作家は、めずらしいという予感がしておりますので、そういう観点から自分も世界の様々な同時代の作品、あるいは一九世紀以降の近代の作品との関連性の中でとらえていきたいと考えております。

 僕が宮沢賢治と出合ったのは、中学の教材に取り上げられた「オツベルと象」であったと思うのですが、その後遠回りして、二十代は主としてポーランドに関心をいだいてきました。

 やがて熊本大学で比較文学を受け持つこととなりますが、そこで二年に一人くらい宮沢賢治で論文を書こうという人が出てきました。

 そうこうしているうちに、ラフカデイオ・ハーンと熊本の関わりから、ハーンについて調べ始めるようになり、そこから民俗学者としての柳田国男と出会い、さらに宮沢賢治を含めた三人について、彼らがそれぞれ生い立ちはちがうものの、日本への関わり方においても、同時代の西洋の学問や動向にもするどいアンテナを広げ、しかも各々バランスよくその役割を果たしてきたことを知ることとないりました。

 そういう過程を通して、四十歳にして、宮沢賢治に出会ったわけです。今年はクレオールという言葉をキィワードに『森のゲリラ』という本を書きあげましたが、今日は原点にかえるという意味で、僕自身が宮沢賢治をどのように読むかをお話ししたいと思います。

 僕はポーランドに三年住み、ハーンとのつながりもあってアイルランドに何度も足を運びました。この両国は西ヨーロッパの周縁にあって、しかもカトリックの国であるということで、互いにシンパンイを持ちあっています。そしてもうひとつは、ハーンが日本に来る前に住んでいたカリブ海のマルチニークという島があるのですが、ここにも何度も訪れました。

 この三つの地域については、今日の我々よりも案外宮沢賢治の時代の人々の方が、具体的に正しい認識を持っていたと思います。戦前の日本人は、ある意味で現在よりもバランスのとれた世界観を持っていて、ポーランドやアイルランドのように、自分たちもいつかは国を失うのではないかという不安の中でシンパシイを強く抱いていたのです。その時代、ポーランド文学は、今よりもずっと読まれていましたし、アイルランド詩人イェイツの作品は芥川龍之介らが訳しておりまして、それを通じて日本の辺境に、柳田国男がほりおこしたようなざしき童子などの妖精がたくさん住んでいるという日本的風土と、アイルランド人の妖精伝説をたくさん残した文化的風土の間に共通性を見いだそうという発想とは、別に宮沢賢治でなくても、大正期の作家たちでは突飛なものではなかったと思います。ポーランドであれ、アイルランドであれ、東北であれ、森というところ、それは未だ耕作されていない場所ですけれども、そこに都会人が神秘を求めて集まってくるという物語りは、たくさん残されているということです。

 近代資本主義が、都合中心に工業地帯をつくりあげ、地方というのはあくまで、原料の供給場所であり、また都合で作られたものの消費場所であるという、そういう使命を都市は周辺におしつけていきます。そしてもうひとつ、カリブの島においては、もっと複雑で、コロンブスの発見以来、この国にすんでいた先住民はかなり追いつめられてしまって、小さな島々の先住民文化にいたっては、民俗学博物館にいかないと見ることが出来ないという状態です。

 これらの比較文学的視点からは、すでにいくつか書いてきていることでありますので、本日は「山男の四月」について最後に話してみたいと思います。

 この作品については、「支那人」という差別的表現についての指摘など、問題のある作品だと感じていました。そういう意味で、これからアジアの中で日本文化が知られ、宮沢賢治の作品が読まれるようになった場合、「山男の四月」をどう読むかという問題はつまずきの石となるような気がします。今年の六月、東アジア比較文学研究大会という催しで、「山男の四月」を日本人の僕がどう読むかということを講演しましたので、その要約をここで、日本の皆様に紹介いたします。

 ご承知のように、1924年関東大震災の翌年に、『注文の多い料理店』は刊行されています。生前その作品はほとんど流布しませんでしたが、戦後になってこれだけ宮沢賢治が世界的に読まれるようになってきたときに、やはり1920年代に童話を書いた作家としての限界をふまえた上でないと、文学史的には正しく位置づけることはできないだろうというわけです。実際、東アジア文学史という枠組みのなかで、これから宮沢賢治を評価していくには、当時日本軍部が育みつつあった大東亜共栄圏という夢と、宮沢賢治が童話の中で示したイーハトーブ構想とのあいだの親和性に、目をつぶることは出来ないと考えます。

 柳田国男が 『遠野物語』以降、山人研究から後退していくのに対して、宮沢賢治はもう一度山男というものを、積極的に童話の中に取り入れていったひとりだと思います。『遠野物語』には、里の女を拉致する悪党としての山男像があるのですが、宮沢賢治ではまぬけな山男が強調され、しかも女ではなく、飴がほしくて人里におりてくるという、賢治流のひねりがあります。

 ところがこの後「山男の四月」 の山男の夢に登場するのは、「支那人」の「六神丸売り」であったわけです。古来・山男に付されていたイメージが、1920年代には山男というよりは「支那人」におしつけられつつあったということになります。安藤恭子さんの 『宮沢賢治 <力>の構造』によると、このような支那人像は、当時の童話雑誌『赤い烏』にも、たくさん見ることができるそうです。

 宮沢賢治の同時代で、「支那人」を取り上げた作家のひとりとして、僕は内田百閧考えてみました。彼の「冥途」という、最初の短編集に収められた作品で、そこに描かれている姿が当時の「支那人」像の代表的なものであったと思うからで、ここに出てくる姿は「山男の四月」の「支那人」像とほとんど共通です。ただ賢治の作品では、夢の中で山男と「支那人」が並置され、しかもそれを日本語で書いて日本人に読ませるという、読者つまり消費者の側にまわった日本人が加わった、山男と「支那人」と日本人というトライアングルの中で出来あがっているところが、要するに賢治の独創であったと思います。

 内田百閧フ「支那人」と宮沢賢治の「山男の四月」は、執筆年数は多少違いますが、ともに1920年代の前半の日本で出版された作品で、多分1900年前後に、まだ中国人イメージは仙人的なものに限定されていたでしょうから、これら作品は書かれることはなかっただろうし、日中戦争がはじまって以降は、多分こういう形では書かれなかったはずです。そういう意味で1910年代から20年代の日本に特徴的であった「支那人」表象の応用編として、内田百閧フ「支那人」があり、宮沢賢治の「山男の四月」があったという、時代的刻印は否定できません。しかも二作は「内地人」の夢を前提とした物語であって、主人公の山男や私は、ともに「支那人」の追跡をうけてしどろもどろになったところで、夢からさめるという同じ終わりかたをしています。

 この当時の時代背景の中で、それぞれの見る日本語でかかれた夢は、主に日本語使用者によってだけ利用され、消費され、共有されて、今度は逆に国民神話となって、日本人が次に見る夢の非常に重要なソースになっていきます。

 そして、文学好きの大衆が急成長した日本の大正期は、内田百聞や宮沢賢治をも国民神話の形成者として取り込み、「支那人」像をより人々の中に植え付け、その濃度を濃くしていった。そのような体制が、まさに整っていく確立期でもあったということです。

 それに対して、戦後五十年を経過した東アジアは、逆に古い神話を現実にもどす脱神話化のために開かれた文学研究が必要とされる時代となり、宮沢賢治を、二十世紀が終わろうとしている今日の目から見るということは、そういう歴史をふまえながら、今日の我々の中からどれだけ神話を排除できるかということで、これからはアジアの研究者たちとのあいだでも議論していかなくてはならないと思います。

 非対称のバランス――そのときに「山男の四月」における宮沢賢治らしさとして、山男と「支那人」を対決させることで、その非対称な二つの力のあいだに日本人の不安定な立場を浮かぴあがらせるその方法意識に僕は注目したいと考えるのです。

 ご静聴ありがとうございます。

(冬季セミナー要旨の文責は事務局にあります。)