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宮沢賢治学会・セミナー報告集 |
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宮沢賢治学会地方セミナー in秋田おおだて
「宮沢賢治学会地方セミナー in秋田おおだて」が主管・秋岡宮沢賢治愛好会、弘前宮沢賢治研究会、後援・大館市生涯学習推進本部、大館市教育委員会の下に、平成10年10月29日(日)、秋田県大館市に在る秋田桂城短期大学を会場に開催された。 七億円の巨曹を投じて建設された円形ドームの大数場には、秋田県民、大館市民はもとより、南は福岡、徳島、北は北海道幌別等から約230名の方々が参集された。 セミナーは午後一時、正面スクリーンに賢治肖像が映し出され、会場に「精神歌」の旋律が流れる中、秋田桂城短期大学の対馬美香・西田直樹の司会の下に開会した。はじめに学会の代表理事力丸光雄氏が「1985年、私が音頭をとらせていただいて盛岡市で開催した『科学者による宮沢賢治』のシンポジウム。実はこれが研究者が一同に会して賢治をディスカッションした最初の読みではなかったかと秘かに自負しています。それから十三年立って、こんな立派なシンポジウムに参加できて感慨無量の面持ちです。」と挨拶された。つづいて地元を代表し、大館市教育委員会教育長佐藤忠信氏が、小畑元(はじめ)大館市長の次のような歓迎のメッセージを代読された。 「宮沢賢治地方セミナーの開催は東北でははじめてと伺い、大館市として光栄の至りです。昨今、ナイフ事件をはじめ、青少年の問題構造が浮き彫りにされていますが、今こそ純粋に前向きに生きた賢治の精神や生涯を学ぶことの大切さを痛感させられます」と。 次にプログラムに入り、まず「お話T」として、元大谷大学教授の西田良子氏が「宮沢賢治・童話の魅力」と題して講演された。同氏は「何に魅力を感じるかは、人それぞれ異なるものであるが、賢治は仏教・文学のみならず、化学・天文学・土壌学・音楽・絵画・演劇、造園等、いろいろな分野に精進していたマルチ人間で、しかもそれらの専門知識を、さまざまな作品の題材や表現に自由自在に取込み、独自の文学世界を構築していたのだから、そのアプローチは複雑とも云えるが、また逆に、読者の各自関心ある分野から賢治の世界に入り込んでゆける利もあるのではないか」と述べられた後、しかし「たとえ如何なる興味から賢治作品を読みはじめても、やがては賢治が索めつづけた“まことの世界”や“あらゆる人の本当の幸福”について読者自身も考えるようになり、賢治の生涯や思想について、もっと深く知りたい、学びたいと思うようになるにちがいない」と結ばれた。 次に「お話U」として、詩人であり、明治大学教授である入沢康夫氏が「宮沢賢治・詩の魅力」と題して講演された。はじめに同氏の指示で賢治の代表的詩作として有名な「永訣の朝」と「春と修羅」が、詩文をスライド映写、朗読を故草野心氏、宮沢清六氏のテープで紹介された。 そのあと、入沢氏は、「宮沢賢治をはじめ近代詩、現代詩は一般に詩句や意味が難解とされているが、しかし“詩”というものを読者が受け取る場合、“解するもの”ではなくて“感ずるもの”わかるためのもの“感動するもの”われわれを越えた世界にふれてゆくものと位置づけるのが基調であること」を強調されたことが印象的であった。 十分間の休憩後、アトラクションの「太鼓演奏」に入った。演じたのは大館曲げわっぱ太鼓の会(会長田畑準吉氏)の石井昭仁氏、大沢しのぶ氏で、両者ともオールジャパンオタイココンクール、個人の部で日本一に輝いたメンバー。曲目ははじめに俳優で本学の非常勤講師でもある松村彦次郎氏の朗読との共演で賢治の「原体剣舞達」、次に全国からの参加者への歓迎の意を込めた太鼓組曲「樹海」そして、アンコールに応えて「虹の彩(あやどり)」と芸術的で迫力にみちた太鼓の響きが会場一杯に広がり、午後五時、セミナーのすべての行事が終了した。 (理事・秋田県大舘市)
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フォーラム「<イギリス海岸>をめぐって」
宮沢賢治イーハトープ館にて「宮沢賢治・イギリス海岸」展が開催中であることから、「イギリス海岸」をテーマに、宮沢賢治冬季セミナーが11月28日・29日の2日間、約140名の受講者を得て開催されました。その第一日日について報告いたします。 初めに企画展監修者である宮城一男さんによって、スライドによるわかりやすい「イギリス海岸」についてのお語があり、続いて力丸光雄代表理事をコーディネーターに、吉田裕生・地徳 力・平山健一の三氏の順での発表があり、宮域一男さんにはそのつど総体的コメントをいただくというスタイルでフォーラムが始まりました。 まず古市さんからは、岩手県立博物館に在職中、学芸員として岩手県内の河川地質調査に関わった結果をもとに、「イギリス海岸の地層の時代は、従来考えられていたような第三紀鮮新世ではなく、より新しい第四紀更新世であると推定される」と報告し、イギリス海岸は明らかに陸地に堆積したもので塩っ気はないと、最新の地質年代測定技術結果による新事実が発表されました。 続いて地徳さんから、北海道穂別町立博物館学芸員として、本年「穂別富内のイギリス海岸」と発表された地層の調査に携わった経緯から、宮沢賢治がイギリス・ドーバー海峡の海岸にある白亜の絶壁から連想したイギリス海岸との関わりで、穂別町富内にある白亜紀の地層についての解説がありました。 最後に平山さんは、現在岩手大学工学部長であるとともに、リバーカウンセラーとしてこれまで建設省河川改修に関わってきており、北上川が江戸時代にはもっと西に蛇行しており、その後改修工事により南にまっすぐ流れ延びることとなり、その結果イギリス海岸の地質も露出することになったという改修工事の歴史的経過に始まり、現在の建設省による「水辺プラザ構想」まで、イギリス海岸を中心にした河川改修のあり方についての具体的解説とともに、これら工事にあたっての現在の基本的考え方として、一方的に行政が進めるのではなく、住民との連携、そしてなによりも「住民の主体性」が問われていると述べられました。更に今年の洪水でイギリス海岸周辺の石積み護岸がだいぶ掘られ危険となっており、なんらかの対策が必要となっているとの指摘がありました。 イギリス海岸の今後については、「イギリス海岸を考える懇談会」の一員であった宮城さんより、三年前には「現状のまま、手をつけないことで一致をみた」との報告があり、同じく力丸代表理事からは、護岸工事に合わせてイギリス海岸周辺を観光的にあれこれ作っていくのではなく、何もないことの良さをもう一度よく考える必要があると強調されました。 賢治によって「イギリス海岸」と名付けられた河岸をめぐつて、主に地質学的分野からのさまざまな発言を通して、未来のイギリス海岸の課題にまでたどりつき、そこではまさに私たちひとりひとりのあり方や生き方が問われていることを深く実感するフォーラムとなりました。 (事務局)
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異水流入の主題について ――「イギリス海岸」から「銀河鉄道の夜」へ
急なお招きをいただいて、充分な準備ができないものですから、以前に文章に書いたことをそのままお話しするのでもよいかとたずねましたら、それでもいいというお返事でしたので、思い切ってここにあがりました。というのも、私は二十年ほど前、初めてイギリス海岸の河原を自分の足で踏んで、そのときの考えを書いたことがあったからです。それは、「波はあをざめ支流はそそぎ/たしかにここは修羅のなぎさ」と「イギリス海岸の歌」に歌われている、その支流の流入が、どうして宮沢賢治に「修羅のなぎさ」を感じさせたのだろうという疑問にかかわるものでした。この詩句を素直に解釈すれば、支流が入ってくることが「修羅のなぎさ」を感じ取らせる、と考えるほかはありませんから。 イギリス海岸のすぐ上手のところで、瀬川という小さな支流が西側から北上川の本流に入ってきますが、賢治のいう支流はどうやらそれではなく、もう少し上手で東側から流れ込んでくる猿ヶ石川のことのようです。大正十一年ごろに書かれたとされる散文「イギリス海岸」を読むと、この奇妙な名前をこの河原に賢治が与えたのは、古代の動植物の痕跡のためもむろんありますけれども、もっぱら猿ヶ石川のおかげのように見えます。けれども北上川が大きく曲がっているために、イギリス海岸からは猿ヶ石川の合流点が眺められませんから、はるばる訪れた私は失望しながら、これは単なる黄色の問題ではないらしい、と悟りました。 長い歴史の間にさまざまな生き物がここで栄えたりほろんだりした、それも修羅場には違いありませんが、「イギリス海岸の歌」の第一節は「あをじろ日破れあをじろ日破れ/あをじろ日破れにおれのかげ」とあり、自分で自分の影を見下ろしている賢治の姿が浮き上がります。うつむいて自分の影を見つめれば、一種の自己反省のようなものが生じるでしょう。その自己反省が賢治に修羅を感じさせた、つまり修羅は景色の中にではなく、賢治の心の中にあった苦です。ところがそこへどうして「支流はそそぎ」という言葉が入ってくるのか、それが私には謎だったのです。 散文の「イギリス海岸」から読み取れるところでは、この場所は楽しい水浴の場ですけれども、教師として生徒たちを引率してきた賢治にとっては、万一にも生徒が溺れたりしないだろうか、というのが大きな関心事でした。死の危険が彼の頭の中にあったのです。となると、それが支流と結びつくのではないでしょうか。賢治は「冷たい猿ヶ石川」と書いています。きっと、猿ヶ石川の水は、北上の本流の水よりも温度が低いのでしょう。温度の違う水は、見た目には一つになったようでも、容易に混じり合うものではありません。だから、そういうところで泳ぐのは危ないのです。賢治の文語詩の中に、この「イギリス海岸の歌」を発展させたと思われる作品があり、その推敲の過程を見ますと、まず「川しろじろと/峡より入りて/二つの水はまじはらず」と書いてから、これを「二水はならび流れたり」と改め、さらに「川しろじろとまじはりて/うたかたしげきこのほとり」と書き直しています。「まじはらず」と「ならび流れ」と「まじはりて」と、まるで百八十度の方向転換をしたようですが、この三つは実は同じことだったのではないか、と、私は考えました。 賢治の文語詩の中にもう一つ、異水流入のモチーフを扱ったものがあります。それは「二川ここにて合したり」という詩で、これは北上のもう少し下手にある大きな支流の和賀川に、さらにその支流である夏油川が流入する地点を歌ったものですが、ここでも夏油川は雪解け水を流してくる、と述べています。雪解け水ならば当然冷たいでしょう。賢治はどうやら、一つの水に別の水が流れ込む川の合流点にこだわりがあって、そのこだわりの原因は、入ってくる水がもとからの水よりも冷たいというところにあったのではないでしょうか。賢治は農業にも地質学にも深い関心がありましたから、川について書いたものはいくつもありますが、合流について触れるケースは多くはありません。そして、触れるときには、どうもこのような思いが頭をかすめたように見えます。 見た目には一つになったようでも混じり合わない、冷たい異水、それが賢治に「イギリス海岸の歌」を歌わせた、と考えると、そこからの連想は死です。考えてみれば、花巻の盆地にとっては、北上川そのものが、すでに外から流れ込んで流れ去るものですし、それと並行してもうひとつ、ここを貫いて流れ込み流れ去るものがあります。鉄道です。そして、川と鉄道とを並行させて辿って行けば、それはまさに銀河鉄道の旅にほかなりません。その銀河鉄道は天国に通じる、死の国に通じる列車でもあります。名作「銀河鉄道の夜」の、後期形のラストシーンで、ジョバンニはカムパネルラが死んだことを悟りますが、そのときジョバンニは、カムパネルラが川のずっと向こうの方にしかいない、と感じます。天国へ行ったとか地獄へ行ったとか、上下の関係では捉えずに、川の流れ去る彼方へ行ってしまったと感ずるのです。この花巻にも、たとえば夏のお盆などに灯篭流しの行事があるのかどうか私は存じませんけれども、「銀河鉄道の夜」に描かれた烏瓜のあかりを川へ流す行事は、まさに死者の魂を川の水に託して、はるか彼方へ、くろぐろとした闇の奥へ流し去ることはないでしょうか。 散文の「イギリス海岸」はいかにも明るい随筆のようですが、実はこの地点で賢治は痛切な自己反省をし、死ぬことさえ考えていたのではないか、と言えるような気がします。さっき挙げた文語詩の中に「蛇紋の峯は、/かしこに黒く、/孤高はかなくほこれども」という言葉があって、これは早池峰山のことでしょうけれども、「孤高はかなくほこれども」という表現は、賢治自身の中に強い悔恨の気持ちがわだかまっていたことを示すのではないかと思います。どうもこの大正十一年ごろから、それまでひたすら前へ進むことしか考えていなかった賢治の心の中に、そういう悔恨のようなものが兆しはじめていたのではないかと、私は疑っています。賢治の最愛の妹だったトシさんが亡くなるのがこの大正十一年の十一月、散文「イギリス海岸」が書かれたのは亡くなる前の八月でしょうが、そのころにはもう、トシさんの病状はかなり悪かった筈です。 だいたいこのようなことを、かつて私は「イギリス海岸にて」というエッセイに書きましたので、それをもう一度お話しするつもりで来たのですが、昨日からこのセミナーに出席して、新しい発見がありました。やはり何度でも来てみるものですね。その一つは、昨日のフォーラムで、岩手大学の平山先生が、イギリス海岸から連想するものを多くの方々に自由に答えてもらった、意識調査の結果を表にして示されました。それを見て驚いたのですが、イギリス海岸から「銀河鉄道の夜」を連想する、という答えがとても多いのですね。この河原をめぐる作品群と「銀河鉄道の夜」とでは、主題の上での見かけの共通点は多くはなさそうなのに、たくさんの読者の心の中でこの二つがちゃんと結びついているのです。これは私がいま述べたようなことを、賢治の愛読者たちがとっくに感じ取っていたことを証拠立てています。 もう一つは、これも昨日展示を見て初めて知ったことですが、西から北上川に流れ込む瀬川が、イギリス海岸のすぐ上手で合流するようになったのは、実は第二次大戦後の改修工事のおかげであって、それまでは花巻の町の中を流れて、朝日橋よりも下手へ行ってから合流していた、という事実です、賢治の生きていた時代にも当然そうだった筈ですから、おかげで、支流の流入にあれほど敏感だった賢治が、さっき挙げた作品の中で、なぜ瀬川についてひとことも触れなかったのか、という疑問が解けました。 最後にもう一つ付け加えますと、「イギリス海岸の歌」にはご存じのように賢治自作の曲がついていて、『全集』に載っている譜面にはアレグレットという速度指定があります。これで歌うとかなり威勢のいい行進曲のように聞こえます。この会場で流れた演奏もそうでしたし、賢治はこれを生徒たちに歌わせて行進したということですから、それでもいいのかも知れませんが、賢治の書き残した別の譜面ではアンダンティーノと指定してあって、アレグレットよりも遅くなり、これで歌うと、かなり純重な、不気味な歌になってきます。曲の流れも、メロディーというよりは、四部合唱の最低音部を辿っているような気分です。どうもこれは、行進というよりも、ひとりで何か考え込みながらゆっくり歩くときのリズムではないかと、私は思うのです。そうやってゆっくりと歩きながら、頭の中でこの歌を口ずさんでみると、かなり孤独な、自閉的な精神状態になります。たぶん、賢治が最初にこの歌を作ったときは、そんなふうだったのではないでしょうか。「イギリス海岸の歌」の歌詞と曲とがいつ書かれたかはわかっていないようですが、さっき述べましたように、大正十一年前後からなにやら悔恨の情が現れてきたことと重ねて考えると、どうも同じころの産物ではないかと私は推測しております。
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