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宮沢賢治学会・セミナー報告集 |
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消え行く斎藤報恩農業館
大きい建物といえば、学校くらいしかなかった田舎町、宮城県小壮丁田町の自宅近くに、高々と聳える総二階造りの建物が完成した。 斎藤報恩農業館の落成であった。 大正15年秋のことである。 名称も業務も、まことにユニークなこの研究機閑の設立は、宮城県前谷地村(現河南町)の素封家斎藤善右衛門翁が、報恩公益の篤志から、産業の発展を希って、財団法人「斎藤報恩会」を創設したことによる。 斎藤翁の社会に対する報恩の志の篤さを戴し、時の上田方正丁宮城県知事によって、「宮城県立斎藤報恩農業館」と命名された。 同年11月15日から事務を開始したが、大正末期に、既に今日の日本農業の機械化を予測し、農業機械の研究開発を目的とした専門機関が設置されたことは、我が国の農業史上特記すべきことであった。 田植磯、穀物調整、乾燥機、耕運機、エンジンなどの、諸々の基礎研究や試作改良なども、昭和十年代に完成していたのである。 この農業館の初代館長として、県が白羽の失を立てたのが、工藤文太郎である。 昭和2年7月12日付発令をもって赴任した工藤館長は、当時四十歳そこそこの高等官で、容姿端正、長身のまことにスマートな紳士であった。岩手県長岡村(現紫波町)出身の逸材で、盛岡高等農林学校を卒業後、岩手県稗貫郡蚕業講習所長、石川県農業試験場技師などを歴任しての小牛田入りであった。 館長校舎が私の家に近く、当時父が町長を務めており、さらに館長と同じ歳なことから親交があって、子供のころ、来宅した館長に可愛がっていただいたことが、今も懐かしく思い出される。また、農業館設立時の主任技師は、奇しくも後年私の恩師となり、岩手大学工学部長を務めた玉城良男教授であった。 賢治にとって、工藤館長は同郷で、盛岡高等農林学枚の先輩にあたり、また共に稗貫郡蚕業講習所に関係した経歴から、二人は後年小牛田で相まみえる縁があったのであろう。 やがて、東北砕石工場主鈴木東蔵との運命的出会いにより、同社の技師となって、炭酸石灰の宣伝販売に奔走を始めた腎治は、当時農業館長として令名の高い、工藤文太郎の紹介によって宮城県内の需要を喚起すべく、初めて小牛田町の農業館を訪れたのは、昭和6年4月19日である。 そして、最後の訪問となった同年9月19日までの五ヶ月の間に、計五回にわたり、農業館や小牛田肥料株式会社を訪れた。 この間、賢治の奔走と工藤館長の助言によって販売の業績が上がり、このことを、小牛田駅より東蔵あてに投函し、報告している。 訪問の度に、賢治と工藤館長が話を交わした館長室は、現在も残っているが、二人はどんな夢を紡ぎ合ったのであろうか。 最後の農業館訪問の翌日、仙台より上京した賢治は東京で病を得て、その二年後に流星のように透明な銀河の彼方に去って行った。やがて、昭和20年8月の敗戦により、日本農業は急速に機械化農業の時代に突入したが、そのおり起爆剤となったのは、長年農業飴が蓄積していた研究の成果であった。しかし昭和48年3月、県の機構改革によって農業館の閉館が決まり、惜しくも栄光に満ちた、農機具のメッカとしての使命をおえて、半世紀の幕を閉じたのである。 いま、宮城県内に現存する、貫重な賢治ゆかりの建物である農業館も、老朽化して危険になり、取り壊しの時が迫っている。 このようなおりに、賢治学会春季セミナーに際し、去る3月22目、奇跡のように学会員の農業館訪問が実現した。 農業館に縁の深かった地元の者として、思いもかけない喜びであった。 閉館後すでに26年、静まりかえった二階の大講堂に、久しぶりに来訪者の賑やかなさざめきや、笑い声があふれて華やいだ。 宮沢賢治学会から、消え行く斎藤報恩農業館に贈られた、最高の餞のようなひとときであった。 賢治と、工藤館長のお導きによるものであろう。 嬉しさと感動が、今も鮮やかである。 斎藤報恩農栗館、小牛田肥料株式会社に閑する資料、写真。また 「賢治の聴いた音楽」SPレコードコンサートの、録音テープなどご必要のおりは、下記あてご連絡下さい。 〒987-0004 宮城県小牛田町牛飼字新町1−1 今野 博
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宮沢賢治と海 異途への旅Part2 小記
盛岡中学四年、十六歳の賢治は修学流行で初めて「海」という光景に出会った。今回のセミナーは、当時の賢治の足跡を追いながら、岩手・宮城に点在する賢治の小風景に想いを巡らす趣向である。 平成11年3月21日、全国から賢治を愛してやまぬ総勢67諸氏、花巻、一関で三々五々合流し、バス二台に分乗。まずは一関駅からほど近い孤禅寺地区へ。かつて北上川に舟運さかんなりし頃、ここに船着き場があったという。今はただ川縁の草むらに川船や錯びた錨が転がっているのみ。明治四十五年、賢治はここから石巻まで川蒸気で北上川を下った。我々はバスで一路石巻へ。 北上川が石巻湾に注ぐあたりを一望できる日和山、賢治が初めて海を眼前に捉えた地である。現在公園となっているこの一帯には賢治を始め芭蕉や茂吉、啄木の碑も点在し、旅人に文人墨客の息吹を感じさせる場所となっている。詩碑には賢治が海を詠んだ一節。曰く、「青ぐろくしてぶちあてる/あやしきもののひろがりを」云々。賢治の驚きと感動が伝わってくる。 松島瑞巌寺を経て、七ヶ浜町菖蒲田浜の大東館跡へ。賢治が修学流行中に、病気療養中の伯母を訪ねたというこの旅館も数年前に取り壊され、今は跡形もない。地元の後藤秀樹氏により、まだ建物が残されていた頃の様子を聞く。小雨に降り込められながら泥混じりのその廃墟跡に立てば、灰色の海が眼下一望のもと、時間の流れを一時忘れてしまう。 投宿先の多賀城市「小野屋ホテル」 にて、大沢正善氏による講演会「宮沢賢治と気圏の海」を拝聴。賢治作品の「海」に注目し、人間の発生の根元が海であったことから海にはアイデンティティ確立の深意があること、賢治にとって海とは安全な空間ではなく、不安定、不透明、淀んだ空間であること等、詩人の思想の根源を垣間みた気がした。 翌22日、小牛田町の斎藤報恩農業館を見学。長らく現地にお住まいの今野博氏による解説にしばし聞き入る。砕石工場時代の賢治が昭和六年に訪れた建物がそっくり残されており、当時は農業機械の研究や試験等が行われていたという。現在は農機具等の民俗資料の保管に供されているが、老朽化が激しいため近く取り壊されるという。見れば天井の漆喰は剥がれ落ち、壁の傷みも甚だしい。正式な見学受け入れはこれが最後と開き、また一つ賢治の時代が遠ざかるのかと一抹の寂しさを覚える。 セミナー最後の旅程は小尊寺。老齢の杉木立を見上げながら月見坂を登っていると本格的に雪になった。本堂のカーペットに一同座し、住職佐々木邦世氏の講話を開く。烏地黙雷、暁烏敏など、賢治の時代を生きた人と思潮について聞いていると、仏教徒たる賢治の生き方にどこか親しみさえ感じる。唐傘を携えた住職の案内で金色堂を拝し、ぼた雪の降り積む資治詩碑を見学。詩碑の台座に貝の化石を見つけ、しばし太古 に想いを馳せる。 移動の車中では、賢治の取り持つ若い時分の甘い体験を納々と語る人あり、東北の濁酒の是非について熱弁を振るう人ありで、バスの長旅も飽きることなくあっという間であった。花巻駅前で解散後、有志で「ハバキヌギ(帰宅して旅装を解く、の意らしい)」と称し、ビールや紅茶をすすりながら、各人が自ら賢治体験を語り合ったのもまた楽しい時間であった。 旅というのは不思議なもので、わかっていたはずの文学がまた別の共感をもって己の胸に迫ってくる。境遇は異なれども、こぅして賢治を愛する同志と賢治の歩んだ道を共有できたことは、この上もない歓びである。 (会員・神奈川県藤沢市)
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