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宮沢賢治学会・会報第23号 | |
(ははあ、あいつはかはせみだ ─〔北上川は螢気をながしィ〕─ |
第23号「かはせみ」 2001年9月21日発行
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写真提供 (株)林風舎 |
宮沢清六さんを偲ぶ 入沢康夫 宮沢賢治学会イーハトーブセンター顧間、賢治御実弟でもある宮沢清六氏 が二〇〇一年六月十二日ご逝去されました。謹んで哀悼の意を表します。 宮沢清六さんが、去る六月十二日の昼前に、九十七歳の天寿を全うされ て、他界なされた。九十歳を過ぎても、心身ともにお元気で、ここ二、三 年来さすがに立ち居がやや不自由になられて床に就かれることが多くなっ てからも、精神がすこしの衰えも見せず、この調子では百歳を越えて生き ていただくことも夢ではないと、思いもし、願いもしたものだった。 それというのも、賢治没後七十年近くになってようやく本道に踏み入ってきた
と感じられる賢治研究家にとって、清六さんは常に、単に貴重な生き証人
と言うだけでない大きな存在で在り続けてこられたからであって、敢えて
言うならば、清六さんのご他界によって、賢治研究は、その「大
黒柱」を これは、お亡くなりになって間もなくテレビ取材に答えて述べたことだが、 宮沢賢治が稀代の天才であったことは、いまや誰もが認める事実であるにし て、清六さんは、兄とはまた別の面で、やはり大変な天才であったと思う。 兄賢治の没後、その遺稿を守り、その「人と作品」の意義の正しい普及に、 自己を没却して務めるという大仕事を成し遂げられたわけだが、この大事業 の遂行に当たって、清六さんは常に賢明であり、しかも、謙虚・温順であり つづけられた。これは、口で言うのは簡単でも実際に身をもって実行する のは並大抵のことではない。 私が初めて清六さんの 近代日本の文学者の中で、賢治ほど全集資料が整備されて いる者はないと、言われることが よくある。校本以降の数次の全集編纂に加わってきた者として、有り難い評 価だが、こうした全集が実現できたのも、元をただせば、賢治遺稿そのも のが、花巻空襲の業火のなかでしっかりと守り抜かれ、こんにちに伝えられ ているからのことである。あの火の海の中で、身を挺して遺稿を守りきった 清六さんの活躍がなければ戦後の賢治作品研究はまったく違った貧しいもの になっていただろう。 清六さんには、ことの真実を正しく見抜き、その真実 のために尽力するのを厭わぬ「叡知」とでも呼ぶしかないものが備わってい た。知恵の人というと、えてして冷たく厳しい人柄が連想されるが、清六さ んの場合、その知恵は、言ってみれば「大乗的な」慈愛深さと車の車輪を成 す大きな暖かい知恵であった。 また、清六さんには、最晩年に至るまで、旺 盛な知的好奇心と巧まざるユーモアの精神が共存していて、それが清六さん をいつまでも若々しく、かがやかしく飾っていた。年若い研究者・愛好者に も隔てなく接して、彼らの広い敬愛を集めていた秘密のひとつに、このこと があったと、私などには思われる。 兄賢治の人と作品が今後も多くの人々に 愛されるであろうように、弟清六さんの人柄とあの慈愛深い懐かしい笑顔は 、これからも永く人々の心に留まり続けるに違いない。 (顧問 神奈川県川崎市)
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写真提供 (株)林風舎 |
詩人の弟の達成 原 子朗 銀河からのメッセージが届いたのだろう。宮沢賢治の八歳下の弟、 宮沢清六さんがいっさいの延命措置をことわって岩手県花巻市の 自宅で死去された。満九十七歳だった。 銀河からのメッセージとは私の“意訳”だが
「賢治からのメッセージがまだ届かないので…」
とは、自分がまだ元気である言い訳みたいに ご家族の気遣いもあってインド行きは実
現しなかったが、十三年前の秋には、やはり私の滞在していた北京に
清六さんは愛孫和樹君を伴って日本からではなく、「亜細亜学者の散策」
「 万里の長城ばかり
か、北京のあらかたの名所を回り、私の教えていた大学院の学生や教師
たちに講演をし、前日 なお、情六さんはこの訪 中の四年後、八十八歳でギリシア、トルコ、エジプトに岩手医大の学生た ちと旅をし、九十歳で石垣島に遊んでいる。 あの健脚といい、
気力と だが、花巻空襲で 燃えさかる炎の中から兄賢治の原稿を守りぬき、まるで当たり前のように 賢治を今日あらしめた強い意志、あるいは責任感も、運命論で片づくので あろうか。そこを描きながらも賢治が行けるはずもなかった西域の地を代 わりに踏みしめてきたという静かな深い満足感を清六さんの笑顔の奥にみ とめた時、このひとはもう賢治の分身どころか、それ以上の、もしかした ら恐ろしい勝利者なのだと、透明な北京の空の下で私は思った。 ものの正邪 五十余年前、高村光太郎に講演をたの
みに今は花巻市内の 学生ふぜい の私を二階に招じ入れて下さり、『春と修羅』の賢治手入れ本(宮沢家本)や 生原稿を三脚の下にひろげ、めくりながら撮影の助手をつとめて下さった。 私には大檀那であった清六さんのきびしい柔和な面影を思い浮かべ、私は密 葬の席で涙をこらえて深い恩愛の念をささげた。 思えばあれからずっと、賢 治の作品で難解な語や個所が出てくるたびに、電話で教えを乞い、即座に、 あるいは数時間、数日たってからわざわざ電話で教えて下さるという、清六 さんは私にとって賢治の生き辞引の役までして下さった。そんな時もきまっ て推量形がついていた。それも私には清六さんをこわいひとだと思わせた。 その著『兄のトランク』(一九八七年、筑摩書房)の彫心の文体がそうである ように。 この本は賢治の三倍近くも生きて賢治を今日あらしめた清六さんの、 決して終わらない生の軌跡となるだろう。 (東京新聞六月二十五日夕刊、転載) (宮沢賢治イーハトーブ館長 東京都練馬区)
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清六さんの休日 力丸光雄 「清六おじいちゃん」─当時九歳の 寒冷のため それでもおじいちゃんはすこぶる元気で、ハ
イビスカスの島に降り立たれた。ちょうど「大
潮」の日であった。白い帽子にグレーの背広の
ダンディーな姿で、すっかり潮が引いたリーフ
の上をひょいひょいと渡り歩き、大
「あゝせいせいするな!」 最初の三日問は海岸に宿をとって、それはも
宴のあと「 この時の旅行は、「白い珊瑚礁が見たい」とい う、おじいちゃんの願いがそもそもの動機だっ たはずである。さかのぼること五年、工ーゲ 海・地中海方面の旅から帰る機中で、「このつぎ は、イースター島か白い珊瑚礁の島に行きたい もんですな」、おじいちゃんはこう言われた。 イースター島は到底無理とあきらめていただい た。しかし、今となっては、やはり心残りである。 希臓・土耳古・挨及と経めぐったその時の旅
行記は、『宮沢賢治 第一〇号」(洋々社)に詳し
いが、とにかく想い出をいっぱい残した旅であ
った。こ一」二、三年、豊沢町にお邪魔すると必
ずその時の話が出た。古代ギリシアの 日本国花巻を離れ、賢治の
「 「またイズミールやペルガマ(トルコ)の話 をしましょう」。病床で手を握り合って約束し たのだが、もはや叶わぬことになった。清六さ んのお姿が消えた花巻の町は、があらんとして 淋しくなった─しみじみそう思うこの頃であ る。 ─合掌─ (北上市立「鬼の館」館長 岩手県盛岡市)
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宮沢清六さんを偲んで 奥田 弘 宮沢清六さんに初めてお会いしたのは、ご而 親がご存命の頃であったから、もう四十年以上 も前になろうか。青森旅行からの帰り、桜の詩 碑を仰いだのち、まだ朝も早い九時ごろ、まえ ぶれもなく宮沢家の玄関に立ったのに、清六さ んは、笑顔で仏間に招じ人れてくださった。朝 の読経が終わったらしく、数珠を手にされたご 両親がいらした。仏壇の横には、「十界曼陀羅」 が奉安されていた。 その時の話の内容は忘れてしまったが、母堂 の口からもれてくる「賢さ」のひびきは妙に耳 底に残っている。後年になってから、早くこの 世を去ってしまった息子とその妹への思い入れ に、母堂の心情が痛いほどわかるようになった。 辞去しようと玄関におり立つと、清六さんは、 同意を求めるように、「小倉さんに似ています ね。」と厳父に顔をむけられた。厳父もうなず いて笑みをうかべられた。小倉さんの名は知っ ていたが、拝眉の機会はなかったので面識はな かった。賢治研究の先達に似ているといわれて、 まんざら悪くもない気になったのを憶えてい る。 清六さんには、もうひとつ思い出がある。 「あしたのばんのやどは、きまっていますか。 ─ああ、そうですか─じつは、あしたオープン するやどがあるんですが、とまってみません か。」 声のぬしは清六さん。その頃、仕事で泊まっ ている盛岡の宿に電話がかかってきた。記憶が うすらいでいるので、当時の手帳を綴ってみる。 昭和四九年のメモ。 五月一日(水) 五月二日(木) 五月三日(金) 五月四口(土)小雨PMにあり。 工藤藤一氏は、盛岡高等農林学校で、宮沢賢 治の後輩。森氏は勿論、森佐一氏。 当時の動向をメモによって呼びもどしてみ た。「わらべ」の夫婦によれば、民宿開業にあ たって、宮沢さんのなみなみならぬ尽力にあず かったと感謝していた。あとでわかったことで あるが、詩碑付近の清掃等に奉仕している一員 の夫婦への清六さんの心づくしである。宮沢さ んの紹介で、その後、「わらべ」との縁が永く 続くことになった。 『校本宮沢賢治全集』の仕事も大詰めにな って、「手帳」を再照合することになった。い っしょに仕事をするはずであった仲間が、都合 で花巻に行けなくなった。ひとりで宮沢家で照 合する青神的緊張をおもんはかったご配慮であ ったろうか、花巻駅近くの宿に「手帳」十四冊 を持ち出すことを英断された。夏休みの時期、 おかげでシャツ一枚で仕事することができた が、却って頭痛の種にもなった。というのは、 盗難、火災などの不慮の災難を考えると、入浴 はじめ室外に出ることは、不可に思われたから である。その時の緊張ぶりは、いまでも忘れら れない。 いつであったか、宮沢清六さんとの語らいの 中で、早くこの世から逝ってしまったわが娘の ため、毎朝、読経しているとおっしゃったこと がある。宮沢清六さんとは、こんな人なんだと 思うことしきりである。 (01.8.1) (会員 神奈川県相模原市)
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宮沢賢治資料(32)書簡
栗原敦 『新校本宮沢賢治全集』第十五巻 (書簡)および十六巻(上)補遺以降 に発見された書簡数点があり、これ らはいずれも今秋刊行の第十六巻 (下)年譜・伝記資料のうちに補遺 されますが、その申に福田(当時及 川)留吉あて書簡二通(断簡一を含 む)があります。今回そのうちの一 通を紹介します。 消印は、「岩手・花巻12.4.15 后0-3」。筆記具はペン、ブルーブ ラックインク。ハトロン紙封筒、封 印〆。本文用菱は、赤罫十二行一両 面印刷)「岩手県稗貫農学校」用菱 (縦24.8p、横17.Op。上質紙。各 面三方を子持罫で囲み、柱にあたる 部分<表は左端、裏は右端>の下方 に、「岩手県稗貫農学校」<文字はそ れぞれ縦半分>とある)一枚の表裏 を使用。 裏面二行目「にまで馬〔?〕」は「にま だ馬〔肥〕」と考えられます。 受信人及川留吉は稗貫郡湯本村小 瀬川(現花巻市)出身。大正十年四月 稗貫農学校入学、十二年三月卒業 賢治の紹介で四月より盛岡高等農林 学校農芸化学部助手となっていまし た。本文中の「村松先生」は農芸化 学部の部長村松舜祐教授。「鈴木君」 「沢田、小田島両君」は、いずれも 同期生の鈴木操六、沢田作衛、小田 島治衛と思われます。 なお、本書簡出現の意義としては、 これまで書簡が未発見だった大正十 二年のものである点も確認しておき たいことです。従来未発見だった年 度のうち大正十一年は先に発見され ていましたが、書簡の見当たらない 時期について、例えば「大変な独断」 だがと前置きしながらも、賢治がそ の間「手紙を強いて一通も書かなか ったのではなかろうか。」(米田利昭 『宮沢賢治の手紙』一九九五・七、 大修館書店)などという憶説も出さ れていました。常識に反するこのよ うな議論が誤りであることを指摘し たこともありましたが、本書簡の出 現によって事実が憶説を否定Lてく れたことになります。 【本書簡の紹介にあたっては、福田 悦子様、津波古美佳様にお世詰にな りました。】 (会員 東京都国分寺市)
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テクスト・クローズアップ(20)賢治・清六兄弟写真
杉浦静 今回は、写真をクローズアップしてみ よう。 賢治・清六の兄弟がともに写った写真 は、現在知られている限りこの一枚しか ない。撮影は、大正十四年十月。賢治が 仙台大演習時の清六をたずねた際に写真 館で撮ったもの。賢治の上着のデザイン は、襟やポケットの形などずいぶんモダ ンな気がする。賢治の向かって左側のポ ケットのあたりを、クローズアップする と、ポケットそのものは写っていないが、 不思議なひもに気付く。たどってみると、 ポケットの中のものを首から下げるため の紐のようだ。シャープペンシルを首か ら下げるための紐に違いないのではない か。この紐のゆとりや遊びは、まさにシ ャープペンシルを持ってメモするのにビ ッタリに見える。このようにクローズア ップすると伝説を証明する写真に見える が、いかがだろうか。 (会員 埼玉県草加市)
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春季セミナー報告「2001年・八戸賢治の旅」
2001年3月19日・20日 (左写真:蕪島にて) 春季セミナーは三月十九・二十日にかけて開 催され、現地参加者を含め、七十五名が参加し た。「八戸賢治の旅」と銘うってはいるが、八 戸の南隣りにあたる陸中海岸北部(岩手県北海 岸地域)も含むものだった。 賢治の八戸への旅は、農学校を退職し、羅須 地人協会の活動に入った大正十五年八月のこと である。二人の妹と幼い甥を伴っていたので慰 安旅行と言われているが、八戸では、当時盛ん だった夏期社会主義講座を聴くのが本当の目的 ではなかったかという説が伝わっている。又、 陸中海岸北部への旅は、その前年、大正十四年 一月のことである。それは「異途への出発」『(『春 と修羅第二集」一』であり、生ぬるい教師生活 から厳しい農村の中で生きていく決心の旅とい えよう。今回のバスツアーは、以上のように賢 治にとって重要な二つの旅の足跡を巡るもので あった。 八戸の旅は、中世八戸南部氏の拠点、根城史
跡公園からである。その近くに賢治の眠る身照
寺の元寺があったという。次ぎに賢治一行が泊
まったとされる陸奥館跡を車窓見学した。が、
その場所は彼らが降りた鮫駅からかなり離れて
いる陸奥湊駅近くであり、かなり問題を含んで
いる。その後、鮫駅を見学、駅舎は昭和四年に
焼失したが、ほぼ同じように再建され、昔の面
影を残している。そこが文語詩「八戸」の舞台
である。鮫村(当時)は、「ポラーノの広場」
で、イーハトーヴォ海岸北端の町サーモのモデ
ルとなっている。その後、これまでの資料と現
地の地理、歴史的状況からして、最も泊まった
可能性の高い石田屋を案内した。その後、日本
軍が陸続きにしてしまった蕪島へ歩いて渡っ
た。賢治たちは船で渡っている。数万羽のウミ
ネコと大乱舞に賢治は大変驚き、感動したこと
を、清六さんは昭和二十一二年の八戸での「宮沢
賢治展」の座談会で話されたという。最後に種
差天然芝地を訪れた。そこは一行が海や釣人を
農耕馬の群の中でのんびり眺めていた草原であ
る。枯芝の草原をしばし散策した後、次ぎの目
的地、陸中海岸北部へと南下した。賢治が下車
した種市駅の近くを通り、野田村の国民宿舎え
ぼし荘へ向った。その近くの
宿に着いたのは夕方だった。少しの休憩の後、 吉見正信さんの講演「宮沢賢治と八戸」が始ま った。長いバス旅の疲れをいやすような話をさ れた。地元にある「リアスの海から賢治を語る 会」の会員十名も参加し、さらに盛会となった。 その後は夕食、懇親会と続いたが、お開きの後 も有志?による懇親会は延々と続き、十一時に もなっていた。 翌日は朝食前に「リアス……会」の小原良樹 さんの案内で、早起きの十名程が、下安家まで 賢治の歩いた旧道を散策したが、タイムスリッ プしたかのような美しい山道だった。 朝食後、南下して、田野畑村に建立されてい る詩碑三基(「発動機船一、二、三」)を一基づ つ巡った。その後、幸運にも時問がとれたので、 特別に陸中海岸の雄大な眺めを黒崎展望台で楽 しむことができた。賢治が「百の岬」や「百の 海岬」とうたった岬の一つ、三崎が二百メート ル近い断崖から見えていた。この旅から生まれ た詩群は『春と修羅第二集』と『春と修羅 詩稿補遺』、『文語詩(未定稿)』に収められて いる。 その後北上し久慈市の號珀博物館へ向った。 號珀は賢治がこよなく愛した宝石であり、作品 にも多く出てくる。その魅力を我々も体験して みることになった。何より、その柔らかさ、あ たたかさが特徴であろう。これで見学コースは 修了である。昼食後、一路、盛岡、花巻へと向 かった。 賢治の八戸への旅は謎だらけである。それを 明らかにすべく、このセミナーがきっかけとな り、「八戸・賢治を語る会」が八月に誕生した。 賢治と八戸の関係を調べると共に、賢治思想を 広めていこうと思っている。賢治は他にも数回 八戸に来ているようである。 (会員 八戸・賢治を語る会事務局長)
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夏季特設セミナー 2001年8月4日・5日 長期企画第二弾として始まった夏季特設セ ミナー「宮沢賢治「文語詩」の謎にせまる」 の最終回(第四回)が、八月四日、五日の二 日間、宮沢賢治イーハトーブ館を会場に、の べ一二九名の受講を得て開催されました。 初日は、萩原代表理事のあいさつの後、コ ーディネーターの入沢康夫さんより、「全般 資料4」として、賢治文語詩における「難読 語句」についての解説がありました。更に受 講者への「難読語句」アンケートにより、翌 日には個別説明の時間まで設けていただきま した。続いて、宮沢賢治イーハトーブ館長で ある原子朗さんによる「宮沢賢治・文語詩」 の講演。賢治にとどまらない、そもそもの文 語と口語の歴史過程を含めた全般的な幅広い 内容から、改めて賢治が文語詩にむかった意 味を語っていただきました。 二日目は、まず深見美紀「光を放つ「きみ」 の存在について」の感想・意見発表があり、 続いて、水野達朗「文語詩定型の模索と『文 学序説』の韻律論」、中川真平「「八戸」の題 の変転と隠された意味」の二氏の方々の研究 発表がありました。最後は、入沢康夫さんよ り、賢治の文語氏「悍馬〔一〕」(文語詩稿五 十篇)における「おとしけおとし」の意味を めぐっての問題提起があり、「落とし」の強 調、「蹴落とし」、「おとし毛」説、脅すの方 言説など、会場からの発言が次々とあり、ま さに「謎をめぐる」白熱の議論は、今後に決 着をゆだね、ひとまずの最終回を終えること となりました。 なお、今回ひとまず最終回となりました夏 季特設セミナーですが、来年にはこれまでの 研究成果を『報告集』として刊行する予定で おります。
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【投稿こだま】 「ヒデリ」か「ヒドリ」か 佐藤 進 一般に知られている「雨ニモマケズ」の詩で は「ヒデリノトキ」となっているが、手帳には 「ヒドリノトキ」と記載されている。なぜ、そ のように変更されたかは、不明である。 従来より、少数意見として、「岩手では冷害 による不作はしばしばあったが、早魅による不 作はない」と、また、「花巻地方の方言に『ヒ ドリ』という言葉がある。『ヒドリ」とは、日 雇いになって、日銭を稼ぐ事である」と言う。 手帳に記載の「ヒドリ」は、賢治さんが、 「ヒデリ」と記載しようとして、間違って記載 されたのであろうか。手帳のメモ書きであるか ら、誤記もあり得るが、「雨ニモマケズ」の詩 に関して言えば、挿入や抹消など推散のあとが 見られる。従って、誤記とは考え難い。 次に、賢治さんが「早魅」について、どのよ うな認識を持っていたのかと言うことになる。 幸い、賢治さんの早魅に対する認識を示す詩 が残されている。それは、「善鬼呪禁」という 詩である。「どうせみんなの穫れない歳を逆 に早魅でみのった稲だ」とある。賢治さんの念 頭には早魅で不作という認識はないと一言える。 以上の事柄を総合すると「ヒデリ」ではなく、 手帳の記載の通りの「ヒドリ」と言うことにな ろう。 (会員 花巻市) 注「ヒドリ・ヒデリ」論争について 「雨ニモマケズ」の「ヒドリ」(原稿本文)につい ては、これまで「日照り」の誤記とする解釈が行 われてきたが、照井謹二郎氏の原文「ヒドリ」を 「日取り」(旦雇い稼ぎの賃金)とする説が読売新 聞(一八八九・十・九)に紹介されたことを契機 に、誤記説を見直す意見が出されるようになっ た。ただ、その後、校本全集編集者の一人であ る入沢康夫氏によって、本文決定の根拠が提示 されるに至っており、(「賢治研究」五四号、一九 九一・二)、今後の論争を有意義にするためにも、 批判的にであれ、入沢判断を踏まえた論の出現 が望まれよう。 (編集委員会)
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【投稿こだま】
宮沢賢治・石川啄木 生誕祭を振り返って 菊地 悟 一九九六年(平成八年)は宮沢賢治生誕百年・ 石川啄木百十年の記念する年でありまして、宮 沢賢治の故郷・花巻市を始めとして賢治・啄木 ゆかりの地で様々なイベントが開催されまし た。特に、宮沢賢治がこよなく愛した胡四王山 のふもとにオープンした宮沢賢治童話村のテー マパークを軸に、マスコミでは宮沢賢治関連の 特集を組み全国的に放送、宮沢賢治の存在が知 れ渡ったのが印象的でした。アニメーション映 画では「賢治のトランク」という三編の話が一 つのテーマとして構成されたものが作られ、宮 沢賢治の吹き替えの声は新沼謙治さんでした。 「宮沢賢治・石川啄木生誕祭公式ハンドブック」 も発行されて、頁をめくると賢治と啄木関連の イベントスケジュールが予定されており順次開 催されました。東北新幹線・新花巻駅前には 「セロ弾きのゴーシュ」のレリーフがあり、盛 岡市では「いーはとーぶアベニュー」に賢治に 関する像が六座設置してあります。光原社の可 否館では賢治グッズとコーヒーの味も記念にな り、さらに石川啄木新婚の家や盛岡駅前の啄木 の歌碑も一見の価値があります。 秋田新幹線によって雫石・小岩井両駅舎が改 装され、JR東日本のジョイフルトレイン 「KENJI」号が季節ごとに運行されているとの こと。一度は乗ってみたい次第です。 (会員 宮城県岩出山町)
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【投稿こだま】
どんぐりは琥珀色 酒井早苗 山猫拝のはがきは私にはもうこない。一郎の 所へももうこない。結局、どんぐり達の主張も 一郎の提案も、外から見て自分はどうか、とい う話だった。それは、金メッキのどんぐりが、 すっかり、輝きをなくしてしまう所に象徴され る。 朝露の中、號珀色のどんぐりが、しっとりと 地表にちらばっている。とても美しい。賢治さ んは耳を澄ましたろう。すると風のような不思 議な声が教えてくれる。この小さな者達ひと粒 ずつにも、仏性があるのだと。みんな輝く心を 持って生きているのだと。 外見が立派だから良いとか悪いとか、ね、山 猫君。或いは、まるでへこんでなってない方が 良いとか、ああ!そんなんでなしに、だ。大切 なのは《自分を勘定に入れずに(自分の偏った 感情を入れずに、でもいい。むずかしいよう!) よく見聞きしわかり、そして忘れず》そよ風の ように陽射しのように、人を、そして自分をも 愛する心。そのように生きようと賢治さんは思 い、実行した。 自分はすばらしい、と思うことは良いことだ。 みんな原石を持っているのだから。「人は何故 生まれてきたのか、ということを知らなければ ならないために、この世に生まれてきたので す。」と賢治さんは生徒達に話した。自分の心 という原石を、美しい宝石にするために、より 良く生きよと。 さえないどんぐりの一人として、そう思う。 (会貝栃木県宇都宮市)
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ポラーノの広場─第三夜─ 鎌倉・賢治の会
新しく何かが始まる時、そこに至るまでにたくさんの出会いと 感動が響きあっているのではないでしょうか。 なぜ鎌倉に賢治の会ができたのかをお伝えしたい気持ちでいっぱいです。 その思いをこれから先何年たっても持ち続けていきたいのです。 1980年鎌倉行政センターの「子供の本に親しむための教養講座」 から児童文学の勉強をする会ができました。 88年七里ガ浜に読書会「七波の会」で月に一度お読書会で、宮沢 賢治の作品を読み続けています。鎌倉市民講座「児童文学の心を読 む宮沢賢治と椋鳩十」の講師井上定先生のもとに有志が集まり 「木(もく)の会」が誕生しました。そのとき、「'92宮沢賢治フォー ラム」を知り参加しました。この催しを知らなければ、「鎌倉・賢治 の会」はここになかったと思います。そこから受けた感動から“同区 じ場所で同じ風を受けなければ伝わらない”ことを知りました。 93年11月「木の会」で「宮沢賢治の世界」が光則寺で開催されました。 その後鎌倉に賢治の会を作りたいと思いました。 その年の11月がスタートでした。94年11月鎌倉文学館で第I回の講座が始ま りました。2期からは鎌倉市民アカデミアの代表久保田順先生が 4期までの3年間会長をお引き受けくださいました。 3期からは会員制となり、「かま猫通信」と会誌「かまくら・賢治」 の編集をされておりました白岩建二先生が、 6期より3代目会長として会をまとめております。 95年夏には阪神大震災チャリティ映画「風の又三郎」が上映できました。 宮沢賢治生誕百年の年、96年2月鎌倉で「宮沢賢治学会地方セミナー」 が開催されました。その準備の95年の夏、蝉がミンミン鳴く建長寺で 何回か打ち合わせが行われたことも忘れ難い思い出となりました。 お元気でいらした藤沼正人さん(4期副会長)、 井上定先生(5期会長)もお亡くなりになり、一層深く思い出されます。 95年4月藤沼正人さんが「鎌倉岩手県人会」をお作りになり、 「鬼剣舞」の奉納舞いが鎌倉八幡宮の舞殿で行われ、その10ヵ月後には、 鎌倉芸術館で花巻農業高等学校の生徒さんによる「鹿踊り」を観る至福のひとと きを得ました。1期から4期まではあらゆることに大変さはありましたが、 何と大勢の方々に出会ってきたことでしょう。同じ席に座ったみなさんに、 さわやかな風が何度もふきぬけました。このみなさんとの熱い出合いこそが、 「鎌倉・賢治の会」の“宝”ではないかと思っています。 5期に入って世話人制度を取り入れて、これまでの悩みだった人で不足は 解消され現在にいたっております。 <そのきっかけは、ほんのちいさなことからのはじまりでした。 そのひとつひとつがやがてむすばれてつながってきました。 それはつながるためにすべてがひつようでした。>
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