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宮沢賢治学会・会報第24号 | |
ここはこけももとはなさくうめばちそう ─「一八一 早池峰山巓」─ |
第24号「うめばちそう」 2002年3月31日発行
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第12回定期大会 報告 第十一回宮沢賢治賞・イーハトーブ賞贈呈式
前日二十一日は昼に南斜花壇にて宮沢賢治句碑の除幕式があり、続いてイーハトーブ館にて風のセミナー(一般対象)の入沢康夫さんによる講演「清六さんを悼む」がありました。午後三時頃に一時強い雨があったものの、夕方にはすっかりあがり、その夜は澄んだ空気の中、詩碑前にて賢治祭が開催されました。 その余韻を残しつつ、秋晴れの花巻駅前のNAHANプラザでは、大会プログラムの最初である第十一回宮沢賢治賞・イーハトーブ賞の贈呈式が、午前十時から花巻市主催により開催されました。土曜日という日程にもめぐまれ、全国各地、海外から、そして多くの市民の方もお祝いにかけつけ、用意した席では足りず、残りすべてのイスを追加することとなりました。 今回の賢治賞は、「永年にわたる賢治研究の成果にもとづく多数の著書及び社会・学界に対する多大な業績」の天沢退二郎さんに、賢治賞奨励賞は、「「雪渡り」及び「よだかの星」をはじめとする、すぐれた翻訳出版、特に賢治語法の特性を生かした英語への翻訳に対する高い評価」によってカレン・コリガン=テイラーさんに贈られました。 また、イーハトーブ賞は「永年にわたる賢治作品の忠実な形象化と、賢治の精神を深く究めようとするエッセイ集そのたの業績」のますむらひろしさん、同じく「永年にわたる賢治歌曲の普及と、合唱指導によって賢治への親しみと理解を深めた業績」の菊池裕さんのお二人に贈られ、イーハトーブ賞奨励賞の該当はありませんでした。 花巻市長から賞が贈られ、各受賞者からのスピーチ、その後本賞受賞者による記念講演が行われ、ラストは菊池裕さんの指揮にて、かすりの着物ともんぺ姿の桜町ママさんコーラスの皆さんによる賢治歌曲披露にて閉幕いたしました。受賞者の皆さんの業績などにつきましては、会報二十三号にてご紹介しておりますのでご参照ください。 定期総会午後一時から定期総会が行われました。毎年総会だけは出席者が大幅に減り、やむを得ない面もあるとはいえ、多くの会員の出席を望みたいところです。出席会員の中から花巻市の阿部弥之さんを議長に選出した後、議事に入り、二○○○年度事業報告及び収支決算、二○○一年度事業計画及び収支予算について審議を行い、それぞれ原案どおり可決承認されました。質疑には会員の減少傾向について質され、事務局よりここ十年間の毎年の退会者数はほぼ同数で推移しているものの、生誕百年(一九九六年)以降入会者が少なくなり、減少傾向であることを報告。開かれた学会として今後様々な企画事業を通して会員の増を図っていくことが全体で確認されました。 賢治研究リレー講演恒例のリレー講演では、持ち時間一人十分という中で、それぞれの賢治をテーマに密度の濃いお話をしていただきました。 五人の講演の要旨を本号に掲載いたしました。 イーハトーブ・サロン 、私と賢治、参加者が気軽に所感を述べあう本コーナーでは、参加会員の中から七名の方々が登壇され、それぞれ賢治や賢治作品についての思いを、一人五分ずつスピーチされました。今年も記念品として、「イーハトーブ図書券」が贈呈されました。登壇いただいた方は次の方々です。 中里英章さん(東京)、五十嵐正子さん(新潟県)、大澤謙一さん(盛岡市)、佐藤成さん(宮城県)、田島利子さん(東京)、植松民也さん(神奈川県)、渡辺宏さん(和歌山県)。 会員交流・懇親会初日の日程の最後は、会員交流・懇親会です。恒例のイーハトーブ料理メニューには、昭和六年賢治が草野心平にあてた手紙に書いていたという、黒豆からつくった「電気ブドウ酒」も登場。黒豆の煮汁と酒石酸等々でつくった葡萄酒の味は?! 宮沢賢治賞・イーハトーブ賞受賞者や花巻市関係者も加わり、宮沢清六氏への思い出など、なごやかな歓談のうちにも、それぞれの思いがしみこむような交流のひとときとなりました。 研究発表二日目は、前日に続き青く澄みわたった気持ちのいい秋晴れの中、会場をイーハトーブ館に移しての研究発表です。午前十時から一人三十分の持ち時間で、正午に終了いたしました。この研究発表の記録集を頒布しておりますので、ご希望の方は事務局までお申し込みください。 (一部五百円、送料別) ポランの広場大会のフィナーレは「ポランの広場」。今回は、新たに結成されたイーハトーブ子供劇団による「なめとこ山の熊」(脚色 照井登久子、構成・演出 鹿川比呂志)で、前夜の賢治祭に続く上演となり、子供達の熱演に会場から多くの拍手がよせられました。惜しまれつつ解散した「賢治子供の会」(主宰 照井謹二郎)を引き継ごうという思いからの出発に、今後の活動を暖かく見守っていきたいものです。
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賢治研究リレー講演 「雨ニモマケズ」考黒澤 勉
ただ今ご紹介ありましたように、岩手医科大学で教養部の学生、一年生に文学を教えています。その文学の授業の半年は宮沢賢治を取り上げています。 昨年、日本医師会の会長坪井栄孝先生が世界医師会の会長に就任されましたが、その主任の挨拶の中で、最後に御自分の最も好きな詩ということで朗読されたのが「雨ニモマケズ」でした。ですから「雨ニモマケズ」は医療のサイドから全世界にメッセージとして送られたといってもよいと思います。坪井先生の就任挨拶にもありますように、現代の医療は限りなく進歩していく先端医療に対していかに倫理的な判断を加え、時にこれに歯止めをかける事が求められています。「雨ニモマケズ」の詩、あるいは賢治の生涯は、医の道に志す学生にとっても、特別に大切な意味合いをもっているのではないか…坪井先生が「雨ニモマケズ」の詩を紹介されたことを私は、そのように考えて賢治を教えているわけです。 私自身はこれまで「病者の文学」という研究テーマを掲げて、正岡子規のことをこの七年ほど調べていますが、子規の病床と賢治の病床を比較して考えてみたいと思っています。 「雨ニモマケズ」の詩は、その詩だけが一人歩きして好きなように解釈され、受容されていると思います。それはそれで一つの文学への接し方だと思いますが、賢治理解のためには、一歩進んで、賢治の生涯の中で、あるいはその詩の収められた手帳の中で据えることが必要ではないかと思います。 結論的にいいますと「雨ニモマケズ」の詩は、一度は、死を覚悟した者が奇跡的にも生きながらえてあらたに生きようとするその決意を語った詩だと思います。もう少し具体的にいいますと賢治は昭和六年九月二十一日東京で高熱を発し、死を覚悟して両親や弟、妹達に宛てて遺書を書いています。賢治が亡くなったのは丁度この二年後の事で、私はこのようなところに神秘的な感じさえもちます。ただの偶然ではなく何ものかが賢治の精神を知らしめようと年間の命を与えたのだ、という感じがするのです。「雨ニモマケズ」の詩は、この何ものかによって与えられた賢治の生が生み出した最も重要な作品でした。公開を全く意図せず、推敲を加えず、全く個人的な感慨や決意、祈りにすぎないこの詩は、にも関わらず、その精神の深さ、思いの深さ、ひたむきな信仰心の吐露などといった点で賢治の秘密を語る重要な「作品」だと思います。死からの再生はおそらく宗教心理としてどの宗教にも共通するものだと思いますが、一度、死んだ(死を覚悟した)賢治は、この授かった貴重な命を決して無駄にすまいと深い喜びのうちに決意しました。それまでも賢治は法華経を「絶対真理」としてその教えに殉じて生きてきましたが、それでも振り返ってみれば生ぬるく感じられたようです。死をくぐり抜けた今こそ、一点の妥協も許さず、法華経に殉じたい、しかもそれはただ教典を唱えるとか、祈るとかということでなく日常の実践、人々の苦しみを救う菩薩行の実践に己を賭ける、という決意でした。 「雨ニモマケズ」はきわめて日常的な平易な言葉で書かれているので誰でも、それこそ子供でもわかるような気がするかもしれませんが、実はその平易と思われる言葉の奥に賢治のこれまでの人生を内省した上での願望や新たな生への決意などといったものが潜んでおり、言葉の表面だけでは理解出来ないのではないかと思います。
宮澤賢治とラ・フォンテーヌにおける食物連鎖マリ 林
十七世紀を代表するフランスの作家、ジャン・ドゥ・ラ・フォンテーヌはギリシャ語のイソップの寓話を手本に、フランス語で翻案した寓話で有名である。紀元前六二〇年頃生まれたイソップの邦訳は一五九三年の「エソポのハブラス」に始まるため、賢治がイソップ寓話を読んでいた確率はかなり高い。一方、ラ・フォンテーヌの場合も、初めて彼の寓話集が日本で出版されたのが昭和元年なので、これも賢治は目にしている可能性がある。賢治童話には賢治自らが「寓話」と称した作品がいくつもある。そもそも寓話とは平凡社大百科事典によると「主に動物を主人公にした短い教訓的なたとえ話をいう」と、ある。ラ・フォンテーヌによれば寓話のめざすところは「有益で楽しい」こと、子供たちが読書をしながら「知らず知らずのうちに心のなかに美徳の種をまく」ことを目指す。 ここでは賢治が題字の右上にはっきり「寓話集中」と明記した「〔フランドン農学校の豚〕」とラ・フォンテーヌの「豚と雌ヤギと牡羊(イソップの豚とキツネの翻案)」を比較検討する。 これらふたりの寓話の共通点と相違点に注目したい。まず第一にふたつの作品の共通点はもちろん主人公の豚である。第二にテーマの死である。主人公は共に身近に迫った自らの死を察知している。次に相違点については第一に賢治作品は長く、ラ・フォンテーヌ作品は短い。ラ・フォンテーヌは「一番短い作品がいつでも一番良い作品」と言い彼は良い作品を目指した。この長さの違いは第二の相違点と大いに関連がある。すなわち、賢治は散文で書きラ・フォンテーヌは韻文で書いた。この韻文で短いという長所は国語の授業で暗誦をさせる際に極めて有効である。第三の相違点は賢治がつけなかった教訓をラ・フォンテーヌは物語の最後につけた。以上の点がどのように作品に反映されているか、考察を加えてみよう。 まずラ・フォンテーヌの寓話の主人公コション(Cochon)は去勢豚のことである。豚は発情期が二十一日、その度に痩せてしまうため、昔から太らせるために去勢するのが普通である。 ラ・フォンテーヌの豚は次のとおりである。:雌ヤギと牡羊と丸々と太った豚が同じ馬車に乗せられて、市場へ向かう。道中他の二人は大人しいのに豚閣下(Dom pourceau)は泣き叫び続ける。このとき豚はプルソーと呼ばれる。プルソーというのはポール(port)の古い文章語で、ポール(英語のポーク)は食用としての豚を指し、題名の豚、一行目の豚コションは動物側から見た豚である。しかし、プルソーは食べる側からみた商売用語であり、ここでひとつの視点の変換がなされたことに読者は気づく。「他の動物たちは豚が助けてくれと泣きわめくのでびっくりしていた」「御者はポール(豚)に言う」ここでコションはとうとうポール=豚肉と言われてしまう。「ヤギはミルクを絞られ、羊は毛を刈り取られるでもおれは食べられることしか能がないから、死ぬのは確実さ」ここで注目に値するのは豚と会話するのは御者だけである。「〔フランドン農学校の豚〕」で豚が話をするのは死亡証書を持ってきた校長先生とだけである。ふたつの作品において死を覚悟した豚が自らの生死の決定権をもつ者とのみ会話するというのは注目にあたいする出来事である。豚という動物は子豚の時に買われてきて去勢され、家の中あるいは納屋、農学校の小屋である時は肥育をしてまで食料をふんだんに与えられ家族同様に大切に育てられる。そうして大きく太った豚は食べられるために売られていく。これが豚のあるべき姿であり宿命なのである。哀れな豚は、ラ・フォンテーヌでは「これっきりね。アデュー=さようなら」で死の予告に怯えながら終わるが、フランドン農学校では殺されて解体され「雪の底に八きれになって埋まった」。前者は死をあいまいにしたままだが後者はしっかり死を直視しポークになった肉が切り分けられ食べられる準備をされるところまであえて書いた。また、ラ・フォンテーヌは一寸的外れな教訓をつけたが、賢治は、「月はだまって過ぎて行く。夜はいよいよ冴えたのだ」と絵画的に終わる。寓話に教訓をつけない分だけテキストは自由に羽ばたけ、人々の心に様々な形で入り込むことができる。賢治は「よだかの星」で、食物連鎖の中にあって他者を食べることでしか生きられなかった夜鷹の苦しみを語った。その対極にあって他者に食べられることが存在価値である豚の苦しみを見事に書き綴ったのがこの「農学校の豚」である。
「カーバイト倉庫」の詩人が見つめたもの
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宮沢清六さんを偲んで
宮沢賢治学会イーハトーブセンター顧問、賢治御実弟でもある宮沢清六氏が二〇〇一年六月十二日ご逝去されました。謹んで哀悼の意を表します。なお多数の寄稿がありましたので、今回と次号にわけての掲載とさせていただきます。
清六先生の温顔を偲んで大島宏之(東京都)「清六先生真事に有難うございました」 先生のお姿はこの世を去られても、そのご縁は常にこの世にとどまっていることを固く信ずるものですが、それでも先生の今生からの旅立ちに、別離の辞を述べなければならないことが、切なくて堪りません。 私が清六先生に最初のご縁を戴きましたのは、昭和四十八年五月のことでした。書簡を中心にして賢治先生の信仰歴程(特に法華経信仰)を尋ねていた私は、その時賢治先生の魂を育んだ地・花巻(イーハトーブ)の風光を心に刻み付けたいとの止むに止まれぬ気持ちに駆り立てられ、厚かましくも清六先生に、面会を懇願する電話を入れさせていただいたのです。 電話口で清六先生は、一面識もない私の申し出を親切に聞き入れて下さり、「五月十五日に高村祭があるので、よろしかったらその時いらっしゃい。賢治の縁の人も見えますので」と誘いの言葉をかけて下さいました。私は天にも昇る思いで出向かせていただきましたが、当日会場において清六先生は、あの温顔による温もりで、旧知のごとく迎い入れて下さったのです。 このご縁に発して、その後も、幾多の機会を戴きました。枚挙にいとまがない身に余るご縁の連なりのうち、印象深い場面を想起して見ると、賢治祭前夜祭において、ご一緒に講演させていただいた草下英明先生と花巻温泉で、清六先生にお招きを受け、至極の時を過ごさせていただいたこと。ご自宅において清六先生が、ヘルマン・ベックの仏教観を熱っぽく語って下さったこと。賢治先生の墓前での島地本「法華経十六番」の読誦を大変喜んで下さったこと、賢治生誕百年祭を巡る苦渋の胸中を、私を信頼して打ち明けて下さったこと、等々。 今も走馬燈のごとく多くの追憶が蘇ってまいりますが、清六先生のご一生は、正に賢治先生との二人三脚を完走されたご生涯であられたと拝察いたします。それが、どれほどご苦労な道のりであったことかは、余人の察するに余るところですが、清六先生の生涯を懸けて願われたことの万分の一でも、生ある私どもがバトン・タッチしていくことを、切に念願する者であります。 「清六先生のご冥福をお祈りして、法華経の法縁による又の再会を約し、ここに今生でのお別れを申し上げます」 合掌
清六さんは何になりたかったか小川 浩彦(岩手県)九九年七月に、雫石と宮沢賢治を語る会(会員二十五人)が作った絵ハガキ、宮沢賢治雫石の青春風景の印刷前の原版が出来上がった。発行前に宮沢家の諒解を得なければならないので、宮沢家に御都合を伺うと、潤子さんが電話口にでられて、父は昨年手術をして以来、体調をくずして、皆様におあいできないが、その方は和樹にまかしているので、まず林風舎によってから、豊沢町においで下さいとのことであった。 二日後、語る会の五人が林風舎に伺い、和樹さんに原版をお見せして絵ハガキ発行の諒解を得たので、次に豊沢町の宮沢家に伺った。和樹さんもわざわざおいでになって、いろいろ話をしていた時、潤子さんが、「小川さんちょっと」といって、私だけを別の部屋につれていった。その部屋のベッドに清六さんが体を横たえられていた。すると清六さんが「小川さん、あなたが一番幸せですよ」としっかりした口調でおっしゃられた。 私と妻と長男とで、百頭の牛を二十町の牧草畑の管理に人手不足も併なって、あくせく働いているのに、何故かなあと思ったが、思いあたる節もあった。 二十年前位宮沢家に伺って、清六さんとお話をしていた時、ふと「もし兄がいなかったら、私はもっと偉い人間になれたと思う」という意味のことをもらされた。聞いたその時は深く考えなかったが、多分清六さんは若い時、何かになりたかったのである。それが長男である賢治が何かにつかれたように生きて夭折し、厖大な作品を遺していってしまった。家業を続け、家族の面倒をみ、未整理の兄の作品を保存し整理し、世に表す仕事をするのは、清六さんしかいなかったのである。清六さんが若い時、何になろうと考えていたかは私には全くわかりません。ただ、私が賢治が望んでいた豊かな農業を実現しようと十九才の時考え、二十三才で岩手山麓の開拓地に単身入植し、六十過ぎた今も夢の実現にむけて働いていることを、一番幸せだとおっしゃられたと思う。 八三年九月に著書『兄のトランク』と一緒におくられてきた手紙にはこうあった。 突然お伺いしたりして失礼しました。登山で足を鍛え、八十才にしてはありがたい旅だったと思っています。この本はお役に立つかどうかわかりませんがお送りします。賢治が生きていたら、私に、あなたに、どんなことを言うでしょう。多分「御苦労なことだなあ」でしょうか。
宮沢清六さんを偲んで小原 くに子(花巻市)「賢治の作品を読む会」が、当時花城町にあった花巻図書館の呼びかけで始まったのは一九六九年十二月十七日のことです。それまで花巻には賢治関係の集まりが無かったそうで、清六さんも喜ばれ、「年に一度は例会に出ましょう」と約束して下さいました。 翌年の十一月二十七日はトシさんの五十回忌でお忙しい中を、夜の例会に御出席下さり、イギリス海岸のことや賢治の多面性についてお話なさいました。 その後も毎年十一月の例会は「清六さんを囲む会」として、沢山の御講話を伺いました。「宮沢賢治」のカセットテープが出ると(一九七二年)第一番に紹介下さり、購入できました。 一九七三年、花巻図書館が若葉町に移転し、十一月例会は雨でしたのに、清六さんはご自身撮影の「イギリス海岸」の全写真百枚の内の四十余枚をご持参なさいました。その夜の感動は今も忘れられません。 また愚息が高校二年のとき(一九七八年)高校文化祭で、宮沢賢治とルイス・キャロルを対比させ「イーハトーブの国のアリス展」の展示を行い、小冊子にまとめたものを清六さんに見て頂いた際は、「面白い研究ですね、これからも続けてください」と励ましのお言葉をかけて下さいました。 こうした清六さんの、いつも相手を思いやられての温かなお言葉は、いわば賢治精神の具現化でありましょう。 思い出すたび、清六さんの温顔とお姿が浮かぶエピソードの中から一つ。 一九七五年ごろか?吹張町の道でばったりお目にかかったことがあり、ご挨拶申し上げると「また遊びにおでんせ」とおっしゃり、「ありがとうございます、でもお忙しいでしょうから私など…」と遠慮すると、「なあに、忙しぶりしているだけです」とお笑いになりました。そんな筈はないのに、気を遣われてのお言葉に、私はただただ恐縮したのでありました。
宮沢清六さんを偲んで風間 効(埼玉県)清六さんに初めてお会いしたのは昭和四十九年夏のことだったと記憶する。教育系通信大学の卒業論文を取りまとめるために、賢治関係の取材で花巻を訪れ、羅須地人協会跡から駅に向かう途中で、漸くその家を見つけて寄せて頂いた。初対面だというのに門まで出て、気軽に挨拶や世間話の相手をし、玄関まで通して呉れたのだ。玄関から直ぐの板座敷だと思うが、そこで、私のぶしつけな質問に優しく答えられ、懇切丁寧に説明して下さったのだ。そのとき、この人は誰彼と隔てなく対応し、誰にでも親切な心やさしい人だと感じた。それが今でも鮮明に蘇って来る。 宮沢家は祖先からずっとこの土地に住み、この家で生活していたのだろうか。賢治も祖父母や父母・弟・妹とともに住み、遊び、学校に行き、農学校の教師になり、詩や童話を書いていたのだろう。そう言えば、賢治の病床はこの奥の座敷にあったが、二階に移り変わることになった。最後の祭の日にはこの玄関から表通りに出て、見物していたのだろうか。様々に想像しながら、この家で生活し、星を眺め、創造し、書き綴る元気な賢治がそこにいて、今、現実に会えたような気がしていた。帰りには記念に制作したというお土産まで頂いた。「雨ニモマケズ」の書かれた、小さな巻物二つだった。 その後、いくつかの質問に手紙で答えて下さった。昭和五十一年九月のハガキには賢治の作品や生き様等の議論・判断について、「すべて、時間と場所をきめてから、作品でも態度でも論ずるのが正しいようです」と、また、作品の宗教性については「特に信仰の強く見えたときも多かったということです」と、大変参考になるアドバイスやご意見を頂いた。清六さんにはかなりのご迷惑をおかけしたと思いますが、生前に有名な「野に立つ賢治」を表紙にした「理想の教育」という自著本を贈呈できたことは、せめてものお返しになるかとほっとしているところです。
比叡のお山に、清六さんの歌声駒井 佐一郎(京都府)「出でしは、うららの、花咲く春び……V」平成八年十月十三日「賢治生誕百年、父子参詣七十五周年記念パーティー(延暦寺主催・関西・賢治の会(会長平沢農一)共催」の席で清六様は「賢治が此処に居れば、堅苦しい挨拶なんか止して、歌でも歌え、と云うだろうから、賢治とトシから教わった歌を歌います」、と九十二才の御高齢とは思へぬ、声量と美声で歌われたのです。(ドイツ民謡「モミの木」の替歌か?) 清六様の生の声、生の姿なんて、関西に住む賢治ファンには滅多にお目に掛かれ無い事で、私は歌われている、清六様の両脇に、賢治さんとトシさんが、寄り添っておられる様に感じました。その昔三人でよく歌われたのでしょうね。この歌をテープに録らして頂きましたので後日正確な歌詞と歌われた意図をお伺い致しました所、数日してお返事を頂き多忙な上、眼を痛め、返事が遅く成った事のお詫びの一言と共に歌詞の一部を訂正して下さいました。お眼を痛め乍らも、私の薦めにご丁寧にお返事を下された律儀さ、と優しさにただただ頭が下がり、申し訳無さ、とありがたさに、これ程感激した事はありません。 このテープを昨年関西・賢治法要で皆様に聞いて頂きました。関西に賢治さんを更に深く根付かせた、清六様の歌声は増々大きく成って、比叡に響くでしょう。 関西の賢治ファンの方々、毎年九月二十一日には根本中堂前で賢治法要が行われて居ます。法要と共に、清六様の歌声も聞きに来て下さい。 想いは尽きません。 「兄のトランク」に直接サインを貰った事、潤子様共々写真を撮って頂いた事。 毎年曽孫様との御年賀を頂いた事、等々。 でも毎年比叡山でお目に掛かれます。
清六さんを懐かしむ佐藤 成(宮城県)憶えば二十年ほど前になる。私はかつて賢治が教師として四年四ヶ月をすごした花巻農学校の後身、花巻農業高校に勤務していた頃のこと、清六さんに一枚のレコードを差し上げた。昭和五十六年(一九八一)秋のことであった。 それは賢治作詞の「精神歌」「応援歌」並びに「黎明行進歌」を収録したドーナツ版である。賢治がはじめて出版した『春と修羅』になぞらえて一千枚を限定、製作を「ビクター」の会社に依頼したものであり、歌唱は二期会準会員伊藤泰子さん、伴奏は作曲・編曲家シンセストの星吉昭さん、そして録音は赤坂スタジオ、ミキサーカドワキツトムさんの三方を煩わしたものであった。 ところで此のレコードを大変喜ばれた清六さんはその後、数十枚を求められ私の自主企画製作を支援して下さった。そしてまた、こう言われた。「これで精神歌の論争も結着されたようでがんすぢや」……。 この事は精神歌の曲について、藤原嘉藤治さんは四分の四拍子だと主張し、沢里武治さんは「宮沢先生から八分の六拍子で教わった」とする論である。(レコードは八分の六で作った)沢里さんからはこんな言葉が語られた。「私(沢里)は宮沢先生を神だと思っている。従って神は語れない。しかしこれこそが本当の賢治の精神歌である。」熱のこもったほどばしるような声であった。 清六さんはまた、私がレコードのジャケットに記した応援歌、バルコクバララゲにこめられた賢治のおたけびを、この様に解釈したいという熱い思いを諒とせられ『賢治研究31』(一八八二・宮沢賢治研究会)誌に推薦して下さるなど、御厚情は数しれないが、このレコードにまつわる出来ごとは今も尚、私の胸の中に色濃く残る懐かしいものの一つである。
清六さんについて高橋 進(花巻市)私は直接清六さんとは話をしたことはない。しかし、私の父が清六さんと小学校の時同級だったそうなので家へ来られて父と話をしているのを見ていたり、父と歩いている時に、氏と街で会って立ち話をし、ついでに私を「息子です」と紹介されたことはある。その時の印象を思い出すと、日本人ばなれした容貌の方だったと子供心にも思った記憶がある。 大正の頃父の実家には水車があって、精米も家業の一部としていたそうだ。父の話ではそこに清六さんが遊びに来ていた時、急に水車が回りだし、大きな木製の歯車に清六さんが巻き込まれそうになったが、父が清六さんを引っ張り出し、歯車に巻き込まれずに済んだそうだ。万が一それが遅れたら大変なことになっていただろう、と、言ったことがある。 その頃の小学校の校長は千葉信訓という方で担任は女の先生だったが名前は今は失念したそうだ。他に佐藤先生といい頭が大きいので「権現さん」という綽名だった先生や、照井真臣乳先生という方たちがいたそうだ。 父は二十代の後半、函館で生活したことがある。そこに行く前の年ぐらいの祭の頃、豊沢町の清六さんの家に行ったら、賢治さんが二階から降りてきて父に声をかけてくれたそうだ、短い絣の着物(寝巻着?)を着ていたようだったとのことである。 七、八年前、父と話をしていた時、「同級生も残り少なくなり、今は清六さん、高橋文次郎さんと自分の三人ぐらいだけになった。」「『お互いに残った人間が弔辞を読もう』と話したことがある」と言ったことがあった。文次郎さんは平成十二年に他界され、清六さんは十三年に逝かれた。たまたま宮沢家のお許しにより十三年六月一日父が清六さんのお見舞いに豊沢町に行った。その伴で行ったのが私の清六さんをお見かけした最後である。父はこの二月九十八歳になる。
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投稿 「日々、賢治と出会うこと」酒井 早苗(会員 栃木県宇都宮市)「何と云はれても」朝のどんぐりは琥珀です。さくらんぼはめのうです。月がぼう、とマントを着たり、雲が風を巻ながら天空を目指したり。賢治さん、私もあなたの見た美しいものを見ているのでしょうか。いちょうが散った金色の道を、やわらかな匂いに包まれて歩く時も、あなたを思います。 赤んぼの髪はふさふさゆれる。子供のほっぺは真っ赤なりんご。賢治さんはみんなの中に、金のりんごをみていたのかな。たくさんの、人の悲しみを見て、無私の心で祈り、ほんの小さなものにも仏性を見ていたあなた。あなたが天上界へ帰っても、その心の力は多くの人に働いて、希望の光となっています。 私のそばにも祈る人がいます。美しい空気を編みながら、それで誰かを暖めようとしています。賢治さん、私もあなたのように人を愛せたなら、世界はまるで違って見えるのでしょうね。「宇宙には実に多くの意識の段階があり その最終のものはあらゆる迷誤をはなれて あらゆる生物を究竟の幸福にいたらしめようとしてゐる」 賢治さん、あなたの心は、言葉は、私達の魂を宇宙に満ちている愛の世界へと導いてくれます。もっと私の目を開かせてください。
新聞報道「未投かん手紙」が贋物栗原 敦(会員 東京都国立市)かつて本誌に「戒心、ご注意、ある喚起」(第十二号〈やどりぎ〉、九六年三月)を投稿して、悪意をもって作られた贋物の横行を許さないように、またそのようなものによる被害をお受けにならないように会員の皆さんご注意下さいと記したことがあります。 ところが、残念なことにふたたび全くの贋物が「岩手日報」二〇〇一(平成十三)年十二月二十六日夕刊(二)面に掲載された「未投かん手紙発見/花巻 死の三カ月半前の賢治/収録全集にない経文」記事中で「賢治の直筆」と扱われてしまう事態が起こりました。ここで、それは宮沢賢治の全集に漏れた資料などではない全くの贋物であることをご報告し、安易な報道に惑わされることのないようお願いいたします。 新聞の報道に先立ち、十月下旬に一度宮沢賢治記念館に持参されたことがあり、そこでの判断に合わせて、私ども『新校本宮澤賢治全集』編纂委員のもとにも情報が寄せられ、いずれの判断も正しからざる性質のものとしてご返事していたものですが、それが改めて盛岡のほうへ持ち込まれ、賢治直筆であるという扱いとなって報道されたのでした。 用紙右半分の上に寄せて「雨ニモマケズ手帳」一頁に記されている道場観といわれる句を「雨ニモマケズ手帳」のその頁の筆跡に似せて写し、その左にやや下げて、昭和四十二年版全集第十一巻(昭和四十三年八月刊)での書簡番号「四二九ノ二」(書簡下書き)の末尾を、昭和八年の筆跡とは全く似ても似つかない筆跡で記したというしろものです。現在の『新校本宮澤賢治全集』第十五巻では、慎重に年月日不詳の「不13」として扱っていますが、全集本文での冒頭に「六月五日」とあるのは使用用箋とも関係があります。そもそも書簡下書きを、賢治がここに登場したしろもののような、ちょっとしたコレクターが喜びそうな配置で書くことはあり得ません。 それにしても、昭和八年の筆跡とは似ても似つかぬ筆跡の左半分の文字には何か訳があるのでしょうか。私の心をよぎるのは、以前に登場した贋物が、非常に雑な出来具合ながらも、ある図録に掲載されていた若き日の賢治のはがきの筆跡を参照していたことです。今度のものも、書簡下書きから写した部分はそういったものを参照して作ったと考えられます。こういう悪質なものが、新聞報道のお墨付きで本物扱いされることの決してないようにと念願しています。
賢治清六兄弟の恩師小笠原氏のこと/長久寺佐藤師のこと杉尾 玄有(会員 山口県山口市)「小笠原敬三という先生をご記憶でしょうか。」そうお尋ねしたところ、清六さんはびっくりなさって、「小笠原先生の名前を聞くのは三十年ぶりで、そんな話をしに来て下さるのは有りがたい」とおっしゃり、「私は小笠原先生が好きでした」ともおっしゃった。一九九一年八月二十四日、私が家族とともに初めて花巻に旅し、宮沢家に参上した折のことである。小笠原先生の長女とし子さん(宮沢とし子さんと同じく本名トシ)が私の恩師故滝沢克己九大教授夫人であって、福岡市にご健在(当時)とお伝えした。すると清六さんが「小笠原先生はたしか原首相とつながりがあったと思いますが……」とおっしゃるので、原敬首相はとし子夫人の大叔父に当たると伺っている旨、申しあげた。 当日の清六さんの話題は政治家原敬からまた広がって、「賢治が政治家を題材にした作品に『疑獄元兇』というのがありますが、読みましたか」とおっしゃる。白状すれば当時の私はまだ賢治に深入りしておらず、ただ小笠原先生という取っておきの話題一つを頼みに、蛮勇をふるって宮沢家に推参したのであって、『疑獄元兇』という作品名すら知る由もなく、大いに恥じ入った次第。それでも小笠原先生のおかげで清六さんの知遇をこうむり、以後毎年お年賀状を下さり、再訪させていただいたり、賢治について種々疑問にも答えていただいた。ベック著『仏教』岩波文庫ワイド版の一部をカラーコピーしてお送り下さり、大感動したこともあった。カラー筆記具による夥しい傍線が清六さんの反復ご研鑽を偲ばせ、色のちがう傍線で何重か塗りつぶされた文字はカラーコピーでしか読めないのだ。 高農時代の賢治はある日、せっかく小笠原先生方を訪問して、何も言わないで帰った由。いかにも賢治らしく微笑ましいこの逸話は後に滝沢夫人に伺ったことなので、初対面の清六さんにお伝えできなかったし、その後お伝えしたか記憶がない。一九一八年には首相となる政友会総裁原敬の別邸に小笠原一家は住み、賢治書簡36高橋秀松あて葉書の表書に「盛岡市仁王小路 小笠原敬三様方」とあるので、賢治の親友の一人高橋が一九一七年の一時期、その原敬別邸の小笠原宅に寄宿したらしい。その葉書の末尾に賢治は「[小笠原]先生へどうかよろしく御伝へを願ひます」と記している。そして教え子高橋への愛顧の思いを後年小笠原氏が滝沢夫人に語っていて、その内容(高橋がいかに優秀であったか等)を滝沢家ではまた生前のとし子夫人から聞き伝えている。とし子夫人は幼き日、父上の身辺で高橋ばかりか賢治とも出会った可能性があり、賢治たちを語ることが幼女期や少女期のご自身を語ることでもあったろう。 賢治や高橋らのグループと小笠原家との間のこういう細やかな交情に注目せねばならない。特に中学・高農の両方で小笠原氏(盛岡中学教諭・高農講師)から教わった「修身」が賢治にどう影響したか、看過できまい。私はなおも滝沢家に小笠原氏関係資料の発掘・発見をお願いしていくつもりであるが、岩手(その後の小笠原氏は全国各地で三十年校長を勤め、最後は岩手医専教授を勤めた)や宮城(高橋氏は名取市出身、名取町長も勤めた)等の方面でも、隠滅に瀕した貴重資料について大方の緊急ご配慮が切に望まれる。 さて、宮沢家初訪問の旅から帰宅して早速『疑獄元兇』を読んだ私は、これが単に政治家を扱っているだけでなく、短編ながら(かつネガティヴながら)みごとな禅文学となっていることに感嘆し驚嘆した。処女作『〈旅人のはなし〉から』に始まり最終作『疑獄元兇』に至る賢治の禅的素養の核心と来由を問う課題を、事実上私はあの日清六さんから授かったことになる。賢治と曹洞禅との関係が重要なることは賢治晩年の手帳によっても明白であって、伝えられるところの赤い経巻『妙法蓮華経』に遭遇した十八歳の賢治を襲う異常な感動も、同書の巻頭《賛序》の筆者八人中、当時賢治に親しまれたのは道元一人であって、その道元の賛序《法華転法華》の文言に感動したとうけとめてこそ納得がいく。かつ、保阪嘉内折伏にこの《法華転法華》の真髄が活かされた事実はこれを証する(書簡50)。 しかも賢治幼少期以来、臨済宗長久寺(花巻御田屋町)の傑僧佐藤祖琳師との目立たないが長きにわたる交流も見のがせない。ここに賢治の禅的素養の原点ありと私が気づいた時はもう清六さんの最晩年で、長久寺関係のご記憶・ご推測等何かを清六さんから拝聴できたかもしれないのに、伺いそびれたことは千載の痛恨事である。
教育について(教師、この宮沢賢治)中里 賢(会員 岩手県一関市)崇拝する宮沢賢治が、花巻農学校ではじめて教壇にたったとき、授業で守るべきルールを三つあげたという。 その一つ、先生の話を一生懸命聞くこと。 これは、今、四周を見わたし、聞き及ぶ限り、現代の民主主義教育とは、いささか、理を異にし、右脳、左脳の洗礼であり、教育と芸術を融合するものであったようだ。 だが、ここで考えなければならないのは、戦後の教育が、はたしてどのような役割を担ってきたのか、再考察しなければならないということである。 けたたましく巨大化され、マスプロ化された現代教育は、詰め込み主義と、マークシート方式により、今、みごとに崩れかけている。 つまり、○×主義の教育は、一方においては、知識を豊かにし、一方においては、偏差値という名の選別と、トリビアリズムの障害を無差別に、産み落としたことにある。 さらに、いうならば、現代教育は、融通のきかない無反応さにあり、教師も生徒も、進学率一辺倒の、半製品製造マシンと化さんともなりかねない重大な危機感すら潜んでいる。 しかし、ここでお断りするが、このことは、学校教育の外野にある者としての見解であり、その是非論を問う範疇にはさらになく、深くお詫びをしなければならないことにもなるだろう。 かくいう青き高校時代、当時としては実に不思議な教師がいたもので、英語の授業では、毎日を宮沢賢治の「農民芸術概論」で明け暮れた、若き教師の姿が想い起こされるのである。 その名を哲学者といったが、教師というより、まるで芸術家(アーティスト)風でさえあり、情熱的でもあり、賢治そのものの如く、教室で歌い舞った教師であった。 それにしても、困惑したのは被害者である生徒であったのだが、師は、そんなことには一向気にとめる風もなく、ひとり授業を独占し、毎日を鳥のように舞い、歌い続けたのである。 だから、各学期ごとのテストも、より明快なものであり、当然の如くに農民芸術概論など、英訳させられたのであった。 これは、高校生には無謀と思われるものであったが、いやが応にも、白紙のザラ紙に、鉛筆をなめなめ、なんとか、かんとか全面埋めなければならないはめになった。 辞書の使用は認められていたから、それこそ、一生懸命に書いた。 農民芸術概論 近代科学の実証と、求道者達の実験と、我らの直感の一致に於て論じたい。 そして、かの有名な「……世界がぜんたい幸福にならないうちは、個人の幸福はあり得ない」のたぐいであった。 There can be no individual happiness until the world comes to entire happiness. また、それに付随しての感想を求められたのも、当然である。 世の中は、奇妙なもので、武士の情けというものか、目出たく九十点の評価、飛び上がって喜んだのはいつもの被害者、高校生の心情としては、想像に絶することだろう。 師は、今流にいうと、つまり、先公ではなく、分かる先生、話せる先生として、生徒に歓迎され、尊敬されたのである。 宮沢賢治が世を去り、早くも六十年の歳月が流れた。今、賢治先生の生涯と、わが師が書き残した「支離滅裂」の格言が、偏光グラスの中で交錯するのはなぜであろうか。 「型破り」の我が師。T・M先生と、賢治先生が、みごとに同化作用したことに、厚く感謝するのである。 おわりに、花巻農業高校の伝統的な精神歌を皆でハミングしてみたらどうだろうか!
賢治と私の出会い長山 雅幸(会員 岩手県盛岡市)私は盛岡の生まれで、いわば生粋の岩手県人です。とはいえ、実に岩手にいたのは三歳まで、その後、転勤族の父に連れられて、東北地方太平洋側を転々としました。ですが、空気や母の乳を吸うが如くに賢治の精神を身につけたのか、福島で過ごした中学時代は、農業への憧れをもっていました。具体的には、農業試験場での品種改良、しかも東北の寒冷地に強い作物の開発に興味を持っていました。ところが、どう間違ったのか、社会思想史という分野に進み、以来、十九世紀のドイツ、フランスの研究に従事するようになりました。学校を出て最初に就職した先は東京で、そこで約十年を過ごし、縁あって花巻に戻ってくることになりました。 それまで賢治の作品は、親が読んでくれるものか教科書で読んだものぐらいしか知らないのが現実でした。しかし、「ご当地」ということもあって、単身赴任で埼玉に残してきた一人息子にせっせと賢治の童話を買い送り、埼玉に帰ったときには、布団の中で読み聞かせました。そうして、四十歳近くになって、賢治の精神世界、作品の謎に触れることができ、改めて賢治の世界に感心を抱くようになったのです。 さて、私が特に専門としているのは、テオドール・デザミというマイナーな思想家です。彼は、フランス南西部のヴァンデ地方のリュソンという町の出身で、これまで生まれた年もはっきりしませんでした。しかし、この度、世界で初めて彼の生年月日を特定することに成功しました。が、「しかし」とは私は思いました。「こんな仕事はリュソンの郷土史家の方がいい仕事ができるのではないか。勿論、この仕事を日本でやることの意義があるとは思っているのですが、私は賢治に目を向けました。賢治が生まれ、学校に通い、作品を書き、畑を耕したこの花巻で地の利をいかした厳密な賢治研究をしようと思いました。しかし、先行研究の多いこと、生資料の多いこと!なかなか先は見えてこないのですが、ぼつぼつと、この花巻ののんびりした時間の中で、腰を据えて賢治研究に励むつもりでおります。
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イーハトーブ<語り>学 語る身体、語る言葉―
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テクスト・クローズアップ(21)
〔フランドン農学校の豚〕〔初期形〕杉浦 静(会員 埼玉県草加市)『新校本宮澤賢治全集』は、頁を繰ってゆくと所々に〔一字難読〕〔数文字不明〕という箇所が出現します。他の個人全集で、こんな表記が出てくるものは珍しい。こんなところが、校本全集を引き継いだ新校本全集の特徴のひとつです。このような表記は、校異篇に多く本文篇にはあまりないが、でもやはり何箇所かあります。賢治さんの残した草稿のうち、全集の編集者が読めなかった文字がこれらの表記となって現れています。〈読めない〉には二種類あって、一つは、消しゴムで消されていたり、墨で抹消されているものです。校異篇に現れる多くは、このタイプです。次回の全集では、光学器械の利用などで、読めるようになると思われます。もう一つは、賢治さんが発表を意識しないで自分なりの崩し方で綴ったり、走り書きしたために読めなくなってしまったものです。こちらは、字の形ははっきりしているのに、判読できない。推定して読んでしまう全集もあるようだけれど、新校本はそのまま読めませんでしたとしています。校本にあったこのような例のうち本文篇にあったものは、他の草稿から類似するものを探して比較するなどして、ほとんどを解消できたのですが、ここに掲げた「フランドン農学校の豚」〔初期形〕のこの文字は、読めないまま残ってしまったものです。 この箇所は、最終形に至る推敲過程で手入れされて差し替えられてしまうので、校本以前には本文に採られていませんでしたので、お気づきになっていた方は少なかったかもしれません。 助手はのんきに口笛を吹いて時々ピシッとやりながら〔 〕てあとからついて参りました。 こういう箇所です。ここは文脈からは「立て」(たって)と読みたいところですが、賢治の地の草稿で「立」をこのようにくずした形はありません。そのほか、この形に似た字は、なかなか見つからないのでお手上げです。
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セミナー報告 地方セミナーin戸隠 二〇〇一年八月二十五日・二十六日山本 瞳(ものがたり文化の会)
主管者「ものがたり文化の会」は、幼児から社会人迄の広い年齢層の若者達が週一回のパーティ活動で、賢治童話の世界に人体交響劇という身体表現で接近している活動グループで全国に散在している。(一九九五年イーハトーブ賞受賞) 一八八二年故谷川雁の主宰で始まったが、二十年目を迎えた記念行事に、長野県戸隠村中社で地方セミナーを誘致したのは、この地が毎夏小五以上の少年少女たちが若者のリーダーとともに三泊四日の合宿を組み、賢治童話から一作品を選んでその世界を身体表現活動で存分に楽しみ発表会に迄こぎ付けるという活動、いわば魂の洗い場でもあったからである。セミナーのプログラムを考えるとき、次のようなことを話していた。私達の活動の基本が賢治童話の身体表現活動であってみれば、賢治の作品に内在する身体感覚を深く知りたい。それは今崩れかけているこの社会のこども達の身体の危機を日々感じている自覚からであり、さまざまな姿の賢治の風と交わる示唆を得たい。二つめは賢治童話の世界の底流をなす風土、敗滅の「村」の姿は、現代の私達のまわりに姿をかえて忍び寄っている影でもあるが、その自覚のなかで賢治童話に潜む遊戯性をもってその影を穿つ現場を勇気づけたい。そして三つめはこの合宿で表現を作る「洞熊学校を卒業した三人」を見て頂いて、こども達が賢治と遊ぶひとつの姿を問いかけてみたいということであった。以下紙面の都合上万全ではないが、二日間のセミナーを要約で報告する。(会場は宿坊「極意」)
夕食後、人体交響劇の練習風景を見学、その後各地から報告、出しもの等の和やかな交流会で第一日目終了。 二日目は「戸隠代々神楽」を戸隠神社で奉納。氏子の方々が代々伝えてこられた戸隠の風土に思いが走った。朝食後体育館でものがたり文化の会の人体交響劇「洞熊学校を卒業した三人」の発表を見て、昼食(戸隠名物の蕎麦)。 午後は前日の会場でシンポジューム「今こども達は賢治と遊べるか」を開催。萩原代表理事 鹿川理事 ものがたり文化の会から田代 根本 伴の各氏と会場の皆さんとで、午前の発表を見ての感想等も含めて話しが弾んだ(司会は伊佐氏)。 非日常空間を想定してその中で自由さを獲得するというのが遊びの精神であり演劇であろう。その遊びの空間では自発的ルールに拘束されてそれを一生懸命やるというのが遊びで、それが目的であって別の目的にすり替えられるものであってはいけないと思う(鹿川)に続いて、賢治の物語の中で遊ぶ現場のこども達との活動の体験が話された(田代 根本)表現活動に入る前に、作品に対しこども達の好き嫌いから始まって、実際の生きものの姿、又植物の定点観測を交えての観察することから見えない世界を見る目が育まれる活動現場のきめ細かな取り組みが語られ、また午前の「洞熊学校を卒業した三人」の表現のリーダーたちから、一人一人違うこども達が気持ちを段々にわかり合って家族の雰囲気になってゆく中で表現が出来上がってゆく状況を報告。ついで賢治の物語を身体表現することは一種のバーチャルな体験ができること、それは人間同士でなく普段目を向けないようなものになって遊んでみることができることで、それは自分を外から見る体験ができる。普段の生活が昔と比べてずっとルーテインのまま過ごしているような社会にあって、非日常的な刺激が入ってきて自分はなにものかというのを一歩引いてみるという感覚を身体表現という遊びの中で養うことができるのではないか(伴)と発言がありそれに対して会場から、この活動は自分を発見しようとする旅ではないか、思春期になって自分がわからなくなる時があるが、この活動のなかで自分以外のものから自分を見るという訓練が技化されてきて自分を確認できるのではないか。そういうことに賢治の作品は十分にこたえてくれる(佐藤)と共鳴された。発表を見た感想として、作品をこども達が手探りで資料を集め理解し身体表現に移してゆくというのは素晴らしい文化的教育的表現であるが、それを客観的に舞台の創作としてみる場合とではかなり評価が分かれると思ったと発言されていた鹿川氏が結び近くに「この活動を二十年やってきたということだが、二十年やってくればもう本もの。リッチー・ベルガーの言葉『文化とはそのものの表現のみごとさでなく、それを支えた人々のみごとさである』を引いて、マスコミ等の商品化にのることなく、遊ぶこと、苦しむことに徹底してほしい」と述べられ、次いで萩原代表理事が「地方セミナーはそれぞれの地域でしかできないことをやることだと常々思っていたが、そのことが実感できた地方らしいセミナーになった。身体表現を通じて教えてくださったことが具体的で嬉しかった。ありがとうという言葉でお返ししたい。又、何かになればいつでも何かになれる自分のからだがあるという喜びを大人に与えてくれたことにお礼を申し上げたい」と会を結ばれて終了した。
地方セミナーinセンダード
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ポラーノの広場 旭 川
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