宮沢賢治学会・会報第24号

ここはこけももとはなさくうめばちそう
かすかな岩の輻射もあれば
雲のレモンのにほひもする

─「一八一 早池峰山巓」─


第24号「うめばちそう」
2002年3月31日発行
  1. 宮沢賢治の作品と絵
    杉田 豊
  2. 第12回定期大会報告
  3. 第12回定期大会リレー講演
    「雨ニモマケズ」考
    黒沢 勉
    宮沢賢治とラ・フォンテーヌにおける食物連鎖
    マリ 林
    「カーバイト倉庫」の詩人が見つめるもの
    木村東吉
    宮沢賢治とエコクリティシズム
    カレン・コリガン=テイラー
    詩集「春の修羅」
    宮 静枝
  4. 宮沢清六さんを偲んで
    大島宏之・小川浩彦
    小原くに子・風間 効
    駒井佐一郎・佐藤 成
    高橋 進
  5. 投稿
    日々、賢治と出会うこと
    酒井早苗
    新聞報道「未投かん手紙」が贋物
    栗原 敦
    賢治清六兄弟の恩師小笠原氏のこと/長久保佐藤師のこと
    杉尾玄有
    教育について(教師、この宮沢賢治)
    中里 賢
    賢治と私の出会い
    長山雅幸
  6. イーハトーブ<語り>学
    語る身体、語る言葉─
    「虔十公園林」を聞く/読む
    安藤恭子
  7. イーハトーブ イルミネーション
    「注文の多い料理店」
    林 敦子
  8. テクストクローズアップ(21)
    「フランドン農学校の豚」初期形
    杉浦 静
  9. セミナー報告
    地方セミナー in 戸隠
    山本 瞳
    地方セミナー in センダード
    渡辺仁子
    地方セミナー in 雫石・小岩井農場
    関 敬
    冬季セミナー 講演(要旨)
    北条常久
    冬季セミナー シンポジウム
    初期宮沢賢治研究の再検討
  10. ポラーノの広場
    旭川宮沢賢治研究会
  11. イーハトーブ館 企画展示
    心象スケッチ写真展 交響詩「イーハトーブの幻想」
  12. 宮沢賢治EVENTS
  13. 宮沢賢治作品イラスト
  14. 寄稿のご案内

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第12回定期大会 報告

第十一回宮沢賢治賞・イーハトーブ賞贈呈式

 前日二十一日は昼に南斜花壇にて宮沢賢治句碑の除幕式があり、続いてイーハトーブ館にて風のセミナー(一般対象)の入沢康夫さんによる講演「清六さんを悼む」がありました。午後三時頃に一時強い雨があったものの、夕方にはすっかりあがり、その夜は澄んだ空気の中、詩碑前にて賢治祭が開催されました。

 その余韻を残しつつ、秋晴れの花巻駅前のNAHANプラザでは、大会プログラムの最初である第十一回宮沢賢治賞・イーハトーブ賞の贈呈式が、午前十時から花巻市主催により開催されました。土曜日という日程にもめぐまれ、全国各地、海外から、そして多くの市民の方もお祝いにかけつけ、用意した席では足りず、残りすべてのイスを追加することとなりました。

 今回の賢治賞は、「永年にわたる賢治研究の成果にもとづく多数の著書及び社会・学界に対する多大な業績」の天沢退二郎さんに、賢治賞奨励賞は、「「雪渡り」及び「よだかの星」をはじめとする、すぐれた翻訳出版、特に賢治語法の特性を生かした英語への翻訳に対する高い評価」によってカレン・コリガン=テイラーさんに贈られました。

 また、イーハトーブ賞は「永年にわたる賢治作品の忠実な形象化と、賢治の精神を深く究めようとするエッセイ集そのたの業績」のますむらひろしさん、同じく「永年にわたる賢治歌曲の普及と、合唱指導によって賢治への親しみと理解を深めた業績」の菊池裕さんのお二人に贈られ、イーハトーブ賞奨励賞の該当はありませんでした。

 花巻市長から賞が贈られ、各受賞者からのスピーチ、その後本賞受賞者による記念講演が行われ、ラストは菊池裕さんの指揮にて、かすりの着物ともんぺ姿の桜町ママさんコーラスの皆さんによる賢治歌曲披露にて閉幕いたしました。受賞者の皆さんの業績などにつきましては、会報二十三号にてご紹介しておりますのでご参照ください。

定期総会

午後一時から定期総会が行われました。毎年総会だけは出席者が大幅に減り、やむを得ない面もあるとはいえ、多くの会員の出席を望みたいところです。出席会員の中から花巻市の阿部弥之さんを議長に選出した後、議事に入り、二○○○年度事業報告及び収支決算、二○○一年度事業計画及び収支予算について審議を行い、それぞれ原案どおり可決承認されました。質疑には会員の減少傾向について質され、事務局よりここ十年間の毎年の退会者数はほぼ同数で推移しているものの、生誕百年(一九九六年)以降入会者が少なくなり、減少傾向であることを報告。開かれた学会として今後様々な企画事業を通して会員の増を図っていくことが全体で確認されました。

賢治研究リレー講演

 恒例のリレー講演では、持ち時間一人十分という中で、それぞれの賢治をテーマに密度の濃いお話をしていただきました。

 五人の講演の要旨を本号に掲載いたしました。

イーハトーブ・サロン 、私と賢治、

 参加者が気軽に所感を述べあう本コーナーでは、参加会員の中から七名の方々が登壇され、それぞれ賢治や賢治作品についての思いを、一人五分ずつスピーチされました。今年も記念品として、「イーハトーブ図書券」が贈呈されました。登壇いただいた方は次の方々です。

中里英章さん(東京)、五十嵐正子さん(新潟県)、大澤謙一さん(盛岡市)、佐藤成さん(宮城県)、田島利子さん(東京)、植松民也さん(神奈川県)、渡辺宏さん(和歌山県)。

会員交流・懇親会

 初日の日程の最後は、会員交流・懇親会です。恒例のイーハトーブ料理メニューには、昭和六年賢治が草野心平にあてた手紙に書いていたという、黒豆からつくった「電気ブドウ酒」も登場。黒豆の煮汁と酒石酸等々でつくった葡萄酒の味は?! 

 宮沢賢治賞・イーハトーブ賞受賞者や花巻市関係者も加わり、宮沢清六氏への思い出など、なごやかな歓談のうちにも、それぞれの思いがしみこむような交流のひとときとなりました。

研究発表

 二日目は、前日に続き青く澄みわたった気持ちのいい秋晴れの中、会場をイーハトーブ館に移しての研究発表です。午前十時から一人三十分の持ち時間で、正午に終了いたしました。この研究発表の記録集を頒布しておりますので、ご希望の方は事務局までお申し込みください。 (一部五百円、送料別)

ポランの広場

 大会のフィナーレは「ポランの広場」。今回は、新たに結成されたイーハトーブ子供劇団による「なめとこ山の熊」(脚色 照井登久子、構成・演出 鹿川比呂志)で、前夜の賢治祭に続く上演となり、子供達の熱演に会場から多くの拍手がよせられました。惜しまれつつ解散した「賢治子供の会」(主宰 照井謹二郎)を引き継ごうという思いからの出発に、今後の活動を暖かく見守っていきたいものです。




賢治研究リレー講演

「雨ニモマケズ」考

黒澤  勉

 ただ今ご紹介ありましたように、岩手医科大学で教養部の学生、一年生に文学を教えています。その文学の授業の半年は宮沢賢治を取り上げています。

 昨年、日本医師会の会長坪井栄孝先生が世界医師会の会長に就任されましたが、その主任の挨拶の中で、最後に御自分の最も好きな詩ということで朗読されたのが「雨ニモマケズ」でした。ですから「雨ニモマケズ」は医療のサイドから全世界にメッセージとして送られたといってもよいと思います。坪井先生の就任挨拶にもありますように、現代の医療は限りなく進歩していく先端医療に対していかに倫理的な判断を加え、時にこれに歯止めをかける事が求められています。「雨ニモマケズ」の詩、あるいは賢治の生涯は、医の道に志す学生にとっても、特別に大切な意味合いをもっているのではないか…坪井先生が「雨ニモマケズ」の詩を紹介されたことを私は、そのように考えて賢治を教えているわけです。

 私自身はこれまで「病者の文学」という研究テーマを掲げて、正岡子規のことをこの七年ほど調べていますが、子規の病床と賢治の病床を比較して考えてみたいと思っています。

 「雨ニモマケズ」の詩は、その詩だけが一人歩きして好きなように解釈され、受容されていると思います。それはそれで一つの文学への接し方だと思いますが、賢治理解のためには、一歩進んで、賢治の生涯の中で、あるいはその詩の収められた手帳の中で据えることが必要ではないかと思います。

 結論的にいいますと「雨ニモマケズ」の詩は、一度は、死を覚悟した者が奇跡的にも生きながらえてあらたに生きようとするその決意を語った詩だと思います。もう少し具体的にいいますと賢治は昭和六年九月二十一日東京で高熱を発し、死を覚悟して両親や弟、妹達に宛てて遺書を書いています。賢治が亡くなったのは丁度この二年後の事で、私はこのようなところに神秘的な感じさえもちます。ただの偶然ではなく何ものかが賢治の精神を知らしめようと年間の命を与えたのだ、という感じがするのです。「雨ニモマケズ」の詩は、この何ものかによって与えられた賢治の生が生み出した最も重要な作品でした。公開を全く意図せず、推敲を加えず、全く個人的な感慨や決意、祈りにすぎないこの詩は、にも関わらず、その精神の深さ、思いの深さ、ひたむきな信仰心の吐露などといった点で賢治の秘密を語る重要な「作品」だと思います。死からの再生はおそらく宗教心理としてどの宗教にも共通するものだと思いますが、一度、死んだ(死を覚悟した)賢治は、この授かった貴重な命を決して無駄にすまいと深い喜びのうちに決意しました。それまでも賢治は法華経を「絶対真理」としてその教えに殉じて生きてきましたが、それでも振り返ってみれば生ぬるく感じられたようです。死をくぐり抜けた今こそ、一点の妥協も許さず、法華経に殉じたい、しかもそれはただ教典を唱えるとか、祈るとかということでなく日常の実践、人々の苦しみを救う菩薩行の実践に己を賭ける、という決意でした。

 「雨ニモマケズ」はきわめて日常的な平易な言葉で書かれているので誰でも、それこそ子供でもわかるような気がするかもしれませんが、実はその平易と思われる言葉の奥に賢治のこれまでの人生を内省した上での願望や新たな生への決意などといったものが潜んでおり、言葉の表面だけでは理解出来ないのではないかと思います。

宮澤賢治とラ・フォンテーヌにおける食物連鎖

マリ 林

 十七世紀を代表するフランスの作家、ジャン・ドゥ・ラ・フォンテーヌはギリシャ語のイソップの寓話を手本に、フランス語で翻案した寓話で有名である。紀元前六二〇年頃生まれたイソップの邦訳は一五九三年の「エソポのハブラス」に始まるため、賢治がイソップ寓話を読んでいた確率はかなり高い。一方、ラ・フォンテーヌの場合も、初めて彼の寓話集が日本で出版されたのが昭和元年なので、これも賢治は目にしている可能性がある。賢治童話には賢治自らが「寓話」と称した作品がいくつもある。そもそも寓話とは平凡社大百科事典によると「主に動物を主人公にした短い教訓的なたとえ話をいう」と、ある。ラ・フォンテーヌによれば寓話のめざすところは「有益で楽しい」こと、子供たちが読書をしながら「知らず知らずのうちに心のなかに美徳の種をまく」ことを目指す。

 ここでは賢治が題字の右上にはっきり「寓話集中」と明記した「〔フランドン農学校の豚〕」とラ・フォンテーヌの「豚と雌ヤギと牡羊(イソップの豚とキツネの翻案)」を比較検討する。

 これらふたりの寓話の共通点と相違点に注目したい。まず第一にふたつの作品の共通点はもちろん主人公の豚である。第二にテーマの死である。主人公は共に身近に迫った自らの死を察知している。次に相違点については第一に賢治作品は長く、ラ・フォンテーヌ作品は短い。ラ・フォンテーヌは「一番短い作品がいつでも一番良い作品」と言い彼は良い作品を目指した。この長さの違いは第二の相違点と大いに関連がある。すなわち、賢治は散文で書きラ・フォンテーヌは韻文で書いた。この韻文で短いという長所は国語の授業で暗誦をさせる際に極めて有効である。第三の相違点は賢治がつけなかった教訓をラ・フォンテーヌは物語の最後につけた。以上の点がどのように作品に反映されているか、考察を加えてみよう。

 まずラ・フォンテーヌの寓話の主人公コション(Cochon)は去勢豚のことである。豚は発情期が二十一日、その度に痩せてしまうため、昔から太らせるために去勢するのが普通である。

 ラ・フォンテーヌの豚は次のとおりである。:雌ヤギと牡羊と丸々と太った豚が同じ馬車に乗せられて、市場へ向かう。道中他の二人は大人しいのに豚閣下(Dom pourceau)は泣き叫び続ける。このとき豚はプルソーと呼ばれる。プルソーというのはポール(port)の古い文章語で、ポール(英語のポーク)は食用としての豚を指し、題名の豚、一行目の豚コションは動物側から見た豚である。しかし、プルソーは食べる側からみた商売用語であり、ここでひとつの視点の変換がなされたことに読者は気づく。「他の動物たちは豚が助けてくれと泣きわめくのでびっくりしていた」「御者はポール(豚)に言う」ここでコションはとうとうポール=豚肉と言われてしまう。「ヤギはミルクを絞られ、羊は毛を刈り取られるでもおれは食べられることしか能がないから、死ぬのは確実さ」ここで注目に値するのは豚と会話するのは御者だけである。「〔フランドン農学校の豚〕」で豚が話をするのは死亡証書を持ってきた校長先生とだけである。ふたつの作品において死を覚悟した豚が自らの生死の決定権をもつ者とのみ会話するというのは注目にあたいする出来事である。豚という動物は子豚の時に買われてきて去勢され、家の中あるいは納屋、農学校の小屋である時は肥育をしてまで食料をふんだんに与えられ家族同様に大切に育てられる。そうして大きく太った豚は食べられるために売られていく。これが豚のあるべき姿であり宿命なのである。哀れな豚は、ラ・フォンテーヌでは「これっきりね。アデュー=さようなら」で死の予告に怯えながら終わるが、フランドン農学校では殺されて解体され「雪の底に八きれになって埋まった」。前者は死をあいまいにしたままだが後者はしっかり死を直視しポークになった肉が切り分けられ食べられる準備をされるところまであえて書いた。また、ラ・フォンテーヌは一寸的外れな教訓をつけたが、賢治は、「月はだまって過ぎて行く。夜はいよいよ冴えたのだ」と絵画的に終わる。寓話に教訓をつけない分だけテキストは自由に羽ばたけ、人々の心に様々な形で入り込むことができる。賢治は「よだかの星」で、食物連鎖の中にあって他者を食べることでしか生きられなかった夜鷹の苦しみを語った。その対極にあって他者に食べられることが存在価値である豚の苦しみを見事に書き綴ったのがこの「農学校の豚」である。

「カーバイト倉庫」の詩人が見つめたもの
、「早春独白」を併せ読むとき、

木村 東吉

 賢治詩には、一読しただけでは情緒的なものが伝わってこないために、「分からない」という感じを受けるものが多いのですが、反面、しばしば賢治詩には気になるものが含まれています。例えば『春と修羅』(第一集)の「カーバイト倉庫」では、作中の詩人が「薄命どきのみぞれにぬれ」ながら「なつかしい」ものを期待して山峡の道を急いで駈けてきたらしいのです。しかし、着いてみると、時間が早すぎたのか、期待した街の灯でなく「すきとほってつめたい」無機的なカーバイト倉庫の軒にともった電燈であったというのです。そこで詩人は自分を慰めるように「巻き烟草に一本火をつけるがいい」と自分に言い聞かせつつ、心の奥に何か「なつかしさの擦過」したのを捉えて、そこに「寒さ」や「さびしさ」とそれ以外のものを感じています。これが何か気になるというわけです。

 問題は「寒さ」と「さびしさ」の他に何を見るかです。カーバイト工場は、当時の先端的有機化学工業の一つでしたから、信仰と科学との一致を念願した作者の思想を予め知っている私たちは、近代的科学文明と冷たい電燈の光に触れて、そうした角度から、その内容を推定することにも誘惑を感じますが、ここにはもっと詩人が体で感じているものがあるようです。そこで作中の詩人の視線に読者が視線を重ねる工夫をしてみますと、作品の状況設定が《第二集》の「早春独白」のそれと類似することに気づかれます。「早春独白」では詩人が、農婦よりも先に電車に乗っていますが、電車が走り出してみますと、彼の「黒いしゃっぽから」「つめたく明るい雫が落ち」ています。当然、彼の体も濡れているはずです。彼は農婦が駈けてきた道筋について克明に想像していますが、これは同じ道をたどってきたばかりの彼の回想に基づいていたことがわかります。

 つまり、急いで「山峡をでてき」たことでは、「カーバイト倉庫」の詩人と同じですし、しかも、「早春独白」の詩人も、近代的乗り物である電車の電燈が窓に写って雪空に浮かぶのを見ています。もちろん「カーバイト倉庫」の舞台は岩根橋のカーバイト工場付近を想定させますし、「早春独白」は大沢温泉の電車の中を想定させる点で素材を得た場所は違います。しかし、作品の意味を考えるうえでは、「早春独白」の詩人が乗った電車は岩手軽便鉄道であってもよいはずで、仮にそうだったら、時間的にはほとんど連作です。

 しかし、こうして両者を対比してみれば、「カーバイト倉庫」の詩人が寒さと寂しさの中で「巻烟草」に火をつけながら追っているものは「なつかしさの擦過」した後影です。「早春独白」の詩人は「氷期の吹雪」の町中を、窓硝子に写った世界で農婦とともにいます。こうした対比をとおして「カーバイト倉庫」の詩人の視線を追ってみると、浮かび上がってくるものは、同伴者を求める内奥のリビドーだったかと思われてくるのです。

 ここで作品を詩集の中に戻してみますと、「カーバイト倉庫」でかすかに出ていたテーマは次の作品「恋と病熱」では、妹の発熱と対比される形で、その次の「春光呪咀」では、異性への募る想いとして展開され、異性への想いが、この段階では自己の「たましひ」の迷妄として自覚されています。同じモティーフが、《第二集》の「早春独白」では硝子に写った世界での出会いとして成熟を遂げているわけです。

 私は最近、《春と修羅 第二集》を、単に詩人の第二詩集という意味ではなく、詩集『春と修羅』の第二集という意味だという確信を強めています。この「カーバイト倉庫」と「早春独白」とその距離も『第一集』と《第二集》の距離と考えているのです。

「宮沢賢治とエコクリティシズム」

カレン・コリガン=テイラー

 エコクリティシズム、生態学的批評とは、環境と文学の関係を研究するエコロジーの視点に基づいた文学批評のアプローチです。私は宮沢賢治の作品におけるエコロジーのテーマにたいへん興味をもち、「雪渡り」と「よだかの星」の翻訳と解説の場合にも、こういう視点からアプローチをしてみました。岩手の風土に根ざす、賢治のネーチャーライティングは、特定な場所への愛をはぐくみながら、他方では時間と場所を超越し、地球の生命共同体の一員としての認識を読者に促す神話として読むことができます。

 十一日の世界貿易センタービルのテロ事件によって、ここ、花巻に向けて出発するぎりぎりまで必ず行けるという保証は何もありませんでした。そのときに、おととい講演をした高校生と皆様に向けて手紙を用意しましたので、読ませていただきたいと思います。

 「九月十一日は、一日中テレビでテロ事件のニュースを見ていました。そして、二十一世紀に入って私たちに一番必要なことは何なのかを考えていました。その時、宮沢賢治の「青森挽歌」の一行が頭に浮かびました。「みんな 昔からのきょうだいなのだから けっしてひとりをいのってはいけない」という一行です。これは、賢治がトシの死を悲しんで自覚したことですが、いろいろな解釈ができると思います。まず、私たちと他の生命体との進化過程における関係を感じさせます。私たちがチンパンジーと分かれたのは、地質学スケールの時間ではつい最近のことです。遺伝的には非常に近いので、動物たちも兄弟であることは忘れてはいけないのです。大地の一員としては、私たちの故郷はまず、それぞれの国や県や町ではなく、この惑星自体です。

 それぞれの生態系の健康は、その生命の多様性に基づいているように、人間の美しさと生き続ける力は、文化の多様性、考え方の多様性に宿っていると思います。花の種類が一つしかなかったら、世の中は面白くなくなるでしょうし。皆の考え方が同じでしたら、問題が起きる時はそれを解決できるほどの想像力が足りないかもしれません。「多様性に力がある」ということです。

 ではこの多様性への敬意をどう養えばいいのかと、いうことになります。これは比較文学や比較宗教といった学問になるでしょう。自分と他者、自国と他国との比較によって、歴史観、宗教観、文学観などの違いを学ぶのです。そうした授業に取り組む必要を感じます。

 例えば、歴史でもさまざまな視点、さまざまの国民の目から見て、同じ時代に世界ではどんなことが起こっていたかについて話し合うのです。どの国でも、こういうふうに学んでいったら、異文化の理解、他国民の心の理解、がよくできるようになるのではないでしょうか。賢治も『グスコーブドリの伝記』で、「歴史の歴史」の模型というイメージを通して、歴史観というのは世界認識と同行して変化してきたといっているように思われます。

 人間同士が今よりももっとうまく話し合うことができないでしょうか。もっと他の民族の文化と宗教を認めることができないでしょうか。それができれば、テロ事件は少なくなって、現在よりは平和が守られるようになると思います。賢治は、いろいろな文化や宗教や言葉に興味を持っていた人です。絶対に人を苛めたり、自然に害を与えたりはしなかったのです。私たちひとりひとりは、毎日の生活をどう生きるかによって、地球生命体の健康、そして人間社会の平和に貢献できるはずです。どうか、兄弟のつもりで助け合いましょう。」

 有り難うございました。

詩集「春の修羅」

宮  静枝

 私は戦前の啄木会と賢治の会(東京)に入っておりました。賢治の会には、草野心平や野村胡堂等々、有名な方々がおりました。ある日、その会の折井千一さんが、私に『春の修羅』という賢治の本を持ってきたのです。『春の修羅』、その時不思議だなあーと思ったのですが、忙しいままに二年が過ぎた頃でしたか、絵を書いている高橋忠弥さんや、菊池二郎さんが家にみえたとき、おもむろに『春の修羅』を出して、互いにおかしいねと言ったのを覚えております。その後昭和二十年に空襲で焼け出されて、盛岡へ戻り、盛岡の賢治の会などで、『春の修羅』のことをお話ししましたが、あまり気にかけられることもなく、これは幻になってしまうのかなと思っておりました。

 ところが昨年のこと、私のペンネームは「南城幽香」と申すのですが、宮沢賢治年譜の関連で「南城幽香」を探している杉浦静さんと会う機会があり、この杉浦さんが、古い岩手日報の『春の修羅』について書いてある記事をみつけてくださいました。大正十三年九月十八日付けですが、本日はこの記事(下図)を読みたいと思っております。

(記事紹介)

 『春の修羅』を空襲で焼いてしまったことを非常に惜しいことだと思っております。しかし、幻かと思っていた『春の修羅』の記事がここに現前としてあるということは、やはり研究すべき課題だと思いますし、はたして「の」と「と」の違いは何を意味しているのか、考えてみたいと思っております。





宮沢清六さんを偲んで

 宮沢賢治学会イーハトーブセンター顧問、賢治御実弟でもある宮沢清六氏が二〇〇一年六月十二日ご逝去されました。謹んで哀悼の意を表します。なお多数の寄稿がありましたので、今回と次号にわけての掲載とさせていただきます。

清六先生の温顔を偲んで

大島宏之(東京都)

 「清六先生真事に有難うございました」  先生のお姿はこの世を去られても、そのご縁は常にこの世にとどまっていることを固く信ずるものですが、それでも先生の今生からの旅立ちに、別離の辞を述べなければならないことが、切なくて堪りません。

 私が清六先生に最初のご縁を戴きましたのは、昭和四十八年五月のことでした。書簡を中心にして賢治先生の信仰歴程(特に法華経信仰)を尋ねていた私は、その時賢治先生の魂を育んだ地・花巻(イーハトーブ)の風光を心に刻み付けたいとの止むに止まれぬ気持ちに駆り立てられ、厚かましくも清六先生に、面会を懇願する電話を入れさせていただいたのです。

 電話口で清六先生は、一面識もない私の申し出を親切に聞き入れて下さり、「五月十五日に高村祭があるので、よろしかったらその時いらっしゃい。賢治の縁の人も見えますので」と誘いの言葉をかけて下さいました。私は天にも昇る思いで出向かせていただきましたが、当日会場において清六先生は、あの温顔による温もりで、旧知のごとく迎い入れて下さったのです。

 このご縁に発して、その後も、幾多の機会を戴きました。枚挙にいとまがない身に余るご縁の連なりのうち、印象深い場面を想起して見ると、賢治祭前夜祭において、ご一緒に講演させていただいた草下英明先生と花巻温泉で、清六先生にお招きを受け、至極の時を過ごさせていただいたこと。ご自宅において清六先生が、ヘルマン・ベックの仏教観を熱っぽく語って下さったこと。賢治先生の墓前での島地本「法華経十六番」の読誦を大変喜んで下さったこと、賢治生誕百年祭を巡る苦渋の胸中を、私を信頼して打ち明けて下さったこと、等々。

 今も走馬燈のごとく多くの追憶が蘇ってまいりますが、清六先生のご一生は、正に賢治先生との二人三脚を完走されたご生涯であられたと拝察いたします。それが、どれほどご苦労な道のりであったことかは、余人の察するに余るところですが、清六先生の生涯を懸けて願われたことの万分の一でも、生ある私どもがバトン・タッチしていくことを、切に念願する者であります。

 「清六先生のご冥福をお祈りして、法華経の法縁による又の再会を約し、ここに今生でのお別れを申し上げます」

合掌

清六さんは何になりたかったか

小川 浩彦(岩手県)

 九九年七月に、雫石と宮沢賢治を語る会(会員二十五人)が作った絵ハガキ、宮沢賢治雫石の青春風景の印刷前の原版が出来上がった。発行前に宮沢家の諒解を得なければならないので、宮沢家に御都合を伺うと、潤子さんが電話口にでられて、父は昨年手術をして以来、体調をくずして、皆様におあいできないが、その方は和樹にまかしているので、まず林風舎によってから、豊沢町においで下さいとのことであった。

 二日後、語る会の五人が林風舎に伺い、和樹さんに原版をお見せして絵ハガキ発行の諒解を得たので、次に豊沢町の宮沢家に伺った。和樹さんもわざわざおいでになって、いろいろ話をしていた時、潤子さんが、「小川さんちょっと」といって、私だけを別の部屋につれていった。その部屋のベッドに清六さんが体を横たえられていた。すると清六さんが「小川さん、あなたが一番幸せですよ」としっかりした口調でおっしゃられた。

 私と妻と長男とで、百頭の牛を二十町の牧草畑の管理に人手不足も併なって、あくせく働いているのに、何故かなあと思ったが、思いあたる節もあった。

 二十年前位宮沢家に伺って、清六さんとお話をしていた時、ふと「もし兄がいなかったら、私はもっと偉い人間になれたと思う」という意味のことをもらされた。聞いたその時は深く考えなかったが、多分清六さんは若い時、何かになりたかったのである。それが長男である賢治が何かにつかれたように生きて夭折し、厖大な作品を遺していってしまった。家業を続け、家族の面倒をみ、未整理の兄の作品を保存し整理し、世に表す仕事をするのは、清六さんしかいなかったのである。清六さんが若い時、何になろうと考えていたかは私には全くわかりません。ただ、私が賢治が望んでいた豊かな農業を実現しようと十九才の時考え、二十三才で岩手山麓の開拓地に単身入植し、六十過ぎた今も夢の実現にむけて働いていることを、一番幸せだとおっしゃられたと思う。

 八三年九月に著書『兄のトランク』と一緒におくられてきた手紙にはこうあった。  突然お伺いしたりして失礼しました。登山で足を鍛え、八十才にしてはありがたい旅だったと思っています。この本はお役に立つかどうかわかりませんがお送りします。賢治が生きていたら、私に、あなたに、どんなことを言うでしょう。多分「御苦労なことだなあ」でしょうか。

宮沢清六さんを偲んで

小原 くに子(花巻市)

 「賢治の作品を読む会」が、当時花城町にあった花巻図書館の呼びかけで始まったのは一九六九年十二月十七日のことです。それまで花巻には賢治関係の集まりが無かったそうで、清六さんも喜ばれ、「年に一度は例会に出ましょう」と約束して下さいました。

 翌年の十一月二十七日はトシさんの五十回忌でお忙しい中を、夜の例会に御出席下さり、イギリス海岸のことや賢治の多面性についてお話なさいました。

 その後も毎年十一月の例会は「清六さんを囲む会」として、沢山の御講話を伺いました。「宮沢賢治」のカセットテープが出ると(一九七二年)第一番に紹介下さり、購入できました。

 一九七三年、花巻図書館が若葉町に移転し、十一月例会は雨でしたのに、清六さんはご自身撮影の「イギリス海岸」の全写真百枚の内の四十余枚をご持参なさいました。その夜の感動は今も忘れられません。

 

 また愚息が高校二年のとき(一九七八年)高校文化祭で、宮沢賢治とルイス・キャロルを対比させ「イーハトーブの国のアリス展」の展示を行い、小冊子にまとめたものを清六さんに見て頂いた際は、「面白い研究ですね、これからも続けてください」と励ましのお言葉をかけて下さいました。

 こうした清六さんの、いつも相手を思いやられての温かなお言葉は、いわば賢治精神の具現化でありましょう。

 思い出すたび、清六さんの温顔とお姿が浮かぶエピソードの中から一つ。

 一九七五年ごろか?吹張町の道でばったりお目にかかったことがあり、ご挨拶申し上げると「また遊びにおでんせ」とおっしゃり、「ありがとうございます、でもお忙しいでしょうから私など…」と遠慮すると、「なあに、忙しぶりしているだけです」とお笑いになりました。そんな筈はないのに、気を遣われてのお言葉に、私はただただ恐縮したのでありました。

宮沢清六さんを偲んで

風間  効(埼玉県)

 清六さんに初めてお会いしたのは昭和四十九年夏のことだったと記憶する。教育系通信大学の卒業論文を取りまとめるために、賢治関係の取材で花巻を訪れ、羅須地人協会跡から駅に向かう途中で、漸くその家を見つけて寄せて頂いた。初対面だというのに門まで出て、気軽に挨拶や世間話の相手をし、玄関まで通して呉れたのだ。玄関から直ぐの板座敷だと思うが、そこで、私のぶしつけな質問に優しく答えられ、懇切丁寧に説明して下さったのだ。そのとき、この人は誰彼と隔てなく対応し、誰にでも親切な心やさしい人だと感じた。それが今でも鮮明に蘇って来る。

 宮沢家は祖先からずっとこの土地に住み、この家で生活していたのだろうか。賢治も祖父母や父母・弟・妹とともに住み、遊び、学校に行き、農学校の教師になり、詩や童話を書いていたのだろう。そう言えば、賢治の病床はこの奥の座敷にあったが、二階に移り変わることになった。最後の祭の日にはこの玄関から表通りに出て、見物していたのだろうか。様々に想像しながら、この家で生活し、星を眺め、創造し、書き綴る元気な賢治がそこにいて、今、現実に会えたような気がしていた。帰りには記念に制作したというお土産まで頂いた。「雨ニモマケズ」の書かれた、小さな巻物二つだった。

 その後、いくつかの質問に手紙で答えて下さった。昭和五十一年九月のハガキには賢治の作品や生き様等の議論・判断について、「すべて、時間と場所をきめてから、作品でも態度でも論ずるのが正しいようです」と、また、作品の宗教性については「特に信仰の強く見えたときも多かったということです」と、大変参考になるアドバイスやご意見を頂いた。清六さんにはかなりのご迷惑をおかけしたと思いますが、生前に有名な「野に立つ賢治」を表紙にした「理想の教育」という自著本を贈呈できたことは、せめてものお返しになるかとほっとしているところです。

比叡のお山に、清六さんの歌声

駒井 佐一郎(京都府)

 「出でしは、うららの、花咲く春び……V」平成八年十月十三日「賢治生誕百年、父子参詣七十五周年記念パーティー(延暦寺主催・関西・賢治の会(会長平沢農一)共催」の席で清六様は「賢治が此処に居れば、堅苦しい挨拶なんか止して、歌でも歌え、と云うだろうから、賢治とトシから教わった歌を歌います」、と九十二才の御高齢とは思へぬ、声量と美声で歌われたのです。(ドイツ民謡「モミの木」の替歌か?)

 清六様の生の声、生の姿なんて、関西に住む賢治ファンには滅多にお目に掛かれ無い事で、私は歌われている、清六様の両脇に、賢治さんとトシさんが、寄り添っておられる様に感じました。その昔三人でよく歌われたのでしょうね。この歌をテープに録らして頂きましたので後日正確な歌詞と歌われた意図をお伺い致しました所、数日してお返事を頂き多忙な上、眼を痛め、返事が遅く成った事のお詫びの一言と共に歌詞の一部を訂正して下さいました。お眼を痛め乍らも、私の薦めにご丁寧にお返事を下された律儀さ、と優しさにただただ頭が下がり、申し訳無さ、とありがたさに、これ程感激した事はありません。

 このテープを昨年関西・賢治法要で皆様に聞いて頂きました。関西に賢治さんを更に深く根付かせた、清六様の歌声は増々大きく成って、比叡に響くでしょう。

 関西の賢治ファンの方々、毎年九月二十一日には根本中堂前で賢治法要が行われて居ます。法要と共に、清六様の歌声も聞きに来て下さい。

 想いは尽きません。 「兄のトランク」に直接サインを貰った事、潤子様共々写真を撮って頂いた事。 毎年曽孫様との御年賀を頂いた事、等々。 でも毎年比叡山でお目に掛かれます。

清六さんを懐かしむ

佐藤  成(宮城県)

 憶えば二十年ほど前になる。私はかつて賢治が教師として四年四ヶ月をすごした花巻農学校の後身、花巻農業高校に勤務していた頃のこと、清六さんに一枚のレコードを差し上げた。昭和五十六年(一九八一)秋のことであった。

 それは賢治作詞の「精神歌」「応援歌」並びに「黎明行進歌」を収録したドーナツ版である。賢治がはじめて出版した『春と修羅』になぞらえて一千枚を限定、製作を「ビクター」の会社に依頼したものであり、歌唱は二期会準会員伊藤泰子さん、伴奏は作曲・編曲家シンセストの星吉昭さん、そして録音は赤坂スタジオ、ミキサーカドワキツトムさんの三方を煩わしたものであった。

 ところで此のレコードを大変喜ばれた清六さんはその後、数十枚を求められ私の自主企画製作を支援して下さった。そしてまた、こう言われた。「これで精神歌の論争も結着されたようでがんすぢや」……。

 この事は精神歌の曲について、藤原嘉藤治さんは四分の四拍子だと主張し、沢里武治さんは「宮沢先生から八分の六拍子で教わった」とする論である。(レコードは八分の六で作った)沢里さんからはこんな言葉が語られた。「私(沢里)は宮沢先生を神だと思っている。従って神は語れない。しかしこれこそが本当の賢治の精神歌である。」熱のこもったほどばしるような声であった。

 清六さんはまた、私がレコードのジャケットに記した応援歌、バルコクバララゲにこめられた賢治のおたけびを、この様に解釈したいという熱い思いを諒とせられ『賢治研究31』(一八八二・宮沢賢治研究会)誌に推薦して下さるなど、御厚情は数しれないが、このレコードにまつわる出来ごとは今も尚、私の胸の中に色濃く残る懐かしいものの一つである。

清六さんについて

高橋  進(花巻市)

 私は直接清六さんとは話をしたことはない。しかし、私の父が清六さんと小学校の時同級だったそうなので家へ来られて父と話をしているのを見ていたり、父と歩いている時に、氏と街で会って立ち話をし、ついでに私を「息子です」と紹介されたことはある。その時の印象を思い出すと、日本人ばなれした容貌の方だったと子供心にも思った記憶がある。

 大正の頃父の実家には水車があって、精米も家業の一部としていたそうだ。父の話ではそこに清六さんが遊びに来ていた時、急に水車が回りだし、大きな木製の歯車に清六さんが巻き込まれそうになったが、父が清六さんを引っ張り出し、歯車に巻き込まれずに済んだそうだ。万が一それが遅れたら大変なことになっていただろう、と、言ったことがある。

 その頃の小学校の校長は千葉信訓という方で担任は女の先生だったが名前は今は失念したそうだ。他に佐藤先生といい頭が大きいので「権現さん」という綽名だった先生や、照井真臣乳先生という方たちがいたそうだ。

 父は二十代の後半、函館で生活したことがある。そこに行く前の年ぐらいの祭の頃、豊沢町の清六さんの家に行ったら、賢治さんが二階から降りてきて父に声をかけてくれたそうだ、短い絣の着物(寝巻着?)を着ていたようだったとのことである。

 七、八年前、父と話をしていた時、「同級生も残り少なくなり、今は清六さん、高橋文次郎さんと自分の三人ぐらいだけになった。」「『お互いに残った人間が弔辞を読もう』と話したことがある」と言ったことがあった。文次郎さんは平成十二年に他界され、清六さんは十三年に逝かれた。たまたま宮沢家のお許しにより十三年六月一日父が清六さんのお見舞いに豊沢町に行った。その伴で行ったのが私の清六さんをお見かけした最後である。父はこの二月九十八歳になる。




投稿

「日々、賢治と出会うこと」

酒井 早苗(会員 栃木県宇都宮市)

「何と云はれても」朝のどんぐりは琥珀です。さくらんぼはめのうです。月がぼう、とマントを着たり、雲が風を巻ながら天空を目指したり。賢治さん、私もあなたの見た美しいものを見ているのでしょうか。いちょうが散った金色の道を、やわらかな匂いに包まれて歩く時も、あなたを思います。

 赤んぼの髪はふさふさゆれる。子供のほっぺは真っ赤なりんご。賢治さんはみんなの中に、金のりんごをみていたのかな。たくさんの、人の悲しみを見て、無私の心で祈り、ほんの小さなものにも仏性を見ていたあなた。あなたが天上界へ帰っても、その心の力は多くの人に働いて、希望の光となっています。

 私のそばにも祈る人がいます。美しい空気を編みながら、それで誰かを暖めようとしています。賢治さん、私もあなたのように人を愛せたなら、世界はまるで違って見えるのでしょうね。「宇宙には実に多くの意識の段階があり その最終のものはあらゆる迷誤をはなれて あらゆる生物を究竟の幸福にいたらしめようとしてゐる」

 賢治さん、あなたの心は、言葉は、私達の魂を宇宙に満ちている愛の世界へと導いてくれます。もっと私の目を開かせてください。

新聞報道「未投かん手紙」が贋物

栗原  敦(会員 東京都国立市)

 かつて本誌に「戒心、ご注意、ある喚起」(第十二号〈やどりぎ〉、九六年三月)を投稿して、悪意をもって作られた贋物の横行を許さないように、またそのようなものによる被害をお受けにならないように会員の皆さんご注意下さいと記したことがあります。

 ところが、残念なことにふたたび全くの贋物が「岩手日報」二〇〇一(平成十三)年十二月二十六日夕刊(二)面に掲載された「未投かん手紙発見/花巻 死の三カ月半前の賢治/収録全集にない経文」記事中で「賢治の直筆」と扱われてしまう事態が起こりました。ここで、それは宮沢賢治の全集に漏れた資料などではない全くの贋物であることをご報告し、安易な報道に惑わされることのないようお願いいたします。

 新聞の報道に先立ち、十月下旬に一度宮沢賢治記念館に持参されたことがあり、そこでの判断に合わせて、私ども『新校本宮澤賢治全集』編纂委員のもとにも情報が寄せられ、いずれの判断も正しからざる性質のものとしてご返事していたものですが、それが改めて盛岡のほうへ持ち込まれ、賢治直筆であるという扱いとなって報道されたのでした。

 用紙右半分の上に寄せて「雨ニモマケズ手帳」一頁に記されている道場観といわれる句を「雨ニモマケズ手帳」のその頁の筆跡に似せて写し、その左にやや下げて、昭和四十二年版全集第十一巻(昭和四十三年八月刊)での書簡番号「四二九ノ二」(書簡下書き)の末尾を、昭和八年の筆跡とは全く似ても似つかない筆跡で記したというしろものです。現在の『新校本宮澤賢治全集』第十五巻では、慎重に年月日不詳の「不13」として扱っていますが、全集本文での冒頭に「六月五日」とあるのは使用用箋とも関係があります。そもそも書簡下書きを、賢治がここに登場したしろもののような、ちょっとしたコレクターが喜びそうな配置で書くことはあり得ません。

 それにしても、昭和八年の筆跡とは似ても似つかぬ筆跡の左半分の文字には何か訳があるのでしょうか。私の心をよぎるのは、以前に登場した贋物が、非常に雑な出来具合ながらも、ある図録に掲載されていた若き日の賢治のはがきの筆跡を参照していたことです。今度のものも、書簡下書きから写した部分はそういったものを参照して作ったと考えられます。こういう悪質なものが、新聞報道のお墨付きで本物扱いされることの決してないようにと念願しています。

賢治清六兄弟の恩師小笠原氏のこと/長久寺佐藤師のこと

杉尾 玄有(会員 山口県山口市)

 「小笠原敬三という先生をご記憶でしょうか。」そうお尋ねしたところ、清六さんはびっくりなさって、「小笠原先生の名前を聞くのは三十年ぶりで、そんな話をしに来て下さるのは有りがたい」とおっしゃり、「私は小笠原先生が好きでした」ともおっしゃった。一九九一年八月二十四日、私が家族とともに初めて花巻に旅し、宮沢家に参上した折のことである。小笠原先生の長女とし子さん(宮沢とし子さんと同じく本名トシ)が私の恩師故滝沢克己九大教授夫人であって、福岡市にご健在(当時)とお伝えした。すると清六さんが「小笠原先生はたしか原首相とつながりがあったと思いますが……」とおっしゃるので、原敬首相はとし子夫人の大叔父に当たると伺っている旨、申しあげた。

 当日の清六さんの話題は政治家原敬からまた広がって、「賢治が政治家を題材にした作品に『疑獄元兇』というのがありますが、読みましたか」とおっしゃる。白状すれば当時の私はまだ賢治に深入りしておらず、ただ小笠原先生という取っておきの話題一つを頼みに、蛮勇をふるって宮沢家に推参したのであって、『疑獄元兇』という作品名すら知る由もなく、大いに恥じ入った次第。それでも小笠原先生のおかげで清六さんの知遇をこうむり、以後毎年お年賀状を下さり、再訪させていただいたり、賢治について種々疑問にも答えていただいた。ベック著『仏教』岩波文庫ワイド版の一部をカラーコピーしてお送り下さり、大感動したこともあった。カラー筆記具による夥しい傍線が清六さんの反復ご研鑽を偲ばせ、色のちがう傍線で何重か塗りつぶされた文字はカラーコピーでしか読めないのだ。

 高農時代の賢治はある日、せっかく小笠原先生方を訪問して、何も言わないで帰った由。いかにも賢治らしく微笑ましいこの逸話は後に滝沢夫人に伺ったことなので、初対面の清六さんにお伝えできなかったし、その後お伝えしたか記憶がない。一九一八年には首相となる政友会総裁原敬の別邸に小笠原一家は住み、賢治書簡36高橋秀松あて葉書の表書に「盛岡市仁王小路 小笠原敬三様方」とあるので、賢治の親友の一人高橋が一九一七年の一時期、その原敬別邸の小笠原宅に寄宿したらしい。その葉書の末尾に賢治は「[小笠原]先生へどうかよろしく御伝へを願ひます」と記している。そして教え子高橋への愛顧の思いを後年小笠原氏が滝沢夫人に語っていて、その内容(高橋がいかに優秀であったか等)を滝沢家ではまた生前のとし子夫人から聞き伝えている。とし子夫人は幼き日、父上の身辺で高橋ばかりか賢治とも出会った可能性があり、賢治たちを語ることが幼女期や少女期のご自身を語ることでもあったろう。

 賢治や高橋らのグループと小笠原家との間のこういう細やかな交情に注目せねばならない。特に中学・高農の両方で小笠原氏(盛岡中学教諭・高農講師)から教わった「修身」が賢治にどう影響したか、看過できまい。私はなおも滝沢家に小笠原氏関係資料の発掘・発見をお願いしていくつもりであるが、岩手(その後の小笠原氏は全国各地で三十年校長を勤め、最後は岩手医専教授を勤めた)や宮城(高橋氏は名取市出身、名取町長も勤めた)等の方面でも、隠滅に瀕した貴重資料について大方の緊急ご配慮が切に望まれる。

 さて、宮沢家初訪問の旅から帰宅して早速『疑獄元兇』を読んだ私は、これが単に政治家を扱っているだけでなく、短編ながら(かつネガティヴながら)みごとな禅文学となっていることに感嘆し驚嘆した。処女作『〈旅人のはなし〉から』に始まり最終作『疑獄元兇』に至る賢治の禅的素養の核心と来由を問う課題を、事実上私はあの日清六さんから授かったことになる。賢治と曹洞禅との関係が重要なることは賢治晩年の手帳によっても明白であって、伝えられるところの赤い経巻『妙法蓮華経』に遭遇した十八歳の賢治を襲う異常な感動も、同書の巻頭《賛序》の筆者八人中、当時賢治に親しまれたのは道元一人であって、その道元の賛序《法華転法華》の文言に感動したとうけとめてこそ納得がいく。かつ、保阪嘉内折伏にこの《法華転法華》の真髄が活かされた事実はこれを証する(書簡50)。

 しかも賢治幼少期以来、臨済宗長久寺(花巻御田屋町)の傑僧佐藤祖琳師との目立たないが長きにわたる交流も見のがせない。ここに賢治の禅的素養の原点ありと私が気づいた時はもう清六さんの最晩年で、長久寺関係のご記憶・ご推測等何かを清六さんから拝聴できたかもしれないのに、伺いそびれたことは千載の痛恨事である。  

教育について(教師、この宮沢賢治)

中里  賢(会員 岩手県一関市)

 崇拝する宮沢賢治が、花巻農学校ではじめて教壇にたったとき、授業で守るべきルールを三つあげたという。

 その一つ、先生の話を一生懸命聞くこと。
   二つ、教科書は開かなくてもいいこと。
   三つ、頭より身体で覚えること。
 と、いう約束だったという。

 これは、今、四周を見わたし、聞き及ぶ限り、現代の民主主義教育とは、いささか、理を異にし、右脳、左脳の洗礼であり、教育と芸術を融合するものであったようだ。

 だが、ここで考えなければならないのは、戦後の教育が、はたしてどのような役割を担ってきたのか、再考察しなければならないということである。

 けたたましく巨大化され、マスプロ化された現代教育は、詰め込み主義と、マークシート方式により、今、みごとに崩れかけている。

 つまり、○×主義の教育は、一方においては、知識を豊かにし、一方においては、偏差値という名の選別と、トリビアリズムの障害を無差別に、産み落としたことにある。

 さらに、いうならば、現代教育は、融通のきかない無反応さにあり、教師も生徒も、進学率一辺倒の、半製品製造マシンと化さんともなりかねない重大な危機感すら潜んでいる。

 しかし、ここでお断りするが、このことは、学校教育の外野にある者としての見解であり、その是非論を問う範疇にはさらになく、深くお詫びをしなければならないことにもなるだろう。

 かくいう青き高校時代、当時としては実に不思議な教師がいたもので、英語の授業では、毎日を宮沢賢治の「農民芸術概論」で明け暮れた、若き教師の姿が想い起こされるのである。

 その名を哲学者といったが、教師というより、まるで芸術家(アーティスト)風でさえあり、情熱的でもあり、賢治そのものの如く、教室で歌い舞った教師であった。

 それにしても、困惑したのは被害者である生徒であったのだが、師は、そんなことには一向気にとめる風もなく、ひとり授業を独占し、毎日を鳥のように舞い、歌い続けたのである。

 だから、各学期ごとのテストも、より明快なものであり、当然の如くに農民芸術概論など、英訳させられたのであった。

 これは、高校生には無謀と思われるものであったが、いやが応にも、白紙のザラ紙に、鉛筆をなめなめ、なんとか、かんとか全面埋めなければならないはめになった。

 辞書の使用は認められていたから、それこそ、一生懸命に書いた。

 農民芸術概論
、、 序 論 、、
  我らは一緒にこれから何を論ずるか。
  What are we supposed to argue together from now on?

 近代科学の実証と、求道者達の実験と、我らの直感の一致に於て論じたい。
  Here is the argument in accordance with evidence of modern science, experiment of truth seekers, and our intuition.

 そして、かの有名な「……世界がぜんたい幸福にならないうちは、個人の幸福はあり得ない」のたぐいであった。

 There can be no individual happiness until the world comes to entire happiness.

 また、それに付随しての感想を求められたのも、当然である。

 世の中は、奇妙なもので、武士の情けというものか、目出たく九十点の評価、飛び上がって喜んだのはいつもの被害者、高校生の心情としては、想像に絶することだろう。

 師は、今流にいうと、つまり、先公ではなく、分かる先生、話せる先生として、生徒に歓迎され、尊敬されたのである。

 宮沢賢治が世を去り、早くも六十年の歳月が流れた。今、賢治先生の生涯と、わが師が書き残した「支離滅裂」の格言が、偏光グラスの中で交錯するのはなぜであろうか。

 「型破り」の我が師。T・M先生と、賢治先生が、みごとに同化作用したことに、厚く感謝するのである。

 おわりに、花巻農業高校の伝統的な精神歌を皆でハミングしてみたらどうだろうか!

賢治と私の出会い

長山 雅幸(会員 岩手県盛岡市)

 私は盛岡の生まれで、いわば生粋の岩手県人です。とはいえ、実に岩手にいたのは三歳まで、その後、転勤族の父に連れられて、東北地方太平洋側を転々としました。ですが、空気や母の乳を吸うが如くに賢治の精神を身につけたのか、福島で過ごした中学時代は、農業への憧れをもっていました。具体的には、農業試験場での品種改良、しかも東北の寒冷地に強い作物の開発に興味を持っていました。ところが、どう間違ったのか、社会思想史という分野に進み、以来、十九世紀のドイツ、フランスの研究に従事するようになりました。学校を出て最初に就職した先は東京で、そこで約十年を過ごし、縁あって花巻に戻ってくることになりました。

 それまで賢治の作品は、親が読んでくれるものか教科書で読んだものぐらいしか知らないのが現実でした。しかし、「ご当地」ということもあって、単身赴任で埼玉に残してきた一人息子にせっせと賢治の童話を買い送り、埼玉に帰ったときには、布団の中で読み聞かせました。そうして、四十歳近くになって、賢治の精神世界、作品の謎に触れることができ、改めて賢治の世界に感心を抱くようになったのです。

 さて、私が特に専門としているのは、テオドール・デザミというマイナーな思想家です。彼は、フランス南西部のヴァンデ地方のリュソンという町の出身で、これまで生まれた年もはっきりしませんでした。しかし、この度、世界で初めて彼の生年月日を特定することに成功しました。が、「しかし」とは私は思いました。「こんな仕事はリュソンの郷土史家の方がいい仕事ができるのではないか。勿論、この仕事を日本でやることの意義があるとは思っているのですが、私は賢治に目を向けました。賢治が生まれ、学校に通い、作品を書き、畑を耕したこの花巻で地の利をいかした厳密な賢治研究をしようと思いました。しかし、先行研究の多いこと、生資料の多いこと!なかなか先は見えてこないのですが、ぼつぼつと、この花巻ののんびりした時間の中で、腰を据えて賢治研究に励むつもりでおります。





イーハトーブ<語り>学

語る身体、語る言葉―
「虔十公園林」を聞く/読む

安藤 恭子(会員 東京都国立市)

 今年は暖冬で、一週間のうちにほとんどの雪がとけてしまった、友人が主宰する「語りの会」に参加するため、軽井沢に着いたのは三月三日。どのくらい暖冬なのか分かりかねたが、私にとってはさわやかな冷気が心地よい。翌日の会を心待ちに、会場ともなる友人の店で夕食をごちそうになる。石窯で焼くピザにうっとりしているとき、会の「語り部」、川島昭恵さんに初めて出会った。

 川島さんは、六才の時におたふくかぜから髄膜炎を併発し、視力を失ってしまったという。光が少し分かる、子どもの時の記憶があるとのことで、川島は出てきたビールの色を私に尋ねた。「黄金色なんだけど、これはホワイトビールというだけあって、ほんのり白くて…。」という私のつたない説明に、「ああ、茶色っぽさがうすーい感じで、きれいなのね。」と思い浮かべるようにうなずいてくれた。私の説明は、きっと川島さんの記憶と想像力の中で、さまざまな世界の要素と関わり合いながら、熟成、発酵したのだろう。

 翌日の会で、川島さんが語ってくれたのは「虔十公園林」だった。私は、この話を何回読んだか分からない。しかし、今回の語りから、なんと新鮮に宮沢賢治の言葉が伝わってきたことだろう。それも、混沌とした質感としてではなく、明晰で、しかも、有機的な物語の構造がくっきりと浮かび上がるものとして。

 私が、この語られる時間の中で意識し始めたのは、ジュラール・ジュネット『物語のディスクール 方法論の試み』(水声社)だった。マルセル・プルースト『失われた時を求めて』を具体的に分析しながら、先行する物語分析に〈語り〉分析を加え、物語論(ナラトロジー)に決定的な業績を残したこの著作の刊行は、一九七二年。日本語に翻訳されたのが、一九八五年。以来、私が仕事をする近代文学研究の分野でもさかんに取り上げられ、日本語、日本語文学の個別性を意識する視点も盛り込んだ重要な業績が積み重ねられてきた。宮沢賢治の物語を分析するために、私も勉強した一人なのだが、物語論の有効性をテクストの歴史性とともに追求する具体的な分析を、いまだに十分達成したとは言い難い。

 さて、川島さんの語りから私が触発された点を、ここでは二点あげておこう。まず一点目は、〈語り手〉の問題である。この活字テクストの〈語り手〉は、〈虔十が杉の苗を植え、やがてそれが虔十公園林と名付けられる〉という物語には登場しない物語世界外の〈語り手〉である。この〈語り手〉は、登場人物に自由に焦点をあてたり、また、あてなかったりして、登場人物の気持ちを謎のままにもしておけるし、長い時間の流れの速度を自在に速めたり、遅くしたりすることができる。虔十が生前たった一度だけ積極的に欲したものがなぜ杉の苗なのか、そうした個人的な思惑について多くを語らないこの〈語り手〉は、虔十の行為とその結果の不整合(「百姓」が冗談で言った下枝打ちを実行してしまった虔十だが、結果として杉林が子供たちの遊び場となる)を時間に即して語っていく。その一方で、物語に流れる時間の速度は自在だ。平二と虔十との確執を、平二の暴力行為をふくめて十六行語ったその次の行で、確執の当事者である虔十と平二の死をあっさりと一行で語る。さらに、〈虔十の死〉という主人公の退場をいともあっさり宣告した〈語り手〉は、「お話はずんずん急ぎます」と言って、その六行後に二十年の時間が経過したことを語る。そもそもこの〈語り手〉は、「実にこれが虔十の一生の間のたった一つの人に対する逆らひの言だったのです」と未来の情報を盛り込み、虔十個別の物語が、より大きな物語のなかに包み込まれていることを予告していたのである。

 このように、〈虔十の生前の物語〉において〈語り手〉は、個別性を大切にしながらも個別性に拘泥して踏み込むことをせず、その個別には常に先があることをたんたんと示唆し続ける。そして、〈虔十の死後の物語〉に受け渡された後半にいたって、人知にははかりがたい〈十力の作用の不思議さ〉という大きな物語がすべてをつつむものであることを明かすのである。

 こうした物語の構造自体についての指摘は、ことさら言うまでもないことかもしれない。しかし、重要なことは、川島さんという生身の身体から伝えられる言葉が、「 」付きの個人の言葉の再現部分と、大きな物語へと導くいわゆる地の文の距離を的確に取り、時間の経過を甘さに流れず実にあっさり語ることで、個を越えたより大きな時間の流れを常に導き出していたことだ。このことが、私が触発された二点目、方言をどう語るかにつながることである。

 「虔十公園林」は、いわゆる地の文が標準語、〈虔十の生前の物語〉の会話が方言、〈虔十の死後の物語〉の会話が標準語で語られている。生身の語り手が音声でこの言葉を伝えてくるとき、方言の質感と標準語の質感をどういう距離として示していくかが、物語の世界を構造化するポイントになると思われる。その際、方言が、「正確な」方言である必要はひとまずない。その土地の息づかいによって、発見される新たな世界は確かにある。しかし、ここで重要なことは、大きな物語を導き続ける地の文が標準語であるということと、前半の個別の会話が方言であることから生ずる距離が、時間・空間をどのように分け、構造として物語を作り上げているかということだ。先に述べたように、テクストの〈語り手〉は、語る出来事、登場人物との距離をとり続けながら、それらを大きく包み込む世界の表象をなしていた。その距離の意味を語ることに、生身の語り手である川島さんは成功したからこそ、個別の生と大きな時間の流れが、生きた時間として私の身体に流れたのだろう。

 会が終わってから、川島さんに方言をどうとらえたかをうかがってみた。東京出身の川島さんは、特に方言を勉強したことはなく、方言で語られている東北出身の方のCDを聞き、その土地の言葉から想像された物語の世界に触発された経験があるという。しかし、自分がそれを真似ても中途半端で、何が伝わるのだろうと思った川島さんは、賢治の物語が好きだと感じる自分が、言葉という道具を使って、いかに心を伝え、世界を作れるかを考えたという。語り手が受け取った賢治の世界を、言葉でどう構成していくか、この問題は、言葉一つ一つの特性をとらえながら、言葉と言葉とがどういう距離をもって世界を形作っているかを知ることにつながるだろう。川島さんの語り観は、私が川島さんの声から受け取った「虔十公園林」の感触を説明して下っていて、とても参考になった。ちなみに、声優の先生について勉強したことのある川島さんは、「声を作るな、キャラクターを作れ」と言われたことがあるそうだ。後半の博士や校長の標準語も、そうして作った人物の発話として、同じ標準語でも地の文の標準語との距離を作っていたわけだ。もちろん、なぜ地の文が標準語であるのかという問題もふくめ、標準語をめぐるテクスト外の歴史的な問題がここには関わってくるだろう。

 気の流れ、匂い、触感、音、かすかに感じるという光、そして人が生み出す言葉。それらを総合し、語りの世界を生み出す川島さんの身体。そして、今は活字テクストとして紙の上に定着している賢治テクストの、多様な感覚にうったえつつ、あくまで言葉で何かを伝えようとする〈語り〉の世界。 聞く/読むという体験から、想像力=創造力の大切さをあらためて実感することができた、素晴らしい出会いだった。





テクスト・クローズアップ(21)

〔フランドン農学校の豚〕〔初期形〕

杉浦 静(会員 埼玉県草加市)

 『新校本宮澤賢治全集』は、頁を繰ってゆくと所々に〔一字難読〕〔数文字不明〕という箇所が出現します。他の個人全集で、こんな表記が出てくるものは珍しい。こんなところが、校本全集を引き継いだ新校本全集の特徴のひとつです。このような表記は、校異篇に多く本文篇にはあまりないが、でもやはり何箇所かあります。賢治さんの残した草稿のうち、全集の編集者が読めなかった文字がこれらの表記となって現れています。〈読めない〉には二種類あって、一つは、消しゴムで消されていたり、墨で抹消されているものです。校異篇に現れる多くは、このタイプです。次回の全集では、光学器械の利用などで、読めるようになると思われます。もう一つは、賢治さんが発表を意識しないで自分なりの崩し方で綴ったり、走り書きしたために読めなくなってしまったものです。こちらは、字の形ははっきりしているのに、判読できない。推定して読んでしまう全集もあるようだけれど、新校本はそのまま読めませんでしたとしています。校本にあったこのような例のうち本文篇にあったものは、他の草稿から類似するものを探して比較するなどして、ほとんどを解消できたのですが、ここに掲げた「フランドン農学校の豚」〔初期形〕のこの文字は、読めないまま残ってしまったものです。

 この箇所は、最終形に至る推敲過程で手入れされて差し替えられてしまうので、校本以前には本文に採られていませんでしたので、お気づきになっていた方は少なかったかもしれません。

  助手はのんきに口笛を吹いて時々ピシッとやりながら〔 〕てあとからついて参りました。

 こういう箇所です。ここは文脈からは「立て」(たって)と読みたいところですが、賢治の地の草稿で「立」をこのようにくずした形はありません。そのほか、この形に似た字は、なかなか見つからないのでお手上げです。





セミナー報告

地方セミナーin戸隠 二〇〇一年八月二十五日・二十六日

山本  瞳(ものがたり文化の会)

 主管者「ものがたり文化の会」は、幼児から社会人迄の広い年齢層の若者達が週一回のパーティ活動で、賢治童話の世界に人体交響劇という身体表現で接近している活動グループで全国に散在している。(一九九五年イーハトーブ賞受賞)

 一八八二年故谷川雁の主宰で始まったが、二十年目を迎えた記念行事に、長野県戸隠村中社で地方セミナーを誘致したのは、この地が毎夏小五以上の少年少女たちが若者のリーダーとともに三泊四日の合宿を組み、賢治童話から一作品を選んでその世界を身体表現活動で存分に楽しみ発表会に迄こぎ付けるという活動、いわば魂の洗い場でもあったからである。セミナーのプログラムを考えるとき、次のようなことを話していた。私達の活動の基本が賢治童話の身体表現活動であってみれば、賢治の作品に内在する身体感覚を深く知りたい。それは今崩れかけているこの社会のこども達の身体の危機を日々感じている自覚からであり、さまざまな姿の賢治の風と交わる示唆を得たい。二つめは賢治童話の世界の底流をなす風土、敗滅の「村」の姿は、現代の私達のまわりに姿をかえて忍び寄っている影でもあるが、その自覚のなかで賢治童話に潜む遊戯性をもってその影を穿つ現場を勇気づけたい。そして三つめはこの合宿で表現を作る「洞熊学校を卒業した三人」を見て頂いて、こども達が賢治と遊ぶひとつの姿を問いかけてみたいということであった。以下紙面の都合上万全ではないが、二日間のセミナーを要約で報告する。(会場は宿坊「極意」)

 講演一 「宮沢賢治という身体」
斎藤孝さん(明治大学文学部助教授)

 斎藤さんは、自分の技を確実に増やすことで身体、感情の開放ができるという身体論の立場から「想像力も技である。あるものとの出会いに触発されて想像力はかきたてられるのであって、賢治は膨大な読書によって知性を高めそれで想像力が高まり感覚が敏感になっていった。賢治の詩における心象風景は、風景写真のような静止画でなく、凄く速い歩きの連続で風景が変化し、その変化のなかに自分をとけこませるという意識的な技化のもとで生まれたのである。速い歩行という基本的なことを技にして外界との出会い方の変化を多くしていったといえる。臍下丹田に中心を置いて立てば呼吸が深くなり、肩のちからが抜け、結果外界に向かって開かれる姿勢になるのが自然体であるが、それは古来日本人の常の姿でもあった」と述べられ、次いで人体交響劇のこども達の表現の現場を見ての指摘として「ただ演技するのでなく自分たちでマネージメントしながら表現を作りあげる過程で鍛えられる力は大きい」また人体交響劇の聴覚班の表現を見て、「物語のある場面の思想、感情を一旦自分のなかにいれてそこから自分ならどういう風に立ち上げるかを表現するという高度な作業をやっている。知性と身体感覚のズレを生きてみろというわけで、賢治は徹底的に勉強することと身体感覚を磨ぎすます事を矛盾なしに増幅していったのだが、このグループが表現するズレの深さを味わってみるのもおもしろい」と次の日の発表会に期待を語った。

 講演二 「風土の中の宮沢賢治」
赤坂憲雄さん(東北芸術工科大学教授)

 冒頭に真壁仁「修羅の渚」を紹介、真壁仁が賢治を聖者にして崇めているイメージ操作に異をとなえている事に触れ、賢治がエロス・性をきちんと見つめていた例示の著述に出会いご自身も共鳴、賢治の中のエロスとか性というものを消してしまうことはある意味で今のこども達を追いやっている社会のちからと似ているかもしれないと考えるし、賢治のなかのエロス・性というものをきちんとあらためて語ってみたいと述べた。次いで、今日の賢治的主題とは何かと問いを立てるとき、「賢治の作品の底に横たわる東北の飢餓の風土について語ることの重要さを述べた真壁仁に自分は共鳴する」と述べ、『注文の多い料理店』九篇の物語の舞台が森と野原と畑の世界で、稲を作ってはいない事を指摘、それが何を意味しているのかを次のように話された。「賢治は自らの物語の底に東北の原風景的なものを沈めながらもそれは過去へのノスタルジーではなく、その終末の訪れを予感しながらイーハトーブという幻想的な未来に向けて身を投げ出そうとしている。風土を知らずに賢治を読まなくてはならない時代がすぐそこまできている現今にあって、ケガチの風土からの救済が稲作で西や南の日本に同化することにあるのでなくイネからの呪縛をといて、一万年の時間を宿した東北を丸ごと肯定することでイーハトーブへの道筋が見えてくるのではないか、そうした風土から生まれたはずの賢治の作品について語り直すことができるのではないか」と結ばれた。

 夕食後、人体交響劇の練習風景を見学、その後各地から報告、出しもの等の和やかな交流会で第一日目終了。

 二日目は「戸隠代々神楽」を戸隠神社で奉納。氏子の方々が代々伝えてこられた戸隠の風土に思いが走った。朝食後体育館でものがたり文化の会の人体交響劇「洞熊学校を卒業した三人」の発表を見て、昼食(戸隠名物の蕎麦)。

 午後は前日の会場でシンポジューム「今こども達は賢治と遊べるか」を開催。萩原代表理事 鹿川理事 ものがたり文化の会から田代 根本 伴の各氏と会場の皆さんとで、午前の発表を見ての感想等も含めて話しが弾んだ(司会は伊佐氏)。

 非日常空間を想定してその中で自由さを獲得するというのが遊びの精神であり演劇であろう。その遊びの空間では自発的ルールに拘束されてそれを一生懸命やるというのが遊びで、それが目的であって別の目的にすり替えられるものであってはいけないと思う(鹿川)に続いて、賢治の物語の中で遊ぶ現場のこども達との活動の体験が話された(田代 根本)表現活動に入る前に、作品に対しこども達の好き嫌いから始まって、実際の生きものの姿、又植物の定点観測を交えての観察することから見えない世界を見る目が育まれる活動現場のきめ細かな取り組みが語られ、また午前の「洞熊学校を卒業した三人」の表現のリーダーたちから、一人一人違うこども達が気持ちを段々にわかり合って家族の雰囲気になってゆく中で表現が出来上がってゆく状況を報告。ついで賢治の物語を身体表現することは一種のバーチャルな体験ができること、それは人間同士でなく普段目を向けないようなものになって遊んでみることができることで、それは自分を外から見る体験ができる。普段の生活が昔と比べてずっとルーテインのまま過ごしているような社会にあって、非日常的な刺激が入ってきて自分はなにものかというのを一歩引いてみるという感覚を身体表現という遊びの中で養うことができるのではないか(伴)と発言がありそれに対して会場から、この活動は自分を発見しようとする旅ではないか、思春期になって自分がわからなくなる時があるが、この活動のなかで自分以外のものから自分を見るという訓練が技化されてきて自分を確認できるのではないか。そういうことに賢治の作品は十分にこたえてくれる(佐藤)と共鳴された。発表を見た感想として、作品をこども達が手探りで資料を集め理解し身体表現に移してゆくというのは素晴らしい文化的教育的表現であるが、それを客観的に舞台の創作としてみる場合とではかなり評価が分かれると思ったと発言されていた鹿川氏が結び近くに「この活動を二十年やってきたということだが、二十年やってくればもう本もの。リッチー・ベルガーの言葉『文化とはそのものの表現のみごとさでなく、それを支えた人々のみごとさである』を引いて、マスコミ等の商品化にのることなく、遊ぶこと、苦しむことに徹底してほしい」と述べられ、次いで萩原代表理事が「地方セミナーはそれぞれの地域でしかできないことをやることだと常々思っていたが、そのことが実感できた地方らしいセミナーになった。身体表現を通じて教えてくださったことが具体的で嬉しかった。ありがとうという言葉でお返ししたい。又、何かになればいつでも何かになれる自分のからだがあるという喜びを大人に与えてくれたことにお礼を申し上げたい」と会を結ばれて終了した。

地方セミナーinセンダード
二〇〇一年十月二十七日

渡辺 仁子(会員 宮城県仙台市)

 三年前にできた仙台文学館は、街なかの森林公園の一角にあります。二十一世紀の幕あけとなった昨年十月二十七日、ここを会場に宮沢賢治学会の地方セミナーが開かれました。

 仙台は賢治にとって、都会的で文化の香りを感じさせる街でした。幾度となく足を運び、東北帝大付近の古本屋や丸善、レコード店などを歩いています。作品にはセンダード市の名前もみられるほどです。

 宮沢賢治に関心を寄せる人は、仙台にも大勢います。学都ですから研究者も多いし、花巻へは日帰りで行ける距離なので、大人も子供もそれぞれのやり方で賢治作品に親しんでいます。地方セミナーを仙台で、となってどういう風の吹き回しか、突然私にとりまとめの役が回ってきました。「みやぎ親子読書をすすめる会」と「宮沢賢治を読む会」の方に声をかけ、実行委員会の形をとって、月一度の集まりで準備を重ねてきました。

 開会あいさつで佐藤通雅さんは、賢治が仙台に定住したいという意志を持っていたのでは、と言及。代表理事の萩原昌好さんはゆかりの地センダードでの開催に期待をこめ、世界中がイーハトーブであれ、と話されました。

 午前の部は会の代表を務める佐藤成さんの「賢治と宮城」と題したおはなしと写真家・佐々木隆二さんのスライド「風の又三郎」の上映。佐藤さんは盛岡高等農林に学び、岩手の教壇に立ちながら賢治を研究。賢治記念館に勤務後、仙台に居を移してからは宮城との関わりについて調べています。チラシや資料づくりに大活躍の佐々木さんは「賢治が歩いたみやぎ」の写真もロビー展示し、好評でした。

 中地文さん司会による午後の部は、宮城大学教授で宇宙物理学者の佐治晴夫さんの講演でスタート。「銀河体験」と題し、ご自身が賢治をどのように理解したかという立場からのお話でした。ウィーンにいたとき「銀河鉄道の夜」をドイツ語に訳して講義していたとのこと。また仙台出身の小学校の担任から「風の又三郎」を学び、八十を過ぎたその先生と再会した折「君は風の又三郎だね」と言われたというエピソードも含めて楽しくお話くださいました。後半の菅原千恵子さん(富山市在住)は宮城学院女子大学に学んでいた頃から賢治研究に取り組み、数年前に出した『宮沢賢治の青春』で保阪嘉内との友情と訣別を描いて注目を集めた方です。今回は賢治の妹トシに焦点をあて、近代女性問題にもふれてのご講演でした。

 今回のセミナーのテーマを私たち賢治・センダードの会では「未来へのまなざし」と決めていました。世界に賢治精神が広がってほしいという願いをこめて。そこで『注文の多い料理店』の序文を外国の方々に訳していただきました。中国語、韓国語、英語、ドイツ語、エスペラント語に留学生の方々が一生懸命に翻訳し、真剣な眼差しで朗読する様子に会場からは盛大な拍手が送られました。

 夕方まで中味の濃い一日でしたが、もうひとつ特筆すべきは、陸羽一三二号のおにぎりが昼食に付いたといことでしょう。仙台市沖野で農業を営む菅田重利さん提供の新米で参加者二百二十名は、その味をかみしめつつお昼をいただいたのです。秋晴れのセンダードの森に「雲からも風からも/透明なエネルギーが/そのこどもにそそぎくだれ……」という賢治さんの声が確かに聞こえた、もうどうしてもこんな気がしてしかたないのです。

地方セミナーin雫石・小岩井農場
二〇〇一年十一月十日・十一日

関  敬一(実行委員会事務局長)

 「二〇〇一 牧場の風と光と星のまつり、、宮沢賢治と岩手山麓、、」、何とも欲張った行事の名称であった。地方セミナーを開催するに当たり、あわせて賢治が愛してたびたび訪れた岩手山麓とりわけ小岩井農場周辺の風光を存分に味わってもらおうとセミナーを含めた行事全体をこう命名したのである。やはり賢治愛好の方々にとってこの地域の知名度は高く、事前申し込みの参加者は北海道から九州までおよそ一〇〇人、それに当日参加者と地元民を含めて約三〇〇人がセミナー会場を訪れた。

 星のまつりは十一月十日(土)と十一日(日)の二日間、雫石町を中心に開催した。一日目の十日は地方セミナーとして町立中央公民館ホールを会場に研究発表と記念講演、パネルディスカッションを行った。研究発表Tで岩手県立大学の米地文夫教授が「賢治の自然観・災害観、、”化物丁場“ を中心に、、」のテーマで、短編「化物丁場」を題材に作品の生まれた背景と賢治の自然観、災害観について考察し、「賢治は自然災害の脅威に対して普通の人と同じように、またはそれ以上に鋭い恐怖感を持っていたと考えられる。それが関東大震災によって表出し、『化物丁場』や『風景とオルゴール』の連作がつくられた。」「しかしやがてそれは無常観へと至り、文語詩『化物丁場』の中に人間の自然の前での無力さや人間の営みへの無常観を表現したのではないか」と持論を展開した。研究発表Uでは秋田県立秋田東高等学校の榊昌子教諭が詩集「春と修羅」第二集の中から、純粋な会話体を保った希有な作品とされる。「三三〇〔うとうとするとひやりとくる〕」を題材に賢治の会話詩の魅力を探った。榊氏は「大正六年十月の『柳沢』の世界と、大正十三年十月のピクニックの幻聴とがブレンドされると、雅と俗、自然と人事、文語と口語に漢語やドイツ語が綯い交ぜになった、岩手山麓の晩秋のエッセンスのような会話詩が誕生した」とし、「賢治の文学では、ジャンルを問わず、あちこちで魅力的な会話が交わされる。『注文の多い料理店』、『やまなし』などが代表例である。」と紹介。「世にケータイなるものが普及した今日、猫も杓子も電波を介してのおしゃべりに余念がない。中には緊急事態に役立つ時のあろうけれど、公共の場で、聞きたくもない浅薄な会話を毎日聞かされている身としては、賢治の会話詩の爪のアカでも煎じて飲ませたいことしきりである」と結んだ。

 記念講演で明治学院大学の天沢退二郎教授が「宮沢賢治と岩手山麓」と題して賢治の想像力にとっての岩手山あるいは岩手山麓を最も端的に表している作品としての「狼森と笊森 盗森」、「気のいい火山弾」、そして四行からなる詩「岩手山」の三つの作品を比較しながら賢治の作品世界に迫った。この中で天沢教授は「狼森と笊森 盗森」の一節を取り上げ、「短い文章でしかも具体的な言葉であらゆる植物や何千年も何万年もの時間、四季を表現していることは驚くべきことだ。」と賢治の文章表現の素晴らしさを紹介した。

 午後からは「『グスコーブドリの伝記』を中心にした火山との共生」をテーマにパネルディスカッションを行った。コーディネーターは賢治研究家の吉見正信氏、パネリストは秋田桂城短期大学の宮城一男学長、小岩井農場展示資料館前館長の岡澤敏男氏、岩手大学工学部の斎藤徳美教授、県立花巻農業高等学校の阿部彌之教頭の四名。岩手山の火山活動が活発化している中、賢治作品「グスコーブドリの伝記」の内容を中心に、地質学、文学、火山学、農業にそれぞれ精通しているパネリストたちが持論を展開した。

 セミナー終了後、会場を小岩井農場に移して星のまつりの一環である「牧場でティータイム」を楽しみ、夜は宿舎やまきばの天文館で賢治談義や星空観察でひとときを過ごした。

 翌十一日朝は、小岩井農場に初めて建つ賢治詩碑の除幕式を挙行、展示資料館に程近い式場に関係者・一般約二五〇名が集まった。詩碑には長編詩「小岩井農場」パート一から「すみやかなすみやかな万法流転の…」のくだり四行を刻んだ。午前十時からは事前申し込者二百人がバス四台で「小岩井・滝沢コース」「小岩井・盛岡コース」の二手に分かれて賢治作品ゆかりの地を巡るエクスカーションを行った。

 星のまつりの二日間、雫石地方は奇跡的というほどの晴天に恵まれ、参加者は澄み渡る青空に聳(そび)える岩手山麓で賢治文学の原風景を楽しんだのであった。

冬季セミナー講演(要旨) 宮沢賢治と草野心平
二〇〇一年十二月一日 花巻市民の家

北条 常久

 本セミナー初日は、昭和八年宮沢賢治追悼会ゆかりの建物「旧花巻町役場」(現花巻市民の家)を会場に開催されました。お一人目の講師・佐藤進さんからは「時の流れに 高村光太郎、宮澤賢治、花巻共立病院」をテーマに、当時の貴重な映像資料をもとに解説いただきました。残念ながら紙上での再現ができませんので、ここではお二人目の北条常久さんの講演要旨の掲載のみとさせていただきます。

 私は詩心がなく、草野心平とは物の考え方も反対の方なんです。では、なぜ僕が「草野心平と宮沢賢治」なんてことをやるようになったのかと言いますと、私は心平のふる里の福島県のいわきという所の出身で、草野心平は、磐城中学で、私はその後輩にあたる、磐城高等学校。

 さて、草野心平記念文学館製作の年表によると、大正十三年八月(二十一才)、広州への途次、塙菊に会うべく水戸で下車。その折、磯原で静養している山村暮鳥を訪ね、広州に帰ってのち磐中時代の後輩佐々木(旧姓赤津)周雄(当時日比谷図書館勤務)から宮沢賢治の『春と修羅』が送られてくる。一読瞠目する。とあります。

 草野心平はですね、平から少し国鉄の駅で行くと二つほど、小川郷という所の出身なんですが、そこから磐中へ通ってまして、大正八年に四年生で中退して東京の慶応の普通部に行くんですけども、そこも中退。続いて、中国の広州にある嶺南大学に入ってしまうんですね。大正十一年には行ってしまうんです。そして大正十三年の二年目の夏休みに、先ほどの記事になるわけで、帰ってみると磐城中学の後輩の赤津周雄から『春と修羅』が送られてくるわけです。それを読んでビックリして、手紙を書くんですね、花巻の宮沢賢治に。『銅羅』というガリ版刷の同人雑誌を出すので、お前も同人にならないかという事を賢治に呼びかけると、賢治は分かったと言って小為替と作品二つを送って来たわけです。それで賢治の詩を心平がガリ版刷りに刷って『銅羅』という雑誌を発行することになりますね。『銅羅』という雑誌はだいぶ続きまして、賢治はそこの常連になるんです。ところが、そこに入っていた連中は、高橋新吉とか黄瀛とか坂本遼とかいるんですが、そういう連中は一応注目されて詩の評が出たりするんですが、賢治だけは全然出ないんです。「永訣の朝」もその中の一つなんですよ。誰も「永訣の朝」を注目してくれないんです。

 賢治とはそのような関係でいるんですが、ここで(花巻市民の家)一周忌追悼会をやった時、心平と吉田一穂とが仙台に降りて、尾形亀之助を連れて、三人でここで講演会をやったという事です。というのも、賢治のお葬式の際、心平は金が無く、光太郎がつくってくれて、お前が一番行った方がいいと言って、宮沢家に行って挨拶をしたと言うんですが、宮沢家の人は詩なぞわからない。それで男気のある心平にすべて相談するようになる。それで、宮沢家は心平を頼りにして追悼講演会にも来てくれと、そして、何か本を出したいと、追悼号を出す等を全部心平に依託するようになっていくわけです。ですから心平がもしもいなければ、勿論、賢治のことですから、後々有名になったと思いますけれどもかたちが違っていただろうと思います。

 このテープは赤津周雄のお姉さんの録音テープで、心平への思い出話です。(録音テープ流れる)  平の店が倒産して、周雄ほか皆東京に出て、そこに心平が酔っぱらって、今の話だと電信柱から上って入って来たなんていうのは心平らしくて、そして、上海に帰る時に送っていったというんですね。そうするとこれは明らかに大正十三年の事なんですよね。大正十二年は磐城の平で付き合っていたわけですから。大正十三年の夏休みに、東京に心平が来て、日暮里に住んでた赤津一家の所に来ては、まぁ、遊んでたということです。この大正十三年に賢治の『春と修羅』は刊行されております。しかしながら誰も認めなかった。それを赤津周雄が日比谷図書館にいた為にそれを見つける事が出来たんだろうと思います。そして、それを送ったんでしょうが、もしもですね、赤津周雄が文章の才能が無くて自然に興味などもてない様なそういう人間であれば『春と修羅』という詩集を送る事は出来なかったんじゃないかと思うんです

 赤津周雄は、賢治の様に二極明と暗の修羅の部分を、修羅だとは言えなかったにせよ、その霊気、霊感を感じる自然と、それに相対する混沌たる社会というものについて、おぼろげながらも詩とか文学の世界で追求していくもんだというふうに感じ取っていただろうし、それは、謄写版を刷りながら、あるいは日暮里の二階で語り合いながら、草野心平の中にそれを感じ取ってたからこそ、その沢山の詩人の中から賢治の詩を送る事ができたのではないかなというふうに思うんです。宮沢賢治の詩を発見したのは詩人ではなくて素人なんですよね。ここがすごく大きいと思うのです。

 そして、これが日本の社会の中でもしも草野心平が『春と修羅』を読んだならば私は一読瞠目するという感動を得てなかったんじゃないかなと思うんです。彼は『春と修羅』を、広東デルタの草地の上に仰向けに寝転がって読んだそうです。私も嶺南大学を訪ねて行きましたけれども、嶺南大学の大きな草むらの大地の中でひっくり返って読むのには時空を越した四次元の世界の詩はぴったりじゃなかったかなと思います。そして赤津周雄もその大地、新天地で読んでくれることを願って送ったんだろうというふうに思います。

 心平の詩友・黄瀛が今なお重慶におります。一昨年の夏日本に来たんですけど、それはお母さんの出身の千葉に文学碑が建ったもんですから、それのオープンで来たんです。私もそこでもまた会いましたけども、僕は草野心平の詩の、あのヘンテコな擬音が、中国の詩の影響があるんじゃないかなと思って、黄瀛にそれを聞きたかったんですが、何も無いね、中国語の影響とか中国の詩の影響はね、心平にはね。じゃあ、心平は一体中国で何を学んでたんですか。と聞いたら、友情だね、と一言で終わりでした。多分、心平はですね、本当に磐城の連中がびっくりするような道楽者なんですけれども、魂は清くて、いや清くないからかな、賢治にひかれて、そして賢治を男にしたんじゃないかなと思います。

 最初の、死んで一年目で、もう、「文圃堂」という所から全三巻の全集が出ています。これは地方詩人の無名詩人としては、もう早過ぎる程早いです。その後、十字屋からも出ます。これも心平の力で、その後、筑摩から出るのも、これも心平の力です。心平が筑摩の新修の別巻の宮沢賢治研究を編むわけですから、心平抜きには賢治は多分語れないと思いますし、この関係というものを、一つ一つの詩を丁寧に重ね合わせていく様な研究というのはそう沢山無いわけで、今後、賢治は心平を通しても広がって行くだろうと思います。

(本要旨の文責は事務局にあります。)

冬季セミナーシンポジウム 初期賢治研究の再検討 二〇〇一年十二月二日

宮沢賢治イーハトーブ館

 本セミナー二日目は、栗原敦さんを司会に、四名のパネリストによるシンポジウム。内容は質疑応答も含め多岐にわたりましたが、ここでは各パネリストの緻密な資料を駆使した最初の発表の、ほんのひとこまを紹介いたします。

大沢 正善

 草野心平は、賢治の心象スケッチをカメラ・アイという言い方で捕らえて、その才能を高く評価し、世界的に通用するというような言い方をします。これは賢治の才能が高いというだけではなく、その独自性、別の言い方をしますと、単独性というような事を評価している様に思われます。この時期心平は、あるエッセーの中で、現在の詩壇ではエピゴーネン(亜流)が幅を利かせている、と書いています。逆から考えますと、賢治は偉大な才能をもっているというよりは、エピゴーネンを寄せ付けない単独者であるというようなかたちで読み直せるかと思われます。心平自身もエピゴーネンのいない独自な詩人としてありたいという思いがあった様で、心平のことをアナーキスティックな詩人としてとらえる可能性も生まれてきます。そこを踏まえますと、興味深い賢治紹介が昭和二年の「二月六日」にあります。

 その中で「岩手県で共産村をやっているんだそうだが」と書いていますが、他に「宮沢農場」というような言い方もしていたようで、羅須地人協会を単純に称賛した、伝説化したと受けとられがちです。しかし、それは当時心平がまきこまれていたアナ・ボル論争のさなかの発言であり、賢治の単独者としての活動を、政治主導のボルシェヴィズムではなくて、協同組合などに立脚するアナルコ・サンジカリズム的なかたちで紹介しようとしたと見るべきでしょう。初期の宮沢賢治の紹介やら評価も、当時の社会的状況、政治的状況の中で再検討する時期に来ているのではないかと思われて、このような発表をさせて頂きました。

平澤 信一

 このセミナーの場で『新校本全集』の資料篇はどういう点が新しいかということをもう一回確認しておくと、生前批評がだいぶ増えています。例えば「二月六日」という資料自体が、旧校本には無いものです。これまでは、『歴程』創刊号に遺稿作品が出るなど、宮沢賢治という人が、昭和の代表的な詩人になってゆく過程で草野心平の果たした役割が殊に注目されてきたわけですが、それ以前、伊藤整の回想によって、非常に大きな勢力であった民衆詩派の代表的な詩人・白鳥省吾が宮沢賢治という人にやはり着目していたということは分かってくる。宮沢賢治といえば草野心平というふうに、もう決まったように言われてきているものの、当時、心平よりは有名であった詩人・白鳥省吾が、すでに宮沢賢治について発言していたということが、新校本でいくつかでてきたわけです。

 続いて『新校本全集』を読んでいくと、「『天才人』発刊の挨拶」という岡崎澄衛の文章も加わっています。この岡崎澄衛という人が、宮沢賢治が亡くなった後盛岡を離れて、島根県松江市の病院に勤務するわけです。そこで創刊号に賢治も寄稿している『日本詩壇』という雑誌の編集者の吉川則比古が、松江に行くんだっら近くに安部宙之介という仲の良い詩人がいると紹介。この安部の発行で『森』という雑誌が当時出ていて、昭和九年十二月号に、なんと山陰の、出雲大社のある大社町で、宮沢賢治論が早くも出ており、これは全集のおかげかと思うと、書かれたのは全集以前のことなのです。更に、寺田弘や岡本弥太という詩人らが、岡崎澄衛の関わりでうかびあがってくるのです。

 このように、宮沢賢治の評価というものが全集以前にかなり山陰まで広がっているということ。宮沢賢治が無名だったという考え方もあるんですが、一方でやはり地方の詩人達にとって憧れの存在であったということは言えるんですね。

 死んだ直後に全集が出るということ自体は、これはもう草野心平という人の力によるところ大なのでしょうが、地方に在住していた詩人が全集を出したということが、当時のいってみれば地方詩人達にとって非常に大きな励みになっているわけですね。当時丁度、大きな詩壇が崩れていく時代に、宮沢賢治という人に大変励まされて各々詩作を持続していたということは言えるのではないでしょうか。

佐伯 研二

 まず、東京賢治友の会。これが正式に発会したのは昭和九年の八月が考えられますが、昭和九年一月の、宮沢賢治追悼出版記念会で話が出た可能性はあると思います。この「東京賢治友の会」ですが、各地にその後賢治の会ができますけども、「友の会」というのは東京だけなんですね、どうしてなんでしょう?また、「宮沢賢治友の会」が「東京宮沢賢治友の会」というふうに記されている場合があります。資料を見ると、『宮沢賢治研究』十一年の十二月最終号までは、東京と名の付く「賢治友の会」はありません。ですから初期は「宮沢賢治友の会」が正しい名称だと思います。

 第一期の頃、東京に在住する岩手県出身者が、月に一度会合を開いていたというんですね。この組織との関係について、今回は照井栄三と佐伯郁郎をあげておりますけども、この二人は非常に公私に渡って交流を深めた間がらで、更に二人とも同時代の詩人との交流が多く、その動きをピックアップいたしました。そうすると、吉田一穂とか、草野心平との交友関係が非常に濃いと言うことが分かってきます。例えば始まりを昭和六年にしたというのは、吉田一穂が東松原に居を構え、一方で草野心平が十月に、麻布十番から紀伊国屋に焼鳥屋を移転しますが、この両方に、郁郎は「十日会」という詩人グループと一緒に通うようになるんです。

 在住岩手との関係では、郁郎は昭和八年九月二十六日に「宮沢さんの死」を『文学表現』に載せておりますが、死去については郷里に住む藤原嘉藤治、関徳弥、森惣一、母木光、梅野健三らから知らされたとあります。あるいは昭和八年十一月に花巻で開かれた「宮沢賢治追悼講演会」に、東京から草野心平、吉田一穂他が来るわけですけど、吉田一穂が参加したのは、やはり『新詩論』運動あるいは六年頃からのそういう関係によるのではないかなと推測されます。

 更に興味深いのは、その夜、藤原嘉藤治と母木光らも加わり花巻温泉で懇談しております。それから二週間後に母木光が上京するわけです。いったいここで何が話し合われたのでしょう。この時に本当は藤原嘉藤治も上京しようという気持ちはあったようですが、学校側から止められたということのようです。藤原嘉藤治は翌年九年の十二月に上京します。やはりこの二人の動きというのも、何かその当時の状況を端的に表しているのではないかと思います。

米村 みゆき

 無名だった賢治の紹介役として中央ルートと地方ルートという視座を見つけたいと思います。中央ルートというのは今まで研究されていた草野心平です。宮沢賢治を有名にしたのは草野心平が売り出した中央ルートによるものが大きな要素ではないかとこれまで考えられてきました。そして「風の又三郎」などの昭和十五年の日活の映画化など、いわば全国ネットが大きな要素と。しかし当時の資料を追っていくと別の地方ルートもあったのではないか。何かと申しますと、「岩手日報」と「イーハトーブォ」です。なぜなら、「岩手日報」は盛岡継賢治の会発行である「イーハトーヴォ」に引き継がれていきます。「イーハトーヴォ」は各地の賢治の会を報道していきます。その機関誌によって数々の賢治の会が生み出されてきました。そしてご存じの様に各地の賢治の会の出身者の方達が賢治についての書物や著作を発表し、賢治研究の担い手となっていったということです。そのために「岩手日報」に注目したいと思います。なぜ「岩手日報」は賢治に関する報道をしていたのかというと、森荘己池が賢治と交友があり、その森が学芸部記者をしていたためという舞台裏があります。

 天才言説のあるレイアウトということですが、賢治没後直後の賢治にまつわる評価の言葉は少しオーバーじゃないかとこれまで言われてきました。したがって賢治関係の記事が「岩手日報」に掲載される際に、どの様な体裁で掲載されていたのか、したがって、当時の読者の目にどの様に映っていたのかという点が注目されます。そこで賢治関係の記事を追っていくととても気にかかる事があります。と申しますのも、賢治没後の直後の時期には賢治の全集の編集報告や刊行や予約、申込み記事がとても目につくという事なのです。例えば、賢治が亡くなってから一年後の昭和九年、半年後ですが二月二十二日を封切りに、その後一年間でどれぐらい全集記事があるのかと調べたところ、見出しだけでも二十五を超えています。「岩手日報」においては、レイアウト、配置を見るかぎり、これらの署名記事は文芸批評としての記事ではなくて全集販売の宣伝と深く係わっていたことがわかるのです。

(本要旨の文責は事務局にあります。)





ポラーノの広場

旭  川
宮沢賢治研究会

 大正12(1923)年8月2日早朝、宮沢賢治は旭川駅に降り立った。「オホーツク挽歌」の旅の途中、この街でひとときを過ごした賢治は詩編「旭川」を綴り、さらに北へ、樺太をめざした。94年8月に発足した当会活動も9年目に入った。〈文責 石本〉

旭川の街に賢治詩碑を!

奥山 真由美

 今まで何度花巻を訪れたでしょう。でも一つの作品が誕生したお陰で、私達は、26歳の賢治が旭川で過ごした八月早朝の足跡を辿ることができます。それが詩篇「旭川」。駅から6条13丁目に至るこの道のりを、私は密かに「賢治の散歩道」と名づけ、ときどき散策を楽しんでいます。

 詩にあります「旭川中学校」(現・道立旭川東高校」前には《宮沢賢治立寄り地》の碑を見ることが出来ます。これは、一九九〇年に旭川市開基一〇〇年記念事業の一環として、市内数箇所に建てられた文人立ち寄り地を示す碑の一つです。そこでいつも思うのは、この道のりに「旭川」の全文が刻まれた詩碑があったなら…ということです。これは、私達研究会員みんなのかねてからの願いです。そこに佇めば賢治が感じた旭川の清冽な空気が時間を超えて伝わって来るような、そして賢治がいかにも気に入りそうな、そんな詩碑が建立されたなら、どんなに嬉しいことでしょう。

 故・清六さんと生前にお目にかかった折りに「旭川」に話題が及んで、「賢治の作品で都市名の題がついたものはそう多くはありません」とおっしゃっていたように、「旭川」という詩は、賢治がこの街に残してくれた、とびきり上等な贈り物なのですから。

旭川と宮澤賢治

松田 嗣俊

 宮澤賢治は大正十二年八月二日(木)に旭川に訪れています。いわゆる「亡き妹トシとの交信を求める傷心旅行」の途中、二十六歳のときのことです。宮澤は旭川で約七時間過ごしそのひとときをすがすがしい早朝の情景を作品「旭川」に残しています。当時旭川は人口六万四千人、一年前の八月一日に市政が施行されていました。

 作品「旭川」からうかがい知れるのは、旭川停車場(現・旭川駅)を降りて師団通(現・旭川平和買物公園)を通り、〈六条〉通へと右に〈曲〉り、〈バビロン柳〉(しだれ柳)のあった銀座通までの足取りです。

 午前四時五十五分という〈朝はやく〉旭川に着いた宮澤は停車場のすぐ前にあった辻〈馬車〉に乗り、目的地を〈馭者〉に告げます。〈「農事試験場まで行って下さい。」〉このことから、宮澤の来旭の目的は、農業技術者として寒さに強い稲の品種改良など北方の農業に関心があり、また、農学校教師として寒地での稲作の実際を学びたかったことなどから〈農事試験場〉(当時・地方農事試験場、現・北海道立上川農業試験場)を訪れるためであったと考えられます。しかし、〈六条十三丁目〉に行ってみますと、そこには〈農事試験場〉はありませんでした。当時、永山にあったため、永山街道(現・国道三十九号線)を通り、永山まで足をのばして所期の目的を達し、永山停車場(現・永山駅)から、または、途中であきらめて開業して間もない新旭川停車場(現・新旭川駅)から、あるいは、旭川の街でときを過ごし、旭川停車場から樺太に渡るべく稚内へと向かったものでしょうか。

 宮澤が作品「旭川」に描いた時間帯の旭川は曇り時々雨の天候で、真夏だというのに、約十三度の気温であり、〈まるで十月の〉秋のような冷たい〈風〉が吹き、〈そらが冷たい白〉く、〈つめたい朝の露〉がみられたような肌寒い一日でしたけれども、さわやかな北国での早朝のひとときでもありました。

 現在では、〈旭川中学校〉(現・北海道旭川東高等学校)前に設置された「宮沢賢治立寄り地」の記念碑の足元で、いまもまるでその当時のままに〈つめくさ〉は、白いあかりを灯し続けています。

 宮澤にとって、この旅は、「オホーツク挽歌」群ほか多くの作品をもたらしただけでなく、「《北》(死後の世界)からの再生」という、のちの「銀河鉄道の夜」の重要なモチーフのひとつとなっていきました。

宮沢賢治と三浦綾子

中島 啓幸

 旭川に生まれ、九九年に亡くなるまでこの地で執筆活動をされていた三浦綾子さん。

 九六年八月五日、三浦光世・綾子邸でのこと。敬愛する夫妻と僕との対話の中で、賢治さんが生涯の最期に自分でオキシフルで体を清めた場面を特に生誕百年の思いを込めて話し、以前、清六さんからいただいた東北砕石工場技師時代の賢治さんの名刺をお見せすると、パーキンソン病で震える手にのせ大事そうに眺め「貴重な話を教わった。足元にも及ばない」と、いつもの、か細くすきとおった声で綾子さんが答えてくれたことを想い出す。宮沢賢治と三浦綾子の共通点は、弱い者への熱きまなざしと病いとの戦いの中でみつけた最後まであきらめない、まことの愛だ。

 僕は東北で暮らした四年六カ月の間、花巻に通い、賢治さんの教え子六人にお逢いし、皆さん共通しておっしゃるのが「友達のような先生」であったが、現在、取材している綾子さんが教員をしていた戦中の頃の教え子十一人の証言では「目の前にゆくと緊張し尊敬する先生」が、多かった。時代背景にもよるが、距離のない水平のまなざしの対・人間が求められている二十一世紀は、やっぱり賢治先生が求められている。とにもかくにも二人とも究極の愛の伝導者だったことは間違いない。

穂別セミナーのこと

前佛 トシ

 自分史を印刷したご縁で、宮沢賢治学会の穂別セミナー(〇〇年九月十四日)で話をすることになった。何も研究などしていない、只六十年来の古いファンという丈の事なのだが、儀府成一さんや松田甚次郎との関わりなど古い話が珍しかったのかもしれない。帰りの旧道の山道に迷いこみ、暗いカーブだらけの道で鹿に出会ったり緊張した。家へ着いたら夜中の一時、往復六時間の強行軍で、翌日は体がゆれているような感じだったが、運転の松田さんはさぞお疲れになったことと思う。

 ○山道をライトに走る鹿の群れ
 ○和やかに話のはずむ穂別ゼミ

賢治カクテル

石本 裕之

 大学生の頃、ある土曜日の雨の夕暮れ、別段行くあてもなかったのだが、札幌駅隣の跨線橋を渡って、ホテルのエレベーターに乗り、昇るにまかせてそのままスカイ・レストランに入った▼ボイが来て、マーティニをひとつ注文した。服の裾に染み込んだ雨の匂いがレモンの香りに不思議に溶け込む感じがした。大学の広いキャンパスを背景にして、雨足が風にたなびき、帯を作って揺れている。雨に煙る街並が少しずつ暗くなってゆく。やがて電車通りが街灯に浮かび上がり、行き交う車のヘッドライトが、黒く濡れた車道を彩って流れた。ジーンズの後ろポケットには賢治の短篇集があった▼その日から、雨の土曜日にはここへ来てカクテルを注文し、夕暮れから夜にかかる時間を賢治の詩や童話を読んで過ごすことに決めた。一度にひとつずつの〈物語〉とカクテルを消化すれば、ゆっくりと確実にそれらは僕のものになってゆくだろうと思われた。これが僕の〈賢治カクテル〉▼その後、僕は宮沢清六さんからいくつかの通信をいただいた。それらは僕にとって、どこへでもゆける「銀河鉄道」の切符である。賢治は「札幌市」や「旭川」という詩を残している。しかもそれはほんの数十年前のこと。だからその気になれば、〈ここ〉はいつだって「イーハトーブ」になるのです。

旭川宮沢賢治研究会のあゆみ

石原 久美子

 旭川宮沢賢治研究会は九四年七月に、当時の東京宮澤賢治研究会会長・佐藤栄二氏が来旭することをきっかけに、旭川市内及びその周辺の宮澤賢治会員七名が集まり、発足にむけて準備うぃすることになりました。そして氏ご夫妻をお迎えした八月十七日を会の発足日として活動を開始しました。

 本研究会は、宮沢賢治を愛好し、総合的な角度から賢治の世界を研究することを目的として、賢治に関心を持つ人々を会員として構成されています。中には六十年にわたって賢治世界に関わっている会員もいます。

 活動の中心は読書会で、隔月で行われる例会では、テキストを決めて、そのテキストに沿って作品を読み進めていく形をとっています。

 読書会の他には、地方セミナーに参加したり、会員各自の活動・体験などを報告し合い交流する場にもなっています。今後も賢治と交信できる小宇宙としてこの会を大切にしていきたいと考えています。

 なお、昨年から旭川東高校の河村勁校長(今春ご退職)が参加され、同校開校百周年(定時制八十周年)事業で来夏、詩篇「旭川」碑が建立されるとの計画をうかがっています。お楽しみに。