宮沢賢治学会・会報第25号

おしまいまでひいてしまふと狸の子はしばらく首をまげて考へました。/ それからやっと考へついたといふやうに云ひました。/「ゴーシュさんは この二番目の糸をひくときはきたいに遅れるねえ。なんだかぼくがつまづく やうになるよ。」/ゴーシュははっとしました。

─「セロ弾きのゴーシュ」─

表紙写真 記念館所蔵「セロ」


第25号「セロ」
2002年9月21日発行
  1. 宮沢賢治のタイ語翻訳
    モンター・ビムトーン
  2. 第12回宮沢賢治賞 イーハトーブ賞決まる
  3. 宮沢清六さんを偲んで(2)
    甘利久巳子、壱岐やす江、斎藤文一、 西原和美、春山正、前佛トシ、森三紗、 屋比久貞雄、藤森敏夫、春山朋彦
  4. 照井さんを偲んで
    「私の中の照井謹二郎先生」
    熊谷光子
  5. イーハトーブ地理学
    大空滝視察行
    阿部弥之
  6. 投稿エッセイ
    宮沢賢治とエスペラント地名
    佐藤 竜一
    賢治贋作物の事情
    吉見 正信
  7. イーハトーブ イルミネーション
    この森を通りぬければ
    林 敦子
  8. テクストクローズアップ(20)
    賢治作存疑句 四句
    杉浦 静
  9. 報告
    春季セミナー報告「賢治の歩いた東京」
    村上英一
    夏季特別セミナー
  10. イーハトーブ館 企画展示
    宮沢賢治のごちそう博覧会展
  11. ポラーノの広場(第5夜)
    関西賢治ゼミナール
  12. 宮沢賢治EVENTS
  13. 「新校本宮沢賢治全集」第16巻(下) 補遺・資料「年譜編」正誤
    栗原 敦
  14. 宮沢賢治作品イラスト
  15. 寄稿のご案内

戻る

過去の会報を見る



宮沢賢治のタイ語翻訳

モンター・ビムトーン

 私と賢治との出会いは日本語を勉強していた大学生だったころにさかのぼります。詩の「雨ニモ負ケズ」の一部を授業で教わり、感動し、このような人になりたい、頑張りたいという気持ちになりました。賢治と本格的に関わるきっかけになったのは、日本で賢治生誕100年祭があり、その翌年に、タイ文学の研究者兼翻訳者である岩城雄次郎先生に本を戴いたおりに、先生から『銀河鉄道の夜』のタイ語の翻訳があるか聞かれたことでしょう。翻訳が無いとお答えすると、先生はぜひ訳して下さいと言われました。その後岩城先生は、作家の畑山博さんを連れてきてくださり、畑山さんは賢治についてチュラロンコン大学日本語学科の学生のために講演してくれました。こんなことがあって『銀河鉄道の夜』の翻訳を始めました。出版社に相談したところすぐによいご返事をいただき、出版にこぎつけました。賢治にはまだ他にもよい作品があると思い、大学の日本語学科の同僚たちに翻訳を持ちかけたところ、喜んで翻訳を手伝って下さることになり、短編集の翻訳が出版されることになりました。こちらは日本語学科の出版事業でしたが、タイの東京堂も援助してくれました。作品の選択は、私が日本人スタッフの田中週子先生と相談して決めましたが、翻訳に当たっては賢治の英語訳も参考にしました。

 翻訳の作業で苦労したのは、方言、地名、木の名前などです。また『銀河鉄道の夜』は、星の宇宙を汽車が走るというファンタジーの設定自体が想像しにくく、またタイでは銀河はよく見えませんし、星座も違いますので、わざわざ星座に関する本も買って勉強しなければなりませんでした。分からない点や方言などについては二人の日本人の先生、田中週子先生と今井己知子先生に尋ねました。賢治作品の中では、特に『土神ときつね』が、タイ人にどういうメッセージを伝えればよいか分かりにくかったことを覚えています。逆に『オツベルと象』などは、日頃から動物に対して親切なタイ人にはとても分かりやすいように思えました。また『注文の多い料理店』も、環境の問題や動物を殺すのはよくないといった点が分かりやすく、学生には好評でした。タイ人は仏教の教えによって、生き物のすべてを殺すことは罪であると、学校でも家庭でも小さいときから教わっているのです。

 出版後の反響ですが、『銀河鉄道の夜』はそこそこに売れました。そもそもタイでは日本文学はそれほど知られていませんし、翻訳自体も少ないのが現状です。川端康成の代表作品はほとんど訳されていますが、それも英語からです。夏目漱石は『こゝろ』と『坊ちゃん』『夢十夜』など、原爆作品として井伏鱒二の『黒い雨』、タイとの関係が深い三島由紀夫は『憂国』のタイ語翻訳があります。チュラロンコン大学日本語学科による翻訳、『日本近代文学短編選』は、第1、2、3集がいろんな作家の優れた作品を選んだもので、第4集は芥川龍之介、第5集は太宰治、そして第6集がこの賢治の童話集です。

 タイでは、日本語学習が就職口が多く給料も高いので人気があります(もちろん、日本文化に興味を持っている人もいます)。日本語学科は、バンコクでは国立大学と私立大学のほとんどに、地方でもほとんどの国立大学にあります。しかしその中にあって、日本文学の需要は少ないと言えます。学部では卒業論文も無いので、特に日本の作家に関心は集まるわけではないのです。賢治はそういう事情もあり、タイでの初めての翻訳紹介ということになりました。しかし、『銀河鉄道の夜』の翻訳については週刊誌に書評が載り、短編集の方はテレビで、読んで考えさせられたといった感じで取り上げられました。

 タイ人には賢治文学がどういうふうに見えるのか、という点についてお話ししましょう。タイ人から見ると『銀河鉄道の夜』は先に述べたようにメッセージが伝わりにくいと思います。西欧文学は、前提やクライマックスなどがはっきりしていて分かりやすいのですが、日本文学は総じてそれが希薄で分かりにくい傾向があります。私自身は『風の又三郎』は自然の描かれ方が美しいので好きな作品です。また『鹿踊りのはじまり』『なめとこ山の熊』『まなづるとダアリア』『セロ弾きのゴーシュ』などの、動物が描かれた作品は分かりやすいと思います。彼の作品は純粋で、すべての生き物への思いやりがあり、それが何よりもすばらしいと思います。従って、賢治の作品は他の日本文学作家の作品に比べると人気がでるように思います。童話というジャンルは子供も大人も読むことができるので、人気がありますし、チャンスがあればさらに別の作品も翻訳したいと思っています。現在、客員研究員として日本に来ていますが、これを機会に、賢治に関係ある場所を訪ねてみたいと思っています。 

(チュラロンコン大学準教授)





第12回 宮沢賢治賞・イーハトーブ賞決まる

 第12回宮沢賢治賞・イーハトーブ賞は、先の理事会におきました次のとおり承認し、 花巻市より発表されました。

 受賞された方々にお喜びを申し上げますとともに、これからのますますのご活躍をご祈念いたします。


経過及び選考理由について
宮沢賢治学会イーハトーブセンター賞選考委員会
 委員長 望月善次

《宮沢賢治賞》

 会員からの推薦、申し合わせによる選考委員会の推挙を合わせて計二十四点を選考対象とした。三次の選考会議を経て、本年度の宮沢賢治賞を選考した。

 本賞の松田司郎氏は、賢治研究を「深層世界」を中心として探究している。その探究は現在進行形でもあるが、『宮沢賢治の深層世界』は、成果の集約であり、賢治の深層世界解明の一つの在り方を示している。イーハトーブの地と交わりながらの『宮沢賢治 イーハトーブへの切符』等の賢治世界探究の在り方や、主宰誌『ワルトラワラ』によっての多様な賢治研究集結も注目に値する。こうした諸点を評価して本賞とした。

 奨励賞は、二人とした。近藤晴彦氏の『宮澤賢治への接近』は、賢治作品を成立史に従って縦横に分析している。同時代の詩や詩人の生涯とを照らし合わせながらの〈幻化〉〈幻滅〉〈諦念〉への位置付けは鮮やかで、奨励賞を上回るのではとする評価さえあったほどである。P.A.ジョージ氏は、「よだかの星」「注文の多い料理店」「銀河鉄道の夜」等の作品を優れたマラヤラム語に翻訳・出版をした。なお、その評価の具体については、東京外国語大学の粟屋利江助教授によった。記して感謝したい。

《イーハトーブ賞》

 宮沢賢治賞と同様の推薦・推挙による計十八点を選考対象とし、やはり同様の選考会議を経て、本年度のイーハトーブ賞を選考した。

 本賞は、オペラシアターこんにゃく座とした。同座が、創立の一九七一年以来、新しいオペラを目指して高レベルの作品を上演し続けていることは既に多くの人によって知られているところでもある。賢治作品についても、一九八五年の「シグナルとシグナレス」以来、本年の「どんぐりと山猫」に至るまで継続して上演している。遅すぎる受賞であるとする考えも出されるほどで、十分に本賞に値するとした。

 奨励賞は、佐藤孝氏とした。永年にわたる賢治作品原風景の検証である『宮沢賢治に誘われて、郷土誌の森を行く、』と花巻を中心とした自然環境保全の功績と合わせて評価した。

■宮沢賢治賞  松田 司郎

『宮沢賢治の深層世界』をはじめとする多数の著書、及び雑誌『ワルトラワラ』にみられる、賢治の深層世界解明に立脚する多くの研究活動。                      

■宮沢賢治賞奨励賞  近藤 晴彦

『宮澤賢治への接近』における実証的分析と、同時代詩との比較対照による豊かな論考。

■宮沢賢治賞奨励賞  プラット・アブラハム・ジョージ

「よだかの星」「注文の多い料理店」「銀河鉄道の夜」をはじめとするマラヤラム語へのすぐれた翻訳・出版。

■イーハトーブ賞  オペラシアターこんにゃく座 代表 竹田 恵子

 永年にわたって豊かな芸術性を保ちつつ、多数の宮沢賢治作品をオペラ化した功績。

■イーハトーブ賞奨励賞  佐藤  孝

 花巻を中心とする賢治作品の舞台を検証しつつ、花巻の自然保護へと展開した功績。





宮沢清六さんを偲んで(2)

宮沢賢治学会イーハトーブセンター顧問、賢治御実弟でもある宮沢清六氏が2001年6月12日 ご逝去されました。謹んで哀悼の意を表します。なお多数の寄稿により、前号に続いての 掲載とさせていただきます。

宮沢清六さんを偲んで

甘利久巳子(東京都)

 「もう少し行くと宮沢さんのお家ですよ。」と言うタクシーの運転手さんの声に、「是非連れて行ってください。」と頼んで、宮沢家の前に車を止めてもらいました。「お客様らしいですよ。清六さんにお会い出来るかもしれませんね。」親切な運転手さんに励まされて、門の前に立つと丁度、その時、お客様を見送る清六さんがおられました。私は勇気を出して、ご一緒に写真をとらせていただき、お礼を申し上げるのが精一杯でした。

 平成二年九月二十二日、「イーハトーブセンター」の設立総会に出席するため、まだ大学生だった娘と新花巻の駅からタクシーに乗って文化会館へ行く途中でした。総会も盛大に行われ、充実した旅でしたが、私にとって何よりも思い出に残ったのが、優しい清六さんとの出会いでした。賢治さんの残した文学作品の数々を守って来られ、私たちに伝えて下さった清六さん。今、私が自立生活センターの仕事、ケニアの会、緑化ボランテイア等と少しずつですが続けることが出来たのも、いろいろの事情はありますが、根底に賢治さんの作品、生き方があったと思います。それを大事に伝えて下さった清六さん、ありがとうございます。

 昨年の秋、岩泉で緑化ボランテイアをしましたが、イーハトーブの緑の中での作業はとても幸せでした。

 清六さんと御一緒に写させていただいたこの一枚の写真が手元にあります。

 今、天国で賢治さんと御一緒にいらっしゃる清六さんに見ていただきたく思っております。

宮沢清六さんを偲んで

壱岐 やす江(東京都)

 清六さんは、銀河宇宙のどのあたりで賢治さんと語り合っておられるのでしょうか。早々と銀河に先回りしていた兄さんは、見える仕事も見えない仕事も山ほど託した弟さんのご到着を、さぞや丁寧にお迎えになったことでしょう。

 先号の追悼の言葉の中で、原子朗先生が、九十才で石垣島に遊ばれた清六さんに触れられ「あの健脚といい、気力と旺盛な好奇心はいったいどこからわき出ていたのだろう」と感嘆しておられました。たまたま、七年ほどまえに、そのお答えのひとつをご本人から伺うことができました。お便りの一部をみなさまと分かち合わせて頂くことを、清六さん、どうぞお許しくださいね。

「九十才になりますが、忘れやすく、疲れやすく、逃げたくなる日も多くあります。毎日雑用が多くなって来て困っています。ところが、昨年秋に、ドイツ人のヘルマン・ベック著「仏教」下巻を岩波文庫で読んで、大変元気になり、石垣島・竹富島や北海道の旅もしました」

 九十才にして北に南に旅をされた元気の源は仏教の解説書だった、というお話に、私は深い感動を覚えました。九十年という月日を誠実に丁寧に過ごしてこられたことの、ひとつの美しい証であると思えたからです。

 その後、ご丁寧に解説書のコピーを送って下さいました。同じように、このおすそわけを頂いた方々は多くおられることと思いますが、それぞれの心のなかで、この手作り冊子はかけがえのない宝物になっているに違いありません。なぜならば、カラーでコピーしてくださっているその十頁は、清六さんの感動と情熱の「かたち」に他ならなかったからです。一行一行が、何色もの色鉛筆で何重にも線引きされ、枠で囲まれ、記号を打たれていました。清六さんの心の高鳴りをそのままに伝える色とりどりの学びの証跡は、仏陀に捧げられた花か宝石のようでもありました。

 すべてのものの幸せを願いながら、珠玉の童話や詩を生み出した兄賢治と、その作品を守り、世界に伝える大切な役目を果たされた清六さん。二つの偉大な魂は、大いなる御手に常に導かれていたのでしょう。いまは、チュンセとポウセのように、どこかの星に腰掛けて、微笑みながらこちらを眺めておられるかもしれませんね。

清六さんと「大銀河系ドームのころのこと

斎藤 文一(新潟県)

 賢治記念館の中央に設置された「大銀河系図ドーム」は、プラネタリユウムと似ているようにも見えるが、中身は全然違う。これは全く別のコンセプトで設計され、数々の創作を備えた創作である。世界中どこを探しても見つかるものではない。

 宮澤賢治が銀河系によせた思いは人並みはずれていたから、賢治記念館がそれをどのように表現するかは、大いに苦心を要するところであった。決して世のプラネタリユウムなどの「まがいもの」であってはならず、それを断然超えなければならない。当然、清六さんの熱の入れようは大変なものだった。だから賢治記念館がオープンし、全体が好評だった中で、とくにその目玉として「大銀河系ドーム」が各方面から取材を受けたとき、清六さんの喜びようは非常なものだった。連日のようにお便りがあり、入館者や評判の声を知らせてくださった。懐かしい思い出である。

「大銀河系ドーム」の特徴を一つだけいえば、描かれた星空が全天球の三分の二をカバーしていることで、それは地平線以下十四度にまで及ぶ。これによって銀河系の全体像が描かれ、最新の資料に基づいて詳細な銀河系図が示された。また壁面にとり入れられた星座にしても、視野がひろがった分、一挙にその数を増した(資料、拙著「銀河系と宮澤賢治」国文社刊)。たとえば、さそり座(東の空)とオリオン座(西の空)の全容がドーム面に配置された。あらゆる星座の中で最大の偉容を誇るこの二つの星座が、同時に東西に相対している様(この様は地表では絶対に見ることが出来ない!)は見事である。とくにさそり(座)は、赤い目玉を輝かせて、横たわる大銀河をつき破り、まさに天頂に向かって跳び上がろうとする一瞬の姿がとらえられた。その他、ドームいっぱいにさまざまな工夫が施されている。清六さんを偲びながら懐かしい「ドーム」のころのことを書かせてもらった。清六さんのご冥福をお祈りいたします。

一個半の胡桃の化石

西原 和美(福岡県)

 宮沢清六氏からいただいた大切な思い出が私の中に二つある。

 一九八四年の賢治祭に、九州から夜行を乗り継いで参加した。いつものように上野発のイーハトーブ行夜行で、夜明けの花巻駅に着いた。自転車を借りて、賢治の風に導かれ、美しい秋空の中をゆっくりと走る。二十数回目の花巻巡礼だった。身照寺にお参りして、そのあとは心の赴くままである。夕刻、豊沢町の御宅に伺った。ちょうど「柳川堀割物語」の映画を撮られた方々とご一緒だった。白秋の「思い出」の地を清六氏も訪ねられた後で、私の故郷でもあるので話がはずんだ。そのとき、清六氏から「今日はあなたが一番遠くからのようですから、賢治祭で何か話して下さい」と言われた。その夜、空をこがす火の前で私の賢治を語った。その年、私は三十七才だった。賢治の年まで生きのびたら、必ずこの地へと決めていた。その自分との約束をはたした日だった。そして私は清六氏から、一個半の胡桃の化石をいただいた。外からは内の見えない完全な一個と、内にさらした半個。完璧な「新校本全集」が完成した今、賢治とそれより六十年長命の清六氏、そのどちらが一個でどちらが半個の胡桃なのか、と考える。

 二十歳の夏、私は生きることを懐疑し、野宿しながら、日本一周のサイクリングで自分の心身を確かめようとした。その目的地を花巻に定めていた。小学校の教科書で読んだ「雨ニモ負ケズ」が、ずっと心の底にあったからだ。七月に九州を出て山陰、北陸、北海道を回り、八月中旬に花巻に着いた。身照寺の墓前で正座し額づいたとき、清六氏や姉妹様方とお会いし、清六氏からの生き急がないで下さいの一言が身に染みた。その夜詩碑のベンチで銀河鉄道の夢を見た。その後、夏と正月と春の休暇を花巻巡礼にあてた。秋の岩手山で熊に追われたり、光る岩手山を見たくて夜間登山をしたり、小岩井農場を詩の如く歩いたり、畑山博氏と御一緒したり〜。詩碑の杉林からいただいた苗が今、狭い庭で電信柱と肩をならべている。そして私の日常は「一日ニ玄米二合ト味噌ト少シノ野菜ヲタベ」で維持されている。

広大なる時空感覚

春山 正(東京都)

 昨年六月二十九日(金)、清六さんの告別式に出席するとき、「兄のトランク」を携えていきました。花巻までの車中で一ページ目から読み直そうと思いながら、やはり今回もまた「兄賢治の生涯」を読み始めていました。慈悲に満ちた賢治の思索と行動の生涯を抑えた筆致で記した文体は、死後の賢治と同体になって生きてこられた清六さんの生涯をも表徴しているように思います。もう再び肉声を聞き、温顔を拝することはできないのですが、この「兄のトランク」があること、そして何よりも賢治その人の書き残したものが伝えられたことの重さを思いました。

 さて清六さんに初めてお目にかかったのは、一九七四年賢治祭の前日でした。夜行列車で花巻に着いた私は、詩碑で早朝の時間を過ごした後、一途に清六さんに会いに行きました。玄関で逡巡した後、「ご仏壇にご焼香をさせていただきたい」と、案内を乞うたところ、すぐに清六さんが出て来られました。たいへん清潔でおしゃれな服装が印象的でした。

 その日のことは今も鮮明に思い出すことができます。「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない、と賢治は言っていますが、世界とはどういうことかわかりますか」とお訊ねになった後、世界について説明してくださったこと、クルミの化石を私のてのひらに乗せて、「この化石はまだ若い」と表現され、北上川が海であった時代がつい先日であったようにお話しされたこと。そして「賢治は今頃宇宙のどこかで別の仕事をしているかも知れないし、私たちには見えない姿ですぐそこにいるかも知れない」ともお話になりました。清六さんの時間感覚と空間感覚は広大で、人の一生などという短いスパンで物事を考えておられないのだなと強い印象をもちました。

 こうして私のような一読者に会ってくださったばかりでなく、お目にかかるたび「賢治は、山に入るとき何を持って行きましたか」などという愚かな質問に対しても丁寧に答えてくださったことは、私にとって奇跡とも思える貴重な体験でした。

宮沢清六さんを偲んで

前佛 トシ(北海道)

 宮沢賢治の作品に出会ってからもう六十年余りになる。東京の小学校の先生をしていた時は、儀府成一氏の奥様が同じ学校につとめておられ、その方から「鏡をつるし」の謄写版ずりの古ぼけた小冊子をみせていただいた。これが賢治作品との初めての出会いである。

 其の後、先生をやめ、農業を志し故郷の北海道へ帰る途中、儀府成一氏が紹介状をかいて下さったので、花巻の清六さんをお訪ねした。

 当時は、金物店をやって居られ、何か写経をしておられたようだった。「雨ニモ負ケズ」の詩碑への道順をお聞きし、丁度、昼時だったので詩碑の前で、弁当を食べ、ゆっくり一休みしてから清六さん宅へ戻ったら、思いがけなく昼食の用意をしておいて下さっていた。済ましてきた、とはとても云えなくて、無理してそれもご馳走になってしまった。初めての訪問で堅くなるばかりで話も途切れがちだったが、帰り際、「兄は慣れない農作業で体をこわしました。あなたも体に気をつけてやるように」と言われ、「どんぐりと山猫」(中央公論社 ともだち文庫)の童話集を下さった。素朴なその感じのさし絵で大事にしている。

 其の後、愛別の農家に嫁ぎ慣れぬ農作業や子育てに追われ、花巻へもご無沙汰していたが、道新に賢治記念館の建設について、木呂氏の記事が載り、寄付を集めている事を知り、いろいろお世話になったお礼の気持ちをこめて、ほんの僅か寄付を清六さん宛にお送りした。其の後、開館の折り、清六さんから入場券を送っていただいた。記念館へ行った帰り、清六さん宅へ二回目の訪問をする。お父様がなぜ改宗されたのかお聞きしたかったが、とうとう切り出せずにお暇する。帰る時「お墓へも参られたら」と箸のように太い茶色のお線香を出して下さった。其の後、ドライフラワーなどをつくってはお送りする度、いろいろ本などをいただいた。「遊びにおいでなさい。」とお手紙もいただいたが、泊まりがけで家をあけられなかったので、とうとう其の機会もつくれず、暖かい思い出を残したまま、遠くへ旅立たれてしまった。

 どうもいろいろとありがとうございました。

 どうぞ安らかにおねむり下さい。

さようなら

二代に渡ってのご厚誼

森 三紗(岩手県)

 父森荘已池が宮澤清六さんを兄のように慕い、生涯の宮澤賢治研究の良き先輩であられたご縁によって、娘の私も親子二代に渡って宮澤家に大変お世話になりました。心から感謝の気持ちを述べさせていただきたいと思います。

 私は、昭和四十五年四月から四十六年三月までの一年間、宮澤家に家事見習いとして、嫁入り前にお世話になりました。当時岩手県立花巻南高校定時制の教師を勤めており、是非、宮澤家に来て礼儀作法やお料理を習うようにとお話を頂き、先にお亡くなりになった奥様とご一緒に懇切丁寧にお教え頂きました。宮澤家のお料理の精神は身土不二で、地元の季節の野菜を農家の人の心を汲み取りながら大事に使い、お料理を作る事でした。奥様をとても大事になさり、ご夫婦の仲がよく奥様の同日命日の六月十二日に亡くなられたことに深い感銘を抱きます。朝の敬虔な仏前での読経にも加えて下さり、お蔭様で祈ることの大切さを身をもって教えていただきました。全国からばかりでなく世界各国からめいめいの賢治を求めてお訪ねになられる方々ばかりでなく、隣近所の方々との交流を大切になされ民生委員もなさって献身的に活躍しておられました。当時は珍しい屋根の上に太陽熱でお湯を温める設備をし、旧来の五右衛門風呂で包装紙などを燃料にしてお風呂のお湯を沸かしておられ、地球にも優しい配慮をされていました。夜遅く帰る私のため湯加減を見ていて下さったご慈愛に今はただ合掌するばかりです。

 花巻南高校定時制の文芸部の生徒たちと四年続けて「宮澤賢治の世界」を文化祭で研究発表するときも、「雨ニモマケズ」の手帳、焼けかけた生原稿、肥料設計書等をみせていただき、命を賭けて兄のトランクを守り賢治の意志を継ぐことが私の仕事だと何度もおっしやっていました。そのとき貴重な資料を惜しげもなく貸して下さり、得意なカメラの腕前を発揮され、英語、エスペラント語、チエコ語、ヒンズー語等で紹介された作品を展示するようにご指導していただき大変好評で生徒も自信を得ることができました。暖かいお心遣いと人間愛をお持ちの方でした。

 当時、適齢期であった私のため実の娘のように転勤や縁談を心配して下さり、父政次郎さん、母イチさんも賢治さんが結婚しなかったことをとても残念に思っていたので人として生まれてきた道なのだから、相手の方も良い人のようだから是非結婚するようにと親身になり相談にのってくださいました。私にとりましては今までもこれからも一生涯の恩人であり、恩師なのです。

 父が入院している際もよくお見舞いに来ていただき、たいそう励ましていただきました。お蔭様で第四回宮澤賢治賞をいただき、生前の父の最後の受賞となりました。私が父の病院に見舞いに行きますと、その「私たちの詩人宮澤賢治」をぼろぼろになるまで読んでいました。清六さんは三年あまりもお宅でご家族の皆様の暖かい心ゆくまでの看護を受けられ幸せな方でした。今ごろあの世で賢治さんを間に清六さん荘已池と三人で楽しそうに語り合っているのではないのではないのでしょうか。

 素晴らしい読書人でもあり、詩作していくには読書が大事でこの本を何遍も読むようにと私に「宮澤賢治童話集」を下さいました。また、よくこの本は良い本だから是非読むようにと里見惇の「不措身命」、ドイツ人のベッグの「仏教」や、紀野一義さんの本を薦めて下さいました。「永遠なるものを永遠に求めることが菩薩である」と言う菩薩行の一生でした。本当にお疲れさまでした。

 まだまだたくさんいただいたご恩と美しい思い出がありますが、いつかご恩返しをと思いつつ、何もできずに今日という日をむかえてしまいました。何から何までお世話になり、本当にありがとうございました。お教え頂いたことをできる限り後の世の人々に伝えてまいりたいと存じます。どうか空のうえからみまもって下さい。

(六月十六日弔辞改稿)

宮沢清六さんをしのぶ

屋比久 貞雄(沖縄県)

 私は清六さんに都合四度お会いした。最初は一九六六年の盛夏、通信教育学生の私はスクーリングで上京の折、卒論の資料収集で宮澤家を訪ねたのである。

 清六さんはにこやかな表情で私を迎えいれてくださった。偉ぶることも、尊大さもなく一瞬緊張がとれて和む心持ちになったのが昨日今日のように思い出される。有益な話を賜り、沖縄のことなどお尋ねになった。二十センチメートルほどのこけしに屋比久夫人へと毛筆でお書きになりくださった。当時私は独身で四年後に妻をもらった。こけしを見るたびに思い出し大切にしている。

 二度目は、一九七七年内地派遣教員として大迫高校に配置されたとき、吉見正信先生に連れてこられての訪問であった。賢治祭の日で賢治の仏前に焼香し、精進料理をいただいた。シゲさん、クニさん、奥さんもお元気であった。その方々もすべて昇天された。  三度目は、堀尾さんと一緒に沖縄旅行をされたときである。南部の戦跡、ひめゆりの塔などを車で案内した。清六さんが、どんなことがあっても戦争はしてはいけないとつぶやくように語られたのを思い出す。  四度目は、宮澤賢治学会設立の一九九○年の九月である。清六さんは八十歳を過ぎておられたが、賢治記念館、南斜花壇辺りを御一緒に散策し写真を撮った。その写真が遺影となってしまった。  もし、清六さんの尽力がなければ賢治の名声はこれほどにはならなかったのではなかろうか。上梓されない残された膨大な原稿を大戦でも消失させず守り通した。そして賢治の遺言を実行した。その意味で、グリム兄弟のように賢治の作品は、清六さんとの共著ともいえはしまいか。  今ごろお二人は会って、 「兄さん、あれでよかったでしょうか」 「十分過ぎるほどだ。ありがとう。ご苦労さん。ただ、ホメラレモセズを心の祈りにしたから、穴があったらはいりたいよ」と両人は楽しい会話を交わしているにちがいない。  ご冥福をお祈り申し上げます。   合掌

清六さん 有難うございました

藤森 敏夫(岩手県)
 宮沢清六さんがお亡くなりになったことを知った時、優しいお人柄とたくさんの温かい励ましのお言葉を思い出して、花巻の方向に目をやりました。

 はじめて清六さんにお目にかかったのは、警察官として花巻警察署に着任した昭和四十五年の秋のことです。私が受け持っていた区域にお住まいがあり、制服を着て訪問した時のことでした。清六さんは、制服姿の私を応接室に案内し、前から知っていたかのように接してくださいました。そして、「またいらっしゃい」という温かいお言葉で見送ってくださいました。そのお言葉にあまえて、用もないのにお訪ねしては、お話を伺いました。私の仕事上の迷いや悩みまでも聞いてくださったこともあります。当時は、奥様とお二人で住んでおられ、奥様ともたくさんお話ができたことを有難いこととして、今でも思い出すことがあります。

 教職に就いた昭和五十三年四月には、「御元気で立派な先生におなりのことと思い、家内と共に祝福しています。」というお葉書を頂きました。人より遅れて教職に就いた直後ですから、このお言葉にどれほど励まされたことか。この葉書は、大切に保管しています。

 平成六年三月にお目にかかった時には、色紙を頂きました。この色紙には、農民芸術概論綱要の「世界のまことの幸福を索ねよう 求道すでに道である 賢治」が、大きくゆったりとした筆致で書かれています。私の歩みを支える、優しくて温かいメッセージのように思えて、額に入れて玄関に掲げています。そして、それを意識しながら、毎日の務めを果たす日々です。  清六さん、有難うございました。これからは賢治さんと共にいらして、銀河の彼方から、世界が一つの意識になり生物となるようにと、いつまでもいつまでも見守ってください。

優しい笑顔とハーモニカと

春山 朋彦(東京都)

 僕は宮澤清六さんとは、二回しか会ったことがありません。十九歳の僕が、清六さんとお呼びするのは失礼とは思いますが、思い出を書かせていただきます。

 初めてお会いしたのは、僕は小学校に上がる前の夏でしたから、今から十四年ほど前のことになります。玄関を入った左側の部屋で、父がやさしいお顔のおじいさんと難しい話をしていたのを覚えています。実は、連れて行かれたところが宮沢賢治の生家であって、父と話していた方が実弟の清六さんだとは知りませんでした。というのは僕が小さきとき、父は賢治の本だけを強く薦めるということをしなかったので、宮沢賢治がどんな人でどんな考えをもった人なのか知らなかったのです。僕はそのときにいただいた本を大切にしています。新書サイズの『銀河鉄道の夜』です。清六さんは、「これはまだ早いかな。でも、きっとわかるようになります」とおっしゃって、僕に手渡されたそうです。

 次にお会いしたのは、花巻にある民宿の二十周年記念祝賀会の時でした。一九九三年六月、桜町の公民館でのことです。このとき、ハーモニカを演奏され、歌曲をお歌いになりました。ご高齢とは思えない肺活量で、それは見事なハーモニカ演奏でした。一人で主旋律と伴奏を合わせて演奏されるものは初めて聞いたので、とても感激しました。また、歌曲も実に朗々と歌われました。歌い終わったときの笑顔が印象的でした。

 昨年、清六さんがお亡くなりになった新聞を見て、あの素敵な笑顔とハーモニカの響きを思い出しました。直接お話を聞くことはありませんでしたが、清六さんが身をもって守られた賢治の作品を大切に読んでいきたいと思います。





照井さんを偲んで

第二回イーハトーブ賞を受賞された照井謹二郎氏が2002年4月29日にご逝去されました。 謹んで哀悼の意を表します。

「私の中の照井謹二郎先生」

熊谷 光子

「賢治の教え子は、おれ一人になってしまった」とお会いする度におっしゃっていた先生、その優しさにあふれた笑顔は今でも私の脳裏に深く刻まれております。

 この冬、お体の調子を崩されて入院なさった時は、内心「高齢でもおられるし、幼稚園でお会いすることはもう無理かな」との思いは全くの危惧に終わり、四月の入園式では園児たちの前で、背筋をきちんと伸ばされて挨拶なさいました。相変わらずダンディでハンサム、とても嬉しく思ったものです。最後まで園長としての仕事を全うなさいました。

 謹二郎先生と私との出会いの場は昭和二十五年、今から四十年も前になります。姉に連れられて参加した「宮沢賢治子供の会」でした。それは戦後の荒廃した世の中で、賢治の童話を通して子供たちに夢を育ててほしいという謹二郎御夫婦の願いで始められたものの、今思うとそれは賢治を世に送り出し、広めた一つの原動力となったのではないでしょうか。そこでふと思うのです。現在の賢治ブームは謹二郎先生が望まれていたこととはすこし違う方向に進んできているのではないかと。私としては残念にも感じます。私事ですが宮沢賢治子供の会で劇を演ずるなかで培われたことは今の私に少なからず影響を与えたことは間違いないようです。

 先生の御活動はそれだけでは留まりませんでした。賢治の精神を根底に教育、特に幼児期の情操教育の大切さに思いを馳せ、それを実現するために幼稚園を創設なさいました。その時の先生御夫婦の情熱は六十歳近い方のそれとはとても思われないものでした。その情熱に引き込まれるように丁度大学をでたばかりの私は教諭としてお手伝いすることに。園長としての先生は理想とする教育理念を決して妥協する事なく研鑽の毎日。沢山のことを勉強させて頂きました。

「世界が全体幸福にならないうちは、個人の幸福はありえない」と詠った賢治のその生誕の地に世界の平和を願うユネスコがないのはおかしいと民間ユネスコ花巻支部を創設し、御自分の地所にユネスコ会館も建てられ、活動の場を提供なさったのです。地道な活動を積み重ね、それも昨年三十五周年を迎えました。賢治と音楽は切り離しては考えられない。そんな思いだったのでしょうか、ユネスコ活動の一環として合唱団も同時に出発いたしました。

 私も今は還暦を過ぎました。謹二郎先生と亡くなられるまで何らか学ばせて頂いたことは、私の人生の大きな指針になっていたように思い、良い出会いをさせていただいたと思っております。

 宮沢賢治に農学校で出会った事は先生にとってどれほどの事だったのでしょうか。私にはとても想像できませんが人生を決めてしまうほど、生き方を決めてしまうほどの影響があったのではないでしょうか。人との出会いの大切さをつくづく感じさせられます。これから巣立っていく多くの子供たちに沢山の良い出会いを与えてあげること、それが私たち大人の大切な役割かもしれません。先生がなさったように。

 賢治の教え子として賢治のエピソードを語る時の先生の生き生きとしたお顔、そして岩手山に連れていってもらった時に教わったという新聞紙を背中に入れて「これはいいものだぞ」と話しておられた先生、賢治の教えを自分の信念として頑なまでに貫いていらした先生。

 映像と思いは尽きることはないのですが、どう表現して良いのか私には及びがつきません。先生の人生の中で私がかかわったのはほんの一面。それでも「すごかった」。

   先生、ありがとうございました。

(会員 岩手県花巻市)





イーハトーブ地理学 大空滝視察行

阿部 弥之

 本年、八月に整備開通が予定されている県道、花巻〜大曲線。その開通を前にして、豊沢川上流・豊沢ダム周辺の観光開発や県立自然公園指定拡大の動きが、俄に、活発になっていると新聞紙上を賑わしています。

 この場所は「なめとこ山の熊」の舞台で、大空滝など実在する地名が作品に数多く登場する、賢治ファンにとっては「聖地」の一つとも言うべき所です。そこで、私たち宮沢賢治イーハトーブセンター花巻市民の会のメンバーはかねてより、この「豊沢ダム」周辺の森林をどの様な姿で活用し、賢治の心を後世の人たちに伝えることが出来るのかと話題にしていました。そこで、機会をつくって、森や旧街道、新設された県道の現況を視察することを決めていました。

 五月の雪解けを待っての視察行きを予定しましたが、その日はあいにくの降雨のために中止しました。やっと、六月二日(日)時折、「天気雨」がパラつく中を実施しました。この日参加したのは会員と賛同者十六名でした。年齢は二十代から大正二年生まれの八十代の方まで、男性ばかりが集まりました。案内は十数年来、この地域一帯の森林や、熊を始め動物の生態調査を続けて居られる佐藤孝氏にお願いいたしました。

 八時十五分に文化会館駐車場で乗用車に分乗して出発しました。途中、豊沢湖ダムサイトの幕舘橋で「なめとこ山」「殿様街道」の説明を受けました。県道工事のために閉鎖されているゲートを開けて、旧中山街道入口に到着したのは九時を少し過ぎた時間でした。ここは旧道に接している建設道路脇ですが小型乗用車三十台は駐車が出来るスペースの在る所でした。

 此処に車を置いて、九時十五分に出発して大空滝、ブナの純林、中山峠へと向かいました。新渡戸稲造の先祖が開削、整備したという中山街道は、実に、快適に林道として整備されていました。途中、舗装箇所さえもあり、営林署が林木の搬出にも最近までも利用してきた道であり、実に、立派なものでした。この道からの景観も素晴らしいものでした。見渡す限りの豊沢川上流の谷や奥豊沢の森林は深く豊かで「豊沢」とは善く名付けたものだと感激した程でした。折からの新緑の季節、まるで、案内してくれた佐藤先生が著書に書いている四十六色の緑が見えるような見事さでした。道端には山菜のミズやシラネアオイが続いていました。一ヶ所でしたが、その昔、ここが海底であったことを証明するグリーンタフが露出していた場所がありましたし、或る稜線には、他の場所では見ることの出来なかった樹木、ネズの大木が連なって育っていたこと周りに聳える山々の名、初めて耳にする「小空滝」の姿等々、興味深い箇所が沿道にありました。佐藤先生からはこの一帯で見たという話もあったクマタカの勇姿は、遂に目撃できませんでした。

 十一時二十分には大空滝の展望台に到着しました。のんびりと歩いて、約二時間という距離でした。渇水期にも枯れることのないという、水量も豊かな三百メートルもの白竜の姿に似た滝は素晴らしい眺めでした。瀑布の水音が聞こえる時もあるとのことでしたが、この日は私どもには届きませんでした。

 そこから三十分登って、戦前に一度伐採したというブナの純林地帯に入りました。それでも相当の大径木が並んでありました。

 ところがこの場所に四駆のイスズ小型ジープで沢内側から登って来ていた若い男女が居りました。ブナの林の中にカメラを設置していましたので小鳥、ケラ類の撮影をしていたものでしょうか。

 こんなにも、簡単に、この絶景の緑の中に車が踏み込んで来られるのだと気付かせてくれました。厳重な乗用車の乗り入れ規制の必要性を、改めて考えさせてくれました。

 正午には中山峠に到着しました。沢内村のほんの数件の民家の屋根、秀峰との名にし負う女神山、真昼岳、和賀岳そして秋田の山々、大曲へと続く眺望は厚い雲に閉ざされては居ましたが十分に満足のいく視察行でした。

 今回の視察行で気付いた事を箇条書きにすると次のとおりです。

 (一)「教育の森」構想によるこの森林地帯一帯の循環歩道の整備、景観の案内版、解説版の整備の必要がある。
 (二)旧中山街道、奥豊沢、中山峠までの花巻側は見事に整備された街道であり、御高齢者も利用できる。周辺の素晴らしい景観の保全と共にこのままに維持し続けることが必要である。
 (三)災害による道路の決壊箇所の復元工事のためや特別な事情以外は車の乗り入れを完全に規制すること。沢内側からの同時規制も必要である。
 (四)整備された県道脇の旧道「大空滝」入口として、「ガイド板」の設置や駐車場整備と水場、トイレの設置が必要である。

(宮沢賢治学会イーハトーブセンター花巻市民の会)





投稿エッセイ

宮沢賢治とエスペラント地名

佐藤 竜一

 宮沢賢治がエスペラントに大きな関心を抱いていたことは、広く知られている。賢治がつくったイーハトーブということばは、岩手の旧かな表記イハテから発想したもので、エスペラントをもじったことばだ。

 一九二六年一一月、旧交を温めようと訪ねてきた盛岡中学校時代の友人・小菅健吉に対し、賢治は「世界の人に解ってもらうようエスペラントで発表するため、その勉強をしている」と語ったとされている。(『校本宮沢賢治全集』第十四巻「年譜」、一九七七年、筑摩書房)。

 世界の人々を読者にしよう。そのためにエスペラントの勉強が必要だということで、エスペラントに関心をもつ明確な動機が語られている。このころ、いや現在でも世界を相手にしようと考えた日本人作家はほとんどいない。

 この年の十二月二日、七度目の上京をした賢治はエスペラントの講習を受けた。花巻にはエスペラントを教えてくれる人がなく、専ら独習していたが、その限界を感じ取っていたのかもしれない。フィンランド公使でエスペランチストのラムステットと出会ったのもこの時期のことで、講演後個別に尋ねた賢治に対し、ラムステットは、「やっぱり著述はエスペラントによるのが一番だ」と語った(十二月十二日付、父・政次郎宛の手紙)。

 このできごとでエスペラント学習熱に弾みがついたに違いないが、現実には残されたエスペラント作品は「エスペラント詩稿」と呼ばれる詩八編のみ。いくら学習が容易な人工国際語エスペラントとはいえ、習熟するには相応の時間と根気が必要だ。身近に先生がいないため、独習に頼らざるを得なかった賢治は、エスペラントで作品を発表するまでに至らなかった。

 だが、エスペラントを学習した成果を作品に生かそうとはしている。「ポラーノの広場」では、モリーオ(盛岡)、センダード(仙台)、トキーオ(東京)、シオーモ(塩釜)といった地名が使用されているが、これは明らかに地名をエス化しようという意図が動いている。

 岡本好次というエスペランチストが「エス化した日本その他の地名」という論文を一九三六年に書いているが(『エスペラント言語学序説』)、一九九二年、日本エスペラント図書刊行会が第二版発行)、その中で東京はトキーオ(Tokio)、京都はキオート(Kioto)、とすでにエス化されていると紹介されている。つまり、世界のエスペランチストが公認の上そう表記しているということだ。さらに、大阪をオサーコ(Osako)、横浜をヨコハーモ(Jokohamo)、長崎をナガサーコ(Nagasako)とする動きがあるとしている。

 もちろん、賢治はこの論文を見ていないが、エスペラントを学習する過程で地名をエス化する事例に触れたのかもしれない。名詞はOで終わり、後ろから二番目の母音にアクセントがあるというエスペラントの規則に従った結果、モーリオなどの表記が生まれたに違いない。ちなみに、当初の「ポランの広場」から「ポラーノの広場」への表記の変更もエスペラントに対する習熟がその背景にあると推測される。

 なお、仙台は当初エスペランチストの間ではセンダーヨ(Sendajo)とエス化されていたが、賢治がセンダード(Sendado)と表記したのが一般化した結果、センダードと表記されるようになった。賢治のつくったことばがひとり歩きした例である。

 おそらくは賢治は、物語の舞台を日本に限定したくなかった。地名をエス化することで、世界にも通じる物語を書こうとしたのだ。私には、この「ポラーノの広場」という作品から「世界の人々に読んでもらいたい」という賢治の思いが垣間みれる。

(会員 岩手県一関市)

─賢治贋作物の事情─

吉見 正信

「会報」第24号で、栗原敦氏が一文を寄せられております。

 それは、「岩手日報」二〇〇一(平成十三)年十二月二十六日夕刊(二)面に掲載された「未投かん手紙発見/花巻 死の三ヶ月半前の賢治/収録全集にない経文」記事中で賢治の直筆とされてしまう事態が起こりました。贋作が本物とされてしまった報道の誤りを指摘し、以前にもあった事例に重ねての警鐘であります。

 実は、そうしたことが生じた経緯・責任は、そもそもが安易・軽率な私の関与から生じたことであります。栗原氏の指摘により、自らの不明を恥じ、会員や各位に申し訳なく存じてます。その概略は以下の通りです。

 昨年末に会員から、賢治直筆書簡が見つかり、所有者から内容がよくわからないので見て欲しいと云っている、という仲介連絡を受けました。

 それはと興味を抱き、記者を誘い車で訪ねました。「記念館で見てもらったところ、賢治の筆跡に間違いありません、大事にして下さい」との回答を得たものとのことでした。

 私なりに筆跡に不審を抱いたものの、すでに鑑定済みのことだし、出所経路もやはり私なり推定でき、「賢治にも色々な筆跡があるのだなあ」と、すっかり当初の不審も忘却してしまいました。そして、あれこれその場の拙速な感想も述べました。新聞記事はそれらの総体としてまとめられております。

 賢治記念館から得た回答が、どうして賢治の直筆です、と逆に受けとられたか?その食い違いはさておき、まずもってなぜ私は記念館に寄り、同日附書簡の原稿を照合しなかったか!その軽率さに事の原因があります。病み上がりでその労を怠ったらしいのです。

 新聞は新聞として、時間的にその「新」を報道する手法から、すでに鑑定され存在している時間をさかのぼっての取材を省略した記事としています。したがって内容の誤りは全て私にあることは云うまでもありません。誤った新聞報道が生じた経緯は以上です。

 ちなみに、この贋作物はやはり私が推定していた通り、花巻の歴史にかかわる人物の名家に、今まで長いこと所蔵されていたものとのこと。してみると、商売人による贋作物というより、誰かの悪戯による偽作物といったものかもしれません。それは謎ですが。

 なお、この物件所有者のY氏は、すでに文化財級の美術品や郷土史料を所蔵するコレクターで、「これはこれとして手放さず管理・所蔵します」と申されております。

 不謹慎な喩えを許して戴くなら、「雨降って地固まる」ではないが、もしこの物件が新聞で表面化しなかったなら、世間を欺いて、巷を独り歩きしたかもしれません。

 それを考えると、被害者でもあるY氏の見識と、栗原氏の警鐘に、私は自戒をこめて感謝いたしております。以上、会員や各位にも私の大失敗をお詫びしてご報告する次第であります。

(会員 岩手県盛岡市)







テキストクローズアップ22
賢治作存疑句 四句

杉浦 静

 賢治の俳号は、風耿。これに定まるまでいくつか案を考えたようだが、「フーコー」という響きを採用したいと考えたのか、「風工」「夫工」「風耿」などを案じたが結局この表記に定め、句稿に署名している。賢治自筆の俳句は、短冊に書かれたもの、障子紙のようなものに試し書きしたもの、詩稿用紙上に詩句にかまわず重ね書きしたものなど、さまざまな形で残されているが、心象スケッチなどと比べるとわずかな数しか残されていない。

 ここに掲げたのは、詩稿用紙上に書かれた俳句。Aは、文語詩未定稿「〔エレキに魚をとるのみか〕」の表裏にそれぞれ書かれたもの。Bは、同じく文語詩未定稿「職員室」表裏に書かれたもの。いずれも、毛筆による習字である。

 Aの季語は「落(し)角」、Bの季語は「目刺」。ともに春の季語である。「落し角」は、賢治の時代の歳時記(『俳諧歳時記 春之部』昭八・十一、改造社)には、「鹿の角落つ」として「鹿の角は四月頃に落ち、初夏に血塊が出来てだんだん角を再生する」との解説がある。また、「目刺」は、「春未だ寒い頃から市場に出て、ひろくどこの厨にもはいる。その訳は、永く貯へて置いても、上等であればあるほど、味が変はらぬといふ重宝なものであり、そして価も廉いからである。」とある。

 これらの句のうち、「自炊子の…」の句は、菅原鬨也氏によって、石原鬼灯の作であることが確認された(『宮沢賢治、その人と俳句』平三・七、創栄出版)が、他の句も、新校本全集では賢治の作とは決めがたいとされている。しかし、これまでは、賢治作でないと断定する証拠もなく、存疑のままであった。

 同じように習字された「花はみな四方に贈りて菊日和」の場合、「装景手記」ノートに推敲課程が記録されていることから賢治作と断定できる。また、「風耿」の署名のある句もまたノート記載状態から賢治作と断定できる。しかし、これらは他に稿も存在しないし、また、「風耿」の署名もされていないのである。短歌にも、これらの句と同じような詩稿用紙上の習字が多く存在するが、それらは、『大正一万歌集』(大三・十、岡村書店)からの抜き書きであることが、奥田弘氏の調査により明らかにされている(『宮沢賢治研究資料探索』平十三・十、蒼丘書林)。

 ここに掲げた四句は、それぞれ同一季語の句を連続して書いていること、俳号署名がないこと、さらに「自炊子の…」が石原鬼灯の句であることが判明していることから、賢治作の可能性は薄いと思っていたのだが、他の三句も賢治以外の俳人の句であることが判明した。既に明らかな「自炊子の…」を合わせて示せば次のとおり。

「自炊子の烈火にかけし目刺かな」は、石原鬼灯の作。

「目刺焼く宿りや雨の花冷に」は、俳号「彩歩」の作。

「風の湖乗り切れば落角の浜」は、俳号「摘星辰」の作。

「鳥の眼に怪しきものや落し角」は、俳号「十八公」の作。

 これらは、『最近新二万句集』(今井柏浦編、大文館書店)の同一ページに、この順番で掲載されているものである。習字の状態からみると、賢治がこの句集のそのページを眼にし抜き書きした可能性はかなり高いのではないだろうか。ただ、この『最近新二万句集』は、さまざまな版があるため、賢治が眼にした時期等については不明である。

(会員 埼玉県草加市)






春季セミナー「賢治の歩いた東京」

2002年3月23日・24日
村上 英一

 平成十四年三月二十三日午後一時、東京駅に集合した約八〇名は、二台のバスに分乗し、東京のバスツアーに出発した。

 日本橋・京橋周辺では、車窓から、賢治がオルガンの練習を行った東京コンサーヴァトリー跡(現塚本ビル)、丸善、東京における賢治の世話役であった小林六太郎宅跡(現鈴和ビル)等を眺めた。

 その後、高速道路に入り、江東区の国柱会本部に向かう。今年は桜の開花が早く、花見の最盛期だったため、渋滞していたが、国柱会では、満開の桜に迎えられた。国柱会は、賢治が入会していた日蓮宗の在家仏教団体。庭園で、トシの遺骨や賢治の手紙が納められた大霊廟に参拝し、辞世の句を刻んだ賢治碑を見学する。田中智学記念館では、賢治の投稿が掲載された天業民報(国柱会の機関紙)等の資料を観る。その後、お茶をご馳走になりながら、大正時代の布教の様子や国柱会館の屋上庭園など貴重な映像フィルムを見せていただいた。丁度この時、外は激しい豪雨に見舞われたが、国柱会を出る頃には雨も上がり、以後も、このツアーは好天に恵まれた。

 都心に戻り、賢治が短歌に詠んだニコライ堂でバスを降り、神田駿河台を歩く。昭和六年九月に発熱した賢治が逗留して遺書を書いた八幡館跡(現カザルスホール)を見学し、そのままホテルまで歩いた。

 ホテルでは、六時から、杉浦静先生の講話「賢治の見た〈東京〉」を受講。七時からは、夕食交流会で親交を深めた。その後、更に、夜の街に繰り出す人々もいた。

 翌二十四日は、午前八時半にホテルを出発。東大赤門前でバスを降り、本郷界隈を散策する。賢治がガリ版切りのアルバイトをした文信社跡(現大学堂眼鏡店付近)、大正十年に家出上京した賢治が下宿した稲垣宅跡(現ベルウッド本郷)等を見学。本郷菊坂町には、古い街並みが残っており、樋口一葉の使用した井戸などもあった。

 次に、バスで目白台へ。大正七年十二月、トシ入院のため上京した賢治が宿とした雲台館跡(現個人住宅)から、トシが入院した永楽病院(旧東大医学部附属病院)、そしてトシが学んだ日本女子大学まで、賢治も歩いたであろうコースを歩く。日本女子大では、トシを通じて賢治に影響を与えた創立者成瀬仁蔵の記念館や、トシがインドの詩人タゴールの講演を聞いた成瀬記念講堂を見学した。

 昼は、花見客でにぎわう桜の名所、飛鳥山公園で弁当を食べた。その後、農林水産省農業総合研究所前の「農業技術発祥の地」の記念碑まで歩く。その付近一帯が、盛岡高等農林二年の修学旅行で賢治の訪問した東京高等蚕糸学校や農事試験場のあった場所である。

 最後は、賢治が東京滞在中にしばしば訪れた上野図書館(現国際子ども図書館)。ルネッサンス様式の洋風建築を見学し、ここで解散。上野公園の桜を味わいつつ、帰途についた。

 今回のツアーは、よく歩いた。町中ではバスの小回りが利かず、駐車する場所もないという事情もあったのだが、賢治が歩いたであろう場所を実際に歩くことで、街の空気や距離感を肌で感じることができた。

 東京の賢治ゆかりの地は、当時の建物が失われ、関係のないビルが建っているような場所が多い。当時を偲ぶには、ある程度イマジネーションを働かせる必要があった。今も東京は変化している。今回訪れた旧東大医学部附属病院(永楽病院)は、本院に統合されるため、昨年廃院となり、丁度引っ越しの作業中だった。国際子ども図書館(上野図書館)は、部分開館をしながらの改修工事中であったが、ツアーの後、今年五月に全面開館した。

 刻々と変化する東京の、賢治ゆかりの地の現在の様子を、このようなツアーによって、みんなで確認できたのはよかったと思う。

(会員 千葉県松戸市)





夏季特設セミナー

2002年7月27・28日
宮沢賢治イーハトーブ館

 今回の夏季セミナーは、「宮沢賢治とホームページ」と題して、七月二十七日、二十八日の二日間、宮沢賢治イーハトーブ館を会場に、一〇二名の受講を得て開催されました。ホールにインターネットとつながったパソコンを持ち込んだり、プロジェクターによるスクリーンへの投影など、これまでのセミナーとは大きく雰囲気の異なるもので、これからのあり方を予感させる内容となりました。

 初日は、代表理事あいさつの後、信時哲郎さんによる講演「電子メディアと宮沢賢治」。宮沢賢治のメディアに対する考えについて、様々な角度から語っていただきました。続いてワークショップ「へぇ、、デジタル化ってこうなのか」では、本会理事である杉浦静さんに、文語詩原稿をスクリーンに写しながら、その変遷について解説いただきました。続いて、本会インターネット部会委員・渡辺宏さんにより、賢治関連ページのネットサーフィンを行いました。

 また、この後の交流会は、連続企画「宮沢賢治をたべる会」の第三回目「イーハトーブのおもてなし」の企画と合同開催。蓄音機からの音に耳を傾けたり、屋外のイーハトーブ館ラウンジにて、夕景の中、風や光を感じながら、創作料理を味わいました。

 二日目は、シンポジウム「インターネットのなかの宮沢賢治」。本会理事である遠藤純さんを司会者に、阿倍冨士夫(「宮沢賢治ワンダーランド」)・小田島貢(「イーハトーブの風の森」)、川崎貴(「宮沢賢治Book」)・浜垣誠司(「宮沢賢治の詩の世界」)の各パネリストの皆様に、各々のホームページを紹介いただき、作成や運営の苦労話をいただきました。





ポラーノの広場─第五夜─
関西賢治ゼミナールと学会

「関西賢治ゼミナール」は、一九八四年、大阪国際児童文学館で開講された「専門講座 宮沢賢治講座」の受講生が、講座終了後、自主的に始めた研究会です。「ゼミ形式」ですから、資料調べやレジメ作りでかなり大変ですが、わいわいやっている間に、いつのまにか一八年が過ぎました。

 私たちの合言葉は、「オールスター・キャスト」と「うずのしゅげ」です。一人一人が自分の立場で個性を輝かせ、お互いに連帯感をもって、会を運営して行こうということと、「うずのしゅげ」のように、八方に散らばって、それぞれの場所で、「賢治」の種蒔きをしようという意味で、同人誌の名前も『うずのしゅげ』と命名しました。

 関西賢治ゼミのメンバーは、もちろん全員宮沢賢治学会の会員ですが、西田が学会設立の発起人の一人だったこともあり、学会スタート時からの会員が多く、学会に対する関心が高いのも、このグループの特徴です。九二年三月二九日、賢治学会の「第一回地方セミナー」という記念すべきセミナーを京都の大谷大学で開催しましたが、その時関西賢治ゼミは、会場の設営や受付、司会と大活躍、メンバーの森井弘子さんは、入沢康夫氏、中川正文氏の講演に先立ち、「紫紺染めについて」の研究発表をしました。新小惑星が発見され、「KENZI」と命名された時、滋賀県の天究館では特別展が行われましたが、その時もキャプション作りから飾り付けまで、すべて関西賢治ゼミが泊まり込みで行い、企画に当たったメンバーの井田誠夫さんが、リチウムで美しい「さそりの火」を再現し、来館者の喝采を受けました。この展示は、その後(九七年七月〜九八年二月)イーハトーブ館で宮沢賢治百年記念特別企画展「新小惑星誕生記念展」として公開されました。

 また、西田が九二年から九五年まで賢治学会の理事を務めたこと、九一年の第二回リレー講演で「『第四次延長』について」を発表したこと、二〇〇〇年の第一一回リレー講演で、メンバーの森本智子さんが「靴を脱ぐジョバンニ」を発表したことなど、関西賢治ゼミにとって、学会はとても身近な存在です。

 私たちは、学会に対しても「オールスター・キャストの精神」で、自分たちの個性を発揮しつつ、他のグループとも交流しながら、関西における宮沢賢治学会の発展に協力していきたいと考えています。

(西田 良子)