宮沢賢治学会・会報第26号

実に野原はいい匂いで一杯です。 /子兎のホモイは、悦んでぴんぴん踊りながら申しました。 /「ふん、いい匂いだなあ。うまいぞ、うまいぞ、鈴蘭なんかまるでパリパリだ。」 /風が来たので鈴蘭は、葉や花を互にぶつけて、しゃりんしゃりんと鳴りました。

・・「貝の火」・・

表紙写真 撮影・大塚 常樹


第26号「スズラン」
2003年3月21日発行
  1. 賢治とコント
    別役  実
  2. 報告
    ・第13回定期大会
  3. 新役員紹介
  4. 第13回定期大会リレー講演
    ・「賢治の時空認識」
    北川 宏廸
    ・「宮澤賢治『雨ニモマケズ』の中国語翻訳について」
    黄 育紅
    ・「賢治世界の第一印象」
    近藤 晴彦
    ・「ビジテリアン大祭に見られる東洋思想をめぐって」
    プラット・アブラハム・ジョージ
    ・「出羽沢の宮澤賢治」
    佐藤 孝
  5. 宇佐見さんを偲んで
    安藤 元雄
  6. 賢治のことば散策
    「人は何故生きるのかという問題」
    酒井 早苗
  7. イーハトーブ人物学
    「娘が語る光原社主人」
    望月 善次
  8. 投稿エッセイ
    喪神の森の烏
    加藤 三朗
  9. 寄稿エッセイ
    「賢治と貞蔵 ・大正七年五月十日付 賢治より貞蔵への書簡・」
    瀬川 恭子
  10. 宮澤賢治資料(33)
    「瀬川貞蔵あて書簡二通」
    栗原 敦
  11. Ihatovo illuminations
    「かしはばやしの夜」
  12. テクスト・クローズアップ(23)
    「賢治晩年の文語詩」
    杉浦 静
  13. 報告
    ・ふくやまセミナー報告
    ・冬季セミナー報告
    ・シンポジウム報告
  14. ポラーノの広場・第6夜・
    ・webサイト「宮澤賢治の詩の世界」
  15. 宮澤賢治イーハトーブ館
    佐々木隆二 写真展 風の又三郎
  16. 宮沢賢治EVENTS
  17. 賢治作品イラスト
  18. あとがき

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賢治とコント

別役 実

 私は劇作家協会の主催する「戯曲セミナー」でコントの書き方を教えているのだが、その生徒たちへの必読文献に、毎年宮澤賢治の童話作品を挙げることにしている。賢治の童話作品とコントという取り合わせは、一見して奇妙に思われるかも知れないが、なかなかそうではない。

 賢治が持っている独特のユーモア感覚もさることながら、話の組み立て方のすっきりした「立ち上がり」が、コント作家を目指すに当たって、是非とも身につけてもらいたい点と考えたからである。コントというものは、「状況設定」と「展開」と「オチ」で出来ていると言われているが、当然ながら、最も重要なのは、この最初の「状況設定」にほかならない。これさえしっかり出来ていれば、「展開」も「オチ」も、必然的に決まってくるからである。

 ところで、この「状況設定」という言葉を賢治の童話作品に当てはめて考えてみた場合、単に話の材料を効率よく組み立てたというだけではなく、たとえば必要最小限の材料を、何もない虚空に集めて組み上げたというような、それだけ独立した構築物のように思える。従って我々がそれを体験した時、一見しておなじみの風景におけるおなじみの状況のようでありながら、違う宇宙の出来事のように思えるのであろう。

 コントというものは、ただ笑えばいいというものではない。出来ればその「笑い」というものが、虚空から見た人間の営みに対する批評でありたいのであり、だとすればその「状況設定」も、我々の日常生活の延長上にあるのではなく、賢治の童話作品におけるそれのように、虚空における独立した構築物のような手触りを持ちたい、というわけである。

 もちろんこれは、「状況設定」のテクニックというよりは、作品全体が拠って立つ根拠に関わることであるから、一朝一夕に身につくことではない。しかも、こうした感覚を身につけるためには、コント作品に特有の「状況設定」のテクニックから、一旦離れた方がいいのである。

 たとえば、「賢治の童話作品を読む場合、何がいいですか」と、生徒に聞かれることがある。最近の生徒は横着だから、そう聞いてその作品だけを読もうと企んでいるのである。「全部読め」と突き放してやることも出来るのだが、そうすると何も読まないことになりかねないので、しょうがない、私もいくつかの作品を挙げてやることにしている。

 コントという観点から考えれば、『注文の多い料理店』とか『オツベルと象』とか『どんぐりと山猫』『セロ弾きのゴーシュ』などが、そこはかとなく漂うユーモアの点から言っても、話の巧みな運び方から言っても適当なのだが、私は敢えて最初に読むべきものとして、『やまなし』を挙げることにしている。例の「クラムボンは笑ったよ」という、蟹の会話ではじまる、ほぼ童話というよりは詩のような作品であり、事態も並列的に推移するだけであるから、話の組み立て方が巧みというわけでもない。

 しかし、作品全体のたたずまいとでも言うべきものが、不思議な手触りを以て確かめられるのであり、これによって私は、それぞれが作るコントの「外まわり」の感触というものの、ヒントにしてもらいたいと考えるのである。コントには、その内側で展開される話と、作品全体が拠って立っている「外まわり」の手触りというものがあり、往々にして無視されがちなのであるが、その後者が大切なのだ、というのが私のコント論なのである。

 余談だが、この「やまなし」をコントと考えると、「クラムボン」という、従来謎とされていた存在のありようがよくわかる。作中の二匹の蟹によくわかっていて、作品の外側にいる我々にわからないことを、敢えて作中人物に語らせるのは、コントとしてはよくある趣向であるからである。もちろん賢治自身は、これをコントとして書いたわけではないであろうが、趣向そのものはコント風に考えたかもしれない。

 そしてもうひとつ、これはコント作家には限らないが、劇作家が賢治を読むことは(事実読んでいる作家は多いのだが)その独特の言語感覚を身につけるためにも、大いに役立っている。劇作家の扱う言語というのは、演技者が口にすることによってはじめて実体化するものであるから、「文字言語」ではなくて、「音声言語」なのであるが、宮澤賢治という人は、我が国では数少ない「音声言語」の書き手なのである。

 奇妙なことに、「情報化社会」と言われる現状の中では、「文字言語」の方が一般的であり、意識しないとそれを「音声言語」に立ち上げられない。賢治を読むと、その感覚が目覚めさせられるというわけである。

(劇作家)





第十三回定期大会

 二〇〇二年度定期大会が、会員ほか二一〇名の参加を得て、昨年九月二十二日と二十三日の二日間にわたって、花巻市のNAHANプラザ、宮沢賢治イーハトーブ館を会場に開催されました。十三回目の大会の様子をご報告いたします。


第十二回宮沢賢治賞・イーハトーブ賞贈呈式

 前日二十一日は、七十回忌にあたる賢治祭が満月の下、詩碑前で開催され、その余韻を残しつつ、翌日の大会プログラムの最初として、午前十時から花巻市主催による第十二回宮沢賢治賞・イーハトーブ賞贈呈式が開催されました。初日の会場は、おなじみとなったNAHANプラザにて、日曜日という日程にもめぐまれ、全国各地、海外から、そして多くの市民の方もお祝いにかけつけました。

 今回の賢治賞は、「『宮沢賢治の深層世界』をはじめとする多数の著書、及び雑誌『ワルトラワラ』にみられる、賢治の深層世界解明に立脚する多くの研究活動」の松田司郎さんに、賢治賞奨励賞には「『宮澤賢治への接近』における実証的分析と、同時代詩との比較対照による豊かな論考」に対して近藤晴彦さんと、「「よだかの星」「注文の多い料理店」「銀河鉄道の夜」をはじめとするマラヤラム語へのすぐれた翻訳・出版」に対してのプラット・アブラハム・ジョージさんのお二人に贈られました。

 また、イーハトーブ賞は「永年にわたって豊かな芸術性を保ちつつ、多数の宮沢賢治作品をオペラ化した功績」のオペラシアターこんにゃく座(代表 竹田恵子さん)に贈られ、当日公演と重なる中、作曲家の林光さんが出席されました。また、イーハトーブ賞奨励賞には、「花巻を中心とする賢治作品の舞台を検証しつつ、花巻の自然保護へと展開した功績」により佐藤孝さんに贈られました。

 花巻市長から賞が贈られ、各受賞者からのスピーチ、その後本賞受賞者による記念講演が行われ、続いてアトラクションとして、こんにゃく座の指導で結成された花巻の合唱団「グランド電柱」の皆さんによる合唱があり、最後は林光さんに指揮していただきました。受賞者の皆さんの業績などにつきましては、会報25号にてご紹介しておりますのでご参照ください。


定期総会

午後一時半から定期総会が行われました。出席会員の中から岩手県石鳥谷町の大原皓二さんを議長に選出した後、議事に入り、まず小・中学生会員の会費を無料にすることについての規約改正、続いて二○○一年度事業報告及び収支決算、二○○二年度事業計画及び収支予算について審議を行い、それぞれ原案どおり可決承認されました。なお、質疑にて事業収入の見込みの内容について質問が出され、事務局より『第2回国際研究大会記録集』刊行にともなうことが説明され、これに関連して「販売にかかることであるから、特別事業として、長期支払いなどの方法も考えるべきではないか」との提言があり、今後の執行にあたって十分考慮していくことが確認されました。

 議案の最後の役員改選については、理事会より提案された改選案について審議され、可決承認されました。本号にて新役員の構成と新しく役員に就任された方々のプロフィールを掲載しております。

 また議事の「その他」において、「第3回国際研究大会」開催にむけ、「開催二年前には準備にとりかかる必要がある」との提言があり、理事会にて検討を進めることとなりました。


賢治研究リレー講演

 恒例のリレー講演では、持ち時間一人十分という中で、それぞれの賢治をテーマに密度の濃いお話をしていただきました。画家・小林俊也さんからは、スライド200枚を次々と上映し(途中映写機が動かなくなるというハプニングあり)、小林氏自身の絵本「オツベルと象」「よだかの星」「どんぐりと山猫」「ポラーノの広場」の紹介がありました(写真)。他の五人の講演の要旨は、本号に掲載しております。


イーハトーブ・サロン ―私と賢治―

 参加者が気軽に所感を述べ合う本コーナー。今回はだいぶ時間がおしてしまったということもあり、参加会員の中から、佐藤成さん(宮城県)、林洋子さん(東京)と高木学校の仲間たち5名、吉田敬二さん(岩手県)の方々に登壇いただき、それぞれ賢治や賢治作品についての思いを、一人五分ずつスピーチしていただきました。今年も記念品として、「イーハトーブ図書券」が贈呈されました。


会員交流・懇親会

 初日の日程の最後は、恒例の会員交流・懇親会で、今回は、イーハトーブ館企画展「宮沢賢治のごちそう博覧会」連続企画「第3回たべる会」とのタイアップ行事とし、企画展監修の中野由貴さんのレクチャー、続いて企画展アンケートの集計結果第一位の「藁のオムレツ」をはじめ、創作料理挑戦の北上パーク・小石さんのレクチャーがありました。その他には六寸ぐらいのビフテキ、山猫軒のサラドなど賢治作品創作メニューや、賢治記念館の高橋万里子さん提供の「やまなし酒」など豪華なものとなりました。また、カリメラ焼きコーナーにはごちそうに目もくれない挑戦者の姿も。

 後半には、五十嵐正子さん(新潟県)のオカリナ演奏、中川真平さん(青森県)、天羽美代子さん(高知県)、小林剛さん(長野県)、奥山真由美さん(北海道)、藤根研一さん(岩手県)らのスピーチがあり、楽しくもなごやかな交流のひとときとなりました。

 ラストは、花巻市長の閉会のあいさつの後、林光さんの指揮により、参加者全員が輪になっての「精神歌」合唱にて幕を閉じました。


研究発表

 二日目は、会場をイーハトーブ館に移しての研究発表です。午前十時から一人三十分の持ち時間で五人の発表があり、十二時半に終了いたしました。この研究発表の記録集を頒布しておりますので、ご希望の方は事務局までお申し込みください(一部五百円、送料別)。


ポランの広場

 大会のフィナーレは「ポランの広場」。今回は、岩手県北上市鬼の館・力丸光雄館長の構成による「鬼との遭遇―賢治と鬼とのものがたり―」で、スクリーンにはさまざまな〈鬼〉の姿が映し出され、鹿川比呂志さんの語りと牛崎志津子さんの朗読にて進行していきました。そしてフィナーレをかざった北上市の岩崎鬼剣舞(国指定無形文化財)は圧巻。迫力の踊りに、客席の拍手はいつまでも続いておりました。




新役員紹介

 昨年九月二十二日に開催されました二〇〇二年度定期総会におきまして、理事及び監事が改選されました。任期は二〇〇四年九月の定期総会までの二年です。

 なお、新理事会におきまして、代表理事・副代表理事の選出と各委員会の担当も決まりましたので、あわせて学会役員を紹介いたします。

◆顧  問
吉田  功・入沢 康夫
◆代表理事
萩原 昌好(再)
◆副代表理事
栗原  敦(元・企画委員長)
佐藤 通雅(再・賞選考委員長)
◆理事・企画委員会
阿部 弥之(元)・斉藤 征義(再)
外山  正(新)・中野 由貴(新)
山口 紀士(新)
◆理事・編集委員会
青木 美保(再)・安藤 恭子(新)
大沢 正善(新)・大塚 常樹(理事外)
富山 英俊(再・委員長)
◆理事・賞選考委員会
黒澤  勉(新)・佐藤 良介(再)
中川 真平(新)・中地  文(元)
◆理事・電子メディア委員会
遠藤  純(再・委員長)
加倉井厚夫(理事外)・杉浦  静(理事外)
渡辺  宏(理事外)
◆全ての委員会に出席できる理事
照井 善耕(新・花巻市教育長)
原  子朗(再・宮沢賢治イーハトーブ館長)
宮沢 雄造(再・宮沢賢治記念館長)
◆監  事
高橋  豊(新)  宮澤 一郎(再)




第13回 定期大会リレー講演(要旨)

「賢治の時空認識」―時空恒等式に基づく時空感―

北川 宏廸

 今日、皆様に是非お話ししたいのは、宮澤賢治という人がわれわれとは根本的に異なる「時空認識」をもっていたということについてであります。

 われわれの常識的な時空認識は、タテ、ヨコ、高さ方向に均等の目盛りが付された、この「ユークリッド空間」、つまり「絶対空間」というものが厳然と存在していて、この絶対空間を、過去から未来の方向に向けて「絶対時間」が一方方向に貫いている、ということであろうかと思います。

 これに対して、賢治は「時間」と「空間」は互いに相対的なものと考え、この関係を一つの〈時空恒等式〉のかたちでとらえていたようであります。ここで紹介する「神田の夜」という詩の一節に、賢治のもっていたこの「時空間」が端的に表れております。それでは、その一節を読んでみましょう。

 X八乗マイナスYの八乗をぼくが分解したらばさ……の「分解」は因数分解の意味だと思います。因数分解すると@式になります。残りが消えての「残り」はA式のことで、消えたのですからA式はゼロです。また、XマイナスYはB式ということですから、このB式にすぐ前のA式を代入するとC式になります。私は、このC式を変形し、D式で示しましたように、三つの項に分解して、それぞれの項に賢治が考えていたと思われる「時空系」を当てはめてみました。各項の前の係数はその系の次元(レベル)を表しております。

 さて、ここで賢治は、Xを顔の茶色の子猫といい、Yを自転車の前のランプといっております。私はランプという「物体」のことではなくてランプの発する「光」と解釈します。私は「誰か」が自転車の前の荷台に「子猫」を乗せて、ランプを灯して夜道を走っている姿を思い浮かべます。ここで賢治独特の時空間が表れてきます。賢治は顔の茶色の子猫Xを「空間成分」と考え、自転車の前のランプ(の光)Yを「時間成分」と考えたのです。賢治は、この世の中の基本形は、この「空間成分X」と「時間成分Y」とを、また、「空間成分Xを偶数乗したもの」と「時間成分Yを偶数乗したもの」とを、同じ次元同士で互いに「足し算した世界(系)」とで、成り立っていると考えたのです。「時間」と「空間」を相対的なものと考えました。

 これに対して等式右辺は「ユークリッド空間」です。この等号は質量ゼロの一次元のところで成り立っています。また、右辺には三つの次元があり、三つの系に分かれています。

 2(x4+y4)・2(x2+y2)は物理系です。この系は二次元で、空間成分xと時間成分yが、それぞれ偶数乗され、偶数乗に層をなしており、賢治はこれを「地層」と表現しています。

 3(x+y)は空間系です。われわれが認識しているまさにこの空間です。われわれは空間軸Xを平面軸、時間軸Yを縦軸とする三次元空間(ユークリッド空間)に生きています。

 それでは、1(x-y)は何でしょうか。これは右辺にある時間系ですから、つまり、ユークリッド空間の「空間」と「時間」の狭間にあって、その間を自由に行き来できる世界ということになりますから、これは「生きものの系」ということになります。

 賢治はすべてのものをこの〈時空恒等式〉で見ております。「銀河鉄道の夜」という童話は、銀河鉄道で「時間」の世界を旅したときの物語であり、「春と修羅」という詩は、春という「空間」状況の中で一粒一粒の「いのち」が、喜怒哀楽し、苦悶しつつ、「時間」と「空間」の狭間を行き来し蠢いている姿を記述したものです。

神田の夜

1928、6、19

《x八乗マイナスyの八乗をぼくが分解したらばさ[ ]
残りが消えてxマイナスyが12[ ]になったので
すぐ前の式から解いたらさ
xはねぇ、
   顔の茶色な子猫でさぁ
yの方はさ、
yの方はさ、
   自転車の前のランプだとさぁ……》

(【新】校本 宮沢賢治全集 第六巻 詩[V]本文篇「東京」P47所収)

賢治の時空恒等式

x8−y8=[(x4+y4)(x2+y2)(x+y)(x−y)]	@
(x4+y4)(x2+y2)(x+y)=	A
x−y=12[(x4+y4)(x2+y2)(x+y)(x−y)]	B
B式に、すぐ前のA式を代入すると、
x−y=12[(x4+y4)(x2+y2)(x+y)(x−y)]=0	C
C式を変形すると、
x−y=    2(x4+y4)・2(x2+y2)・3(x+y)・1(x−y)=0…D
^^^^^^    ^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^   ^^^^^^^^   ^^^^^^^^
時間系     物質系       空間系  生きものの系
------          ------------------------------------------
時間空間         ユークリッド空間


宮沢賢治「雨ニモマケズ」の中国語翻訳について ―現代中国人の受けた感動―

黄 育紅

 日本人によく知られている賢治の「雨ニモマケズ 」は、これまでいくつか中国語に訳された。現代中国人にこの作品はどのように読まれるのか、興味深い。今年の夏休み、中国東北師範大学の大学生をはじめ、中学生、社会人、合わせて46名に対して、滕瑞氏訳の「不畏狂 暴雨」(『宮沢賢治童話選』中国光明日報出版社)と、葉宗敏氏訳の「不怕 雨」(『虹の通信』日中児童文学美術交流センター)という二篇についてアンケートをした。内容はこの二種類の翻訳詩を読んでもらって、どれが好きか、その理由を述べなさい、ということであった。

 結果としては、28名は前者が好き、9名は後者が好き、9名はどちらも好きであるということであった。

 滕氏の翻訳は中国伝統文学における賦の表現法、四言の表現形式で翻訳し、特に互文という修辞格をうまく生かして、原作を昇華させている。この四言詩的翻訳は、中国の民間でよく聞かれる「陋室銘」、健康十訓のような通俗詩と似て、言葉が簡潔で素朴、リズムも明快で口ずさみやすい、などの特徴で高く評価されている。

 葉氏の翻訳は基本的には原作の形式に基づいて、最も簡単な言葉で、他人に何か述べているような散文式の翻訳であり、読者に自由奔放な感じを与えたので評価された。

 今回のアンケートによって、46名の方は初めて賢治の作品を読んだのである。その中には翻訳詩を一読して、簡単すぎてつまらないと思い、中断した方がいる。しかし、再読してよく吟味すると、生活の瑣末なことを述べているような詩の奥底には、華やかな物質生活を望まず、質素で純朴な生活の中に真実を求め、自然との協和を図り、常に自分を犠牲にして隣人を助ける崇高な精神世界と、そして、どんな逆境に置かれても諦めず、決して困難に負けない根気強さが読みとれ、大きな感動を受けたという。さらに、この詩を自分の人生の座右銘として賢治のように生きていきたいと考えている方もいる。

 アンケートから読みとれるもう一つの大きな共通点は、多くの読者は陶淵明の『桃花源記』に描かれている理想郷に引き入れられたように感じたという。そして、詩の中に表われている無心無欲の思想から、自然に老子の「無為」を連想し、静かで粗末な生活態度・様式から仏教の「浄」、諸葛亮の「靜以修身、倹以養徳」などの言葉を連想した。さらに、幼い者を慈しみ、老人を尊び、世を嘆き憂うという賢治の気持ちから読者達は思わず「天下の憂へに先んじて憂へ、天下の楽しみに後れて楽しむ」という言葉も思い出した。

 これらの連想から、敬虔な仏教信者である賢治の思想の奥底には中国古代の道家などの思想もあることがわかった。また、半世紀前の賢治作品が、あのように現代中国人に大きな感銘を与えたことから、文学は国境がないもので、賢治の作品は中国にも現代的な深い意義を持っていると強く感じている。同時に中国の賢治研究者の肩の荷の重さも強く感じ、これから賢治の作品をどんどん中国に紹介する意欲も湧いてきた。

しかしながら、ここで指摘したいのは、葉宗明氏訳には二カ所の誤訳があるということである。つまり、日本語の「看病」の意味を中国語の「看病」の意味に混同したことと、「サムサノナツハオロオロアルキ」の「サムサノナツハ」を「無論冬夏」に訳されてしまったということである。

 また、アンケートの中には、多数の賛美の声に対して、「不怕 雨」は「中学生の習作のようなもの」であり、表現において渋さがあり、「不畏狂 暴雨」の表現内容は要点がはっきりしないという批判の声もある。これらは今後、賢治作品の中国語訳において、如何に工夫して、賢治作品を生かすと同時に、中国の文学表現にも合わせる翻訳をすればよいのか、という大きな課題を示していると思う。



賢治世界の第一印象

近藤 晴彦

 偶然手にとった『春と修羅』の「序」が鮮烈な印象を刻みました。

「わたくしといふ現象は /仮定された有機交流電灯の/ひとつの青い照明です」

子供のときから青年期にかけて ”私という存在“についてあれこれ考えたことはあったが ”私という現象“という言葉が想起させるものは斬新でした。未知の世界をかいま見たという印象でした。それに続く

「あらゆる透明な幽霊の複合体」
 という一句も一体何だろうという感触がありましたが、この方はどこかの万博でアトラクションとして呈示された「立体映像」を連想させてくれました。レーザーか何かで、空中に立体的な映像を現出させる仕組みです。立体映像である美女と握手しようとこちらが手を差しのべる。然しその手は相手を突き破って向こう側に抜けてしまう。美女という現象はあるが、美女という存在はないわけです。美女は見えているが存在しない、それは私の視野に映るイメージのようなものです。賢治は聴覚も嗅覚ももちろんそなえているが、視覚的なイメージが支配的です。彼が眼にするもの、視覚として脳裏に刻印されるもの、それが現前する現実であるという実感がヴィヴィットに支配していたようです。当時西欧で、存在と認識者という二項的主客対置の構図を脱して意識における現前を出発点とする思考がフッサールをはじめとして起こっていますが、賢治はそれを知る由もなかった。全く独自に発見していったということは驚くべきことです。

 映画館におけるスクリーンのように、意識という面に外界が反映する。このとき映った画面に外界からの投射だけでなく、内界からの ”眼に見えぬ“投射もあることを賢治は感じていました。いまひとすじの並木道に立っていると仮定しますと、その並木道の幾何学的な図像とともに、ある感触が感じられる。子供の時、その道で競争して一番になったことのある人には愉しい感触が、また曽て恋人とそこをよく散歩した人ならば、悲しいような、懐かしいような感触を伴うことでしょう。

 『春と修羅』のはじめの方に「コバルト山地」という一編があります。

  コバルト山地の氷霧のなかで/あやしい朝の火がもえてゐます/毛無森のきり跡あたりの見当です/たしかにせいしんてきの白い火が/水より強くどしどしどしどし燃えてゐます。

 この「白い火」を語り手(である賢治)はありありと見ているわけです。山火事なのか焚き火なのか、それとも「白い火」だから陽光が金属的なものに当たった反射なのか。本当にそれは燃えていたのだろうか、錯覚か、幻想か。だからそれは「せいしんてきの火」なのでしょう。然しそれは、そのときの意識には現前していたのです。

 また「印象」という詩編では

ラリックスの青いのは/木の新鮮と神経の性質の両方からくる
 と言っています。落葉松の芽吹きの頃の「青さ」は新鮮さに満ちていますが、それを感ずる感動は心の内側からの想いが大きく関与しています。意識のスクリーンには明らかに外界内界からの二重うつしが映っているのです。



「ビヂテリアン大祭に見られる東洋思想をめぐって」

プラット・アブラハム・ジョージ<

 宮澤賢治のどの童話作品を見ても賢治独特の神秘的な自然観、世界観が見られます。「ビジテリアン大祭」もその一つです。しかし時間の制限があるので、ここで、賢治の東洋思想に関する二つのポイントだけを簡単に申し上げたいと思います。

 まず、「ビジテリアン大祭」の参加者についてです。作品の中では、日本、中国、トルコそしてアメリカ、カナダなど欧米の国々からの代表が大祭に参加しています。しかし、菜食主義者の産屋とでもいえるインドからの代表はいないのに驚きましたが、作品をまた熟読して見ると、三箇所にインドに関する引用があるのに気づきました。それは、

 一、「印度の聖者たちは実際ゆえなく草を刈り、花を踏むことを戒めました」
 二、「印度の聖者たちは濾さない水は飲みません」
 三。「今日のビジテリアンは実に印度の古の聖者たちよりも食べ物のある点について厳格である」
ということでした。つまり、大祭にインド代表が参加していなくても、この作品を書いていたとき賢治の頭の中にインドのことが常にあったといえるでしょう。賢治はジャイナ教、仏教そしてヒンドゥー教の発祥地であるインドは菜食主義の本場であるということを十分認識していたにちがいありません。  次にはこの作品における菜食主義者の分け方について簡単に申し上げたいと思います。

賢治は作品の中で菜食主義者を理論的に「同情派」と「予防派」と、二つに分けています。
「同情派」とは、人間を含むすべての生き物は命を惜しむので、人間が他の生き物を殺すことは無慈悲で情けないという人々のことです。
「予防派」とは、肉類や魚など動物質を食べると病気にかかったり、体の具合を悪くしたりしてしまう恐れがあるので動物質を一切食べないという人々のことです。

 これに対して、インドにおける菜食主義者を分類してみたいと思います。ご存知のようにインドはジャイナ教、仏教、そしてヒンドゥー教の発祥地です。

 ジャイナ教は生き物を殺すことは「罪」と考え、昔から菜食を厳しく守ってきました。

 仏教は生き物への慈悲、転生輪迥および因果応報の哲学を教義とし、動物を殺すことを許しませんでした。

 ヒンドゥー教はカルマと生まれ変わりの哲学を掲げて、生き物を殺したり、肉をたべたりすることを厳しく禁じてきました。ヒンドゥー教の生まれ変わりの考えでは、人間が死ぬということは、その魂が仮の宿である体を捨てて、別の形をとって、また生まれてくることです。次に生まれてくるとき、どんなものに生まれてくるのか、それはこの世のカルマによるものです。牛であるかもしれません、犬であるかもしれません。または、再び人間として生まれてくるかも分かりません。だから、動物を殺してはいけません。なぜなら、殺される動物は自分の親であり、兄弟である可能性があるからです。

 多神教のヒンドゥー教はまた、命のあるものにも命のないものにも神様があると信じています。だから「殺生」してはなりません。さらに、肉や魚などが人間の心身を汚すという考えもあるわけです。

 このように、インドには昔から宗教の教えに基づいた菜食主義者が大勢いるのです。

 そして、現代インドの菜食主義者を三つのグループに分けることができると思います。まず、第一グループは「宗教派」つまり「生活派」で、ジャイナ教の全員、仏教徒の一部そしてヒンドゥー教の約三割以上がこのグループに入ります。彼らは生まれてから死ぬまで肉や魚を一切食べません。

 第二グループは作品と同じく「同情派」で、宗教信者でなくても動物に対して慈悲、同情および愛情を持っている人々で、動物を殺したり肉食をしたりしません。

 第三グループはまた作品と同じく「予防派」で、動物への慈悲・愛情のためではなく、自分自身の健康を維持するために菜食を選んだ人々のグループです。

 次に、実際に食べる食品を基にインド人菜食者をさらにいくつかのグループに分類できます。まず、第一に牛乳や乳製品を食べるが、それ以外の動物質を一切食べないという純菜食主義者です。このグループには肉のようなにおいがしているといって、野菜の玉葱をさえ食べない人もいます。次に、卵や玉葱などを食べる菜食主義者で、このグループは数から見ると一番多いと思います。三番目のグループは、動物の肉はだめだが、魚なら食べるという偽善者的な菜食主義者です。肉食は一時的に人間の体力を増やし、体をたくましくする働きをするが病気の原因ともなります。インド人の考えでは、肉食は人間を、暴力を振るうものにさせます。逆に、菜食は人間の心を優しくし、ほかの生き物にたいして同情と慈悲を持つ心を作り上げ、平和的な共存共栄を可能にする。賢治もこの作品の結末に同じことをいっています。



「出羽沢の宮澤賢治」

佐藤 孝

「なめとこ山の熊」の中に大空滝が書かれています。この滝を花巻あたりでは最近まで「大空の滝」と呼んでいましたが、この滝に「の」はつかないんだと市や県に掛け合って五年程になります。いまでは正しく大空滝となりましたが、その時「なめとこ山の熊」の原稿が役に立ちました。読み方が「おおぞらの滝」でなく「おおそら滝」だからこそ書き違えたような間違いと訂正があったのです。原稿の間違いさえ役立つとは、宮澤賢治は本当に普通の人ではないと思いました。皆さんもいつか原稿をながめてみてください。

 さて、今日の話は「出羽沢の宮澤賢治」についてです。花巻の豊沢湖の奥に野外活動センターがあります。そこを中心に半径五キロの円を描くと、北はナメトコ山、東は塚瀬森(サッカイの山?)、南は小十郎最期の松倉山、西に大空滝が位置します。この一円はまさに「ナメトコ山の熊」の舞台なのです。ところがここに一ヶ所だけ作品に書かれなかった空白地帯があります。湖南西の出羽沢です。

 賢治は大正七年七月二十二日に出羽沢を歩いてルートマップに書いていますが、その奥に、そこまで行かないと見えない記号が三ヶ所書かれています。大(オオ)ヘンジョウの滝の左の「and?」ですが、アンディサイト「安山岩でないか?」という疑問です。その記号が大毒沢付近と、松倉山の下にもありますから賢治が出羽沢に行ったのは確かですが、出羽沢の地名が一切出てこないのです。

 この出羽沢は賢治の揺れていた宗教心を逆なでした地域ではないでしょうか。すなわちここは権現山や出羽沢山、御嶽などがある真言宗の修験道の山々のようで、近くには大ヘンジョウの滝があります。最下段が五十メートルほどの滝ですが、「遍照」とは真言宗や空海に係わる尊号です。日蓮宗を生んだ天台宗の最澄は激しく空海と対立しましたから、日蓮宗に傾注しはじめた賢治は、この辺の地名を使おうとしなかったのかもしれません。

 しかしなぜか滝のことは名を伏せて書いています。「なめとこ山の熊」の中に二つの滝が描かれています。一般には大空滝だけのように思われていますが、はっきりと違う滝が出てきます。「山のなかごろに大きな洞窟ががらんとあいてゐる。そこから淵沢川がいきなり三百尺ぐらゐの滝になってひのきやいたやのしげみの中をごうと落ちて来る」。非常に具体的で、おおきな洞穴とか、三百尺とか、落ちて来るとか描いてあります。そして二行空いて「風が山の頂を通ってゐるやうな音がする。気をつけてそっちの方を見ると何だかわけのわからない白い細長いものが落ちて煙を立ててゐるのがわかる。それがなめとこ山の大空滝だ」と、こちらは「なんだかわけのわからない白い細長いもの」と書いています。そして「落ちて来る」でなく「落ちてゐる」です。前の方がオオヘンジョウの滝です。

 大正七年には徴兵検査があり、ベジタリアン宣言や、父との宗教対立がありました。そして退学届けを出しました。肺結核の始まりです。八月にはそんな迷いを一掃するように童話を書き始めていますが、十二月には妹トシの入院です。賢治の一生でもっとも心が揺れた年、それが大正七年だったと思います。

 私は「なめとこ山の熊」は未完成な作品で、だから推敲もせずに机の中に入れていたのではないかと考えていますが、その迷いの中には出羽沢のこともあったのではないでしょうか。今後賢治研究家の皆様が出羽沢を歩いて検証していただければ有り難いと思います。

[補説]私は「マミ穴森」は高狸山で妹、「サッカイの山」は塚瀬森で兄でないかと考えています(拙著『宮澤賢治に誘われて』、または『検証「なめとこ山の熊」の原風景』「宮沢賢治研究会『賢治研究』85号参照」)。トシの死を前に書かれたこの童話の、宗教性と出羽沢について考える必要があると思います。




宇佐見さんを偲んで


第七回宮沢賢治賞を受賞された宇佐見英治氏が二〇〇二年九月十四日にご逝去されました。謹んで哀悼の意を表します。

受けて伝えず  ―宇佐見英治さんを偲んで―

安藤 元雄

 宇佐見英治さんを、多くの人が「詩人」と呼ぶ。実際、宇佐見さんほどこの肩書きのふさわしく見えた人も少ないだろう。空や雲や樹や、人の世のさまざまな営みについて宇佐見さんが語るとき、それはまるで詩について語っているように思えたからだ。しかし宇佐見さんは、自身ではついに一冊の詩集も遺さなかった(大学を出てすぐに徴兵され、四年間にわたって戦線を転々とした際の歌集『海に叫ばむ』が刊行されているほか、小説集『ピエールはどこにいる』もあるのだが)。

 けれども「詩人」のほかに、宇佐見さんを何と呼ぶべきだろうか。宇佐見さんの語る言葉は常に博識と洞察に裏打ちされていたが、その博識や洞察はすべて己を虚しくした凝視や傾聴に支えられていて、宇佐見さん自身の言葉を借りれば「世界を決して概念化せず、あるがままにこの眼で見ること」が、その語りの美しさを生んでいた。見たものや聴き取ったものをいわば自分の中に肉化して語るという点で、宇佐見さんは語源的な意味でのamateur(愛する人)だった。アランのように、あるいはバシュラールのように、宇佐見さんは知的な専門領域などにはとらわれずに、見たまま聴いたままの感動を語り続けた。それはやはり詩人の姿勢だった。

 まだ学生のころから誘われるままに、宇佐見さんとその友人たちとが主催する「黒の会」の末席につらなり、ほとんど高雅なサロンのようなその集まりの雰囲気を味わうことができたのは、私にとって何という幸運だったのかと、今になって思い当る。あの雰囲気を支えていた矢内原伊作、山崎栄治、曾根元吉、安川加寿子といった人々がすべて故人となり、いままた宇佐見さんを失ってみると、何だか故郷の集落が廃村になってしまったのを見るような気がする。もっとも「黒の会」の雑誌『同時代』はいまも立派に続いているのだから、こんな言い方はあとを継いだ人々に対して非礼きわまる話だが、半世紀も前のあの若い頃の体験があまりにも強く印象に残っているのでお許しを願いたい。

 そういう空気の中で宇佐見さんは、あろうことか、まだやっと大学を出たばかりの私に、アランの『芸術についての二十講』を矢内原伊作さんと共訳してごらんと持ちかけ、それが私の初めての本格的な翻訳仕事になったはいいが、最初のページからたちまち、引き受けたのを後悔せざるを得なかった。それほどむずかしくもなさそうに見える原文が、どうしても日本語にならないのだ。七転八倒のありさまでやっと半分を仕上げ、あとの半分を受け持つ矢内原さんにつないだが、このときのつらさは私にとって、翻訳という仕事を甘く見てはいけないという、骨身にしみる教訓となった。

 それでも宇佐見さんはどうやら私を見捨てなかったらしく、私がジャーナリズムから教職に転じるとき、ずいぶん親身に世話を焼いて下さった。そしてそのあとも、『山崎栄治詩集』の編集や、『齋藤磯雄著作集』の編集などの仕事をご一緒させていただいた。それらを通じて、私は宇佐見さんから何を学んだろうか。宇佐見さんの文章の中に阿藤伯海の「受けて伝えず。受くるの至なり」という不思議な言葉が出てくるが、宇佐見さんもまた、もしかするとこの言葉を黙って実行していたのかも知れない。汲み取るのはこちらのつとめなのだ。

 比較的早いころにたびたび美術評論の筆を執り、ハーバート・リードの翻訳などもあった宇佐見さんは、あのころまるで、いわゆる美術批評家のようにも見えていたが、実はそれとほぼ同じ時期に宮澤賢治にも傾倒し、いくつかの賢治論を発表された。それが最晩年の著作の一つ『明るさの神秘』にまとめられ、宮澤賢治賞を受けている。発表当時に私もそれらの賢治論を愛読したが、それ以上にこの本は、普通の出版社ではなく、宮澤賢治と宇佐見英治をともに愛する岩手県のある林檎園経営者が独力で編集出版したという、まさに賢治の「農民芸術論」を地で行くような成り立ちを持っている。伝えなくても、伝わるものは確実に伝わるのだろう。

 宇佐見さんから最後にいただいたお便りは、大泉のご自宅からではなく、武蔵境の老人ホームからだった。しかしホームでの暮らしの様子は「余生の余生、人生最後の新たな孤独」とあっさりしるされただけで、あとはほとんど読書のことばかりが書かれていた。最後の瞬間まで、宇佐見さんは「見る」ことをやめなかったわけだ。こちらもいつのまにか老境に近づいているのをようやく自覚し始めた折だけに、以前よりも大きな字で書かれたこの手紙には、思わず襟を正した。 

(会員・神奈川県藤沢市)




賢治のことば散策


『人はなぜ生きるのかという問題』

酒井 早苗

 ……他の非を忿りて数ふるときは
   さながら大なる鬼神のごとく
   わづかに身の非を思へるときは
   母そのうなゐを見るにも似たり……

 人の言葉や行いが、思うようにならないと心を乱します。相手に非があると考えます。けれど自分は、人の気持ちや立場を理解しようとしたのかと考えると、全く恥ずかしい限りです。生きてゆくということは、自分の問題集を解いていくことだといいます。人の問題を裁くのではありません。それなのに、つい自分の採点は甘くなるのです。賢治さんは最期まで、相手の要求に応えようと努力を惜しみませんでした。中傷をも甘んじて受けました。そして「まだまだ自分は、自分を甘やかして見ているな」と言うのです。偉い人ほど、強い人ほど謙虚になれると思います。賢く強い人は、相手をほんとうの幸せに導きます。私は自分の問題を解くとは、何かに挑戦してやりとげることだと思っていました。それもあるでしょうが、ほんとうの問題は、毎日の生活の中で、つい人を傷つけたり、怠けたりする、そういう自分の心のくせを直していくことなのかなあとこの頃思います。賢治さんの持っていた、ほんとうのやさしさ。それを理解して、生きてゆけたらいいと思います。賢治さんから教え子への質問で、答えもありますが、賢治さんの生き方そのものが、ひとつの宝石のような答えでしょう。

(会員・栃木県宇都宮市)




A 大正6年1月20日岩手県人会(盛岡高等農林)。 中列左から3番めが賢治。後列中央が及川四郎。
B 及川四郎に送られた『国譯妙法蓮華経』
C 棟方志功の書を彫った光原社の看板と志功の説明書き
D 賢治モニュメント。賢治の像が嵌めこまれ、傍らの石柱には『烏の北斗七星』の一節が記されている
E 書家宇山博明の壁書き
F 現在の光原社本店前景

イーハトーブ<人間>学


娘が語る光原社主人
  ―『注文の多い料理店』発行元 光原社主人、及川四郎三女、川島年子さんに聞く―

構成・聞き手 望月 善次(会員 盛岡市)

―本日は貴重なお時間の中からありがとうございます。  『注文の多い料理店』を、実質的には一人で発行されたお父様の及川四郎さんは、娘さんの目には、どんなに映っておられたかについてお聞かせください。

川島 父は、色々なことを、直接私達に向かって話すということはなかった人でした。私の方にも、「父親は、いつも側にいるものだ。」と言う思いがあり、色々なことを改まって聞くということはありませんでした。今日お話することも、父の傍らにいて、父が他の方に話をすることなどを聞いていたことです。お役にたてればよろしいのですが…。私ですか、大正十二(一九二三)年の生まれですから、丁度八十歳になります。

 ―『注文の多い料理店』の発行が大正十三年の十二月のことですから、正に『注文の多い料理店』とともに歩んで来られたことになりますね。お父さまが賢治と知り合いになられるまでについてお聞かせください。

川島 父は、水沢の姉帯(あねたい)の出身で、明治二十九年の生まれです。賢治さんと同じ年の生まれですが、父の方は、高等小学校へ行きましたから、高等農林では、賢治さんの方が一年上だと思います。

 ―在学中から親しかったのでしょうか。

川島 「岩手県人会」における賢治さんとご一緒の写真もありますが〔A〕、父は第一部(後の農学科)で、賢治さんは第二部(同農芸化学科)でしたから、深いご縁は、やはり、『注文の多い料理店』発行の時だと思います。〔B〕

 ―近森善一さんとでしょうか。

川島 近森さんは、父と同級の方でした。高知の大変なお金持ちの方ですが、晩年は、波乱の生涯を送られるのです。当時は館坂(たてさか)の松原さんという沢山の土地をお持ちの方からお借りした一画に住んでおりまして、私達家族も、やはりその一画に住んでおりました。当時そこからは、高等農林も見え、特にその五色の旗が印象的でした。

 ―近森さんは、最初農薬などの販売のために、花巻農学校を訪ね、そこで賢治から童話の原稿を見せられ、それを盛岡に持ち帰ってお父さまに見せ、二人は童話集の発行を決意したと言われていますが。

川島 そうですね。その直後、近森さんは、実家の事情で四国へ帰ることになり、その後は父が一人で行うことになったのです。父は、これだと信じたことについては、一心に取り組む人でした。こちらの一画にある「うるし工房」には、賢治さんの他、柳宗悦・芹澤金圭介・川上澄生・棟方志功・鈴木繁男・高橋万治・佐々木千治・内藤呂山・及川全三・吉川保正・宇山博明などの方々縁のものを収め、ご希望の方には、お見せしておりますが、棟方さん〔C〕のように無名のうちから面倒を見た方も少なくなかったのです。とにかく情熱的で求道的な精神を持っていた人でしたから、不遇な芸術家や学生さん達の面倒を見たことも少なくなかったのです。戦後、岩手大学発足時に、母校の単独昇格を掲げて頑張ったのも同じ精神からでしょう。
 ですから、『注文の多い料理店』についても、一生懸命に取り組んだと思います。

 ―そうしたお父さんを御家族のみなさんはどうお思いになっておられたのですか。

川島 両親を尊敬しておりましたが、出版については、一笑に付してましたねぇ。父は全部で二八種類の本の出版を手掛けるのですが、「お父さんのだすものは、お金にならない。」なんて思っていましたね。その後もず〜っと、まだまだ石川啄木の方が有名な時代が続きましたから、「啄木の方が良かったのでは。」などと言ったこともありましたね。

 ―「光原社」という名前も『注文の多い料理店』発行の時につけられたのですね。

川島 出版社らしい名前をというので候補を五つほど持って行ったらしいのですが、賢治さんが「光原社」がいいと決められたということです。父は、「光原社」の名前には、とても気をつかっていて、手紙などで「原」に「源」を書いて来られる方がおられると、ああした気性の人でしたから、よく「『光原社』の『原』は、『さんずい』のつかない『原』です。」などと返事を出しておりました。

 ―確か『宮澤賢治語彙辞典』(東京書籍、一九八九)の「年譜」にも、誤植で「光源社」とありましたから、偶然の一致ですね。  ところで、『注文の多い料理店』の「奥付」には、「杜陵出版 盛岡市厨川館坂五六」と「東京光原社 東京巣鴨町宮下一七九四」とありますね。

川島 発行人は、今も申し上げた事情で、近森さんの名前になっております。住所は、盛岡の方は、前に申し上げた住所で、東京の方は、知人の吉田春蔵さんの住所ですね。光原社は、後には青山に出張所を持ち、私もそこから学校に通ったのですが、それまでは東京には決まった家などなく、他の本の発行所についても一時的な住所にしておく、ということはよくあったと聞いております。

 ―『注文の多い料理店』について、川島さんの思い出はおありでしょうか。

川島 父が色々な所で売ろうとしたが、上手く行かなかったことは御存知ですね。かけっこの賞品に、子ども達にもあげたという話は以前にもお話しましたね。私としては、本が家の中に積んであって姉と「鬼ごっこをするのに邪魔ねぇ。」などと言っていましたね。

 ―お父さまは、賢治のことをどう思っておられたのでしょうか。

川島 「天才」とは、こういう人なんだなあ、と言っておりました。父は、色々な時に、よくメモを作る人でした。『注文の多い料理店』出版の時も、作ったメモを持って賢治さんを訪ねたと聞いています。メモの質問が途中まで来た時、賢治さんの話は違う話になり、そのお話を朗々と長くなさったそうです。その長いお話の後で、またメモの続きに戻り、しかもメモの質問の答えに少しもずれていなかったそうです。父は、すっかり感心してしまったということでした。

 ―光原社が今の場所に移った事情などをお聞かせください。

川島 館坂の方から、私の小学校二年生のころに夕顔瀬の方に移ったと思います。夕顔瀬からこの場所に移りましたのは、確か女学校二年の頃ですから昭和十二年(一九三七)年頃でしょうか。軍隊の部隊増強に伴って、夕顔瀬橋を木の橋から鉄の橋へ変えることになり、私達の家も三ヶ月以内に移動するようにとのことでした。この場所か、今の「壱番館」辺りかということでしたが、父は川の側ということで、この場所を選んだのです。以前は盛岡銀行が持っていた土地ですね。

 ―今の場所には、観光客の人気を集めている「烏の北斗七星」の記念碑〔D〕や賢治作品の壁書き〔E〕などもありますね。

川島 「烏の北斗七星」の記念碑は、戦後、防空壕の後に建てたものです。最初は側に桜の木を植えたのですが、根づかず今の紅梅になっています。壁書きは、先にお話しした宇山さんが終戦後、書いたものです。昭和二十三(一九四七)年頃だったと思います。宇山さんは、あの書が示すように自由奔放な方で、この時も私達家族はなかなか大変でした。

 ―光原社の精神をお聞かせください。

川島 父は最初、出版などに携わっていたのですが、やがて柳宗悦先生の「一般の人が何気なく使っているもの、生活の中にあるものが美しい。」という「民芸運動」の精神に感激して、民芸の方に行くのです。商売の関係で、そこまで行かないものを扱ったこともありますが、「これというもの」を扱いたいというのが、父の願いでした。お蔭様で、現在はそうなっていると思います。〔F〕

 ―今日は長い間、どうもありがとうございました。




投稿エッセイ


喪神の森の烏

加藤 三朗

 『注文の多い料理店』の新刊案内で賢治は「この童話集の一列はじつに作者の心象スケッチの一部である」と書いている。「心象スケッチ」ならば、『注文の多い料理店』と同じ年に刊行された詩集『春と修羅』も「心象スケッチ」と主張されている。そのなかの詩「春と修羅」に「喪神の森の梢から/ひらめいてとびたつからす」とある。「喪神」とは、手許の辞書によれば「(正常の)意識を失うこと」とある。普通には「喪心」と書く。賢治がこの意味で使ったようには思えない。文字通り〈神を喪う〉という意味を込めているに思われる。神が存在しない森から烏が飛び立ったのである。どんな烏なのだろう。

 烏といえば『注文の多い料理店』の「烏の北斗七星」の烏を想い起こす。この作品の舞台には、北の方に栗の木が、西の方にさいかちの木が配置されている。栗の木は「どんぐりと山猫」にも「水仙月の四日」にも出てくる。「風の又三郎」にも栗の木とさいかちの木が配置されている。栗の木とさいかちの木は他の作品にも頻繁に登場して来ている。どうやら、栗の木とさいかちの木のあるあたりの森が「喪神の森」ではないだろうか。そして「春と修羅」の中の烏は、具体的には「烏の北斗七星」に出てくる烏のことではないだろうか。もしそうだとしたら、どの烏が「喪神の森」を「ひらめいてとびた」ったのだろう。

 「烏の北斗七星」には、何羽かの烏が登場して来ている。主人公の、大尉の「若い艦隊長」の烏が「喪神の森」の烏だろうか。一見、そのように見える。戦争という理不尽なものに対する「若い艦隊長」の祈りには胸が打たれる。「(ああ、マジエル様、どうか憎むことのできない敵を殺さないでいいように早くこの世界がなりますように、そのためならば、わたしのからだなどは、何べん引き裂かれてもかまいません)」

 新刊案内に「戦うものの内的感情です」とあるように、この祈りがこの作品の訴えたいところであろう。やはり、「若い艦隊長」が「喪神の森」の烏なのであろうか。しかし、「喪神の森の梢から/ひらめいてとびたつからす」の前の行は「すべて二重の風景を」となっていることが気になる。「烏の北斗七星」も 〈二重の風景〉になっているのではないのだろうか。

 ここで再び、栗の木とさいかちの木に注目したい。「どんぐりと山猫」では、栗の木は異次元への出入り口となっている。一郎は先ず、栗の木に山猫の居場所を尋ねている。「水仙月の四日」では栗の木のやどりぎが生と死のシンボルとなっている。そして、「風の又三郎」では、栗の木とさいかちの木のところで高田三郎は同時に風の又三郎となっている。どうやら、栗の木とさいかちの木は〈二重の風景〉が現出する場所のようだ。

「若い艦隊長」の烏はさいかちの木にとまっており、敵の山烏は栗の木にとまっている。「喪神の森の梢」からひらめいて飛び立った烏はこの戦死した山烏ではないだろうか。そして、この山烏はまた「若い艦隊長」自身のことではあるまいか。

 「心象スケッチ」とは〈二重の風景〉をスケッチすることに他ならないだろう。

(会員 神奈川県秦野市)




エッセイ


賢治と貞蔵 ―大正七年五月十日付賢治より貞蔵への書簡―

瀬川  恭子

我が家に宮沢賢治より来信の一通の手紙があります。それは私の夫の父、瀬川貞蔵あてのもので、発信は大正七年五月十日で花巻川口町よりのものです。この手紙は筑摩書房発行の『新校本宮澤賢治全集』までのどの全集にも収録されていない書簡です。私は大分以前にこの書簡を見せられ、賢治の貴重な直筆として大事に蔵して居りましたが、賢治が現在のように多面体の天才として把握されて居らず主として童話や詩などの文学方面でのみ注目されていた時代には、この書簡はあまり参考になるものではないと思って居りました。しかし、私は教職最後の六年間を花巻農業高校に勤務し図書館の係として深く賢治にかかわる様になり、在職中から寺島昌子氏主宰の「賢治の作品を読む会」の一員に加えて戴き、寺島氏亡きあとは、非力乍らそのあとをお引き受けし、今年で十一年になります。その間には賢治生誕百年祭などもあり、賢治について学ぶところが多々ありました。もとより生まれついての能力の無さの上に戦時中の学力不足もあって賢治の全人格を窺い知ることは出来ませんが、最近になってこの書簡もやはり皆様に知って戴くことで何かのお役に立つのではないかと思うようになりました。そこで、その全文を書き写し※印の所を調べて書き添えたいと思います(変体仮名は現在通行のものに、漢字は常用漢字体のあるものはそれによりました。本文写真は本号掲載の宮沢賢治資料をご参照下さい)。

謹啓 過日御手紙接手後早一ヶ月にも及び候処御返事とても差し上げず誠に怠慢御申し訳も無之次第に御座候 実は学校にては野菜菓実等は払下げ致し候へども草花の種苗等は尚その運びに至らず秋ならば自分にて種子を得る様の事も可能の次第に御座候へども只今にては矢張種苗商より求むるの外なくと存じ盛岡にて諸方問ひ合せ候処
仙北町にてダリヤの芋、朝顔の種子のよきもの有之を聞きダリヤは芽を出したる後に根分致す由にて待ち居り候処遂に徴兵検査にて帰花仕り爾来矢張 諸方をのみ歩き居り今に至る 何等御依頼に答ふるものなき次第と相成り候
近頃御聞き及びも有之候事と存じ候、横浜の種苗商当地矢沢村に於て従来の輸入草花を多数試作致す由にて当地にては可成之を配附して種子を買ひ上るの予定と承り申し候 若し本年より右の如く行はるゝときは誠に好都合にて極めて珍らしき種類をも得べき事と存じ候
御祖母様御楽しみの事故折角と御栽培相成され候様祈り上げ候 尚前記ダリヤと朝顔は近日中に御届け申すべく候
申し遅れ候へども御親父様御快方の趣奉大賀候
 先は以上雑然と申し上げ候 御判読願上候  敬具
   大正七年五月十日
        宮沢賢治 拝
    瀬川貞蔵大兄
〈※の説明〉

※1 瀬川貞蔵(明治29年3月1日〜昭和28年4月2日、享年58歳)

 三代弥右ェ門の二男として花巻町四日町に生る。明治四十二年(一九〇九)三月花巻小学校卒。同年四月五日 県立盛岡中学校(現盛岡一高)入学。寄宿舎自彊寮に入る(賢治も同様)。一年第三学期には賢治と同室となる。盛岡一高『白堊校八十年史』五十一頁に明治四十三年三学期の写真が載っていて、前列左が賢治、その右となりに座っているのが貞蔵である(この写真は『九十年史』にも『百年史』にも載っている)。大正二年(一九一三)盛中四年生三学期、新舎監排撃のストライキがあり、四、五年生全員退寮を命ぜられ、賢治は北山の清養院(曹洞宗)に下宿したが、貞蔵はどうしたか。昨年没後五十回忌を終えた今となっては知る術もない。その後阿部千一(花巻出身、後に岩手県知事となる)がストライキの責任を負って退校させられたのを復校させるストライキがあった時は貞蔵の他、佐藤光太郎、永井敬助、鎌田壮介らの花巻組も入っていた。大正三年三月二十三日盛岡中学校卒業。賢治が上級学校への志望が叶えられず悶々として家業の手伝いをしていた時、貞蔵も進学せず兄周蔵に代って、こちらは積極的に家業に専念している。後貞蔵は家業のかたわら東北電力株式会社に勤務し花巻営業所長となった。同じ花巻から同じ年に同じ学校同じ寮にあり乍ら、賢治は阿部孝、貞蔵は金田一他人(金田一京助の弟)と二人の親しい友が別であったのは、スポーツより文学を好んだ賢治に対し貞蔵は当時流行しはじめた野球に夢中であったようで、その点で肌合いが違っていたからであろうか。

※2 賢治はなぜ貞蔵から手紙を貰い乍ら一ヶ月も返事をださなかったのか

 大正七年四月より五月までの賢治の生活について堀尾青史氏の『宮澤賢治年譜』を見ると、大正七年(一九一八)四月十五日盛岡高等農林学校を卒業、引きつづき地質、土壌、肥料研究生として学校に残り、四月十日、稗貫郡土性調査を命ぜられて、同月十五日より郡内くまなく調査して五月二十一日大体終っている。この間家や盛岡の下宿には殆ど帰っていない。また高農時代の親友、保阪嘉内が思想上のことで学校を除名になったのを知り、心配して調査先から何度も手紙を出している。一方、若い人々の海外雄飛の盛んな時代で、三月に卒業した同級生で南洋群島へ赴任した工藤又治、成瀬金太郎らに送別と激励の手紙を送っている。この様にこの時期は非常に多忙であったので律儀な賢治も仲々手が廻り兼ねたようである。尚、貞蔵に手紙を書いた五月十日は賢治の指導に当っていた関教授が賢治の身分保証をはかるため学校当局に申し出て高等農林学校実験指導補助を嘱託する旨の辞令が出された日であった。

【補注 この年の徴兵検査は花城小学校で四月三十日から五月三日まで行われた。『新校本宮澤賢治全集』第十六巻(下)「年譜」を参照】

※3 矢沢村で横浜の種苗商が従来の輸入草花を多数試作する由であるが実現されたのか、又村内のどこで行われたのか

 矢沢の人、二、三人に尋ねて見たが判然としなかった。しかし藩制時代北上川の直流工事が成功してから高木河岸が整備され併せて高木舟渡場も出来、やがて舟橋が架かりそれが木橋に更にワーレン型永久橋へと時代と共に変化して行くにつれ、矢沢村は東西及び南北交通の要衝となったから、海外の息吹がいち早く伝えられたことは確かであろう。余談ではあるが藩制時代花巻城御用の「かたくり師」岡田久左衛門という人が居たがこの人の子孫は明治二十二年(一八八九)のパリ万国博覧会(フランス革命百年記念)に先祖伝来のかたくり粉を出品して優秀賞を受けているし、賢治の詩「薤露青」に出てくる高木の生糸製糸場の製品は大正末期海外へ輸出されていたのであって北上川の水上交通、これを横断する渡し場や橋を通じて太平洋に出る釜石街道は意外に早く西欧の空気を伝えていたと思えば矢沢で輸入草花を栽培しようとしたことも不思議ではないであろう。

※4 御祖母様について

 貞蔵の祖母フク(大正8年12月28日没。享年86歳)のことである。二代目瀬川弥右衛門の妻で矢沢中島家(屋号、駒込)の出。

 瀬川家は浄土宗広隆寺の檀家であるがフクは妙好人(みょうこうにん=行状の立派な念仏者、特に浄土真宗で篤信の信者を言う)と言ってもいい程篤く真宗を信仰していた。賢治の父政次郎が暁烏敏など真宗の指導僧を招いて行った大沢温泉での夏期講習にも多分出席していたと思われる。家政にも優れた人であったと聞いている。

※5 御親父様について

 三代目瀬川弥右衛門(政之助。大正11年没。享年62歳)のことである。

 明治二十二年町村制施行後の花巻の町会議員や稗貫郡会議員をつとめる。各種の公共事業にも尽したが特に岩手軽便鉄道発足に当り釜石鉄鉱所についで多額の出資をしている。

(参考文献)『白堊校八十年史』、『白堊校九十年史』、『白堊校百年史』、『白堊同窓会名簿』、堀尾青史編『宮澤賢治年譜』、佐藤昭孝『高木村の歴史』、佐藤昭孝『花巻の文化を高めた先人―一七〇人』他。

(会員。宮沢賢治学会イーハトーブセンター花巻市民の会、賢治を読む会会員)




宮沢賢治資料33/瀬川貞蔵あて書簡二通


栗原 敦

以下に、未発表書簡二通について、その写真と『新校本宮澤賢治全集』における書簡収録データに相当する事項を合わせて紹介します。なお、「一」の封書の本文翻刻および受信人については、本号に掲載されている瀬川恭子さんの投稿エッセイ「賢治と貞蔵」をご参照下さい。

一、60a 大正七年五月十日 瀬川貞蔵あて 封書
  《表》  花巻町 瀬川貞蔵様
  《裏》  花巻川口町 宮沢賢治拝 〔封印〕緘
  《消印》 岩手・花巻7・5・10 后8―12
  《封筒》 和紙二重封筒(中紙水色)
  《用箋》 巻紙
  《筆記具》墨
  《校異》 前半1行(末尾の一字は「手」。ちなみに、大正七年四月二十一日付、宮沢政次郎あて葉書の「岩手郡」の「手」が同様字形)
         10行 事も〔不→削除〕
         19行 〔間→処〕
         22行 何等〔〔?〕→削除〕御依頼に〔も→削除〕答ふる
       後半10行 種類〔ナシ→を〕も得べき
         11行 御楽しみ〔ナシ→の事故〕折角
         12行 御〔ナシ→栽〕培

二、102b 大正八年一月一日 瀬川貞蔵あて 葉書
  《表》  花巻町 瀬川貞蔵様
  《裏》  花巻川口町 宮沢賢治
  《消印》 岩手・花巻 〔?〕・1・1 前0―9
  《筆記具》墨
  【以上二点の書簡の紹介にあたっては、瀬川貞一・恭子様のお世話になりました。】

(理事 東京都国分寺市)




テキストクローズアップ23 賢治晩年の文語詩

杉浦 静

1中ぞらにうかべる雲の、   蓋やまた椀のさまなる、
 川水はすべりてくらく、  草火のみほのに燃えたれ
(「〔毘沙門の堂は古びて〕」)
2三なる技師は徳薄く、   すでに過冷のシロッコに、
 なかば気管をやぶれり。  (「〔さき立つ名誉村長は〕」)
3その身こそ瓜も欲りせん  齢弱き母にしあれば
 手すさびに紅き萱穂を   つみつどへ野をよぎるなれ(「母」)
4老いたるミセスタッピング、 「去年なが姉はこゝにして、  中学生の一組に、       花のことばを教へしか。」(「岩手公園」)
5原稿番号八八五
6原稿番号八九〇
7原稿番号九二二
8原稿番号一〇一九

〈賢治晩年の文語詩は、彫琢された語と切り詰められた表現によって緊密に構成された小宇宙を作り出している。その多くのものが、数次にわたる推敲や改稿を重ねたものであり、わずか数行に凝縮された定稿は、一語一語が選び抜かれて成立したものである。〉

 賢治の文語詩に対するこのような理解は、多くの賢治読者が共有しているものでしょう。

 わたしも、同じように考えていますが、文語詩を読んでいるときにちょっとした引っかかりを感じることがありました。今回クローズ・アップするのは、そんな箇所です。

 1〜4の、それぞれ文語詩の行末に注目してみると、変な感じがしませんか。かつて(?)暗記させられた〈古典文法〉を思い出してください。文語詩なので〈古典文法〉に従って書かれているはずです。1・2・3の末尾は、助動詞の已然形ですね。「たり」は完了の助動詞、「なり」は断定の助動詞でした。Cは、二種類の可能性が考えられます。過去の助動詞「き」の已然形、または同じ助動詞「き」の連体形+詠嘆感動の助詞「か」です。文末は終止形です。それ以外には、〈係り結び〉がある時には、〔「ぞ」「や」「か」+連体形〕、〔「こそ」+已然形〕と結ばれます。ですから1から3の場合、「こそ」が先行していなくてはならないはずです。4の場合は、「こそ」または「ぞ」です。しかし、「こそ」(「ぞ」も)はありません。それなのに、なぜ已然形で結ばれているのでしょうか。そこで、推敲過程をさかのぼって、これらの詩句の一、二段階前の形を見てみましょう。

 1は、川水はすべりてくらく
    草火こそほのに燃えたれ
 2は、
    第三黒きぼろオーバ
    農業技手はすでにはや
    零下十度のシロッコに
    [咽喉と気管をこそは→削]
    なかば気管をやばれたれ
また4は、
    「去年なが姉はこゝにして
    中学生の一組に
    花の名をこそをしへしか」
    老いたるミセスタンピング

 これらでは、ほぼ「こそ」+已然形の係り結びが成立しています。これ以降の手入れ段階で、「こそ」を含む詩句は差し替えられて消えたのに、結びの已然形だけが残されてしまいました。

 1の場合、「ひたすらに紅きすすきの/穂をあつめ野をよぎりくる」に手入れをしていきなり、「手すさびに紅き萱穂を/つみつどへ野をよぎるなれ」となっています。この前の行が、「齢弱き母にしあれば」と已然形+接続助詞の形になっているので、それに引かれて同じような響きの「なれ」にしてしまったと憶測することもできるでしょう。

 これらは、それぞれ何らかの理由で終止形にしそこなかったケアレス・ミスだったのでしょうか。それならば正しく、1〜3は、それぞれを「草火のみほのに燃えたり」「なかば気管を破りたり」「つみつどへ野をよぎりなり」と訂正し、4については「過去の助動詞「き」の連体形+詠嘆感動の助詞「か」」と理解すべきなのでしょうか。

 5〜8は、詩の草稿に賢治が書いた文法メモです。係り結びや活用形について確かめるように記しています。これらのメモに対応する詩句はすべて文法的に誤りはありません。賢治とても〈古典文法〉が曖昧で不安だったのでしょうか。このようなメモで確認しながら文語の詩句を記していったと思われます。このように文法に自覚的に注意を払っていたとするなら、ますます先の場合は、ケアレス・ミスだったようにも思われます。

 しかし、〈誤用〉と言ってしまうのもためらわれるのです。それは、いわゆる〈古典文法〉といわれるもの(特に〈学校文法〉の場合)は、平安時代の言語をモデルにして法則化したもので、実際の文章にはたくさんの「例外」が存在します。時代が下れば下るほど、規範と実態は離れてしまっているようです。係り結びの法則についても同様で、それがきれいに成り立つのは平安期のものに限られるようです。ですから和歌・短歌などの韻文には、上に「こそ」がなくても文末を已然形でむすぶようなものも見られます。賢治の短歌でも、

 206 仕方なく/ひばりもいでて青びかり/おさまりそめし空になきたれ
 631 雲しろく/ちゞれ柏の高原に/よぼよぼ馬は草あつめたれ。
 707 雲垂れし/この店さきを/相つぎて/道化まつりの山車は行くなれ

などのように、已然形結びの例は多くあります。これは、賢治だけのことではありませんでした。賢治メモに登場する『短歌文法七十講』(生田蝶介・松本仁著、昭4・10)は二〇〇〇首の例歌を収録するものですが、そのなかにも、

かぎろひの春山越えのみちのべに赤がへるひとつかくろひにけれ(斎藤 茂吉)
ひるげとる兵のかたはらの叉銃線照る日まともにきらきらしけれ(並木 秋人)
などが挙げられています。

文法メモをわざわざ記すほど文法に自覚的であったなら、1〜4の例は見逃しではなく、同時代にも用例があるような已然形結びを、それこそ意識的に採用したと考えることもできるでしょう。音韻を整えるためと、やや不安定で逆説的な持続感をもたらすための結びの語法として選ばれたものだと考えるわけです。  どちらの考え方が妥当でしょうか。悩ましい問題がクローズ・アップされてしまったようです。

(会員 埼玉県草加市)




ふくやまセミナー「『銀河鉄道の夜』をめぐって」

二〇〇二年八月三十日

 福山市は広島県と岡山県の県境にある小都市である。井伏鱒二の故郷に近く、井伏を中心とした備後地方出身の作家を紹介、展示する「ふくやま文学館」がある。その「ふくやま文学館」で、「二〇〇二年夏の特別企画展(七月十二日〜九月八日)」として、「宮沢賢治と自然」が開かれた。「宮沢賢治学会ふくやまセミナー」は、この展示期間中に、文学館共催で行われた。

 展示は、作品の舞台となる自然について、作品内の植物、鉱物、生物を、それぞれ写真、標本、剥製によって展示した。また、童話展示のメインは、井堂雅夫氏の絵本原画による「雪渡り」と「よだかの星」の展示である。一部岩手県内の資料を借りたが、大半は地域の協力を得て、地元での手作りの展示が目指された。その結果、賢治の作品に登場する自然が、中国地方でもかなり身近にあることが実感されたのでもあった。

 地方セミナーは、シンポジュウム(「銀河鉄道の夜」をめぐって)と演劇のイベント(銀河学院中学生による演劇「注文の多い料理店」、林洋子さんの 一人語り「なめとこ山の熊」)とを午前午後で組み合わせ、一般読者や子供達にもアピールする内容とした。

 午後のシンポジュウムの幕開けは、作品に登場する星を実際にプロジェクターを使ってスクリーンに映し出し、オルゴールの音に合わせての星巡りの追体験であった。第一部「宮沢賢治が見上げた星空」、第二部「銀河鉄道路線とその沿線」の二部構成である。これには、加倉井厚夫氏がこの企画のために特別製作されたオリジナルプログラム「『銀河鉄道の夜』と星」を使用、操作は、コンピューター操作に自信のある伊藤眞一郎氏が行った。

 会場は、静かな宇宙空間から、作品の深層に降り立つ雰囲気となった。今回の作品へのアプローチは、家庭教師の青年と少年少女一行にまつわる物語からである。

 まず、山根知子氏が「『銀河鉄道の夜』とタイタニック号事件」と題して、映画「タイタニック」で現代的な関心を引きつつ、当時のタイタニック沈没の新聞記事によって、聴衆を作品世界へと引き入れた。その記事から、極限状態のなか、船内では讃美歌が歌われ、弱者を優先的に救うなどある宗教的な規律が人々を精神的に救ったことが想像された。それが世論に一種の美談を成立させ、また逆に、その中で生き延びた「細野副参事」を「卑怯」な「邦人」として非難させるなど、この事件が当時の人々に宗教を強く意識させる様が報告された。その中で、人を押しのけてまで敢えて教え子を救わなかった作品内の「青年」の生き方は、読者になげられた重要な問題提起である。タイタニック号事件は、科学と宗教の対峙という根源的な問題を賢治に突きつけたといえる。

 さらに秋枝は、その青年の教え子「かおる」が物語る「蠍の火」伝説の意味を、作品内で不在の「父性」を補填するものとし、その意味を聖書・仏典に現れる「蠍」から考察した。それによると、「蠍」は終末の世の乱れた人心の象徴としてあるが、特に聖書ではその乱れを正す力を持つものでもあり、その力は両義的である。また、当時の仏教雑誌から「自殺する蠍」の伝説を示し、それが武士の象徴として賛美されていることから、「蠍の火」は「父性」の魔性を表すとの仮説を述べた。だからこそ作品内では、「父性」の実体すなわち「ほんたうの神」の実体は永久の問いかけにとどまらねばならず、その問いかけのエネルギーである「蠍の火」はあくまで宇宙の遠くで燃え続けるのみであり、この世ではその伝説だけが少女の語りを通してのみ実在する、とした。

 最後に木村東吉氏が「『銀河鉄道の夜』と『春と修羅 第二集』」と題して、作品内のイメージについて相互の関連を探った。その中では、「鈴谷平原」で詩人が聞いた咳払いや「樺太鉄道」で想定した「天上技師Nature氏」と『銀河鉄道の夜』のブルカニロ博士の関連を指摘したうえで、『銀河鉄道の夜』第四次稿においてブルカニロ博士が削除されると、「ブルカニロ博士」がジョバンニにして見せた実験において歴史的世界を「ぽかっと」と浮かび上がらせたという表現が、詩「五輪峠」の心象表現として登場することなど、新しい指摘もあった。氏の提言は、詩集と童話が緊密に結びついていることを再確認し、共通するイメージを追っていくことで、「銀河鉄道の夜」の創作・推敲の過程が浮かび上がり、動態としての「銀河鉄道の夜」が見えてくることを指摘したものであった。

 当日は予想外の盛況で会場が狭く、参加者にはご迷惑をおかけしました。お詫びします。

(青木)




冬季セミナー講演(要旨)宮沢賢治における食と生命

二〇〇二年十一月三十日
生涯学園都市会館(花巻市)  鎌田 東二

 宮沢賢治という人は、食べるということに対する存在論のようなものを持っていた人だと思います。あるいは、もっと宗教的な言葉を使って言えば、食べるということの形而上学といえるようなことについて、相当つっこんで考えていた。それが、『注文の多い料理店』「序」の「わたくしたちは、氷砂糖をほしいくらいもたないでも、きれいにすきとおった風を食べ、桃いろのうつくしい朝の日光をのむことができます。」という言葉に結実していくわけです。この部分を読んだとき、その通りだと私は思ったわけです。それを例えで言っているのではなく、そういうものによって、人間には生かされる資源があるということを、賢治ははっきり示したと思うのです。

 それをここでは食べ物の次元ということでまとめてみると、まず一つは、普通私たちが食べている固形の食物。ビフテキとか、焼き鳥とか、豆腐とか牛乳とか、こういう物体的固形的あるいは流動的な飲み物を含めて食べ物というわけです。

 しかし、一方で「すきとおった風」や「うつくしい朝の日光」というような食べ物もある。それを私は「気」の食べ物と位置づけました。その「気」を別の言い方をすると、純粋エネルギーというか、自然界の中にある何か、賢治が作品で使っているものと近い言葉でいえば、エステルとかエーテルという言葉ですね、それが第二の気の食べ物です。

 それから、第三次元としての、言葉の食べ物、あるいは音楽の食べ物、絵の食べ物とか、それらが物語になり、心象スケッチの詩のような言葉になっていくと思います。この三次元の食べ物は、生命的というよりももっと精神的な次元のものです。

 こういうところから、宮沢賢治の食の問題を、いろいろな作品を手がかりに考えてみたいと思うのです。その時に私にとっても皆さんにとっても、心に浮かぶ作品は「よだかの星」のメッセージではないかと思います。この物語は短いのですが、根本的にギリギリの煮詰めたテーマを出していて、解決策にはなりませんけれど、宮沢賢治の方向性というか、感覚がよくわかります。最終的には、食べる食べられるのシステムの中にある限り修羅的に生きざるを得ない。それを超えるためには、ある種の超越的なものによってしかできない、そういう悲劇的なビジョン。どうしてよだかは星になることができたのか、私にとってこのことは、いつも考えざるを得ないテーマになっております。

 さて、童話「注文の多い料理店」でも食べるということがテーマになっていて、ここでは、食べに料理店に入ったハンターが、最後に自分たちが食べられそうになるという物語です。大正時代にこういう展開を考えることができたということは、私はすごいことだと思います。明治維新文明開化以来、西洋に追いつけ追い越せみたいなところで、一心に生産性の向上で来ているのです。こういう時代に、宮沢賢治は、食べるということがもつ生命論的な問題や、文明論的な問題について、問いかけている数少ない作家だと思うのです。都会のハンターは、ゲームのように狩りをして、殺して、それを持って帰ってうまい酒を飲んで食う。ところが最後には、その人間が山猫に追いかけられて、食われようとする。縄文人はそういう食う・食われるという世界に生きていましたから、「食べる」ということに、ものすごく敬意を持っていますね。だから必ず儀式をしますし、むやみやたらに殺しません。縄文人だけでなく、世界の狩猟民族全員そうです。それはいつなんどき自分たちが殺される側になるかわからないというギリギリのところで生きているから、その殺すということが逆転することを了解しつつ、その上で殺しているわけです。ですから物語の最後、ハンターの紙屑のようにシワシワになった顔というのは、本当の意味で生命というものが持っている尊厳を犯したときに、人間が気づくべき恐怖というものを、このハンターたちは体験せざるを得なかったということだと思います。その他色々食べ物がテーマになった作品がありますが、重要なものの一つとして「飢餓陣営」があげられます。また「ビヂテリアン大祭」は、ある意味で「よだかの星」と深くつながるもので、内容が深く、プラトンの「対話編」に匹敵するくらいおもしろいと私は思います。

 私は宮沢賢治の思想の中で一番重要だと思うものは「輪廻転生」で、賢治作品はこの感覚を抜きにしては理解できないと思います。ですから、文学として読んではいけないところがあって、これは賢治の存在感覚そのものではないかと思います。

 最後に、今まであまり論議されることがなかった詩「〔堅い瓔珞はまっすぐに下に垂れます〕」を紹介します。賢治が仏教的な存在世界として輪廻転生の考えを持っていなかったら、このような作品は生まれないと思います。

 ですから、賢治の修羅だという自己認識と、しかし修羅であるがゆえに、修羅に気付けば気付くほど、人間が菩薩への悲願というもの、菩薩への指向性、あるいは仏という自分たちの存在、根源にむかっている力、ベクトルを自覚し、そこへ転換していこうとする。転換は並ではできないんです。賢治の中にある超越的な力が、いつも働いて劇的な転換が起こっていますけど、ただ単純に修行すればそこにたどりつけるというふうにはなっていなくて、どこかに深淵があるのです。その深淵、断絶を乗り越えていく何か、超越的な力が働くということが、賢治が一貫して語ろうとしていること。透き通った本当の言葉というのは、人間の勇気とか生命とかを得るだけではなく、何か自分たちが違う次元に向かって開かれていくということを世に知らしめる言葉。私は「よだかの星」は、そういうもののひとつだと思います。「銀河鉄道の夜」もそうですが、ある不思議な何かを賢治の作品は内蔵している。それは、とても単純で、平面的でなく立体的です。要するに、我々が三次元的に理解するようなものを、バーンと超えていくような何かを持っているんですね。それがとても未来的な感性だと私は思います。

(本要旨の文責は事務局にあります。)




冬季セミナーシンポジウム「すきとほつた ほんとうの たべもの」についての報告会

二〇〇二年十二月一日
宮沢賢治イーハトーブ館

 本セミナーは、斉藤征義さんを司会に、会場には、かすかなリンゴの香りと、鹿川博司さん作曲の不思議な音楽が流れ、四名のパネリストのそれぞれの立場からの報告をいただきました。内容は質疑応答も含め多岐にわたりましたが、ここでは各パネリストの「すきとほつた ほんとうの たべもの」をめぐる、ほんのひとこまを紹介いたします。

山川 紘矢「フィンドホーンからの報告」

 私はスコットランドのフィンドホーンへは、二回行っただけです。まず『フィンドホーンの花』という、アイリーン・キャーリンの自伝を訳したときに訪ねました。そこでは、様々なスピリチュアルなセミナーをやっているので、それを受けたりしました。こちらの東北地方に来ますと、とてもスコットランドに似ているという気がします。フィンドホーンでは、妖精が出たり、神と交信したりできるのですが、ここもそんな雰囲気のあるところです。あと数年前にここで、天使会議というのがありまして、世界中から天使と交信する人たちが集まりました。そんなわけで、私はもうここ十何年間、「見えない世界がある」と体験から実感するようになりました。昔は全くそういうことは信じていませんでした。四十歳過ぎてからです。「輪廻転生」なんて、あたり前のことと思ってますから、本日集まった人たちも、やはり宮沢賢治にゆかりのあった人たちではないかと思います。

 本当に「すきとほつた たべもの」ってなにか。例えば、きれいな虹、景色、空気。きれいな自然、それももうひとつの何か、私は霊とか精霊とか、魂みたいな、そういうものではないかと思います。それは神と同じものだし、それを外に探すのではなく、「自分の中を探せ」と、私の訳した本の中には書かれています。私が「神」というときは、宗教の神とちがって、私たちを生かしてくれる非常に大きな力という感じでおります。それは宇宙のようなもの、私たちも一つの宇宙、私たちの中に全てがある。そこが根本ではないかと思います。そのことによって、全ては同じもの、人間も皆平等であるということがどんどん広がっていったときに、本当に争いはなくなるだろうと思うのです。

西澤 直行「雑穀と地場食品」

 花巻市内の食品メーカー七社と共同で、玄米パンとか、豆乳スープとか、そういった食品を試作し、「拝啓 賢治先生」とネーミングして、去年から一年間、今も続いていますけれど、開発中です。

 例えば豆腐を例にしますと、岩手県は豆腐の消費日本一で、盛岡市が第一位です。ですから豆腐の事業は相当なビジネスになります。豆腐というのは大豆ですけれど、脳溢血を防いだり、心臓病を防いだり、いろいろいいことがあります。大豆食品というのは、アジアの食べ物で、西洋人は食べないわけです。だからアメリカとかヨーロッパは今何しているかというと、なんとか大豆食品を食べさせたいと考えているわけです。血中の大豆成分をフィンランド人と比較すると、比較にならないくらい日本人は多いわけで、こんなところが、日本の長生きな健康を育てている一つの証拠じゃないかと思っております。この私の研究を活かして花巻の豆腐屋さんが売っている少し濃い味の豆腐や、東和町のグループが自分たちの大豆を豆腐にしたいということで作った「豆腐ケーキ」を売っているわけです。ですから、こんな小さいことから、農家の事業を立ち上げることも可能ではないかと思っております。

 食べ物の安全性とかおいしさというのは、決して金をだせばできるものではないんです。農家の、生産者の心のこもった栽培、生産、それからそれをつくる企業の「まごころ」といいますか、そういう豊かさがないと、出てこないのではないでしょうか。ですから、「すきとほつた たべもの」というのは、どうも自然からつくったものを指すのではないかと、私は思っております。

阿部 勝昭「今年の陸羽132号について」

 「陸羽132号」は賢治生前の時代としては非常に優れたお米だったのですが、現在では残念ながら非常に作りづらい品種だというふうに思います。そこで今年、私たちが作った「陸羽132号」ですが14アールから60キロで8俵、480キロの収量になりました。「稲作挿話」には、10アールで480キロ(3石2斗)は確実だろうとでてきます。これは、当時のレベルでは、ちょっと多すぎではないか、だから玄米ではなくて籾ではないのか、籾の、8割が玄米ですから、玄米換算で6俵、360、70キロぐらいになります。この程度ですと私たちと同じくらいの収量じゃないかと思っています。「陸羽132号」は賢治ゆかりの地なので栽培していますが、特徴として稲の稈が非常にしなやかで長く、倒れやすいので、私たちにとっては、まだまだ栽培について勉強しなければならないと感じています。

 さて、「すきとほつた たべもの」についてですが、私が生まれた昭和30年代と比べると、現在、排泄物の量がかなり減っているといいます。その大きな理由は食物繊維で、かつては食物繊維を多く含む食べ物は腸に負担をかけるのであまり摂らない方がいいと言われました。今は逆です。身体をすっきりする、透明にするには食物繊維が非常に大事で、いわゆる「かす」をたくさん摂らなくてはいけないと言われています。

 食生活が変わり、賢治さんの詩に「一日ニ玄米四合ト味噌ト少シノ野菜…」という部分がありますが、一日四合食べますと年に2百キロ`前後のお米を食べる事になります。現在では平均で60キロ、3分の1も食べていません。もちろん、二百キロまではいらないと思いますし、賢治さんもそばや、色々な食べ物が好きだったとうですから、パンやそばも食べてもいいと思います。

 ただ、ご飯も賢治さんの半分の量、1日に1食二膳づつ食べれば、胃・腸の調子もよくなり、便もたくさんでて、透き通った身体になるのではないかと、ご飯の消費拡大を願いつつ、私のお話を終わらせていただきます。

阿部 弥之「賢治にとってのリンゴ」

『宮澤賢治語彙辞典』でもしっかり説明されてある通り、賢治はリンゴを「苹果」という文字で書いています。われわれは普通「林檎」という文字で「リンゴ」と読むのですが、賢治は「西洋リンゴ」を明治期こういう文字を使っていたということを、盛岡高等農林の果樹園芸学で学んでおります。明治になって、日本に輸入されて現在を迎えているというのが、こういう西洋リンゴなのです。リンゴというのは、明治の10年代までに、日本の農業を近代化させようということで、大量に輸入されて栽培されました。そして、札幌農学校と、駒場農学校の2ヶ所で苗が増殖されて全国にまわってきた。それで実際どれくらいの品種があったかというと、記録によると、明治5年に輸入されたのが150種類といわれています。

 最後に「すきとほつた たべもの」ということで、私はこんなものではなかったかなということで、蜜がたくさん入って透明になっている「北斗」という品種を今朝とってきました。ひょっとすれば、凍ったリンゴも上からは透き通ったように見えるので、そちらかもしれないという気持ちもあります。

 賢治は果物の、食べ物としての意味をちゃんと理解しているだろうと思います。普通、米などは次の世代に残す部分を食べてしまうわけですが、果物は、種子そのものは残るわけです。種子を、命を食べ尽くさないという意味で、、そうしたものが、賢治からすれば「ほんたうの たべもの」というふうに思えたのではないでしょうか。

 それと「すきとほる」の意味なのですが、さっきおみせしたリンゴ蜜のように、透き通って本当にきれいです。これは、デリシャスが日本に入ってきてから、どんどん増えてきますが、賢治の時代には、こういうリンゴは一般には出回っていなかったのです。

 賢治はどこかで、このリンゴか、凍ったリンゴなど、透き通った果実にでくわしていたのではないかと私は思います。

(本要旨の文責は事務局にあります。)




ポラーノの広場 ―第六夜―

Webサイト「宮澤賢治の詩の世界」
( mental sketches hyperlinked )

 賢治の詩の草稿逐次形を通覧したり、歌曲の演奏を聴いたり朗読を聴いたり、推敲のプロセスを動画で見たり、全国各地の詩碑を巡ったり…。多彩な賢治の世界を、マルチメディア的に体験できるインターネットホームページです。

(浜垣 誠司・会員 京都市)

一、「校本全集」の校異記号

 あの「校本宮澤賢治全集」が刊行されたとき私は中学生で、その重厚な各巻を買って手もとに置くことはできませんでしたが、何かの折りにふと中をのぞくと、そこには作者の推敲のプロセスを示すための、何とも不思議な記号が並んでいたことをおぼえています。しかしこの時は、それ以上深くそれについて考えずに通りすぎました。

 その後私は、宮沢賢治の世界とは関係のない生活をしたり仕事をしたり、それでも時々はまた彼の作品を読み返して、はげしく懐かしい気持ちにとらわれたりもしていましたが、一九九五年に「新校本宮澤賢治全集」の刊行が開始されると、今度は決心して全巻を買いそろえることにしました。

 届けられた巻を開くと、そこにはかすかに見おぼえのある不思議な記号が並んでいました。そして今回は腰を落ち着けて記号の説明を読むことで、それらが奥義的に開示しようとしている、底知れない賢治のテキストの世界を垣間見ることになったのです。

 まるで永久運動を続けているような宮沢賢治のテキストは、まさに驚嘆すべきものでしたが、またそれを精密かつ徹底的に解読してみせている「賢治研究」という営みの凄さも、私はこの時ほんとうに知りました。

 今も私が宮沢賢治に関するホームページを作っている背景には、新校本全集と出会ったこの時の気持ちがあると思います。賢治と賢治研究への、驚きと憧れです。

二、ホームページを作るまで

 その後、インターネットが広汎に普及していくに伴って、一九九六年に加倉井厚夫さんの「賢治の事務所」一九九八年には渡辺宏さんの「森羅情報サービス」などが開設され、賢治に関する多彩な情報を発信したり、独自の視点からアプローチするサイトが、数多く見られるようになりました。私もそれらに親しみ、存分に楽しませていただきましたが、それは懐かしい賢治の姿を見せてくれるにとどまらず、印刷された本とは異なった新しい角度から、彼の世界を体験させてくれるものだったのです。

 これらに刺激を受けた私も、インターネットというメディアによって、たとえば賢治のテキストの永久運動をリアルに表現できないか、などということを時々考えてみるようになりました。

 さて一九九九年に私は、生まれてはじめて花巻を訪ねることができました。子どもの頃から親しんでいた賢治作品の故郷を初めて踏みしめた感激について、ここで思いを述べるための紙数はありませんが、結局この時の体験が私にとって、賢治に関するホームページを作ろうという最終的なきっかけになったと思います。花巻市内を自転車で走って写した二五枚の詩碑の写真が、「石碑の部屋」の原型になりましたし、旅行を終えて家に帰ると、「『春と修羅第二集』関連草稿一覧」という表をハイパーテキストで作りはじめました。




『春と修羅第二集』 関連草稿一覧

三、賢治テキストの「星図」を作る

 インターネット上にある文書は、一般に「ハイパーテキスト」と呼ばれる形式になっています。ふつうのテキストに比べてこれは何が「ハイパー」なのかと言うと、この形の文書においては、中の情報が相互に参照しあうようなテキスト間の連結があらかじめ埋め込まれているところが、その最大の特徴です。この連結は「ハイパーリンク」と呼ばれますが、世界のインターネット上にあるすべての文書データは、このハイパーリンクによって蜘蛛の巣のようにおたがいに複雑に関連づけられているのです。そのおかげで、人はインターネット上で一つの情報を見たら、それと関係ある情報を手軽に取り出して、有機的に把握しやすくなっているわけです。

 賢治の草稿群の織りなす複雑な世界を、何とかして直観的に見渡せるようにできないものかと考えた時、このようなハイパーリンクという仕掛けが、草稿と草稿との間の関連性を表現するのに使えるのではないかと、私には思われました。賢治のテキストは、「推敲」「改稿」「改作」など様々な形で転生を重ねていきますが、そのような関係にある各々の草稿を、これで相互に結んでおくのです。

 たとえば、夜空に散らばる無数の星は、ばらばらに見たままではその全体的布置を把握するのは困難ですが、星と星との間を仮想上の線で結び、「星座」として認識するようにすれば、人間にとってはより直観的に把握しやすくなります。これと同じように、インターネット空間に浮かべた厖大な賢治の草稿群を、ハイパーリンクでつないでみようというわけです。そのためにかかる手間はともかく、技術的にはこれは単純なことです。

 さて、そのようにして星と星とを結ぶ線を描けたとして、次に必要になるのは、全天の星座を正しく位置づけてその全体像を眺められるようにした、「星図」に相当するものです。

 賢治が死ぬまで書きつづけた多種多様な草稿群を、どういう規則に従って並べれば意味のある配置になるのか、こちらの方はなかなか難しい問題ですが、私としては「時間」という軸にこだわって、草稿を定位してみようと考えました。宮沢賢治という人は、たとえば『春と修羅』の「序」に見るように、この世の現象が時間軸に沿って展開していく有様に対して特別な愛着をいだいていたようですし、また実際に彼のテキストそのものも、時間のなかで多彩な転化転生を経ていく性質を帯びているからです。

 具体的には、作者が草稿に付記した日付の時間を一つの軸とし、他方、個々の草稿が実際に書かれたであろう時間をもう一つの軸にして、その二つがなす二次元平面の上に、全ての草稿を配置してみようと考えました。

 前者の日付は、作者がその作品の着想を初めてスケッチした時を表していると考えられており、校本全集でも作品配列の基準になっています。一方、後者については、作者は個々の草稿にそれを書いた日付などは一切記入していないので、具体的な判定は困難です。ただこれまでの賢治研究のおかげで、その草稿が記されている用紙の種類によって、おおまかな時系列を推測することは可能になっていますから、ここでは用紙分類による配列を、二つめの軸とすることにしました。

 このようにして、縦軸に「スケッチ日付」を、横軸に五段階の用紙分類を年代順に並べて、『春と修羅第二集』に関係のある五三二の草稿類を配置したのが、右頁の「『春と修羅第二集』関連草稿一覧」という表です。

 左端の白い背景の部分が詩稿用紙への転記以前の草稿(ノート紙、五線紙、初期の発表原稿等)、桃色の部分が赤罫詩稿用紙に書かれた草稿、黄色の部分が黄罫詩稿用紙に書かれた草稿、灰色の部分がその他の用紙に書かれた草稿(無罫詩稿用紙や晩年の発表原稿)、右端の水色の部分が定稿用紙に書かれた草稿、という配置になっています。また、各草稿名をクリックすると、別画面でそのテキストが表示されるようになっています。前述のようにこの表には二種類の時間が流れており、作者が新たな着想を手帳にメモしていった時間は上から下へ、その草稿に手を入れ推敲した時間は左から右へ流れるという構造です。

 花巻の旅行から帰った私は、試行錯誤しつつこの一覧表を作り、夜なべ仕事で各逐次形テキストを入力して(これが一番たいへん)、やっと完成した一九九九年一〇月に、ホームページ「宮澤賢治の詩の世界(mental sketches hyperlinked)」のコンテンツとして公開しました。かねてから校本全集の校異記号に魅せられていた私としては、その感動を自分なりに表現してみたかったのだとも言えます。


「動画で見る賢治の推敲」
「作品番号増加曲線」

四、その他の時間軸

 当ホームページには同様の一覧表として、「『春と修羅〔第一集〕』関連草稿一覧」「『春と修羅第三集』関連草稿一覧」というものも掲載しています。いずれも前述のように、草稿を二つの時間軸のもとに位置づけてみたものですが、サイト内にはこれらの他に、「時間」という次元に対してまた別のアプローチを試みたコンテンツも、いくつかあります。

 たとえば、「動画で見る賢治の推敲」というコーナーでは、一つの草稿を取り上げて、賢治が行った推敲過程を左図のような画面上で再現しています。これはフラッシュムービーという動画になっているのですが、パソコンで表示すると推敲の時間経過に沿って、順に字句や取り消し線などが現れるようになっています。この動画は二〇〇二年の宮沢賢治学会夏季特設セミナーにおいて、杉浦静さんの講演でも使用していただきました。

 また、右図は「グラフで見る賢治の詩作」というコーナーの中の一つのグラフなのですが、これは口語詩に付けられている「スケッチ日付」と「作品番号」の関係をプロットしたものです。基本的にこの二つの変数は平行して動くのですが、ご覧のように一部で不規則な挙動を見せるところがあり、その解釈についてはさまざまな議論があります。

 さらに、作者の死後のさまざまな校訂によって、賢治の「作品」の印刷形がどのように変化していったかということも、テキストの時間的変遷という意味では、興味深いところです。ホームページにおいては、これまでに出版された九種類の宮沢賢治全集の推移をたどるコーナーも作りかけていますが、これはまだ工事中です。

 『春と修羅』の「序」に、「巨大に明るい時間の集積のなかで/正しくうつされた筈のこれらのことばが/わづかその一点にも均しい明暗のうちに/…/すでにはやくもその組立や質を変じ…」とあるように、賢治が書きとめた「ことば」は、彼の生前も死後も、せわしく明滅しながら転生していきます。賢治はこれを、「心象や時間それ自身の性質」と考えましたが、何とかこの性質を具体的に表現して、彼の感覚に肉薄できないかと思います。



「石碑の部屋」より

五、マルチメディア人間・賢治

 やや堅苦しい話が続いてしまいましたが、実際のホームページには、もっと気楽なコンテンツもたくさんあります。

 「歌曲の部屋」と題したコーナーでは、賢治が作詞あるいは作曲した歌曲を、さまざまな編曲で聴くことができます。パソコンで音楽を演奏するためのMIDIという規格があるのですが、これを使ってオーケストラや室内楽にアレンジした響きを楽しめます。

 また「石碑の部屋」というコーナーでは、全国の各地に建てられている賢治の詩碑や歌碑を、写真で見ることができます。現在ここでは、北海道から九州まで私が旅して写してきた賢治関連の石碑類九七個が見られます。

 サイト内にはこの他に、「五輪峠」を実験的な朗読で聴けるコーナー、賢治の青春時代を歌碑でたどるコーナー、Palmという携帯情報端末で全詩集を読むためのデータ、○月×日の賢治が何をしていたのかを調べるコーナーなど、いろいろな趣向があります。

 詩や童話や肥料設計書を書き、浮世絵を集め花壇を設計し、歌を唄いセロやオルガンを弾き、レコードに合わせ踊りエスペラントをしゃべり、自作の劇を演出して「気圏オペラの役者」と名乗った宮沢賢治は、まさに稀代のマルチメディア人間であったと言えるでしょう。七〇年後のホームページ作者としては、昨今のITが可能にしてくれる多様なメディアを最大限活用して、彼の奥深い世界に少しでも分け入ってみたいと思っています。