宮沢賢治学会・会報第27号

……砂丘のなつかしさとやはらかさ
まるでそれはひとりの処女のやうだ……
はるかなはるかな汀線のはてに
二点のたうごまの花のやうな赤い火もともり
二きれひかる介のかけら
雲はみだれ
月は黄金の虹彩をはなつ

「海鳴り」(「春と修羅第二集」「牛」先駆形)

表紙写真 撮影・大塚 常樹


第27号「トウゴマ」
2003年9月22日発行
  1. 蛍烏賊観光ノ奨メ
    ますむら ひろし
  2. 第13回宮沢賢治賞・イーハトーブ賞決まる
    宮沢賢治賞・池澤 夏樹
    宮沢賢治賞・小林 敏也
    イーハトーブ賞・赤坂 憲雄
  3. イーハトーブ人物学
    「宮沢賢治と森佐一の交流」
    森 三紗
  4. 宮澤賢治イーハトーブ館
    賢治研究の先駆者たち(2)森池已池展
  5. 投稿エッセイ
    近森善一著『蠅と蚊と蚤』の温故知新と及川四郎氏(光原社)の功績
    小林 真次
  6. 投稿
    戦前の吹張町界隈(昭和十年代)
    泉沢 善雄
    朴の花
    佐藤 映二
  7. 宮澤賢治資料(34)
    「吉野秀雄あて書簡」
    栗原 敦
  8. Ihatovo illuminations
    「注文の多い料理店」
  9. テクスト・クローズアップ(24)
    「なめとこ山の熊」両義的読み
    天沢退二郎
  10. 報告
    ・春季セミナー
    ・夏季特設セミナー
  11. 宮沢賢治EVENTS
  12. 賢治作品イラスト
  13. あとがき

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蛍烏賊観光ノ奨メ

ますむら ひろし

 ジョバンニが天気輪の柱の丘から列車にのる間際、空の星たちは爆発的 な輝きをするが、その瞬間の描写に「まるで億万の蛍烏賊の火を一ぺんに 化石させて」と、賢治は蛍烏賊を持ち出した。食卓にのぼる茶色くゆでら れた蛍烏賊なら馴染みだが、これが光る姿を僕は見たことがない。そして ムッシャリやりながらときどき思うのだ。

 「賢治は、蛍烏賊の発光を見たのだろうか」。蛍烏賊といえば、富山湾が 漁場として有名だが、賢治は富山湾に行ったことがあるのだろうか。彼の 生涯の行動は、ほとんど記録されているが、少なくとも富山湾での蛍烏賊 発光目撃は無いと思う。だが蛍烏賊は、富山湾だけではなく、東北地方の 海でも獲れるらしいので、賢治が三陸海岸で、獲れたての蛍烏賊を見た可 能性はあるのだ。

 「蛍烏賊、見に行きませんか」。蛍烏賊の本を作った男から連絡があり、 いつか見たいと思っていた僕は、四月の富山湾、滑川まで行った。

 深夜三時の闇の海に蛍烏賊観光船は満席で出ていく。漁をして網を引き上げる現場では漁り火が消され、暗闇のなかで網の へりが点描のようにモワッと輝く。漁師が円い網のついた棒を海面に差し込みすくい上げると青白い輝きの円が浮き 上がり、まるで小さな宇宙のようだ。蛍烏賊は、刺激されると光るらしく、空中に差し出された輝きがモンヤリして いたかとおもうと、漁師がその網を振り中のものを空中に放りだした瞬間、小さな星たちは暗闇の中を流星のように なって走り、海面に落ちて輝き続ける。水中に落ちた蛍烏賊は、しばらくボーッと輝いて光の流線を作り、やがて深 く沈んでいく。

 翌日、蛍烏賊ミュージアムで、蛍烏賊に最接近となった。館内にある池のなかでヤツラはスイスイと 泳ぎ、それをつかまえて手のひらに乗せると、スミ吹いたり輝いたりする。この輝きは足にある発光器が反応するの だが、激しく反応すると全身が輝く。そうした姿を見るために、別室の暗闇のなかで小さな網をみんなで揺するとい う体験があった。ジャブジャブと網を揺すると烏賊たちは発光を始め、なかには全身発光するものもいて、手のひら に乗せて観察してみるときれいに並んだ光の粒。それらを覗いているとミクロの星の世界を見ているような、変な感 覚に包まれる。身体が銀河の星で出来ているような、そんな感覚。とても小さなもののなかに宇宙が詰まっているよ うだ。

 こうして、タップリ堪能し帰路についたのだが、「賢治は、蛍烏賊の発光を見たのだろうか」と抱えていた疑問 にたいし、なんとなく答えを感じた。もちろん推測の域はでないけれど、僕としては「賢治は、見ていない」と思う。 その理由は僕が手のひらの上で見た感動からすると、もしも賢治がそうした経験をしていれば、心象スケッチなどの なかで、蛍烏賊のことをもっと取り上げたように思うのだ。それならば賢治は、どこで蛍烏賊の発光を知ったか、 となると、実に興味深いことが出てくる。それはこの旅行後に手に入れた「ホタルイカの素顔」(奥谷喬司・編著 東 海大出版会発行)のなかにあるのだ。

 蛍烏賊は、富山ではそれを「コイカ」と呼んでいたらしく、蛍烏賊と名付けたのは、動物学者・渡瀬庄三郎と言う 人で、彼が富山に訪れたのが1905年。その年「蛍烏賊の発光器」という論文を「動物学雑誌」に発表する。しか し蛍烏賊が国際的に新種として認められるのは1911年、アメリカの学者ペリー博士によってで、「閃光を発する」 という意味の学名を持つことになる。1913年には、佐々木望博士が動物学雑誌に「蛍烏賊の生態」として、烏賊 の形態、発光器などを詳しく報告した。こうしたことから、蛍烏賊というものが発光するということは、一種の驚き として発表されただろうし、賢治はこうした雑誌を読んだか、これらをもとにした一般的な科学本のなかで、蛍烏賊 というものの「ホタルっぽさ」を知識として知ったのではないだろうか。「銀河鉄道の夜」の誕生が24年とすると、 蛍烏賊の注目された年代との近さに、存在の新鮮度を感じ、賢治の情報収集アンテナの感度の良さも感じる。こうし て「ホタルイカの素顔」を読みながら、ボンヤリしていると次ぎのような箇所が現れた。

 「地球上の生物の系統類縁関係を包括的に理解しようとしたドイツの動物学者ヘッケルは・・・」。 ヘッケルが出てくるのだ。「青森挽歌」で呼び出されるあのヘッケル先生が、賢治を訪ねて読む蛍烏賊の本に浮かん でくるとこなんか、賢治の意識が見た循環にからんだような気分になり、なんとなく賢治の海原に揺られている感じ がした。

(漫画家)





第13回宮沢賢治賞・イーハトーブ賞決まる

 第13回宮沢賢治賞・イーハトーブ賞は、先の理事会におき まして次のとおり承認し、花巻市より発表されました。 受賞された方々にお喜びを申し上げますとともに、これか らのますますのご活躍をご祈念いたします。


経過及び選考理由について
  宮沢賢治学会イーハトーブセンター賞選考委員会
 委員長 佐 藤 通 雅

《宮沢賢治賞》

 会員からの推薦、申し合わせによる選考委員会の推挙を合わせて計二十七点を選考対象にした。三次の選考会議を経て、本年度 の宮沢賢治賞を選考した。

 本賞の池澤夏樹氏は、すでに気鋭の作家として活躍、数多くの作品を世に送り出している。今回の『言葉の流星群』は、それら の達成に立ちつつ、賢治作品の具体的分析を通して、生き生きとした読み方を展開したものである。しかも明晰・平明な文章で、 説得力もあることなどが、高く評価された。

 同じく本賞の小林敏也氏は、「どんぐりと山猫」「やまなし」「銀河鉄道の夜」「雪わたり」その他、多くの賢治作品の絵本化に持 続的に取り組み、小林氏独自の世界を構築してきた。それらが広く、子ども読者の心をつかんできたことも高く評価された。 以上の二氏を本賞に推挙した。なお、奨励賞も何点か検討を重ねたが、あと一・二歩で推挙するにいたらず、本年度は見送るこ とになった。

《イーハトーブ賞》

 宮沢賢治賞と同様の推薦・推挙による計八点を選考対象とし、三次の選考会議を経て、本年度のイーハトーブ賞を選考した。 本賞の赤坂憲雄氏は、山形に拠点をおいてより、民俗学の観点から、東北に脈打つ縄文の精神を掘り起こす作業を持続してきた。 それがやがて、東北学樹立へと結果し、東北再発見のための大きな力となった。それは現在も進行中である。また、賢治の風土や 作品の解読にも、新たな視点を導入した。これら一連の幅の広い仕事は、イーハトーブ賞にこそふさわしいと判断し、本賞に推挙 した。

 他に、奨励賞も何点か検討したが、宮沢賢治賞同様、残念ながら推挙するにいたらなかった。



■宮沢賢治賞

池澤 夏樹

受賞理由
賢治作品の具体的な分析と論者自身の感動分析を重ね合わせ、か つ明晰、平明な文章で核に迫る『言葉の流星群』の豊かな達成。
受賞者の略歴と業績
一九四五年七月七日、北海道帯広市生。一九七五年から三年ギリシャに暮らす。 一九八七年『スティル・ライフ』で中央公論新人賞、翌年同作品にて、第九八回芥川賞受賞。一九 九二年長篇小説『南の島のティオ』で小学館文学賞、一九九三年評論『母なる自然のおっ ぱい』で読売文学賞、同年長篇小説『マシアス・ギリの失脚』で谷崎潤一郎賞受賞。一九 九四年沖縄に移住、同年評論『楽しい終末』で伊藤整賞、一九九六年エッセー『ハワイ紀 行』でJTB出版文化賞、二〇〇〇年長篇『花を運ぶ妹』で毎日出版文化賞受賞。二〇〇 一年全書評データベース『Impala Book Club』オープン。二〇〇二年トルコ・ボワジチ大学 で日本文学講座、同年ドイツ、オーストラリア、フランスで講演旅行。二〇〇三年評論 『言葉の流星群』(角川書店)刊行。作家。
●著 書
〈創 作〉小説『スティル・ライフ』(一九八七)、詩集『池澤夏樹詩集成』(一九九六) 〈評 論〉文学論集『ブッキッシュな世界像』(一九八八)、評論『エデンを遠く離れて』(一九九一) 〈エッセー〉エッセー集『インパラは転ばない』(一九九〇)、エッセー集『旅をした人』(二〇〇〇) 〈写文集〉『イラクの小さな橋を渡って』(二〇〇三)など
□池澤 夏樹氏の業績について
池澤氏は、一九八七年に『スティル・ライフ』で中央公論新人賞を、翌年同作品で芥川賞を 受賞し、以後も数々の賞を得ている気鋭の作家である。今回の『言葉の流星群』は賢治関 係の単行本としては初めてのものだが、これまでの表現活動の根底に、宮沢賢治の存在に 対する共鳴・共振ともいうべきものが存在していたことをうかがわせるに足る、厚みのあ る論である。作品分析と自身の感動分析が重なり合っていることはこの書の魅力であり、 賢治研究に新風を吹き込むものと期待される。


■宮沢賢治賞

小林 敏也

受賞理由
賢治作品の絵本化に、独自の技法で持続的に取り組み、子ども読者の心をつかんできた功績。
受賞者の略歴と業績
一九四七年一月一日、静岡県焼津市生。東京芸術大学工芸科に在籍中に、外国の絵本と 賢治に出会い、デザイナーを経て、フリーランスとなる。その後賢治童話の絵本化をもく ろみ、一九七九年より画本宮澤賢治として第一作目『どんぐりと山猫』を刊行、現在十五 冊を数える。
●著 書
『どんぐりと山猫』『猫の事務所』『銀河鉄道の夜』『やまなし』『土神と狐』『セロ弾きのゴ ーシュ』『オツベルと象』『注文の多い料理店』『雪渡り』『雨ニモマケズ』『シグナルとシグナ レス』『よだかの星』『かしわばやしの夜』『風の又三郎』『蛙の消滅』、他に『賢治宇宙』『ポ ラーノの広場』『黄いろのトマト』、合本『賢治草紙』(以上全てパロル舎)。
□小林 敏也氏の業績について
小林氏が最初に賢治作品を絵本化したのは、一九七九年「どんぐりと山猫」である。以来、 かなり持続的に制作にたずさわり、大型絵本としては十五冊、それ以外にも数冊かぞえる までになった。それぞれの内容に応じた独創的な絵は、小さい読者の心もつかむまでにな り、今では、小林氏の絵本から賢治童話の魅力を知っていく子どもたちも少なくない。


■宮沢賢治賞奨励賞

該当なし
■イーハトーブ賞

赤坂 憲雄

受賞理由
東北の検証を通じて、民俗学の新生、発展ともいうべき東北学の 樹立に大きく貢献した功績。
受賞者の略歴と業績
一九五三年五月二十三日生まれ。
一九七八年三月 東京大学文学部卒業
一九九二年四月 東北芸術工科大学助教授
一九九七年四月 同教授
一九九九年四月 同東北文化研究センター所長
二〇〇三年四月 福島県立博物館館長
現在、東北芸術工科大学教授、福島県立博物館館長
●著 書
『異人論序説』(一九八五、砂子屋書房)、『排除の現象学』(一九八六、洋泉社)、 『王と天皇』(一九八七、筑摩書房)、『境界の発生』(一九八八、砂子屋書房)、 『象徴天皇という物語』(一九八九、筑摩書房)、『山の精神史』『漂泊の精神史』『海の精神史』 (一九九〇.二〇〇〇、小学館)、『結社と王権』(一九九三、作品社)、 『遠野/物語考』(一九九四、宝島社)、『子守り唄の誕生』(一九九四、講談社)、 『柳田国男の読み方』(一九九四、筑摩書房)、『東北学へ』三部作(一九九六.一九九八、作品社)、 『物語からの風』(一九九七、五柳書院)、『山野河海まんだら』(一九九九、筑摩書房)、 『東西/南北考』(二〇〇〇、岩波書店)、『一国民俗学を越えて』(二〇〇一、五柳書院)など。
□赤坂 憲雄氏の業績について
東北には、一万年を越える縄文の精神が脈々と受け継がれている。そのことに着目し た赤坂氏は、東北の奥深さを掘り起こすべく、東北学を提唱し、『東北学へ』全三巻をはじめ とする数多くの著書を著してきた。また東北の再発見から、 日本・アジアの再発見へと視野を広めていく意欲的な営みも、賢治が郷土岩手を新しい眼で見直し、 再発見することを通じて、未来への展開を期待したことと重なるべきものとして、高い評価に値する。


■イーハトーブ賞奨励賞

該当なし








『盛岡中学校校友会雑誌』第36号、第37号、 第38号、第39号、盛岡中学校校友会 盛岡第一高等学校図書館蔵



『銀壺』第六号 大正十四年六月 銀壺社 森タミ蔵



『貌』岩手詩人協会

イーハトーブ<人間>学


宮沢賢治と森佐一の交流 ─詩歌誌『銀壺』と詩誌『貌』をめぐって─

森  三紗

 宮沢賢治が逝去してから、今年で七十年になり、企画展「賢治研究の先駆者た ち(2)森荘已池」展を企画する機会を与えていただき、また多くの方々からご援助、 ご指導、励ましの言葉をいただき、六月一日からの展示に漕ぎつけることが出来、本当に心から感謝している。

 今年の夏は一九九三年以来の冷夏で、不作が心配されて賢治の「雨ニモマケズ」 の寒さの夏が実感されてならない。さて昨年の夏のこと七月、八月は猛暑 でアメリカポートランド市に住む妹千津が母の介護のため帰盛した。一緒に鉈屋 町の実家の森荘已池(佐一)の膨大な遺品の整理をしていた時に、意外な絵の綴 りを発見した。それは、佐一が大正十年四月六日盛岡中学に入学してから、一年 次、二年次の図工の時間に描いた作品の綴りであった。ほぼすべて評価がaとな っており、筆遣いは繊細で描写する観察力が鋭い。特に林檎、アヒル、蛙、イン ク壜の作品に実在感があり、生き生きとした描写をしている。

 なるほど佐一は盛岡中学校に入学して以来、校友会理事となり、雑誌部に所属 していた。その校友会誌に作品を投稿し、編集を行い同時に詩誌の編集も行い、文 学への関心が強く志を高く持っていたが、それらの作品をみると、画家になるとい う夢も捨てがたく、東京外国語学校か東京美術学校かと進学を迷ったことが非常 にはっきりと解ったのであった。二つの道のどちらを選択するか、才能があるゆ えの幸福な迷いであった。もちろん文学への志のほうがはるかに強く東京外国語学校ロシア語科専修科に進んだ。専修科 は夜間部で、昼間は詩、小説、評論などの創作に励むためだったと、私に話した ことがあった。

 長い間、『貌』の表紙の絵は誰が書いたのかという謎を持っていたが、妻タミが、 佐一が描いたということを聞いて知っていたことが分かった。妹と整理しているうちに一つの謎が解けた。 しかし、あの絵の髪はクルクルと薇(ぜんまい)のように総毛が立っている。耳は片耳で、 両方の頬に二重の◎がついている。両目は大きく真実を見据えているようだ。 ではあの左頬の下のShi ro noM Noとはどういう意味なのか、またしても、謎が残った。

 佐一は大正十四年六月十日詩歌誌『銀壺』の編集・発行者生出桃星(仁)とと もに、岩手詩人協会を結成することを考え、『銀壺』第六輯に宣言とメンバーを 発表したのであった。『銀壺』は『貌』に発展的に合流したことになった。その メンバーのなかの三番目に宮沢賢治の名前がある。この年三月宮沢賢治が初めて 盛岡の当時盛岡中学校四年生であった。森佐一の八百屋を訪問し、二人の間に交 友と文通が始まり、後に小説「店頭」が生まれる。

 佐一に宛てた書簡でその協会の発足と機関誌の発行に触れ「・・・お手紙拝誦 いたしました。詩の雑誌御発刊に就いて、私などまで問題にしてくだすったのは、 寔に辱けなく存じますが、前に私の自費で出した「春と修羅」も、亦それからあ と只今まで書き付けてあるのも、これらはみんな到底詩ではありません。私がこ れから、何とかして完成したいと思って居ります・・・」(大正十四年二月九日) と述べている。

 総勢四十一人によって岩手詩人協会は結成され、細越夏村、宮沢賢治らの寄稿 を得て詩誌『貌』が発刊される。発行所は盛岡市川原町(森亦吉方)。亦吉は叔 父で惣門(通称)の八百屋が手狭で佐一が勉強し難かろうと、両親が借りてくれ ていた。岩手日報四面に大正十四年六月十四日付で「岩手詩人協会宣言」の見出 しで結成を報じている。編集委員は森佐一・生出仁であった。

 『銀壺』は全国誌で創刊号は大正十四年一月一日で、『銀壺』発刊の感想を福田 正夫が寄せ、詩「慄く時代の手」の詩も寄稿している。土岐善麿は、「盛岡は私 の親しかった友達の石川啄木の故郷に近く知人も少なくないので懐かしい土地の 一つです。其処の新しい若い方々が詩に就いて、歌に就いてどんな態度を持ちど んな思想を抱きどんな生活を営んでいられるかを知ることは私の興味をそそりま す。雑誌『銀壺』の出ることはこの意味で嬉しく思い且つそのよい発達を祈らず にはいられません。」とローマ字で寄稿し、三木露風は「銀壺の人達に送る言葉」 で「神を畏敬し、人を愛し、詩を作れ。」と詩「芽」を寄せ、窪田空穂は「新たに 生まるるものの為に、数分時を惜しむなと云われしに心動きとて、動くままに」 で始まる同人雑誌の文学、文化に果たす役割を熱くかたり、「風光る」三首を掲 載している。第一ページに詩壇「銀の斜線」があり、盛岡 北小路・幻で「或風 景抒情」と「菅原道真公(試作)」を掲載している。同人は大阪、長野、東京、 神奈川、兵庫、福島、山形、岩手と全国に渡り石川善助は石川鷸 の雅号で詩 壇、感想、短歌に作品を掲載しているので創刊号からの同人であることがわか る。

 花巻からは高橋興惣吉が「冬の夜」を寄稿している。そのほかに、川路柳紅、 金子光晴、若山牧水、北原白秋、島木赤彦の他誌所載の作品を掲載している。 佐一は桃星からこの雑誌に関しての批評を書くことを求められており、岩手毎 日新聞大正十四年二月十五、十六日に「『銀壺』詩評」を二回掲載している。

 宮沢賢治は岩手毎日新聞に童話「やまなし」「氷河鼠の毛皮」「シグナルとシグナレス」 を発表しているので、この新聞をとりこの批評を読んでいた可能性がある。

 佐一は当時イタリアのF=T=マリネッティが提唱した『未来派宣言』に始ま るアバンギャルド(前衛)の芸術運動に関心を持ち未来派の影響を受けていた。 岩手日報にさかんに投稿し、そこの新聞記者の帷子勝郎は、「南部には未来派詩 人森佐一と云ふ馬鹿天才がある」と記事を書き、彼に守旧派を退治するように激 励される。同人の詩をひどく辛口に批評する原点はここにあった。また、「岩手 詩人協会宣言」のように大げさに「宣言」をつけてこの会を立ち上げた所以はここ にあると思われる。

 石川善助の「砕かれようとする心」に対しては次のように批評する。「人生の 苦悩、境界の実在等と熟語のみにて詩にならず。」この批評を読み、石川はどの ように感じ、次号で答えていくのか同人の同人たるあり方と関係を測り知ること が出来る。第三号に石川は短歌「恋の調べ」他二篇を寄稿している。第五号に北 小路 幻「雪うさぎ」の詩は文語調で発表。石川は「春」「春の生命」を寄稿し ている。石川は短歌を研究しており、「湘南海浜徒歩」という題名で2回歌論 を発表している。輯言で生出は「批評を非常に気にする人が出てきました。批評 に気を悪くするうちはその人の心は同じ道を歩いているのです。そこに一向向上 はないのです。」と批評のあり方と、同人の受け止め方について正当論を述べて いる。

 第五号では北小路幻が「桜」を寄稿し、消息欄に、『抒情詩』四月号(内 藤銀策)に「馬」一篇が推薦されて、郷土愛誦小詩篇第四輯を本社より刊行の予定とある。 この小詩篇は『雫石川篇』であり、十一月に『郷土愛誦篇』―4―お 菓子篇(北光路幻)が刊行される。僅か二四頁の冊子であった。(大正十四年十一月十日刊行)

 賢治は佐一がまだ詩集の刊行がされていないとき、「あなたの作品の清浄さう つくしさ、いろいろな模様の入った水精のたまを眼にあててのぞいてゐるやうな 気がします。早く一冊にしてください。」と『貌』第三号の原稿のスケッチ二篇を 手紙で送付した(大正十余年八月十四日)。

 また「それから今日別便で童話三十スケッチ集三十お送りしましたからそ いつを思い切って売り飛ばしてあなたの詩集のたしにしてください。」と佐一の 詩集の刊行を激励している。また、「同人雑誌の味もこの頃やっと判って来まし たが考へてみると『貌』はよくやったものでした」(書簡431)と評価してい る。

 佐一は晩年、『春と修羅』のすばらしさに自分の詩の影が薄くなったために、 自分には詩集は一冊もなく、昭和四年十月『学校』に掲載された「山村食料記録」 のみを認め、「一篇詩人」と称していた。

(会員 岩手県)




投稿エッセイ


近森善一著『蠅と蚊と蚤』の 温故知新と及川四郎氏(光原社)の功績

小林 真次

 その書名を賢治が命名したとされる大正十二年(一九二三年)に出版された本書の存在を 知ったのは、学生時代に買い求めた角川文庫版『注文の多い料理店』(第二十版)を二十年ぶ りに読み返した時のことでした。その折、学生時代に読んだ時には記憶に残っていなかった、 巻末収録の小倉豊文氏の解説『新しい古典復刻の弁』(以下、小倉解説)の題名に不思議と 心惹かれるものを覚え同解説を読みました。

 小倉解説では、賢治の『注文の多い料理店』が「杜陵出版部」(現・光原社)より出版され た経緯と背景を盛岡高等農林学校卒業後程なく事業を起業した及川四郎氏とその共同事業 者の近森善一氏、そして賢治の三青年の交友を軸に描かれています(同文庫一六六頁から 一七〇頁)。さらには『注文の多い料理店』の出版に先立ち賢治の発案で近森著「蠅と蚊と 蚤」が出版された経緯が記されています(同文庫一六八頁)。また、冒頭でふれたように、 本書名は賢治の発案であることが紹介されています。(同文庫一六七頁)。

 私事に及び恐縮ですが、かねて衛生昆虫が媒介する病原体について国内外の文献調査を 行ったことがあります。インターネット文献検索を利用しましたが、大正時代に遡っても 該当する邦文単行本は見出されませんでした。それだけに小倉解説に登場する本書には大き な興味を覚えました。しかし、多分に冊子体裁の啓蒙書であろうと想像しましたが、例え そうであっても国内の衛生昆虫文献の嚆矢的な存在ではなかろうかと直感するものがあり ました。しかし後日、本書を光原社本店資料館(盛岡市材木町)で閲覧させて戴きました ところ、当初の想像に反して、冊子体裁の啓蒙書どころか、当時における欧州の最新知見 を縦横に引用した衛生昆虫学教科書であることが判りました。

 ところで、本書には特筆すべき点を三点感じました。その第一点は、記述された昆虫媒 介性の諸疾病が、すでに出版から八十年の歳月が経過している現在、WHOが予防と治療 対象に重点的に取り組む「再興感染症」疾病と重なっている点です。例えば、「第二章蚊」 の「第四節 蚊と疾病との関係」で詳細に解説されるマラリア、フィラリア、デング熱、 黄熱の各感染症は、現在も熱帯・亜熱帯地方の代表的な疾病であると同時に、地球温暖化 に伴い温帯地域への浸潤が真剣に憂慮される代表的な再興感染症です。

 また、本所の専門性の高さを示す一例をマラリアの記述に見るならば、十九世紀初頭ま で正体不明な沼気等による奇病とされたマラリアに感染したヒトの血液や器官に特有の色 素を一八四七年に発見したメッケルの業績に始まり、一八八一年のその色素が微生物であ ることを発見したラベランの成果、一八八六年に人体内のマラリア原虫の生活史を始めて 報告したゴルギの業績、マラリアは蚊によって伝播されることを報告した一八八三年のキ ング、一八八四年のラベレンの報告、マラリア原虫がアノフェレス属蚊(ハマダラ蚊)に よって媒介されることを初めて解明した一八九四年のマンソンの記念すべき成果、そして 一八八六年にマラリア原虫の生活史と周期的に起きる発病との関係を解明したゴルギの業 績等が順次八頁に展開されています。そこでは十九世紀に輝かしい金字塔を打ち建てた 「微生物の狩人」の時代の病原体発見史が展開されています。本書が当時欧州で出版され国 内に真っ先に届いた最新の研究論文を元に書かれたことは明らかです。著者の近森善一氏 と本書を企画発案した賢治、本書出版での中心人物である及川四郎氏の三名は、学生時代 より最新の欧米論文を読みこなしていたことが容易に想像されました。

 本書特筆の第二点は、イエバエやゴキブリが媒介する細菌について、欧米論文からの具 体的な引用がある点です。昨今の医動物学や衛生昆虫学、寄生虫学の教科書には、残念な がらイエバエやゴキブリという私たちの生活環境に馴染み深い衛生昆虫が媒介する細菌に ついての具体的な知見は貧弱といわなくてはなりません。ところが本書「ゴキブリとバク テリア」の頁では、具体的にゴキブリから分離された細菌名と菌数、分離部位について海 外論文より作表されています(一七一頁)。

 イエバエについても同様に、「第四節 蝿と伝染病との関係」で、十三頁に及び具体的な 記述が海外論文から引用されています。本書は、イエバエとゴキブリの媒介する病原体引 用文献として大いに評価されるものがあります。まさに温故知新の衛生昆虫学教科書とい えます。そしてその成立過程で賢治が大きく関与している点が第三の特筆点となっていま す。賢治文学や賢治の伝記研究者間には本書の存在は『注文の多い料理店』出版の過程で 以前より周知なのでしょうが、現在の衛生昆虫学や細菌学研究者の大半は本書を知らない のが実情に思います。また、衛生昆虫学に賢治の関与があったことは、国内の衛生昆虫学 史上に波紋を投げかける話題に思われます。しかし本書には、唯一、惜しまれる点があり ます。引用された論文のリファレンスが掲載されていないことです。 出典論文は本文中に記された著者名・発表年代から読者各自が検索しなくてはなりません。

 ところで小倉解説では、及川四郎氏を『注文の多い料理店』出版の中心人物にして「陰 の人」として紹介しています。(同文庫一六七頁)。また、賢治童話集と近森著書の出版に至 った経緯として、「その最初の仕事は農作物の害虫駆除剤の製造販売であった。 (略)その宣伝普及の企画として「病害虫駆除予防便覧」 と題すパンフレットを、大急ぎ執筆編纂して出版したのである。(略)薬も本も、実によ く売れた。そこで大いに得意になって、近森氏の『蝿と蚊と蚤』の著述出版となり、つづ いて賢治の童話集の出版企画となったらしいのである」(同文庫一六八頁)と述べています。 この一文から、東北農業薬剤研究所を設立した及川四郎氏の存在がなければ、近森著書も 賢治の『注文の多い料理店』もこの世に誕生しなかったことは自明です。

 近森著書を捜し求めていた昨年九月のことでした。すでに本書が現存するかどうか半信 半疑の中、失礼は承知の上で、突然に盛岡市材木町の光原社を訪問しました。ところが思 ってもみなかったことに、資料館に招き入れて下さり保管されていた本書を閲覧させて戴 けました。このことがご縁で後日、及川四郎氏のご令嬢の及川福子様と面識を得る誉に浴 し、『注文の多い料理店』出版にまつわる種々な貴重なお話を伺う機会に恵まれました。小 倉解説にある通りの経緯があり、『注文の多い料理店』出版で生じた大きな負債を及川四郎 氏が一手に抱えられ、その東京の版元への返済に辛苦の連続にあった生活の様子や、常に 事業へのロマンを失わず邁進された及川氏の姿に瞠目させられるばかりでした。

 及川四郎氏は光原社の経営を建てなおされた後になって、時にご令嬢たちを前に書籍を 手に出版当時を回想されては、その内容や同氏が手懸けた装丁を誇らしく語られたといい ます。また、東北農業薬剤研究所から出版された近森本書、来栖儀一『陸稲栽培論』、増訂 第三版『病中害防除便覧』、小熊彦三『蔬菜園芸教科書』、近森善一『農用昆虫教科書』、小 熊彦三『果樹園芸教科書』の各教科書校正は同氏が一人で行ったお話を伺い、事業と学術 両面に卓越した及川四郎氏の存在があってこそ、賢治の『注文の多い料理店』や近森著書 が誕生したことが実感されました。最後に本稿を終えるにあたり、貴重な近森著書をご恵 贈下さり、種々お話をお聞かせ下さいました、光原社の及川福子様に深謝致します。

(会員 東京都足立区)




投稿


戦前の吹張町界隈(昭和十年代)

泉沢 善雄

 宮沢賢治の作品や伝記・エピソードを読む際、当時の花巻の町の様子を知らないと、具 体的なイメージが掴めないという事があります。文献を見ますと賢治の生家のあっ た豊沢町や上町、鍛冶町、末広町などは当時の地図がありますが、吹張町は 見つけられませんでした。吹張には芳文堂ややぶ屋、花巻公会堂、警察署、 郵便局があり、上町と共に中心商店街の一つでした。

 そこで、当時を知る町内の方々などから取材し、戦前の地図を作成致しま した。商店街の常として、店舗の移転、新設、閉店などの変遷があり、大正時 代から続く店もあれば、短期間しか存在しなかった店もあったと思います。 したがって確実に昭和○○年時点とは言いかねますが、概ねこのようであっ たと理解して頂きたいと思います。

 なお、取材させていただいた方々のご芳名を以下に記し、ご協力に感謝致 します。

●奥山 清  おくやま眼鏡店
●畠山 敬治 畠山洋品店
●成島 アヤ 成島ビル
●佐々木康悦 料亭まん福
●高橋 精一 高六米穀店
●阿部 エキ 阿部クリーニング店
●渡辺 恵津 渡辺金物店
(敬称略 順不同)

(会員 花巻市)

朴の花

佐藤 映二

身照寺

郭公や焼香の列おのずから

大沢温泉五句

対岸の朴咲きわたる清六忌

銀の腹反らし苔食ふ山女かな

水面を羽搏ち水のむ蛾一匹

はきはきと本読む声や鉄線花

朝涼や若き辛夷の一樹と居

(会員 千葉県松戸市)




宮沢賢治資料34/吉野秀雄あて書簡


栗原 敦

 『新校本宮澤賢治全集』第十五巻「書簡」に未収録の葉書一通について、その写真と関係事項を紹介します。

 本葉書は、歌人吉野秀雄の遺族より神奈川近代文学館に寄贈された資料のうちの一点(神奈川近代文学館蔵・吉野 秀雄文庫)で、二〇〇二年十月十二日.十一月二十四日(於、神奈川近代文学館)、二〇〇二年十二月三日.二〇〇 三年一月十三日(於、高崎市タワー美術館)に開催された「生誕100年記念展 歌びと 吉野秀雄」の図録 (編集 財団法人神奈川文学振興会、発行 県立神奈川近代文学館・財団法人神奈川文学振興会、2002・10・12)に、 本文部分が掲出されている。

 受信人吉野秀雄(明35・7・3.昭42・7・13)は、織物問屋「吉野藤」の次男として群馬県高崎市に生まれた。高 崎商業学校を経て、大正九(1920)年慶應義塾大学理財科予科入学、十一(1922)年慶応大学経済学部に進学するも、 十三(1924)年肺尖カタルのため退学し帰郷。国文学の独修に努め、本格的に作歌をはじめる。「アララギ」派に親 しみ、会津八一に師事し、療養生活と家業従事の間に多くの歌文を発表した。

 本書簡の時期は、大正十五(1926)年十一月に高崎の実家に戻り、昭和六(1931)年四月に鎌倉の海月楼に転地、 五月に鎌倉市小町に転居し永住することになる前年である。宮沢賢治の存在は、昭和三年八月に高橋元吉を前橋に 訪ねて始まった高橋との交友の中で知ることになったのではないかと推測される(ちなみに、高橋の場合は昭和三年 九月に前橋に転居してきた草野心平の感化による)。

286a 昭和五年十二月十五日 吉野秀雄あて 葉書
《表》高崎市新町四六番地
吉野秀雄様
5 12 15
岩手県花巻町
豊沢町 宮沢賢治
《消印》 岩手花  5 12 16 〔?〕〔?〕―8
《筆記具》ブルーブラックインク、ペン
《裏・本文》
拝復 拙著御請求に預り甚汗顔仕候「春と修羅」は
手許に有之候儘本日別便にて
謹贈仕候「注文の多い料理店」は
盛岡市外厨川館坂光原社
及川四郎宛
金一円五十
御送附披成下
御需め下さらば幸甚に御座候
先は右御返事  敬具
《校異》裏・本文
5行 盛岡市〔(ナシ)→外〕厨川

【本書簡の紹介にあたっては、神奈川近代文学館のご協 力を得ました。なお、文中の両書とも文庫には収録されて いないとのことです。】

(理事 東京都国分寺市)




テキストクローズアップ24 「なめとこ山の熊」両義的読み

天沢 退二郎

 「なめとこ山の熊」は、生前未発表。ただ一種の草稿が残っていて、エンピツで書 き下されており、後日の大幅手入れのあとはといえば、鋏での切り離しにより、いわ ゆる荒物屋のシーンが大きく移動されている以外は、細部の、おそらく書きながらの 加除のみである。しかし、この草稿の大きな特徴は、第一葉・第二葉からして、読点 も改行もきわめて少ない、長大なセンテンスが、頻出することで、これが物語の切迫 感、作者のテンションの高さ等に対応していることは、別の場所でのべた。今回、ク ローズアップする箇所は、句読点・改行のないために両義性が生じているところ。こ のために、一つの解釈によった十字屋版全集本と、両義性をそのままにした31年筑摩 版全集本以降とがあり、たとえば朗読者は、どちらにするかを決めることを要求されて いる。草稿では、上掲の写真でごらんのとおり。

《木がいっぱい生えてゐるから谷を溯ってゐると》
十字屋版は、漢字を使って、
《木がいっぱい生えてゐる空谷からだにを溯つてゐると》
31年版以後は草稿通り
《木がいっぱい生えてゐるから谷を溯ってゐると》
となって、「ゐるから」でちょっと切って「たにを」と読み継ぐのが自然と考えられて いるらしいことが、岩崎書店版「宮沢賢治童話全集」で「からたに を」とルビが付されていることから推測される。しかし、「空谷」を「からだに」でなく「からたに」と、 濁らずに読むことも不可能ではない。とすれば、両義性を保ったままの朗読も、工夫 次第で可能となる。ただし、「から」を理由の助詞とみるか、それとも次の「谷」を修飾して「空谷」の意になるかで、読みの 内実は相当に異なることに留意するべきだ。

 さてしかし、「からだに〔空谷〕」という項目は、国語辞典類にはどうも見当たらず、 「空谷〔くうこく〕」という項は各種漢和辞典・国語辞典類にあって、荘子から鏡花ま で同例あり、意味は「人けのない寂しい谷」。

 (ちなみに、かつて中日ドラゴンズに「空谷〔そらたに〕」という速球投手が活躍し ていたことをご記憶の方もあろう)

(会員 千葉県千葉市)



黒澤 勉さんの講演 啄木賢治青春記念館にて
春季セミナー「賢治の青春を訪ねて」

二〇〇三年三月二十二日・二十三日
吉田 敬二

 今回の春季セミナーは、初日に岩手医科大学六十周年記念館を会場として一四六名の参加で 講演等が行われた。なお、この会場は啄木・賢治の学んだ盛岡中学のあった場所である。

 代表理事挨拶と岩手医科大学小野繁学長よりの挨拶を頂いた後、講演一人目は、小川達雄さ んによる「宮沢賢治と盛岡中学校─その最初の作品を読む─」。短歌、明治四十二年四月より を取り上げており、「文語詩篇」ノート及び「東京」ノート等の関連内容から賢治が盛岡中 学校に通っていた当時の学生生活、風景、近隣の地域など、日記的に記されたものの解説をさ れていた。

 講演二人目は、田口昭典さんによる「宮沢賢治と盛岡高等農林学校─賢治の思想を育んだ所─」。 スライドを映写しての説明で、明治期の日本国内の社会・農業情勢を背景に盛岡高等農 林学校の創設過程の内容から説明がはじめられた。また賢治が盛岡高等農林学校入学より盛岡 付近地質調査、「アザリア」創刊、卒業・研究生としてそれぞれの時に受けた教育、当時のカ リキュラム、教授陣容、近代農学の系譜と順次に話された。また、同人誌「アザリア」の刊行 当時の賢治作品と、その周辺の人々も詳しく説明された。

 講演三人目は、黒澤勉さんによる「宮沢賢治における宗教」。賢治における宗教の重要性、 学習期│求道と感化、そして創造期│宗教的使命感への移行とそれに基づく創造と生き方、な どの講演内容。具体的には詩等作品の中に仏教及びキリスト教の宗教的内容を取り込んでいる こと。また、文学を通して法華経を広めようとしたことなど、自分が宗教的使命感に自覚をし ていく過程等を詳しく話された。資料として、大正七年、父政次郎あて書簡は宗教に対する求 道と感化の解説と、詩「永訣の朝」「無声慟哭」の宗教的見地からの解説をされた。

 また講演後、ラウンジに於いて交流・懇親会が行われた。催しとして、コーラスせきれいに よる「岩手公園」他の合唱と、盛岡在住の米内アキさんによる「永訣の朝」他の詩の朗読があ りました。懇親会は、常連の方も多く引き続き市内へと会場を移した方もおられた。

 二日目は、「宮沢賢治文学散歩in盛岡」と題して、賢治がその青春時代をすごした盛岡を 訪ねるとして、三つのコースより選択し参加することができた(全参加者七十九名)。 各コースは、

A中津川青春の道コース(ゆったりコース)は主に岩手公園→市役所裏・詩歌 の散歩道→盛岡手紙館→啄木・賢治青春記念館→新渡戸稲造像→下の橋たもと→岩手銀行→岩 手医大→内丸教会(参加者二十一名)。

Bモリーオ啄木賢治青春コース(健脚コース)は主に 盛岡駅→啄木出会い道→材木町(光原社)→岩手大学(農業教育資料館)→盛岡一高→四ッ谷教会・内丸教会→岩手医大→岩手公園→下の橋 たもと→啄木・賢治青春館→盛岡手紙館(参加者二十四名)。

C修羅の目覚めコース(健脚コース)は主に賢治清水前→岩手公園→市役所 裏・詩歌の散歩道→岩手医大→清養院・龍谷寺→報恩寺→願教寺→教浄寺→盛岡一高→岩手大 学(農業教育資料館)→材木町(光原社)(参加者三十四名)。

 私は、Aコースに参加したが、比較的ゆっくり見学することができた。市役所裏の中津川沿 い遊歩道コースが改修工事のため直接詩碑等を見学できない所があり残念でした。昼食は懇親 会的でしたので、はじめてお会いした方々と話すことができた。また、Bコース、Cコースと も見学ポイントが盛りだくさんで参加された皆さまは、その健脚ぶりを発揮し見学されたよう である。

 今回のセミナーに参加して、今までの賢治と盛岡の関わりだけではなくその周辺の人々と文 学作品関連にもふれることができました。

(会員 岩手県盛岡市)




夏季特設セミナー

二〇〇三年八月二日・三日
宮沢賢治イーハトーブ館

 今回より夏季特設セミナーは、数年にわたる長期企画の第三弾「「風の又三郎」の謎に迫る」 と題して、賢治童話「風の又三郎/風野又三郎」を取りあげます。その1回目となる今回のテー マは「〈風の又三郎の出現〉」。八月二日、三日の二日間、宮沢賢治イーハトーブ館を会場に、 二二〇名の受講を得て開催されました。

 初日は、代表理事あいさつの後、コーディネーターの天沢退二郎さんにより、初期本文史の 謎について、「風の又三郎はどのようにやってきたか」の基調報告と、続いて吉田文憲さんと の「初期全集本文と自筆草稿」についてのトーク。更に、中地文さんによる問題提起「初期受 容史をめぐって」、そして参加者ディスカッションにて終了いたしました。

 二日目は、なつかしの映画「風の又三郎」(昭和十五年公開、島耕二監督)。上映に先立ち、 岡村民夫さんより、「島版「風の又三郎」をめぐって」の講話があり、実際この映画にエキス トラ参加した地元の平賀等さん、佐藤謹悟さんらのお話や、今年九十歳となられる阿部義夫さ んは、「賢治さんから石の名前を教えてもらった」というエピソードを紹介されるなど、参加 者一同「風の又三郎」の世界へ、しばしタイムスリップの貴重なひとときとなりました。