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宮沢賢治学会・会報第27号 | |
……砂丘のなつかしさとやはらかさ 「海鳴り」(「春と修羅第二集」「牛」先駆形) 表紙写真 撮影・大塚 常樹 |
第27号「トウゴマ」 2003年9月22日発行
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蛍烏賊観光ノ奨メ ますむら ひろし ジョバンニが天気輪の柱の丘から列車にのる間際、空の星たちは爆発的 な輝きをするが、その瞬間の描写に「まるで億万の蛍烏賊の火を一ぺんに 化石させて」と、賢治は蛍烏賊を持ち出した。食卓にのぼる茶色くゆでら れた蛍烏賊なら馴染みだが、これが光る姿を僕は見たことがない。そして ムッシャリやりながらときどき思うのだ。 「賢治は、蛍烏賊の発光を見たのだろうか」。蛍烏賊といえば、富山湾が 漁場として有名だが、賢治は富山湾に行ったことがあるのだろうか。彼の 生涯の行動は、ほとんど記録されているが、少なくとも富山湾での蛍烏賊 発光目撃は無いと思う。だが蛍烏賊は、富山湾だけではなく、東北地方の 海でも獲れるらしいので、賢治が三陸海岸で、獲れたての蛍烏賊を見た可 能性はあるのだ。 「蛍烏賊、見に行きませんか」。蛍烏賊の本を作った男から連絡があり、 いつか見たいと思っていた僕は、四月の富山湾、滑川まで行った。 深夜三時の闇の海に蛍烏賊観光船は満席で出ていく。漁をして網を引き上げる現場では漁り火が消され、暗闇のなかで網の へりが点描のようにモワッと輝く。漁師が円い網のついた棒を海面に差し込みすくい上げると青白い輝きの円が浮き 上がり、まるで小さな宇宙のようだ。蛍烏賊は、刺激されると光るらしく、空中に差し出された輝きがモンヤリして いたかとおもうと、漁師がその網を振り中のものを空中に放りだした瞬間、小さな星たちは暗闇の中を流星のように なって走り、海面に落ちて輝き続ける。水中に落ちた蛍烏賊は、しばらくボーッと輝いて光の流線を作り、やがて深 く沈んでいく。 翌日、蛍烏賊ミュージアムで、蛍烏賊に最接近となった。館内にある池のなかでヤツラはスイスイと 泳ぎ、それをつかまえて手のひらに乗せると、スミ吹いたり輝いたりする。この輝きは足にある発光器が反応するの だが、激しく反応すると全身が輝く。そうした姿を見るために、別室の暗闇のなかで小さな網をみんなで揺するとい う体験があった。ジャブジャブと網を揺すると烏賊たちは発光を始め、なかには全身発光するものもいて、手のひら に乗せて観察してみるときれいに並んだ光の粒。それらを覗いているとミクロの星の世界を見ているような、変な感 覚に包まれる。身体が銀河の星で出来ているような、そんな感覚。とても小さなもののなかに宇宙が詰まっているよ うだ。 こうして、タップリ堪能し帰路についたのだが、「賢治は、蛍烏賊の発光を見たのだろうか」と抱えていた疑問 にたいし、なんとなく答えを感じた。もちろん推測の域はでないけれど、僕としては「賢治は、見ていない」と思う。 その理由は僕が手のひらの上で見た感動からすると、もしも賢治がそうした経験をしていれば、心象スケッチなどの なかで、蛍烏賊のことをもっと取り上げたように思うのだ。それならば賢治は、どこで蛍烏賊の発光を知ったか、 となると、実に興味深いことが出てくる。それはこの旅行後に手に入れた「ホタルイカの素顔」(奥谷喬司・編著 東 海大出版会発行)のなかにあるのだ。 蛍烏賊は、富山ではそれを「コイカ」と呼んでいたらしく、蛍烏賊と名付けたのは、動物学者・渡瀬庄三郎と言う 人で、彼が富山に訪れたのが1905年。その年「蛍烏賊の発光器」という論文を「動物学雑誌」に発表する。しか し蛍烏賊が国際的に新種として認められるのは1911年、アメリカの学者ペリー博士によってで、「閃光を発する」 という意味の学名を持つことになる。1913年には、佐々木望博士が動物学雑誌に「蛍烏賊の生態」として、烏賊 の形態、発光器などを詳しく報告した。こうしたことから、蛍烏賊というものが発光するということは、一種の驚き として発表されただろうし、賢治はこうした雑誌を読んだか、これらをもとにした一般的な科学本のなかで、蛍烏賊 というものの「ホタルっぽさ」を知識として知ったのではないだろうか。「銀河鉄道の夜」の誕生が24年とすると、 蛍烏賊の注目された年代との近さに、存在の新鮮度を感じ、賢治の情報収集アンテナの感度の良さも感じる。こうし て「ホタルイカの素顔」を読みながら、ボンヤリしていると次ぎのような箇所が現れた。 「地球上の生物の系統類縁関係を包括的に理解しようとしたドイツの動物学者ヘッケルは・・・」。 ヘッケルが出てくるのだ。「青森挽歌」で呼び出されるあのヘッケル先生が、賢治を訪ねて読む蛍烏賊の本に浮かん でくるとこなんか、賢治の意識が見た循環にからんだような気分になり、なんとなく賢治の海原に揺られている感じ がした。 (漫画家)
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第13回宮沢賢治賞・イーハトーブ賞決まる 第13回宮沢賢治賞・イーハトーブ賞は、先の理事会におき まして次のとおり承認し、花巻市より発表されました。 受賞された方々にお喜びを申し上げますとともに、これか らのますますのご活躍をご祈念いたします。 経過及び選考理由について 宮沢賢治学会イーハトーブセンター賞選考委員会 委員長 佐 藤 通 雅 《宮沢賢治賞》会員からの推薦、申し合わせによる選考委員会の推挙を合わせて計二十七点を選考対象にした。三次の選考会議を経て、本年度 の宮沢賢治賞を選考した。 本賞の池澤夏樹氏は、すでに気鋭の作家として活躍、数多くの作品を世に送り出している。今回の『言葉の流星群』は、それら の達成に立ちつつ、賢治作品の具体的分析を通して、生き生きとした読み方を展開したものである。しかも明晰・平明な文章で、 説得力もあることなどが、高く評価された。 同じく本賞の小林敏也氏は、「どんぐりと山猫」「やまなし」「銀河鉄道の夜」「雪わたり」その他、多くの賢治作品の絵本化に持 続的に取り組み、小林氏独自の世界を構築してきた。それらが広く、子ども読者の心をつかんできたことも高く評価された。 以上の二氏を本賞に推挙した。なお、奨励賞も何点か検討を重ねたが、あと一・二歩で推挙するにいたらず、本年度は見送るこ とになった。 《イーハトーブ賞》宮沢賢治賞と同様の推薦・推挙による計八点を選考対象とし、三次の選考会議を経て、本年度のイーハトーブ賞を選考した。 本賞の赤坂憲雄氏は、山形に拠点をおいてより、民俗学の観点から、東北に脈打つ縄文の精神を掘り起こす作業を持続してきた。 それがやがて、東北学樹立へと結果し、東北再発見のための大きな力となった。それは現在も進行中である。また、賢治の風土や 作品の解読にも、新たな視点を導入した。これら一連の幅の広い仕事は、イーハトーブ賞にこそふさわしいと判断し、本賞に推挙 した。 他に、奨励賞も何点か検討したが、宮沢賢治賞同様、残念ながら推挙するにいたらなかった。
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■宮沢賢治賞
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池澤 夏樹
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■宮沢賢治賞
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小林 敏也
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■宮沢賢治賞奨励賞
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該当なし
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■イーハトーブ賞
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赤坂 憲雄
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■イーハトーブ賞奨励賞
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該当なし
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投稿戦前の吹張町界隈(昭和十年代) 泉沢 善雄
宮沢賢治の作品や伝記・エピソードを読む際、当時の花巻の町の様子を知らないと、具 体的なイメージが掴めないという事があります。文献を見ますと賢治の生家のあっ た豊沢町や上町、鍛冶町、末広町などは当時の地図がありますが、吹張町は 見つけられませんでした。吹張には芳文堂ややぶ屋、花巻公会堂、警察署、 郵便局があり、上町と共に中心商店街の一つでした。 そこで、当時を知る町内の方々などから取材し、戦前の地図を作成致しま した。商店街の常として、店舗の移転、新設、閉店などの変遷があり、大正時 代から続く店もあれば、短期間しか存在しなかった店もあったと思います。 したがって確実に昭和○○年時点とは言いかねますが、概ねこのようであっ たと理解して頂きたいと思います。 なお、取材させていただいた方々のご芳名を以下に記し、ご協力に感謝致 します。 ●奥山 清 おくやま眼鏡店 (会員 花巻市)
朴の花 佐藤 映二 身照寺 郭公や焼香の列おのずから 大沢温泉五句 対岸の朴咲きわたる清六忌 銀の腹反らし苔食ふ山女かな 水面を羽搏ち水のむ蛾一匹 はきはきと本読む声や鉄線花 朝涼や若き辛夷の一樹と居 (会員 千葉県松戸市)
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テキストクローズアップ24 「なめとこ山の熊」両義的読み 天沢 退二郎
「なめとこ山の熊」は、生前未発表。ただ一種の草稿が残っていて、エンピツで書 き下されており、後日の大幅手入れのあとはといえば、鋏での切り離しにより、いわ ゆる荒物屋のシーンが大きく移動されている以外は、細部の、おそらく書きながらの 加除のみである。しかし、この草稿の大きな特徴は、第一葉・第二葉からして、読点 も改行もきわめて少ない、長大なセンテンスが、頻出することで、これが物語の切迫 感、作者のテンションの高さ等に対応していることは、別の場所でのべた。今回、ク ローズアップする箇所は、句読点・改行のないために両義性が生じているところ。こ のために、一つの解釈によった十字屋版全集本と、両義性をそのままにした31年筑摩 版全集本以降とがあり、たとえば朗読者は、どちらにするかを決めることを要求されて いる。草稿では、上掲の写真でごらんのとおり。 《木がいっぱい生えてゐるから谷を溯ってゐると》十字屋版は、漢字を使って、 《木がいっぱい生えてゐる31年版以後は草稿通り 《木がいっぱい生えてゐるから谷を溯ってゐると》となって、「ゐるから」でちょっと切って「 さてしかし、「からだに〔空谷〕」という項目は、国語辞典類にはどうも見当たらず、 「空谷〔くうこく〕」という項は各種漢和辞典・国語辞典類にあって、荘子から鏡花ま で同例あり、意味は「人けのない寂しい谷」。 (ちなみに、かつて中日ドラゴンズに「空谷〔そらたに〕」という速球投手が活躍し ていたことをご記憶の方もあろう) (会員 千葉県千葉市)
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黒澤 勉さんの講演
啄木賢治青春記念館にて
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春季セミナー「賢治の青春を訪ねて」
二〇〇三年三月二十二日・二十三日 今回の春季セミナーは、初日に岩手医科大学六十周年記念館を会場として一四六名の参加で 講演等が行われた。なお、この会場は啄木・賢治の学んだ盛岡中学のあった場所である。 代表理事挨拶と岩手医科大学小野繁学長よりの挨拶を頂いた後、講演一人目は、小川達雄さ んによる「宮沢賢治と盛岡中学校─その最初の作品を読む─」。短歌、明治四十二年四月より を取り上げており、「文語詩篇」ノート及び「東京」ノート等の関連内容から賢治が盛岡中 学校に通っていた当時の学生生活、風景、近隣の地域など、日記的に記されたものの解説をさ れていた。 講演二人目は、田口昭典さんによる「宮沢賢治と盛岡高等農林学校─賢治の思想を育んだ所─」。 スライドを映写しての説明で、明治期の日本国内の社会・農業情勢を背景に盛岡高等農 林学校の創設過程の内容から説明がはじめられた。また賢治が盛岡高等農林学校入学より盛岡 付近地質調査、「アザリア」創刊、卒業・研究生としてそれぞれの時に受けた教育、当時のカ リキュラム、教授陣容、近代農学の系譜と順次に話された。また、同人誌「アザリア」の刊行 当時の賢治作品と、その周辺の人々も詳しく説明された。 講演三人目は、黒澤勉さんによる「宮沢賢治における宗教」。賢治における宗教の重要性、 学習期│求道と感化、そして創造期│宗教的使命感への移行とそれに基づく創造と生き方、な どの講演内容。具体的には詩等作品の中に仏教及びキリスト教の宗教的内容を取り込んでいる こと。また、文学を通して法華経を広めようとしたことなど、自分が宗教的使命感に自覚をし ていく過程等を詳しく話された。資料として、大正七年、父政次郎あて書簡は宗教に対する求 道と感化の解説と、詩「永訣の朝」「無声慟哭」の宗教的見地からの解説をされた。 また講演後、ラウンジに於いて交流・懇親会が行われた。催しとして、コーラスせきれいに よる「岩手公園」他の合唱と、盛岡在住の米内アキさんによる「永訣の朝」他の詩の朗読があ りました。懇親会は、常連の方も多く引き続き市内へと会場を移した方もおられた。 二日目は、「宮沢賢治文学散歩in盛岡」と題して、賢治がその青春時代をすごした盛岡を 訪ねるとして、三つのコースより選択し参加することができた(全参加者七十九名)。 各コースは、 A中津川青春の道コース(ゆったりコース)は主に岩手公園→市役所裏・詩歌 の散歩道→盛岡手紙館→啄木・賢治青春記念館→新渡戸稲造像→下の橋たもと→岩手銀行→岩 手医大→内丸教会(参加者二十一名)。 Bモリーオ啄木賢治青春コース(健脚コース)は主に 盛岡駅→啄木出会い道→材木町(光原社)→岩手大学(農業教育資料館)→盛岡一高→四ッ谷教会・内丸教会→岩手医大→岩手公園→下の橋 たもと→啄木・賢治青春館→盛岡手紙館(参加者二十四名)。 C修羅の目覚めコース(健脚コース)は主に賢治清水前→岩手公園→市役所 裏・詩歌の散歩道→岩手医大→清養院・龍谷寺→報恩寺→願教寺→教浄寺→盛岡一高→岩手大 学(農業教育資料館)→材木町(光原社)(参加者三十四名)。 私は、Aコースに参加したが、比較的ゆっくり見学することができた。市役所裏の中津川沿 い遊歩道コースが改修工事のため直接詩碑等を見学できない所があり残念でした。昼食は懇親 会的でしたので、はじめてお会いした方々と話すことができた。また、Bコース、Cコースと も見学ポイントが盛りだくさんで参加された皆さまは、その健脚ぶりを発揮し見学されたよう である。 今回のセミナーに参加して、今までの賢治と盛岡の関わりだけではなくその周辺の人々と文 学作品関連にもふれることができました。 (会員 岩手県盛岡市)
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夏季特設セミナー
二〇〇三年八月二日・三日 今回より夏季特設セミナーは、数年にわたる長期企画の第三弾「「風の又三郎」の謎に迫る」 と題して、賢治童話「風の又三郎/風野又三郎」を取りあげます。その1回目となる今回のテー マは「〈風の又三郎の出現〉」。八月二日、三日の二日間、宮沢賢治イーハトーブ館を会場に、 二二〇名の受講を得て開催されました。 初日は、代表理事あいさつの後、コーディネーターの天沢退二郎さんにより、初期本文史の 謎について、「風の又三郎はどのようにやってきたか」の基調報告と、続いて吉田文憲さんと の「初期全集本文と自筆草稿」についてのトーク。更に、中地文さんによる問題提起「初期受 容史をめぐって」、そして参加者ディスカッションにて終了いたしました。 二日目は、なつかしの映画「風の又三郎」(昭和十五年公開、島耕二監督)。上映に先立ち、 岡村民夫さんより、「島版「風の又三郎」をめぐって」の講話があり、実際この映画にエキス トラ参加した地元の平賀等さん、佐藤謹悟さんらのお話や、今年九十歳となられる阿部義夫さ んは、「賢治さんから石の名前を教えてもらった」というエピソードを紹介されるなど、参加 者一同「風の又三郎」の世界へ、しばしタイムスリップの貴重なひとときとなりました。
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