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宮沢賢治学会・会報第28号 | |
木霊はまっすぐに降りて行きました。太陽は今越えて来た丘のきらきらの枯草の向ふにかかりそのななめなひかりを受けて早くも一本の桜草が咲いてゐました。若い木霊はからだをかがめてよく見ました。まことにそれは蛙のことばの鴾の火のやうにひかってゆらいで見えたからです。 「若い木霊」 表紙写真 撮影・大塚 常樹 |
第28号「サクラソウ」 2004年3月25日発行
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詩と賢治宇宙 海部 宣男 宮沢賢治には高校時代から親しんだが、私は童話よりも詩のなかに賢治の科学や哲学や人間らしい迷いを発見し、それに惹かれてきた。賢治の自然と科学への強い志向は、詩の中に魔法のようにつらねられた言葉となってあらわれる。たとえば、雪の五輪峠を越えながら自問自答する賢治がいる。 ……五輪は地水火風空 昔のインドの科学だな 空といふのは総括だとさ いまの真空だらうかな つまり真空そのものが エネルギーともあらはれる…… わたくしであり彼であり 雪であり岩であるのはただ因縁であるといふ そこで畢竟世界は因縁があるだけといふ 雪の一つぶ一つぶの 質も形も進度も位置も時間も みな因縁自体であるとさう考へると なんだか心がぼおとなる……(「五輪峠」) 現代物理学と仏教と古今の哲学と実在とが渾然一体になって、存在とは何かを問いかけながら、ふりしきる雪景色のなかにおぼろにかすんでゆく。こんな詩を書いた詩人が、世界にまたとあるとは思えない。 谷川徹三は、科学・信仰・芸術・実践をもって「賢治の四次元世界」と規定した。賢治という大きな氷山を、人はそれぞれの目と心で眺める。自然の不思議さのとりこになり科学を追い続けてきた私には、彼の「科学」の次元が、水面上に浮き出して見えるのだろう。 いっぽう、賢治の自然と科学への強い傾斜は、絶えず信仰や芸術など、他の次元との緊張関係を生まずにはおかない。その緊張関係の上に、全方位的に人格を発揮しようとした賢治の悩みや矛盾は、詩のなかにきわめて直接的にあらわれてくる。それは、詩という、短文表現の持つ力のためである。「心象スケッチ」という形を賢治に思いつかせたのも、そうした詩の力であろう。賢治は、手帳に書いている。 「詩は裸身にて理論の至り得ぬ境を探り来る。そのこと決死のわざなり。」詩は賢治自らの全人格をぶつけられるところ、科学・芸術・信仰・実践をつなぐ思考的実験の場だったのだと思う。 出会いは早かったが、賢治の詩についていろいろ考えるようになったのはここ十数年だ。ある雑誌に連載をたのまれたので、人間にとって宇宙の概念がいつどんな形で生まれ、変化してきたのかを、うたの世界から追ってみた。古代の神謡から愛唱した詩人・歌人・俳人まで、心の宇宙の逍遥である。数年前に『宇宙をうたう』(中公新書)として刊行したが、この作業は思いのほか楽しく、折りにふれ書き継いでいる。もちろん賢治についても、何度か取り上げた。 賢治の宇宙への関心は若い頃からきわめて強いが、ある種精神的なものだった。 南天の蠍よなれもし魔物ならばのちに血はとれまづ力欲し 前の歌は入院生活などで悶々たる十八歳のころ。後は盛岡高等農林学校で科学を学び、星座盤を手に山野を歩きまわっていた二十歳あたりだ。最初の童話「双子の星」を書いたのは、さらにその二年後である。 一九二四年春、賢治は水沢の緯度観測所に通い、その夏にはさかんに天の川を詩にうたう。そしてそこにはあの青春の日の「南天の魔物」が、形を変えてあらわれるのも面白い。 …… 天の川のその燃焼の補填として 南のそらは大きな黒いいたでを負った 西蔵魔神の風呂敷が そこらの星に吸ひついている ……(「密教風の誘惑」) 賢治は、いて座やさそり座のある天の川の南のはじが、とても気になるのだ。そこには絶えず「爆発」がおこり、「黒い思想」がへばりついている。だがここに見えるのはもはや精神的でなく、科学的な宇宙への関心である。 銀河系の中心方向にあたるいて座の天の川には、黒い模様が複雑に入り乱れている。極微の固体粒子(ダスト)を含む冷たく巨大な雲(暗黒星雲)が背景の星を隠している為であることが、赤外線観測からわかっている。しかし賢治の時代、それはまだ一部の専門家の説にすぎなかった。なお『春と修羅』の序文にある「宇宙塵」は、現代天文学でいう暗黒星雲の「ダスト」ではない。そのころ宇宙塵といえば、深海底の軟泥から見つかる鉄の微少な球のことだった。太陽系空間から落ちてきた隕鉄が大気との摩擦で燃え、液化し飛散して深海にたまったものである。 天の川の不思議な黒い模様の正体を知りたかった賢治だが、暗黒星雲というその実体を知ることはなかった。もし『銀河鉄道の夜』が数年後に書かれていたら、車窓の天の川の景色も違ったものになっていたのではないかと思う。 (天文学者)
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| 【報告】 |
第十四回定期大会 二〇〇三年度定期大会が、会員ほか二五〇名の参加を得て、昨年九月二十二日と二十三日の二日間にわたって、花巻市のNAHANプラザ、宮沢賢治イーハトーブ館を会場に開催されました。十四回目の大会の様子をご報告いたします。 第十三回宮沢賢治賞・イーハトーブ賞贈呈式
今回の賢治賞は、「賢治作品の具体的な分析と論者自身の感動分析を重ね合わせ、かつ明晰・平明な文章で核に迫る『言葉の流星群』の豊かな達成」の池澤夏樹さんと、「賢治作品の絵本化に、独自の技法で持続的に取り組み、子ども読者の心をつかんできた功績」の小林敏也さんのお二人に贈られました。 また、イーハトーブ賞は「東北の検証を通じて、民俗学の新生、発展ともいうべき東北学の樹立に大きく貢献した功績」の赤坂憲雄さんに贈られました。なお宮沢賢治賞・イーハトーブ賞ともに奨励賞の該当はありませんでした。 花巻市長から賞が贈られ、各受賞者からのスピーチ、その後本賞受賞者のお三人による記念講演が行われ、続いて花巻中学校の生徒の皆さん五十名による合唱にて閉幕となりました。受賞者の皆さんの業績などにつきましては、会報二十七号にてご紹介しておりますのでご参照ください。 定期総会午後一時から定期総会が行われました。出席会員の中から花巻市の八重樫新治さんを議長に選出した後、議事に入り、二○○二年度事業報告及び収支決算、二○○三年度事業計画及び収支予算について審議を行い、それぞれ原案どおり可決承認されました。同じく議事の中において、萩原代表理事より二○○六年度を目途に宮沢賢治国際研究大会開催を目指していくことが話されました。また、議事後の報告において、佐藤賞選考委員長より、今年度賞推薦票を簡略化したがあまり推薦数がのびなかったことから、来年度から賞選考内規の運用にて、会員外からの推薦も実施する予定であることが話され了承されました。 賢治研究リレー講演恒例のリレー講演は、今回より持ち時間五分延長の一人十五分となり、お三人の方からそれぞれの賢治をテーマに密度の濃いお話をしていただきました。講演の要旨は本号に掲載しております。 イーハトーブ・サロン │私と賢治│
平野利幸さん(岩手県)、泉沢善雄さん(花巻市)、阿部貴子さん(新潟県)、佐藤成さん(宮城県)、石島崇男さん(栃木県)、山本淳子さん(茨城県)、天沢退二郎さん(千葉県)、山田功さん(東京)、御舩道子さん(鳥取県)、田口昭典さん(秋田県)。 会員交流・懇親会
花巻市長のあいさつの後、奈良教育大の学生さん二名ほか六名のスピーチと続き、照井教育長による閉会の言葉の後、最後は五十嵐正子さん(新潟県)、石島崇男さん(栃木県)、藤原政子さん(東京)のお三人のリードにより「星めぐりの歌」の合唱、そして参加者全員が輪になっての「精神歌」合唱にて幕を閉じました。 研究発表
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第14回 定期大会リレー講演 (要旨)
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林間に幻の洋館を見た 力丸 光雄花巻の朝日橋を渡りますと、高木という集落があり、そこから北上川に沿って左岸を南下して行きますと、北上市の更木という集落があります。アイヌ語では植物のヨシ、アシという意味だそうですけれども、その更木の下八天という所から左に折れて、北上高地の山の中に分け入ります。枝道がたくさんあって迷わずに行けば、赤坂峠という小さな峠があります。そこが北上市の臥牛の外山という所です。今の人は「ふしうし」と言っていますが、牛が臥せると書いて、古くは「そうし」「そうす」あるいはもっと古くは「ひそうし」と言った所です。アイヌ語で「ピソウシ」と言いますと、小さな滝がたくさんある所という意味になります。本当に山の中です。そこに、大正の初期、大きな総二階建ての西洋館が建っていたというのは、これはまさに驚きというほかないと思います。 今でこそ、山が拓かれて小さな田んぼが広がっていますけれども、当時はおそらく鬱蒼とした木立をバックに、すすき野原の中にぽつんと、総二階寄せ棟造り、白ペンキ塗り、窓はレンジ窓、そして玄関は水色のペンキで枠を塗られたガラス扉だったそうです。実は私、三月のまだ雪が残っている時にそこを訪ねました。現在は中村正巳さんという方がお住まいになっていますが、これを建てたのは正巳さんのおじいさんの万右衛門さん、時代は一九一七年、大正六年といいます。外観はかなり変わっていますけども、中に入りますと、板張りの、天井の高い応接間、そしてでこぼこのガラスの大鏡があります。二階に登る階段の手すりはかなり黒光りして、当時の面影を偲ぶことができます。 ご案内してくださったのは、中村正巳さんと奥様。その奥様がいつも抱いておられる猫ときたら、まるで山猫じゃないかと思うような大きな大きな猫です。これまでも何人か雑誌の記者や賢治研究家が訪ねて来られたそうですけれども、賢治と中村家を繋ぐ手がかりは何もない。先々代の万右衛門さんが村長をされていた関係で、終戦間もなくですね、長持ちいっぱいあった書類を全部焼却してしまったそうです。 二階に上がりますと、二階は奥様のアトリエになっておりまして、立派な襖絵があります、どういう方がこの襖絵を描いたんですか、と正巳氏に尋ねましたら、北上市の及川香石という画伯ですということです。実はこの及川香石画伯というのが、賢治と中村家を結ぶミッシングリンクだと私はとっさに思いました。と言いますのは、香石という画伯は、浮世絵を通じて賢治と交友があったのだそうです。画伯のお孫さんにあたる北上市の及川放射線科内科医院の院長先生に直接お伺いしましたところ、賢治と交流があったという話は知っているけれども、詳しいことは分からないと。賢治が浮世絵を集め始めたのは十八年頃、二十一年には賢治は東京に出奔しておりますので、多分二十年、大正九年ですね、の夏か秋頃に香石画伯の手引きで、西洋館を訪ねたのではないかと推測したわけです。 その建物を造ったのは、どのような大工さんですかと聞きましたら、これは小菅という棟梁で東京に修業へ行って、乃木希典邸などを手掛けた人だそうです。そこで私がハッと思ったのはですね、「革トランク」です。もちろん主人公は斎藤平太、これは鉄棒にぶら下がったきり、いつも体操下手な、タイソウヘタの宮沢賢治が斎藤平太としたアナグラムだと私は思っていますから。いずれにしても工学校を出て設計に失敗して東京へ出て行ったという話はですね、小菅という大工さんの話がヒントだったんじゃないかなと思ったわけです。 それからもう一つ私が考えたのは、「山猫軒」もさることながら、文語詩の「林館開業」ですね、林の中にタフを積み上げて女の館を造って客を待つという、その林館、林の館を造る場所としては、この臥牛の外山、こここそ一番適当な場所じゃなかろうかと思ったわけです。中村家に電灯がついたのは岩手県でも最も遅く、昭和も後半になってからです。ですから、そこに林館を建てたとすれば、イルミネーションどころか石油ランプで、その石油ランプの火に誘われて来るのは、鱗翅目と鞘翅目の昆虫ばかり…と、こういうことだったんじゃないかと思います。ただ、桜の羅須地人協会があった所、あそこを賢治はここは昆虫館ですということを言ってますので、あるいは「林館」の場所としては桜の台地の鼻でもよかったのかも知れません。
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第14回 定期大会リレー講演 (要旨) |
小学校国語教科書の宮沢賢治 中地 文宮沢賢治の文学とはじめて出会ったのは小学校の国語の時間だった、という話をよく耳にします。現在、賢治文学の受容には、小学校国語科の授業とその教材が大きな役割を果たしているとみて間違いないでしょう。 しかし、それにもかかわらず、教師の側からは賢治の作品は扱いにくい教材と見做されています。そこには様々な理由があると思われますが、小学校の国語教科書に登載された賢治の伝記にも原因があるのではないでしょうか。 このような問題意識から、本日は賢治をめぐる伝記教材について所感を述べたいと思います。 賢治の作品が最初に小学校の国語教科書に登場したのは一九四六年。賢治の伝記は、その五年後の一九五一年(使用開始は五二年度か)にはじめて姿を現します。教育出版の『国語 四の上』に収録された「宮沢賢治」がそれです。この時、一つ前の単元の教材は「どんぐりとやまねこ」でしたので、童話と抱きあわせの形で伝記は登場したといえるでしょう。 最初の伝記教材「宮沢賢治」は、多少改訂が施されて五四年および五九年発行の教育出版の教科書にも掲載されましたが、その内容は人々のために働いた賢治の生涯を「実にけだかい一生」(五四年版)と語るものでした。このような賢治像は、学校図書の『小学校国語 六年下』に五四年から六五年にかけて収録された伝記「宮沢賢治」にも共通しています。原文は谷川徹三と付記されたこの教材では、「ねてもさめても、農民たちのことを考えていた」賢治を「何というやさしい、意志の強い人でありましょう」と讃えています。六一年版の中教出版の『小学国語 六年(一)』に登載された放送劇台本「宮沢賢治」も、主旨はほぼ同じでした。 以上のような特徴に変化が生じるのは、六〇年代半ば以降です。教育出版の六五年版と六八年版の六年生の教科書に収録された「宮沢賢治小伝」、および東京書籍の五年生の教科書に七一年から七七年にかけて収められた「宮沢賢治」(原文は堀尾青史)は、初期の教材と比べて、賢治の人生を殊更に讃美するものではなくなっています。学校図書の六年生の教科書に七七年から八九年にかけて登載された「宮沢賢治の童話」(筆者野村純三、八九年版は「宮沢賢治・人と作品」)は、童話の内容と背景の紹介に重点をおいていました。磯貝英夫「宮沢賢治の童話」(九六年、大阪書籍)も同様です。 こうしてみると、賢治をめぐる伝記教材の内容は、農民のために尽くした生き方を讃美するものから、童話作家としての資質や考え方を伝えるものへと移り変わってきたといえるでしょう。これは、教材化される童話の選択基準が、道徳的テーマを抽出できる作品から表現技法が注目される作品へと変化してきたこととも対応しているように見受けられます。 しかし、現在使用されている教科書には、このような流れに逆行するような傾向の教材が掲載されています。東京書籍の六年生の教科書に二〇〇〇年から収録されている東京書籍『新しい国語 六下』に収録された西本鶏介「宮沢賢治」は、「自分の理想とする世界を求めて激しく燃え続けた、太陽のような人」と賢治を捉え、その生き方と結びつけて作品を意味づけています。学習の手引きには「賢治の生き方は、賢治の作品に、どう表れているか考えよう」とあります。また、二〇〇二年版の光村図書出版『国語 六年(上)』に掲載された畑山博「イーハトーヴの夢」は、農村救済を志した人物として賢治を描き、その創作は「暴れる自然に勝つため」の一手段であったと語っています。この教材は童話「やまなし」と同じ単元に収められていますが、伝記の語る創作意図は「やまなし」の読解をかえって難しくしているのではないでしょうか。 道徳的解釈では納まらない作品が選ばれて教材化されるようになった現在、賢治の求道的・献身的な生き方を強調した伝記教材は、童話の解釈にかえって混乱をもたらしかねないように思われます。それでは、なぜ今、再び賢治の生き方が注目されるのでしょうか。その背景には近年の教育政策の影響があると推察されることを指摘して、ひとまずお話を終えることにします。
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第14回 定期大会リレー講演 (要旨)
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「一九二七、六、一三」の日付について 富山 英俊「一九二七、六、一三」は羅須地人協会の時期の夏ですが、『春と修羅第三集』の初期形態である『詩ノート』ではその日付の二篇と、前日の「六、一二」の一篇とが並んでいます。その一つは転変を経て、ほかの二篇の主題を吸収して最後には文語詩「病中幻想」となりましたが、作品番号とその日付は留めています。文語詩は、――「罪はいま疾にかはり/たよりなくわれは騰りて/野のそらにひとりまどろむ 太虚ひかりてはてしなく/身は水素より軽ければ/また耕さんすべもなし せめてはかしこ黒と白/立ち並びたる積雲を/雨と崩して堕ちなんを」。 この詩を私は『宮沢賢治文語詩の森』第三集で論じましたが、初期の形、「囈語」はこのようでした――「罪はいま疾にかはり/わたくしはたよりなく/河谷のそらにねむってゐる せめてもせめても/この身熱に/今年の青い槍の葉よ活着け/この湿気から/雨ようまれて/ひでりのつちをうるおほせ」。東北の農業の主要な困難は冷夏でしたが、冷夏だけが問題だったという説は、例の「雨ニモマケズ」中の語はヒデリかヒドリかという論争で一方の論拠として用いられました。だが賢治は多くの作品で旱魃をも農村の不幸の一因として扱い、ここもその一例です。 また、病いの身熱が雨と変り地に降ることへの宗教的・呪術的な祈願は、発想としてまさに「ヒデリノトキハナミダヲナガシ」と同種のものです。ナミダは、ほかに手段のない人間が雨のかわりに流し落し、地面をわずかでも濡らすことのできるものですから。 さてこの口語詩の枠組みは「病中幻想」まで残りましたが、文語詩中の「水素」と「積雲」は、「詩ノート」中の三篇のうちの残りの二作に由来します。その前者、十二日の日付の詩はつぎのようなものです。――「青ぞらのはてのはて/水素さへあまりに稀薄な気圏の上に/「わたくしは世界一切である/世界は移らう青い夢の影である」/などこのやうなことすらも/あまりに重くて考へられぬ/永久で透明な生物の群が棲む」。 この謎めいた詩の解釈に一つの正解があるとは考えにくいですが、詩の始まりは気圏の上層を指し示し、続く「わたくしは世界一切である…」という思想は、その場所で感じ考えるに適したものと思われる。だが「などこのやうなことすらも」以下が続いて読み手の予想は裏切られ、驚きが生じます。この日本語の構文を巧みに利用した前言否定の効果には、池澤夏樹さんの『言葉の流星群』も触れています。そして、この括弧内の思想を「永久で透明な生物」たちは「あまりに重くて考へられぬ」という事態は、その生物はその考えるに適した思想を考える必要さえない、とも、かれらはそうした人間には十分に超越的な思いをさえ超越する、とも理解できるでしょう。その思想内容は、簡単に言えば一種の汎神論的な唯心論であり、賢治はそれを多くの作品で表現しました。それは、洋の東西を問わずロマン主義以降の近代文学に広く見られる発想であるとも、梵我一如や十界互具といった東洋思想がその起源にあるとも指摘できますが、この作品の特徴は、稀薄な気圏に設定されたそうした思想、無限定に一切と同化しようとする志向が文字通りに括弧にくくられて、多少とも前言否定されて、さらに稀薄で重力から遠ざかる方向性、その運動感覚を伝えることではないでしょうか。 さて、賢治作品の日付を直ちに現実世界の某月某日に短絡させることには危険があります。だが一般に賢治は天候について虚構を加えることは少なく、この作品群については、一九二七年六月の十二、十三日という日に、ヒデリのなかで、賢治にはおそらく発熱があり、身体の深刻な事態を予感した、という事実を想定してよいのでしょう。そしてとりわけ印象的なのは、賢治においては、農村改革者の祈念と宗教詩人の神秘的幻想とがいわば表裏のように存在していたこと、かれがそれらを一群の詩のなかに、さらに一篇の詩のなかに存在させようと努め続けたことです。
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