宮沢賢治学会・会報第28号

木霊はまっすぐに降りて行きました。太陽は今越えて来た丘のきらきらの枯草の向ふにかかりそのななめなひかりを受けて早くも一本の桜草が咲いてゐました。若い木霊はからだをかがめてよく見ました。まことにそれは蛙のことばの鴾の火のやうにひかってゆらいで見えたからです。

「若い木霊」

表紙写真 撮影・大塚 常樹


第28号「サクラソウ」
2004年3月25日発行
  1. 詩と賢治宇宙
    海部 宣男
  2. 第14回定期大会
  3. 第14回定期大会リレー講演
    「林間に幻の洋館を見た」
    力丸 光雄
    「小学校国語教科書の宮沢賢治」
    中地 文
    「『一九二七、六、一三』の日付について」
    富山 英俊
  4. イーハトーブ〈人物〉学
    「河本緑石」
    木村 東吉
  5. 投稿
    銀河鉄道の座席
    田中 良則
    二編の「電信柱の童話」について
    板谷 栄城
    夢県土いわてに「賢治詩碑三基目」全国で九基目、自費で故郷へ建立の人
    佐藤 知良
    花巻(拾うという精神)
    小林 忠明
    又三郎のこと
    佐藤 通雅
    「人はほんとうのいゝことが何だかを考へないでゐられないと思ひます。」
    酒井 早苗
  6. Ihatovo illuminations
    小林 敏也
  7. テクスト・クローズアップ(25)
    「ヨクミキキシワカリ/ソシテワスレズ(「雨ニモマケズ手帳」五三頁)
    天沢退二郎
  8. 報告
    旭川セミナー報告
    東山町セミナー報告
    冬季セミナー講演
    「森荘已池、賢治との出会い前後」
    浦田 敬三
    「森さんをしのんで」
    奥田 弘
  9. ポラーノの広場−第七夜−宮沢賢治の会(盛岡)
  10. イーハトーブ企画展紹介
  11. 宮沢賢治EVENTS
  12. イベントクローズアップ 広島市文化施設2003夏イベント宮沢賢治でぐーるぐーる&伊丹昆虫館
  13. 賢治作品イラスト
  14. あとがき

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詩と賢治宇宙

海部 宣男

 宮沢賢治には高校時代から親しんだが、私は童話よりも詩のなかに賢治の科学や哲学や人間らしい迷いを発見し、それに惹かれてきた。賢治の自然と科学への強い志向は、詩の中に魔法のようにつらねられた言葉となってあらわれる。たとえば、雪の五輪峠を越えながら自問自答する賢治がいる。

……五輪は地水火風空 昔のインドの科学だな 空といふのは総括だとさ いまの真空だらうかな つまり真空そのものが エネルギーともあらはれる…… わたくしであり彼であり 雪であり岩であるのはただ因縁であるといふ そこで畢竟世界は因縁があるだけといふ 雪の一つぶ一つぶの 質も形も進度も位置も時間も みな因縁自体であるとさう考へると なんだか心がぼおとなる……(「五輪峠」)

 現代物理学と仏教と古今の哲学と実在とが渾然一体になって、存在とは何かを問いかけながら、ふりしきる雪景色のなかにおぼろにかすんでゆく。こんな詩を書いた詩人が、世界にまたとあるとは思えない。

 谷川徹三は、科学・信仰・芸術・実践をもって「賢治の四次元世界」と規定した。賢治という大きな氷山を、人はそれぞれの目と心で眺める。自然の不思議さのとりこになり科学を追い続けてきた私には、彼の「科学」の次元が、水面上に浮き出して見えるのだろう。

 いっぽう、賢治の自然と科学への強い傾斜は、絶えず信仰や芸術など、他の次元との緊張関係を生まずにはおかない。その緊張関係の上に、全方位的に人格を発揮しようとした賢治の悩みや矛盾は、詩のなかにきわめて直接的にあらわれてくる。それは、詩という、短文表現の持つ力のためである。「心象スケッチ」という形を賢治に思いつかせたのも、そうした詩の力であろう。賢治は、手帳に書いている。

 「詩は裸身にて理論の至り得ぬ境を探り来る。そのこと決死のわざなり。」詩は賢治自らの全人格をぶつけられるところ、科学・芸術・信仰・実践をつなぐ思考的実験の場だったのだと思う。

 出会いは早かったが、賢治の詩についていろいろ考えるようになったのはここ十数年だ。ある雑誌に連載をたのまれたので、人間にとって宇宙の概念がいつどんな形で生まれ、変化してきたのかを、うたの世界から追ってみた。古代の神謡から愛唱した詩人・歌人・俳人まで、心の宇宙の逍遥である。数年前に『宇宙をうたう』(中公新書)として刊行したが、この作業は思いのほか楽しく、折りにふれ書き継いでいる。もちろん賢治についても、何度か取り上げた。

 賢治の宇宙への関心は若い頃からきわめて強いが、ある種精神的なものだった。

南天の蠍よなれもし魔物ならばのちに血はとれまづ力欲し
さそり座よむかしはさこそいのりしがふたたびここにきらめかんとは

前の歌は入院生活などで悶々たる十八歳のころ。後は盛岡高等農林学校で科学を学び、星座盤を手に山野を歩きまわっていた二十歳あたりだ。最初の童話「双子の星」を書いたのは、さらにその二年後である。

 一九二四年春、賢治は水沢の緯度観測所に通い、その夏にはさかんに天の川を詩にうたう。そしてそこにはあの青春の日の「南天の魔物」が、形を変えてあらわれるのも面白い。

…… 天の川のその燃焼の補填として 南のそらは大きな黒いいたでを負った 西蔵魔神の風呂敷が そこらの星に吸ひついている ……(「密教風の誘惑」)

 賢治は、いて座やさそり座のある天の川の南のはじが、とても気になるのだ。そこには絶えず「爆発」がおこり、「黒い思想」がへばりついている。だがここに見えるのはもはや精神的でなく、科学的な宇宙への関心である。

 銀河系の中心方向にあたるいて座の天の川には、黒い模様が複雑に入り乱れている。極微の固体粒子(ダスト)を含む冷たく巨大な雲(暗黒星雲)が背景の星を隠している為であることが、赤外線観測からわかっている。しかし賢治の時代、それはまだ一部の専門家の説にすぎなかった。なお『春と修羅』の序文にある「宇宙塵」は、現代天文学でいう暗黒星雲の「ダスト」ではない。そのころ宇宙塵といえば、深海底の軟泥から見つかる鉄の微少な球のことだった。太陽系空間から落ちてきた隕鉄が大気との摩擦で燃え、液化し飛散して深海にたまったものである。

 天の川の不思議な黒い模様の正体を知りたかった賢治だが、暗黒星雲というその実体を知ることはなかった。もし『銀河鉄道の夜』が数年後に書かれていたら、車窓の天の川の景色も違ったものになっていたのではないかと思う。

(天文学者)



【報告】
第十四回定期大会

二〇〇三年度定期大会が、会員ほか二五〇名の参加を得て、昨年九月二十二日と二十三日の二日間にわたって、花巻市のNAHANプラザ、宮沢賢治イーハトーブ館を会場に開催されました。十四回目の大会の様子をご報告いたします。


第十三回宮沢賢治賞・イーハトーブ賞贈呈式

賞贈呈式  前日二十一日は、台風十五号接近中でしたが心配された雨はなく、無事詩碑前で七十一回忌賢治祭が開催されました。翌日も午後からは晴れ間が見えるという天候で、午前十時から花巻市主催による第十三回宮沢賢治賞・イーハトーブ賞贈呈式が開催されました。初日の会場は、おなじみとなったNAHANプラザにて、平日にもかかわらず、全国各地、海外から、そして多くの市民の方もお祝いにかけつけ、会場は全てのイスを追加しても満席、やむなく立ってのご参加の方がでるという盛況でした。

 今回の賢治賞は、「賢治作品の具体的な分析と論者自身の感動分析を重ね合わせ、かつ明晰・平明な文章で核に迫る『言葉の流星群』の豊かな達成」の池澤夏樹さんと、「賢治作品の絵本化に、独自の技法で持続的に取り組み、子ども読者の心をつかんできた功績」の小林敏也さんのお二人に贈られました。

 また、イーハトーブ賞は「東北の検証を通じて、民俗学の新生、発展ともいうべき東北学の樹立に大きく貢献した功績」の赤坂憲雄さんに贈られました。なお宮沢賢治賞・イーハトーブ賞ともに奨励賞の該当はありませんでした。

 花巻市長から賞が贈られ、各受賞者からのスピーチ、その後本賞受賞者のお三人による記念講演が行われ、続いて花巻中学校の生徒の皆さん五十名による合唱にて閉幕となりました。受賞者の皆さんの業績などにつきましては、会報二十七号にてご紹介しておりますのでご参照ください。

定期総会

午後一時から定期総会が行われました。出席会員の中から花巻市の八重樫新治さんを議長に選出した後、議事に入り、二○○二年度事業報告及び収支決算、二○○三年度事業計画及び収支予算について審議を行い、それぞれ原案どおり可決承認されました。同じく議事の中において、萩原代表理事より二○○六年度を目途に宮沢賢治国際研究大会開催を目指していくことが話されました。また、議事後の報告において、佐藤賞選考委員長より、今年度賞推薦票を簡略化したがあまり推薦数がのびなかったことから、来年度から賞選考内規の運用にて、会員外からの推薦も実施する予定であることが話され了承されました。

賢治研究リレー講演

 恒例のリレー講演は、今回より持ち時間五分延長の一人十五分となり、お三人の方からそれぞれの賢治をテーマに密度の濃いお話をしていただきました。講演の要旨は本号に掲載しております。

イーハトーブ・サロン │私と賢治│

イーハトーブ・サロン  参加者が気軽に所感を述べ合う本コーナーでは、参加会員の中から十名の方々が登壇され、それぞれ賢治や賢治作品についての思いを、一人五分ずつスピーチされました。今年も記念品として、「イーハトーブ図書券」が贈呈されました。登壇いただいた方は次の方々です。

 平野利幸さん(岩手県)、泉沢善雄さん(花巻市)、阿部貴子さん(新潟県)、佐藤成さん(宮城県)、石島崇男さん(栃木県)、山本淳子さん(茨城県)、天沢退二郎さん(千葉県)、山田功さん(東京)、御舩道子さん(鳥取県)、田口昭典さん(秋田県)。

会員交流・懇親会

交流会  初日の日程の最後となる会員交流・懇親会は、宮沢賢治賞・イーハトーブ賞受賞者や花巻市関係者も加わり、にぎやかで楽しい歓談の花咲くひとときとなりました。入沢顧問の乾杯で始まり、宮沢賢治賞・イーハトーブ賞受賞の各皆様から改めてのコメントと続きました。お楽しみのイーハトーブ料理メニューには、「鮭のあら汁」、「藁のオムレツ」、「栃だんご」等々、飲み物も「やまなし酒」、「電気ブドウ酒」、「陸羽132号」(日本酒)等々と盛りだくさん。昨年好評で今年もお目見えの「カリメラ焼きコーナー」では、一年ぶりで再挑戦者の方の姿も見られました。

 花巻市長のあいさつの後、奈良教育大の学生さん二名ほか六名のスピーチと続き、照井教育長による閉会の言葉の後、最後は五十嵐正子さん(新潟県)、石島崇男さん(栃木県)、藤原政子さん(東京)のお三人のリードにより「星めぐりの歌」の合唱、そして参加者全員が輪になっての「精神歌」合唱にて幕を閉じました。

研究発表

研究発表  二日目は台風一過、雲一つない晴れ渡った青空の下、会場をイーハトーブ館に移しての研究発表です。午前九時半から一人三十分の持ち時間で六人の発表があり、十二時半に終了いたしました。この研究発表の記録集を頒布しておりますので、ご希望の方は事務局までお申し込みください(一部六百円、送料別)。



第14回
定期大会リレー講演
(要旨)


林間に幻の洋館を見た 力丸 光雄

 花巻の朝日橋を渡りますと、高木という集落があり、そこから北上川に沿って左岸を南下して行きますと、北上市の更木という集落があります。アイヌ語では植物のヨシ、アシという意味だそうですけれども、その更木の下八天という所から左に折れて、北上高地の山の中に分け入ります。枝道がたくさんあって迷わずに行けば、赤坂峠という小さな峠があります。そこが北上市の臥牛の外山という所です。今の人は「ふしうし」と言っていますが、牛が臥せると書いて、古くは「そうし」「そうす」あるいはもっと古くは「ひそうし」と言った所です。アイヌ語で「ピソウシ」と言いますと、小さな滝がたくさんある所という意味になります。本当に山の中です。そこに、大正の初期、大きな総二階建ての西洋館が建っていたというのは、これはまさに驚きというほかないと思います。

 今でこそ、山が拓かれて小さな田んぼが広がっていますけれども、当時はおそらく鬱蒼とした木立をバックに、すすき野原の中にぽつんと、総二階寄せ棟造り、白ペンキ塗り、窓はレンジ窓、そして玄関は水色のペンキで枠を塗られたガラス扉だったそうです。実は私、三月のまだ雪が残っている時にそこを訪ねました。現在は中村正巳さんという方がお住まいになっていますが、これを建てたのは正巳さんのおじいさんの万右衛門さん、時代は一九一七年、大正六年といいます。外観はかなり変わっていますけども、中に入りますと、板張りの、天井の高い応接間、そしてでこぼこのガラスの大鏡があります。二階に登る階段の手すりはかなり黒光りして、当時の面影を偲ぶことができます。

 ご案内してくださったのは、中村正巳さんと奥様。その奥様がいつも抱いておられる猫ときたら、まるで山猫じゃないかと思うような大きな大きな猫です。これまでも何人か雑誌の記者や賢治研究家が訪ねて来られたそうですけれども、賢治と中村家を繋ぐ手がかりは何もない。先々代の万右衛門さんが村長をされていた関係で、終戦間もなくですね、長持ちいっぱいあった書類を全部焼却してしまったそうです。

 二階に上がりますと、二階は奥様のアトリエになっておりまして、立派な襖絵があります、どういう方がこの襖絵を描いたんですか、と正巳氏に尋ねましたら、北上市の及川香石という画伯ですということです。実はこの及川香石画伯というのが、賢治と中村家を結ぶミッシングリンクだと私はとっさに思いました。と言いますのは、香石という画伯は、浮世絵を通じて賢治と交友があったのだそうです。画伯のお孫さんにあたる北上市の及川放射線科内科医院の院長先生に直接お伺いしましたところ、賢治と交流があったという話は知っているけれども、詳しいことは分からないと。賢治が浮世絵を集め始めたのは十八年頃、二十一年には賢治は東京に出奔しておりますので、多分二十年、大正九年ですね、の夏か秋頃に香石画伯の手引きで、西洋館を訪ねたのではないかと推測したわけです。

 その建物を造ったのは、どのような大工さんですかと聞きましたら、これは小菅という棟梁で東京に修業へ行って、乃木希典邸などを手掛けた人だそうです。そこで私がハッと思ったのはですね、「革トランク」です。もちろん主人公は斎藤平太、これは鉄棒にぶら下がったきり、いつも体操下手な、タイソウヘタの宮沢賢治が斎藤平太としたアナグラムだと私は思っていますから。いずれにしても工学校を出て設計に失敗して東京へ出て行ったという話はですね、小菅という大工さんの話がヒントだったんじゃないかなと思ったわけです。

 それからもう一つ私が考えたのは、「山猫軒」もさることながら、文語詩の「林館開業」ですね、林の中にタフを積み上げて女の館を造って客を待つという、その林館、林の館を造る場所としては、この臥牛の外山、こここそ一番適当な場所じゃなかろうかと思ったわけです。中村家に電灯がついたのは岩手県でも最も遅く、昭和も後半になってからです。ですから、そこに林館を建てたとすれば、イルミネーションどころか石油ランプで、その石油ランプの火に誘われて来るのは、鱗翅目と鞘翅目の昆虫ばかり…と、こういうことだったんじゃないかと思います。ただ、桜の羅須地人協会があった所、あそこを賢治はここは昆虫館ですということを言ってますので、あるいは「林館」の場所としては桜の台地の鼻でもよかったのかも知れません。



第14回
定期大会リレー講演
(要旨)

小学校国語教科書の宮沢賢治  中地 文

 宮沢賢治の文学とはじめて出会ったのは小学校の国語の時間だった、という話をよく耳にします。現在、賢治文学の受容には、小学校国語科の授業とその教材が大きな役割を果たしているとみて間違いないでしょう。

 しかし、それにもかかわらず、教師の側からは賢治の作品は扱いにくい教材と見做されています。そこには様々な理由があると思われますが、小学校の国語教科書に登載された賢治の伝記にも原因があるのではないでしょうか。

 このような問題意識から、本日は賢治をめぐる伝記教材について所感を述べたいと思います。

 賢治の作品が最初に小学校の国語教科書に登場したのは一九四六年。賢治の伝記は、その五年後の一九五一年(使用開始は五二年度か)にはじめて姿を現します。教育出版の『国語 四の上』に収録された「宮沢賢治」がそれです。この時、一つ前の単元の教材は「どんぐりとやまねこ」でしたので、童話と抱きあわせの形で伝記は登場したといえるでしょう。

 最初の伝記教材「宮沢賢治」は、多少改訂が施されて五四年および五九年発行の教育出版の教科書にも掲載されましたが、その内容は人々のために働いた賢治の生涯を「実にけだかい一生」(五四年版)と語るものでした。このような賢治像は、学校図書の『小学校国語 六年下』に五四年から六五年にかけて収録された伝記「宮沢賢治」にも共通しています。原文は谷川徹三と付記されたこの教材では、「ねてもさめても、農民たちのことを考えていた」賢治を「何というやさしい、意志の強い人でありましょう」と讃えています。六一年版の中教出版の『小学国語 六年(一)』に登載された放送劇台本「宮沢賢治」も、主旨はほぼ同じでした。

 以上のような特徴に変化が生じるのは、六〇年代半ば以降です。教育出版の六五年版と六八年版の六年生の教科書に収録された「宮沢賢治小伝」、および東京書籍の五年生の教科書に七一年から七七年にかけて収められた「宮沢賢治」(原文は堀尾青史)は、初期の教材と比べて、賢治の人生を殊更に讃美するものではなくなっています。学校図書の六年生の教科書に七七年から八九年にかけて登載された「宮沢賢治の童話」(筆者野村純三、八九年版は「宮沢賢治・人と作品」)は、童話の内容と背景の紹介に重点をおいていました。磯貝英夫「宮沢賢治の童話」(九六年、大阪書籍)も同様です。

 こうしてみると、賢治をめぐる伝記教材の内容は、農民のために尽くした生き方を讃美するものから、童話作家としての資質や考え方を伝えるものへと移り変わってきたといえるでしょう。これは、教材化される童話の選択基準が、道徳的テーマを抽出できる作品から表現技法が注目される作品へと変化してきたこととも対応しているように見受けられます。

 しかし、現在使用されている教科書には、このような流れに逆行するような傾向の教材が掲載されています。東京書籍の六年生の教科書に二〇〇〇年から収録されている東京書籍『新しい国語 六下』に収録された西本鶏介「宮沢賢治」は、「自分の理想とする世界を求めて激しく燃え続けた、太陽のような人」と賢治を捉え、その生き方と結びつけて作品を意味づけています。学習の手引きには「賢治の生き方は、賢治の作品に、どう表れているか考えよう」とあります。また、二〇〇二年版の光村図書出版『国語 六年(上)』に掲載された畑山博「イーハトーヴの夢」は、農村救済を志した人物として賢治を描き、その創作は「暴れる自然に勝つため」の一手段であったと語っています。この教材は童話「やまなし」と同じ単元に収められていますが、伝記の語る創作意図は「やまなし」の読解をかえって難しくしているのではないでしょうか。

 道徳的解釈では納まらない作品が選ばれて教材化されるようになった現在、賢治の求道的・献身的な生き方を強調した伝記教材は、童話の解釈にかえって混乱をもたらしかねないように思われます。それでは、なぜ今、再び賢治の生き方が注目されるのでしょうか。その背景には近年の教育政策の影響があると推察されることを指摘して、ひとまずお話を終えることにします。



第14回
定期大会リレー講演
(要旨)



「一九二七、六、一三」の日付について   富山 英俊

 「一九二七、六、一三」は羅須地人協会の時期の夏ですが、『春と修羅第三集』の初期形態である『詩ノート』ではその日付の二篇と、前日の「六、一二」の一篇とが並んでいます。その一つは転変を経て、ほかの二篇の主題を吸収して最後には文語詩「病中幻想」となりましたが、作品番号とその日付は留めています。文語詩は、――「罪はいま疾にかはり/たよりなくわれは騰りて/野のそらにひとりまどろむ 太虚ひかりてはてしなく/身は水素より軽ければ/また耕さんすべもなし せめてはかしこ黒と白/立ち並びたる積雲を/雨と崩して堕ちなんを」。

 この詩を私は『宮沢賢治文語詩の森』第三集で論じましたが、初期の形、「囈語」はこのようでした――「罪はいま疾にかはり/わたくしはたよりなく/河谷のそらにねむってゐる せめてもせめても/この身熱に/今年の青い槍の葉よ活着け/この湿気から/雨ようまれて/ひでりのつちをうるおほせ」。東北の農業の主要な困難は冷夏でしたが、冷夏だけが問題だったという説は、例の「雨ニモマケズ」中の語はヒデリかヒドリかという論争で一方の論拠として用いられました。だが賢治は多くの作品で旱魃をも農村の不幸の一因として扱い、ここもその一例です。

 また、病いの身熱が雨と変り地に降ることへの宗教的・呪術的な祈願は、発想としてまさに「ヒデリノトキハナミダヲナガシ」と同種のものです。ナミダは、ほかに手段のない人間が雨のかわりに流し落し、地面をわずかでも濡らすことのできるものですから。

 さてこの口語詩の枠組みは「病中幻想」まで残りましたが、文語詩中の「水素」と「積雲」は、「詩ノート」中の三篇のうちの残りの二作に由来します。その前者、十二日の日付の詩はつぎのようなものです。――「青ぞらのはてのはて/水素さへあまりに稀薄な気圏の上に/「わたくしは世界一切である/世界は移らう青い夢の影である」/などこのやうなことすらも/あまりに重くて考へられぬ/永久で透明な生物の群が棲む」。

 この謎めいた詩の解釈に一つの正解があるとは考えにくいですが、詩の始まりは気圏の上層を指し示し、続く「わたくしは世界一切である…」という思想は、その場所で感じ考えるに適したものと思われる。だが「などこのやうなことすらも」以下が続いて読み手の予想は裏切られ、驚きが生じます。この日本語の構文を巧みに利用した前言否定の効果には、池澤夏樹さんの『言葉の流星群』も触れています。そして、この括弧内の思想を「永久で透明な生物」たちは「あまりに重くて考へられぬ」という事態は、その生物はその考えるに適した思想を考える必要さえない、とも、かれらはそうした人間には十分に超越的な思いをさえ超越する、とも理解できるでしょう。その思想内容は、簡単に言えば一種の汎神論的な唯心論であり、賢治はそれを多くの作品で表現しました。それは、洋の東西を問わずロマン主義以降の近代文学に広く見られる発想であるとも、梵我一如や十界互具といった東洋思想がその起源にあるとも指摘できますが、この作品の特徴は、稀薄な気圏に設定されたそうした思想、無限定に一切と同化しようとする志向が文字通りに括弧にくくられて、多少とも前言否定されて、さらに稀薄で重力から遠ざかる方向性、その運動感覚を伝えることではないでしょうか。

 さて、賢治作品の日付を直ちに現実世界の某月某日に短絡させることには危険があります。だが一般に賢治は天候について虚構を加えることは少なく、この作品群については、一九二七年六月の十二、十三日という日に、ヒデリのなかで、賢治にはおそらく発熱があり、身体の深刻な事態を予感した、という事実を想定してよいのでしょう。そしてとりわけ印象的なのは、賢治においては、農村改革者の祈念と宗教詩人の神秘的幻想とがいわば表裏のように存在していたこと、かれがそれらを一群の詩のなかに、さらに一篇の詩のなかに存在させようと努め続けたことです。


イーハトーブ
<人間>学




@1919年頃、盛岡での緑石と加寿代夫人 アルバムに添えられた自筆の俳句も緑石作




A緑石の遺稿句集『大山』表紙



B緑石は郷里で前田寛治らと砂丘社を起こし、雑誌「砂丘」を発行し、文化活動をした。写真は手書きのポスター



C緑石画「自画像」  1923年作



D緑石画「藤」1925年作 ミ堂にミツなる橋かゝる



E緑石画「りんご」制作時期不明 苹果が子供で子供が苹果で光ってゐる そしてそのまろいかげ



河本緑石   

木村 東吉

 河本義行(緑石)と賢治の関係は、同人誌「アザリア」の仲間だったことで有名です。しかし、河本緑石が盛岡高等農林に入学した一九一六年の日記(十月までのもの)には、保阪嘉内の名がしばしば見られますが、賢治の名は出て来ません。そんなところから推測すると、二人の仲立ちをしたのは保阪嘉内で、交流の場としては「校友会々報」や「アザリア」の編集過程だったかと思われます。「校友会々報」に掲載された作品をみても、緑石の作品は一際冴えています。仲間たちが緑石に注目するのも当然と思えます。

 翌年一月、緑石は石賀加寿代と結婚しています。結婚することが父親に進学を許してもらうための条件だったということです。盛岡に在学中も妻を伴って下宿していたのです。(写真@参照)そんなこともあって、賢治との立ち入った交流は少なかったようです。卒業後の交流を見ても嘉内との交流は親密ですが、賢治との交流はさほどではありません。人の輪を作る方は、むしろ嘉内の力に負っていたようです。

 緑石は一九一四年からすでに荻原井泉水が主宰していた「層雲」に参加しています。しかも、高等農林に入学した年にはひそかに俳句をもって一生の仕事と決意していました。盛岡でも「層雲」系の北水会に出席するなど、自分の世界を持っていたのです。緑石が「校友会々報」に掲載した「あさひあさひ今しこの雪にもえあがる」という句があります。周囲の微妙な空気を描きとる才能には生得のものが窺えます。この作品について、井泉水は遺稿句集『大山』の序で「層雲黎明期の、生命主義、光明主義といつた時代の作品の一代表である」と評しています(写真A参照)。

緑石はいわば文武両道のひとでしたが、性格は穏やかな人でした。その点で周囲から注目される人だったようです。しかし、深い内面を持った人でしたから、かえって心が通じあう仲間は「アザリア」の同人だけだったようです。後に彼は郷里倉吉で中井金三・前田寛治らと発行した雑誌「砂丘」に『孤独者』という私小説風の小品を書いているのですが、これには盛岡の町にスペイン風邪が大流行したことを背景に、「アザリア」の仲間達が去った後の、取り残されたような寂しさを書いています(写真B参照)。

 それだけに相互の交流は生涯を通じて続いていました。緑石が兵役を終えて帰郷した一九二一年ころ、緑石は文芸になずむことを喜ばなかった父親との意見の食い違いもあって悩んでいたのですが、年末の嘉内宛の書簡には「宮沢さんから端書が来て私はすくはれた様でした。たすけ舟の様な端書でした」と記しています。以後、緑石のあふれるような詩作が続き、やがて『夢の破片』に結実します。そして一九三三年の年賀状で、賢治が緑石に宛て「ご無沙汰いたしました。この数年意久地なく疾んでばかり居りました。お作拝見いたしたう存じます」と書いていることはよく知られています。緑石の作品には、賢治も関心を寄せていたのでしょう。

 小沢俊郎氏が作成された緑石の年譜には、中学時代から運動の万能選手だったと紹介し、「水泳・陸上・剣道・テニス・野球をした」とあります。ただし、緑石が参加した野球部は創部一年目で、それもしばらく中断していた第五回「山陰中等野球大会」をやろうという呼びかけに応じて急遽作られた部でした。先輩にコーチを頼んで、一〇日ほどの練習で大会に臨んだというのです。ピンクのユニホームに黒の地下足袋をはいて参加したそうです。戦績は対浜田中学が32│1、対杵築中学が27│1(5回コールドゲーム)の惨敗だったようです。それでも翌年は鳥取中学と練習試合をし、負けると相手チームに万歳をして、茶話会のあと日没までコーチをしてもらったということです。時代を映す風景だろうと思います。いずれも、緑石は捕手だったと記録が残っています。

 緑石の運動神経はやはり抜群だったようで、高等農林の秋の運動会では走ってチャンピオンになっていますし、兵役を終えて一九二二年に最初に教師として赴任した長野県上伊那郡伊北農商学校を経て翌年に出身地の倉吉農学校に帰った時は、剣道の嘱託としてであったということです。後にはスキーの選手も務めたといいます。こんな人が一九三三年七月に、教え子を引率しての海水浴中に溺死しているのですから、人の運命は本当にわからないものです。緑石の長男一明さんの奥様、茂子さんに聞いた話では、その前日に試験の採点や遺著となった『大空放哉傳』の原稿を整理していて徹夜していたのに、溺れかけた生徒を助けるためにいきなり飛び込んだのが原因だったと聞きました。

 なお、この事件に関しては、小沢俊郎氏が、地元の新聞「因伯時報」の記事や倉吉農学校の校誌「国本」に掲載された当時の生徒の作文を資料に、溺れたのは配属将校だったとされています。この点も尋ねてみたのですが、狭い町の中で助かった生徒さんのことを思えば、真実を明らかにすることがはばかられたということでした。

 こうした事情もあるのでしょうが、地元の倉吉における緑石の人柄への親愛は今も受け継がれていています。一九九七年には生誕一〇〇年ということで、記念事業が企画され、いずれも盛会だったと聞きました。緑石は俳句のほかに、作詞や絵画でも多くの作品を残していますので、セミナーの他に展覧会や音楽会も企画されたのでした。緑石の人柄については、井泉水も「緑石は、実にいいひとであつた。いつ逢つた時でも、その大きなからだを阿弥陀さまのやうに、すこし猫背にして、細い目をしてニコニコとしてゐるのだつた。(中略)層雲の作家として物故した人人の中に、作者として惜しいといふ人も少くない。だが、ひととして実に惜しいと思はれるのは、緑石である。」と述べています。倉吉農学校でのニックネームも「仏さん」であったと聞きました。賢治の友人では中学時代の藤原健次郎もニックネームは「大仏さん」でした。彼の周りには、たくさんの「仏さん」がいたことになります。

緑石にはこうした対社会的な穏やかさと併せて、内面には厳しい社会批判や狂気に近い憂愁を秘めていたことも、小沢俊郎氏がすでに指摘されています。兵役を終えた一九二二年頃にガリ版印刷で発行している『詩集』には、プロレタリア文学を先取りしたような作品も見られます。また、賢治の『春と修羅』の翌年に発行された『夢の破片』に収められた作品には、朔太郎・暮鳥・光太郎といった当時の中央詩壇の傾向を着実に吸収し、自分のものにしているため、村野四郎はこれを「憂鬱の万華鏡」と評しています。時代感覚に鋭敏な人だったといえるでしょう。

 同時に、次のような作品もあって驚きます。おそらく賢治だけの特異感覚と思われていたものが、緑石にも見られるからです。

   廃頽の磁極

不思議な象尾虫が
鋭い口吻をつきさし
私の脳漿を食害する。
私の感覚は実にいびつな影像を産み初め
葡萄状塊体の夢を吐く。
肉体は酸つぱくぼろし
寂しい廃頽の磁極をつくる。 (『夢の破片』)

 これは、賢治の次の短歌と基底にほとんど同じ感覚があるのではないでしょうか。

目は紅く/関節多き動物が/藻のごとく群れて脳をはねあるく (歌稿b一六六)

詩を作っていた段階の緑石は、こうした鬱屈した生理的感覚にも、大胆に挑戦していたのでした。しかし、やがて彼は創作活動を俳句に絞ります。一九三〇年になると「因伯新報」の新俳句欄の選者になり、「層雲」の方でも「花薬欄」の選者の一人になっています。このようなことも関連するのでしょうか、緑石は絵画にも堪能で、『夢の破片』を出版したころには抽象画や油絵を描いていたのですが、一九二五年頃からは俳画の方に集中するようになっています(写真CDE参照)。

 因みに、緑石の読み方は、俳句仲間では「ロクセキ」、地域の人たちは通常「リョクセキ」と呼んでいます。本人の意識では「ロクセキ」だったらしく、手帳に「Lokuseki」と記したもの、本の表紙の裏に「ろくせき」と署名したものが発見されています。

 ところで、緑石の文芸活動は中学校時代から始まっており、最初の投稿誌は当時内藤鳴雪や沼波瓊音を選者とする俳句雑誌「日本文学」(大日本俳諧講習会発行、大正三年四月刊行」)ではないかと疑っているのですが、河本家に残されているこの雑誌の肝心な部分が切り取られていて確認できていません。この雑誌には漱石や露伴も寄稿しており、大正三年十月号には夏目漱石の「秋」という小品が掲載されていますが、全集には同題の作品を収録していません。これも、本文が切り取られているために内容は未確認です。

(会員 島根県松江市)



投稿エッセイ

銀河鉄道の座席

田中 良則

「『銀河鉄道の夜』を読む」(西田良子編著)の中に「銀河鉄道の座席」というコラムがあり、軽便鉄道の座席はロングシートが一般的らしいと書かれている。又、「銀河鉄道の岸で二人を運んだ乗り物は」というコラムで軽便鉄道とは、産業鉄道の軌間が一四三五ミリに対し、七六二ミリなどの狭軌の鉄道のことを言うと説明されている。

 現在の鉄道の軌間は、徳島保線区に電話できいてみたら、一〇六七ミリメートルだと教えてくれた。車体のはばが軌間に比例するとすれば、軽便鉄道の列車の幅は今の列車の七割くらいの大きさになる。

 仮に、軽便鉄道が例外なくロングシートであったら、作品中の軽便鉄道もロングシートと考えるのが自然だが、それでもロングシートは軽便鉄道の列車の属性であるとは言えないから、銀河鉄道の座席がクロスシートかロングシートかは、作品を読んで決める問題でないかと思う。

 ジョバンニ等が、窓から外をながめている個所を読んでみると、クロスシートとしたほうが、ジョバンニの姿勢などを想像しやすいし、かほる子とタダシが加わった場合も、クロスシートのほうが、会話の場面の描写にマッチしているように私には思われる。

 ただ一つだけ、クロスシートとすると理解しにくいのは、「どんどんどんどん汽車は走って行きました。室中のひとたちは半分うしろの方へ倒れるやうになりながら腰掛けにしっかりしがみついてゐました」という個所である。「半分うしろの方へ倒れるようになりながら」というのが、どういう姿勢だか説明できない。

 しかし、ロングシートにしても「腰掛けにしっかりしがみついてゐました」という描写は想像しにくい。それから、「半分うしろの方へ倒れるやうに」なる原因について考えてみると、旅客にうしろへの力がはたらいているということではないと思う。汽車が平地で急に加速するときは、乗客の体は、うしろにたおれるようになるが、斜面による加速の場合には、加速の原因が重力だから、物理の運動の法則により、乗客も車もひとしく加速され、決してうしろ向きに力をうける感じはない筈である。エンジンブレーキなどがかかればむしろ前に力をうける。

 クロスシートの場合、乗客が座席にしがみついているのは、スピードがはやくなって、ちょうどジェットコースターにのった人が座席にしがみつくような感覚ではないかと考えられるが、地上と同じと考えた場合の話である。

 次に、クロスシートとした場合、ジョバンニが進行方向に向かってすわっているのか進行方向を背にしてすわっているのかという問題がでてくるが、後者のほうが、動作などの説明がつく個所がある。たとえば、「ジョバンニが左手をつき出して窓から前の方を見ながら云ひました」の個所である。汽車は、天の川の左の岸に沿って南へと走り、窓から川を見ているのだから、進行方向にむかって右側の席にジョバンニはすわっている。そこで左手をつきだして前を見るという姿勢は不自然である。そうだとすれば、ジョバンニは進行方向を背にして座っていると考えられる。この座席だと、前方を見るには、首と体をまげて見なければならない。

 作品を読んで、主人公がどちら向きに乗っているかを確定できないとしたら、どちら向きにすわっているかということは、作品解釈上たいして意味のないことであると考えられるが、列車の座席と登場人物の動作については、作者にはちゃんとした設定があったのではないか。描写されていない車内の状況を想像してみることも必要であろう。

 描かれているのは語弊があるが、氷山の一角なのであろうから。

(会員 徳島県阿南市)



投稿

二編の「電信柱の童話について」

板谷 栄城

 初めにちょっとしたクイズに挑戦して戴きたい。

 次の幾つかの文章は、ある文学者である「彼」について、別なある文学者である「私」が描いたものである。「彼」と「私」は誰か?

 私は彼から「宇宙というものを考えると、つまり空の星を見てそれが何万光年という遠距離にあることを考えると、頭がクルクル回って、気が狂うような気がすることがある。」と聞かされたことがある。

 彼の童話はみんな短編である。彼は長編には向かないような気質と考えられる。元来童話というものは詩に近いもので、散文詩の一つと思われるものである。そして詩作するためには作者の心が大変高熱で燃えなければならず、その高熱に彼の心が久しく耐えることはできないと考える。

 私は、彼の童話は独特のものであって誰の指導を受けたとか、誰の影響を受けたとかいうものではなく、また永い習練の後に作られたというものでもなく、天性の作品であると考える。

 天才という言葉はしっくりしないが、私は彼の作品は自然に生まれたものであって、技巧や思索をもって到達したのではないと考える。

 彼は「感激にもとづく行動は詩であり、感激によって生まれる詩は行動である。」といっている。

 私は彼の感激は子どもの心のように、自然で清潔で単純健康なものであり、それだけにもし人類の意志とか宇宙の生命とかいうものがあるとすれば、それに通ずるものであると思う。

 私は、彼の児童に対する愛や人間と自然に対する愛情が人生と正義に対して非常に高熱に燃えさかる時、彼の創作に対する情熱や感激がこの世のものとも思われないほど美しい幻想となり、また夢のようなお話となって描き出されると考える。

 さてお分かりいただけたであろうか。文中の「彼」のことを賢治、そして「私」のことを賢治研究家の一人、と考える人がおられるかもしれない。ことに最初の宇宙云々という文章だけを賢治研究家に見せれば、この場合の「私」は森荘已池ではなかろうか、とおっしゃる方もおられるだろう。

 実は文中の「彼」は童話作家の小川未明、そして「私」はその弟子の坪田譲治なのである。

 ここで明治四三年に発刊された小川未明の童話集『赤い船』の中の童話『電信柱と妙な男』の中の一場面の梗概をご紹介する。

 ある町に昼間は外に出ないで、夜になって人が寝静まってから独りでぶらぶら歩くのが好きな男がいた。夜の一時頃から三時頃の人通りの無い往来を歩いていると、向こうから二十メートルもあるような大男が歩いて来る。

 男が「おまへは誰か?」と訊ねると「おれは電信柱だ。昼間は人通りがはげしくて、俺みたいな大きなものが歩けないから、いまごろいつも散歩している。ところで小男さんは何故今ごろ歩くのだ?」と逆に聞かれる。

 そして「俺は世の中の人は皆嫌いで誰とも顔を会わせたくないからだ。」「それは面白い。これから友達になろうじゃないか。」「うん。」ということになる。しかしあまりにも背が違って話しづらいので、電信柱が小男を抱いて家の屋根に乗せる。

 おりしも雲間から月が出てお互いの顔がはっきり見えたところで、小男が電信柱に「おまえさんの顔は真っ青だね」というと「時々恐ろしい電流が通ると、私の顔色は真っ青になるのだ。」と答え、小男は「やあ、危険!危険!おまえさんにゃ触(さわ)れない。」といって高い屋根の上に逃げて行く。

 電信柱が「おい小男さん、もう夜が明けるよ」というので東の空を見ると、早くも白々と夜が明けかけている。そして電信柱も「小男さん。私はこうやっていられない。夜が明けて人が通る時分には、旧(もと)のところへ帰って立っていなければならないんだ。」という。

 結局二人とも帰られないでいるうちに夜が明け、町の真ん中に立っている電信柱は通る人々に笑われ、屋根の上の小男は盗賊と間違えられて警察に連行される。

 この童話『電信柱と妙な男』が発表された明治四三年には盛岡中学校の二年生であった賢治は先輩啄木の影響もあって短歌には強い関心を抱いていたが、いち早く未明の童話集『赤い船』を手にしたかどうかは疑わしい。

 しかし後になって未明が精力的に発表していた雑誌『赤い鳥』にその童話集『注文の多い料理店』の一ページ広告が掲載されているぐらいであるから、遅くともそのころには未明に関心を抱き、『電信柱と妙な男』にも目を通していた可能性が高いと考えてもさしつかえないであろう。

 ともあれ筆者は、賢治の『月夜のでんしんばしら』の創作に未明の『電信柱と妙な男』が大きく関与していると考えるものである。

(会員 岩手県盛岡市)



投稿



潮音橋の袂

夢県土いわてに「賢治詩碑三基目」全国で九基目 自費で故郷へ建立の人

佐藤 知良

 建立主は筆者の趣味の会(岩手古文書研究会)会員で盛岡市加賀野四丁目在住の千田悦三郎氏で御座います。場所、ふるさとは山紫水明の地、気仙郡住田町気仙川瀬音橋の袂、山を背に白御影石で以て自費で建立されました。

 主は一昨年十月二十一日の古希誕生日を期し、自分史「私の従心」(心凪ゆく日々)を同時に出版されました。自分史と併せ、少年時代に宮沢賢治の詩に感動した夢を抱きつつ半世紀を経て同時に詩碑建立にこぎ着けられた人です。

 元県警、警備部長を最後に、日本防災通信(協)支部長を務め、剣道六段、自分史で見られるように几帳面な方で、身辺の出来事も記し、誠に以て文武両道の人と思われます。

 建立に際し、宮沢家の理解と実弟和之郎氏の協力を得ました。除幕式は神事で行われ、宮澤潤子さん、多田欣一町長、親族と関係者四十人の出席、うち我等会員九名が悦三郎会員のお祝いにと自家用車を駆使し馳せ参じました。

 当日は出発の朝から終日横殴りの雨と風が凄く強く、賢治サンに相応しい式典に参列、お祝いして参った次第で御座います。

 又、ご本人は拓墨会員で、式後一番乗りにて拓本二枚を取り、内一枚を実家へ保存され喜んで居られました。出席された宮澤潤子さんもこの詩碑は大変自然な感じだと喜ばれ、「川や橋、山を背にしたいゝ場所に建てられた」とお褒めの言葉でした。

 賢治さん逝去され七十年目、建立主の古希と巡り合わせ、当年の東北の冷夏を見守って居られることでしょう。

(会員 岩手県盛岡市)



投稿詩

花巻(拾うという精神)

小林 忠明

中学校の自由時間だろうか
生徒たちが砂浜で空き缶拾いをしていた
笑いながら 走りながら
ビニール袋をぶらさげて

教師は宮沢賢治の奉仕の精神を語り
空缶拾いに駆り立てたのかも知れない
だが 何人の生徒が賢治を理解して
自分の意志で空缶を拾っているだろうか
でも それでいい
人が見ていない所で 空缶を捨てた私より
あなたには純粋がある
拾うという純粋がゆえの暴力 殺人 差別
社会の悪に従ってはならない
がんと撥ね付ける
そして 花巻に行ってみようよ
イーハトーブには 意志からの拾う精神がある
それに触れてみないか
意志から出た奉仕の精神を語ってくれる人々がいる
美しい自然がある
社会人になる前に
花巻の空気を吸ってほしいのだ

(会員 福島県いわき市)



投稿エッセイ

又三郎のこと

佐藤 通雅

 昨年八月の夏季セミナーより、「風の又三郎」シリーズがはじまったので、あらためて又三郎について考えることが多い。私はいままでも何回かこの作品について書いてきたが、その際、又三郎は伝承上の人物だとして、疑うことがなかった。だから、その日、発表者が賢治の造語だと語ったときはびっくりした。なぜ疑うことがなかったのかといえば、幼少年期のころ、祖母や母が又三郎の名を口にするのを一回ならず聞いてきたからだ。いつごろ、どういうときだったかを思い返してみる。わたしの生年は昭和十八(一九四三)年だ。父が教員で、転勤が多かった。当時は遠野にいたが、出産は母の実家のある前沢、届出も前沢にしてある。しかしまもなく遠野にもどり、八ヶ月住む。つぎには黒沢尻、さらに前沢へと引っ越す。物心ついたときは前沢にいたが、終戦の記憶はない。ただ、トイレに入っていて、いきなりものすごい爆音がした。尻も拭かずに飛び出すと、頭上を星印の飛行機が飛んでいき、人間の姿もみえた。戦勝国米軍が面白半分に低空飛行したのだ。それは私が三、四歳のころ。又三郎の名を聞いたのもそのころだと、連動して思い出すことができる。当時、子どもがいうことをきかないときの脅し文句は、「モッコがくるぞ」だった。モッコとは、蒙古のことだとあとで知る。風の強い日は「又三郎がきてさらっていくぞ」だった。三郎でなく又三郎だったのを、はっきりおぼえている。家の中で物音がすると、「座敷わらすだ」ともいわれていたから、おなじような伝承なのだと、自然とうけとめるようになった。又三郎といわれて、思い浮かべた顔は、父の弟にあたる三郎叔父さんだ。額の広い、オールバックの美男子だった。その叔父さんに会うと、「又三郎だ!」と囃したてておもしろがった。

 しかし、祖母や母が又三郎の名を口にしたのは、もしかしたら「風の又三郎」をよんで、あるいは映画を見ていたからではないか。その可能性を完全には否定できない。祖母は本を読まないし、映画も見ない人だったから、可能性は低い。母のほうは読書好きだった。ちなみに「風の又三郎」がはじめて発表されたのは昭和九年、島耕二監督の映画は昭和十五年制作。そして私の聞いたのは、昭和二十二年ごろ。祖母はすでに亡くなっているが、母は存命しているからそのうち確かめておこうと思っていた矢先、昨年の十一月に急逝してしまった。前沢にいたあたり、賢治の本はなかったし、映画を見たと聞いたこともないから、伝承の可能性は依然としてのこるのではあるが。

 ついでに映画についてもふれておきたい。私は小学六年のとき、学校の映画教室ではじめてみた。原っぱに倒れ、鬼の顔がでてくる場面、あそこは怖ろしかった。そのときの恐怖心は、のちのちまでとれなかった。夏季セミナーでもあらためてみたわけだが、ラストシーンに国旗がでてきたのにはおどろいた。映画教室のときには、日の丸はなかった。敗戦国日本には、許されない場面だったのだろう。

(理事 宮城県仙台市)



賢治のことば散策

「人はほんたうのいゝことが何だかを考へないでゐられないと思ひます。」

酒井 早苗

 良い行いや言葉より、まず考えずにいられない、それが人だと賢治は言い、この考に美しい風景を観ずる。虔十は森や野原で美しさに喜ばれずにいられない。賢治は真理を求めずにいられない。それは心の美しさそのものだ。人は善を愛し道を求めないでゐられない、と言う。求めなければいけない、とは言わない。けれど、決して忘れてはいけない、と言う。正しい事をしなさい、でなくて、そうせずにいられないのが人だという事、それは誰の為でもなく、自分を守り導くと。賢治はアラムハラドの言葉で子供達に語る。人を愛し、その心に仏性を見なければ言えない言葉だ。

「どうしてもこんな気がしてしかたない」と作品について言い、また、そうせずにいられないと言って生きた。それは不自由だったのか。違う。長男だから、教師だから、病気だから、と言い訳し、もっと楽して家族を安心させる事もできた。むしろ賢治はこの世からも自分の体と心からも自由だった。真理を知る程に人は自由になれる。それは「ほんたうの天上へさへ行ける切符」だ。賢治の見ていた世界は、空は、私が知るより遥かに広く、人々は愛らしかったに違いない。

 心の王国を支配しえたなら偉人だ。自分の心さえ、自由にならず振り回される。賢治は本当の良い事の為に、自分の心を自由に使って生きた、そういう偉人だ。

(会員 栃木県宇都宮市)



テキスト
クローズアップ25

 「ヨクミキキシワカリ ソシテワスレズ」
(「雨ニモマケズ手帳」五三頁)

天沢 退二郎

「雨ニモマケズ」という第一行を題名代わりとして読まれてきたテクストは、よく知られているように、昭和六年使用の手帳(いまは「雨ニモマケズ手帳」)に、「11.3」(十一月三日の意)という記入とともに九頁にわたって、鉛筆で書きとめられたメモであって、他人に読まれたり発表したりすることを意図しない覚え書きではあるが、自ずから詩としての節奏をそなえているために一篇の詩と見なされることも多く、新校本全集でも、補遺詩篇Uの一つとして、第六巻本文にも収められている。しかしあくまでメモであるから、第十三巻(上)に収められてある写真版とその読み解きによって、字句の配置を確認すべきであり、確かに詩篇とも見なされるから、多からぬ推敲異文も、無視できない。というわけで今回はとくに、手帳第五十三頁の箇所をクローズアップしてみた。

 「多からぬ」と書いたが、この頁は、中で最も推敲の跡が目立つ。写真版でごらんいただきたいが、全集本文(最終形)で

 アラユルコトヲ  ジブンヲカンジョウニ入レズニ  ヨクミキキシワカリ  ソシテワスレズ
となっているところ、原テクストはまず、
 アラユルコトヲ  ジブンヲカンジョウニ        入レズニ      ヨク ワカリ  ワスレズ
とあったのを、
@「ワカリ」を「ミキキシワカリ」とする
A「ワスレズ」の前に「ソシテ」を加える
という二つの手入れがなされている。この手入れは、何を暗示しているであろうか。

 最近読んだ頼富本宏『空海と密教』(PHP新書)によると、空海の自著とされる『三教指帰』の序文に、
《一の沙門あり。余に虚空蔵聞持の法を呈す》
とある。この修法のテキストは、インド渡来僧の善無畏三蔵訳『虚空蔵菩薩求聞持法』一巻と思われるが、その本文に、
 《すなわち、聞持(聞いたことを記憶する)を獲、一たび耳目にふれし文義は倶に解し、これを心に配して永く遺忘することなし》
とあるという。右の三行を一言に要約すれば、すなわち「ヨクミキキシワカリ ソシテワスレズ」となるではないか!

 賢治がいったん、ただ「ヨク ワカリ/ワスレズ」とだけ記したところをわざわざ「ヨクミキキシワカリ/ソシテワスレズ」としたのは、若き日にたとえば尾崎文英のもとで耳に入って脳裡に刻まれた真言密教の「求聞持法」の一節が、鮮やかに甦ったためかもしれない。

(会員 千葉県千葉市)



セミナー報告
地方セミナーin旭川

 二〇〇三年十月四日・五日    奥山 真由美

 大正十二(一九二三)年八月二日早朝、二十六歳の宮沢賢治は樺太への旅の途中、旭川駅に降り立ち、この街で約七時間を過ごしました。その朝の清々しい情景を作品「旭川」に残しています。

 「オホーツク挽歌」の旅から八十年目にあたる二〇〇三年、心象スケッチ「旭川」にある旭川中学校(現 北海道旭川東高校)の正門横に、同校の開校百周年記念事業として「旭川」の全文が刻まれた詩碑が建立されました。本誌会報第二四号に記した通り、旭川宮沢賢治研究会発足以来九年間ずっと、「旭川」詩碑の建立は私達会員にとっての大きな願いでした。賢治旭川立寄り八十年と詩碑建立を記念して、地方セミナーin旭川は開催されたのです。

 第一日目は、サン・アザレア(旭川建設労働者福祉センター)を会場に、講演と講話、民族楽器演奏を行いました。

 最初に、詩人で学会顧問の入沢康夫さんによる「心象スケッチ『旭川』と、その前後」と題する講演が行われました。入沢さんは「オホーツク挽歌」の旅にまつわる未解明の問題点として先ず、亡き妹トシとの魂の交信を求めた樺太旅行から生れた「オホーツク挽歌」詩群は、春と修羅第一集の核心を成すものであるにもかかわらず、「津軽海峡」「駒ケ岳」「旭川」「宗谷挽歌」を収録しなかった件に触れ、次いで花巻出発から栄浜までのコース・時間についての問題点を述べられました。その概要は次の通りです。

「「オホーツク挽歌」の旅に於ける日記・書簡等の資料が殆ど無い為に、これまでの研究では佐藤隆房著の伝記に頼るところが多く、堀尾年譜では七月三一日花巻発の時刻が十四時三一分とされてきた。実際にこの時刻の列車は存在せず、堀尾氏が十四時二八分の列車を誤記したものと思われる。しかし、いずれにしてもこの時間帯に花巻を出発したとするなら、作品に現れる情景と一致しない多くの箇所がある。作中時間と矛盾しない列車を当時の時刻表から推測するなら、花巻発二一時五九分の列車に乗り青森に翌朝五時二十分に到着したと予想できる。このことは、ますむらひろし氏の指摘で気付いたが、ますむら氏よりも早くに旭川宮沢賢治研究会の松田嗣敏氏が「賢治研究」四四号で、このずれについて触れていた。文学研究において作品から事実を作ってはいけないという原則があるが、賢治の伝記研究においては日付部分の空白を埋める為、一般の伝記づくりのタブーを破っても、心象スケッチの日付を活用していかなくてはいけない。」

 そして、当時被っていたとされる「ナーサルパナマ帽」のナーサルとは何か、パナマ帽子の専門店に問い合わせても判らず、また、佐藤隆房氏が伝える服装のまま旅を続けたのか、盛岡から花巻まで歩いて帰路に着いたとされるが、その際に靴や洋服はどうしたのか、そもそもそのいでたちは佐藤氏が直接見たものか賢治から聞いたものか、旅装にも謎が多い点に言及されました。

 続けて「二つの「津軽海峡」」について、筑摩書房から校本全集が刊行されるまでは、原稿の二枚目と三枚目の順序を入れ替えて四枚目を無視した十字屋版の編集における錯簡により、現在読まれている作品とは別のもうひとつの「津軽海峡」が存在していたことを紹介されました。

 次いで、松田嗣敏さんが登壇し作品「旭川」について解説、そして栄浜での「オホーツク挽歌」について萩原昌好代表理事が研究報告をお話しなさいました。

 セミナー資料として配付された旭川賢治研究会による作品「旭川」の研究結果に対し、入沢さんは「「旭川」という詩の中に扱われている旭川は心象スケッチの旭川であって、たとえば馬車の色を取り上げても現実のものと必ずしも一致していないのではないか。もし童話なら盛岡を「モーリオ」と呼んだように「アサヒカーワ」とか「アーサカーボ」と呼んだ筈。」と意見を述べられました。

 最後に、「このように「オホーツク挽歌」の旅には謎がいっぱいある。帰路においてはいっそう問題点が複雑である。当時を知る人が既に存命しない今、作品をよく読んで、どの点からも矛盾のない仮説を立て、仮説と断った上で、皆を納得させるものをもって一種の定説にすべき」と結ばれました。今回は時間の関係で、旅の途中までのお話しとなりましたが、この続きは是非別の機会にご講演いただきたいと思います。

 第二部は、「宮沢賢治の世界を彫る」と題して木版画家の佐藤国男さんにお話ししていただきました。スライドを用いながら、賢治の童話世界を木版画で表現した作品の数々を楽しいエピソードと共に紹介され、また賢治と縄文の接点及び蛇にまつわる興味深い考究も発表されました。

 プログラムの最後は、トンコリ奏者オキさんによる、樺太アイヌに伝わる弦楽器トンコリの演奏をお楽しみいただきました。オキさんオリジナル曲の他、旭川セミナーのためにアレンジ版「星めぐりの歌」をご用意くださいました。トンコリは弦の数が五本で、全て開放弦で弾くため、五音階に限られているのですが、賢治歌曲は最低でも八音階あり、基本的にトンコリでの演奏が成り立たないところを、オキさんのイメージで演奏なさいました。トンコリの魅力は「繰り返す。ひたすら行く。」ことだそうで、その優しく美しい音色に、さざ波のような余韻を会場に残しつつ、初日のセミナーを終えました。

 その後、市内のホテルへ場所を移し、斉藤征義理事の司会のもと夕食会が催され、各地から参加の方々が和やかに交流しました。

 晴天に恵まれたセミナー二日目は「宮沢賢治の心象スケッチ「旭川」をたどって」と題するエクスカーションを開催しました。朝九時三十分に旭川駅に集合した一行は、八十年前に賢治が馬車で通った同じ道のりを詩に登場する「六条十三丁目」目指して散策しました。案内役は旭川宮沢賢治研究会代表の松田嗣敏さんが担当し、賢治立ち寄り当時の旭川中心部の写真パネルと地図を資料に、賢治が馬車から見た風景を辿りました。それにしても、「六条十三丁目」に農事試験場は無いとわかった後、旭川駅を発つまでの六時間以上もの長い時間を賢治はどのように過ごしたのでしょう?ここでも謎が深まります。目的地到着後は旭川東高校に建つ詩碑「旭川」の前で、萩原代表理事の閉会の言葉で解散となりました。また、ご希望の方に詩碑拓本の有料頒布が行われました。

 今回のセミナーには会員だけでなく、多くの一般の方々にもご参加いただき、大勢の方と賢治の世界に親しむ時間を共有できたことを大変嬉しく思います。上野駅からの往復を鉄路でいらした講師の入沢さんは「十一時かっきりに旭川駅に到着しました。ここは白鳥の停車場かも知れません。」とおっしゃいました。本当に、旭川がイーハトーブになった二日間でした。

(会員 北海道旭川市)



セミナー報告
東山町セミナー(岩手県)

 二〇〇三年十月十八日・十九日
 伊藤 良治

 先ず宮澤清六翁が東山町長や私と交わした雑談から引かせていただく。平成七年十月、「グスコーブドリの町 東山町」宣言の了解をいただく訪問の折だった。

「東蔵さんも良い人でしたし、工場で働いていた人たちも実に良い人たちでしたね。(略)賢治と砕石工場についていろいろ云う人がいますが、賢治は自分からすすんで砕石工場に行ったのですし、壁材料づくりのときもそうでした。決して他から頼まれてやったのではないのです。ですから賢治が工場のために倒れ、その結果があんなことになったにしても、それはそれで仕方ないことでした。

 賢治さんの工場技師前後の事情を一切ご存じの上、賢治研究の動きをずっと見守ってこられた清六翁だからこその、ありがたい励ましのお言葉だった。ということもあって、東山町側からの資料提示による東北砕石工場技師時代の賢治見直しにいっそうの拍車がかかるものならと、今年度の地方セミナー実施会場に立候補した。

 昭和四年の春以来、宮沢賢治が東北砕石工場と関わってきた四年間をまとめて、我々は「賢治の東北砕石工場技師時代」だとしてきている。だが我々から見て、その時代に展開されてきた賢治最晩年の実績の本質が明らかにされないまま、現象面だけでの扱いで通り過ぎている現実に悲哀を感じてきた。だがその根因は、地元からの資料提示の弱さにあるだけでなく、技師時代の賢治を真っ当に正視できる視座づくりに我が東山町が積極的な取り組みを怠ってきたことによるものと自らをかえりみることにした。そして我々は、地元からこそ「芸術としての人生」を生きた賢治最晩年の技師時代見直しに、むしろ積極的な役割をはたすべきと考えなおし、今回の地方セミナーでは、東山町役場裏に建つ賢治詩碑「まづもろともにかがやく宇宙の微塵となりて無方の空にちらばらう」思想を開催テーマに掲げて推進していくことにした。

 加えて平成十一年開館の「賢治と石のミュージアム」(「旧東北砕石工場」、「太陽と風の家」などの総称)、爾来四年にわたって連続開催してきた「グスコーブドリの大学校」、平成十五年七月開館の「双思堂文庫」(宮澤賢治学関係資料館)による活動展開、そして「賢治デクノボーの道」指定等々、賢治精神顕彰に努めてきている「賢治ゆかりの地 東山町」の実績とその存在意義をも体感していただこうと意図した。

 そういうことから、十月十八・十九両日のここ東山町での地方セミナー開催の旗印は「かがやく宇宙の微塵 宮澤賢治と東山町」。基調報告は「東北砕石工場技師 宮澤賢治」、研究発表は「宮澤賢治と法華経」(斎藤文一名誉館長)と「グスコーブドリとカルボナード山」(藤根研一水沢農業改良普及センター)。続く「現場からの証言」では「工場主鈴木東蔵の思い出」、「賢治詩碑『まづもろともに』建立をめぐって」、「東北砕石工場その後」、「当時の東北砕石工場周辺」を話題に四名の関係町民による発表。引き続き「石と賢治のミュージアム」見学と夜の交流会……盛りだくさんなメニューだったが、町内はいわずもがな、町外・県外からの多くの参加をいただいて総勢二百数十名。お一人お一人の参加者にとって、感動的な第一日目だったことであろう。そして第二日目のエクスカーションは、賢治詩碑「まづもろともに」見学、工場主鈴木東蔵宅訪問、石灰採石現場見学の三場面、そのいずれも好評だった。

 その後、参加者各位からの激励のお手紙が次々届き、ますますの実践意欲に燃えているこの頃である。近日中に「実践記録集」が参加者各位に届けられよう。

(会員 岩手県東山町)



セミナー報告


冬季セミナー「賢治と荘已池の時代」

二〇〇三年十一月二十九日
宮沢賢治イーハトーブ館 浦田 敬三

 本セミナー初日は岩手近代文庫主宰の浦田敬三さんに、新聞記事などの貴重な資料をもとに、「森荘已池。賢治との出会い前後」と題して語っていただきました。

 続いて長期新企画「イーハトーブの郷土芸能」、第一弾は岩手県江刺市田原「原体剣舞」。演舞に先立ち、心象スケッチ「原体剣舞連」の解説と朗読がありました。

 ここでは、浦田敬三さんの「森荘已池と賢治の出会い」に関するところの講演要旨を掲載いたします。


講演(要旨)「森荘已池、賢治との出会い前後」

 賢治との出会い、そしてその前後という様な題と書簡の一番最初は、二月の九日ですか。結局、岩手詩人協会というのを森さんと、生出桃星という宮城県の出身の方でありますが、作って賢治さんに原稿を依頼した。それに対する返事が、いわゆる最初の手紙。それ以前に花巻で出ていた「反情」という雑誌、梅野啓吉、ペンネーム草二。それに既に賢治と同じく、これは第二号ですけど、森さんは第一号から執筆というか寄稿しているわけであります。花巻の梅野さんというのは活版屋さんの息子さん、お二人。これが文学青年、後に新聞記者、朝日とか旧満州の方の新聞社に勤めたりするんです。賢治が関わった、つまり花巻から出ている同人雑誌五つの雑誌に賢治がずっと関係を持っているわけです。特に、その梅野兄弟、梅野草二と弟さんの方は本名を使わずに高涯幻二とか鮎川草太郎とかいうふうなペンネームを使っています。賢治を最初に見るのは、たまたま梅野活版所に行っている時に、色々話し込んでいる時に、兄さんの方の草二、本名は啓吉なんですが、「あらら、賢治さん行くよ」ってな事で、もうその時は店の前を数メートルも過ぎたんです。それで森さんは、その時に初めて後ろ姿を見たというふうに書いております。
 実はどうして花巻の梅野兄弟の知り合いになるかというと、その縁を作ったというか、紹介したのが岩手日報の帷子という記者であります。この方、岩手日報に入る前は「譚海」という少年雑誌の編集をやって、病気で郷里に帰った。荘已池の六年先輩であります。中学で。その方が日報の記者。いわゆる学芸欄を担当。実は森荘已池は中学校二年、大正十二年から、既に投稿少年なんですね。とにかく一番最初は、畑幻人とか、青木兇二、北小路、それから北光路、勿論その間、本名の森佐一とか森草一とか。あるいは草も普通の草じゃなくて、色んな七つか八つ。例えば「反情」の二号には、ふむふむげんげんという様な、何人と解決して良いか分からない様なものを使ったり、とにかく大変、中学二年で。しかもそれを取り上げる新聞社がですね、つまりその帷子さんという人に出会ったのが、そもそものご縁だったと思います。それで、いつか俺の所に来いということで訪ねた所が、どうもこれが投稿する作者とは思えない、つまり中学三年生。それで花巻の梅野というのを紹介するから、あの「反情」というのに、お前、詩でも小説でもいいから書け。で第一号から載っている所をみると、まだ出ていなかった段階で。帷子という日報の記者は、同人誌の名前を付けたのは俺だと後で書いておりますが。ですから発行以前から、梅野さんと気合が合ってそこで具体的にいつとは書いてないんですけれども、つまり、花巻へ森荘已池が紹介されて訪ねる。そこへ、たまたま宮沢賢治さんが、そこを通ったという事から詩集が出る以前からご縁があったというか、そういう繋がりがあった様であります。
 そういう訳で、森さんとの賢治との関わり合いっていうのは日報の投稿、いわゆる担当の学芸担当の帷子という記者、そして梅野さんを紹介され、それが以下色々地元の方ですから、当然梅野さんは賢治を知っている訳でありますから。あの一番最初賢治が森佐一宛の大正十四年二月九日の手紙にも佐一の所に「梅野さんにお会いして申し上げておきます、又あなたのお手紙からあなたにお会いしたいと思います」。でここに、もう既に最初の手紙から梅野さんていうのが出て参ります。私は初めはあまり注意していませんでしたが、その「反情」とかこの花巻から出ている雑誌を調べててというか分かってからこれは大変な雑誌であり、いかに賢治を取り巻くって言ったらいいか。この花巻の土壌が。こういうとかく盛岡だけがというか中心であったかのように私なんかも不勉強でしておりましたが、賢治さんを巡ると言ったら良いか、花巻のこっからこういう同人誌が出ている。勿論これらは全部筑摩の全集に収録されている訳でありますが。そういうことで花巻の事は何としても関わりっていうか、しなくちゃならない。
 そして三番目、賢治からの手紙の三番目が大正十四年の二月の十九日。この中に短い手紙ですけども、こういう感じ「あなたがもし北小路幻氏であれば、私は前からあなたを尊敬しています」と。ここに北小路幻。つまり賢治は最初森佐一と北小路幻は別人、で特に詩をさかんに書いていた北小路幻というのは、賢治と同じくらいかなあと賢治自身が思っていたようだと。
 小さい路の北小路と、北光る路の北光路と、森荘已池は使い分けしておりますが、賢治の手紙には、小さい路・幻、北小路ですが。これは両方挟めてたまたま手紙には北小路の北小路であると思いますが。ちょっと調べてみましたら、つまり、最初の手紙をもらう以前の北小路幻の作品ていうのをちょっと調べてみました。見落としがあるかも知れませんが、十六編ごさいます。で、大正十二年は三編ですね、十三年が八編。十四年の一月つまり二月九日の賢治の最初の手紙ですから、その手紙が貰う以前に日報に書かれた北小路幻の作品は全部で十六編、十六回載っております。とにもかくにもこの賢治がどの程度全部を見たのか、おそらく日報はずっとお取りになっていたでしょうから、とにかく北小路幻ていうのはずっとあった。それからいよいよ賢治と森荘已池の出会いということになりますが、賢治の方から森家へ来たのは五回のように私の調べた段階では。つまり一番最初は大正十四年の三月、あるいは二月ではないか。なんか筑摩のあれを見ても三月かっこ推定となっておりますが、雪の降る夕方つまり仙北町駅から歩いて来て森家を訪ねた、という例の「店頭」であります。この「店頭」、やはり、芥川賞の候補になったのは「氷柱」というこの中の作品でありますけれども、この頭に「店頭」を、賢治との出会いを綴った「店頭」を巻頭に置き、しかもこの書名を「店頭」としたところに森荘已池の思いが伝わると考えられるのではないかというふうに思います。最初の出会いはそういうことで、前後して賢治が森家を訪ねるのは五回程度でありますが、逆に賢治の方へ森荘已池が訪問するというのはこれも五回でありますが。最初は大正十四年の十二月の下旬、年末となっておりますが、あの仙台の石川善助と一緒に訪ねて、これが「天才人」という盛岡で出している雑誌の二号に紹介されている。その後は大正十五年の夏といってますが、いわゆる宮沢家を訪ねたら丁度賢治さんは学校で宿直だということで農学校を訪ねる。で、この晩泊まって。三回目が昭和の三年の秋の日ということで、羅須地人協会の下っていうか下根子っていうんですか川岸のあそこに訪ねたっていうのが三度目。四度目が昭和四年の月日は不明のようでありますが、病気見舞いでこれも日にちがはっきりしないんですが、この昭和四年っていうのは賢治さんが病気でだいぶ病が重いっていうかそういう状態であった様でありますが。それから五回目は昭和五年の二月に、奥さんのタミさんと病気見舞い。
 それから「春と修羅」については照井壯助っていうあの地元の方でしょうか、後で高等学校の校長先生なさる方ですが。いわゆる関徳弥さんに頼まれたと言ってそのいわば「春と修羅」を売ってくれというかさばいてくれって事で預かって来て受け取るのが最初の訳です。で照井さん言うには、「良いか悪いか?」つまりこの詩集が良いのか悪いのか一言言ってくれってな事で、立ち読みだかいずれずっとしばらく半分くらい読んだってなことを森さんは書いておりますが、「こいづは大変だ大変だ大変だ」って三回言っていると、照井さんは「何が大変なんだ」と言って、それに対して森さんは、これは今までに日本の詩壇に現れたことのない詩が現れたんだと。
 いずれ晩年というか亡くなって弔辞を森荘已池、藤原嘉藤治、儀府成一、この連名の弔辞がございますが、この中で既に昭和八年の段階で「あなたはこの世のものでないような謙虚でひたすら隠しておられた、自分の才能を、ここにその主張されなかった、世界の第一級の第一流のものなのだけれど」という前書きに続いて「あなたはこのような謙虚でひたすら隠してこられた、自分の才能っていうか作品に対して。 この町の人々はこの国の人々はそして日本の人々は五十年後あるいは百年の後にあなたがどのように偉かったかということが分かるでしょう」と。亡くなってまだ世間がまだそれどころじゃない、全集もまだ出てない、この時期に御三人は連名になっていますから一緒に弔辞をお書きになったんだと思いますが、こういう評価が文字通り今日に至っているということです。それから昭和二十三年前後でありますが「宮沢賢治と三人の女性」という森さんの単行本がございますが、この中で私は宮沢賢治伝を書くことを生涯の仕事と考えている、その仕事についてのこれはまず第一の土台となる仕事のつもりであるということを「三人の女性」という本の中でお書きになっているんですね。

(本要旨の文責は事務局にあります。)

森三紗(父・森荘已池)さん  本セミナー二日目は、雨の一日となりましたが、まず『新校本宮澤賢治全集』編纂委員の奥田弘さんによる「森さんをしのんで」の講演。続いて森三紗さんには、「父、森荘已池」を語っていただくとともに、やむなく出席できかねた宮沢潤子さんによる手紙の紹介がありました。そして最後は、「賢治が荘已池が贈ったレコード」コンサート。その時代を彷彿とさせる音色に、会場はしばし静粛につつまれておりました。

 ここでは、奥田弘さんの講演中、「森さんと賢治全集の関わり」と「宮沢賢治の出生日について」のところの要旨を掲載いたします。


講演(要旨)「森さんをしのんで」

浦田敬三さん  みなさん、おはようございます。森さんにつきましてはですね、四年程前にイーハトーブセンター会報という十九号にですね、森さんの事について触れております。今日は、そのコピーがみなさんの手元に配られていると思いますけれども、それをご覧になって頂ければ有難いですね。また、去年の七月にですね、岩手日報社の講堂で森さんの事についても少しばかり話した事があります。森さんについては、なにぶんも、何年も前の思い出なので、思い出すままに、とりとめもなく話して行きたいと、そういうふうに思っております。
 森さんの名前は、宮沢賢治の研究などで早くから知っておりましたが、直接お会いしたのは、筑摩の四十二年版全集の完結した機にですね、刊行されました草野心平編の宮沢賢治研究という昭和四十四年の八月に出ておりますけれども、この本の末尾に載っている心平さんの編集覚え書きというのには、森さんの名前が見えない、ありませんですね。ちなみに、編纂委員の名前を挙げますと、小倉豊文、堀尾青史、小沢俊郎、私、奥田弘、続橋達雄と名をつらねておりますけれども、私を除いてみんな故人になってしまいました。宮沢清六さんの名前も見えません。駿河台の筑摩書房の会議室には、確かに清六さんの姿があったように思うんですけれども、この本の編集委員でなかった為に、心平さんは殊更名前を挙げなかったんだろうと、そういうふうに思います。森さんも清六さんと同行して会議室に居たように思うんですけれども、名前がないんですね。
 『校本宮澤賢治全集』には、編纂委員として森さんの名があります。しかし森さんは、この全集の原稿作成には直接関わらなかったと思っております。全集に載せる文献資料について、この全集の手帳・ノート、それから雑纂、それから書簡ですが、これを担当していた私は、森さんの教示をね、仰ぐ事が多かったんですね。十字屋版全集の編集委員としての森さんの事は、昨日ここでお話された浦田敬三さんの、森荘已池年譜によれば、宮沢賢治全集編集の為に花巻町の宮沢家に数ヶ月泊まり込む、と書いてあります。この十字屋版の編集委員には、高村光太郎、中島健蔵、宮沢清六、森荘已池、藤原嘉藤治、草野心平、谷川徹三、横光利一、こういう人が名を連ねていますが、実際に編集実務に活動したのは、花巻、盛岡にお住まいの森さんら二〜三名であったろうと、私は推測しております。この十字屋版で取り上げられなかった文献資料など貯蔵先を森さんは知っておりました。例えば、藤原健次郎宛ての書簡や、森さんのお宅の近くの大慈寺小学校、これは書簡番号は九十一で、目時政忠宛ての物ですが、藤原健次郎の書簡は、担当の巻の第十三巻の時には間に合いませんでしたので、次の刊行の巻に追補として取り上げる結果となりました。また、森さん自身お持ちの、主に岩手県内発行の文芸誌ですね、快く貸して下さってます。約五十点程度私がコピーして、私の所にあります。この他、一番大事な事は、岩手県庁の中にですね、文書保管庫というのがあります。これは、岩手県永年保存文書目録というふうになっておりまして、大切に保管されております。これによって花巻農業高校では、保存していなかった、花巻農学校の寄宿舎のですね、設計図がここで発見されます。で、これが校本全集に収める事が出来ました。また、賢治が通学した小学校や中学校の使用教科書も、この文書で明らかになっております。この保存文書は、もっと調査する必要があると思うんですね。この校本全集には収められませんでしたが、佐藤知良さんですか、が、「よーさん」、蚕を飼うですか、養蚕という綴り方が発見されています。これは、宮沢賢治研究アニュアルの第二号、九十二年の三月に出ておりますけれども、宮沢賢治資料未発表綴り方、書き方と題されて掲載されておりますので、大変面白い、特に養蚕の方は面白いものですから、是非ご覧になってください。最もあの、新校本の方にはこれが載せられておりますけれども。早くから宮沢賢治の詩や童話等をね、評価していたのは草野心平さんと森佐一さんでした。心平さんは生前の賢治とは会った事はなく、おそらく手紙のやりとりなどで賢治像をとらえていたのだと思います。心平さんは賢治の作品に重点を置いて、世に紹介したものと私は考えております。で、森さんは中学時代から賢治に接していたので、賢治の作品論もありますが、文芸岩手三十八号ですね、九十九年の九月に発行されています。ここに収められました、浦田さんの森荘已池著作年譜というのを見れば、賢治の全人間像に視点を置いて賢治を紹介してきたと私は考えております。
 こちらの都合で、森さん宅を訪問するのが午前になる事がありまして、昼時になると森さんは近くの蕎麦屋に案内する事が何度かありました。手打ちの蕎麦屋で、実に美味い蕎麦でした。森さんは蕎麦好きであったようですが、その食事の際に、ある時、岩手県外の賢治研究家がとんでもない勘違いをしている場合があると。特に年譜等の記述の表現については、県内の人によく聞いて、謙虚な態度で臨まなければならないと、厳しく戒められた事があります。
 森さんの教えの中で、私にはまだ実現していないのが一つあるんです。今は北上市に移ってしまった、盛岡にありました岩手県農地試験場について、農業関係の文献資料を調査するように勧められた事があるんです。そこの図書室には、大変貴重な賢治にまつわる資料が何点かあるんじゃないかと想像されるんですけれども、この調査が実現していない事は心を痛めておるんです。
 森さんについては、日本近代文学館が編みました日本近代文学大辞典というのがありますけれども、その中の第三巻に、昭和五十二年の十一月に出ておりますけれども、これに収められております私の原稿は、ほとんど森さんに直接会って聞き出したものばかりだったんです。今考えると、なんと図々しい事だったと、そういうふうに思っております。もっとよく調べて、森さんについて書くべきだったなと、それは非常に残念に思ってます。
 それから、これも問題になっているんですけれども、宮沢賢治の出生、生まれた日付けについてですね、森さんはどう考えていたのか。校本全集の頃は何度もお会いする事があったんですけれども、考えを聞いていなかったことを、悔やんでおります。聞くところによりますと、誕生日を祝うという行事は、西洋文化が入って来てから祝うようなもので、花巻地方ばかりでなく、むしろ没年、亡くなった年を重んじる、そういうのが日本の従来からあったんだそうで、死者の法事に何回忌とか呼んで死者を弔うというのは、これはやはり、誕生日祝いというよりも死者の、亡くなった人の何回忌、何回忌という事をもって重んじるものだと、そういうふうに聞いております。ただ、後で触れますが、森さん自身の書いた本、著作で、「宮沢賢治と三人の女性」という本がありますが、みなさん既にご存知だと思いますけれども、こういう本ですね。それでこの「三人の女性」の末尾の中に宮沢賢治の略歴というのが載っております。明治二十九年八月一日と、こういうふうに書いておりますけれども、このことから森さんは八月一日生誕説を信じたのではないかと、そういうふうに思いますけれども。それから、森さん自身が編集委員として加わりました十字屋版全集の別巻ですね、別巻には宮沢清六さんの宮沢賢治の年譜が出ております。それには八月一日とやはり書いてありますので、森さんはこの八月一日の方に添っていたのではないかと、そういうふうに思います。

(本要旨の文責は事務局にあります。)



ポラーノの広場
 ―第七夜―

もりおか宮沢賢治の会

宮沢賢治の会について    森 義真


 宮沢賢治が亡くなった翌年に、自称「賢治の宣伝マン」の菊池二郎氏(筆名:暁輝)が森荘已池氏などと作ったのが、「宮沢賢治の会」です。創設は一九三四(昭九)年九月二四日で今年が七〇周年になります。一時期「盛岡賢治の会」と言ったり書かれたりもしました。  七〇周年を記念して、今年八八歳を迎える二代目会長の吉田六太郎氏と事務局長の大澤謙一氏のリーダーシップの下、記念誌の発行、展示会、講演会、演奏会、それに祝賀会など記念のイベントを様々企画しています。

 初めの五年間は、毎回というわけではありませんが、よく新聞(岩手日報・新岩手日報)に開催予告や記録が掲載されました。しかも写真と参加者の名前が載ることもありました。これは森荘已池氏が、退社する昭和一四年まで岩手日報社の学芸部長として、学芸欄を全面的に任されていたことによります。そのへんの経緯などについては、米村みゆき著『宮沢賢治を創った男たち』(青弓社、二〇〇三)の第五章に詳しく書かれています。

 菊池氏は、「宮沢賢治の会」の他にも諸活動を展開されました。子供たちに賢治の詩や歌を教えた「賢治子供の会」、声楽家・照井栄三の流れをくんだ「盛岡朗読会」、秋田と岩手の交流会の「峠の会」などです。

 今、私たちが「賢治子供の会」に参加していた大澤氏の賢治歌曲や、「盛岡朗読会」にも顔を出していた米内アキ氏の賢治詩の朗読を聞きながら、会の七〇年の歴史を感じ取ることができるのは、「ほんとうの幸い」です。

 会の活動としては、賢治祭の九月と岩手公園碑前祭の一〇月を除いた毎月第三土曜日夕方に開く例会が中心です。会場は、以前は公会堂多賀や県立図書館などでしたが、現在は明治天皇ゆかりの賜松園のある杜陵老人福祉センターを使わせていただいています。

 初代の菊池会長の時代は、賢治ゆかりの方を招いてお話を伺い、その後皆で懇談したり、朗読したりといったスタイルでした。現在は、秋田県から来ていただく田口昭典氏にチューターをお願いし、ちくま文庫の童話を読んでいます。順に朗読したり、テープを聴いたりビデオを見てから田口氏の解説、そして意見交換、さらには賢治に関する様々な情報交換をします。その後、有志が残り米内氏に朗読の指導をいただいたりもしています。

 会の連絡紙である会報は、題字を高村光太郎氏に書いていただいた「イーハトーヴォ」を発行しています。第一期が一九三九年一一月から一九四一年一月、第二期が一九五四年一二月から一九五五年八月、そして第三期が一九八八年七月から現在まで続いています。

 会としての大きなエポックは、一九七〇(昭四五)年一〇月二一日の「岩手公園」詩碑の建立です。それ以来、毎年一〇月に「岩手公園」碑前祭を開いています。

 特筆したい最近のイベントとして、まず一九九六年一〇月に開催した「賢治生誕百年祭96盛岡」を上げたいと思います。盛岡在住の賢治研究家を中心としたパネルディスカッションなどのフォーラムでは、賢治と盛岡の関わりを深く掘り下げました。記念演奏会では、賢治ゆかりの曲の合唱とギター演奏、朗読によって、市民から多くの反響を呼びました。

 アザリア発刊祝賀会後の「秋田街道」にちなんで、毎年七月に行っている「賢治青春夜行」ウォークは、「雫石と宮沢賢治を語る会」との連携で、今年一〇回目を迎えます。雫石の会とは共同で、一九九九年盛岡と二〇〇一年雫石・小岩井と、宮沢賢治学会の地方セミナーを二回開催しました。「岩手公園」詩碑建立直後からの懸案だった「小岩井農場」詩碑を建立したことは、大きな成果でした。

 また最近は、花巻・江刺・一関などの賢治ファンの方々との交流も深めながら、賢治探訪ツアーを会の有志で実施しています。「鞍掛山を楽しむ会」に参加して鞍掛山に何度か登りました。雫石の会の方から七ツ森遠望をする絶好のポイントを教えていただきました。小岩井農場のイベントに参加して、小岩井駅から農場内のウォークや狼森登山もしました。一関「賢さんの風」の会との交流で、種山ケ原を散策したり、なめとこ山遠望ツアーや、「どんぐりと山猫」モデル地(笛吹の滝など)を探訪したりしました。また、江刺賢治の会とも種山ケ原近く(伊手口澤付近)の「風の又三郎」モデル地を探訪し、「上の野原への入り口」周辺を歩き回りました。

 一九九三年の第3回宮沢賢治賞・イーハトーブ賞において、私どもの会は、「故菊池暁輝氏創設以来の永年にわたる宮沢賢治精神の継承普及活動」という選考理由により、「イーハトーブ賞奨励賞」を受賞しました。

 その意味するところは、一九三四年以来の会の活動の歴史が評価されたことと共に、宮沢賢治の青春の地・盛岡において、今後も賢治の人と作品を学びながら、広く「宮沢賢治」を伝える活動を続けてください、というメッセージのように思われます。

 創設以来の長い間、「宮沢賢治の会」は出入り自由の集まりで、会則も会費などもなく有志がこっそり活動費を寄付するという会でしたが、先ごろ、これからの会のあり方を議論した上で、会則を定め、会費制にしました。まだまだ今後の方向性に議論の余地を残していますが、今年の七〇周年記念行事をやり遂げることが、喫緊の大きな課題です。

 いずれにしても、宮沢賢治の人に学び、作品に学び、その背後にある思想に学びながら、青春の地・盛岡から、愛好しているのが私どもの「宮沢賢治の会」です。

 賢治のえにし(縁)を通じた「人との出会い」を大事にしていきたいと思います。




賢治作品にみる盛岡     黒澤 勉


(一)盛岡中学校


 盛岡の中学校の/露台の/欄干に最一度われを倚らしめ
 学校の図書庫の裏の秋の草/黄なる花咲きき/今も名知らず

 明治四十三(一九一〇)年に刊行された啄木の歌集『一握の砂』に収められた二首であり、いずれも盛岡中学が舞台になっている回想の短歌である。

 大正五(一九一六)年四月、賢治は後輩の保阪嘉内を母校、盛岡中学に案内し、二人で盛岡中学のバルコンに立った。嘉内の歌日記に「宮沢氏と盛岡中学のバルコンに立ちて天才者啄木を憶ひき夕日赤し」という一首がある。二人は共に啄木について、それぞれの中学時代について(嘉内は甲府中学を卒業、賢治と同年生まれの二十歳であった)、将来の夢について熱く語りあった。「天才」啄木の存在は、同世代の歌人、文学者として二人の心を捉えていたであろう。

 賢治晩年の三十七歳、病床に伏して書かれた文語詩(未定稿)に「校庭」と題する一編がある。この詩の中に「白堊城」という言葉が出てくる。これは盛岡中学の建物を指す言葉だが、同校の卒業生でもなければわからないだろう(盛岡中学、現在の盛岡一高の校歌には「汚れは知らぬ白堊城」という一節がある)。啄木の小説『葬列』の中では盛岡中学を「この市でいちばん人の目に立つ雄大な二階立の白堊館」「白色の大校舎」と、いかにも啄木好みの大仰な形容で、誇らしげに描写している。しかし賢治にとっての盛岡中学はそのようなところではなかったようだ。「校庭」という詩に描かれた中学生の群像はどこかもの憂く、「うつろ」で寂しげである。

 「校庭」という詩は先駆形として「桐下倶楽部」「盛岡中学校」の二編あるが、いずれも「盛岡中学校」の休み時間「校庭」の「桐下」にたむろする友人達の姿を描いたものである。「桐下倶楽部」とは盛岡中学校の校友会クラブの一つで、盛岡市外から入学した寄宿生のグループだという。また、盛岡中学の広い敷地には桐の大木が立ち、彼らはその桐の下にたむろしたことからその名があるという。「桐下倶楽部」を見ると「剥げそめし白きペンキの/木柵に人々は倚り」という一節がある。これは『葬列』の中では「白色の幾百本と知れぬ木柵が並んでおり」と書かれている。また詩の中に「港先生」とか「村久」という言葉が出てくる。前者は港純治という数学・化学の教師、後者は村井久太郎を親しく呼んだものだという。村井はスポーツ万能で特に剣道、フットボールが得意で、運動神経の鈍かった賢治と仲が良かったという。授業の開始や終了はラッパで告げられており「一鐘のラッパが鳴りて/急ぎ行く港先生」とあるのは授業の開始を告げるラッパが鳴って、教室に向かって急ぐ先生のことを描いたものである。

 それにしても賢治の文語詩は不思議である。第一にこれらの詩は、現実には二十年ほど前の、一つの情景を描いたものなのに回想に伴う「なつかしさ」の情緒がない。回想の詩どころか、現在形で書かれ、今、眼の前にありありと浮かぶ情景だということである。第二に、これらの詩はあまりに賢治しか(あるいは同級生達しか)わからないような固有の名前や情報が、何の説明もなしに素材とされているということである。賢治は読者のことを考えたのだろうか、それとも己れ一人の寂しい病床の楽しみとして書いたのだろうか。第三に、賢治自身の姿がどこにも見えないということである。先生や友人は描いても自分は描かない。それはなぜだろう。間もなく世を去ろうとする賢治に自らを哀惜する情はなかったのだろうか。

(二)岩手公園


 同じく「文語詩一百編」の中に「岩手公園」と題する詩がある。盛岡浸礼教会の牧師タッピング、その夫人、その息子(ウイラードという名で大学生だった)の三人を賢治が岩手公園に案内した折の情景を描いたものであろう。三者三様の言葉・行動とそれを包む込むようにして暮れていく盛岡の街並みが詩情豊かに描かれている。会話はおそらくすべて英語でなされていたのであろうが、賢治はそれを見事な文語体にしている。詩の内容から察して、息子の姉(ヘレン)は盛岡中学校の生徒達を連れて公園に来て、花言葉を教えたこともあったらしい。タッピング牧師も盛岡中学校の生徒達に英語を教えていたという。盛岡浸礼教会は現在の内丸教会の地にあり、道路を挟んで盛岡中学校に隣接していた。

 実は文語詩「岩手公園」は先駆形(A)(B)があり二度にわたる手直しを経て完成したものだった。先駆形(A)を見ると驚いたことに「こころせはしきいちにちの/ブンゼン燈をはなるれば/ああまたひとりここにして/誰にもあらぬひとを恋ふ」という一節がある。「ブンゼン燈」うんぬんというのは高等農林における実習の光景である。つまりここには、高等農林における自らの生活が描かれ、通学の帰途、岩手公園で、ひそかに恋する人のことを思ったことが取り上げられているのである。完成形は自らの恋、そして学校生活を隠してしまった。

 先駆形(B)をみると「まひるを経来し分析の/酸のけぶりに胸いたみ/わがしはぶけばあやしみて/ふりさけ見ゆく園つかさ」という一節がある。これも高等農林 における実験の授業のことが素材となっており、通学の帰途、岩手公園で咳き込んで公園の園長に怪しまれたことが記されている。完成形は自らの学校生活や病いを隠してしまった。これらの手直しを「推敲」といっていいかどうか。素材それ自体の大きな変更である。しかし、その中で変わらないものがある。それは暮れなづむ岩手公園からみた周囲の山々であり、盛岡の街並である。「岩手公園」という舞台、そこに繰り広げられた自らの青春の姿、思い出の人々、それは同じ舞台に登場しては消えていくドラマの人々のようでもある。

 不思議なことに、完成形には賢治その人の言動が一切描かれていない。賢治の存在はそれらの人々や情景を写しとる「眼」と「耳」の役割しかしていない。自己に執着し自己を描き続けた啄木と、自分を忘れてしまったような賢治と。今私は、その二人の「精神」に深い関心を抱いている。