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宮沢賢治学会・会報第29号 | |
ぜんたい鞍掛山はです/Ur-Iwateとも申すべく/大地獄よりまだ前の/大きな火口のへりですからな/さうしてこゝは特に地獄にこしらへる/愛嬌たっぷり東洋風にやるですな/槍のかたちの赤い柵/枯木を凄くあしらひまして/あちこち花を植ゑますな/花といってもなんですな/きちがひなすび まむしさう/それから黒いとりかぶとなど、/とにかく悪くやることですな (「国立公園候補地に関する意見」『春と修羅 第二集』) 表紙写真 撮影・大塚 常樹 |
第29号●マムシソウ 2004年9月22日発行
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なぜ、童話なのか\賢治と父 千葉 一幹 宮澤賢治は、なぜ童話を書いたのだろうか。 以前から、ずっとそのことが気になっていた。正確に言えば、賢治が選んだジャンルはなぜ、小説でなく、童話だったのか、ということになる。 賢治自身、まるで小説を書こうという色気がなかったとは言えない。その早すぎる晩年に残したメモでは、『銀河鉄道の夜』、『風の又三郎』、『グスコーブドリの伝記』、『ポラーノの広場』の四作と思われる作品名を挙げ、それらを「少年小説」と命名している。また、大正十年、頭の上の棚から『日蓮上人御遺文集』(と思われる本)を含む二冊の書籍が背中に落ちてきたのを期に花巻を出奔し、国柱会の門を叩いた賢治が、東京から送った関徳弥宛の手紙で、当時のベストセラー作家島田清次郎について触れ、「なるほど書く丈けなら小説ぐらゐ雑作ないものはありませんからな」とも書いてもいる。 死の前々年以降の、最晩年に書かれたと考えられる「泉ある家」や「十六日」といった、リアリズムの短編小説と見なしても差し支えない習作も残している。 だから、賢治の意識の中に小説執筆という考えが、寸毫もなかったということではない。また、仮に賢治がもう少し長命であったなら、習作を越えた、彼の童話作品に匹敵する質をもった小説をものにしていたかもしれない。 しかし、賢治が残した散文の、そのほとんどが、童話であるという事実は、否定できないこととして残っている。 ならば、なぜ小説でなく、童話だったのだろうか。 その理由の一つは、小説の主流が恋愛小説であったことに係わるだろう。 菅谷規矩雄は『宮沢賢治序説』において、賢治が童話というジャンルを選んだ理由の一端を、彼が男女の性愛の場面を描くことを忌避したことに求めている。恋愛小説とは、それを実際に描写するかしないかは別として、男女間の性愛の存在を抜きにして成立しないものである。ならば、性愛の描写を忌避した賢治に、恋愛小説を書くことは不可能である。それが、賢治を小説から遠ざけた原因の一つであるだろう。 だが、私は、もう一つ別の要因があったのではないか、と思っている。 稗貫農学校の第二回生であった照井謹二郎は、「賢治は先生がたには主に詩を、生徒には童話を読んだ。彼は生徒や弟妹に読んで聞かせることを前提に童話を書いた」と語っている(佐藤成『証言宮澤賢治先生』)。 童話とは、生徒や弟妹に、つまりは、自分よりも年少の者に語るためのジャンルであるということだ。 この一見当たり前の言明に、なぜ童話であったのか、の答えがあるように思う。 童話は、自身よりも年少の者へ語るためのジャンルであったとするなら、小説とは、その逆に、自身よりも年長の者に語るための形式であるということになる。 事実、日本の近代文学は、島崎藤村の『破戒』といった自然主義文学をその典型として、家への反抗から成立したものとされる。家とは、家父長を中心とする制度であり、家父長とは、父に他ならない。つまり、日本の近代小説は、家父長である父への反抗を契機として生まれたのであり、したがって、小説とは、父へと投げかけられた抗いの言葉を組織したものといえる。 父への反抗は、日本の近代小説発生の源泉であるだけでなく、日本の近代化そのものの推進力でもあった。日本の近代化を促したエートスは、立身出世主義だといわれるが、立身出世とは、端的にいって、子が親以上に偉くなることであり、それは、結局子による親の乗り越え、否定を意味するだろう。親の超克・否定を含意する立身出世主義は、親への反抗によって形成された日本の近代小説のあり方と合致する。 親の否定・超克という明治的エートスによって成立した小説、父への、換言すれば自分より上の世代への、抗いの言葉により織り上げられた近代小説を書く代わりに、賢治は、自身よりも年少者に向けて語られる童話というジャンルを選んだのではないか。 ならば、なぜ賢治は父への反抗の言葉を記さなかったのか。 それは、賢治の父政次郎が、子に一切の反抗を許さぬ厳格な父であったからではない。むしろ政次郎が、厳父慈母といった明治的親のイメージとは反対の、理解ある父であったからではないか。父の厳しさが、反抗を禁じたのではなく、その優しさが、賢治に父への反抗を困難にしたのだ。 これは、もう少し詳細に見ていかねばならないことだが、私は、賢治と父政次郎との関係に、賢治童話発生の鍵があると思っている。 (会員 埼玉県)
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| 【報告】 |
第14回 宮沢賢治賞イーハトーブ賞決まる 第14回宮沢賢治賞・イーハトーブ賞は、先の理事会におきまして次のとおり承認し、花巻市より発表されました。 受賞された方々にお喜びを申し上げますとともに、これからのますますのご活躍をご祈念いたします。 経過及び選考理由について宮沢賢治学会イーハトーブセンター賞選考委員会 委員長 佐 藤 通 雅
《宮沢賢治賞》従来、宮沢賢治賞・イーハトーブ賞両賞は、会員からの推薦と、申し合わせによる選考委員会の推挙をもとに選考してきた。本年度からは、もっと視野を広げるために外部有識者にも推薦を依頼し、参考意見として検討に加えることになった。その結果、計二十二点が選考対象になった。三次の会議を経て、選考に当たったが、結果として本賞は「該当なし」として見送らざるをえなかった。ただし、本年度は力作がかなり多く、選考にも熱が入った。 奨励賞の小川達雄氏は、『盛岡タイムス』に数年余にわたって掲載した論考も含めて、労をいとわぬ博捜ぶりと、その成果が評価された。山根知子氏は、妹トシの生涯と思想形成を、客観的資料をもとにていねいに探究し、新しい知見をもたらした点が評価された。松澤和宏氏の『生成論の探究』は、漱石から賢治、フローベールからソシュールまで広い分野を対象にした巨視的な研究で、賢治探究にも新しい可能性を示した点が評価された。 《イーハトーブ賞》賢治賞と同様の推薦・推挙による十五点を選考対象とし、三次の会議を経て決定した。 本賞の中村哲氏は、パキスタンの州都ペシャワールに赴任して以来、アフガニスタンの困難な状況のなかで診療活動を継続してきた。その地の独自の文化を大切にし、たえず民衆の目線でものを考え、実践する基本姿勢が、高く評価された。畠山重篤氏は、漁師として海を見つめることにはじまり、広葉樹植林の運動へと活動を広げていく。しかも次世代の学習にもつなげていく。そういう未来へ通じ、賢治童話の場面も想起させる実践が高く評価された。 奨励賞も検討を重ねたが、本年度は「該当なし」ということで、見送らざるをえなかった。 ■宮沢賢治賞該当なし ■宮沢賢治賞奨励賞
小川 達雄 『盛岡中学生 宮沢賢治』において、中学生時代の短歌作品の背景を博捜し、賢治の事跡の多くを明瞭にした功績。 ■宮沢賢治賞奨励賞
山根 知子 『宮沢賢治 妹トシの拓いた道』において、トシの生涯と思想形成の姿を探究し、新しい知見をもたらした功績。 ■宮沢賢治賞奨励賞
松澤 和宏 『生成論の探究』において、「銀河鉄道の夜」の草稿に徹底的に取り組み、賢治の表現行為の本質への新たな探究の可能性を示した功績。 ■イーハトーブ賞
中村 哲 アフガニスタンでの診療活動や井戸・水路の掘削・復旧活動など、世界と人間性に対する深い洞察をもとに、民衆とともに持続的になしてきた実践。 ■イーハトーブ賞
畠山 重篤 三陸リアスの海を発端に、「森は海の恋人」の標語を掲げて森へと視野を広げ、かつ次世代の子どもたちを迎え入れて体験学習を積み重ねてきた実践。 ■イーハトーブ賞奨励賞該当なし ■宮沢賢治賞
■イーハトーブ賞
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受賞者の略歴と
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【宮沢賢治賞奨励賞】■小川 達雄(おがわ・たつお)氏 一九三〇年一月一日、宮崎県宮崎市生。一九四七年盛岡中学校卒業。一九五〇年盛岡農林専門学校林科卒業。一九五三年法政大学文学部日本文学科卒業。 岩手県内に四十年在住し、岩手県の福岡、盛岡第二、釜石南、盛岡北の各高校を経て東京都の目白学園、埼玉県の淑徳与野高校に国語科教師として勤務し、一九九四年退職。 著書に『戦闘帽の学徒たち』(一九七九年、同出版委員会)、『盛岡中学生 宮沢賢治』(二〇〇四年 河出書房新社)。 論文に「民謡としての東歌」(一九五七年『文学』岩波書店)、「信濃のほととぎす」(一九六〇年『日本文学』日本文学協会)、「万葉時代の志貴皇子と長皇子、弓削皇子等について」(『目白学園短期大学紀要』第十九号〜二十五号連載)。 また「宮沢賢治の中学生時代」を、二〇〇〇年三月から二〇〇四年二月まで、日刊「盛岡タイムス」紙に四四二回連載。 □小川 達雄氏の業績について 宮沢賢治の中学生時代に関わる短歌を軸に、『盛岡タイムス』に数年余にわたって掲載された中から、いくつかのトピックに焦点を合わせて一冊に改めたのが『盛岡中学生 宮沢賢治』だが、労をいとわぬ博捜の成果によって、賢治の事跡の多くが明瞭になった。著書にまとめられなかった連載部分にも、さらなる発展の可能性が残されている。 【宮沢賢治賞奨励賞】■山根 知子(やまね・ともこ)氏 一九六四年四月二〇日、岡山県岡山市生。一九八七年早稲田大学第一文学部卒業。一九九二年日本女子大学大学院文学研究科博士後期課程単位取得退学、二〇〇四年博士(文学)、専攻は日本近代文学。 駒澤大学、日本女子大学、鶴見大学女子短期大学部の各大学の非常勤講師を経て、一九九八年からノートルダム清心女子大学文学部講師、二〇〇一年から同大学助教授となり現在に至る。 著書に『迷羊のゆくえ\漱石と近代文学』(一九九六年、翰林書房)、『イーハトーヴからのいのちの言葉\宮沢賢治の名言集』(一九九六年、角川書店)、『宮沢賢治を読む』(梅光学院大学公開講座論集第五〇集、二〇〇二年、笠間書院)、『宮沢賢治 妹トシの拓いた道\「銀河鉄道の夜」へむかって\』(二〇〇三年、朝文社)。 論文に「賢治の「宇宙意志」をめぐって\成瀬仁蔵・タゴール・宮沢トシ」(一九八八年『國文目白』第二八号)、「『土神と狐』の修羅性\土の意味をめぐって\」(一九九四年『宮沢賢治研究Annual Vol.4』)、「「銀河鉄道の夜」とタイタニック号事件をめぐって」(一九九九年『論攷宮沢賢治』第二号)、「宮沢賢治 死後世界への意識の変遷―妹トシのメーテルリンク受容との関わりから―」(二〇〇〇年『ノートルダム清心女子大学日本語日本文学編紀要』第二十四巻第一号)、「童話「セロ弾きのゴーシュ」の音響空間―「箱みたいなセロ」「孔のあいたセロ」―」(二〇〇三年『宮沢賢治研究 Annual Vol.13』)など。 □山根 知子氏の業績について 三部よりなる『宮沢賢治 妹トシの拓いた道』だが、その「第一部 トシの生涯と信仰」「第二部 トシから賢治へ」を中心として、妹トシの生涯と思想形成の姿を、日本女子大学関係資料をはじめとする同時代の客観的資料に基づいて探究し、兄妹の間にあった相互交流の実態を明らかにするために必要な新しい知見をもたらした。 【宮沢賢治賞奨励賞】■松澤 和宏(まつざわ・かずひろ)氏 一九五三年九月六日、東京都生、一九七八年早稲田大学文学部卒業、一九八八年三月筑波大学文芸言語研究科博士課程満期退学。一九八八年パリ第八大学にて文学博士号取得。大東文化大学文学部助教授を経て、現在名古屋大学大学院文学研究科教授。 著書『ギュスターヴ・フローベール「感情教育」草稿の生成批評研究序説\恋愛・金銭・言葉』(一九九三年、フランス図書)により渋沢・クローデル賞本賞受賞。『生成論の探究\テクスト・草稿・エクリチュール』(二〇〇三年、名古屋大学出版会)により、名古屋大学大学院文学研究科にて博士(文学)を取得。 フランス国立科学研究センター近代テクスト・草稿研究所フローベール班日本側通信員。 □松澤 和宏氏の業績について 「生成論」的研究の理論の構築と実践を目指した、我が国における最初の本格的試みと評すべき仕事だが、その重要な礎石の一つに宮沢賢治の草稿が据えられた。生成論の本質を語る中で賢治草稿に触れつつ、生成論的研究の実践として「銀河鉄道の夜」の草稿に徹底的に取り組み、賢治の表現行為の本質に対する新たな探究の可能性を示した。 【イーハトーブ賞】■中村 哲(なかむら・てつ)氏 一九四六年九月一五日福岡県福岡市生。一九七三年九州大学医学部神経科を卒業後、医局に残らず国立肥前診療所、大牟田労災病院に勤務、当時三池炭鉱爆発による脳障害患者に対する研修医として神経内科の勉強を積む。一九八四年四月日本キリスト海外医療協会の派遣により、パキスタン北西辺境州の州都ペシャワール・ミッション病院赴任。ソ連侵攻によって起こったアフガン戦争が激化し、カイバル峠を主としてペシャワールへ流入してくる難民のためにハンセン病をはじめ、マラリヤその他の感染症を含めた治療に当たるとともに、アフガニスタン側でも診療所を設営した。一九九八年、拠点病院としてペシャワール会医療サービス(PMS)病院を建設。この基地病院とアフガニスタン東部山岳地帯の三カ所(ワマ、ダエル・ピーチ、ダエル・ヌール)の診療所とパキスタン北部ラシュトの診療所で、日本人ワーカー五名とともに現地スタッフ(パキスタン人、アフガン人)一二〇名は、総合医療を低料金で提供し、年間診療数は二十万に達している。また、二〇〇〇年七月からアフガニスタンをおそった旱魃被災地域での水源の確保(井戸、地下水路)再生事業に医療活動の一環として取り組み、二〇〇二年からアフガニスタン復興プロジェクトとして「緑の大地計画」を開始、二〇〇三年三月からは井戸掘りだけでなく、農業用水確保のための灌漑用水路の建設を始めた。 これらの活動に対して、一九八八年外務大臣賞(外務省)、一九九六年厚生大臣賞(厚生省)、二〇〇二年日本ジャーナリスト会議賞(日本ジャーナリスト会議)等多数受賞。 著書に『ペシャワールにて』(一九九〇年、石風社)、『ダラエ ヌールへの道』(一九九四年、石風社)、『アフガニスタンの診療所から』(一九九四年、筑摩書房)、『医は国境を越えて』(一九九九年、石風社)、『医者井戸を掘る』(二〇〇一年、石風社)、『中村哲さん講演録 平和の井戸を掘る』(二〇〇二年、ピースウォーク京都)、『ほんとうのアフガニスタン』(二〇〇二年、光文社)、『辺境で診る 辺境から見る』(二〇〇三年、石風社)、『医者よ、信念はいらない、まず命を救え』(二〇〇三年、羊土社)、『空爆と「復興」』(二〇〇四年、石風社)など。 □中村 哲氏の業績について 中村哲氏は、一九四八年にパキスタン北西辺境州の州都ペシャワールに赴任、以来ハンセン病のコントロール計画を柱にした医療活動に従事。八六年にはアフガン難民のために医療チームを設立。長期的展望に立ったアフガニスタン無医地区での診療活動を実践し、アフガン東部山岳地帯に三つの診療所を設立。九八年に基地病院をペシャワールに建設。二〇〇一年にはアフガニスタンの首都カブールに五カ所の臨時診療所を設け、主に貧困地区の患者の無料診療を行う一方、空爆下の国内避難民への緊急食糧配給の実施、大旱魃に見舞われた民衆生活の再建と安全確保のために、井戸と水路の掘削と復旧にも従事する。 現地からのレポートを中心とした著作も多数あり、激動する国際情勢や自然災害の下にあってなお揺るぎなく実践活動を重ねるにあたっての、世界と人間性に対する洞察に満ちた認識と知恵が示されており、民衆とともにあるその姿と滲みでるヒューモアには、宮沢賢治の精神に通うものがある。 【イーハトーブ賞】■畠山 重篤(はたけやま しげあつ)氏 一九四三年十月七日中国上海生。宮城県立気仙沼水産高校卒業後、家業の牡蠣養殖業を継ぐ。 海の環境を守るには、海に注ぐ川、さらに、その上流の森の大切さに気づき、「牡蠣の森を慕う会」を結成。 一九九四年より、岩手県室根村に漁民による広葉樹の植林活動、「森は海の恋人」運動を進めている。 二〇〇四年まで、広葉樹五十種、三万本の植林を行う。 同時に、環境教育の手助けとして、内外の子供たちを海に招き、体験学習を続けている。 今まで招いた子供は、六千人に達した。 「森は海の恋人」運動は、小・中学校の教科書にも取り上げられ、人間教育の重要な一翼を担っている。 現在、牡蠣の森を慕う会代表。(有)水山養殖場場長。 「森は海の恋人」運動において、一九九四年朝日森林文化賞、一九九九年「みどりの日」自然環境功労者国務大臣環境庁長官表彰、二〇〇三年緑化推進運動功労者内閣総理大臣表彰等多数受賞。 著書に『森は海の恋人』(一九九四年、北斗出版)、『リアスの海辺から』(一九九九年、文藝春秋)『漁師さんの森づくり』(二〇〇〇年、講談社、第五十回小学館児童出版文化賞)『日本〈汽水〉紀行』(二〇〇三年、文藝春秋、第五二回日本エッセイスト・クラブ賞)など。 □畠山 重篤氏の業績について 畠山氏は、三陸リアスの海辺、唐桑半島の閑静な入り江でカキ・ホタテの養殖業を営む漁師だ。少年時代の海は豊かそのもので、多くの生物が生き生きしていた。ところが一九六四年にノリに異常が生じ、やがてカキも打撃を受けるにいたる。それをきっかけに、海の汚れは川や森と無縁でないことを知る。一九八四年にはフランスのブルターニュ地方、さらにスペインのガリシア地方のカキ産地を見学し、海と森が密接な関係にあることを目撃する。これを契機として、気仙沼湾に注ぐ大川の上流、室根山麓の広葉樹植林運動を発案、「森は海の恋人」を標語として掲げ、「牡蠣の森を慕う会」の代表となる。海・川・森の呼応を夢見る発想には、賢治童話の場面を想起させるロマンがある。さらに海辺に子どもたちを招いて体験学習も行うようになり、今では六〇〇〇人の参加を数えるまでになった。これらの実践活動は、すでにすぐれたエッセイ集として結晶している。もし賢治が海の人だったなら、共通の発想を見せ、川へ、森へ、と世界を広げていったにちがいない。
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イーハトーブ
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「グスコーブドリの伝記」より 宮城 一男苦闘の連日だったとはいえ、六年間も働いた、なつかしい沼ばたけと主人に別れを告げ、ブドリは停車場に急ぎます。汽車に乗ってイーハトーブ市に行き、本で知ったクーボー大博士の学校を訪ねることを心に決めていたからです。クーボー大博士とは、賢治の盛岡高等農林学校時代の恩師、関豊太郎博士の化身でしょうか。 学校では、ちょうどその日は、クーボー大博士の講義が終了し、テストが行われていました。学生たちはその成績如何にによって就職先が決定されるのです。大博士はブドリが気に入り、特別にテストを受けさせ、名刺に仕事の紹介状も書いてくれました。その紹介先は、イーハトーブ火山局技師ペンネンナームとありました。 物語はいよいよ後半部を迎えたのです。 イーハトーブ火山局では、ペンネンナーム老技師がブドリの到着を待っていました。 「さつきクーボー博士から電話があったのでお待ちしてゐました。まあこれから、ここで仕事をしながらしっかり勉強してごらんなさい。ここの仕事は、去年はじまったばかりですが、じつに責任のあるもので、それに半分はいつ噴火するかわからない火山の上で仕事するものなのです。それに火山の癖といふものは、なかなか学問でわかることではないのです。われわれはこれからよほどしつかりやらなければならんのです。‥‥‥」 ――「火山の癖といふものは、なかなか学問でわかることではないのです」といふ言葉に含蓄があります。たしかに、火山には、いろいろな癖があります。そのおい立ちも性格もちがうからです。しかも、そういった火山の個性は、机上の学問だけでは決して見つけ出すことはできません。長い地道な、現場における実践的な研究を継続してゆくことが、火山を知る唯一の道だ―\とペンネンナーム老技師はブドリにさとしたのです。賢治の学問への姿勢の一端をかいまみるおもいです。 さて、翌朝、ブドリは、ペンネンナーム老技師の案内で、火山局の建物のなかを見学してまわることになります。 その建物のなかのすべての器械はみんなイーハトーブ中の三百幾つかの活火山や休火山に続いてゐて、それらの火山の煙や灰を噴いたり、溶岩をながしたりしてゐるやうすは勿論、みかけはじつとしてゐる古い火山でも、その中の溶岩や瓦斯のもやうから、山の形の変わりやうまで、みんな数字になつたり図になつたりして、あらわれて来るのでした。そして烈しい変化のある度に、模型はみんな別々の音で鳴るのでした。 ―\日本国中の火山と線がつながっていて、それぞれの火山の刻々の変化が伝わってくる装置、しかも変化のたびごとに、別々の音が鳴るという仕掛け――なんというすばらしい設備でしょう。 ブドリは、こうしてイーハトーブ火山局につとめ、火山の観測に明けくれる日々を送ります。またたく間に二年の歳月が流れました。ある日、サンムトリという海岸にある火山が、火山局の装置に、異常をつたえてきました。 「あゝこれはもう噴火が近い。今朝の地震が刺激したのだ。この山の北十キロのところにはサンムトリの市がある。今度爆発すれば、多分山は三分の一、北側をはねとばして、牛や卓子ぐらゐの岩は熱い灰や瓦斯といつしよに、どしどしサンムトリ市に落ちてくる。どうでも今のうちにこの海に向いた方へボーリングを入れて傷口をこさえて、瓦斯を抜くか溶岩を出させるかしなければならない。今すぐ二人で見に行かう。」 ―\賢治の科学の夢は、いっそう大きくふくらみます。単に、火山の変動を監視するにとどまらず、いざ、噴火が近いことが察知できたら、こんどは、その噴火による災害を防ぐための手だてを講じようというのですから。 ブドリとペンネンナーム技師と、そして応援にかけつけたクーボー大博士は、火山工作隊を指導して作業にとりかかります。作業というのは、サンムトリ火山の山腹の「やわらかな火山灰と火山礫」の層をえらんで、ボーリングをすることです。そして、数日間の不眠不休の努力の結果、そのボーリングと人口噴火の装置の完成し、ボタンが押されました。 俄にサンムトリの左の裾がぐらぐらつとまつ黒なけむりがぱつと立つたと思ふとまつすぐに天にのぼつて行つて、おかしなきのこの形になり、その足もとから黄金色の溶岩がきらきら流れ出して、見るまにずうつと扇形にひろがりながら海へ入りました。 ―\こうして、実験はみごとに成功し、サンムトリ市は、噴火の災害から救われたのです。自然災害の防止、とりわけ、農作物への被害防止に心をくだいていた賢治の願いが、にじみでているようなくだりといえるでしょう。 さて、それからさらに、数年の月日がながれ、立派な火山技師に成長したブドリの生活は多忙をきわめました。火山から火山へと歩きまわって、観測や工作に明けくれる日々でした。火山の仕事ばかりではなく、クーボー大博士の指導のもとに、二百カ所の潮汐発電所の建設にあたったり、窒素肥料を雨とともに降らせる実験を試みたりしました。 ブドリが二十七歳になった年、イーハトーブはひどい寒冷気候にみまわれました。思案の末に、ブドリは、こんな相談を、クーボー大博士にもちかけます。 「先生、気層のなかに炭酸瓦斯が増えて来れば暖かくなるのですか。」 「それはなるだらう。地球ができてからいままでの気温は、大抵空気中の炭酸瓦斯の量できまつてゐたと云はれる位だからね。」 「カルボナード火山島が、いま爆発したら、この気候を変へる位の炭酸瓦斯を噴くでせうか。」 「それは僕も計算した。あれがいま爆発すれば、瓦斯はすぐ大循環の上層の風にまじつて地球ぜんたいを包むだらう。そして下層の空気や地表からの熱の放散を防ぎ、地球全体を平均で五度位温にするだらうと思ふ。」 「先生あれを今すぐ噴かせられないでせうか。」 「それはできるだらう。けれども、その仕事にいつたもののうち、最後の一人はどうしても遁げられないのでね。」 「先生、私にそれをやらしてください。どうか先生からペンネン先生へお許しの出るやうお詞を下さい。」 \―″大循環″とは、極と赤道、南半球と北半球、海洋と大陸などの間の大気の大規模な循環現象のことです。カルボナード火山島を人口爆発させ、それによって発生する炭酸ガスを、その大循環にのせて、地球の各地にはこび、平均気温をあげようという発想なのです。 それから三日後、火山局の船は、カルボナード島にわたりました。そして島に人口爆発の装置を整えると、ブドリは、みんなを船で 帰して、一人、島にのこります。そして、翌日、イーハトーブの村人たちは、「青空が緑色ににごり、日や月があかがね色になった」のを遠望しました。噴火はみごとに成功したのです。しかし、もとより、ブドリの肉体は、その噴火と同時に粉々に砕け散ったことでしょう。それから数日後、気温はどんどん上昇しはじめ、イーハトーブの作物は、平年作でその秋を迎えることができたのです。 さて、この作品についてある文学者は賢治の農村活動に奉仕した自伝的要素にみちたものだといい、ある文学者は、きわめて宗教的感覚の強いものだといい、ある文学者は、社会主義的傾向を有する作品だと評し、そして、ある文学者は、やや遊びに近い手法で、文学とはいえないと批判しました。 そういった文学的評価の是非は、私にはわかりませんが、少なくとも科学的立場からこの作品をみるならば、 (1)″火山噴火の予知″という、現代的テーマがもりこまれていること、(2)自然改造という問題にアプローチしていること、(3)″科学の夢″をフルに追っていること、(4)「農民に役立つ科学を」というねがいが込められていること―\など、賢治のすぐれた科学者としての姿勢がにじみでている作品だと思わざるをえません。 (会員 秋田県大館市)
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ガラスのマント 加藤 三朗二〇〇三年、上野の東京国立博物館で開催された「アレクサンドロス大王と東西文明の交流展」はギリシャ文明の各文明への影響を克明に辿って画期的だった。アレクサンドロス大王の東征によるヘレニズムの影響は日本文明に迄及んでいたらしい。 日本文明に及ぼした美術上の影響をいくつか挙げていたが、その中で印象的だったのは、俵屋宗達や尾形光琳、酒井抱一などの琳派によって描かれる風神雷神図の風神の姿に与えた影響である。風神は風袋を両手で背負っているがこの風袋がギリシャ美術の影響だという。敦煌の壁画ではまだ風袋を背負っているがガンダーラで出土したクシャーン朝時代(二〜三世紀)の風神ウァドーはショールを両手で背負っている。時代を遡ればこの風神ウァドーはマントを被り、有翼のマント姿で表現されたという。有翼のマント姿はギリシャ文明の北風ボレアス像そのものであるとのこと。何気なく見ていたあの風神雷神図にも遙かなギリシャ文明の影響があったとは。琳派の画家たちもびっくりするに違いない。 そう言えば、風の又三郎もガラスのマントを被っている。ガラスの透明感はいかにも風にふさわしいと思っていたがマントも風と深い関係があったのだ。西域に関心のあった賢治のことだからそのことを知っていたのかもしれない。その証ではないだろうが、「風野又三郎」にはマントが頻出している。賢治にまたもやびっくりさせられた。 (会員 神奈川県泰野市) 「挽歌」(亡き恩師への手紙) 鹿野 謙二「けふのうちに とほくへいってしまふわたくしのいもうとよ」。 二十五年前に妹さんを亡くされ、授業で「永訣の朝」を読まれた藤山先生―。銀河鉄道で天上に着かれましたか。忘れられない賢治以外にも、江南の春、源氏物語、帰去来、平家物語、中原中也、臥薪嘗胆、四面楚歌…。今なお鮮やかに心に残る授業。先生から教わったことは、文学の素晴らしさ・楽しさだけでなく、「頭を上げ、堂々と生きる」人生の姿勢そのものでした。 修猷を卒業してからも 大学を卒業してからも道に迷い苦しむ私の相談に乗ってくださり、あるときは叱咤、あるときは励まされ。深き淵の中であえぐ私への「君の挑戦は我が家で話題になっている。頑張れ」との言葉が、どれだけ私を勇気付けたことか。 先生、私は大学四年で初めてたずねて以来、賢治の故郷・花巻を何度も旅しました。花巻農業に保存されている、賢治が清貧の生活を送り、貧困と冷害に苦しむ農村の人々を励まし続けた羅須地人協会跡地、高村光太郎の筆による詩碑、岩手山、早池峰山、盛岡の「春と修羅」出版社跡地。生誕百年の折には愛する神山征二郎監督映画を観、とし子病没の場面で賢治と先生が重なり泣きました。 病(いたつき)のゆえにも朽ちん いのちなり 東北の過酷な現実の中で、生徒を、農村の人々を想い、とし子をなくした肺病と闘って ついに倒れた賢治の辞世の一つです。この年、昭和八年、未曾有の大豊作。 先生は再び教壇に立つことを念じておられたそうですね。今思うのは、先生は賢治のように命を削って私たちに、また後に続く者たちに、どれだけ多くのことを教えられたかということです。 「本当に行きたいけど、学校をかわったばかりで授業もあるので行けんなあ」。十一年前、結婚式にお招きした折は残念でしたが反面で「先生らしいなあ」と感心。二次会へ駆けつけられ「手を取り合って生きていってほしい」と語ってくださいましたね。 悲運ながら妻の持病は進行。八年前に「なめとこ山の熊」を思わせる悲劇で急逝した敬愛する写真家・星野道夫さん(アラスカの撮影に持参する本は、賢治の作品だった由)の人生のこと、病妻のことを書いた手紙をお送りしたら、先生は「天の巡り合わせだ。くれぐれも奥さんを大事に」と言われましたね。 その後も案じて下さった先生…。昨年の賀状でも、ご心配を綴られていました。その先生が先に逝かれるなんて…。先生、妻は病と闘い、不自由な体と闘い、生きています。八年前の同窓会でも先生にお会いしましたね。二人「手を取り合って」生きています。 私は十一年前のお言葉を決して忘れません。そして教えられたように背筋を伸ばし、頭を上げて生きていきます。友や家族を裏切らず、何より自分を裏切らず。「これでいいのか。賢治や亡くなった人に恥ずかしくないのか」と問い続けながら。 銀河鉄道に乗り込まれ、天上を旅されたであろう藤山先生。妹さんにはお会いされたでしょうか。先生には及びもつきませんが私も懸命に生き抜き、いつか銀河鉄道に乗って再び先生にお会いし、賢治や星野さんのことを語り合う日を楽しみにしております。 そのときまで、さようなら、藤山先生。天上で穏やかな日々を送られることを「わたくしのすべてのさいはひをかけてねがひ」ます。 (会員 埼玉県大井町)
賢治の小学校時代
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| テクスト・クローズアップ(26) |
又三郎は一郎に別れを告げに来た?(「風(の)又三郎」第63葉左半分) 天沢 退二郎
物語は最終日、「九月十二日、第十二日」の草稿は、あの「どっどどどどうど どどうど どどう」ではじまる風の歌、「先頃又三郎から聞いたばかりのあの歌を一郎は夢の中で又きいたのです」という、黒インクによる書き下ろしによる第61葉ではじまり、すぐ続けて、「風野又三郎」松田筆写稿に黒インク手入れを施して利用した第62葉、63葉では、「びっくりして跳ね起き」た一郎が、外へ出て、台風が次々に北をめざして馳せて行くのに全身で感応して胸をとどろかせる、圧倒的シーンが描かれる。ところでその第63葉、鉛筆書きの第一形態は、「風野又三郎」松田稿であって、本物の風妖又三郎が、一郎に別れの言葉を投げるところ、最終的には黒インクの×印でバッサリ削除されるのだが、つとに校本全集第十巻校異、そして新校本全集第十一巻校異編で明細が記録されているように、この全面的削除に先立ち、黒インク手入れは、一郎が思わず「ドッドドドドウ‥‥‥」と叫んだのにあたかも呼応して 〔‥‥‥〕うしろの遠くの風の中からも気のせいか「ドッドドドドウド、ドドウドドドウ、ドッドドドドウドドドウドドドドウ。」といふやうな声がしました。とある。転校生高田三郎の物語を展開しているはずの黒インクは、少なくとも一旦、最終日に又三郎が一郎に別れを告げに来たと考えていたのであろうか?(この問題は、今年八月末の夏季特設セミナー「風の又三郎の謎に迫る」第二回のシンポジウムで論議された) (会員 千葉県千葉市)
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ポラーノの広場 ―第八夜―
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穂別銀河鉄道の里づくり委員会賢治を「視る」 斉藤 征義賢治研究誌「四次元」を主宰した佐藤寛が、北海道の山奥の穂別という村を訪れたのは、一九五三年(昭和二十八年)の夏の終わる頃である。 詩人浅野晃に紹介されて、横山正明村長を知った。横山は宮沢賢治の詩や童話を多く読んでおり、上京のたびに仙寿院で開かれていた法華経の学習会をたずね、そこで「四次元」の会員たちと交流した。そのたびに横山から聞かされるのは、村の救済と振興の話であった。発電所をつくって、村に電気をともす、石炭や石灰岩の資源開発と水田づくり、売電によって無税の村にしたい、という理想と情熱に、佐藤は動かされた。 佐藤寛は岩手軽便鉄道の車掌や鳥谷ヶ崎駅の助役などを勤め、戦後は小菅刑務所教誨師、東京拘置所篤志面接委員をし、賢治の「まことの草の種蒔けり」の意を説き語ったことで知られる。その語りかけは「不惜身命、血みどろの努力を続け、即身成仏の心と不退転の没我的精神だった」といわれ、慈悲深いまなざしに「生きた菩薩」を見た、という死刑囚の記録もある。 「四次元」は、佐藤寛の困窮状態の中で続けられた。「金に縁がないので周囲に迷惑ばかりかけて申し訳ないが、これは私の命をかけての仕事であってみればやむをえない」。貧苦のなかで、賢治というひとりの詩人のための研究誌が、十九年間、二〇二号まで続けられたことは稀有といっていい。 その佐藤寛が横山正明について「まさに不惜身命の努力と言うべきか。計り知れない底力に頭が下がる」と、「四次元」後記に書く。 横山が「穂別TVA」と名付けた発電所建設は、一九五三年九月に着工、その安全祈願には、佐藤寛の紹介によって花巻市の仏彫師佐藤瑞圭に聖観音像を頼んだ。横山の村づくりは、村立病院や村立高校の開設、全国初めてのスクールバス実施など画期的なものであった。「教育と土木」を行政の基とした横山は、「文化のないところには橋をつくる発想も生まれない」といい、山間の貧しい村に理想郷を描いた。その取り組みは壮大果敢で、献身的であった。 しかし発電所工事は、手に負えぬ蛇紋岩地層の難工事となり、追加予算がふくれあがった。ようやく一九五七年に完成し、家々に電灯はついたが、膨大な財政負担と戦後の混乱の中で、ついに破綻する。すでに横山の身体はいくつもの病魔におかされていて、赤字に転落した村をふり返りつつ、村を出ていかなければならなかった。 「グスコーブドリの伝記」を愛読したという村長が、賢治の詩「発電所」から「詩への愛憎」に示されるように「さういう犠牲に値する巨匠はいったい何者ですか」と暗い山々へ叫び続けたであろうことを想像する。 この発電所計画の実現に、政財界とのつながりを通して支援したのが浅野晃である。一九四五年夏、浅野は公職追放の身を北海道苫小牧市の勇払に寄せた。親友の水野成夫や南喜一らが興した国策パルプ勇払工場(現日本製紙)の社宅に、家族をつれての流寓であった。「片方は海、片方は礦野、山はすべて遠く、どこにも眼をさえぎるものはない。夜には銀河が端から端まで見えた」。 この地で五年間をすごす。この五年間、浅野は死界へも接する苦悩と落胆に彷徨した。非合法共産党から獄中転向をし、おなじく獄中にいた最初の妻を失った。以後、極度に日本的な精神高揚を説いて国家主義と右傾化に組した、と評されたこの知識人にとって、拠るものすべてが敗れたのだった。「裏切者」「戦犯詩人」とよばれた。 苦しむ浅野を救ったのは、文化のめざめを志す苫小牧の青年たちが教えてくれた宮沢賢治の詩や童話と、村づくりにかける横山正明の悲壮な情熱であった。生きる決意として浅野は詩集『風死なず』を出す。次の詩集『光の中を歩む』は穂別町役場が発刊した。後にこれらの詩集から選んだ詩編によって詩集『寒色』を出し、読売文学賞を受賞する。海と礦野の茫々風景と、穂別の山あいとの風景とが、浅野を蘇生させた。東京へ戻るとき、浅野はこれらの風景のために一首残した。 峡にきて 夏の終わりの 蝉きけば すこやかにして人は生くべし 宮沢賢治は、この三人に何をさせようとしたのだろうか。賢治の詩や童話に接し、賢治の生き方を思い、そこに何かを発見し、賢治を受容していくことは、つらいことである。三人の足跡と業績に賢治の影響を探し、そこから賢治を想うことも、苦しい。微塵となった賢治が、ひそやかに三人の心の淵にとまったところから、その時の賢治の心を「視る」という試みをしてみたい。賢治を読むということは、そういうことかもしれない。 地域に広がる賢治のこころ
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| セミナー報告 |
天空からの贈りもの |
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