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宮沢賢治学会・会報第30号 | |
わたくしの片つ方のあたまは痛く (「「オホーツク挽歌」」) 表紙写真 撮影・大塚 常樹 |
第30号●ヤナギラン 2005年3月26日発行
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短歌からの出発賢治の文学活動 奥田 弘 作家、詩人等の文学上の出発は、一般的には、短歌もしくは和歌とされているが、本稿では、短歌と称して筆をすすめる。 多くの人が言及していることであるが、宮沢賢治の文学的活動の場合も、短歌をその出発点として考えるのがよいだろう。 その賢治の短歌については、童話、詩等のジャンルの作品論などほどには、あまり多く接することはない。その中では、もっとも早い時期の森荘己池の『宮沢賢治歌集』(日本創元社昭21 )および創元文庫改訂版の同名、(創元社昭27 )ついで、湯本喜作の『近代異色歌人像』(洋々社昭39 )が見られる。そのほか、それぞれの視点の異なる短歌論もあるが、ここでは特にふれない。 この森の『宮沢賢治歌集』は、歌集成立の経緯や短歌形式の解説に重点がおかれ、作品そのものの鑑賞や評価よりは、むしろ、若年の賢治の精神史的解明、伝記的記述に目がむけられている。 なお、この論旨とは別に、注目すべき点は、発刊当時、一部の既刊書をのぞき、未開拓に近かった賢治の短歌群を紹介したことと、「宮沢賢治集注」として、わずかながら語注を収録したことである。 この語注の中には、不明の語注や解説不充分の語もあるが、この語注をふくめ、後学の研究者によって、別途の刊行書によって、補正の筆が加えられたことをあげて、筆をとどめることにする。 しかし、森の語注の正否をふくめ、賢治像の背景の実像については探索の意向を保持しておくことが肝要であろう。 賢治の短歌を、その生活史から考えるうえで、日記的役割もあると指摘する論究がある。日記的役割とは、実生活の過不足ない事実の記録と考えてよいだろう。つまり、その時点における賢治の実像を示していると考えるのが妥当であろう。 先に、賢治の文学的出発は短歌であるとして、森の『宮沢賢治歌集』をあげたが、この歌集の冒頭と末尾の短歌を次にあげて、日記的役割からその時点の賢治の実像をたしかめたい。詞書をふくめ、原文のまま短歌を引用する。 明治四十二年四月十二日盛岡中学校寄宿舎に入る。父に伴はれたり。舎監室にて父大なる銀時計を出して、一時なりと呟けり。 短歌から出発した宮沢賢治の文学は、童話、詩ほかの膨大な作品群に生成発展してゆくが、賢治の実像も短歌に原点をおいていることは、これも妥当であると思う。 先年、没後の賢治像を追って、宮沢賢治生誕百年記念特別企画展として、多方面の詳細な資料、図録を掲載して賢治像の再現を求めた『拡がりゆく賢治宇宙 』(平成9 宮沢賢治イーハトーブ館)が刊行された。 この図録を契機にして賢治の実像について、その生活史からまた作品等を通じて、没後から現在まで、賢治の原稿とともに生きた宮沢清六氏の生涯を背景に、等身大の賢治の実像を求める作業が、宮沢賢治研究会によって進められていることも紹介したい。 最後に、従来の短歌論に、最近刊行した筆者編『宮沢賢治の短歌をよむ』(04 ・9 蒼丘書林)をあげて、短歌論に新たに加わる責めを果たすことにした。 これは、一九七〇年から七年間、二十九回にわたり、猪口弘之、小澤俊郎、須田浅一郎、高木栄一、續橋達雄と筆者の「六人会」が賢治短歌を一首一首解釈、批評し、續橋が筆録した「賢治ノート」を復元、復刻したものである。 (『新校本宮澤賢治全集』編纂委員)
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| 【報告】 |
第十五回定期大会 二〇〇四年度定期大会が、会員ほか二〇〇名の参加を得て、昨年九月二十二日と二十三日の二日間にわたって、花巻市のNAHANプラザ、宮沢賢治イーハトーブ館を会場に開催されました。十五回目の大会の様子をご報告いたします。 第十四回宮沢賢治賞・イーハトーブ賞贈呈式
前日二十一日は、終日の雨となり、七十二回忌賢治祭は四年ぶりに屋内で、初の南城小学校体育館での開催となりました。翌日は雨も上がり快晴の青空となり、午前十時から花巻市主催による第十四回宮沢賢治賞・イーハトーブ賞贈呈式が、おなじみとなったNAHANプラザにて開催されました。平日にもかかわらず、全国各地そして多くの市民の方もお祝いにかけつけ、会場は満席となりました。 今回は賢治賞の該当がなく、賢治賞奨励賞として、「『盛岡中学生宮沢賢治』において、中学生時代の短歌作品の背景を博捜し、賢治の事跡の多くを明瞭にし た功績」の小川達雄さんと、「『宮沢賢治妹トシの拓いた道』において、トシの生涯と思想形成の姿を探究し、新しい知見をもたらした功績」の山根知子さん、そして「『生成論の探究』において、「銀河鉄道の夜」の草稿に徹底的に取り組み、賢治の表現行為の本質への新たな探究の可能性を示した功績」の松澤和宏さん のお三人に贈られました。 また、イーハトーブ賞は「アフガニスタンでの診療活動や井戸・水路の掘削・復旧活動など、世界と人間性に対する深い洞察をもとに、民衆とともに持続的になしてきた実践」の中村哲さんと、「三陸リアスの海を発端に、「森は海の恋人」の標語を掲げて森へと視野を広げ、かつ次世代の子どもたちを迎え入れて体験学習を積み重ねてきた実践」の畠山重篤さんのお二人に贈られ、イーハトーブ賞奨励賞の該当はありませんでした。なお、中村哲さんはアフガニスタンでの援助活動の重要局面と重なったため、代理としてペシャワール会事務局の福元満治さんがご出席されました。 花巻市長から賞が贈られ、各受賞者からのスピーチ、その後、本賞受賞者である中村哲さんのメッセージ紹介と、畠山重篤さんによる記念講演が行われ、続いて花巻市立南城小学校四年生の皆さん八十名による合唱にて閉幕となりました。本賞お二人の受賞の言葉は本号に掲載しているとともに、受賞者の皆さんの業績などにつきましては、会報29 号にて紹介しておりますのでご参照ください。 定期総会午後一時半から定期総会が行われました。出席会員の中から花巻市の八重樫新治さんを議長に選出した後、議事に入り、まず、「自立した会の運営に向け、より広く多くの会員からの資金援助を募るため」に提案された賛助会費の規約改正(施行は二○○五年度から)は、原案どおり可決承認。続いて二○○三年度事業報告及び収支決算では、決算における「補正予算」の扱いについて質疑及び意見がかわされ、、第1回大会以来承認されてきた事項ではあるものの規約上の規定がないことから、来年度総会までにその扱いについて(規約改正を含め)理事会にて検討をすすめていくことを条件に、原案どおり承認されました。続いての二○○四年度事業計画及び収支予算については、原案どおり可決され、議案の最後の役員改選については、理事会より提案された改選案について審議され、満場一致で可決承認されました。また、欠席等で発言できない方のために全会員に配付した「学会の運営・事業についてのアンケート」では、後日五名の方から貴重な意見が寄せられ、今後の新理事会等の運営に反映していくこととなりました。 本号にて、新代表理事天沢退二郎さんの挨拶と、新役員の構成そして新しく役員に就任された方々のプロフィールを掲載しております。 賢治研究リレー講演恒例のリレー講演は、昨年から持ち時間一人十五分となり、宮沢賢治賞奨励賞の三人を含む四人の方からそれぞれの賢治をテーマに密度の濃いお話をしていただきました。講演の要旨は本号に掲載しております。 イーハトーブ・サロン│私と賢治│
参加者が気軽に所感を述べ合う本コーナーでは、参加会員の中から六名の方々が登壇され、今回は時間がおしているため、やむなく一人三分に短縮させていただきました。賢治や賢治作品について語り尽くせぬことを超短時間にお話しいただいた皆様、本当にありがとうございました。今年は記念品として、ガイドブック『賢治のイーハトーブ花巻』二冊が贈呈されました。登壇いただいた方は次の方々です。入沢康夫さん(神奈川県)、平野利幸さん(岩手県)、泉澤竹男さん(岩手県)、森岡京子さん(栃木県)、宇佐美怜子さん(栃木県)、佐藤成さん(宮城県)。 会員交流・懇親会初日の日程の最後となる会員交流・懇親会は、はじめに天沢新代表理事の挨拶があり、原イーハトーブ館長の乾杯で始まり、宮沢賢治賞・イーハトーブ賞受賞の各皆様から改めてのコメント、そして花巻市長の挨拶と続きました。中野由貴さんによる、お楽しみの今回のイーハトーブ料理メニューには、南部煎餅アレンジとそば粉利用の二種の「白い小麦のパンケーキ」、畠山重篤さんの現地直産食材「帆立貝入りスヰトン」から、昨日拾ってきた黒坂森の栗までメニュー盛りだくさん、飲み物では「やまなし酒」がふるまわれ、桜田恒夫さん提供の、今ではなかなか見つからない「イワテヤマナシ」現物が添えられておりました。 参加者スピーチでは、今年も「栃だんご」を提供いただいた御船道子さん(鳥取県)に始まり、米山謡子さん(東京)藤澤めぐみさん(京都)のオカリナ、石島崇男さん(栃木県)のフルート演奏、そして入谷寿一さん(北海道)、渡辺宏さん(和歌山)と、時間はまたたくまに過ぎていきました。 最後は照井教育長による閉会の言葉の後、参加者全員が大きな輪になって、花巻農業高校の佐藤司さんのリードにより「精神歌」の合唱にて幕を閉じました。 研究発表
二日目もすっかり晴れ渡り、会場をイーハトーブ館に移しての研究発表です。午前十時から一人三十分の持ち時間で四人の発表があり、十二時に終了いたしました。この研究発表の記録集を頒布しておりますので、ご希望の方は事務局までお申し込みください(一部五百円、送料別)。 ポランの広場大会のフィナーレは「ポランの広場」。今回は、歌手の竹田恵子さんと作曲家・林光さんのピアノ演奏による「宮沢賢治の歌コンサート」。おなじみの「ポラーノの広場のうた」に始まり、今回初公開(二度と再現できない)となった「語りと即興演奏による童話「烏の北斗七星」」、そして後半の林光作曲による賢治詩の歌たちへと続き、とても洒落て素敵な時間が会場全体を満たし観客を魅了しておりました。
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第十四回
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イーハトーブ受賞のことば>中村哲
先ず授賞式に出席できなかったことを深くお詫び申し上げます。現在アフガニスタンでは未曾有の旱魃が更に進行し、数百万人が難民化していると言われています。この旱魃で数え切れぬ人々が飢餓に直面していました。実際、多くの子どもたちが私の目前で命を落としました。 しかし、四年前の「アフガン空爆」以後、華々しい「復興支援」の掛け声にもかかわらず、徒に政治情勢や国際支援のみが話題となり、人々の本当の困窮はついに国際世論として伝わらなかったのです。そこで私たちとしては、国民の八割以上が農民であるアフガニスタンで、何とか現地の主食である小麦の植付け前に、多くの土地を潤そうと、一年前から用水路建設に着工、今この挨拶文を現場で書いています。小生が居ないと進まぬことが余りに多く、どうしてもここを離れられません。おそらく「日照りの夏はおろおろ歩き」というくだりをご記憶の方ならばご理解いただけるかと、非礼を省みず、書面で受賞の辞をお送りいたします。 小生が特別にこの賞を光栄に思うのには訳があります。 この土地で「なぜ二十年も働いてきたのか。その原動力は何か」と、しばしば人に尋ねられます。人類愛というのも面映ゆいし、道楽だと呼ぶには余りにも露悪的だし、自分にさしたる信念や宗教的信仰がある訳でもありません。良く分からないのです。でも返答に窮したときに思い出すのは、「セロ弾きのゴーシュ」の話です。セロの練習という、自分のやりたいことがあるのに、次々と動物たちが現れて邪魔をする。仕方なく相手しているうちに、とうとう演奏会の日になってしまう。てっきり楽長に叱られると思ったら、意外にも賞賛を受ける。 私の過去二十年も同様でした。決して自らの信念を貫いたのではありません。専門医として腕を磨いたり、好きな昆虫観察や登山を続けたり、日本でやりたいことが沢山ありました。それに現地に赴く機縁からして、登山や虫などへの興味でした。 幾年か過ぎ、様々な困難─日本では想像できぬ対立、異なる文化や風習、身の危険、時には日本側の無理解に遭遇し、幾度か現地を引き上げることを考えぬでもありませんでした。でも自分なきあと、目前のハンセン病患者や、旱魃にあえぐ人々はどうなるのか、という現実をつきつけられると、どうしても去ることが出来ないのです。無論、なす術が全くなければ別ですが、多少の打つ手が残されておれば、まるで生乾きの雑巾でも絞るように対処せざるを得ず、月日が流れていきました。自分の強さではなく、気弱さによってこそ、現地事業が拡大継続しているというのが真相であります。 よくよく考えれば、どこに居ても、思い通りに事が運ぶ人生はありません。予期せぬことが多く、「こんな筈ではなかった」と思うことの方が普通です。賢治の描くゴーシュは、欠点や美点、醜さや気高さを併せ持つ普通の人が、いかに与えられた時間を生き抜くか、示唆に富んでいます。遭遇する全ての状況が古くさい言い回しをすれば─天から人への問いかけである。それに対する応答の連続が、即ち私たちの人生そのものである。その中で、これだけは人として最低限守るべきものは何か。伝えてくれるような気がします。それゆえ、ゴーシュの姿が自分と重なって仕方ありません。 私たちは、現地活動を決して流行りの「国際協力」だとは思っていません。地域協力とでも呼ぶ方が近いでしょう。天下国家を論ずるより、目前の状況に人としていかに応ずるかが関心事です。 世には偉業をなした人、才に長けた人はあまたおります。自分ごとき者が賞賛の的になるなら、他にも‥‥と心底思います。しかし、この思いも「イーハトーブ」の世界を心に刻んだ者なら、「この中で、馬鹿で、まるでなってなくて、頭のつぶれたような奴が一番偉いんだ(どんぐりと山猫)」という言葉に慰められ、一人の普通の日本人として、素直に受賞を喜ぶものであります。 どうもありがとうございました。 詩心を内在させて科学の眼を拓く>畠山重篤
私と賢治作品との出会いは小学校三年生の時でした。 夏休みになりますと浜の漁師は「しお(塩)っけを抜きさ温泉さいぐが」と子供たちを連れて湯治に行くのです。岩手県境に位置する気仙沼湾の漁師は主に花巻温泉郷に出かけるのでした。 私が小学生の頃は、志戸平温泉自炊部が我が家の湯治場でした。 家から巡航船で気仙沼まで行き、国鉄大船渡線、東北本線と乗り継いで花巻駅に着きます。 花巻から志戸平までは軽便鉄道で行くのです。その待ち時間の間に、父は駅前の小さな本屋さんに出かけ、「風の又三郎」という絵本を買ってくれました。 今でも思い出しますが、表紙が黒を基調にした本でなんとなく怖い感じがしました。 志戸平温泉の前には清流豊沢川がザァーザァー音を立てて流れていて、魚が沢山釣れました。 晴れている日は、川遊びに夢中です。雨の日、川遊びができないので、買ってもらった黒い本を父に読んでもらいました。 ドッドドドドウド、ドドウドドドウ。 今でも決して忘れることのできない物語の出出しです。花巻には宮沢賢治というすごい人がいたことを知りました。 以後成長するに従って殆どの作品は読みました。「雨ニモマケズ」はもちろん精神的な支えです。 気仙沼水産高校を卒業すると、父の跡を継いで家業の牡蠣の養殖の仕事につきました。 一家を支える大黒柱として、海を相手にがむしゃらに働く日々が続きました。しばらく詩の心は忘れていました。 気がついてみると、青い海は赤潮にまみれた汚い海になっていました。牡蠣の生長も悪くなり、白いはずの牡蠣の身が、赤くなるような辛い時代が続いたのです。 家庭廃水、工場廃水、農薬、荒れた森林、沿岸の海の汚れは、全て人間の側に責任があります。牡蠣の餌は、植物プランクトンでありその発生に、森林の腐葉土を通ってきた川の水が大切なことも分かってきました。 青い沿岸の海を取り戻すには、川の流域に住んでいる人々の自然に対する思いやりの心と上流の森の復活が急務でした。 そこで、漁師の仲間と相談し、気仙沼湾に注ぐ大川上流の室根山に、ブナやナラの森を造る運動を始めたのです。何か事を起こす時には仲間と心を一つにして取りかかることが重要です。スローガンが必要でした。 その時、気仙沼湾の中流域に暮らしている熊谷龍子さんという歌人と出会いました。そして、言葉の大切さに改めて目覚めたのです。 森と海とのつながりを龍子さんは次のように詠ってくれたのです。 森は海を海は森を恋いながら悠久よりの愛紡ぎゆく やがてこの歌の中から、森は海の恋人というフレーズが生まれてきたのです。 この短いフレーズによって人々の心の中にどれだけの癒しと希望が与えられたか計り知ることはできません。 山に木を植えると同時に、私たちは川の流域に住む子供たちを海に招き体験学習を始めました。言わば子供たちの心に一本一本緑の苗を植えていったのです。もう六千人の子供たちが海を訪れています。 詩心を内在させて科学の眼を拓かせる。これが私たちのモットーです。 この度、私たちの活動が宮沢賢治イーハトーブ賞を受賞することができました。 「もし賢治が海の人だったら、共通の発想を見せ、川へ森へ、世界を広げていったにちがいない。」こんな素晴らしい受賞理由はどこを探しても見当たりません。 海の賢治になったつもりでこれからも詩心を忘れずに活動を続けてゆくつもりです。
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第15 回
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サハリン「賢治挽歌行」への旅 吉見正信
このたび、「サハリン平和の船」(主催・北海道・極東交流事業実行委員会)に参加し、八月一日午前十時に稚内を出航して五時間半ののち、宗谷海峡の彼方へ一直線にコルサコフ(大泊)へと到着してからの四泊五日、《宮沢賢治紀行》の愉しい旅をして参りました。その土産話としての報告をいたします。 斉藤征義さんら北海道勢と岩手勢とで二十名による一団であります。 岩手では二回にわたる事前学習の講師役の私の提案によって、《宮沢賢治「オホーツク挽歌行」へのたどり》のテーマのもと、作品舞台において、各自それぞれに、「ランドスケープイマージョン」(風景に溶けこむ)の感慨を深め持ち帰ってくるレジメ・関係作品資料も配布しての訪れでした。 往路の船中での、小原麗子さんによる「永訣の朝」、森三紗さんによる「オホーツク挽歌」の詩の朗読は、オホーツク海からの風や香りや船の揺れの中で聞く、最高の感激でした。 コルサコフから貸切バスで州都のユジノサハリンスク(豊原)のホテルに到る沿道からは、やはりロシアに来たという実感を覚え、刻々と視野に入る風景の中に、賢治はどうだったか‥‥‥の思いがしきりとつのりました。 八月二日は、ユジノサハリンスク駅前の宿舎である《ホテル・ルイパク》を発ち、鉄道でドーリンクス(落合)まで行きました。 約一時間程の旧樺太鉄道の沿線からは、「鈴谷平原」の賢治風景が展開し、いよいよランドスケープイマジネーションに没入した実感でした。 ドーリンクスの閑散とした市街地をバスで一巡したが、通訳の金栄子さん(戦後も残留して今日に至っている朝鮮人)の母校の小学校跡に隣接した第一小学校跡の藪中には、樺太時代の奉安殿の残骸が放置されていたり、サハリンの至るところで、すっかりロシア領として再建しきっていない光景がしきりと目につきました。 昼食後は、スタロドウブスコエ(栄浜)へとバスを走らせました。 ドーリンクスからスタロドゥブスコエまでの枝線(現地ではそう呼ばれた)は、すでに廃されており、私たちは栄浜駅の跡地を訪れたのでした。 ただ錆びた線路はそのまま残り、真紅の花を抱いた《はまなす》の緑が、しきり線路を覆って、一直線に彼方へ茂っておりました。 そのうち、通訳の金さんと近所の主婦との話を聞きつけてか、戦後のスタロドゥブスコエ駅の駅長だった老人のイワーノフさんが現れ、駅で使っていた井戸(現在も民家が使っている)や、駅舎の土台石が馬鈴薯畑の中に残っている場所に案内してくれました。 その地点から歩いて十分ほどの目前の海、栄浜の波打ち際に至り、ついに「オホーツク挽歌」の原風景にたどりついたのであります。 幾層もの海の色、風の音、波の音、空の色や雲のちぎれなど、そのどれもに私たちは思い深くランドスケープイマージョンしたわけであります。 あれもこれもと、オホーツク海に向き合い、賢治と共にの感慨をしきりに抱き直したものです。 三日目の州都博物館見学のとき、斉藤征義さんがいちばん最初に気付いて模写している地図があり、私も注目しましたら、なんと樺太時代の「豊原市街図」で、駅の正面で、それも私たちが泊まっているホテルとは百メートルも離れていない位置に、賢治が連泊した宿舎の《花屋ホテル》の名が載っているではありませんか。 斉藤さんも私も感動に震え、その場では一言も会話しませんでした。 栄浜駅構内の廃線となった線路を固定する犬釘を拾ってきたり、帰ってから手配して、「豊原市街図」のコピーも入手し、その他たくさんの収穫を大きな袋いっぱいに背負って帰ってきた、素晴らしい感激の旅でした。 このリレー講演に役立つようにと、帰りの船での出会いによって、札幌在住でサハリンにも住居を持たれている樺太育ちの、菅野美智子さんからは貴重なサハリン資料を送って戴いております。菅野さんへの感謝を表し、時間ですので他は省略して報告を終わります。
うす陽のはざま 小川達雄
中学生賢治の歌のうちで、最も変化に富んでいるのは、明治四十四年、三年生秋の発火演習の時の歌でしょうか。それは歌稿B の五番から七番まで、挿入歌を合わせると七首になりますが、ここではおしまいの二首をとりあげてみたいと思います。 追ひつきおじぎをすれば これは発火演習第二日、十月一日の朝の出来事をうたったもので、その場所は今日の決戦場に向かう一本木原の幹線道路でありました。「先生」というのは、この前の歌から、五年の時の担任、橋川先生、ということがわかります。 この歌のポイントは、「おじぎ」という、軍事教練の真っ只中にはまったくそぐわない、賢治の行動にあったと思われます。三年生の賢治は、鉄砲をかついだ五年生、その後の四年生に続いての行進で、教師への礼は先頭の小隊長が代表して敬礼をして、それで済んでおりました。発火演習での橋川先生は記事監督という役でしたが、生徒会誌に載る発火演習の記事は、いつも従軍記者の生徒が自由に書いていましたので、先生には特別の仕事がありません。そこでゆっくり歩いていた先生に後からの小隊が追いつき、賢治ひとりが帽子をとっておじぎをしました。 この歌からはそんな状況が浮かんで来ますが、先生はふりむいた、とありますから、おそらく賢治は、「おはようございます」などと言ったのでしょう。ここのところ、「追ひつき」という字足らずの表現は賢治の場違いな「おじぎ」を際立たせ、「すれば」という確定条件法で、ヨハネのような先生の眼と、強く結びつけていると思います。 これは賢治が、ヨハネといった特殊な存在を呼び込んだ、といえるでしょうか。ふつう盛岡中学では、廊下ですれ違う教師に対しても、挨拶をすることは滅多にありませんが、賢治だけが、橋川先生にはおじぎをしました。軍事演習のさなかに、賢治はやはりどこか違っていたようです。 その後賢治は、小隊が偵察行動に移った時のことでしょう、沼地の枯れ葦の中の家に、目を凝らしました。 家三むね 音を立てて揺れ動く枯れ葦の中に、まるで生き物のように、三軒の家々が、じいっとひそんでいます。これは枯れ葦が騒いでいる舞台に、三軒の家々という、いわば登場人物が顔を出した状態でしょうか。ここでは、家々がこの場面の焦点になっておりますけれど、賢治のほかの作品を見ますと、家という存在は、次に登場してくる、主役を導く位置にあるように思われます。 さてこの場面を浮かび上がらせたのは「うす陽のはざま」でありました。これは光と光の交差する空間、狭間であります。そのかなたに、三軒の家々がありました。賢治は後に、梅雨空の晴れ間に見た薬師岳を、薬師仏といって賛嘆いたしました。また「銀河鉄道の夜」では、天の川の一とこに開いた空の大きな孔を見て、ジョバンニは「みんなのほんたうのさいはひをさがしに行く」と言いました。 考えてみますと、賢治が薬師仏を見た梅雨時の空も、ジョバンニが幸いを探しに行くと言った空の大きな孔も、これは光の織りなす明暗の姿であって、これは中学三年生の賢治が、発火演習の日に発見した、「うす陽のはざま」の延長線上にある、と思われます。 発火演習の時とはいえ、どこにでも見られるような光の交差、そのかなたの家々、といった構図が、後々の作品にまで関わってくることに驚かずにはおられません。 こうした中学生時代の感覚が、後の賢治においてはどう発展してゆくのか、わたしはこれから、いくつか確かめてみたいと思っております。
妹トシをめぐる出会い 山根知子
このたび宮沢賢治賞奨励賞の対象としていただきました『宮沢賢治妹トシの拓いた道』を上梓するまでの過程では、賢治とトシに導かれた様々な出会いがありましたが、今日はそのような出会いから得た実感についてお話したいと思います。 この本の発行日は賢治の命日の九月二十一日ですが、この日にこだわったのも、振り返ってみれば、大学三年生の時に、初めて花巻を訪れ、賢治祭に参加した九月二十一日が、真の意味での賢治との出会いを深めていく端緒の時だったと思ったからです。そこで、賢治の精神を、生きる指針としている方々と、その魅力を広く分かち合うことのできる、このイーハトヴでの精神の共鳴にこころ打たれました。なかでも、バイクで岡山から来たという女性に出会ったことも衝撃的でした。そうした賢治の精神の魅力を追究する卒業論文をその後書き上げてから今日に至る研究の遍歴において、様々な人や貴重な資料との出会いに支えられて、賢治とトシを自分なりにつかめるようになってきた実感が常に背後にありました。 大学院進学を考えるころから、こうした深い思想と実践による人生を送った賢治が、さらに追い求め続けている妹トシとはいったいどのような人なのか、具体的に知りたくてならない気持ちから、卒論指導の原子朗先生からのお勧めもあり、自分もトシの学んだ出身校日本女子大学に身をおいて、トシの姿を追ってみたいと思うようになりました。トシという女性の生きた実感を得たいという思いで研究をはじめましたら、すでにトシについてまとめていらした青木生子元学長の導きを得ることもでき、トシは、在籍中に校長先生であり創立者でもあった成瀬仁蔵からの影響を受け、またタゴールが来校したとき学内に大きな旋風が巻き起こりトシの心にも波紋が寄せられていたこともわかってきました。 そのなかでも最も具体的なトシの思想形成について知りえたのは、大学内の成瀬仁蔵記念館でトシの受講した成瀬の授業「実践倫理」の講義録でした。それは成瀬校長がその授業で話した言葉を忠実に筆記した講義録で、読むと当時のトシの傍らでその講義を聞いているような臨場感があり、それまでトシ書簡の言葉のみでんでいたトシの心が成瀬の講義の言葉と響きあっていることがわかり、さらにそれらは賢治の思想に通底するものであることをも深く認識させられるものでした。 そうした研究成果について雑誌論文にて発表しつつ研究を進めていたときに、東京の宮沢賢治研究会でこうしたトシ研究について発表させていただく機会を与えていただきましたとき、その会場でまたひとつの出会いがありました。それは、俳優で宮沢賢治の研究をなさっていた今は亡き内田朝雄さんが、私に問いかけてくださったことです。それは著書の冒頭にも書いていますが、私はその後その問いかけに答えようとしながら、いろいろと資料にあたって考察を深めてきたのが、著書の完成までの過程だったように思えます。 また、さらに貴重な資料としてトシの「自省録」があります。これは、賢治の五人兄弟の末の妹クニさんが形見分けにもらったものだろうとして、クニさんの長男宮沢淳郎さんがかつて出版した『伯父は賢治』にて初公表したものです。しかしすでに絶版で、これほどトシの魂のこめられた文章が皆さんの目に触れにくくなっていることを残念に思っていましたので、遺族の方に本書への再録の許可を求めたところ快くご承諾をいただきました。と同時に、「自省録」の実物を見せていただき、トシの丁寧な筆蹟やインクのついた指の指紋を目にしたときには、トシの体温さえ感じる思いがし、本当にトシのいのちに出会えた思いでした。 トシは、どんな逆境にあっても排他的になる姿勢を避け、「宇宙との正しい関係」を大切にして、万人との真の愛をめざしてまっすぐな信念を求め生きようとする真摯な心の姿勢をもっており、そこから賢治がいかに大きな感化を受けたかを本書にて述べてまいりました。こうした賢治とトシの生き方は、まさに現代こそ求められる大切な姿勢ではないかと思い、そうした点でも今後とも賢治とトシの研究をいっそう深め、皆さんにお伝えしたいと思います。
『銀河鉄道の夜』の生成における共同性への問い
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| 新代表理事あいさつ |
私たちの使命─代表理事就任にあたって─
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シャスティーン・ヴィデーウスさんを悼む 入沢康夫
第六回宮沢賢治賞を受賞されたシャスティーン・ヴィデーウス氏が二〇〇四年十月二十八日にご逝去されました。謹んで哀悼の意を表します。 第六回宮沢賢治賞の受賞者であり、その数年前には岩手日報文学賞第一回宮沢賢治賞も受けておられるシャスティーン・ヴィデーウスさんが、昨二〇〇四年十月二十八日に、母国の首都ストックホルムの病院で、帰天された。 シャスティーンさん(以下呼び慣れたこの呼称を使わせていただく)は、宮沢賢治賞受賞時の「会報十三号(ケンタウル)」にも紹介されているように、スウェーデンのお生まれで、ウプサラ大学、コペンハーゲン大学大学院で学ばれたあと、パリ大学に留学され、つづいて一九六五年に来日された。そしてそれ以来三十年余を日本で暮らし、賢治研究を深めていくとともに、賢治作品や日本現代詩の海外への翻訳・紹介に尽くされた。 私のシャスティーンさんとの初対面は、詩誌「歴程」が毎年催している「夏期セミナー」の際で、多分一九六七年、九十九里浜会場だったと思う。シャスティーンさんをセミナーに誘ったのは、同人の宇佐見英治さん(第七回宮沢賢治賞受賞者、二〇〇二年九月逝去)だったらしく、宿所の一室でその宇佐見さんや、これも故人の矢内原伊作さんたちと談笑しておられるところに、私はたまたま行きあわせた。シャスティーンさんが、まだ学生風の初々しさをのこした生真面目な態度で、一座の会話に一心に耳を傾けておられた横顔は、いまも目に浮かぶ。 一九七〇年代にはいって、私が天沢退二郎さんらと一緒に「校本全集」のための賢治遺稿調査にとりかかり、花巻に赴くことが多くなると、やはりしばしばこの町を訪れておられたシャスティーンさんと宮沢家で出くわす機会もふえた。 その後、関西に居を構えておられたシャスティーンさんが用事で上京されたおりなどに、ホテルのロビーなどで会って、賢治研究や現代詩人の海外への紹介についての意見・助言をもとめられることも、何度かあった。真剣で、妥協を嫌い、まっすぐに真実をもとめる、そういう性格が、彼女の言葉の端々に常に表れていた。宇佐見英治さんのほか、かねて故小沢俊郎さんに深く私淑し、直接指導も受けておられたので、小沢さんが他界された直後にお会いした時など、話がそのことに及ぶと、こらえきれずにしばらく啜り泣きされたのは、非常に印象に残った。 シャスティーンさんの篤実な研鑽は、やがて、翻訳書「Miyazawa Kenji,Bjornarna pa Nametokoyama 」や、博士論文「MiyazawaKenji,His Stories,Characters,and Worldview 」に結実した。また、何人もの日本詩人の作品がストックホルムの「ARTES 」等の芸術誌に紹介された。 病気が悪性のものと判明し、母国に帰って療病することになったという電話をいただいたのが、一昨年の夏頃だったろうか。その後、しばらく連絡が途絶え、どうしておられるだろうと気になっていたところ、昨年の初めに突然電話がかかってきた。病状は必ずしも好転していないが、また日本の詩の翻訳をしようとしているので、材料がほしい、とのことだった。その求めに応じて故辻征夫詩集など何冊かを送ったり、しばらく電話やeメールでのやりとりが続いたが、八月末頃の「またしばらく入院する」との電話の後、連絡が途絶えた。そして十一月二十八日夜に、近親者(従兄弟?)の方から、「今朝亡くなった。安らかな最期だった」という悲報が届いた。時刻は朝七時十五分(現地時間)だったというから、日本では午後の三時すぎだろうか。 世界の賢治研究にとって、かけがいのない貴重な方を喪って、くやしさで胸はりさける思いである。 (追記葬儀は十一月十七日に行われ、儀式間にシャスティーン・ヴィデーウス訳の賢治の詩および辻征夫の詩がオルガン伴奏で朗読された由である。) (顧問 神奈川県川崎市)
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イーハトーブ |
賢治童話とアニメーション的想像力 奥山文幸「銀河鉄道の夜」や「セロ弾きのゴーシュ」など、宮沢賢治の童話作品にはアニメ化されて、さらにアニメとしても名作となるものがある。これらを改めて鑑賞してみると、映像化する際に、実写版では表現が難しいイメージが多々あることに気付く。それが、童話ジャンル一般に言える特性なのか、あるいは、賢治童話特有のものがあるのかについては、さらに精査する必要があるが、本稿では、賢治童話における想像力の根底の部分について思いをめぐらせてみたい。というのも、賢治の創作において、詩と童話の双方に映像的想像力が働いているのはもちろんであるが、童話においては、さらに意味をせばめてアニメーション的想像力とでも名付けるべきものも働いているように思われるからである。アニメーションの語源は、すべての事物に固有の霊魂が存在するとするアニミズムにあるが、ここで言うアニメーション的想像力とは、その語源に近い想像力と無意識の発見以後に形成される近代的思考との接点に発生する想像力のあり方の総称である。 近代日本の創作童話は、大正七年七月創刊の雑誌「赤い鳥」を中心とする「芸術として真価のある純麗な童話と童謡を創作する、最初の運動」(鈴木三重吉)によって誕生する。賢治も「赤い鳥」には影響を受けたが、彼の作品は、けっして単線的な影響モデルによっては説明できない部分がある。複数の影響の線に沿ってイメージが生成され、多様なイメージがそれぞれの異なった生成の線上で交差し作品が生まれていく。影響という点に関して言うならば、賢治の作品は、多様な影響の線に沿った彼の履歴が結合されたものであり、いくつもの影響の線にまたがっている生成過程の産物なのである。 新しい芸術ジャンルが誕生する際に、伝統と創造が攪拌されてパイオニアたちがきら星のごとく現れる一種のビッグバンが起きることがしばしばあるが、日本芸術的童話のジャンルが誕生する際にもそれが起こっており、賢治童話の奇跡の一端はそこにあると思われる。賢治が童話を書き始めた頃の大正期日本においては、創作童話というジャンルの表現方法が、いわばマグマの状態にあって十分には確定できていない段階であり、それだけにかえってジャンルとしての文学的芸術的な発展可能性が現代よりもはるかに大きかったはずである。その可能性は、やがて「赤い鳥」的な童心主義的世界に収束されてしまうのだが、賢治童話は、当時の童話ジャンルの起爆力に関して大きな可能性を保持したまま今日までその作品の生命力を維持し続けていると言えるだろう。 さて、当時、ビックバンが世界的規模で起こっていたもうひとつのジャンルが、アニメーションであった。二〇世初頭から一九二〇年代にかけてのことである。 最近、アニメ黎明期の天才、W ・マッケイのアニメ「リトル・ニモ」(一九一一年に発表)をネット上で見たが、シュルレアリスムの先駆けのような鮮烈な表現と、映画でいうところのカメラワークの立体性に、少なからず驚いた。現代でも十分に通用する新鮮味があるのである。 二〇世紀を特徴付ける重要なキーワードのひとつが、フロイト心理学による無意識の発見であることは言うまでもないが、夢や幻想の視覚化という点で無意識の発見は芸術の世界にも広く大きな影響を与えた。なかでも、無意識の深海から浮かび上がるイメージを外在化し、作品というひとつの形の中に固定しようとしたシュルレアリストたち(例えば、アンドレ・ブルトン)は、フロイトから大きな影響を受けた。夢や幻想の世界に興味を持つ芸術家として、賢治もまた同じ時代の意識を共有していたはずである。賢治は、その方法を心象スケッチと名付けた。アニメーション黎明期の作者たちも、それぞれは一枚の画にすぎないものが、連続させることで生命を吹き込まれたように夢や幻想の世界を紡ぎ出すという新しい魔法に取り憑かれたことだろう。 ソビエトロシアにおけるアニメーションに先鞭をつけたのが、〈映画眼〉のヴェルトフであることは、彼の映画制作実験からすれば、ある意味当然のことでもある。伴野孝司・望月信夫著『世界アニメーション映画史』(P UL P 一九八六年)によれば、革命後から一九二〇年代後半にいたるまでのソビエトは、「芸術家=人民にとってユートピアを現出していた世界」であり、「そこではバフチン、シクロフスキー、ヤコブソンといった今世紀を代表すべき偉大な知性に導かれた、或いはそれらを導き出した魅力溢るる実験が行われており、ヴェルトフの実験もその一環」ということになる。しかし、ヴェルトフの試みは、その後、諸般の事情により萌芽の段階で歴史の中に埋もれていく。やがて、一九三〇年代におけるディズニーアニメの世界制覇によって、アニメ芸術の多様な可能性はしばらくの間しぼんでしまう。 賢治が『心象スケッチ春と修羅』と童話集『注文の多い料理店』を出版した一九二四年は、ブルトンが超現実的イメージを定義した「シュルレアリスム宣言」を発表した年であるとともに、ヴェルトフがソビエト初の実験的アニメーション「ソビエトのおもちゃ」(一四分)を発表した年であり、日本では、アニメーション「兎と亀」(六分、ナカジマ活動写真部)や「蟹満寺縁起」(一一分、朝日キネマ合名社)が発表された年でもある。日本におけるアニメーションの父とも称される政岡憲三は、一八九八年の生まれで、賢治より二歳年下ということになる。アニメーションの訳語として「動画」という日本語を作ったのも彼である。彼の代表作「くもとちゅうりっぷ」(松竹動画研究所一九四二年)を視聴すると、賢治の『注文の多い料理店』自作広告文「新刊案内」の一節――「これらは決して偽でも架空でもない。多少の再度の内省と分析とはあつても、たしかにこの通りその時心象の中に現はれたものである」――が不思議と連想される。 同時代に作られたアニメーションの影響が賢治作品に認められるかどうかは今後の課題であるが、ここで言いたいのは、アニメーションやシュルレアリスム等が生まれる根源としてのジャンル未分化な関係性のなかにある想像力(=創造力)のマグマの部分、換言すれば、作品生成の水源をめぐる場所に、無意識の領域へのアプローチがあり、その水源を賢治の心象スケッチも共有していることの確認である。 宮崎駿は、インタビュー集『風の帰る場所』(ロッキング・オン二〇〇二年)において、「限りなく偉大な人」としての賢治への想いを語り、「銀河鉄道の夜」について、「実はあれは宇宙を描くんじゃなくて、なんか平面がなきゃいけない世界だと思ってたもんですから。だから『千と千尋』で今度こそそれができると思ってワクワクしてたんだけど」等の発言をしている。宮崎アニメにおける空や海の風景には、作品全体とのバランスを崩しかねないほど細部への過剰なこだわりがある。空間表現におけるこの過剰性は、実は、賢治の心象スケッチの特徴でもある。宮崎駿は、ジャンルは違うが、賢治の後継者なのだとも言えよう。 TVアニメが誕生した頃に小学校低学年だった私にとっては、当時、アニメが何よりの〈教養〉であった。「鉄腕アトム」や「狼少年ケン」に夢中になり、「少年忍者風のフジ丸」に心躍らせる日々を送っていたのである。東映動画制作の「狼少年ケン」や「少年忍者風のフジ丸」に、入社間もない宮崎駿が参加していたことを知ったのは、最近のことである。 小五までの私は、漫画は読まないアニメ中毒少年であった。「白蛇伝」「少年猿飛佐助」「安寿と厨子王丸」「シンドバッドの冒険」──東映動画の長編アニメもすべて見た。何に感動したかといえば、あらすじではなく、その動き(手の動きや足のはこび等)の不思議であったように記憶する。今振りかえってみると東映動画のアニメは、私にとって感性の一部をなすルーツであるようにも思われる。宮崎駿(含東映動画)から賢治への先祖がえり──私が賢治研究に至りついたのは、(あまり意識することはなかったが)そのような事情があったのだろうか。とすれば、私なりの宮沢賢治〈アニメ〉学に、本腰を入れて取り組むべき時期に来ているのかもしれない。 (会員熊本県熊本市)
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ゴム靴を履いたカエルを発見! 酒井早苗これは、栃木県宇都宮市にある、松ヶ峰教会に新しく作られたガーゴイル(gargoyle ‥‥‥ゴシック建築で怪獣の頭などの形をした、屋根の水落し口)です。松ヶ峰教会は、大谷石造りの美しい建物です。この教会に新たにガーゴイルを作ることになった時に、怪獣は似つかわしくない、という理由から、愛嬌のあるカエルになったそうです。では何故、ゴム靴を履いているのか? 実はこの教会にはかつて、プジェ神父がいたのです。賢治、大正五年の短歌に、 プジェー師は とある、プジェー師です。そのご縁で、師と交流のあった賢治の作品から、カエル(しかもしっかりゴム靴を履いている)が選ばれたのでした。自分の住む町に、賢治さんを偲ばせるものができて、とても嬉しく思いました。ぜひ、このカエルが雨水を吐いている姿を見たいものです。 (会員 栃木県宇都宮市)
宮沢賢治と中原中也──中也にとっての賢治という星辰 森岡京子のっけから私事で恐縮だが、二〇〇四年の夏、私は千載一遇の好機に恵まれた。それは東京のワタリウム美術館で開催された「子どもの未来研究会」という勉強会での、ある著名な先生との邂逅である。三年前からその先生の様々な著書による学恩をいただき、いつか拝眉の機会があればと心秘かに願っていた折、その先生が講演のため北海道から上京された。その方は五十歳過ぎからユダヤの研究を始められ、六十七歳の現在も世界中を流氓(りゅうぼう)ユダヤの足跡を辿る旅を続けておいでの先生である。七月は、具体的な、身近な未来の話ということで講話を拝聴し、さらに先生と直接会話を交わす幸運にも恵まれ、私にとって至福の一時であった。 人でも、書物でも、かけがえのない出会いが、人生の分岐点になることがあるのだろうか。??ところで、中也は一九二五年(大正十四年)の暮れか翌年初め、一冊の書物を購入し、愛読した。言わずもがなのことだが、これこそ『春と修羅』。この頃の中也は、根深い喪失感と、自己崩壊の只中に身を置いていた時期で、そんな彼にとって賢治の本との巡り合わせは、単なる偶然とは思えないのだ。闇の中の一条の光のように、中也の心の襞に射した光、それが『春と修羅』であり、必然の出会いであったと考えたい。 その一九二五年だが中也にとって辛く、苦い一年であった。十一月十二日、中也の詩の先達、富永太郎が急逝、時を経ずして同居していた長谷川泰子が友人小林秀雄の許へ去ってしまう。この後遭遇した『春と修羅』は、『ダダイスト新吉の詩』以来の、彼がもっとも惹かれた日本の詩人による作品であり、口語による静かな調べと不思議な宇宙観は、友人の死、そして恋人との別離という、二重の深い傷を抱えた中也の内奥に、麻酔のように作用したのではないのではないだろうか。 「心機一転の軸は、感動です。感動という奴は心を大きく開かせる力を持っている。」これは、児童文学者、椋鳩十の言葉(「感動と人生」一九八二年、宇都宮・図書館、講演にて)であるが、中也が『春と修羅』を手にした当時、先のとおり、自己喪失にもがいていた時期で、中也が賢治の本から深い感銘を得、新たな創作意欲を掻き立てられたのは想像にかたくない。 そんななかで、中也は一九二六年(大正十五年)二月、「むなしさ」という、一篇の悲歌を書きあげる。四、四、二、二、二行の変形ソネットで、そのソネッは、十三世紀頃イタリアで発生し、やがて十六世紀頃には全ヨーロッパに広まった抒情詩の一形式。前節八行(四・四と分かれる)と後節六行とからなる十四行詩で、後節六行が三・三と分かれるのがイタリア式(またはペトラルカ型)と呼ばれ、四・二と分かれるのがイギリス式(またはシェイクスピア型)と呼ばれる。フランスでは、多くの詩人がおもにこのイタリア式を採用し、抒情定型詩の中心的存在となったが、日本でも上田敏の訳詩集『海潮音』には十四篇ものソネットが数えられ、当代の詩壇に多大な影響を与えたと考えられる。 閑話休題。前述の「むなしさ」は、五七調のなかに破調を折り込んだ、変形ソネットと呼ばれるもので、それまでの中也の習作群とは一変した作品であった。その三ヶ月後、《天井に朱きいろいで戸の隙を洩れ入る光、鄙びたる軍楽の憶ひ手にてなすなにごともなし。》と詠われた、初期の記念碑的作品「朝の歌」が誕生する。自己喪失の闇の底から掴み取ったごとく、浮かび上がってきた作品で、「むなしさ」の韻律から生まれているのである。さらにこの作品は後に諸井三郎作曲の歌曲の歌詞としても発表され、聴覚的イメージと視覚的イメージを併せ持つ、まさに重層的な一篇で、中也自身が最も好んだというのも頷ける。 最近、友人と朗読会(勉強会)を発足させた。その会で私は中也を取り上げ、賢治と関わりをもたせながら、中也の詩を抜粋したものを朗読した。このとき、ひとつの実験的な試みとして、古典音楽(バッハ)の中から中也が好きだった数曲を選び、B・G・Mとして活用したのである。朗読会のためのB・G・M選曲に備えて、ある文献に目を通していた時、賢治と中也の共通のキーワードである“音楽性”に思いを馳せられる、次なる中也のエピソードに目が留まった。(『年表・作家読本中原中也』青木健編著) ‥‥‥「スルヤ」(河上徹太郎、諸井三郎らを中心とした当時の前衛的な音楽集団。中也は彼らと交流があった。)の同人たちが一様に感嘆するのは、中也の音楽への鋭さである。たとえば内海誓一郎は「中原中也と音楽」という回想のなかで、ベートーベンの嬰ハ短調弦楽四重奏曲を聞き、「これはベートーベンの愛情だね」とただ一言で応える中也の姿を伝えている。内海が驚いたのは、音楽の核心を掴む中也の直感力であった。 清六さんの『兄のトランク』「兄とレコード」のくだりを彷彿させるような逸話だと思う。中也の音楽への鋭い感応は、賢治に通ずるのではないだろうか。話は戻るが、中也は、こうして古典音楽からの恩恵を己の詩法へと血肉化していく。主題のリフレーンや対位法、輪舞(ロンド)が、「サーカス」「言葉なき歌」「一つのメルヘン」等の作品へと昇華されていく。 「一つの‥‥」は、小林秀雄が中也の最も美しい遺品と呼んだ夢幻的な美しさが漂う一篇だ。さわやかなもの、淡々としたもの、音や、水のように澱みなく流れるもの、それら意味をもたない美しさ、静かな安らぎ──すべてが純化された沈黙の空間。秋の夜の幻想、彼の内部で絶え間なく発生する掴みどころのない心象は、どこか賢治の明滅し続ける心象と通底する。 さて、これまで中也の『春と修羅』との出会い、そして“音楽性”を中心に述べさせていただいた。次に、中也の眼差しを強烈に捉えたのではないかと思われる賢治の作品のいくつかをここで列挙したい。 たとえば、「蠕虫舞手」「青い槍の葉」「原体剣舞連」など、中也の言うところの、《自分の命が経験したことの何の部分をこぼしてはならないとばかり》に、賢治が自然の動態を直接言葉で掬い上げた作品なのではないだろうか。眼前に繰り広げられる光景の、あるがまま、呼吸そのままを、言葉という手段を最大限に駆使し、そっくり写し取ろうとした賢治の詩の生成‥。この三作品など、流動的で、重層的で、私など感覚的に凄いとしか言いようのないものばかりだ。たとえば「蠕虫舞手」。蠕虫(ぜんちゅう)の運動が曲がりくねったギリシャ文字によって表現され、自然のありようが賢治の内部生命と一体となって、詩全体を形成しているように思える。それ故、その動態そのものが、生々しく視覚・聴覚を刺激し、中也のこころの密室に“生命の、豊かで熾烈な歌”として一気に流れ込んでいったのだろう。「物と心」の統一を希求し続けた彼にとっての、まさしく“名辞以前のもの”として。 時代の谷間を走り抜けた詩人、賢治と中也。二人の直接的な接触は無いが、賢治の豊饒な世界は、孤独な魂を生涯抱え続けた中也のこころの谷間に、遠方の友人の訪れとして、空谷の跫音(きょうおん)のごとく響いたのではないだろうか。 最後に、一九三五年(昭和十年)暮れの雪の夜、檀一雄が耳にしたという、中也がうそぶくように口遊んでいた賢治の詩、「業のはなびら」を追記として紹介させていただく。 ……夜の湿気と風がさびしくいりまじり/松ややなぎの林はくろく/そらには暗い業の花びらがいっぱいで/わたくしは神々の名を録したことから/はげしく寒くふるえている (参考文献‥『文芸読本中原中也』・『年表・作家読本中原中也』河出書房、『立原道造』宇佐見斉・筑摩書房、『深層の抒情・宮沢賢治と中原中也』倉橋健一・矢立出版、『汚れつちまつた悲しみに』吉田生・大和出版) (会員栃木県宇都宮市)
宮沢賢治語り芝居─喜多方発21世紀シアター─ 篠田英一二〇〇四年八月七日から十日まで福島県喜多方市が大シアターになった。五十九団体、六十六作品、十九カ所、一〇三公演と驚愕の巨大イベントである。もちろん「蔵の街喜多方」ならではの酒蔵・蔵座敷・染織蔵などが主な会場となり、高校生のボランティアやベロタクシー(自転車タクシー)も初参加するなど年々規模が大きくなっている。 各会場では演劇・人形劇・講談・大道芸・音楽などさまざまな分野での公演が催されており、桐材に漆の印刷を施したフリーパス券を手に蔵の街を散策しながら目当ての作品を終日楽しむのである。さらに名物のラーメンも楽しみの一つである。 今回紹介するのは「染織蔵」を会場とした「宮沢賢治語り芝居くすのき」の公演である。 地方都市においては内容を問わず賢治の作品に触れる機会は非常に少なかったが、このイベントの開催によって毎年鑑賞できることとなり内容も満足している。 舞台は場所がら設備は乏しく客席との区分もない古蔵の一室である。観客は三〇〜四〇人も入れば満席となる空間である。 代表の大多和勇氏は初演のあいさつで言った。「設備の整ったホールより蔵が放つこの独特の小空間と刻んだ年月が好きだ」と。 約六〇分の公演時間で一日二回、述べ四日間で十五作品。長短編を組み合わせた「語り芝居」は三名で身振り手振りと声の質等を変え、登場者になりきった演技力は、力強く、おもしろく、そして賢治の持つどこか寂しさまでも漂わせた。 昼の公演は夏休み期間とあって、小中学生も多く、比較的短編で身近な作品が行われたが、夜間公演では奥深い作品が古蔵の匂いと闇を取り込んで独特の童話世界へと引き込む効果を、語り芝居「くすのき」は小空間を生かして宮沢賢治の世界を共生という形で蔵の中に完成させた。 最終日最後の朗読「雨ニモマケズ」は暗闇がより叙情的に、そしてその語りは一瞬、賢治の持つ無限の世界へと誘い、そして全公演を終了した。 遠く聞こえる夏祭りの音と絡み合い、新しい宮沢賢治の世界を楽しんだ。 今から平成十七年の夏が待ち遠しい。 (会員福島県湯川村)
「ヒドリ─ヒデリ問題」について 入沢康夫もう十三年前、一九九二年の初めに出た「宮沢賢治」誌十一号に、私は「賢治の『誤字』のことなど─『ヒドリ』論議の決着のために」という小文を発表して、「〔雨ニモマケズ〕」中に賢治が書いている「ヒドリ」は「ヒデリ」の書き誤りであり、その点では過去の諸刊本がこれを「ヒデリ」と校訂してきたのは正しい処置であったと述べた。実際、この問題に関しては、学問的には、当時すでにはっきりと答えが出ていたのであり、もはや論議の余地は無いと考えるに到っていた。 ところが、一般社会では、この問題をとりあげた大新聞の記事の力もあってか、いまだに「ヒドリ」が正しく「ヒデリ」に直すのはよろしくないと、思いこんでいる方々もかなりあるようだ。そしてそれが、場合によっては、大きな弊害さえ生みかねない(現に生んでしまってもいるらしい)ことを知って、心を傷めている。 そこで、編集委員会の依頼もあり、前記十三年前の拙文の要旨を、以下に抄出して、読者の皆様に今一度、問題の本質を確認周知していただきたいのである。 ※ その度合いの多い少ないはあるにしても、どんな物書きでも書き誤りはある。「弘法も筆のあやまり」という諺さえあるぐらいだ。筆の勢いでつい誤った字を書いてしまう、あるいは必要な字を抜かしてしまう、といったことに関しては、宮沢賢治にしても例外ではない。 平仮名で「ほんたう」と書くとき、賢治はときどき「ほうたう」と誤記している。これは、原稿を書いているとき、手より頭の方が先回りしすぎて、一字または二字先に書くべき字を書いてしまうという傾向──これが賢治にはきわめて顕著である──の結果であろう。たいがいは、書いたとたんに気がついて、抹消して、正しく書き直しているが、気づかず、そのままになってしまうものもある。 こうした「書き誤り」についての論議で、ここ十年間の、もっとも顕著な例は、あの「〔雨ニモマケズ〕」中の「ヒドリ」の二字にかかわる一さわぎであろう。手帖の一冊に記されたあのあまりにも人口に膾炙した章句(作品?自戒自省のメモ?祈り?)の中の、 ヒデリノトキハナミダヲナガシの箇所で、賢治は実際には「ヒデリ」を「ヒドリ」と書いている。これを、これまでのすべての刊本では、「ヒデリ」の書き誤りと見て校訂し本文としている。そして、そのことはけっして秘し隠されていたことではなく、すでに手帖そのものの複製や、当該数ページのファクシミリ等も世に出ていたし、『校本宮澤賢治全集』でも、校訂した上で事実を明記していて、その意味では、世に公開されていたわけである。 ところが、「ヒドリ」は誤記ではなく、このままで「日傭いかせぎ(の賃金)」のことを言う方言なのだ、これまでの諸刊本の処置は誤っている、「ヒデリにケガチ(飢饉)なし」というくらいで、ヒデリは農民にとって不都合なことではない、ということを言い出した方があり、ある大新聞がそれにとびついて、全国版社会面のトップで大きく扱い、しかも原文が「ヒドリ」であることをこれまで不当に隠されていたかのごとき印象を与えるセンセーショナルな書き方をしてしまった。しかも、何人かの人々が、ろくに考えもせずに、この新説を支持する言辞をジャーナリズムの需めに応じて発表した。そのため、事ははなはだ面倒なことになって、記事の扱いの大きさなどから言って、世間一般では、「ヒドリ=日傭いかせぎ」説の方が正しいとまでは思い込まないにしても、論議は五分五分の形で、いまだにケリがついていないくらいに考えられているようだ。さらに副産物(?)として、「文学作品本文は、いっさい作者の原稿通りであるべきだ」といった趣旨の、俗耳には入りやすいが、実は暴論としかいいようのない発言もとび出す始末で、情けない限りであった。 しかしながら、この問題については、前記新説の成り立つ余地は限りなくゼロに近く、逆に従来の(「ヒドリ」を「ヒデリ」の誤りと判断して本文では校訂する)立場は、確かな根拠(内容から言っても、本文批判的立場から言っても)がいくつもある。「ヒドリ」が「日傭い(の賃金)」では、前後と文脈的につながらないこと。賢治が、いくつもの作品(「グスコーブドリの伝記」ほか)で、常に「夏の寒さ(冷夏)」と「ひでり(旱魃)」とを、農家が困ることとして扱っていること。それが最も端的に書かれているのは、「グスコーブドリの伝記」の下書稿に当たる「グスコンブドリの伝記」の第七章冒頭部であろう。そこには、次のような対話が出てくる。 「ブドリ君‥‥‥沼ばたけ(水田)ではどういふことがさしあたり一番必要なことなのか。」 また、賢治の詩稿の一つ「毘沙門天の宝庫」では、「旱魃」に自分でルビをつけようとして、まず「ひど」まで書いて、誤りに気付き、「ど」を消して、「でり」と改めて続けている現場が見られる。これなどは、賢治が「ひでり」を時として「ひどり」と書き誤る傾向があったことを示しているし、また、「グスコーブドリの伝記」の生前発表形(昭和七年に「児童文学」に掲載)でも一カ所、旱魃の意味の「ひでり」が「ひどり」となっているところがある。これなどは、印刷上の誤植というより、元原稿そのものの誤りがそのまま活字化されたものである可能性が高い。 こうした点については、すでに雑誌「賢治研究」五十三号(一九九〇年十一月)に平沢信一氏の明確な指摘があり、私もまた一九九〇年秋に池袋で行われた賢治フォーラムの席上で、資料のコピーを添えて説明し、その要旨は、やはり「賢治研究」五十四号(一九九一年二月)に載ったが、同誌は研究会の会誌として一般の目に触れにくいと思うので、ここに、今一度記した。 話は、冒頭にもどるが、どんな物書きでも書き誤りはする。諸々の証拠に照らして誤りと判断できるものを、正しく校訂して本文にすることは、作者の意図を尊重する上で必要不可欠のことである。そうした本文校訂の責任は、きわめて重く、かつ多くの困難をともなうものであることを、読者も、編纂者も、出版社も、ここいらで再確認していただきたいと、つくづく思う。 ※ 以上が、かつての拙文からの約三分の二の抄出である。 賢治は、上記引用中にもあるように、水田農業にとって、「夏の寒さ」と「旱魃(ひでり)」は、困ることの筆頭に考えていた。「穂孕期」に日照が不可欠であり、「ヒデリにケガチなし」と諺にあるとしても、それは「日照」のことで、苗代期・田植期の「旱魃」(往々水争いなども起こった)のことではない。「旱魃」の「恐ろしさ」に触れた箇所は、賢治の詩にも童話にも、あちこちに見られる。 文理的にも、本文批判的にも明らかに書き誤りと判定される箇所を、「あの賢治さんが書いたものだから変えてはならぬ」とばかり、間違いをそのまま生徒に暗誦記憶させたり、碑に刻んで後世に遺したりするのは、上に述べたような事情をわきまえずに、すでに成り立たないことが明らかになっている所説(「ヒドリ=日傭取りの賃銭」といった、書き手のその時の意識には浮かんでもいなかったことを主張する説)になおもすがりついた、一知半解の不適切な扱いであり、ひいては賢治の営為の本質に対する冒涜にもなることを、あらためてここで強調しておきたい。 是が非でも賢治が書いた通りに碑に刻むというなら、碑の裏の銘板に「『ヒドリ』は『ヒデリ』の作者の書き誤りであるがそのままにする」といった主旨の注記がなされることが建碑者の、後世に対する責任として不可欠だろう。児童・生徒に教える時もはっきり「ヒデリ」と教えるべきである。そして、どうしても言いたければ「じつは賢治はここをヒドリと書き誤っているのだよ。賢治だって書き間違いをするんだねぇ」と付言する程度にするべきだと思う。 (顧問 神奈川県川崎市)
「'04イーハトーブ・初冬」 藤原政子冬季セミナー参加の折に往路で詠んでみました。
一〇〇年は住めますとあり看板に 暦では大雪まぢかの雪国に 屋敷林に椋鳥の群れざわざわと 道端にひまわりの花枯れ立ちて すれ違う人一人なく昼時に 記念館迄あと三〇〇メートルの標識に 願わくば賢治の森にバリアフリー 平成十六年十二月四日 (会員東京都世田谷区)
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ポラーノの広場 ─第九夜─ |
宮沢賢治の作品に描かれた「自然」の発見栃木・宮沢賢治の会<ぎんどろの会>
宮沢賢治の作品には、じつにさまざまな言葉が、色あせない煌を保ったまま輝いています。それらの音の響きとしてもステキな言葉たちに耳を傾けていると、それだけで、もう充足感がからだいっぱいに広がります。でも、賢治が作品の中にちりばめた言葉たちは、あまりにも幅広く、あまりにも専門性に富んでいます。そういう言葉たちの前では、私たちはとまどうばかりです。「やまなしって、大きさは、匂いは…?」「よだかって…?」「アンドロメダって…?」……?でも、そういう言葉たちの一つでも、意味や実体が明らかになると、逆に作品の中へ一気に入り込むことができ、作品がいっそう愛おしくなります。これから綴るのは、そういう言葉たちの意味や実体の「発見」についてです。今回のその「発見」の中心となるのは、身近にある「自然」です。 本会では、例会のほかに、「栃木・イーハトーブへの旅」(以下《旅》と略記)「星を見る会」「交流会」などを実施し、毎月「通信」を発行していますが、そのすべてが「発見」の連続です。この「発見」の報告が、皆さんと共有できるものになれば、と希います。 一、宮沢賢治と栃木県
賢治は、東京上野駅との往復で何度も本県を通っていますが、その作品の中に本県のことを描いたでしょうか。残念ながら、私はまだ探し当てることができずにいます。わずかに、東北砕石工場時代の書簡に、石灰の質の問題での競争相手として「栃木」の名が数回見えるばかりです。でも、人物については縁の深い何人かがおり、そういう人たちを通じても、賢治への親近感が増します。(以下、一部敬称略) イ、盛岡高等農林時代の同人誌『アザリア』の仲間たち…『アザリア』発行の中心となった四人のうちの一人、小菅健吉はじめ、鯉沼忍、潮田豊などの方々。小菅、潮田のご子息は、本会の会員でもあり、小菅充氏からは、賢治と父・小菅健吉とのお話を例会でうかがったことがあります。 ロ、賢治の主治医・佐藤隆房…花巻共立病院の創立者、『雨ニモマケズ』詩碑の建設委員長など。本県那須湯本で生まれました。《旅》では、郷里の那須温泉神社境内に建つ句碑を見学しました。 ハ、詩誌『銅鑼』の同人・手塚武…草野心平が創刊し、賢治も「永訣の朝」などを投稿した詩誌『銅鑼』の同人。賢治には、高村光太郎と一緒に東京で一度だけ会っています。 ニ、盛岡天主公教会(四ツ谷天主堂)司祭・プジェ師…賢治の短歌にも詠まれる。師は、後に福島の教会を経て、本県宇都宮市のカトリック松が峰教会に赴任しました。 ほかに、ぎんどろ公園の『風の又三郎』群像(共同制作)や『よだかの星』彫刻碑を制作した栗原俊明は、本会の代表でもあります。(小堀博) 二、岩手県と本県との地形的な共通点私は、学生時代を岩手県の賢治の母校で過ごしました。そこで生活するうちに気がついたことですが、南北に約三〇〇〜四五〇Kmも離れた岩手県と本県との間には、地形や気候などから見ると、かなりの共通点があるのです。 まず、相違点から先に見ておきますが、両県の東側に海があるかないかということが、最大の違いで、それ以外は類似していると考えてよいと思います。つまり、 1 、本州北部から中部にかけてその中央を南北に走る脊梁山脈の東側に位置している、つまり東日本の太平洋側にあること。 さらに、具体的に対応させて見てみます。 1 、主峰…岩手県:岩手山(2041m)、本県:那須岳(1915m)。→どちらも那須火山帯に属している活火山で、現在なお噴煙を上げている。 以上のように、環境的に共通の要素がたくさんあるため、本県の私たちの身近なところにも、実際に賢治が触れたり観察したりした自然がたくさんある、という発見にもつながっています。以下、「植物」と「鳥」に絞って、主なものを具体的に見ていきます。 イ、植物
1 柏林…詩「風林」や童話「かしはばやしの夜」に出てくるこの林は、冷涼な気候と火山灰土で覆われているという土壌条件の下に優占して成立した特徴のある林ですが、開拓や針葉樹の植林等によって童話のように伐られて、かなり減少しています。私たちは《旅》において、伐り残された数十本のそれらの葉が六月の陽光に輝き、那須山麓を吹き渡る強い風によって詩のように「がさがさ鳴る」のを聴いて感動しました。 2 山鳴らし…短歌に「風きたり/高鳴るものはやまならし/またはこやなぎ/…」とあるように、一名「はこやなぎ」とも言いますが、また「高鳴る」とも言っているように、賢治はこの植物に音を聴きます。一般にはこの木を意識して見ることはないでしょうが、私たちは、微風でも葉をそよがせる《日本のポプラ》の音を聞きながら、童話「まなづるとダァリヤ」の最後の場面をもう一度印象に刻みました。 3 やまなし…《旅》において、一度は花を、ほかの時は実を見ました。たいてい人家や学校などの敷地内で大切にされています。多くはイワテヤマナシです。例会にも、会員が実ややまなし酒を持参するので、私たちにとっては身近なものになっています。 4 さいかち…童話「さいかち淵」に象徴されているような、シンボル的な巨木を何本も見ました。(34については、後の文章もご参照下さい。) 5ひきざくら…童話「なめとこ山の熊」の中で強い印象を残すこの花を、本会会員の宇佐美怜子さんが詳細に研究して「コブシ」と結論づけています(花巻でも研究発表)。それ以来、コブシをよく意識して見るようになった、という会員は多くいます。
ほかに、クロモジ(童話「なめとこ山の熊」「マグノリアの木」)の匂い、ウメバチソウ(詩「早池峰山巓」、童話「鹿踊りのはじまり」「十力の金剛石」)やリンドウ(童話「銀河鉄道の夜」「十力の金剛石」)の花の可憐さなどに触れることによって、ここ栃木でも賢治との共通の感覚を体験し、作品への思いも深くなりました。 ロ、鳥賢治作品に登場する野鳥は約70 種にのぼります。その大半はスズメやカラスの仲間、モズやヒヨドリ、シジュウカラ、カワセミ、カッコウといった、一般的な種です。時にはトキ(童話「若い木霊」)やヘラサギ(詩「花鳥図譜、七月」)のような珍鳥も出てきます。バード・ウォッチャーからすれば、それもまた賢治作品の意外性の魅力と言えます。 1 ヨタカ…童話「よだかの星」を読んでその実際の鳥の姿を見たいと憧れる人は多くいます。那須の牧場地帯などで、夕暮れに、シルエットそのものになったヨタカが、せき立てるように鳴きながら飛び交うのを見ることができますが、会の限られた時間の中では見ることができません。そこで、交流会の話の中で、飛ぶ姿をスライドでお見せし、鳴き声をお聞かせしました。また《旅》では、県民の森「森林展示館」で剥製(木へのとまり方が実際と違っていましたが)を見ることができました。そのようにして、皆さんの想像を実際に近づけることができたと思います。 2 ホトトギス、カッコウ、ツツドリ、ジュウイチ…これらのホトトギス科の鳥のうち、カッコウ(童話「セロ弾きのゴーシュ」「グスコーブドリの伝記」)の鳴き声はだいたい知られていますが、ほかの鳥については鳴き声がわからないという人が多いようです。《旅》で中禅寺湖を見はるかす峠付近で、ホトトギス(童話「双子の星」)、ツツドリ(詩「遠足統率」、童話「種山ヶ原の夜」)、ジュウイチ(文語詩「製炭小屋」)の三種類の声を聞くことができました。 そのほかの鳥についても、詩「花鳥図譜、七月」を中心に、交流会の話の中でスライドをお見せし、鳴き声を聞いていただきました。その前半をいろどるカワセミは、盛岡でも宇都宮でも見ることができます。また、オオジシギ(詩「小岩井農場」のボドシギ)、カッコウ、ホトトギス、モズ類(童話「鳥をとるやなぎ」)、ツグミ(童話「ビヂテリアン大祭」)など疎林性・草原性の鳥も、岩手山麓と那須山麓で共通します。賢治の時代からは、開発・都市化の中で、残念ながら鳥たちも減少しています(賢治も嘆いているでしょう)が、少しずつ会員の皆さんにも紹介していきたいと思っています。(高松健比古) 本会「通信」より(抄出)
☆シンボルツリーとして〈やまなし〉を大切にしている小学校があります 日光連山東山麓の今市市立小百小学校は、木造校舎に約50 名の児童、まるで「風の又三郎」の学校そのままです。その小学校に推定樹齢300年の〈やまなし〉の樹があります。小百小は明治6 年、小百村宝勝寺を仮校舎に創立されましたが、本堂の火事により焼失しました。その時〈やまなし〉も焼けたのですが、息をふき返したのです。でも、幹は空洞になり、樹勢も弱くなったので、樹木医の手当をうけたりして大切にしています。その木にちなんで、毎年「やまなし祭」と呼ぶ学校祭を催しています。 私たちも《旅》で、樹高12m、直径64.3cm のその木に挨拶しました。 ☆〈さいかち〉の巨木たち 3回の《旅》で、公園や邸宅の庭にある立派な〈さいかち〉に出会いました。中には、樹齢が400〜600年というものもありました。岩手県出身の友人から、バケツに莢を浸しておき、その水でシャンプーをしたこと、洗濯をしたことを聞きました。中に含まれるサポニンが汚れ落としに効果があるとのことです。また、煎じて去痰の生薬やはれものの薬として服用していたそうです。天然記念物になっている樹の案内板には「荷役の馬の出入りが多かった庄屋には馬の特効薬であったとつたえられるさいかち」と書かれていました。〈さいかち〉の果実の黒焼きを粉末にし、馬の呼吸器系の病気(結核などにも)のときに飲ませたそうです。(青木静枝) 三、宮沢賢治「岩手の星空、栃木の星空」
この原稿を書いている05年1月、空にはホーキ星のマックホルツがスバル星の側を通過しています。20倍望遠鏡で観望しますと、快晴の夜空にはオリオン座、ふたご座、シリウス、おおいぬ座、カシオペア、ペガスス、アンドロメダなどの宮沢賢治の詩「温く含んだ南の風が」「東岩手火山」や童話「双子の星」「銀河鉄道の夜」「よだかの星」等でなじみの星座がならんでいます。 花巻(北緯39度23分)や盛岡と、ここ宇都宮(北緯36度55分)では、緯度は3度の違いであり、天頂部分の星座は同じものを見ることができます。でも、当時の賢治は、星の数では、今とは比べものにならないほどたくさんのものを見ていたでしょう。 現在、星座の数は全天で88 星座に区切られています。そのうち日本では見られない星座は4個(テーブル山、カメレオン、ふうちょう、はちぶんぎ)、また日本からその一部だけ見られる星座は12 星座あります。この88 星座のうち、賢治が、作品の中に織り込んでいる星座名は50数個を数えることができ、その造詣の深さに感じいります。童話「銀河鉄道の夜」には、20個に近い数の星座のほか、アルビレオ、石炭袋、天の川、かささぎなども見られ、銀河鉄道の線路沿いの星座は星図を見ながらの展開になっています。 本会として二度、地元の田原中学校の天文台をお借りして「星を見る会」を催しました。残念ながら二度とも悪天候で、一度はプラネタリウムで以上の星座を確認していただき、もう一度は雲の間にわずかに見えた星座のいくつかを望遠鏡で見ていただきました。皆さんにも知っていただきたく「通信」にも星座について連載してきましたが、実際に星を見ることには及びませんので、またいつか「星を見る会」が実施できれば、と願っています。 賢治はハレー彗星を見たでしょうか?そのほかの土星の環の消失現象、しし座流星群、火星の大接近、太陽面の金星通過、皆既日食、月食等、ここ数年の間に私たちが体験したこれらの天文現象も、賢治の作品の中に検証したいと思っています。(冨田頼夫) 栃木・宮沢賢治の会〈ぎんどろの会〉について
栃木・宮沢賢治の会は、宮沢賢治生誕百年の翌年、一九九七年五月二十四日(土)に産声を上げました。五月としては珍しい土砂降りの雨の中、会場に集まったのは、二名の発起人(石島と栗原)と小山市から参加した三名だけ。たった五名でのスタートでした。活動が次第に軌道に乗り、毎月の例会が第二日曜日の午後に定着するに従って会員も少しずつ増え、八年近くが経過する現在、会員数は十倍になりました。 例会は読書会中心ですが、必ず音読をすることにしています。賢治さんは、作品ができると弟妹や農学校の生徒たちに読み聞かせていました。みんなで声に出して読んでみると、一人で黙読していたときには見過ごしていたことに気づかされることが少なくありません。また、毎回賢治さんと関わりのある歌も歌います。三年前からは「栃木・イーハトーブへの旅」と題して、栃木県内ではありますが、賢治作品に登場する植物や野鳥などを観に、日帰りのバス旅行を年に一回行なっています。県北の特に那須地域は岩手の風土と酷似しているため、身近なイーハトーブを満喫できます。その他にもいくつかの催しを実施しています。 発足後三年目に愛称を〈ぎんどろの会〉と命名しました。きっかけは、花巻農業高校と地元宇都宮白楊高校がギンドロ(ウラジロハコヤナギ)とベニバナトチノキの苗木の交換植樹をしたというニュースが新聞に載り、白楊高へ見学に行ったことでした。実は、宇都宮市民はもとより白楊高生さえも白楊はポプラだと思い込んでいたので、花巻出身で当時白楊高校長だった菊池孝治氏が、そのことを正すべく苗木の交換を実現させたのでした。植物に詳しい菊池氏もその後入会され、会の活動の幅を広げてくれています。わずかに肌に感じられる程度のそよ風でも、ハコヤナギの仲間はきらきらと葉を揺らします。まるでおしゃべりをしているように。その中でも真っ白な葉裏をさらさらと鳴らすギンドロのように、私たちはこれからも楽しく活動を続けていきたいと考えています。会員それぞれの個性や得意分野を生かしながら……。 (栗原俊明) 編集石島崇男
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千葉地方セミナー「日蓮誕生の地で賢治を読むー法華経を体験しようー」二〇〇四年十一月二十日・二十一日 赤田秀子
千葉県は宮沢賢治に格別のゆかりのない土地である。千葉セミナーを開催するにあたって、ご協力をお願いした天沢退二郎氏から日蓮宗の大本山である清澄寺を会場にしたらいかがかというご提案を頂き、冒頭のテーマを掲げての開催となった。我々千葉県に暮らしている人間でも、天津小湊の清澄寺を訪れる機会は少ないので、新鮮な気持だった。 平成十六年十一月二〇〜二一日に、千葉県天津小湊町の日蓮宗大本山清澄寺において千葉地方セミナーは実施された。 学会代表理事で、千葉市在住の天沢退二郎氏が「宮沢賢治における《目に見えぬものたち》」と題し基調講演を行った。氏は「宗教も賢治作品も目に見えぬものが世界に存在するという信仰で共通点がある」と前置きし、ミッシェル・フーコーの「虚構とは、目に見えぬものを見さしめる点に存在するのではなく、目に見えるものの不可視性自体がどれほど目に見えぬものであるかを見さしめることにこそ存在する」というブランショ論に根ざして、賢治作品における《目に見えぬものたち》の多くの事例をひき、弁証された。 さらに、氏は会場からの質問に答えて、「作品は教化から一歩退いて言葉としての限界を超えた目に見えない形、まなざし自体に極限化された言説としてあり、賢治の目に見えないものを見さしめる仕掛け、虚構によるのではないか」と話された。 このあと、法華経の真髄と言われ、賢治作品ともかかわりの深い「如来寿量品第十六」を、同寺山務員、酒巻寛友氏に解説いただいた。また、資料の一部に用意した生前宮沢賢治が印刷して配布したと伝えられている『配布用経典印刷物』に関して伊藤雅子さんが会場から参加する形で、背景を解説された。 かつては盛んだったという伝統話芸の繰り弁で「日蓮上人の法難」を日蓮宗廣福寺住職、道岡日紀氏が展開され、最後に本会会員による賢治作品の朗読があり、その仏教的視点からの解説を、本会会員の大角修氏が行った。大角氏は「法華経大全」(学習研究社)、「すぐわかるお経の心」(東京美術社)、「ひらがなで読むお経」(角川書店)などの著作も多い、編集者である。朗読には「クラムボンの会」の林洋子さんや「ものがたり文化の会」の山本瞳さんの友情出演によるご協力も頂いた。 当日はうららかな小春日和、全国からはるばるお集まり下さった参加者は一二〇名ほど。宿坊としての施設、研修会館の本堂ご壇前でセミナーは展開され、食事は精進料理で、飲食は自由だった。部屋によっては夜更けまで話も宴も尽きることなく続いた様子である。
二日目は、自由参加であったが、暗いうちに部屋を出て、団扇太鼓の叩き方を同寺山務員にご指導いただき、照れながらも謙譲な気持ちで体験した。かつて、賢治が花巻の街を叩いてまわったと伝えられる団扇太鼓は実際試して見ると、気迫がおのずと沸いてくるような印象だった。そして、日蓮の像が建つ旭が森で、東から金色のお日様が昇ったときは一同厳粛な気持ちにもなったのであった。その後、祖師堂で朝の勤行に参加して、野外での自然観察と山内見学をグループに分かれて行った。 朝食後、バスで誕生寺に移動し、同寺布教部鈴木宗海氏の講話を聞き、寺内を見学し散会した。 賢治文学を理解するには法華経を学ぶ必要を誰しも感じながら、短絡的な法華経讃歌や経典の理論だけでは作品に近づいた実感はない。伝記的に伝えられている宮沢賢治は熱心な法華経信者であったが、天沢氏が指摘されたように、賢治は「法華文学の創作」を目指しながらも、「断ジテ教化ノ考タルベカラズ!」(「雨ニモマケズ手帳P 1 3 5 、1 3 9 」)と自戒したように、テクストには、仏の教えを直裁な表現ばかりで描くことをしなかった。今回のセミナーにおける身体を通しての体験や清澄の空気が賢治文学に接近の一助となっただろうか。 本セミナーのために、資料の提供を頂いた佐藤成氏を始め、千葉賢治の会の本家とも言うべき宮沢賢治研究会の有志の方々のあたたかいご協力に感謝申し上げます。
冬季セミナー講演(要旨)宮沢賢治「土神ときつね」と知里幸恵『アイヌ神謡集』二〇〇四年十二月五日宮沢賢治イーハトーブ館 秋枝美保
本セミナーは「郷土としての〈イーハトーブ〉」をテーマに、「鹿踊り」そして「アイヌ」という視点からイーハトーブをみつめようという企画で十二月四、五日の両日開催されました。初日は長期企画「イーハトーブの郷土芸能(2 )」、今回は岩手県遠野市「板沢しし踊り」。演舞後、門屋光昭さんに「岩手の鹿踊りをめぐって」の講演をいただきました。二日目は、まず奥山真由美さんの解説にてアイヌのユーカラCDを聴き、続いて秋枝美保さんの講演と続きました。ここでは秋枝さんの講演要旨を掲載いたします。
本発表は、先般行われた立命館大学言語文化研究所主催のシンポジュウム「同時代人としての知里幸恵と宮沢賢治」(「先住民という言葉に内実を与えるために」の第四回二〇〇四年六月十一日司会西成彦、パネラー池澤夏樹・坪井秀人・筆者)での講演内容に、その後発見した新資料に基づいて新たな考察を加えたものである。それは、賢治と北方文化、特にアイヌ文化との関わりを指摘し、それを通して大正末期から晩年にわたる賢治の動向を考察するところにその主眼があった。話の内容は、大きく五つに分かれる。第一は知里幸恵の人物及びその業績について、第二は「土神ときつね」における『アイヌ神謡集』の直接的影響について、第三は、「アイヌ」が登場する心象スケッチ「石塚」を取り上げ、その推敲の状況を踏まえて、「アイヌ」の心象の暗部への想像の拡がりを指摘した。第四は、心象スケッチ「産業組合青年会」について、「土神ときつね」、「石塚」のテーマとの関連性を指摘し、郷里の農村へ向かうその後の賢治の方向性を指摘した。第五は新資料の紹介で、「天業民報」におけるアイヌと田中智学との接点について紹介した。 1 、知里幸恵と『アイヌ神謡集』二〇〇四年は知里幸恵の生誕百年に当たり、各地で記念巡回展が開催された。立命館大学のシンポジュウムもその関連行事である。知里幸恵著『アイヌ神謡集』は、失われつつあった口承文芸、アイヌの神話を美しい日本語に翻訳し、アイヌ文化の評価と継承への道を開いた、類まれな業績であり、現在注目が集まっているところである。 さて、知里幸恵の生涯については、藤本英夫著『銀のしずく降る降る』(新潮選書昭和四八・十一)に詳しい。そこから『アイヌ神謡集』が出版されるまでの数奇な経緯を紹介した。その第一は、彼女の周囲にあった多言語的な環境である。知里幸恵は、父母ともにアイヌ代々の酋長の家柄の出であり、祖父母は「アイヌの最後の大叙事詩人」(金田一京助)とされた。父は和風に親しんで和語の世界を持ち、母はジョン・バチェラーの伝道師学校で姉マツと学び、英語に親しんでいた。また、彼女は、幼くして、旭川近文ちかぶみ(地名)のアイヌ伝道所に住む、その叔母金成マツに預けられ、母方の祖母と同居していた。このように、知里幸恵は、アイヌ語、日本語、英語の三ヶ国語に取り巻かれて育つことによって、金田一に「語学の天才」と言わせしめた秀れた語学力と表現力を身につけたといえる。 その近文ちかぶみ(地名)に、大正七年にユーカラの聞き取り調査にやってきた金田一は、知里幸恵の家で彼女の日本語の作文のすばらしさを知り、また、知里幸恵は「ユーカラ」の文化的な価値を金田一から聞いて、アイヌ文化について認識を新たにした。その後、金田一の勧めでユーカラを書き留めていた幸恵は、彼の誘いに応じて大正十一年五月上京、金田一家に寄寓し、『アイヌ神謡集』の校正作業が始まる。だが、同年九月、彼女は心臓発作で、突然十九歳の生涯を終えた。 その翌年、『アイヌ神謡集』は、大正十二年八月、郷土研究社、炉辺叢書の一冊として刊行された。 2 、童話「土神ときつね」と『アイヌ神謡集』「谷地の魔神が自ら歌った謡『ハリツクンナ』」
童話「土神ときつね」における「土神」についてはこれまで諸説あるところだが、強い関連性を持つ影響源については指摘がない。ところが、『アイヌ神謡集』所収の「谷地の魔神」の歌の内容の一部が、「土神ときつね」の一部の表現に酷似していることが、立命館大学のシンポジュウムの際に確認された。坪井秀人氏も資料にそのことを挙げられた。 筆者の検討によれば、その類似点は、一、その神が谷地に住んでいること。二、悪いことをする魔神であること。三、人間に侮辱されることによって、神の怒りが暴発すること。四、物語の後半部の描写が酷似していること(相手を追いかけ、ついに殺すまでの描写、その際神の周囲に火花が飛び散ること)の四点である。特に第四点は、この物語の中核をなす部分であり、この二つの物語が同根であることを物語っている。 「谷地の神」の神話は、嫌がられる神、悪をなす神を描いた物語で、そこに神話としての普遍的なテーマがある。「土神ときつね」は、そういった普遍的な構図に同時代的な問題の構図をあてはめることによって成立したといえる。「狐」は近代化の象徴で、「土神」は時代の進展の中で忘れられていくものの象徴であり、その時代の敗残者「土神」が「祟り神」と化して、時代の矛盾を打つというものである。この敗残者の姿は、知里幸恵が『アイヌ神謡集』「序」で述べているアイヌの「亡びゆくもの」という姿に重なるものでもある。 3.『春と修羅』第二集前半部の「鬼神」のイメージ─心象スケッチ「石塚」推敲における「樹神」・「アイヌ」・「薬叉」─賢治の作品の中で「アイヌ」という言葉が出てくる作品は少ない。「石塚」は、その数少ない作品のひとつである。その中心的なテーマは、「石塚」という題名からもいえるように、「わたくし」の意識の中に埋められた古い記憶の呼び起こしにある。その古い記憶が当初「樹神」、古い樹に住む「鬼神」によって表され、その世界は風の吹き抜ける天へと向かって拡げられていた。ところが、推敲の過程で、「石塚」は「アイヌ」の古い生活道具を埋めた記念碑になり、その塚の横の沼はアイヌの「たたり」を沈めた「沼」となって、「わたくし」の意識は「たたり」にくらむ「アイヌ」の心の暗部に降り立つことになる。その心象をその後、一旦「薬叉」という仏教における神に書き換えたが、定稿でまた「アイヌ」に書き換えている。そこには、「アイヌ」の「たたり」が仏教によって鎮められるイメージを描きながら、それをそう簡単には書けなかった賢治の迷いが見て取れる。 4、心象スケッチ「産業組合青年会」における「卑賎の神」賢治は「アイヌ」の神話と現状を通して、郷里の社会に同様の問題の構造を読み取ろうとしている。そこでは、社会の流れの中で排除されていく「敗残者」の声なき声に言葉を与えて、村の「熱誠有為」の人々の頭上に響き渡らせる。この視点は、その後「銀河鉄道の夜」にも、「風の又三郎」にも拡げられて、時代の敗残者「修羅」の心性に深く心を遣るひとつの形を成していく。「修羅の十億年」に開かれていく賢治の心象の動きを知ることができる。 5 、田中智学とアイヌの接点『天業民報』昭和五年八月五日に、「違星青年を惜む」という記事が掲載されており、アイヌの歌人「違星北斗」追悼(昭和四年没)に寄せて、彼が智学の下を訪れていたことが紹介されている。アイヌの青年たちと仏教との接点が認められ、興味深い。本発表では、賢治の実践活動への結節点にアイヌ文化との接点があったことを示した。
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