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宮沢賢治学会・会報第31号 | |
あやしい鉄の隈取りや (「「オホーツク挽歌」」) 表紙写真 撮影・大塚 常樹 |
第31号●釣鐘人參(ブリューベル) 2005年9月21日発行
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「哀れ過ぎる」ので「やめ」 池内 了 科学者は、鍵を無くした箱を開けようとしている錠前屋に似ている、とは私の持論である。作業に夢中になっているうちに、箱の中身を見たいという初心を忘れ、箱をこじ開けることのみが目的となってしまう。打つ手がなくなってしまうと、箱を爆破してしまうことすら考える。そんな異様なことを考えている自分に気づかなくなるのだ。ましてや、首尾よく開けるのに成功したときに、その箱からいかなるものが飛び出してくるかについて想像が及ばない。箱を開けたことのみに満足して、結果について責任を負おうとしないのである。これは科学者の「業」と言えるものかもしれない。科学者は、突きつけられた謎に向かうと、すべてを忘れ、夢中になってしまう。あるいは、科学的におもしろい事象があれば、それをトコトン突き詰めたいという思いに駆られ、その負の側面には気づかず(気づかないふりをして)突進しようとするのだ。 私は、宮沢賢治にも、そのような科学者の業を感じることがある。あることを論じ始めると、ずんずんと想像の翼が広がり、微に入り細に入って対象に入り込んでしまうのだ。いかに異様で残酷であろうと、事実として正確に描こうとすれば、そうならざるを得ないのである。私は、それを「賢治のブラックユーモア」と呼んだことがあるが(筑摩書房『新校本宮沢賢治全集第四巻』月報)、科学者としての賢治の一面が確かに出ていると思っている。 例えば、「フランドン農学校の豚」では、安穏に暮らしたい豚と健康に太らせて肉を高く売りたい学校側の相克が、ユーモアを交えて鮮やかに描かれている。科学的な客観性を露わに出さない豚の視点からの描写となっているから、かえって学校側と豚の思惑の行き違いがくっきりと浮かび上がるという手法である。学校側はあくまで科学的に豚を肥育しようとし、豚はその意図を図りかねて右往左往するしかない。それを突き放した筆致で書き進める賢治も科学者の立場で正確さを追求しているのだ。 しかし、賢治は、ここでふと自分の空想が異様に膨らんでいることに気づく。豚は良い健康状態に保って太らせねばならない。それをどのように実現するかが農学校の仕事であり、それに集中するのが科学者としての自分の仕事である。まさに、鍵のない箱を目の前にしているのだ。そのことは重々知ってはいるが、さて豚は幸福なのだろうかと考え込んでしまう。むしろ、人間の都合で豚を残酷に扱っているのではないか。ここにきて、箱を開けたときの結果を想像してしまう。科学者としてではなく、動物の悲しみに共感する人間としての賢治に戻るのだ。 科学者には二面性(ジレンマ)がある。徹底して冷徹に事実を見つめ、論理の正しさのみを追求しようとする面と、科学がもたらすであろう結果を想像し、人間としてその正邪を判断すべきと考える面である。そして一般的には、後者をセンチメンタルと位置づけ、前者を優先しようとする。そうでなければ、科学者であり続けられないためでもある。しかし、賢治はむしろ後者を選んだ。生きとし生けるものに幸福をもたらさない科学に疑問を持ったのだ。といって、人間は動物を殺さねば生きてゆけない。科学も必要なのである。そのジレンマに悩んだ賢治は、「あんまり哀れ過ぎる」ので「やめ」と書いて筆を置かざるを得なかったと言えよう。 賢治が花巻農学校を辞めたのは、科学者としてではなく、人間として生きることを選んだためだろう。「よだかの星」にその思いが伝わってくる。虫を殺して生きる自分に嫌気を感じたよだかは、天に昇って星になりたいと願う。ところが、オリオンも、大犬座も、大熊星も、鷲の星も、みんな冷たくあしらうのみである。たかが鳥に過ぎない醜いよだかが、星になりたいという願いは身分不相応であるというのだ。その冷徹な事実は、いかんともし難い。科学の目から見れば、そうとしか言えないのである。そこで賢治は、よだかを地に落とさせようとするが、突然思い直して天の一角に星として輝かせる。(このあたりは少し唐突に感じてしまう。)よだかの想いを自らに重ね合わせ、星になりたい願いを成就させてやったかのように思われるのだ。 とはいえ、賢治は科学者として果たせることへの憧憬も失っていなかった。科学の力を信じてもいたのだ。「グスコーブドリの伝記」は、彼が夢見たあるべき科学者像であったと思われる。科学者の二面性をよくよく知っていたがゆえに、それに惑いつつ、理想の姿を追いかけようとしたのかもしれない。 科学者が錠前屋ばかりになろうとしている現在、賢治が抱えたジレンマを今一度思い返してみるのも必要なのではないだろうか。 (宇宙物理学者)
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| 【報告】 |
第15回 宮沢賢治賞イーハトーブ賞決まる 第15回宮沢賢治賞・イーハトーブ賞は、先の理事会におきまして次のとおり承認し、花巻市より発表されました。 受賞された方々にお喜びを申し上げますとともに、これからのますますのご活躍をご祈念いたします。 経過及び選考理由について宮沢賢治学会イーハトーブセンター賞選考委員会 委員長 栗原 敦
《宮沢賢治賞》宮沢賢治賞については計二十八点を選考対象とした。本賞の奥田弘氏は、近年まとめられたものに『宮沢賢治研究資料探索』、『宮沢賢治の短歌を読む』があるが、これに止まらず、宮沢賢治の理解を深めるために必要とされる、客観的な研究資料の数々を生涯にわたって探索しつづけ、誰もが知らず知らずのうちにその御陰をこうむっている多くの仕事を果たされた。不幸にして六月二十三日に亡くなられたが、既に賞の選考の対象として審査していたことから、異議なく決定に至ったものである。 奨励賞の石黒耀氏は、『死都日本』において破局小説・危機小説の枠組みを用いつつ、火山・地震・地学への関心が世界観にもおよび、現在の社会と文明のあり方に新たな見直しを迫り、「グスコーブドリの伝記」をはじめとした宮沢賢治作品のモチーフに通う本質的なものもうかがわせて、今後のさらなる発展が期待できると評価された。 《イーハトーブ賞》イーハトーブ賞については計二十六点を選考対象とした。本賞の川村光夫氏は、早くに戯曲集『うたよみざる』、評論集『素顔をさらす俳優たち』の著書もあるが、湯田町を拠点とする劇団「ぶどう座」で劇作と演出を担当することなどを中心に、ゆだ文化創造館銀河ホールの設立に尽力するなど一貫して地域の文化の深化・発展に努めた業績が評価された。 奨励賞の花巻ユネスコ・ペ・セルクルは、一九六六年の設立以来、宮沢賢治作品の演奏をはじめ、多年にわたって音楽活動を通じて平和と宮沢賢治の精神の普及に努めたことが評価され、また、松香洋子氏の業績は、児童英語教育の立場から宮沢賢治作品をその教材とすることを試みたが、そこには従来にない新鮮な可能性が見られ、奨励に値すると認められたものである。 ■宮沢賢治賞
故 奥田 弘 宮沢賢治とその周辺に関する研究資料を生涯にわたって探索し続けて、今日の賢治研究にとっての欠かせない基盤を築いた功績に対して。 ■宮沢賢治賞奨励賞
石黒 耀 火山学・地質学をはじめとした様々な知見を見事に組み合わせ、危機を媒介にし現代の社会と文明に警鐘を鳴らす成果としての著書『死都日本』に対して。 ■イーハトーブ賞
川村 光夫 地域に根ざした演劇活動から国際的な上演活動までを通じて、多年にわたり一貫して地域文化の深化と発展に寄与し続けた実践に対して。 ■イーハトーブ賞奨励賞
花巻ユネスコ・ペ・セルクル 「平和の輪」を意味する名称とともにユネスコ精神、宮沢賢治精神を支えに、平和への願いを歌に託して活動してきた長年の実践に対して。 ■イーハトーブ賞奨励賞
松香 洋子 児童英語教育の研究と実践に根ざした、宮沢賢治作品の英語への翻訳および英語教材化がもたらす成果と新しい展開の可能性に対して。 ■宮沢賢治賞
■イーハトーブ賞
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受賞者の略歴と
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【宮沢賢治賞】
■故 奥田 弘(おくだ・ひろし)氏 一九二〇年六月一日、茨城県多賀郡河原子町(現日立市河原子)生。一九四四年早稲田大学文学部卒業。戦後、一九四八年都下北多摩郡田無町立田無中学校教諭となり、以後中野第三中学校他都内公立中学校教諭として勤務するかたわら、宮沢賢治研究をすすめる。一九九〇年、日本大学高等学校非常勤講師を最後に教職を退く。 宮沢賢治学会イーハトーブセンター設立に際し発起人に加わり、一九九〇年より二年間理事を務め、また、機関誌「宮沢賢治研究Annual」創刊以来「ビブリオグラフィー」作成委員を没年まで継続して務めた。『校本宮澤賢治全集』、『新校本宮澤賢治全集』(ともに筑摩書房)編纂委員。二〇〇五年六月二三日死去。
【宮沢賢治賞奨励賞】
■石黒 耀(いしぐろ・あきら)氏
【イーハトーブ賞】
■川村 光夫(かわむら・みつお)氏
【イーハトーブ奨励賞】
■花巻ユネスコ・ペ・セルクル 一九六六年、宮沢賢治先生の教え子、照井謹二郎氏のよびかけにより、花巻ユネスコ協会設立。同時に、その活動の一環として、婦人コーラスが発足した。「人々の心の中に平和の砦を築く…」というユネスコ憲章前文にちなみ、名称を「花巻ユネスコ・ペ・セルクル(平和の環の意)」として合唱活動を続けている。設立の動機が、宮沢賢治の精神によるところから、一九七〇年九月一九日賢治詩碑「早春の広場」(元花巻農業高校敷地内)完成記念の集いにて合唱、九月二一日賢治祭参加。以来毎年参加し、賢治作品を歌い、八三年五月二九日賢治ファンタジー第一回演奏会参加、以来毎年参加出演するなど、多くの賢治関連の行事に参加出演してきた。 一九八六年二十周年記念演奏会開催が契機となり、翌年、第二回民間ユネスコ運動世界大会開会式で演奏する幸運に恵まれ、マドリード、バルセロナ、トレドで演奏。日本の歌、賢治作品等を紹介し、国際交流にも努めた。一九九〇年、国際識字年に第二回演奏会を開催、ユネスコ世界寺子屋運動募金に協力、以後、演奏会にはこの募金活動を続けている。一九九六年、賢治生誕一〇〇年の年に三十周年記念演奏会を開催、委嘱作品「春と修羅」を発表。一九九八年、環境問題をテーマに「森と水のメッセージ」を演奏する等、賢治作品や、ユネスコ運動に関連したことを主題に演奏会に取り組んできている。 一九九九年花巻市教育表彰(学術文化部門)を受ける。
【イーハトーブ奨励賞】
■松香 洋子(まつか・ようこ)氏 一九四二年五月十七日中国公主嶺生。玉川大学文学部卒、早稲田大学専攻科卒、カリフォルニア州立大学サンフランシスコ校大学院修士課程卒。 玉川学園高等部で英語教師をした後に、結婚、退職。五歳と三歳の子どもをつれてアメリカ留学。この体験をきっかけとして児童英語教育に関心を持つ。 一九七八年に松香フォニックス研究所を設立。出版、英語教室、英語指導者養成セミナーの三つの部門を設置し今日に至る。 一九九三年はオランダに滞在し、ヨーロッパにおける小学校英語活動の普及につとめる。 現在、松香フォニックス研究所代表、松香フォニックス全国研究会会長、玉川大学・大学院講師、NPO教育支援協会特別顧問、小学校英語指導者認定協議会(J│SINE)理事、その他、全国の小学校で英語活動の指導にあたる。
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| 【追悼】 |
追悼・宮城一男さん
宮沢賢治学会イーハトーブセンター初代副代表理事を務められた宮城一男氏が二〇〇五年五月三十一日にご逝去されました。謹んで哀悼の意を表します。 斎藤文一 宮城一男さんが今年五月三十一日に七十六歳で亡くなられた。そのお病気は大腸がんだったという。氏の、宮沢賢治学会イーハトーブセンターにおける生前の御指導と御厚情にたいして心からお礼を申し上げ、哀悼の言葉を捧げたい。 宮城さんは、東京都出身で、東北大学理学部卒業の後、地質学者として弘前大学教授、同大学教養部長を経て、秋田桂城短大(現秋田看護福祉大学)学長等を歴任された。教育界にも大きな足跡を残されたのである。 宮城さんが宮沢賢治研究者として颯爽と登場したのは、『農民の地学者│宮沢賢治』(築地書館)の発表で、これは世に非常な衝撃をあたえたのである。本書の中で有名なものが、「賢治が花巻農学校の教師時代に卒業アルバムのためにとった」といわれる一枚の写真である。賢治は、正装をしていささか緊張した面持ちで立っている。問題は、その背後に描かれた黒板の絵である。それは花巻を中心とした北上平野の東西方向の地質断面図で、その中には何やら意味ありげな数個のローマ字が添えられているのだが、それが本書によって見事に解読されたのだった。これらのローマ字は地質時代名の省略記号(頭文字)で賢治はこの黒板の図を示しながら、生徒たちにふるさとの大地の生い立ちの話をしていたにちがいない。宮城さんの解説はとても平明かつ丁寧なもので、まるで賢治その人が、私たちの眼の前で語りかけているような、臨場感のあふれるものだった。新しい賢治研究の時代を告げる感動の著作であった。 そういう地質学を核とするサイエンティスト・賢治像を中心とする、宮城さんの役割は大きく、当然、宮沢賢治記念館の建設と、宮沢賢治学会イーハトーブセンターの設立にあたって大任を果たされたのである。初代の理事会では、宮城さんは副代表理事に選ばれた。今でも思い出すのだが、あのころは皆よく議論をしたものだ。「賢治賞などは止めてしまえ!」という意見が出たことがある。これはなかなか強硬なもので、その理由は、「ホメラレモセズとある」ではないか。というのだ。これにはみな固唾をのんだが、だからといって「ホメモセズとも書いていない」ということで決着したのだった。学会の名称にも難渋した。「宮沢賢治学会」といえば簡単だが、これでは市民が納得しない。といって「イーハトーブ」では、世間にはまだ通用しない。宮城さんはイーハトーブ説だったと思う。最後まで持ち越し、ぎりぎりのところで決まった。宮沢賢治学会イーハトーブセンターという、長たらしい名称はこうして誕生したのだった。 宮城さんは、あの柔和で丁寧なお人柄によって、多くの若手賢治研究者を育てられたことも忘れてはならない。その中には、最近心不全のため惜しまれて急逝した(五月三十一日)、第二回賢治賞奨励賞受賞者の對島美香さんも居る。その他にも、宮城さんの教えを受けた人は多い。 私個人でいえば、二人とも世に出たばかりのころ、大沢温泉山水閣で、宮沢清六さんを囲んで一夜語り合ったことがある。大いに談じられた御機嫌の清六さんが懐かしい。また宮城さんに連れられて、豊沢川源流を探訪し、手をとるようにして地質学、地形学、岩石・鉱物学、火山学、地史学などの蘊蓄を傾けられたことがある。私は感動の連続でひたすら聞き入るばかりだった。今さらのようにその得難い友情を思うのである。心からの感謝をもって、謹んで宮城さんのご冥福を祈りたい。 (初代宮沢賢治イーハートーブ館長) 奥田弘さんを悼む
宮沢賢治学会イーハトーブセンター初代理事を務められた奥田弘氏が二〇〇五年六月二十三日にご逝去されました。謹んで哀悼の意を表します。 天沢退二郎 いつのまにか、こうして「奥田弘さんを悼む」文などを草する時が来てしまったとは、まったく、何たることか! あらためて考えてみるまでもなく、奥田弘さんの仕事と存在は、いつでも、どこまでも信頼するに足るものなので、どこでも、いつまでも、あり続けるように私たちは思いこんでいた。それは、こうして亡くなられたあとでも、なおそのように思いこんでいるのではないだろうか? たとえ「奥田弘著」と署名された著書が数冊にとどまろうと、またそれらに収録された以外の決して少なすぎはしない雑誌発表論文の数がどうであろうと、奥田弘さんの仕事はそれらの枠をはるかにあふれ出て、あたかも縁のないひろがりを持っている。私たちが自分の論文や著作の「注記」に〈奥田弘氏の何何を参照〉とか、〈奥田弘氏の何何による〉とか、〈これについては早くから奥田弘氏の研究何々がある〉とかいった言及をたとえしてもしなくても、そんな配慮などまるで無意味にするほどまでに、私たちは奥田弘さんの仕事の恩恵に浴しているからである。あえていえば、奥田弘さんの《宮沢賢治》に関わる仕事は、「奥田弘」という署名をこえて、まるでいたるところに遍在しているかのようだ。 私自身が奥田弘さんにお会いしたのは、一九七〇年代の初めに、『校本宮澤賢治全集』の編纂委員としての共同作業がはじまるにあたって筑摩書房の一室で、入沢康夫さんや小沢俊郎さんやと一緒の顔合わせの時のことで、その後現在もまだ「索引」巻を進行中の『新校本全集』にわたって、延べ三十余年におよぶ勘定になる。この間、奥田弘さんの仕事は、著書の表題に用いられた〈資料探索〉という語で一応括られるように見えるかもしれないが、しかしその内実が〈探索〉とか〈博捜〉といった概念にとどまるものでないことは、『宮沢賢治研究資料探索』所収のどの一篇を読み入るだけでただちに明らかになる。 そもそも、いかなる資料を、何ゆえに探索しなければならないか││その資料の価値と在り処に対する洞察。次に、どのようにそれを探索するかについての、方法と段取り。さらにいよいよ見付かったその資料を〈読む〉という作業の遂行。そして読み取った結果をどこに位置づけ、活用するか││奥田弘さんの〈資料探索〉は、これらの複合した行為の成果として、論文化され、あるいは自他のさまざまな資料へと組み込まれていく。しかもそれらの成果はあらゆる読者研究者に、全く惜しみなく提供されているのである。 要するに研究者としての奥田弘さんは、文字通り、労を厭わず、無私であり、私情・私怨に動かされることなく、篤実・着実に仕事を進められたのであって、これは決して美辞麗句でもなければ、すべて当然のことでありながら、なかなかに、言うは易くして行われがたい││しかしこう言うと何かもしれないが、現在の宮沢賢治研究者の多くがこのような奥田弘さんのひそみに倣って無私・誠実・着実な仕事を重ねているのは、偶然ではない。 また、これも言うまでもないことながら、奥田さんの仕事、文章、話しぶり、表情のすべてに、《宮沢賢治》への無言の信頼・敬愛の念が、全面的に、自らにじみ出ていた。 こうして、奥田弘さんは残念ながらもう居られなくなったけれども、《奥田弘》さんはこれからも、いたるところに、いつまでも居られるのであると、確信・確認してここに拙稿を終える。合掌。 (代表理事)
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イーハトーブ 〈映画〉学 |
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| 投稿エッセイ |
クラレの花中谷 俊雄 『ペンネンネンネンネン・ネネムの伝記』は、荒唐無稽な化物世界である。したがってそこに咲く花も摩訶不思議な名前を持っている。クラレという植物がどこにあるだろうか。 世界裁判長のネネムは、ある日曜日に検事や判事など部下三十人をつれて銀色の袍をひるがえしながら丘へやってくる。「クラレといふ百合のやうな花が、まっ白にまぶしく光って、丘にもはざまにもいちめん咲いて居りました。ネネムは草に座って、つくづくとまっ青な空を見あげました。 そのときサンムトリの山が「ガーン、ドロドロドロドロドロ、ノンノンノンノン」と爆発し「それから風がどうっと吹いて行って忽ちサンムトリの煙は向うの方へ曲り空はますます青くクラレの花はさんさんとかがやきました。」 二回目の爆発は「クラレの花がきらきら光り、クラレの茎がパチンパチンと折れ、みんなの影法師はまるで戦のやうに乱れて動きました。」 そして三回目の爆発では「ネネムをはじめばけものゝ検事も判事もみんな夢中になって歌ってはねて踊りました。」 「フィーガロ、フィガロト、フィガロット。 世界裁判長ネネムは「踊ってあばれてどなって笑ってはせまはり」得意の絶頂にあった。 「その時どうしたはずみか、足が少し悪い方へそれました。悪い方といふのはクラレの花の咲いたばけもの世界の野原の一寸うしろのあたり、うしろと云ふよりは少し前の方でそれは人間世界なのでした。」 ばけものが人間界に出ることは犯罪である。その犯罪を裁判する裁判長が出現罪を犯した。さあ大変だ。その後、物語はどうなるか。サンムトリは五回目の爆発をやり「風がどっと吹いて折れたクラレの花がプルプルとゆれました」。以下原稿なしで終わっている。 南米の博物誌には、必ずクラーレという矢毒が出てくる。curareとつづり、日本語訳ではクラーレと表記される。当時まだ統一した表記がなかったとしたら、これをクラレと読んでもおかしくはない。クラレは謎の植物であったから、クラレという毒草が化物世界に咲くという創作はありうるであろう。 イーハトーブセンター会報第14号の表紙はクラレであった。北條光陽はカサブランカらしき白百合を雲のようなものでぼかして写している。「クラレといふ百合のやうな花」が、発展形の『グスコンブドリの伝記』ではそのままだが、『グスコーブドリの伝記』では形容詞の百合を昇格させて、百合になった。 化物世界のクラレは、アマゾンの奥に秘められた謎の植物として、さまざまな空想を描かせるものであっていい。それが作者の狙いであろう。クラーレの謎を解くためにどれだけの人々がかかわったか。一六一六年に没したイギリスのウォルター・ローリーは、ギアナからクラーレの標本第一号を持ち帰った。その後探検家は中南米に出かけると、こぞって紀行文にクラーレのことを記したが、これを摩訶不思議な霊薬にしたり、魔術めかしたので毒の正体を明かすことにならなかった。 毒物史の中では必ずクラーレに一章を設けている。南米大陸が西欧諸国によって発見されて以来、クラーレは伝説的な毒薬であった。ヨーロッパ人が圧倒的に優勢な鉄砲の威力で征服しても、いつ何時毒矢が飛んでこないとも限らない。その恐怖が毒薬の存在を大きくした。その報告の多くは、ほんのちょっぴりの事実と著しく誇張されたものであった。 コウモリ、カエル、ヘビ、アリ、エイ、毛虫、木の根、皮、乳液、蔓草と原料には、さまざまな噂があった。「クラーレはほんのかすり傷を負ったように見えても間違いなく死ぬ」と一六一五年にマドリードで出版された本に書かれていた。 エクアドルのカネロス族は、住居から五十km離れた密林にランチョーという小屋を建て三十種以上の原料からクラーレをつくる。煮詰めるには老婆を小屋に閉じ込めて世話をさせ、その老婆が死ぬと毒が利いて完成する。また、別の部族では子供に傷を付けて血を流れさせ、クラーレを近づかせ血が逆流すればよし、しなければ更に煮詰めねばならない。ある部族は出来上がった毒を試しに矢に塗って木を射る。三日して木が枯れれば毒は上質で戦いや狩りに使ってよしとされた、などなどである。 一七三〇年代に地球を測った男、フランスのラ・コンダミーヌは、赤道の一度を測った後、アマゾンを下りクラーレの標本を持ち帰った。これは分析の結果「数種の蔓植物をはじめとする、多数の植物の汁から煮出したもの」ということがわかった。これが科学的調査の初といわれる。 一七九九年に南米に向けて出発したドイツのフンボルトは「白人は、石鹸とあの黒い火薬を作る秘訣を知っておる。この粉は音を立てるのが玉に瑕で、撃ち漏らせば、けものをおっぱらってしまう。わしらの調合するクラーレは、おまえさんがたの作りなさるどんなものよりすぐれておる。これは草の汁で、音もなく獲物をしとめるのじゃ」というクラーレ作りの現場を見学している。 クラーレは、広大な中南米各地の矢毒の総称である。原料も効き目も名称も異なる矢毒だが、一括りにしてみんなクラーレと呼ばれる。それは運動麻痺を起こす神経毒である。ツヅラフジ科コンドデンドロン・トメントースムとフジウツギ科ストリキノース・トキシフェラという蔓草が主体となっている。現在では痙攣性疾患や外科手術の筋弛緩剤として、また破傷風の治療薬として使用されている。 少なくとも賢治の時代には、クラーレがなんたるものかということが大体わかっていたはずである。だがこういう科学的な報告は一般にはなかなか浸透しない。エンターテーメントたる探検記は、摩訶不思議の毒薬が幅をきかしていたのであろう。 (東京都北区)
パッセン大街道の方へ高野 睦
童話の「蛙のゴム靴」や詩「冬と銀河ステーション」に出てくるパッセン大街道、その名の由来については『新・宮澤賢治語彙辞典』でも二、三の説が紹介されているが、もひとつピンとくるものがない。ところが、賢治とはまったく関わりのない現代のSFと推理小説の中で、この印象的なイーハトーブ語にそっくりな実在の地名に出会ったのである。 アーサー・C・クラーク&スティーブン・バクスター作/冬川亘訳『過ぎ去りし日々の光』(ハヤカワ文庫)下巻六十?六十一頁には〈…スターリングラードやパッセンデーレ、ゲティスバーグ、その他の情け容赦もない戦場の…〉とあり、レジナルド・ヒル著/秋津知子訳『ベウラの頂』(ハヤカワ・ポケミス)八十三頁には〈あのパッシェンデーレのときのような〉と書かれている。そしてそれぞれに訳注がつけられ、これがベルギーの地名であることが告げられている。原著はそれぞれ二〇〇〇年、一九九七年の刊行だから、賢治が目にしたはずもない。地名そのものも、たとえば東京にあるベルギー観光局発行のツーリスト・マップにも、まことに小さな文字でPassendaleと印刷されてはいるが、これとて賢治が地理的興味からわざわざ拾い出したとは考えにくい。 私がピンときたのは、訳注の中に〈第一次大戦の激戦地〉とあったからである。スターリングラードやゲティスバーグでのそれに比肩したらしい激しい戦闘の模様は、おそらく新聞などのメディアで日本・岩手にも届いたはずだ。(スターリングラードの方は第二次大戦だから、今は無視するとして。)激動する当時の欧州情勢は、青年賢治にとっても関心の赴くところだったのではないか。戯曲「饑餓陣営」には〈ベルギ戦役〉の語も見える。 ここで私は何かを実証しようとは考えていない。かりに新聞記事等の所在がつきとめられたとしても、それを賢治が目にしたかどうか、誰にも確定できないからだ。それよりも、カン蛙がゴム靴を履いて、すっ、すっ、と歩いていく雨の道をパッセン大街道と名付けることで、はるかに遠い戦場で泥濘と飢餓に苦しめられている若い兵士たちを賢治は思いやっていたのかもしれないと想像してみたい。 (茨城県取手市)
「烏の北斗七星」を遺書に記した戦没学徒の記録と歴史白木 健一 賢治ファンだった学徒の戦没六十年に当り、残された文章等から戦時下の一人の若者が賢治作品をどのように読み行動したかを調べた。 憲法をめぐって戦争と平和について考える事の大事な今、歴史と共に振り返ってみたい。 今回紹介する佐々木八郎氏は、あざらしのタマちゃんで知られた多摩川近くの東京の高台に住んでいた人である。彼の日記やエッセイ等は広く公刊されているので、これらを基に賢治に関する部分を中心に、前後も含めて見てみよう。 [残された日記とエッセイ、短歌] 十字屋版宮沢賢治全集が刊行開始された昭和十五年、旧制高校二年(十七?十八歳)の日記。 四月四日上高地入り、朝の穂高連峰、朝日にキラキラと照りかえる落葉松や白樺の林、さながら一幅の絵だ。僕の偶像はここにあった。もしも人間がポリス[国家]的な性質を持たぬとすれば、僕はこの偶像のために捨てる命を惜しいとも思わぬ。 十月十三日、「風の又三郎」を友人と見に行く。 とあり、この頃から賢治作品に親しみ始めたと思われるが感想等は記されていない。翌十六年十二月わが国は米英両国と戦争を開始する。その直後の日記。 今は国民的な感激のようなものに支配されて、"負けるな"という意地で頑張っている。がこれが果たして本当のものかどうか、国民の真の叫びかどうか、…第一、敵性国家という言葉を聞いてもピンと来ない。ベルだってモリス[英人高校教師]だって人間だ。人間同士は何の敵愾心も持たない。ただ国家という観念が、機構が争っているのだ。この観念にどれだけの具体性があるか、…現在、皇恩の下にこの帝国に生活して豊かに生きることのできる僕は、御召しとあれば赴くことを否むものではないし、戦争などに押しつぶされるほど弱い心ではないつもりだ。しかし、僕は断固として反戦論者として自らを主張する。戦争を除くことに努力するつもりだ。 わが方の戦況があやしくなってきた昭和十八年春の日記に賢治作品が登場する。 宮沢賢治の諸編を再び読む「全体が幸福にならない中は個人の幸福はあり得ない」「既成の宗教や道徳の虚飾、虚偽でなく、正しい美しいものの芽をしめす」などに今更のような感銘を覚える。「グスコーブドリの伝記」などに描かれているユートピア、たしかにその通りだと思う。…要はそのユートピアを如何にして実現するかということだ。…各自の才能に応じて最善の努力を尽くすものがそれだけ報いられるということの保証される世界にすることだ。そこでのみ人は自分の道を真直に歩くことが出来る。…宮沢賢治の「烏の北斗七星」「祭の晩」を読む。何とも言えない。すばらしい。美しい。…… 南太平洋戦線での敗退が続く昭和十八年十月、理工系を除く学生・生徒の徴兵猶予停止と第一回学徒兵の入隊が決定される。入隊を前にして学徒出陣壮行会を兼ねた高校のクラス会が開かれ、各自が遺書を持ち寄ることになる。この時に宮沢賢治論とも言えるエッセイ「"愛"と"戦"と"死"、││宮沢賢治作、"烏の北斗七星"に関連して│」を朗読発表する。これは賢治童話「烏の北斗七星」全文と以下にその一部分を紹介する文章からなっている。 宮沢賢治はその生い立ち、性格から、その身につけた風格から、僕の最も敬愛し、思慕する詩人の一人であるが、彼の思想、言葉をかえて言えば彼の全作品の底に流れている一貫したもの、それがまた僕の心を強く打たないではおかないのだ。…僕の最も心を打たれるのは、大尉が「明日は戦死するのだ」と思いながら、「わたくしがこの戦に勝つ方がいいのか、山烏の勝つ方がいいのか、それはわたくしにはわかりません。みんなあなたのお考えのとおりです。わたくしはわたくしにきまったように力一ぱいたたかいます。みんな、みんな、あなたのお考えのとおりです。」と祈る所と、山烏を葬りながら「ああ、マジエル様、どうか憎むことのできない敵を殺さないでいいように早くこの世界がなりますように、そのためならば、わたくしのからだなどは、何べん引裂かれてもかまいません」という所に見られる、「愛」と「戦」と「死」という問題についての最も美しい、ヒューマニスティックな考え方なのだ。… このエッセイは後々まで、学徒兵の間で読まれていた形跡がある。 学徒出陣と呼ばれた徴兵は、日米開戦の際に米国の学徒が争って軍隊を志願し(初代ブッシュ大統領はその一人で空母機パイロット)、彼等が戦場に姿を現わし始めたのに対し、遅れをとって我国が急遽大量に軍用機の乗員を養成する事を主な目的として行われた。その徴兵学徒の一人として佐々木氏は戦闘機パイロットへの道を進む事になる。実用機ゼロ戦による訓錬を開始した昭和十九年十月、米軍はフィリッピンに上陸、これを撃退するため劣勢の我軍は特別攻撃隊による組織的な体当り攻撃を実行し始める。 昭和二十年三月、訓練基地でも全員「志望」しかありえないような雰囲気の中で、特攻隊員の募集と編成が行われ、佐々木氏は最初の隊員に指名される。 その日の晩、気遣ってくれる指名を免れた親しい友の話し掛けに応じて、むしろ宥めるような口調で淡々と宮沢賢治のことを語り、山の話をしたという。 やがて米軍は沖縄に上陸、佐々木氏らは体当たり訓錬の半ばで急遽九州南端の特攻基地鹿屋に移動する。そして四月十四日、神風特攻四十六機の中の一機として、徳之島近海の空母部隊攻撃に飛立ち、全機共に還る事はなかった。 出撃を前にして書き遺していった短歌一首。 日のもとを あや匂せて逝く春と ともに散らなむ若櫻花 二十二歳の春であった。折しも基地は八重桜の満開だったという。 この日、米軍は戦艦など四隻が損傷、空母の損害は伝えられていない。 [回想とまとめ] 賢治作品の受取り方について物理学者である弟の佐々木泰三氏の回想がある。(「佐々木八郎追憶」一高同窓会誌 向陵37巻2号 平成七年、から引用) …二人の好みが完全に一致したのは宮沢賢治であった。宮沢賢治の童話と詩には、対象の中に視点を移して自然を見る新鮮な美しさ、描く対象すべてに対する愛、過酷な運命の下にある者、虐げられた者、弱いものの誇りやしたたかさがあった。死が何時かは来る、というより、もうそれが目の前に迫っている当時の若者にとって、賢治の童話の到る所に漂う死の予感と、死の意味への洞察が心に迫るものを持ったのは当然だったかもしれない。私はそれを例えば「おきなぐさ」とか「よだかの星」に感じたし、八郎は「烏の北斗七星」にそれを見つけたようだ。 賢治は「烏の北斗七星」について「戦ふものの内的感情です」という広告文を付しているが、佐々木八郎も戦に出るに当って自らの心情に近いものをそこに見出したのであろう。 特攻指名の晩、宮沢賢治と山について語ったのは、世の幸せや進歩に身命を捧げたいという志を同じくする賢治、それと日記にあったように命を捨てても惜しくないという山、これらに出会えたことの幸せと、絶ち難い訣別の想いからであろう。 そして短歌は、敗け戦の中でnoblesse oblige(エリートとしての義務)を果たし命を捨てるのだ、という最後の一念を現しているものと思われる。その中の「逝く春」再びめぐり来る事のない春、という表現には胸に迫るものを覚える。 [あとがき] 佐々木八郎氏戦死の僅か四ヶ月後、誰もが想像だにしなかった原爆攻撃の悲惨の中に軍国主義の我国は崩壊し、翌年新たな進路を示す憲法が作られた。 その憲法に謳う「戦争の放棄」それは彼が理想としながらも断念せざるを得なかった「憎むことのできない敵を殺さないですむ世界」へと進む第一歩であった。この一歩を守り進むか、或は戻るかどうするか、今私達は問われている。 この文章は、第七回研究発表大会で発表した「戦没学徒の記録に見る宮沢賢治」の要約に加え、その後の日本戦没学生記念会(わだつみ会)による「平和への遺書・遺品展」(平成十四年八月)を機に収集した資料をもとに補筆したものである。 (東京都世田谷区)
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「ヒドリ-ヒデリ問題」の取り扱いについて八重樫新治 会報第30号への投稿で、入沢氏は「ヒドリはヒデリの書き誤り」とする論稿を寄せているが、断ずるに性急なあまりかなり独断的であると感じた。編集者等のコメントも無いままに、当学会(宮沢賢治学会イーハトーブセンターのこと)の会報に紹介され、あたかも当学会の見解として受け取られかねない形で世間に発信されたために、「雨ニモマケズ」に関する指導的な扱いであると受け止められる可能性が大きいことを危惧する。 入沢氏が論じている内容は今後の指針とするには無理があり、同時に当学会が果たすべき役割があると考えてこの文を書いた。なお、氏が引用する十三年前の「宮沢賢治」誌は当会とは直接関係ないゆえ、今回の氏の論稿に対してのみ考察する。もちろん今回氏が引用している部分は正しく旧稿の主旨を反映していると考えたうえで、多くの会員の目に触れる機会の無い文章に言及するのは、読者に対して不親切だと考えるからである。 1・問題の所在 はじめに入沢氏の論点を拾い出し、氏が論理的に無理な立論をしていることを指摘するつもりだが、その前に氏が問題視する最近の動向についての見方を確認する。それは最近の傾向として、刊本や石碑において賢治が遺した原文のとおり「ヒドリ」と表記する例が出てきているということについてである。これは制作者の見識として正当に論じられ評価されるべきことである。氏が旧稿の引用ではなく、新たに付加した文章の終わり近くで強調している「一知半解の不適切な扱い」とか「賢治が書いた通りに碑に刻むというなら、碑の裏の銘板に「『ヒドリ』は『ヒデリ』の作者の書き誤りであるがそのままにする」といった主旨の注記がなされることが建碑者の、後世に対する責任として不可欠だろう。」というような言葉で自説を強引に押し付けようとしていることは、少なくとも学問的な考察からは大きくかけ離れたものなのである。むしろ氏が述べる「これまでのすべての刊本では、『ヒデリ』の書き誤りと見て校訂し本文としている。」ことを良しとする論理をそのまま援用すれば、「十三年前と異なり現今における動向は、刊本や石碑の文は原文どおり『ヒドリ』とする傾向が見られる。」として、それを是とする論につなげてもよいはずだ。 さて入沢氏の論拠の検討に移るが、「弘法も筆のあやまり」という諺を援用した一般論を、「賢治にしても例外ではない」とし、「賢治にはきわめて顕著である」「たいがいは、書いたとたんに気がついて、抹消して、正しく書き直しているが、気づかず、そのままになってしまうものもある。」と論をすすめ、今回の議論の的である「ヒドリ」も「ヒデリ」の間違いであるという結論を導いている。ここには論理が直結する手がかりは何も示されてはいない。この部分では、当時の刊本に書いてあることが正しいと言っているだけであり、入沢氏自身は、「筆の勢いでつい誤った字を書いてしまう、」と強調することで、だから「ヒドリ」は間違いだという結論を提示しているのである。だがこの詩はただ勢いで書いたままのものではなく、見直しが行われ訂正されているのだ。賢治が見直しても気付かなかったのか、見直したが訂正しようとしなかたのかを論ずるべきだろう。 この手帳にはメモや走り書きの頁もあるが、詩「雨ニモマケズ」の記入は、特別丁寧な筆致であることが見て取れ、明らかに書きなぐりのメモとは異なる。誤字訂正だけではなく、表現上の推敲の手入れもおこなわれている。また十一月三日以降も、この手帳には数々の作品が書き込まれている。年末か翌年初めまで使用されたという新校本全集の考えを採るならば、およそ二ヶ月間になる。数十回はこの手帳を手にしている可能性は推定できる。その際に、既に書いた頁に目を通すことがなかったと断定するには無理がある。こだわりやの賢治である、その後も何回かは見ている方に可能性の大きさを見る。もちろん毎回推敲する訳ではないが、赤鉛筆と青鉛筆の記入があることは、黒の鉛筆による手入れ修正とは別にこの詩の頁を開き記入する機会があったという事実の証明にはなる。放置していたわけではない。こうして現在の「雨ニモマケズ」は遺されているのである。このような考察が、賢治は誤りを遺さなかったという結論に直結しないことは承知しているが、状況判断としてカナ一文字だけ誤ったものを遺したとすることに比べれば、同等以上に理のある考察ではあろう。言葉で自己と宇宙を表現しつづけた詩人賢治が、ヒドリと書き遺している事実にはそれなりの重さがある。 入沢氏が直接の例としてあげている「毘沙門天の宝庫」での本人が訂正済みの一例は、たしかに筆の勢いと思われるが、本人が書きかけ途中で訂正している部分をとりあげて誤りの傾向だと話を広げるのは正しくない。この論をすすめると、訂正個所はすべて賢治の傾向的誤りだと断定することになる。そして、「確かな根拠がいくつもある」と言いつつ、ヒデリを正しいとする根拠として、「冷害と旱魃の対比」をする賢治の考え方を文章のつながり上も生かしたいとして、そのような用例をいくつも示している。しかしこれも、「一度しか使われないヒドリは誤り」という結論を論理的に導き出すことにはならないし、もちろん「誤り」説明の根拠ではない。 詩人が文章の対比を重視して詩をまとめあげるか、あるいは途中に破調の部分を入れるか、それは詩人の詩的価値に対する考えによるものであろう。ヒドリが詩人の遺した表現として現存するからには、先ずそれが相当なものとして尊重される必要がある。 以上のように、入沢氏のヒデリ論は根拠が不確かであり学問的に完成されたものとは言いがたい。当学会がこの「ヒドリは誤り」論に正当性を与えているように見られるような、処理の仕方は避ける必要があろう。 2・当学会の役割について 宮沢賢治とその作品を愛し、みずからの生き方をそれに照らし合わせながら、より良く生きようとする人々が会員として集う場、それが当宮沢賢治学会イーハトーブセンターであろう。花巻市の行政とタイアップしながら、全国的に展開している会員達の活動を支え交流を深めてきている当学会の活動の主旨を考えるとき、この「ヒドリ-ヒデリ」問題に関してどう対処していくのかは、学会内外の人々の注目するところだ。入沢氏の投稿をきっかけとして、この問題をきちんと取り上げ、当学会として学問的な厳密さと会員が納得できる対処をするためにはどうすればよいか、を議論し進むべき方向を打ち出す必要がある。 一例として私の考えを述べれば、「ヒドリ-ヒデリ」問題の解明に関する当学会の主体性をもった学問的な解決の方法論とは、◎手帳・原稿成立過程の考察(賢治による推敲過程の厳密な分析)、◎ヒドリ用例の収集(方言や職業上の用語などを含めて)◎ヒデリ表記が通用させられた歴史的経緯の解明(公表当初からヒデリと表記され、既成事実となったことの影響に関する考察)、◎ヒドリ・ヒデリ解釈諸論に対する吟味(さまざまな理論や主張の分析と評価)等、目配りの行き届いた冷静な研究のことで、そうした手続きを通して結論を得たい。 また、◎諸々の考えや理論が集約しきれない場合にとるべき方策、についても十分に検討する必要があろう。 そのようなものとして当学会の今後の方向性を打ち出したいと念願し、会員諸氏の更なるご意見を伺いたい。 (花巻市) 「あとがき」に経緯を記しました。
ヒドリ説の難点入沢 康夫 会報の30号「ヤナギラン」に、「ヒドリ││ヒデリ問題について」という小文を載せて頂き、その際に誌面の制約からややせき込んだ言い方になったところは、web上の《宮沢賢治学会イーハトーブセンター》ホームページに「『ヒデリ』の文献的根拠」と題する文を寄せ、さらに会員の渡辺宏氏の運営されているメール・マガジン「Kenji-Review」(四月三十日付323号)には「『ヒドリ=ヒトリ(一人)の誤記』説のこと」という文を載せてもらって、ある程度おぎないをつけられたと思っていますが、なお、「ヒドリ」を日傭取りのことと受けとってそのままにするのは何故不都合なのかを、以下に簡略に記してみます。 「ヒドリ」は方言の「ヒドリ」であって、誤記ではないという主張が一九八九年になされた時、その方言の意味は《日雇い稼ぎの賃金》のことだと、説明されていました。だから、「ヒドリノトキハナミダヲナガシ」は、《日雇い稼ぎをして生きていかねばならぬ賃しい農民の身の上を思いやって涙を流す》という意味になり、この詩にふさわしいのだ。そんなふうに言われた訳ですし、いまでも「ヒドリ」説を採っている人は、その観点を維持しているように思われます。しかし、実際にこの「ヒドリ」に上記の意味をそのまま当てはめてみますと、《日雇い稼ぎの賃金の時は涙を流し》となり、日本語としては奇妙な内容になる。そこで、「ヒドリ」を賃金でなく、日雇稼ぎの労働そのもののことだと、少し拡張して当てはめると、《日雇い稼ぎの時は涙を流し》となります。こうすれば、日本語の表現としていちおう無理がなくなりますが、今度は、次のような問題が生じます。 「○○○○の時は、△△△△する」という文の前半の「○○○○の」のところには、辞書によれば行為か状態・環境を表す語句(連体修飾語句)が入って「何々が何々する(した)場合には」または「何々が何々である(あった)場合には」という意味になります。 そして、この「何々が」が特に示されていないなら、その行為や状態は、後半の△△△△する人の行為や、その人の状況《自分の体調や気分・自分の周囲の状況・環境等)であると理解するのが、日本語としての普通な扱いです。 実例を掲げたほうがわかりやすいでしょう。「兄の外出の時は 門口まで見送る」とあれば、外出するのはまぎれもなく兄で、見送る人とは別人ですが、もしも前半に「誰が」を示す語がない文、例えば「外出の時は 帽子をかぶる」という文では、外出するのは、後半の「帽子をかぶる人」であるとうけとるのが、普通でしょう。 もう一つ別な例を挙げれば、「友人が病気の時は見舞いに行く」と「病気の時は薬を飲む」を比べた時、後者で病気なのは「薬を飲む人」当人であることは、すぐ判るはずです。 「ヒドリ」が、上記の拡張した意味(日雇稼ぎの労働)だとしますと、これは行為を表わす言葉であり、「ヒドリノトキハナミダヲナガシ」だけでは、それが誰の行為かが示されていませんから、さきほど見た例のように、ナミダヲナガす人の行為という意味にとるのが自然です。つまり「日雇い稼ぎをするのは 涙を流す人そのひと」ということになり、この行全体の意味は《自分が日雇い稼ぎをする時には涙を流す(ような人にわたしはなりたい)》となって、初めに掲げた《日雇い稼ぎをして生きていかねばならぬ貧しい農民の身の上を思いやって涙を流す(ような人にわたしはなりたい)》という意味とは、大きくズレてしまいます。 それでもなおも「自分が日雇い稼ぎをする時には涙を流す」でも、その涙は農民の苦しみを思っての涙なのだ、と無理に主張する向きもあるかもしれませんが、涙の内容をそのように限定できる指示語句が無い以上、この行をごくふつうに自然に読めば、「自分が日雇い稼ぎをする時は(つらくて、または自分の惨めな境涯に)涙を流す(ような人にわたしはなりたい)」と読めてしまうという曖昧さがここにはあります。 もしも、《他人(貧しい農民 等)のヒドリ稼ぎを、見たり聞いたり、あるいは思い浮かべたりして、涙を流す》ということが言いたいなら、この行の前半は、「ヒドリノトキハ」などという、曖昧な表現でなく、「ヒドリヲ思ヒ」とか「ヒドリヲ見レバ」、「ヒドリヲ見テハ」といった言い方にしたほうが、まだいくらか舌足らずではあるにしても、言いたいことにかなり近づくでしょう。 この「〔雨ニモマケズ〕」の全体は、読めばすぐ気がつくことですが、内部に籠められている深い思想内容は別として、表面の言葉のつながりや、いちいちの言葉の意味を辿っていく限りでは、対句的表現を多用し、たいへん明快で歯切れよく判りやすく出来ています。物理化学や宗教や哲学などの専門語の使用はいっさい避けて、やさしい日常の共通語(いわゆる標準語)で終始しているのも大きな特徴です。そういう全体の中で、「ヒドリノトキハナミダヲナガシ」の行だけが、このままでは意味がすっきりととり難い、奇妙な一行となっています。ここだけ「ヒドリ」という方言が混じっているというのも、他の行と異なる点ですが、賢治の作品では、たまに方言や方言的言い回しが混じることもありますので、ここではそれは問題にはしません。しかし、それをたとえば「日雇い仕事」と置き換え、「ヒドリノトキハナミダヲナガシ」を「日雇いに出なければならぬ農民の辛苦を思って涙を流す」と読もうとしましても、この言い方ではなかなかそういうふうには読みとれない、全体のわかりやすく辿りやすい言葉の運び方ともしっくり行かない、という点が問題なのです。 (また、「ヒドリ=日雇い稼ぎ(の賃金)」説が唱えられた時にヒデリへの反対根拠として持ち出された「ヒデリにケガチなし=ヒデリに不作なし」という諺。あれは、この場合には当てはまらないという点については、前記「『ヒデリ』の文献的根拠」でいくつもの証拠とともに述べましたので、再論は避けます。) これに反して、ここを賢治の書き間違いと推断し、「ヒデリ」と校訂して読み直せば、「ヒドリ」のままのときの言葉の不自然さがまったくなくなりますし、次行との対句関係も生きてきます。(この場合、「ヒデリ」は「ナミダヲナガ」す人が身を置いている環境としての《気象》で、次行の冷夏(サムサノナツ)という《気象》と、きちんと一対になります。 (神奈川県川崎市)
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ポラーノの広場 ─第十夜─ |
全国宮沢賢治同好会・研究会フェスタ開催全国の宮沢賢治を愛する仲間たちを紹介します
■賢治が集めた仲間たち宮沢賢治を愛する仲間たちというのは全国にどれくらいいるのでしょうか。 毎年9月に花巻で開催される賢治祭や定期大会会場の参加者を思ってもかなりの人数になることが想像できます。その各々が各々にテーマを持って賢治や賢治作品と接しています。各地で読書会や研究会が開かれていたり、思いや研究成果を発表したり、形態も様々に発信されています。 そんな仲間たち、グループ・個人というのは、どんな人たちが、どんな地域で、どんな活動をしているのか。おたがいの出会いから知る機会はあるかもしれませんが、全容を知り、紹介しあい、語りえるような機会はなかなかありません。 ■これまでの取り組みもちろんこれまでにも全国の賢治同好会・研究会等の横のつながりを考えた企画はありました。1996年7月に宮沢賢治研究会(東京)が行った生誕百年の関連イベントの際に「全国賢治研究会・愛好会・賢治の会」交流会が開催され、学会では2000年8月の国際大会開催時に「イーハトーブ交流会」と称する、全国「賢治の会」の交流親睦をはかる催しがひらかれています。 それから9年、5年と時間が経ちました。 この間、交流会などをきっかけに各自の交流・親睦はすすんでいると思われます。学会による各地方セミナーの果たした役割も大きいと考えられます。賢治を中心にグループ・個人のつながりは放射状に伸びていきました。現在の学会会員の年齢層に若い世代の参加が年々少なくなってきていることは今後の課題になりそうですが、時代の流れに沿ってこれまでとは違う広がり、ネットワークなど新しい変化が生まれてくることにも期待したいところです。 横のつながり、広がりは短時間で作り上げられるものではありませんし、出来上がったからおしまい、というものでもなく継続性の中から生まれ育っていくものだと思います。 そこで全国の賢治同好会・研究会等の様子を一同に紹介する場をイーハトーブ館で設けてみようという企画が立ち上がりました。 ■展示の構成
企画を進めるに当たり、まず、展示要領を各会員にあてて文書にておしらせすることとなりました。各会員の方は今春その案内を目にされたことと思います。 イーハトーブ館で把握しているグループ・個人数もかなりの数になります。そこで検討の上、概ね5年以上継続した活動を続けている団体及び個人にしぼらせて頂くことにし、次のような要領で呼びかけをおこないました。 【展示要領(抜粋)】 「宮沢賢治に関する同好会・研究会・個人等の活動紹介」 (1)出展者・5年以上の継続した活動を続けている団体及び個人。自薦及び他薦により、申込書を提出し受理された団体及び個人(なお時期の如何にかかわらず、宗教活動、営利活動などの他、展示の趣旨に相応しくない内容と判断された場合は展示をお断りすることがあります。この判断は理事会が行います。) (2)展示・「宮沢賢治に関する同好会・研究会・個人等の活動紹介」活動紹介文・写真や刊行物、パンフレットなど。配置順番等は抽選にて決定します。 (3)出展料は不要です。パンフレット等の配置については、販売、募金などに関係するものはご遠慮下さい。また、入会受付業務などを会場で行うことはご遠慮下さい。 ■全賢フェスタ開催2005年5月21日から宮沢賢治学会イーハトーブセンターではじまった企画展示は「全国宮沢賢治同好会・研究会フェスタ(全賢フェスタ)」と名前がつけられました。 展示を通し賢治を愛するこんな仲間たちが、全国にこんなにいるんだ、ということを広く一般に知ってもらいたい。自分の暮らす地域にあるグループ・個人を知ってもらい賢治を通した交流をはじめるきっかけにつながれば。各グループ間でも改めて活動状況を知り、お互いが横のつながりをもち、さらに賢治・賢治作品を通して交流親睦につながる場となれば……という思いからの開催です。 各自の活動を発表するだけの無機質で堅苦しいものにはしたくない。集ったものみんながお互いを知り、語り、賢治とイーハトーブについて考える、にぎわいのある場所。だからフェスティバルなのです。 ■フェスタ会場風景
いざはじまると、おもしろい現象が出てきました。開催以降、参加団体が増えていったのです。展示を見て「わがグループも」と加わる団体・個人が増えました。フェスティバルなのですから、「締め切りすぎています」という堅苦しいことは言いません。参加が多いほうが学び発見する場が充実します。そしてたのしくもなり、仲間の輪がより広がるでしょう。それで順次受け入れています。 その結果、開催当日が展示の完成形ではなく、おそらく9月最終日にやっと完成するはずです。いわば開催中に展示が進化しつづけるのです。最終日にこの空間に現れる全体像がたのしみです。 これができるのも、展示スペースの確保や展示作業に柔軟に応えてくださるイーハトーブ館事務局スタッフのみなさんがあってのことです。あらためて感謝します。 8月現在、フェスタ会場に集まった団体は次のとおりです。 【全賢フェスタ参加団体(2005年8月現在・順不同)】 (財)宮沢賢治記念会(花巻市)・宮沢賢治学会花巻市民の会(花巻市)・宮沢賢治の会(岩手県)・旭川宮沢賢治研究会(北海道)・八戸賢治を語る会(青森県)・秋田宮沢賢治愛好会(秋田県)・宮沢賢治研究会(東京都)・宮沢賢治研究風信社(東京都)・鎌倉賢治の会(神奈川県)・石川宮沢賢治を読む会(石川県)・関西賢治ゼミ(大阪府)・たかつき賢治の会(大阪府)・ワルトラワラの会(大阪府)・高知大学宮沢賢治研究会(高知県) 全賢フェスタ会場は、企画展「賢治研究の先駆者たち(3)鈴木東蔵」展と併設されています。イーハトーブ館をおとずれる人たちが展示を一巡する姿がみられます。 各ブースは、各々活動紹介に個性が発揮されていて実ににぎやか。 合宿や例会風景の写真には各参加者の笑顔がちりばめられています。活動開始から現在まで会員に配布された例会案内のはがきのファイル、活動歴、ずらりとならんだ機関誌の冊数などに各団体・個人の活動の時間の長さ深さを感じさせられます。また、花巻で発掘されたアケボノゾウの化石標本もあり、訪れた人を驚かせています。フェスタ会場には、イーハトーブや賢治をキーワードに各団体・個人の活躍のエッセンスが漂っています。 ■賢治に集う仲間たちのこれから今回の企画展は、来年2006年夏に予定されている第3回宮沢賢治国際研究大会のプレ行事としても位置づけられました。 4年に一度のペースで開催されている国際研究大会も、その開催には数年前から実行委員会が立ち上げられ、じっくりと計画が練られ当日を迎えます。ここにも賢治を愛する仲間たちの知恵の結集が生かされるはずです。大会が盛り上がり、成功へと導くには、一人一人の参加、交流、情報発信、そして楽しもうという心意気が大切になってきます。そんな点からもこの全賢フェスタがプレ事業に加われたのはいいタイミングだったと思われます。それがまた、それぞれの団体・個人の活動や得意分野のエッセンスが混ぜ合わさり、さらに今後の賢治愛好・研究の原動力にもなることを願って。 なお、展示期間中に実際に各団体・個人が話を弾ませられるような場、イベントができないものかとも考えています。チラシには「計画中」と載せましたが、具体的には9月の総会・定期大会の懇親会で「全賢フェスタ出展者勧誘コーナー」と称した、お互いが語れる場を作ります。 ■全国の宮沢賢治を愛する仲間たち全国で宮沢賢治同好会・研究会などの活動をされている団体・個人はどれくらいいるのか。最後に紹介するのは、2005年4月現在、宮沢賢治学会イーハトーブセンターで把握している5年以上の継続した活動を続けている団体(及び個人)です。名称のみ上げさせていただきます。地域別・順不同で、25都道府県、61団体です。 全国津々浦々にイーハトーブの仲間たちがいるのだ、と感じませんか。 実際はほかにも多くの同好会・研究会があると思われます。残念ながら休止中や、なくなってしまった団体もあるかもしれません。各団体・名称・活動状況・名称掲載の判断等について遺漏のないように努めたつもりですが、お気づきの点などあればイーハトーブセンターへご一報ください。情報を整理してくださっています。
今回の企画展示「全国宮澤賢治同好会・研究会フェスタ(全賢フェスタ)」を通して全国の「点」が「線」になって結ばれ、絡み合い、賢治やイーハトーブをキーワードにした活動、交流や情報発信が世代を越え、地域を越えて、ますます盛んになりますように。 そして、絡み合った「線」は「面」になります。これまで結ばれてきた「線」が、来年の国際研究大会で、国境を越えた〈ポラーノの広場〉になったら、本当にうれしいことです。 (企画委員 外山 正・中野由貴)
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宮沢賢治 イーハトーブ館 |
賢治研究の先駆者たち(3) 鈴木東蔵展
東蔵は大正13年、農村の役にたちたいと、農業には欠かせない土壌改良のための石灰石の採掘を始め東北砕石工場を創業したのでした。昭和4年、出張の折、花巻まで足を延ばし賢治の病床を訪ね、農村の窮乏を救済したいため石灰事業を興したことなど話したとき、賢治はその精神に共感し炭酸石灰の施肥の極意を伝授し喜んで協力したいと述べ、二人は意気投合したのでした。 (企画展解説書・鈴木豊「序言」より) 宮沢賢治イーハトーブ館では6月10日より、「賢治研究の先駆者たち? 鈴木東蔵」展を開催しております。 本企画展は、鈴木豊(東蔵四男)・宮沢明裕・森三紗の3氏による企画監修のもと、鈴木豊氏所蔵の膨大な鈴木東蔵遺品を通し、これまで公表されることのなかった現物資料を展示にて示しながら、鈴木東蔵と宮沢賢治の関わりを探っております。 なお、9月中は特別資料展示期間として、「鈴木東蔵直筆原稿」や「谷川徹三詩碑建立講演直筆原稿」などの現物が展示されております。 展示は、来年2月末日までですので、どうぞ皆様おでかけください。
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