宮沢賢治学会・会報第32号

たゞひとり暗いこけももの敷物を踏んでツェラ 高原をあるいて行きました。/こけももには赤い実 もついてゐたのです。/(中略)/私は空を見まし た。いまはすっかり青ぞらに変ったその天頂から 四方の青白い天末までいちめんはられたインドラ のスペクトル製の網、その繊維は蜘蛛のより細く、そ の組織は菌糸より緻密に、透明清澄で黄金で又青く 幾億互に交錯し光って顫へて燃えました。

(「インドラの網」)

表紙写真 撮影・大塚 常樹


第32号●こけもも
2006年3月24日発行
  1. 息で曇る窓ガラス 吉田 文憲
  2. 報告
  3. 對馬美香さんを悼む 杉田 英生
  4. 吉田功さんを悼む 清水 宏一
  5. イーハトーブ〈エスペラント〉学 佐藤 竜一
  6. 投稿&投稿エッセイ
  7. 宮沢賢治資料(38) 杉浦 静
  8. テクスト・クローズアップ(27)「紫紺染について」栗原 敦
  9. セミナー報告
  10. ポラーノの広場―第十一夜― 八戸・賢治を語る会

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息で曇る窓ガラス

吉田 文憲

 密閉した部屋の窓やガラスケースの内側にいて息をすると、当然のことながらその窓ガラスはぼんやりと白く曇る。そこに私たちの肺胞から吐き出された微細な水蒸気が付着するからだ。つまりそれはその窓の内側に、息をしているもの、生きてこの地球の大気を呼吸しているものの存在があるということである。

 賢治の『黄いろのトマト』を初めて読んだとき、私は次の一行に震撼させられた。

ガラスは私の息ですっかり曇りました。

 何気ない一行かもしれないが、私はハッとしたのである。そしてこの一行にすぐに書き出しの文章が重なった。『黄いろのトマト』は、次のように書き出されていた。

私の町の博物館の、大きなガラスの戸棚には、製ですが、四疋の蜂雀がゐます。(傍点、吉田、以下同)

 この一文は、次に、行を換えて、「生きてたときはミィミィとなき……」と続いてゆく。

 《剥製》とは「いまにもとび立ちさう」に見えるが、もう生きてはいないもの、(生きているようにさせられている)死んでいるものである。それがどんなに可憐で「かわいらしく」見えても、宙にむかって「りんと胸を張って」いても、それがミィミィと鳴いたり、青空の下を飛ぶようなことはもう二度とないのだ。

 それがこの物語の語り手の「私」のように、その息で窓ガラスを白く曇らせるようなことはもう絶対にないのである。

 賢治はこの作品で、このあとに続く兄と妹の金銭を知らないことが引き起こす哀しい物語よりも、じつはこのことこそ書きたかったのではないか、と私は思った。息で窓を曇らせることができるものと、もう二度とそれができないもの――。

 《剥製》とは、「生きてたときはミィミィとな」いていたものである。だがそれはもう二度と鳴かないし、二度と口を開かない。 さきの一行は、この生けるものと死せるものの不条理な対比を、生と死のいわば絶対的な距離を、さり気なく、だがある痛切な想いとともに描いていたのではないか。

 御存知のように『黄いろのトマト』は、実際には存在しない下級官史十六等官のキュステが幼い頃博物館の製の蜂雀から聞いた話として書かれている。「私」のいちばん気に入っていた蜂雀があるとき、つまり死んでものを言わないはずのものが、突然口を開く。「ペムペルといふ子は全くいゝ子だったのにかあいさうなことをした。ネリといふ子は全くかあいらしい女の子だったのにかあいさうなことをした。」と。そしてあるお話を語り出しては、にわかに口を噤つぐんでしまう。死んだものが口を開く、《剥製》になったものが突然ものを言いかける――そんなありえないことがありえた幼い日の「私」の身の上に起こった一種の”奇蹟“として、この物語は語り出されているのである。

 そのことを踏まえて冒頭近くにある、次の文章を読んでみよう。

‥‥あの美しい蜂雀がたった今まできれいな銀の糸のやうな声で私と話をしてゐたのに俄かに硬く死んだやうになってその眼もすっかり黒い硝子玉か何かになってしまひいつまでたっても四十雀ばかり見てゐるのです。おまけに一体それさへほんたうに見てゐるのかたゞ眼がそっちへ向いてるやうに見えるのか少しもわからない……。

 この箇所を読んだとき、私はある戦慄を禁じえなかった。これは身近に、あるいは枕許で、たったいままでそこで息をしていたものがにわかに息をしなくなる、そのものの死にゆく瞬間をまさに生身で体験したことのあるものの描写だと思った。それほどこの場面の、臨場感はなまなましい。とくに「その眼もすっかり黒い硝子玉か何かになってしまひ」という箇所は、私に詩篇「青森挽歌」のなかの次の詩句を想い起こさせた。

にはかに呼吸がとまり脈がうたなくなり
それからわたくしがはしつて行つたとき
あのきれいな眼が
なにかを索めるやうに空しくうごいてゐた
それはもうわたくしたちの空間を二度と見なかつた

 むろんこれは賢治の妹トシの死にゆく場面を描写したものである。因みに『黄いろのトマト』は一九二四年頃の執筆と考えられている。すなわちこれは妹トシの死後一年か一年半足らずの作品である。

 『黄いろのトマト』は前半に” 原稿なし“の箇所があり、ストーリーにも空白があったりして、妙に物語のバランスの悪い作品である。あの剥製の蜂雀はこれはほんとうに「かわいさうな」物語だというが、本篇で語られたその「お話」は確かにかわいそうにはちがいないが蜂雀が何度も言い淀み、語れないと口を噤むほど、読者には「かわいさうな」物語には思えない。作者はむしろここでほんとうに語りたいことを語っていないのではないか。蜂雀の沈黙とその後の「お話」は、むしろそれを語らないために語り出されているのではないか。それとはむろんさきに引用したような美しい蜂雀の直接的な死の体験を語った文章に深く息づいているものである。『黄いろのトマト』のかなしみの旋律はここでもっとも高く鳴っているのである。

 執筆時期を考えれば、私たちはこの作品に妹トシの死の影をみてもいいのではないか、とりわけ冒頭部分の引用した幾つかの箇所には、あの「永訣の朝」(『無声慟哭』三部作)の〈それを言えない〉詩人の無量の想いを読み取ってもいいのではなかろうか。

(詩人)



【報告】
第十六回定期大会

二〇〇五年度定期大会が、会員ほか二〇〇名の参加を得て、昨年九月二十二日と二十三日の二日間にわたって、花巻市のNAHANプラザ、宮沢賢治イーハトーブ館を会場に開催されました。十六回目の大会の様子をご報告いたします。


第15回宮沢賢治賞・イーハトーブ賞贈呈式

 前日二十一日は、快晴のもと七十三回忌にあたる賢治祭が詩碑前で催され、当日は曇りのち雨という天候の中、午前十時から花巻市主催による第十五回宮沢賢治賞・イーハトーブ賞贈呈式が、NAHANプラザにて開催されました。平日にもかかわらず、全国各地そして多くの市民の方もお祝いにかけつけ、会場は満席となりました。

 今回の賢治賞は「宮沢賢治とその周辺に関する研究資料を生涯にわたって探索し続けて、今日の賢治研究にとって欠かせな基盤を築いた功績に対して」故 奥田弘さんに贈られ、代理として奥様の奥田恵子さんがご出席されました。続いて賢治賞奨励賞として、「火山学・地質学をはじめとした様々な知見を見事に組み合わせ、危機を媒介にし現代の社会と文明に警鐘を鳴らす成果としての著書『死都日本』に対して」石黒燿さんに贈られました。

 また、イーハトーブ賞は「地域に根ざした演劇活動から国際的な上演活動まで通じて、多年にわたり一貫して地域文化の深化と発展に寄与し続けた実践に対して」川村光夫さんに、イーハトーブ賞奨励賞は「「平和の輪」を意味する名称とともにユネスコ精神、宮沢賢治精神を支えに、平和への願いを歌に託して活動してきた長年の実践に対して」花巻ユネスコ・ペ・セルクル(会長 押切郁)と、「児童英語教育の研究と実践に根ざした、宮沢賢治作品の英語への翻訳および英語教材化がもたらす成果と新しい展開の可能性に対して」松香洋子さんの一団体一個人に贈られました。

 花巻市長から賞が贈られ、各受賞者からのスピーチ、その後、本賞受賞者である故奥田弘さんの業績について栗原敦賞選考委員長より紹介があり、続いて川村光夫さんによる記念講演が行われ、最後は花巻ユネスコ・ペ・セルクルの皆さんにより、受賞記念「松の針」の合唱にて閉幕となりました。本賞お二人の受賞の言葉等は本号に掲載しているとともに、受賞者の皆さんの横顔につきましては、会報三十一号にて紹介しておりますのでご参照ください。

定期総会

 午後一時から定期総会が行われ、出席会員の中から花巻市の高橋輝夫さんを議長に選出した後、議事に入り、二○○四年度事業報告及び収支決算は原案どおり承認されました。この中で、会報三十号掲載の「ヒドリ│ヒデリ問題」に関する質問があり、天沢代表理事の回答に対し、更に質疑応答継続には長い時間を要することが懸念されたことから、この件については(内容等は、会報三十一号にて確認ください)今後に委ねることで了承されました。

 続いての二○○五年度事業計画及び収支予算について審議を行い、原案どおり可決されました。なお予算について、前年度決算との比較で増減が大きいことについて質問があり、今年度より従来の「補正予算」扱いをとりやめた結果であることが確認されました。同じく経費節減に向け、機関誌等についてより手渡しを進めるべきとの意見があり、今後更にコスト意識を持った運営を励行する旨の回答がありました。

 また、天沢代表理事より、(1)学会理事選の方法について検討を開始したこと、(2)二〇〇六年開催予定の第3回宮沢賢治国際研究大会の内容(案)の報告がありました。

賢治研究リレー講演

 恒例のリレー講演は、持ち時間一人十五分という中で、宮沢賢治賞奨励賞とイーハトーブ賞奨励賞のお二人を含む四人の方からそれぞれの賢治をテーマに密度の濃いお話をしていただきました。講演の要旨は本号に掲載しております。

イーハトーブ・サロン−私と賢治−

 参加者が気軽に所感を述べ合う本コーナーでは、参加会員の中から四名と一団体の方々が登壇され、一人五分ずつのスピーチをいただきました。今年も記念品として、ガイドブック『賢治のイーハトーブ花巻』が贈呈されました。登壇いただいた方は次の方々です。

 渡辺宏さん(和歌山県)、寮美千子さん(奈良県)、戸来諭さん(花巻市)、佐藤成さん(宮県)、松香フォニックス研究所研究会東北支部小学生十一名。

会員交流・懇親会

 初日の日程の最後となる会員交流・懇親会は、はじめに天沢代表理事、そして渡辺花巻市長の挨拶があり、森副代表理事の乾杯の音頭の後、宮沢賢治賞・イーハトーブ賞受賞の各皆さんから改めてコメントをいただきました。

 今回のお楽しみイーハトーブ料理メニューには、(1)賢治さんと海の幸のエピソードから「ウニのたまごとじ」ほか、(2)「ばけもの」をキィワードに、がんづきほか「もにゃもにゃ」したたべものたち、そして(3)賢治さんとの深い関わりから、草野心平居酒屋「火の車」のメニューの再現などなど、そして陸羽132号でつくった日本酒まで、中野由貴さんから解説があり、メニューが手渡されました。同時に、イーハトーブ館で開催中の全国宮沢賢治同好会・研究会フェスタに合わせ、出展団体案内コーナーも設けられました。

 しばし歓談の後、栃木宮沢賢治の会の皆さんによるコカリナ演奏、今年も「栃だんご」を提供いただいた御船道子さん(鳥取県)、花巻小学校の坂本校長、中川真平さん(青森県)、下山花巻教育長のスピーチと、アッという間に時が過ぎていきました。最後は栗原副代表理事による閉会の言葉の後、参加者全員が大きな輪になって、押切郁さんのリードにより「精神歌」を合唱して幕を閉じました。

研究発表

 二日目はすっかり晴れ渡り、会場をイーハトーブ館に移しての研究発表です。午前九時半から一人三十分の持ち時間で六人の発表があり、十二時半に終了いたしました。この研究発表の記録集を頒布しておりますので、ご希望の方は事務局までお申し込みください(一部会員価格六百円、送料別)。

ポランの広場

 大会のフィナーレ「ポランの広場」の今回は、イーハトーブ賞受賞者・川村光夫さん演出、「岩手ぶどう座」(代表・田中直樹)による劇「おばあさんと酒と役人と」(作・ふじたあさや)の公演。狂言仕立ての、どぶろくをめぐるおばあさんと二人の役人の風刺をきかせたコミカルなやりとりに、観客は爆笑のうちにすっかり作品世界にひきこまれておりました。



第15回
宮沢賢治賞・
イーハトーブ賞
受賞者あいさつ


宮沢賢治賞受賞

故奥田 弘(奥田恵子)


 ただいまご紹介いただきました奥田弘の家内でございます。今回は本人がぜひとも伺いたいところなんですが、六月に亡くなりましたので、私が代わりに伺わせていただきました。でも、ちょうど明日二十三日は主人の三回目の命日にあたります。ちょうどこうした折に受賞させていただきましたことは、本当に良かったと感謝いたしております。ありがとうございました。これもひとえに多くの先達や周囲の皆様方の温かいご支援によるものと感謝いたしております。

 主人は資料探索という土台作りの仕事でございました。第三者から見ますと、こんな事までしなくてもというようなことも、本人が腑に落ちない場合は、何日も、いえ何ヶ月もかかって、自分が気の済むまで解明していたようでございます。

 ある時、友人から「君は詮索好きだなぁ。もっと、作品そのものに迫ったらいいのに。」と言われたことがあったようでございますが、本人はもう詮索好きは自認しておりまして、一向に構わず、折があればこのイーハトーブの地を訪ね、多くの方々にお目にかかっておりまして、嫌がられても諦めることなく足を運んで、一つ一つ疑問点を解明していったようでございました。私も根気がいいなぁと感心していたのですけれども、立場をかえて考えますと、その訪ねられた方々はきっとさぞご迷惑だったのではないかなと申し訳なく思っております。

 いずれにしても賢治先生の周辺に触れている時が本人の一番至福の時でした。そして賢治先生の偉大な存在があったからこそ、主人の仕事が始まり、そしてこの受賞ということに繋がったのだ思いまして、本当にありがたく感謝いたしております。  最後に主人の資料が少しでもこれからの皆様方のお役に立てばということを願いまして、お礼の言葉にかえさせていただきます。本日はありがとうございました。


奥田弘氏の業績について

栗原 敦


 謙遜で、自らの調査・研究に厳しい姿勢でのぞみ、縁の下の力持ち的あり方を守っておられた奥田弘氏は、なかなかご自身の単行研究書をまとめられませんでした。ようやく刊行されたものが二〇〇一年一〇月の『宮沢賢治研究資料探索』(蒼丘書林)で、これは翌年の岩手日報賢治賞を受賞することになりました。内容は同人誌「銅鑼」に掲載した「宮沢賢治研究周辺資料」を中心に三十一章で構成したもので、氏の仕事の質と基本性格をうかがうにたるものです。「はしがき」に、「もともと、批評・鑑賞等の作品研究に距離をおいてきたのも、書簡を中心にした賢治以外の周辺の人物、事物等の調査に力を注ぎ、文字どおり、周辺から賢治の実像に近づきたかった」とも記されていますが、氏の記す〈賢治の実像〉は、世上でキャッチフレーズにするがごときものでは決してありません。それは、まさに果てしない調査のすえに現れる客観的事項の一つひとつで、明らかにされたそれらは、宮沢賢治に関心を抱く誰もが拠り所にすることができる確実なものであり、これらが、42年版『宮澤賢治全集』(筑摩書房)語・宮澤賢治研究文献目録作成協力、『校本宮澤賢治全集』『新校本宮澤賢治全集』(同)編纂委員、宮沢賢治記念館の常設展示協力、「宮沢賢治研究Annual」各号「ビブリオグラフィー」作成委員としての活動等々のお仕事につながっているのです。

 『新校本宮澤賢治全集』でいえば、第十三巻以降に関わりが深いのですが、たとえば第十四巻では、各種資料の裏付け、住所録の宛名の調査等、第十五巻書簡篇では、校異の「《備考》」欄の充実ぶり、受信人の経歴、書簡関連人名の読み方(それらを裏付ける、表面からはうかがい知れない程の徹底した調査)、第十六巻(上)では、生前発表紙誌関係、伝記資料での学校関係資料、たとえば教わった先生、使用教科書、学校行事、同級生、教えた生徒等がたちどころに確かめられることは、旧校本以来の氏の調査なくしてはありえませんでした。「年譜」の充実と客観性もこれらに支えられています。

 さらにまた、この書に挟み込まれた「奥田弘宮沢賢治研究著作目録」によれば、たとえば、大は『新修宮澤賢治全集』別巻(一九八〇年一二月、筑摩書房)の「宮沢賢治研究文献目録」・「宮沢賢治研究史」の類から、小は「賢治研究」の〈風と光〉欄における記事、資料紹介まで、伝記・足跡研究、作品研究も含めてこの単行書に収めることのできなかったさらに多くのお仕事があったこともわかります。

 「宮沢賢治研究文献目録」のお仕事でいえば、小倉豊文氏に協力し、そのあとを継いで積み重ねられた奥田氏の調査のお世話にならなかった研究者はいないはずですし、「宮沢賢治研究Annual」のビブリオグラフィーが、当初から網羅を旨とすることに踏み切り、現在まで継続することができているのも、氏の導きが大きな支えとなっていたのです。宮沢賢治学会イーハトーブセンターが発足して、年次毎に研究文献目録を作成することを決めた時、主要研究文献目録を方針とするか、可能な限り広くかつ細大漏らさず収録する網羅主義を方針とするか議論がありましたが、その際、振り返った時に〈宮沢賢治〉をめぐる言説、〈宮沢賢治〉を巡る関心がどうであったか、その全貌を検証できる手がかりになるようにしたい、漏れた項目は次年度に追補することになってもいいからといって、後世のために客観的な記録を残すよう努めることの大切さを教えて下さったのが奥田氏だったことを、私たちは忘れることはできません。


演劇の人としての宮沢賢治

川村光夫


 第十五回イーハトーブ賞を頂いた。名誉なことである。この機会に演劇の人としての宮沢賢治と、賢治を師と仰いで生地山形で演劇を中心とする共同村塾運動を展開した松田甚次郎とを比較しながら、地域演劇の方法について論じたい。二人こそ私たち地域演劇運動の祖型とでも言うべき先人だと思うからである。

 松田が初めて下根子桜の羅須地人協会を訪ねたのは一九二七年三月のことだった。松田は山形県鳥越村(現新庄市)の裕福な農家の長男として生まれ、盛岡高等農林学校別科(二年制)に学び、卒業を目前にして将来の指針を問うべく賢治を訪ねる。  賢治は「小作人たれ、農村演劇をやれ。村の天才は何処にも居る。歌つくりの上手、雄辯家、滑稽の上手、数限りなく居る」(松田甚次郎著『土に叫ぶ』)。雄辯家や滑稽の上手への着眼は実に愉快だ。「村の天才は何処にも居る」という指摘も、地域演劇運動を続ける私たちの確信でなければならない。松田は素直に教えを聴き、村に帰って仲間を集め同じ年の八月、ひとつの台本を書きあげ再び訪れる。賢治はその台本に『水涸れ』と名付け、小山内薫の著書一冊を贈り励ます。

 田植時にはどこの田圃も水不足で難儀する。水が不足すれば稲は枯れる。農民たちは必死となって我が田に水を引こうとして争いが起きる。『水涸れ』はその現実を描く。劇はさまざまあって、最後は共同で貯水池をつくらなければという結論となって終わる。驚いたことには、十年後の一九三七年に、それが現実のものとなって実現したということである。

 「村会議員選挙を延期し、毎日三百人の村民が夜九時まで働いて、貯水池は完成する。「その中には『水涸れ』に出演した十数名の若者たちもいた」。これで水涸れはなくなる。「芸術の力は偉大なりとしみじみ思う」(前掲書)。松田にとって演劇は単なる楽しみを越えた、村に生きようとする意志そのものであり、劇と現実は零距離地点、ひとつながりだったのである。

 そこのところが賢治の演劇観と違うところである。賢治には農学校生徒のための劇台本が四本ある。短いものだが、それぞれ趣向が凝らされていて興味深い。その後、賢治は新劇のメッカだった築地小劇場へもたびたび足を運んだが、作品は築地よりもむしろ浅草オペラに近いというのも興味深い。

 コミックオペレッタ『饑餓陣営』は、戦場で空腹に耐えかねた兵士が、将軍をたぶらかして胸に下げたお菓子の勲章を食べてしまうという滑稽きわまる場面で始まる。部下の下士官がそれを悔いて自決しようとする。それを見た将軍は突如変身、将軍考案の生産体操なるものを兵士に伝授する。それがなんと果樹整枝剪定法をとり入れた体操なのである。この劇を観ていたのは生徒の父兄、つまり農民たちである。その喜びはいかばかりかと思われる。その第一は子の成長である。そして劇をみる楽しみである。それに加えて農業新技術を眼の前にする驚きだったに違いない。楽しみや喜びは幾重にも重なっていたのだ。

 たわいなく思われた滑稽劇の背後には、戦争への道をつき進むのか、それとも農業生産によって経済を建て直すかを問う重い課題がひそんでいたのである。これを書いた九年後、満州事変が起きる。松田は現実と劇世界とをひとつながりのものとしてとらえ、「情」によって観客をいざなおうとした。賢治は「知」による理解と判断とを観客に期待した。現実を直視しながらも現実とは距離を置くことで全体を把握した。現実に縛られずに可能な現実を描くことに成功した。

 その後、松田は共同村塾運動へと傾斜し、戦意高揚へと協力させられる。現地をたずねてみると、当時を知る人々の想いは今なお熱い。戦争協力は松田の本心ではなかったと説く。賢治には劇台本四作のほかに、十種に及ぶ劇作メモが残されている。童話など他の作品にも劇的契機がひそんでいるように思われる。農民劇団をつくろうとして果たせなかった賢治は、さぞ無念だったろう。戦争へと向かう時代の中で、二人は異なる地点に立って、それぞれ懸命に生きていたのである。



第16回
定期リレー講演
(要旨)


賢治の祈りの詩「雨ニモマケズ」のデクノボーをめぐって

伊藤 良治


 宮沢賢治と深いつながりをもつ我が東山町。昭和二三年一二月の賢治詩碑「まづもろともに かがやく宇宙の微塵となりて 無方の空にちらばらう」除幕、平成七年「グスコーブドリの町 東山」の宣言、続く八年旧砕石工場の「近代化遺産」として文化庁登録原簿登載、平成一一年四月に「石と賢治のミュージアム」のオープン、続いて賢治研究に密接する八千五百に及ぶ資料を具えた「双思堂文庫」の併設、「石っこ賢さ」自身まで魅了させたにちがいない美しい世界の鉱物標本、古生代化石展示コーナーを抱えるまでに至っている。

 ところで足かけ五年にわたる賢治最晩年の東北砕石工場技師時代は、賢治全生涯をかがやかす深い意義をもっている。、賢治を東山に引き寄せた豊富な石灰石の土壌改良に果たす役割、「農村を最后の目標として只猛進せよ」と「雨ニモマケズ手帳」に記した賢治の祈誓のもつ意味、またそこに記述された祈りのうた「雨ニモマケズ」などがそれを語っている。

 さて私がここで特にもとり上げたいこと、それは「雨ニモマケズ」中の「デクノボー」のモデルを、ここ東北砕石工場に働く工員たちだと言いたいことにある。今回は、その工員たちから畠山八之助という人についてとり上げてみたい。

 畠山八之助は東北砕石工場創業以来一七年間、「製品梱包の名人」といわれる腕の持ち主で、かげひなたなく働く仕事熱心な人だった。彼はまたロシア正教の信者で、四軒ほどの信徒仲間で支える近くの教会に、毎回葱やら大根を手に、家族連れ立って礼拝に通う「信仰に生きる人」だった。

 八之助の家は、崖っぷちにしがみつくような傾斜地に立っていて、杉皮で葺いた破れ屋根からは、雨や雪が遠慮なく吹き込んできたり、たまたまお月さんものぞきこむようなあばら家だった。そこに八之助と娘モトの二人が、寄り添うように住んでいた。早くに母を亡くした娘モトの学業成績はとび抜けており、担任の勧めもあって女学校を受験し合格した。だが入学金が納められずに、結局入学出来ないでしまう。

 ある日賢治が、工場を休み近くの石灰窯で働いている八之助宅を訪れた。その時お茶をはこんだ娘モトも賢治に出会っている。そのモトが万感の思いを込めて、父八之助の思い出を語ってくれた。「モトや、俺たち食うに食えない赤貧乏だが、貧乏って、少しも恥ずかしいことねえんだからな。うまく立ち回ってゼニッコかせぐより、だまされてもバカにされても、ただ正直に生きていくことが、神さまの教えなんだからな…」と。極貧に耐えながらも、信仰に生き抜く八之助の質直な生きスガタが彷彿と浮かんでくる。また、よそから借りたお米一升をどうしても返せないで悩むモトが、父八之助から「ご飯を炊く前に、そこから盃一つ分けておけ。そうすれば返せるようになるからな」と極貧に生きぬくわざを教えられ、やっと返せたという話など。

 八之助の小屋を訪れた賢治が彼の生きざまに観たもの、それが賢治を揺り動かす価値観んでん返しの「デクノボー」像ではなかったか。「八ホラ」とは八之助のあだ名。なるほど信仰に生きる八之助のことばは、一般には次元の違うホラ話に聞こえたことだろう。だが賢治は、この八之助の生きスガタに、キラッと光るホントウを直観する。「ホメラレモセズ クニモサレズ」に生きる「デクノボー」八之助に、賢治は思わず合掌したことであろう。病にたおれる数日前、賢治が工場に立ち寄ったとなればなお更のことである。


私の読む『グスコーブドリの伝記』

石黒 耀


 『グスコーブドリの伝記』は、賢治が死の直前に完成させた自伝的空想科学童話です。主人公が命をなげうって火山を噴火させ、噴気中の炭酸ガスで気象を温暖化させて人々を冷害から救うストーリーは、文学的には高い評価を受けていますが、理学的な評価は分かれます。気象を変える程の大噴火は、逆に「火山の冬」という寒冷化現象を起こすことが、当時から分かっていたからです。『グスコーブドリ』最終頁の「青ぞらが緑色に濁り、日や月が銅いろになった」という記述は、一八八三年、ジャワのクラカトア火山が大噴火した際、噴煙中の微粒子が成層圏に滞留して実際に起こった現象です。有名なムンクの『叫び』の絵は、その時の恐怖を描いています。微粒子に妨げられて透過太陽光が減り、世界は冷夏に襲われました。この事件を知っていた筈の賢治が、なぜ逆の話を書いたのでしょう?

 賢治が生まれる前の百年間は地学的な大動乱期で、クラカトア以外にも一七八三年にラキ、一八一五年にタンボラという千年に一度級の大噴火が続きました。そのため、江戸期後半から昭和初期は小氷河期となり、世界は冷害と食糧危機に苦しんで、幾つもの戦争が起こったのです。

 日本もこうした戦乱と無縁ではありえず、『グスコーブドリ』の原型が書かれた一九二〇年は、日清・日露・第一次世界大戦に勝った日本が国際連盟の常任理事国入りした年でもありました。まさに日本の絶頂期でしたが、その僅か三年後、関東大震災で日本は年間国家予算の三・五倍という大被害を被ってしまいます。今に当てはめれば、特別会計の隠れ予算を除いても二八〇兆円というとんでもない損失です。日本はデフレスパイラルに陥り、四年後には昭和金融恐慌が始まります。東北は不況と冷害で惨憺たる状況になり、この事態を帝国主義的に解決しようとして、翌年、日本は満州事変をひき起こしますが、次の年には世界恐慌が起こり、状況は更に悪化します。こうした情勢の中で、『グスコーブドリ』は完成し、翌年、賢治は永眠しました。

 賢治の死から三年、軍予算を削ろうとした政府に対し、東北出身の若手将校が中心になって二・二六事件を起こし、軍縮派要人を暗殺します。冷害で困窮した東北の農家では、男子は軍に入って生き延びることが多く、軍縮は容認できなかったのです。この結果、軍拡派の発言力が強くなり、日本は太平洋戦争、そして敗戦へと突き進みます。つまり、日本が絶頂から奈落へと落ちた背景には、冷害が大きく関与していたのです。『グスコーブドリ』からは、「気候を温暖にできるなら、残りの命を差し出します」という賢治の悲痛な叫びが伝わってきますが、この訴えは、まさに正鵠を得ていたことになります。

 ところで、賢治の死から五三年後、カメルーンのニオスという火口湖から、突然、ガスが大量噴出し、多くの人や動物が死ぬ事件が起こりました。原因は火口底に湧く炭酸ガスが湖底に溜まりすぎて湖水に溶けきれなくなり、暴噴したためと判明しました。こういう火山のもっと巨大な物を想定すれば、小さな噴火でも大量の炭酸ガスが放出でき、『グスコーブドリ』も決して非科学的ではないことになります。賢治の時代、まだこういう事象は知られていなかった筈ですが、賢治はどこかで知っていたのでしょうか?


子供英語で賢治に親しむ

松香 洋子


 この度は、私が子供の頃から好きだった賢治と、一生の仕事としてきた児童英語の世界をつなぐテキストで受賞させていただき、心からうれしく、感謝の気持ちで一杯です。

 私が音声的な英語教育に目覚めたきっかけは2つあります。

 1つは、私が「華の英文科」を卒業して、高校の英語科教員となって、ラッキーなことに奨学金をいただいて1965年にイギリスに留学させていただいたことから始まりました。英文科ではシェイクスピアとかワーズワース等をテキストで読んだり、日本語に訳したりしていましたが、イギリスに行くとシェイクスピアは歌舞伎とそっくりな音楽劇で言葉の1つ1つがわからなくても「音」が美しく、楽しく、うきうきするものでした。英詩はパーティーがあると、コーヒーやシェリー酒などを片手に余興として唱えたり、大学の教授が講義の最初や最後に唱えたりするのでした。どちらも美しい英語の「音」を空中に飛ばしてそれを皆で楽しむ、というもので、私はそれまでにうけた英語教育との差に大きなショックを感じました。

 もう1つは、5歳と3歳の子供をつれてアメリカの大学院に子連れ留学をした時に受けた時のショックでした。その時にサンフランシスコの小学校でボランティアママとして、小学校1、2年生に英語の読み、書きを教えたりしましたが、子供の英語の世界にはマザーグースをはじめ、日本でいえば「げんこつ山のたぬきさん」のような楽しい遊び歌がたくさんあることに気がつきました。また、アメリカの子供たちの英語習得過程、順序、内容は、私が日本で英語を学んだ時のものとあまりにも違い、どうして日本では音声から楽しくスタートする英語教育がないのかと悶々としながら帰国しました。

 そこで今から26年前に、松香フォニックス研究所という私設の研究所を町田市に設立し、音声からスタートする楽しい英語教育の実践、発音から文字へと自然に転化するフォニックスという教授法の普及にのりだしました。

 今回受賞させていただいた Gorsch thecellistは、今、お話した経験ぬきにはできない作品でした。

 私は自分の研究所から英語教材を出版していますが、そのポリシーは、音を楽しみ、世界の人々と交わることを想定し、自信をもって使うというものです。Gorsch the cellistでは、日本の宝である賢治の「音」の世界を英語で楽しみ、日本の子供たちが海外に行ったり、海外からきた子供たちと交流する時に、誇りをもって英語による賢治を演じてほしいと願いました。

 このテキストでは「セロ弾きのゴーシュ」「どんぐりと山猫」「注文の多い料理店」「鹿踊りの始まり」と「雨ニモマケズ」の5作品を取り上げました。はじめの4つの作品については、1つの作品が3分〜5分で終わるほどに大胆に短くし、英語もやさしくし、音楽をつけました。これで日本の子供が楽しんで演じることが可能になりました。賢治の強さは全国の子供たちが読書や教科書を通して内容に深く親しんでいることです。

 最後の「雨ニモマケズ」ですが、これこそ日本人の精神の柱です。小学生もみんな一行、一行、知っています。先日、ハワイでホームステイつきの英語研修を主催した方からお手紙をいただき、「雨ニモマケズ」を日本の小、中、高校生がお別れパーティーで暗唱したところ、会場にいたハワイ系の方も、白人系の方も、日系の方もみんなし?んとなって感動を共にしていただいたそうです。とてもうれしいです。これから、花巻市をはじめ全国の小、中学校で卒業式や始業式の時に英語で暗唱してくれたらどんなにいいだろうかと願っております。

 賢治の作品はこれまでも世界中の言葉に翻訳され、多数出版されていますが、私の願いは日本の子供たちが自分の英語で、自分の声で、自分の気持ちから賢治を世界にとどけてほしいということです。



【追悼】
對馬美香さんを悼む

第二回宮沢賢治賞奨励賞を受賞された對馬美香氏が二〇〇五年五月三十一日にご逝去されました。謹んで哀悼の意を表します。

杉田 英生


 對馬美香さんが平成一七年五月三一日に亡くなったことについては、会報「31」号の「追悼・宮城一男さん」の中で斎藤文一さんが触れられているが、「對馬美香追悼」の一文をまさか私が草するとは思いもしなかった。

 惜しくもあり、心外ですらある。

 彼女の「宮澤賢治の研究」についての事績については他に適任の方があろうかとも思うが、今年の年賀状に「早いもので今年不惑の年になるので自分でも当惑しています」と書き添えてきた彼女のことを思い出すままに記すことを許されたい。

 彼女が弘前大学教育学部を卒業し向学の志を果たすために上京されたのは平成三年二月であった。そして実践女子大学大学院文学研究科で分銅惇作・栗原敦氏のもとで研鑽に励まれたことは幸いであった。

 その頃宮澤賢治研究会に度々出席され、研究会で発表した「宮澤賢治の絵画―萩原朔太郎『月に吠える』挿絵の投影」をその後論文にまとめられたものが、平成四年に当学会の選考する「宮澤賢治学会イーハトーブセンター宮澤賢治奨励賞」を受賞した。

 その後、秋田桂城短期大学の教壇に立たれ、弘前大学の学生時代から持ち続けたテーマを纏めて上梓された『宮澤賢治新聞を読む』はなかなか示唆に富んだ著書であったし、当学会の理事としても若い人の立場から意見を述べられていたと伺っている。

 彼女の歩みを顧みるとき、「弘前・宮澤賢治研究会」の存在なしには語り得ない。

 宮城一男・小野正光・佐藤豊彦・藤田栄一・梅木万里子・葛西律子・榊昌子・土岐泰・岩見照代さんらの温かい励ましの中で大学時代を送られたことが彼女の生涯を決めたと言っても過言ではない。

 彼女は学生の頃から宮澤賢治を理解するために法華経に親しんだようで、弘前・宮澤賢治研究会の会誌である「弘前・宮澤賢治研究会 5」(一九八七年九月)に《祭日〔一〕〔二〕・「毘沙門の堂は古びて」考》を発表しているが、「法華経」と正面から取り組んでいる二一歳の彼女が見える。

 法華経への取り組みは、その後宮澤清六さんや小倉豊文さんにも積極的に教えを仰いでいたし、在京時には渡邉寶暢氏(立正大学元学長)の「法華経講義」にも参席していたようで、私も誘われて同席したこともあったし、主宰者へ彼女への高誼をお願いしたこともあった。

 法華経は、彼女にとって終生の書となっていたと彼女の良き理解者は語っている。

 彼女は母堂に「学生達と賢治の作品を読み続けていきたい」と語っていたとのことだが、果たせぬ願いとなってしまった。

 僅か数ヶ月の間に小野正光・宮城一男・對馬美香さんを失った弘前の仲間達の悲しみの深さを思うと、彼女に対する哀悼と同時に同情を禁じ得ない。

 私は三月末に元気な彼女から電話をもらったが、彼女が体調を崩し四月末に入院したことを知っていたので、宮澤清六さんのご命日(六月一二日)に花巻に伺って、その後宮城さんと彼女を見舞うべく弘前の方とも連絡をとり予定を立てていた。

 しかし何れもかなわなかった。

 想い出多い弘前が今は固まりとなって黝く沈んでいる。

(一七・一二・一八)

(元理事 東京都豊島区)


追悼・吉田功さんを悼む

 宮沢賢治学会イーハトーブセンター顧問を務められた吉田功氏が二〇〇五年九月七日にご逝去されました。謹んで哀悼の意を表します。

清水 宏一


 元花巻市長・吉田功さんは、昨年9月7日享年83歳で逝去されました。葬儀は多くの参列者で盛大でした。渡辺市長が奉読した弔辞で、多くの業績が紹介されましたが、その中に「ふるさと創生事業による宮澤賢治学会の創設」という紹介がありました。私は当時市でこの事業に係わっていましたので、吉田市長さんがこの事業にかけた想いなどを紹介させて頂きます。

 吉田功さんは、昭和15年3月、宮澤賢治ゆかりの県立花巻農学校を卒業後、札幌管区気象台に就職、札幌気象台や道内の枝幸観測所などに4年ほど勤務した経歴があります。時々厳寒時期の観測作業の厳しさを話されていました。

 その後兵役を終えて、昭和29年から地方自治体の職員として、主に財政畑を長く歩んで来られました。

 昭和59年吉田功さんが市長に就任したのは、東北新幹線駅設置指定からはずれた花巻市が長年にわたる陳情を重ねた結果、建設費全額地元負担という条件(請願駅)で駅の設置が決まり、その工事のさなか現職の藤田市長が急逝したためでした。なにせ40億円を超える駅建設費全額を地元が負担なので、新市長は財政通の人をということで対立候補無し、無投票当選での新市長就任でした。

 吉田市長さんは、非常に厳しい財政事情の中でも新花巻駅には随所に宮澤賢治の世界をイメージした工夫を取り入れました。

 何と言っても、吉田市長さんが力を入れたのは、昭和63年、時の総理大臣竹下登が創設した、いわゆる「ふるさと創生一億円事業」への対応でした。この事業は全国の自治体大小を問わず自由に使えるお金1億円ずつを交付し、地域活性化事業を行ないなさいというものでした。

 市では、議論の末「宮澤賢治学会を創設する」こととしました。いろいろな案、厳しい財政事情の中でも、ゴーサインを出した吉田功市長の心中には、賢治ゆかりの農学校で学び、そして北海道の極寒の地での気象観測と賢治に通ずる太い道筋が脳裏にあったのだと思います。そういえば、職員に対する年頭の挨拶でも賢治に触れた話が多くありました。

 この事業をまとめるにあたっては、宮澤清六さんのご了解を頂き、青森・宮城・岩手に在住する諸先生のご協力を取りつけ、最後は市長が自ら東京に行って原先生、入沢先生へ、翌日は新潟大学で斎藤文一先生にそれぞれお願いしました。

 後で原先生は、花巻から宮澤賢治の銅像を造りたいなどと言ってきたらいっぺんに断るつもりだった、と言っておられました。吉田市長は、地域の活性化を目的とした「ふるさと創生事業」として宮澤賢治学会を創って頂きたい。行政としては財政の負担はするが、口は出さない。という主旨の約束をしました。

 その後吉田市長は、宮澤賢治のことになると著名な先生方が一生懸命になってくださる。本当にありがたいことだ。その言葉はまるで賢治に代わって語るまことの言葉でした。

 時を経て、先年賢治記念館20周年、イーハトーブ館10周年開館記念の式典に吉田功さんは元気で参加しておりました。原先生は両館を姉妹に喩えていましたが、そんな意味で、子供達に人気のある賢治童話村は孫施設でしょうか、それぞれ機能を分担して賢治の理解を深めていると思います。

 吉田市長は賢治のことを地元の人がもっと理解しなければというのが強い信念でした。そんな意味で、風のセミナーには、吉田市長さんも恐らく天国からやって来て、微笑んで聞いているのでないかと思います。

 花巻市は今年1月1市3町が合併し新花巻市が誕生しました。新市の人事体制になっても、ふるさと創生事業により賢治学会を創設した崇高な理念を継承されることを願うものであります。

 学会の更なる発展を願い吉田功市長さんへの追悼の言葉とします。

(元理事 花巻市)



イーハトーブ
〈エスペラント〉学


宮沢賢治と魯迅、そして黄瀛

佐藤 竜一


 ポーランドの眼科医・ザメンホフが一八八七年に発表した人工国際語エスペラントと、賢治との関係は深い。理想郷の響きを伴って語られるイーハトーブは賢治の造語であるが、今や岩手を象徴することばとしてすっかり定着した感がある。このことばは、エスペラント的にもじったといわれている。

 一九〇六(明治三九)年七月、東京の彩雲閣から日本初のエスペラント教科書『世界語』が刊行された。著者が日本近代文学の父と目される二葉亭四迷ということもあり、この本はたいへんな反響を呼んだ。同年には会員約七百名を擁する日本エスペラント協会が設立され、日本のエスペラント運動は黎明期を迎えることになる。

 その後、幾多の変遷があったが、賢治がエスペラントに関心を抱いた一九二〇年前後のころは大正デモクラシーの潮流に乗り、エスペラント人口が増大した時期である。

 賢治がはじめてエスぺラントの存在を知ったのは、おそらく一九一六年ころである。この年の五月二日付から五月一三日付の『岩手日報』に、日本語速記術の創始者・田鎖綱紀の「エスペラントとはなんぞや」と題する講演録が六回にわたり掲載されており、当時盛岡高等農林学校二回生で盛岡に住んでいた賢治はこの文章を読んだと考えられるからだ。

 日本で最初のエスペランチストのひとりである綱紀は語学の才があり、ウクライナから来日した盲目の詩人・エロシェンコとエスペラントで会話することができた。その綱紀が四月二九日、東京で開催された第三回日本エスペラント大会で行った演説が数日後に郷土を代表する新聞に大きく掲載されたのである。

 田鎖綱紀の兄・綱郎の次男・治が賢治の本家筋に当たる花巻の宮沢家に婿養子に入っており、綱紀が賢治にとって遠い親戚であることも賢治がエスペラントに関心を抱くきっかけとなったと思われる(拙著『世界の作家宮沢賢治』参照)。

 とはいえ、賢治はすぐにはエスペラントの学習には取りかからなかったようだ。雑誌「改造」が一九二二年八月号でエスペラント特集を組み、九月号からは小坂狷二のエスペラント語講座の連載がはじまった(一二月号まで)。周りにエスペラントを教えてくれる先生がいなかった賢治は、この時期にエスペラントの独習を開始したに違いない。

 なぜ、当時を代表する総合雑誌の『改造』がエスペラントに紙面を割いたかといえば、背景として岩手県出身である新渡戸稲造の活躍があった。

 一九二〇(大正九)年五月、国際連盟事務次長として稲造はスイスのジュネーブに赴いている。翌一九二一年七月、チェコのプラハで開催された第一三回世界エスペラント大会に、稲造は国際連盟代表として講演し、その後国際連盟にエスペラントに関する報告書を提出している。

 それがきっかけとなり、国際連盟では「国際語」に関しての真剣な討議が行われ、母国語のほかに通訳を介さないですむことばを学校教育に採り入れよう、それにはエスペラントがふさわしいのではないか、という議論が沸き起こった。

 日本、中国、インド、アルバニア、チェコなど主に大国ではない国がその趣旨に賛成したが、フランスの強硬な反対にあい、案は結局否決されてしまう。稲造はこのとき、「エスペラントは国際民主主義の原動力である」としてエスペラントを擁護する発言をしている。そうした動きが日本国内にエスペラントブームを引き起こし、雑誌で取り上げるきっかけとなったのである。

 中国を代表する作家・魯迅もこの時期、エスペラントに大きな関心を寄せている。中国でのエスペラントの普及には、日本の動きがリンクしている。キーパースンはエロシェンコである。

 エロシェンコは一九一四年に初来日し、先に紹介した田鎖綱紀のほか、秋田雨雀、黒板勝美、小坂狷二などのエスペランチストと親交があった。一九二一年、再来日していたエロシェンコだったが、日本社会主義同盟第二回大会出席などの容疑で、国外追放の処分を受けた。六月六日にウラジオストックに着き、ハルピンを経て上海に到着。一一月に魯迅と知り合う。

 エスペラントに理解を示していた魯迅と周作人(作家)の兄弟は、翌一九二二年エロシェンコの北京大学への招聘に尽力、エロシェンコはエスペラントとロシア文学を担当することになった。

 エロシェンコは八道湾の魯迅の家に住み、北京大学に通った。魯迅は面倒を見たほかに、エロシェンコがエスペラントで書いた『桃色の雲』を中国語に訳すなど、エスペラント文学の紹介に一役買っている。

 折しも、賢治がエスペラントの独習を開始した時期である。賢治はその後上京し、丸ビルの旭光社でエスペラントを習い、羅須地人協会でも日課にエスペラント学習の時間を割くなどしたが、結果としてあまり習熟したとはいえなかった。残されたのはエスペラント詩稿八編のみで、原作を生み出したり翻訳をするまでには至らなかった。

 比較して、魯迅はもっと積極的にエスペラントと関わった。一九二三年には北京世界語専門学校を設立させるなど、中国でのエスペランチストの増大に大きな貢献をしたのだ。弱小国の人々の文学をエスペラントを介して紹介しようというのがそのスタンスだった。

 生前すでに中国を代表する作家としての地位を築いていた魯迅。無名だが、世界の人々に読まれる日々を夢見て原稿の推敲を重ね、その夢をエスペラントに託した賢治。どちらも私にとって尊敬するエスペランチストなのだが、そのふたりに会っている人物がいる。

 二〇〇五年七月三〇日、九八歳で亡くなった黄瀛である。

 一九二九年春、黄瀛は詩友の賢治を花巻に訪ねている。

 一九〇六年一〇月六日、中国人を父に、日本人を母に重慶で生まれ、日本で成長した黄瀛は詩作を始め、詩人として名を馳せた。だが、詩人では生活できない。文化学院で教わった与謝野晶子からは賛成されなかったが、黄瀛は軍人の道を歩む。賢治を訪ねたのは、陸軍士官学校の卒業旅行で花巻温泉を訪ねた合間を縫ってのことだった。

 国民党の軍人となった黄瀛が魯迅と会ったのは、一九三三、三四年のことで、場所は上海の内山書店。黄瀛の述懐では、魯迅から内山完造を介し、面会を求めてきたという。当時黄瀛は南京で軍務についていたが、ときどき上海に出て、内山書店で時間をつぶしていた。賢治が亡くなった前後のことで、黄瀛は「南京より」という追悼文を書き、草野心平に送った。黄瀛と魯迅とは七、八回会っただけだったが、黄瀛は賢治を童話作家として話題にしたという。黄瀛はエスペランチストではなかったが、真のコスモポリタンだった。

 一九九二年八月一〇日、炎天下の重慶で私ははじめて黄瀛に会った。賢治や魯迅のことを熱心に語り続けていた黄瀛の姿が今もときどき、脳裏によみがえってくる。

(岩手県一関市)



投稿エッセイ

高田三郎はタカサブロウだった?

粟飯原 幸子


 高田三郎の名は、植物のタカサブロウに似ている。タカサブロウは水田や湿地に咲くキク科の一年草で、目立たない白い花を咲かせる。漢字で高三郎の名をあてている文献も少なくないが、この高三郎が誰のことかはわかっていない。また、人の名だということもわかっていない。さらに擬音や、古語が転じたものなどの説もある。

 しかし、タカサブロウを人の名前とし、昔、貧しい高三郎という人が、この草の茎を使って紙に文字を書き勉強をしたという説話がある。この草の茎を切ってしばらく置くと、酸化して切り口が黒ずむ。それで文字が書けるのだ。だから墨斗草(ぼくとそう)という別名もある。タカサブロウにまつわる、こういう話はいかにも、賢治好みではないだろうか。

 おりしも、高田三郎の転校した学校は、タカサブロウの好む湿地のある谷川の岸にあった。タカサブロウの花期は7月から9月、最盛期はすっぱいかりんや、青いくるみの今の時期にぴったり重なる。だからタカサブロウは二学期の初めには田の畦も、小さな白い花をたくさん咲かせていたに違いない。

 賢治は、タカサブロウを念頭において高田三郎という名前をつけたのだと思う。「中国では花びらが落ちて、ガクの残ったところが、ハスの花のように見えるため旱蓮草(かんれんそう)とも呼ばれる」(朝日百科植物の世界)ということを、賢治が知っていたかは、わからないけれど、それが文字の書ける草であり、ハスの花と似ていることも知っていたと思う。畦にいっぱいのタカサブロウ。それはこの導入のしかたが「ポランの広場」の「つめくさ」にも似ていなくもないし、「転校」をしてきた高田三郎とも符丁があう気がする。

 賢治はタカザブロウを、熟知していたに違いないと思う。そしてその謂れとともに愛していたに違いない。

 タカサブロウは稲作の渡来に合わせて、ついてきた史前帰化植物で、日本でも縄文後期以降の遺跡で、種が見つかっていることを考え合わせると、タカサブロウは盛岡でも咲いていたはずだ。さらに、三代将軍、家光が好んでおひたしなどにして食べたという記録さえある。

 「風の又三郎」のなかの鉛筆、木ペンの描写もタカサブロウを暗示していると思える。賢治は周到にこの草の名をとった。そして一郎、と数字にちなんだ名前を入れた。だから、「三郎」なのである。

 高田三郎の名は、タカサブロウがモデルだったと考えたい。

(千葉県千葉市)


賢治の小学校時代(その2)

泉沢 善雄


一、音楽の原体験

 「音楽まで余計な苦労をするとお考へでありませうがこれが文学殊に詩や童話劇の詞の根底になるものでありまして、どうしても要るのであります。」(書簡222)とまで書かせた音楽。その原体験はどこにあるのでしょう。

 大正七年、賢治は従弟の家でクラシック音楽に接してカルチャーショックを受けます。ベートーヴェンのレコードを聴いては「俺もこういうものを書かねばならない」と言い、詩の朗唱伴奏に音楽を求め、オペラまで自作した賢治。その後ジャズや流行歌まで多くのレコードを買い求め、生命ある限り音楽を愛好し続けました。

 そのクラシック・レコードとの遭遇以前の音楽体験に関しては、子守唄、軍楽、宗教音楽等がすでに指摘されており、また、レコードを借りて採譜したとか一緒に讃美歌を歌ったというエピソードから、妹トシが女学校や女子大で受けた音楽教育が大いに影響していると思われます。

 しかしここでは特に小学校での音楽教育についてのみ検討してみました。

二、学校での音楽教育

 賢治の音楽授業について小学校の記録は残っておりませんが、実施していたと推測できる資料があるので以下に要約します。

 明治十四年に公布された小学校教則綱領には学科として唱歌があり、「小学唱歌集」全三篇から教材として選択、音楽教育に着手しますが岩手県では実施されていません。

 明治二十四年六月、文部省令によって祝日・大祭日の儀式唱歌が定められ、翌年の改定によって「君が代」、「一月一日」、「紀元節」など八曲が指定されます。

 明治三十三年小学校令改正により、唱歌は尋常小学校では加設科目、高等小学校では正課となりました。儀式唱歌の制定、高等小学校の正課昇格によって、この頃から県下でも音楽教育が普及し始めたと思われます。

 石川啄木が渋民小学校の代用教員時代にオルガン等を使って唱歌を教えたのは三十九年四月からの一年間でした。

 花巻小学校(四日町)では明治三十四年、尋常科に裁縫・唱歌を加えており、里川口小学校でも各種資料から同年に唱歌を加設したものと考えられております。

 当時の生徒の回顧談から、三十七年頃から風琴(オルガン)を使用した教育が行われたようで、校舎焼失を報じた三十九年二月二十四日付岩手毎日新聞の記事の中に「残りしは只オルガン一臺のみ」とあります。

 また、四十年には唱歌会や学芸会も開かれています。その詳細は不明ですが、『花城小学校此処にありき』に掲載された四十二年の花巻小学校学芸会のプログラムを例としてあげます。

一、開会の部       校長
二、金剛石        一同
三、ウメノミ       談話 尋二
四、小鳥の保護      談話 尋四
五、おうま        唱歌 尋三
(中略)
四一、ホタル       朗読 尋二
四二、舟あそび      唱歌 尋四
四三、ミナサン・バンザイ 板画 尋一
四四、批評        校長
四五、閉会の辞      校長

 また、明治三十五年に東公園を会場に始まった運動会は後々まで続き、学校から東公園まで「行進歌」や「運動会の歌」を歌いながら目抜き通りを晴れがましく行進したといいます。賢治も当然この中にいたはずですが成績にはあまり期待しないほうが良さそうです。

 尋常六年の国語綴方帳には「唱歌や姿勢を練習しております。」とか、「君が代」を歌ったという記述もあり、学校で音楽教育を受けたのは間違いありません。

 しかし、少年時代のエピソードとしては同級の阿部孝が「賢治の美声は少年の頃から自他ともに許していた。賢治のうまい節回しが未だに耳に残っているものに土井晩翠『星落秋風五丈原』や薩摩琵琶『石童丸』、軍歌『橘大隊長』などがある。」(四次元二百号)と紹介したくらいで、音楽的に特に優れた才能を見せたとも思われず、ごく普通の歌好きの少年であったといえましょう。

 賢治の音楽的特質は鑑賞力と音感にあったようです。音楽熱をさらに高めた親友、藤原嘉藤治は音楽は視覚的に刺激を与えたと指摘しています。音楽から想起されるインスピレーションは光や風、自然景観から得ると同等以上に鮮烈なものがあった。だからこそ「詩や劇にどうしても必要だ」と言わせたのでしょう。

学校関係の追加資料と訂正

 会報二十九号に校舎の変遷と図版を掲載させていただきましたが、花城尋常高等小学校の新設と火災について述べた部分で冬休みの記述が誤っておりましたので訂正致します。

 明治三十六年四月二十七日付、岩手県令第二十七号によって学期休業日規程が次のように改定されました。

・夏期休業  八月一日〜八月三十一日
・冬期休業  二月一日〜二月十四日
・学年末休業 三月二十一日〜三月三十一日
・歳末歳首  十二月二十九日〜一月五日
・氏祭祭日(花巻では花巻祭の三日間)
・その他農林漁業の繁忙期年間二週間以内

参考文献
『花城小学校此処にありき』花城小学校記念碑建設委員会
『岩手近代教育史 第一巻 明治編』岩手県教育委員会
『岩手県教育史資料 第四十一集』岩手県立教育センター
『岩手学事彙報』九皐堂
『巖手日報』及び『岩手毎日新聞』明治三十九年二月二十四日付

(花巻市)


「南斜花壇所要種苗表」にある「兵庫県牡丹園」のカタログを発見

坪井 由美子


 植物学や花壇という言葉に惹かれ一昨年買い求めた伊藤光弥著『イーハトーブの植物学』の第二部「賢治と花壇」を読み進むうち、「南斜花壇の所要種苗表にはアンテルリナム(金魚草)十種各二袋ずつ、ペチュニア七種各二袋ずつを兵庫県牡丹園から購入すると書かれており…」という文中の「兵庫県牡丹園」が目に止まった。その時、脳裏に浮かんだのは私の知る街の牡丹園であった。私が勤める宝塚園芸振興センターは歴史ある植木の街、兵庫県宝塚市山本にある。その街の一角にある牡丹園が文中の牡丹園なのか確認するために本書の著者にその住所を手紙でお尋ねしたところ、間もなく兵庫県川辺郡長尾村山本という旧住所である旨の返事をいただいた。やはり間違いなかった。さらに伊藤氏のお返事には、もし昭和二年春のカタログを見る機会があればその結果を教えてほしいとあった。昨年四月、郷土歴史研究家の阪上太三氏、当代牡丹園主阪上弘仁・弘子ご夫妻のご尽力により、この昭和二年春発行の山本牡丹園「園芸報知春季目録第百一号」を手にすることができたのである。

 「園芸報知春季目録第百一号」は山本牡丹園が昭和二年二月に発行したものである。昭和二年の春に賢治が南斜花壇を設計した際、花巻温泉遊園地に勤務する冨手一に送った南斜花壇所要種苗表にアンテルリナム(金魚草)と千重咲ペチュニアの購入先として兵庫県牡丹園の名を記している。その日付が昭和二年四月九日であることから賢治はこのカタログを持っていたのではないかと思われる。

 このカタログにはアンテルリナム(矮性鉢植及花壇植用)は十九色の栽培品種が、千重咲ペチュニアは十二品種が記載されているが、賢治はその中のアンテルリムナ十種を、千重咲ペチュニアは七種を選んでいる。まず、アンテルリナムについて見比べてみるとカタログも賢治の注文予定表もアムバークインから始まり、記入された品種名の順番も一致する。千重咲ペチュニアについても同様に順番は一致する。数量と価格に関しては賢治はアンテルリナムを各色二袋ずつ、価格を六十銭と記している。カタログでは一袋三十銭となっているので計算が合う。他方、千重咲ペチュニアも数は二袋ずつであるが価格を一律八十銭と書いている。カタログでは種類によって五十銭、六十銭、七十銭などの違いがあるが、更に詳しく見てみると五種揃一組が二円とある。したがって一種に付き四十銭の割りになり、賢治はその割安の価格で計算したようである。


(大阪府箕面市)



宮沢賢治資料(38)


中館武左ェ門あて書簡

杉浦 静


 詩人大木実宛はがき。はがきは、楠公はがき 一銭五厘 緑色 9.1×14.0センチ。消印は、「岩手・〔 〕〔 〕〔8〕・3・7 后4-8」。筆記具はブルーブラックインク。


 

 本書簡は、『新校本宮澤賢治全集』第十六巻(下)刊行後新たに発見されたものである。

 宛先は中館武左ェ門。中館宛書簡は昭和七年六月二十二日付の一通が既に全集に収められているが、本書簡は、それより四年前に出されたと推定されるものである。「丸善特製 二」原稿用紙にブルーブラックインクで書かれている。封筒が失われているため消印日付は不明だが、内容の天候状況、稲熱病発生等から昭和三年七月三十日の執筆と推定される。なお、本書簡に関連する高橋宣聿宛中館武左ェ門書簡が存在するが、その消印は昭和三年七月となっている。本書簡の内容は次の通り。〔†は誤記・不詳箇所〕

中館武左ェ門様        七月三十日
 お手紙ありがたく拝誦いたしました。ご労働のご様子ですが、どうかご無理をなさらぬやうねがひます。ご昇天は何時でもおできでせうから。ご来訪を期されるお方があるとのお言葉ですが、ご承知の通りのひどい外道であなたの様に石からも鳥からも道を得られる方ならばともかく、まづ大低の所はご失望と軽べつに終られるのが例ですからなにとぞ齢くださらぬやうよろしくお伝へねがひあげます。
暑曇連日 稲熱続発 諸君激昂 迂生強奔
           近状如件御座候  まづはご健康を祈りあげます。                     宮沢賢治

 昭和三年七月の高橋宛中館書簡では、転居の相談をした高橋宣聿に対して、「交通の便がよく」「御出張になるにも好都合」な花巻を勧め、宮沢賢治に「お願いして本拠を作つたらよかろうと存じます」と示唆し、賢治への仲介を申し出ている。中館から賢治に対して高橋の願いを伝えた手紙(未発見)への返信が本書簡であろう。新校本年譜に掲げられた中館武左ェ門の文章(大正十五年八月発表)には、「わたしは行者である。人生最大の問題を解決するために全力を挙げて奮闘してゐる者である。(中略)友人諸君はわたしを仙人と呼ぶ。」とあり、また、後年の賢治書簡には中館が新宗教の開祖になったとも書かれている。このような人物からの依頼に対する返信であり、めずらしく皮肉や敬遠の感情がありありとうかがえる手紙である。

 漢文めいた箇所は、意訳すれば〈毎日暑く曇った日が続きます。稲熱病が続発しています。みんなはそれを怒っています。 わたしは、おろおろと走り回っています。近頃の自分の状況はこんなところでございます〉ということになろうか。

【本書簡の紹介にあたっては、浦邉諦善様のお世話になりました。】

(埼玉県草加市)


テクスト・クローズアップ(27)


紫紺染について

栗原 敦




 

 ここに掲載したのは、「B形 10 20イーグル印原稿用紙」(セピア罫)に記された童話「紫紺染について」の草稿、冒頭一枚目(〔1〕)と、二枚目(〔2〕)である。「紫紺染について」の草稿は十三枚、同じ用紙一枚を用いた表紙が付されている。第五葉以下末尾までの九枚は花巻農学校卒業生川村(のち長坂)俊雄による筆写稿である。その記憶によれば、賢治の依頼を受けて卒業後の大正十三年四月から五月までの間に、「黄いろのトマト」・「〔ポランの広場〕」とともに筆写したものという。

 賢治自筆である原稿用紙一枚目の罫2・4・6行に「紫紺染」・「紫紺」・「紫根染」の文字が見える。ちなみに、賢治自身の思いこみによるものだろうか、「染」の字が独特の異体になっている。さて、この一枚目6行目の「紫根染」はこのままでよいだろうか。本文の校訂が問われるべき所であるが、ここは、筆者の書き誤りと見るべきであろう。おそらく訂正漏れと判断される。根拠は、二枚目における表記とその訂正状況である。

 二枚目の7行目・8行目に注目していただきたい。まず7行目、「一、山男紫根を…」の部分。そのままこの見出し部分を書いてから、「根」の文字を何本もの斜線で消してその右に「紺」の字を記している。8行目の場合はどうだろう。「紫根」と書いて、「根」を同じく何本もの斜線で消しているが、訂正の「紺」の文字はすぐ下の升目を用いて記入している。要するに、7行目ではうっかり「紫根」と書いてしまい、気付くのが遅かったので下の升目は空いていなかったのだが、おそらくここでの訂正のあと、再び「紫根」と書いてしまった8行目ではすぐに気付いて、真下の升目に記入することができたということだろう。この時、どういうわけか賢治の手は「紫根」と書きやすい勢いにあったが、自身それに気付いて訂正した、そう見れば、一枚目の「紫根染」も、本来なら訂正するべきものと考えた筈(見落としによって漏れただけ)と判断できよう。もしかすると、一枚目の6行目で「紫根」と記してしまったのは、4行目の下の方から「草の根」の説明を行っていたことが心理的に尾をひいたのかもしれない。

 本文校訂(本文批評、テキストクリティークによる本文決定)には、様々な場合があるが、筆者の意思を忖度して、それにかなう望ましい姿に校訂者が校訂するということがあり、この例はまさにそれにあたるといっていいだろう。

 実をいえば、『新校本 宮澤賢治全集』では、右に記したような理由でここを「紫紺染」に校訂する判断をしている。しかしまた、実をいえば、そう判断をしたのだが不注意のミスのため、編者による校訂を加えていることを示す校訂記号〔〕を本文に付すことを落としてしまい、また校異欄末尾の校訂一覧への記載を漏らしてしまっている。この場をかりて、補訂させていただく。

【訂正】
第十巻本文篇 一八四頁3行 南部の紫紺染は、→南部の紫〔紺〕染は、
第十巻校異篇 二三七頁 中段の見出し「紫紺染について」の次に以下を挿入。一八四(3)南部の紫根染は、→南部の紫紺染は、(訂正漏れを補う)

 なお、この項目は、京都市の会員工藤哲夫氏より、疑問点としてお尋ねがあったことによる。工藤氏のご指摘に心より感謝申し上げる。

(東京都国分寺市)


セミナー報告


札幌セミナー「青い神話」の行方に
二〇〇五年七月一六日・一七日

斉藤 征義


遠くなだれる灰光と
貨物列車のふるひのなかで
わたくしは湧きあがるかなしさを
きれぎれの青い神話に変へて
開拓紀念の楡の広場に
力いっぱい撒いたけれども
小鳥はそれを啄まなかった

 「一九二七、三、二八、」の日付のある賢治の詩「札幌市」の、「青い神話」とは何か。あるいは「青い神話」と、この北の都市との関わりに詩人は何を求めたのだろう。

 このころの賢治は、ふたたび苦境の中にあった。前年春に花巻農学校をやめて農業生活に入り、羅須地人協会を発足させて「農民芸術」の実践活動を精力的に始めたばかりだったが、思想関係の「風評」と「誤解」から集会も不定期やむなしとなり、農民とともに土に生きようと決したにもかかわらず、天候不良と反感の中で「暗く重い仕事」の戦慄がのしかかってくる。「黒い死の群像」を予感するなかで「世界は移ろふ青い夢」と記したが、得意な「青」は、このとき激しく変質しつつあったのではないか。そのヒントをさぐるべく、このたび札幌セミナーのテーマとしたのだが。

 童話「銀河鉄道の夜」に「星が見えない」という疑問を追ってイーハトーブへ「乱入」した漫画家のますむらひろしさんは、その初期形に「あの青い琴の星さへ蕈のやうに脚が長くなって、三つにも四つにもわかれ、ちらちら忙しく瞬いた」とある表現から「そうか、星はキノコになって、そして三角標に変わっていくんだ」と気づく。

 そこにたどる映像化のための確認作業の錯綜と探求の苦闘を、基調講演で語って下さった。

 ジョバンニの顔の形や眼の色を賢治は具体的に書いていない。風景描写は細やかで美しいが、人物はぼんやりしている。汽車は星空の中を走っているのではなく「空の野原」「がらんとした桔梗いろの空」の涯、車窓からは「燐光の三角標」が息づくようにゆれるばかりである。ひとつのひらめきは記された時刻であった。星座盤を調べ、夏の大三角形を測りながら、散りばめられた三角標をたどる。そして「登場するいろんなものが、まさしく星あかりが変化したものだったのだ」と感嘆する。単純でない凄さ、仕掛けが凝っている映像、構成の巧妙さ、

 「賢治のことばを絵にすると解らないシーンが多い。最初のティクが残ってるからさまざまな解釈が生まれてくる。それがまた楽しい」

 ますむらさんの演題は、「定説疑うべし」であった。

 押野武志さんと中地文さんの対談では、賢治の北海道・樺太行(1923年)と、北海道修学旅行引率時の旅(1924年)の作品群や当時の社会動向などから示唆にとむヒントが次々と示された。たとえば詩集「春と修羅」の編成過程で、「青森挽歌」「オホーツク挽歌」稿に差し替えが行われたことや、ジョバンニの境遇に昭和初期の有本芳水や佐藤紅緑の少年小説との酷似部分があるなど、賢治が思いを傾けた北への志向作業が伝わってくる。北海道と樺太が国をあげての拓殖政策の中にあり、とくに樺太ブームは国策にのるものであったことや、社会主義思想とプロレタリア文学の潮流も見逃すわけにはいかない。また「札幌市」と同年の日付がでてくる童話「ポラーノの広場」の結末で、産業組合に加わらず「同伴的協力者」となるしかない主人公キューストの立場の解し方にも関わってきそうである。

 セミナーの終わりには、賢治の詩をいくつか「青い神話」にちなんで構成し、原子修さんが解説、嘉藤師穂子、村田譲、桜井良子、畑野信太郎、堺美恵子さんら北海道の詩人たちが、音楽団体フォーエヴァーの演奏とともに朗読した。

 翌日の「『修学旅行復命書』を歩くツアー」では、石本裕之さんのガイドで北海道大学や植物園、サッポロビール工場などを巡った。大通り公園の「開拓記念碑」のところでは、「賢治がここの立ったのは大正12年8月1日の午後か」という石本さんの大胆な推測を聞きながら、掌の中の「青い神話」を想像した。何に変化しようとした星あかりなのか。

(北海道穂別町)


夏季特設セミナー
二〇〇五年八月二七日・二八日
宮沢賢治イーハトーブ館


天沢退二郎さんをコーディネーターに、長期企画として始まった夏季特設セミナー「「風の又三郎」の謎に迫る」の第三回目は、「「風の又三郎」と「種山ヶ原」をめぐって」をテーマに、八月二十七日、二十八日の二日間、宮沢賢治イーハトーブ館を会場に一六八名の受講を得て開催されました。

 初日は、まず今回の講師である映画監督・黒沢清さんによる、二〇〇三年にNHKBS等で放映された「朗読紀行・日本の名作宮沢賢治 風の又三郎」(読む人:小泉今日子)を鑑賞。続いて、黒沢清さんと本会理事の岡村民夫さんとのトークにて、黒沢さんと賢治作品との関わりや、映像についての興味深いエピソードを語っていただきました。

 二日目は、天沢退二郎さんによる「草稿と風土」と題しての基調報告と、続いて天沢さんの司会により、松澤和宏さんと佐佐木匡さんをパネリストとして、「「風の又三郎」と「種山ヶ原」をめぐって」様々な発言がなされました。

 さて、連続企画のこのセミナーも、本年は夏に「宮沢賢治国際研究大会」が開催されることから、一回休みとなり、次は来年の開催となりますので、皆様のご了解のほどよろしくお願いいたします。


冬季セミナー
二〇〇五年十一月二六日・二七日
宮沢賢治イーハトーブ館


 本セミナーは、「東北砕石工場と宮沢賢治」をテーマに、イーハトーブ館で開催されていた企画展「鈴木東蔵」展と連動し、十一月二十六、二十七日の両日開催されました。

 まず初日は、企画展監修者・鈴木豊さん(鈴木東蔵四男)から当時の東北砕石工場のお話しを伺い、続いて大好評連続企画「イーハトーブの郷土芸能(3)」として、一関市東山町での、「行山流大木鹿踊り」演舞と「猊鼻追分け」披露がありました。

 二日目には、佐藤通雅さんの「賢治と東山」、大石雅之さんの「岩手県の地質の周辺」とお二人の講演があり、ここでは佐藤通雅さんの講演要旨を掲載いたします。

 続いて、来年二月に取り壊しになるということから、急ではありましたが、旧緯度観測所本館(当時:岩手県水沢市)へのバスツァー。「風野又三郎」にも登場する建物を、国立天文台名誉教授・大江昌嗣さんのご案内で訪ねてきました。その直後、全国から建物保存の声が高まり、取り壊しが中止となり、今後の保存計画への協議が進められております。


冬季セミナー講演(要旨)
「賢治と東山」

佐藤 通雅


 私の話は時間がわずかなので、表現者賢治と東山の問題に絞ってみます。賢治の生涯にとって、東山時代、または東北砕石工場技師時代はいちばん暗く、できたら目を背けていたいとさえ考えられてきました。それに対して近年、賢治の最後の表現活動にとって、見直すべきところがあるのではないかと、再評価の気運がでています。そこでまず、東山時代にとっての基礎的事項をまとめておきます。

 東北砕石工場との関わりの期間をどう想定するか。従来は鈴木東蔵が一九二九年春に宮沢家を訪れたことが発端とされてきました。今回の新校本全集の年譜では、鈴木豊さんの帳簿調査の結果を受けて、一九二九年十月二十四日の説が加えられています。従来の説なら、大病の余波をまだ引きずっていた時期ですから、初対面の来客との応対には悲壮感すらあります。しかし十月末なら二時間もてなす体力もなかったわけではない。いずれかは、今後のさらなる調査が待たれるところです。賢治と東北砕石工場との関わりを何年間に見るかも、論議が分かれます。「契約証」を交わした一九三一年二月二十一日を起点に、上京して発病、活動がストップするまでの九月とすれば、七ヶ月になります。東蔵訪問から完全に音信の途絶えたところまでいれると、四年間になります。そこで、実質的には七ヶ月、形式的には四年と押さえておくのがいいでしょう。

 つぎにこの時代にかかわる基礎資料を概観しておきます。第一は、賢治自筆の資料。そのなかで注目すべきは、「貴工場への献策」です。賢治といえば、実業方面で無能というのが一般的イメージですが、これを読むとなかなか有能なコンサルタントぶりです。第二は、「契約証」。賢治が働いたぶん、自分側の利益になる仕組みが解ります。第三は、書簡。ほとんどは事務的な報告ですが、書簡数では東蔵宛が一番多いのです。それらをつぶさに見てみますと、活動月日やルートがわかります。いきなり疾走し、疲労をつのらせて発熱・病臥というパターンを何度も繰り返しています。ただしある期間の書簡がごっそり欠けています。紛失してしまったのか、どこかに埋蔵されているのかは、今後に残された課題です。第四に、手帳類。「孔雀印手帳」「王冠印手帳」がありますが、特に後者がこの期間と密接に関わっています。書簡によって東山に行った回数が八回と推定できます。もう一回の可能性もありますから、九回と見ておきます。「王冠印」には、そのうち六回の記録があるのです。

 以上が基礎資料ですが、それらだけでは東山時代を解くわけにはいきません。最初の実業的仕事に胸躍らせた伏線として押さえておくべきことは、「疾中」詩篇と、知人や教え子たちに送った書簡のことばです。重篤体験を通して賢治の得たのは、豊潤な想像力に替わる、人生を水平の方向に捉える眼差しでした。書簡の中の「人はまはりへの義理さへきちんと立つなら一番幸福です。」なども、その延長線上にあります。沢里武治宛にも、「こんどはけれども半人前しかない百姓でもありませんから、思ひ切って新しい方面へ活路を拓きたいと思ひます。」とあります。農学校の四年間が一番やり甲斐があったというあとに、記している言葉ですが、いままでの虚の世界から実の世界へ比重を移しつつあることを物語っています。そういう時期に東蔵の訪問を受けたわけです。

 さて、いよいよ東北砕石工場技師時代に入ります。賢治がどういう気持で東山の町へ歩を踏み入れたのか。すくなくとも天才的な創造者としてではなかった。豊饒な空想者としてのつばさを折り畳んで、等身大の人間として入ったのです。虚でなく、実の世界の一人間として、陸中松川に降り立ちました。私たちは、豊饒な作品や思索に魅せられることから賢治に入ってますから、なぜ才能のある人物がここまで惨めな仕事をやらなければならなかったのだ、なぜ命を縮めてまでセールスに奔走しなければならなかったのだと憤りすら覚えてきました。挙げ句の果て、東山時代を呪わしくさえ思ってきました。しかし、この時の賢治には、人生への水平の眼差しが生じ、また実の世界を初めて生きることへの意気込みがありました。さらに付け加えておけば、賢治の内に潜在する人間存在への平衡感覚ともいうべきものが、作用したと考えられます。工員たちとの共生感が生まれたのも、これと密接に関係があります。そればかりか、駅で見かけた派手な女の人へも、嫌悪感から同情へ、そして共生感へと次第に移行します。私はそこに、思想者宮沢賢治の到達点を見ます。ただし、創作上にどのような影響があったかは、最後に残された問題です。

 資料として「王冠印手帳」を用意してきましたから、ご覧ください。かなりの走り書きで、判読困難な部分もあります。疲労困憊した列車で、ぐったりしながら書いたものと想像ください。先日の九月の賢治学会の総会で、「雨ニモマケズ」の「ヒデリ」「ヒドリ」の問題が論議されました。その時、清書に近い状態で書いたのだから「ヒドリ」は誤記ではないという意見がありました。ここでは問題に深入りしないで、考えるときの一ヒントとして、書くときの状態について触れておきます。「雨ニモマケズ」は臥床したまま、つまり静止状態のままで書いています。それに対して、この手帳類は、車中で、あるいはちょっと立ち止まったときなどの動的状態の作業と見ていのです。賢治がどういう状態で筆記したのかを見るのも、これからの研究課題でしょう。

山なみ越えたる かしこの下に なほかもモートル とゞろにめぐり はがねのもろ歯の 石噛むひゞき ひとびと ましろき石粉にまみれ シャベルを叺を うちもるらんを あゝげに恥なく 生きんはいつぞ妻なく家なく たゞなるむくろ

 以下まだ続きますが、ここで切ります。恥なく生きるのはいつの日のことかと慨嘆した時、おそらく最初はわがことを指していた、しかし前後を注意深く辿ると、工員たちにもかかる言葉だと解ります。この共生感を得た時こそ、「本当の百姓」たらんという望みが実現した瞬間でした。思想者宮沢賢治の到達点を、そこに見る所以です。

 ところで、表現者宮沢賢治は、以後文語詩に集中していきます。『春と修羅』時代に比べたら、豊饒さの点でも、面白さの点でも、衰退しているという見方が一般的です。私も全否定はしませんが、賢治の置かれた状態を見ることから始めなければ、取りこぼしてしまう部分があると感じてきました。そもそも「疾中」を振り返るならば、彼は重篤にあっていくつもの詩を発想していた。それを私は、死体に限りなく近付きながらも「詩体」そのものになった、死をもってしても「詩力」を奪うことはできなかったと説明してきました。最晩年に至っても、それは変わることがなかった。床にふせ、もうどんな活動もかなわない。いままで飛翔してきた想像のつばさも、最早、羽ばたくこともできない。にもかかわらず、「詩力」だけは残り、むしろ純粋な「詩体」そのものになった。そのように考えなければ、文語詩稿の度重なる手入れはとうてい理解できない。すでに身体的エネルギーは奪われていても。「詩体」から発する「詩力」はぎりぎりまで作動した。

 もし、ここで再び生の世界へ戻れたなら、また新たなる展開を見せたに違いありません。


ポラーノの広場
─第十一夜─

八戸・賢治を語る会


「発動機船」をめぐって

搬船(発動機船)の頃

元運搬船船員 小袖丑松さん(昭和五年生 七十五歳)に聞く


――以前、八戸と宮古の間の物資輸送を担っていた「運搬船」のことを聞いた時に、小袖さん自身が乗っていたことがあるというので大変驚いたのですが、どういう経緯で運搬船に乗ることになったのですか?

小袖 どーもこーも、俺の大おんちゃま(大叔父様)が早ぐがら八戸さ行って、久栄丸っつう運搬船を持ってらったんで、学校終わってがら乗るごどになったんだ。此処、小袖(集落)がらぁ、他にも五、六人が八戸の小中野で運搬船持って商売やってらったんだぁ。

――乗っていたのはいつ頃のことなのですか?

小袖 学校終わったばぇの、若い時だものぉ。戦前のごどだんだぁ。

――運搬船の写真は残ってます?

小袖 うーん。多分無ぇごった。昔は白黒の写真さきれいに色っこを付けて、額さ入れで茶の間さ飾ってらったどもな。昔、家ぇ立て直した時に無ぐなってすまったよった。

――その写真は関係者に聞いても殆ど残ってないのですが、この写真集(『ふるさとの想い出写真集 明治大正昭和 八戸』中里進編 国書刊行会 昭和五十五年)に載っている、このような船でした?

小袖 おーっ!そうだ。こっただ船だったぁ。これでもあの頃にせぇーば、結構大きがったんだぁ。

――写真で見ると全長20から25メートルはありそうに見えますが。

小袖 おー、それ位はあったごったぁ。約20トンあって、当時どすてぁ大っきいんだ。

――船員は大体何人ぐらい乗ってました?

小袖 船頭がら一番若いかすぎ(注=炊事係)まぇーで、全部で五、六人は乗ってらったぁ。

――八戸から何処まで船は走ってました?

小袖 八戸の小中野の港がら、昔ぁ、そごさ湊っつう駅があって、そごがら宮古までの間ぁ走ってらったんだ。

――どんなものを運んだのですか?

小袖 何って、何だぇって運んだんだ。ありとあらゆるもの、何でもかんでも。八戸からは米、味噌、醤油、りんごなど。村々がらぁ、薪がら魚がら、何でも運んだもんだんだ。積めば積むだげ金になる訳なんだものぉ。

――人を乗せることもありましたか?

小袖 乗せだも、乗せだも。人だぇって、何だぇって乗せだんだぁ。

――航海の様子を聞きたいのですが、陸中海岸の村々から荷を積んだ船は、南の宮古に向かう場合、北から順々に南下していったものですか?

小袖 えーや、そっただもんでなくて、荷でも人でも積むのがあれば、北さでも南さでも、どごさでも飛んでぐんだぁ。

――では、たとえば田野畑村の羅賀にいた船がそこで人を乗せて、一旦北に向かって普代村のネダリ浜で荷を積み、再び南の宮古に向かうこともありえますか?

小袖 あるも、あるも。荷さぇあれば何処さでも走ったんだ。

――昔の羅賀はどんな港でした?

小袖 港なんてもんではねぇーんだ。当時はどごだぇってろぐな港なんか無ぇんだぁ。どごの浜でも、沖さ運搬船を停めでおいで、そごさ伝馬船がつけて荷を下ろすたり積んだりすんだ。羅賀はちゃっけぇ浜だったども、隣の平井賀は映画館どぉーもあった位で、随分栄ぇでらったんだ。今だら考えられねーべーども。

――港々でけっこう楽しんだ訳ですね。ところで、船が走るのは昼が中心ですか?

小袖 えーや。昼も夜も関係ねぇんだぁ。運ぶものがあればとにかく速ぐ走んだもの。

――運搬船は戦後は無くなったのですか?

小袖 えーや、戦後もすばらぐあったんだぁ。車で運ばれるようになんまぇーでぁ。

――今日はありがとうございました。またお話を聞かせて下さい。

小袖 今度ぁ、病院でなぐ家がえーなぁ。酒ぁ無ぇーば淋すがんべぇ。


賢治が乗った「運搬船」と乗船地

中川 真平


 「発動機船 一」「発動機船 二」「発動機船 三」に描かれた情景は、定期船でも漁船でもなく、かつて陸中海岸で「運搬船」と呼ばれていたものである。運搬船は鉄道に恵まれなかった陸中海岸の物資輸送の要であった。大正時代に帆船から動力化し、敗戦後、陸上交通の発達により次第に消えていったもので、今では地元でもすっかり忘れ去られてしまった存在である。

 賢治は陸中海岸の北部から発動機船に乗って中部の宮古に向かったと推察されるが、どこから発動機船に乗ったのかははっきりとしないところがあった。最も有力なのは、昨年惜しくも亡くなられた奥田弘さんを始め、「発動機船 三」のわざわざ三字分下げて書かれている最終行、「羅賀で乗ったその外套を遁がすなよ」と描写された外套の人物を賢治と見なし、羅賀から乗船したという見方である。

 それに対して木村東吉氏は「《三陸旅行詩群》考」(『宮澤賢治《春と修羅 第二集》研究』渓水社 平成12年)で、「発動機船 一」の舞台が羅賀より北にある普代村のネダリ浜という入江であることを綿密に検証し、羅賀よりも北の下安家、堀内、太田名部あたりの漁村で乗船したものとみている。

 だがこの推定は、運搬船の実際の運行とは違うことが小袖さんの話でわかる。小袖さんによると、運搬船は北と南を複雑に激しく航海したという。つまり、賢治を乗せた運搬船は昼頃に羅賀の港を出て一旦北に向かい、普代村のネダリ浜で若い女性たちの運んできた割木を積み、今度は再度、羅賀に南下し、羅賀の漁師たちが昼の間に採った章魚(たこ)を夜の早い時間に買い取り、南の宮古に向かったものであろう。

 また、木村氏は「発動機船 第二」で章魚を買い取る時に船長の「うしろの部下はいつか二人になってゐる」と描かれた人物が羅賀で乗ったものと見ているが、その人物は船の機関室か船倉の中から、売買に立ち会うために出てきたものと思われる。それに何よりも、「発動機船第二」の情景描写は作者が既に羅賀の様子を知っているようなものとなっている。明るいうちに羅賀の浜辺を見てある程度知っていたからであろう。したがって、乗船地はやはり羅賀とみるのが順当であるとみたい。

 一昨年、普代村で村内の堀内漁港の海浜公園に文語詩「敗れし少年の歌へる」の碑を建立したが、碑石の裏面には、木村説を拡大解釈して「賢治 濱善丸で南へ」と彫られている。だが、三陸の漁業史に詳しい山下松次郎さん(元久慈市漁業協同組合専務理事 88歳)によると、堀内の熊谷家所有の濱善丸というのは、いわゆる運搬船ではなかった。熊谷家は八戸や宮古に先駆けて自家発電までしてアメリカからの輸入で冷凍工場を作った資産家で、濱善丸は自前の魚を運ぶ発動機船だったとのことである。山下さんは久慈市の出身だが、昭和初期に旧制の五年制の八戸水産学校に進学し、長期休みの時は親戚の運搬船でアルバイトをされていた。人力による荷の揚げ下ろしは大変なものだったものの、八戸から宮古の間の航海はなかなか楽しいものだった。漁村での買い付けは、「発動機船 第二」に描かれているように、現金払いだったそうである。海で働く人々の世界は賢治にはとりわけ新鮮だったようである。


八戸子どもの本の会 三十年の活動のなかの賢治

八戸子どもの本の会代表 山田 剛也


 八戸子どもの本の会は、昭和五十二年十一月に設立いたしました。図書館員、小学校教師、父母など読書に興味、関心のある人々の集まりとして、子どもたちと一緒に出発したのです。そのあと会員募集に際して次のような趣旨の文章をつくりました。

 「私たちの会では毎月一回の例会を持ち、本の読み聞かせ、紙芝居、本の研究、親子読書等も行いながら子どもたちに本の面白さ、読書の楽しさを知ってもらいたいと願って活動を続けております。子どもの本を通じて子どもの世界を知り、また子どもとの共通の話題を持つことによって、対話の機会をふやしていき、よりよい親子の関係を築いていきたいとも思っております。」

 八戸市立図書館を会場として毎月一回の例会を親子で楽しみながら続けていき、沢山の子どもの本にふれることができました。ある子どもの言った「本って、いろんな世界に行けてなんて楽しいんだろう」という言葉は、私にとってなによりの励ましとなりました。また、読み聞かせのあと「あゝおもしろかった」という一言は、私に心をなんとも幸せな気分にしてくれるのです。

 子どもの本を知ることが大事であるということで、子どもの本研究会もつくりました。できるだけ多くの本にふれることが必要でありますが、主として絵本について勉強してきました。戦後から最近出版されたものまで、時にテーマをしぼったり、作家ごとに読んだりとあれこれ工夫しておりますが、とても研究などとは言えない状態で続いております。

 個人的なことですが「日本子どもの本研究会」という団体があり、私もその会員となっております。入会条件の一つに推薦者が必要とあって、自分の場合には岩手県浄法寺町の、岩手子どもの本研究会会長をしております高橋昭氏がなってくれました。この方のおじいさんが高橋勘太郎さんという高勘書店を創った人です。そして賢治父子と仏教を通じて交流のあった方であり、更に私の叔父である山田鑑二の日記にも名前が出てまいります。このことはずっと後で知ったことなのですが、不思議な縁に互いにびっくりしたものです。

 八戸市立図書館では毎年子ども読書週間に「映写会、紙芝居、読み聞かせの集い」を行っていますが、これに私たちの会もお手伝いさせて戴いております。また「八戸・賢治を語る会」も会員である「八戸市読書団体連合会」でも「子どもの本の読み聞かせ、紙芝居、映画の集い」を開催しております。公民館、児童館、幼稚園、保育園、小学校など市内のあちこちで行ってきました。市読連の依頼により私たちの会で演じさせてもらっております。いずれも二十年以上続いており、私たちにとっても大変楽しみな行事となっております。

 現在の主な活動としては八戸市立図書館での読み聞かせがあります。毎週土曜日午後三時から四時迄お話し会室で行っております。絵本の読み聞かせと紙芝居などで一時間を子どもたちと楽しみます。集まる子どもは幼児から小学校低学年が主ですが、年々低年齢化してきております。

 このような状況の中で賢治の作品をとりあげることがむずかしくなっております。最初の頃は高学年も多く「注文の多い料理店」「セロ弾きのゴーシュ」「どんぐりと山猫」「雪渡り」など、わりと読む機会もあったのですが、現在は学校に頼まれた時でもなければあまりありません。紙芝居には「グスコーブドリの伝記」他のダイジェスト版みたいなものもありますが、原作をどれだけ伝えられるものかよくわかりません。

 子どもたちにできるだけ賢治の作品を渡してやりたいと思っております。私の大好きな「鹿踊りのはじまり」「なめとこ山の熊」や「ツェねずみ」「カイロ団長」などたくさんの子ども達と楽しみたいものです。できるならば「税務署長の冒険」なども。

 子どもと本を結びつけることを願いとして活動してきましたが、全国的な動きと同じように、子どもの数の減少や低年齢化などは当地にもあります。本を手渡す側としての創意工夫が必要となります。親の方にも様々な変化があり、あまり芳しくない状況の中でも子どもは確実におります。その子どもたちに、本という楽しく、すばらしい世界をぜひ知って欲しいという願いがある以上、あきらめずに続けていきたいと考えております。

 私たちの読み聞かせを聞いた子どもが中学生、高校生になって読み手として参加してくれるようになったことは嬉しいことです。

 「八戸・賢治を語る会」の会員としては、賢治の作品で子どもたちとの読書会をもてたらいいのだがと思っております。


はくちょう駅・青森挽歌碑 年譜

佐藤 陽子


一、はくちょう駅

☆一九八六年一一月 青森県東津軽郡平内町東田沢立石子17番地3号に、高橋竹山記念資料室を含む居宅を建設移住。日高見荘を称す。(佐藤貞樹・陽子)

☆一九八九年一一月 同地に書庫を建設。同年九月、芥川賞作家畑山博氏が逗子の自宅を「銀河鉄道始発駅」と名付けている新聞記事を見て「はくちょう駅」の構想を得る。野辺地駅レールバス停車場・軽便鉄道風のステーション様設備を書庫南面に付設する。書庫内・貞樹書斎を「駅長室」と名付ける。

☆一九九〇年六月 駅舎前に廃レール11.4メートルを敷設。(青森駅保線区より)同じく廃品で信号機。ステーションに駅標・行先標プレート・時計(陶製・11時を指す)20分停車札などを設ける。

☆始発駅長ドノに「報告」は、一九九一になってからで、同六月畑山氏より返信がある。「小生の始発駅は容の見えない心の次元のものであり、発車と同時に飛翔してしまいます。…もちろん同時に地上モデルを楽しむという目的もあるわけで白鳥駅が出来たということはまさに楽しさの二乗です」従って正式には「銀河鉄道夏泊線はくちょう駅―天上白鳥駅地上モデル」は、一九九一年六月畑山博氏により「認可」となる。

二、青森挽歌 詩碑

☆詩碑があればはくちょう駅に似合わしいと建設当初から思っていたのが、思いがけず実現のはこびとなったのは一九九五年。きっかけを作ってくれた畏友葛西禎子さん(九六年一月逝去)の挽歌でもある。

☆詩碑・概要
碑銘 宮澤賢治「青森挽歌」冒頭8行
碑石 提供・弘前
市片山信光・良子夫妻
┐は=角は宮川所有の石群より、美術家村上善男氏選定およびデザイン(岩木山噴出の火山弾)無償にて提供される。
H68cmW74cm
施工弘前市山内敏正氏
銘板 デザイン 村上善男 施工仙台市川村金具店。施工法・銅板に漆塗装、写真焼付法・字体明朝体活字

☆除幕・建立記念会一九九六年八月一日、夏泊・日高見荘敷地内にて。たまたま生誕百年に当たる。「青森挽歌碑をかこむつどい」またの名、水素のりんごを喰べる会。
銘文紹介・レクチャア 小野正文・小山内時雄氏 詩朗読・佐藤豊彦氏 乾杯・(当時百石町長の)三村申吾氏 参会者六十人。司会・奥村潮さん
建立者  佐藤陽子


八戸・賢治を語る会

宮 忠


 賢治が好きで研究したいという者9名が集まって会を発足させたのが二〇〇一年七月七日のことで、以後、毎月テーマを決めて活動してきました。月例会は、賢治の作品を輪番で読み合うのが中心で、文語詩「八戸」など、八戸やその近辺に関わりのある作品からスタートし、『注文の多い料理店』、自分の好きな詩、動物寓話集、教科書掲載作品などを取り上げてきました。

 例会の他に、〈賢治の足跡旅行〉と〈八戸・賢治祭〉を年各一回行っています。〈足跡旅行〉は会のスタートと同時に行っており、まず、賢治が八戸旅行で訪ねた鮫・蕪島や種差海岸を巡りました。続いて陸中海岸北部、「青森挽歌」ゆかりの乙供駅から浅虫海岸、賢治の聖地の岩手山麓。昨年秋には盛岡市内を訪ねました。

 〈八戸・賢治祭〉は、賢治の誕生日である八月二七日に、多くの人に賢治を知ってもらいたい、賢治の世界を楽しんでもらいたいという願いをこめて、三年前から開催しています。一回目は賢治ゆかりの食の懇親会。二回目は講話・音楽・朗読の三本立て(二百名を越える盛会)。三回目は土曜日だったので子どもたちの参加も願い、時間帯を昼に移して、朗読・講話、賢治ゆかりの食事会の二本立てで開催しました。発足して五年、なごやかな雰囲気で賢治の人と作品を学び、賢治を語り合っていきたいと思っています。