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宮沢賢治学会・会報第32号 | |
たゞひとり暗いこけももの敷物を踏んでツェラ 高原をあるいて行きました。/こけももには赤い実 もついてゐたのです。/(中略)/私は空を見まし た。いまはすっかり青ぞらに変ったその天頂から 四方の青白い天末までいちめんはられたインドラ のスペクトル製の網、その繊維は蜘蛛のより細く、そ の組織は菌糸より緻密に、透明清澄で黄金で又青く 幾億互に交錯し光って顫へて燃えました。 (「インドラの網」) 表紙写真 撮影・大塚 常樹 |
第32号●こけもも 2006年3月24日発行
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息で曇る窓ガラス 吉田 文憲 密閉した部屋の窓やガラスケースの内側にいて息をすると、当然のことながらその窓ガラスはぼんやりと白く曇る。そこに私たちの肺胞から吐き出された微細な水蒸気が付着するからだ。つまりそれはその窓の内側に、息をしているもの、生きてこの地球の大気を呼吸しているものの存在があるということである。 賢治の『黄いろのトマト』を初めて読んだとき、私は次の一行に震撼させられた。 ガラスは私の息ですっかり曇りました。 何気ない一行かもしれないが、私はハッとしたのである。そしてこの一行にすぐに書き出しの文章が重なった。『黄いろのトマト』は、次のように書き出されていた。 私の町の博物館の、大きなガラスの戸棚には、製ですが、四疋の蜂雀がゐます。(傍点、吉田、以下同) この一文は、次に、行を換えて、「生きてたときはミィミィとなき……」と続いてゆく。 《剥製》とは「いまにもとび立ちさう」に見えるが、もう生きてはいないもの、(生きているようにさせられている)死んでいるものである。それがどんなに可憐で「かわいらしく」見えても、宙にむかって「りんと胸を張って」いても、それがミィミィと鳴いたり、青空の下を飛ぶようなことはもう二度とないのだ。 それがこの物語の語り手の「私」のように、その息で窓ガラスを白く曇らせるようなことはもう絶対にないのである。 賢治はこの作品で、このあとに続く兄と妹の金銭を知らないことが引き起こす哀しい物語よりも、じつはこのことこそ書きたかったのではないか、と私は思った。息で窓を曇らせることができるものと、もう二度とそれができないもの――。 《剥製》とは、「生きてたときはミィミィとな」いていたものである。だがそれはもう二度と鳴かないし、二度と口を開かない。 さきの一行は、この生けるものと死せるものの不条理な対比を、生と死のいわば絶対的な距離を、さり気なく、だがある痛切な想いとともに描いていたのではないか。 御存知のように『黄いろのトマト』は、実際には存在しない下級官史十六等官のキュステが幼い頃博物館の製の蜂雀から聞いた話として書かれている。「私」のいちばん気に入っていた蜂雀があるとき、つまり死んでものを言わないはずのものが、突然口を開く。「ペムペルといふ子は全くいゝ子だったのにかあいさうなことをした。ネリといふ子は全くかあいらしい女の子だったのにかあいさうなことをした。」と。そしてあるお話を語り出しては、にわかに口を噤つぐんでしまう。死んだものが口を開く、《剥製》になったものが突然ものを言いかける――そんなありえないことがありえた幼い日の「私」の身の上に起こった一種の”奇蹟“として、この物語は語り出されているのである。 そのことを踏まえて冒頭近くにある、次の文章を読んでみよう。 ‥‥あの美しい蜂雀がたった今まできれいな銀の糸のやうな声で私と話をしてゐたのに俄かに硬く死んだやうになってその眼もすっかり黒い硝子玉か何かになってしまひいつまでたっても四十雀ばかり見てゐるのです。おまけに一体それさへほんたうに見てゐるのかたゞ眼がそっちへ向いてるやうに見えるのか少しもわからない……。 この箇所を読んだとき、私はある戦慄を禁じえなかった。これは身近に、あるいは枕許で、たったいままでそこで息をしていたものがにわかに息をしなくなる、そのものの死にゆく瞬間をまさに生身で体験したことのあるものの描写だと思った。それほどこの場面の、臨場感はなまなましい。とくに「その眼もすっかり黒い硝子玉か何かになってしまひ」という箇所は、私に詩篇「青森挽歌」のなかの次の詩句を想い起こさせた。 にはかに呼吸がとまり脈がうたなくなり むろんこれは賢治の妹トシの死にゆく場面を描写したものである。因みに『黄いろのトマト』は一九二四年頃の執筆と考えられている。すなわちこれは妹トシの死後一年か一年半足らずの作品である。 『黄いろのトマト』は前半に” 原稿なし“の箇所があり、ストーリーにも空白があったりして、妙に物語のバランスの悪い作品である。あの剥製の蜂雀はこれはほんとうに「かわいさうな」物語だというが、本篇で語られたその「お話」は確かにかわいそうにはちがいないが蜂雀が何度も言い淀み、語れないと口を噤むほど、読者には「かわいさうな」物語には思えない。作者はむしろここでほんとうに語りたいことを語っていないのではないか。蜂雀の沈黙とその後の「お話」は、むしろそれを語らないために語り出されているのではないか。それとはむろんさきに引用したような美しい蜂雀の直接的な死の体験を語った文章に深く息づいているものである。『黄いろのトマト』のかなしみの旋律はここでもっとも高く鳴っているのである。 執筆時期を考えれば、私たちはこの作品に妹トシの死の影をみてもいいのではないか、とりわけ冒頭部分の引用した幾つかの箇所には、あの「永訣の朝」(『無声慟哭』三部作)の〈それを言えない〉詩人の無量の想いを読み取ってもいいのではなかろうか。 (詩人)
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| 【報告】 |
第十六回定期大会 二〇〇五年度定期大会が、会員ほか二〇〇名の参加を得て、昨年九月二十二日と二十三日の二日間にわたって、花巻市のNAHANプラザ、宮沢賢治イーハトーブ館を会場に開催されました。十六回目の大会の様子をご報告いたします。 第15回宮沢賢治賞・イーハトーブ賞贈呈式
前日二十一日は、快晴のもと七十三回忌にあたる賢治祭が詩碑前で催され、当日は曇りのち雨という天候の中、午前十時から花巻市主催による第十五回宮沢賢治賞・イーハトーブ賞贈呈式が、NAHANプラザにて開催されました。平日にもかかわらず、全国各地そして多くの市民の方もお祝いにかけつけ、会場は満席となりました。 今回の賢治賞は「宮沢賢治とその周辺に関する研究資料を生涯にわたって探索し続けて、今日の賢治研究にとって欠かせな基盤を築いた功績に対して」故 奥田弘さんに贈られ、代理として奥様の奥田恵子さんがご出席されました。続いて賢治賞奨励賞として、「火山学・地質学をはじめとした様々な知見を見事に組み合わせ、危機を媒介にし現代の社会と文明に警鐘を鳴らす成果としての著書『死都日本』に対して」石黒燿さんに贈られました。 また、イーハトーブ賞は「地域に根ざした演劇活動から国際的な上演活動まで通じて、多年にわたり一貫して地域文化の深化と発展に寄与し続けた実践に対して」川村光夫さんに、イーハトーブ賞奨励賞は「「平和の輪」を意味する名称とともにユネスコ精神、宮沢賢治精神を支えに、平和への願いを歌に託して活動してきた長年の実践に対して」花巻ユネスコ・ペ・セルクル(会長 押切郁)と、「児童英語教育の研究と実践に根ざした、宮沢賢治作品の英語への翻訳および英語教材化がもたらす成果と新しい展開の可能性に対して」松香洋子さんの一団体一個人に贈られました。 花巻市長から賞が贈られ、各受賞者からのスピーチ、その後、本賞受賞者である故奥田弘さんの業績について栗原敦賞選考委員長より紹介があり、続いて川村光夫さんによる記念講演が行われ、最後は花巻ユネスコ・ペ・セルクルの皆さんにより、受賞記念「松の針」の合唱にて閉幕となりました。本賞お二人の受賞の言葉等は本号に掲載しているとともに、受賞者の皆さんの横顔につきましては、会報三十一号にて紹介しておりますのでご参照ください。 定期総会午後一時から定期総会が行われ、出席会員の中から花巻市の高橋輝夫さんを議長に選出した後、議事に入り、二○○四年度事業報告及び収支決算は原案どおり承認されました。この中で、会報三十号掲載の「ヒドリ│ヒデリ問題」に関する質問があり、天沢代表理事の回答に対し、更に質疑応答継続には長い時間を要することが懸念されたことから、この件については(内容等は、会報三十一号にて確認ください)今後に委ねることで了承されました。 続いての二○○五年度事業計画及び収支予算について審議を行い、原案どおり可決されました。なお予算について、前年度決算との比較で増減が大きいことについて質問があり、今年度より従来の「補正予算」扱いをとりやめた結果であることが確認されました。同じく経費節減に向け、機関誌等についてより手渡しを進めるべきとの意見があり、今後更にコスト意識を持った運営を励行する旨の回答がありました。 また、天沢代表理事より、(1)学会理事選の方法について検討を開始したこと、(2)二〇〇六年開催予定の第3回宮沢賢治国際研究大会の内容(案)の報告がありました。 賢治研究リレー講演恒例のリレー講演は、持ち時間一人十五分という中で、宮沢賢治賞奨励賞とイーハトーブ賞奨励賞のお二人を含む四人の方からそれぞれの賢治をテーマに密度の濃いお話をしていただきました。講演の要旨は本号に掲載しております。 イーハトーブ・サロン−私と賢治−参加者が気軽に所感を述べ合う本コーナーでは、参加会員の中から四名と一団体の方々が登壇され、一人五分ずつのスピーチをいただきました。今年も記念品として、ガイドブック『賢治のイーハトーブ花巻』が贈呈されました。登壇いただいた方は次の方々です。 渡辺宏さん(和歌山県)、寮美千子さん(奈良県)、戸来諭さん(花巻市)、佐藤成さん(宮県)、松香フォニックス研究所研究会東北支部小学生十一名。 会員交流・懇親会
初日の日程の最後となる会員交流・懇親会は、はじめに天沢代表理事、そして渡辺花巻市長の挨拶があり、森副代表理事の乾杯の音頭の後、宮沢賢治賞・イーハトーブ賞受賞の各皆さんから改めてコメントをいただきました。 今回のお楽しみイーハトーブ料理メニューには、(1)賢治さんと海の幸のエピソードから「ウニのたまごとじ」ほか、(2)「ばけもの」をキィワードに、がんづきほか「もにゃもにゃ」したたべものたち、そして(3)賢治さんとの深い関わりから、草野心平居酒屋「火の車」のメニューの再現などなど、そして陸羽132号でつくった日本酒まで、中野由貴さんから解説があり、メニューが手渡されました。同時に、イーハトーブ館で開催中の全国宮沢賢治同好会・研究会フェスタに合わせ、出展団体案内コーナーも設けられました。 しばし歓談の後、栃木宮沢賢治の会の皆さんによるコカリナ演奏、今年も「栃だんご」を提供いただいた御船道子さん(鳥取県)、花巻小学校の坂本校長、中川真平さん(青森県)、下山花巻教育長のスピーチと、アッという間に時が過ぎていきました。最後は栗原副代表理事による閉会の言葉の後、参加者全員が大きな輪になって、押切郁さんのリードにより「精神歌」を合唱して幕を閉じました。 研究発表二日目はすっかり晴れ渡り、会場をイーハトーブ館に移しての研究発表です。午前九時半から一人三十分の持ち時間で六人の発表があり、十二時半に終了いたしました。この研究発表の記録集を頒布しておりますので、ご希望の方は事務局までお申し込みください(一部会員価格六百円、送料別)。 ポランの広場
大会のフィナーレ「ポランの広場」の今回は、イーハトーブ賞受賞者・川村光夫さん演出、「岩手ぶどう座」(代表・田中直樹)による劇「おばあさんと酒と役人と」(作・ふじたあさや)の公演。狂言仕立ての、どぶろくをめぐるおばあさんと二人の役人の風刺をきかせたコミカルなやりとりに、観客は爆笑のうちにすっかり作品世界にひきこまれておりました。
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| 【追悼】 |
對馬美香さんを悼む
第二回宮沢賢治賞奨励賞を受賞された對馬美香氏が二〇〇五年五月三十一日にご逝去されました。謹んで哀悼の意を表します。 杉田 英生 對馬美香さんが平成一七年五月三一日に亡くなったことについては、会報「31」号の「追悼・宮城一男さん」の中で斎藤文一さんが触れられているが、「對馬美香追悼」の一文をまさか私が草するとは思いもしなかった。 惜しくもあり、心外ですらある。 彼女の「宮澤賢治の研究」についての事績については他に適任の方があろうかとも思うが、今年の年賀状に「早いもので今年不惑の年になるので自分でも当惑しています」と書き添えてきた彼女のことを思い出すままに記すことを許されたい。 彼女が弘前大学教育学部を卒業し向学の志を果たすために上京されたのは平成三年二月であった。そして実践女子大学大学院文学研究科で分銅惇作・栗原敦氏のもとで研鑽に励まれたことは幸いであった。 その頃宮澤賢治研究会に度々出席され、研究会で発表した「宮澤賢治の絵画―萩原朔太郎『月に吠える』挿絵の投影」をその後論文にまとめられたものが、平成四年に当学会の選考する「宮澤賢治学会イーハトーブセンター宮澤賢治奨励賞」を受賞した。 その後、秋田桂城短期大学の教壇に立たれ、弘前大学の学生時代から持ち続けたテーマを纏めて上梓された『宮澤賢治新聞を読む』はなかなか示唆に富んだ著書であったし、当学会の理事としても若い人の立場から意見を述べられていたと伺っている。 彼女の歩みを顧みるとき、「弘前・宮澤賢治研究会」の存在なしには語り得ない。 宮城一男・小野正光・佐藤豊彦・藤田栄一・梅木万里子・葛西律子・榊昌子・土岐泰・岩見照代さんらの温かい励ましの中で大学時代を送られたことが彼女の生涯を決めたと言っても過言ではない。 彼女は学生の頃から宮澤賢治を理解するために法華経に親しんだようで、弘前・宮澤賢治研究会の会誌である「弘前・宮澤賢治研究会 5」(一九八七年九月)に《祭日〔一〕〔二〕・「毘沙門の堂は古びて」考》を発表しているが、「法華経」と正面から取り組んでいる二一歳の彼女が見える。 法華経への取り組みは、その後宮澤清六さんや小倉豊文さんにも積極的に教えを仰いでいたし、在京時には渡邉寶暢氏(立正大学元学長)の「法華経講義」にも参席していたようで、私も誘われて同席したこともあったし、主宰者へ彼女への高誼をお願いしたこともあった。 法華経は、彼女にとって終生の書となっていたと彼女の良き理解者は語っている。 彼女は母堂に「学生達と賢治の作品を読み続けていきたい」と語っていたとのことだが、果たせぬ願いとなってしまった。 僅か数ヶ月の間に小野正光・宮城一男・對馬美香さんを失った弘前の仲間達の悲しみの深さを思うと、彼女に対する哀悼と同時に同情を禁じ得ない。 私は三月末に元気な彼女から電話をもらったが、彼女が体調を崩し四月末に入院したことを知っていたので、宮澤清六さんのご命日(六月一二日)に花巻に伺って、その後宮城さんと彼女を見舞うべく弘前の方とも連絡をとり予定を立てていた。 しかし何れもかなわなかった。 想い出多い弘前が今は固まりとなって黝く沈んでいる。 (一七・一二・一八) (元理事 東京都豊島区)
追悼・吉田功さんを悼む
宮沢賢治学会イーハトーブセンター顧問を務められた吉田功氏が二〇〇五年九月七日にご逝去されました。謹んで哀悼の意を表します。 清水 宏一 元花巻市長・吉田功さんは、昨年9月7日享年83歳で逝去されました。葬儀は多くの参列者で盛大でした。渡辺市長が奉読した弔辞で、多くの業績が紹介されましたが、その中に「ふるさと創生事業による宮澤賢治学会の創設」という紹介がありました。私は当時市でこの事業に係わっていましたので、吉田市長さんがこの事業にかけた想いなどを紹介させて頂きます。 吉田功さんは、昭和15年3月、宮澤賢治ゆかりの県立花巻農学校を卒業後、札幌管区気象台に就職、札幌気象台や道内の枝幸観測所などに4年ほど勤務した経歴があります。時々厳寒時期の観測作業の厳しさを話されていました。 その後兵役を終えて、昭和29年から地方自治体の職員として、主に財政畑を長く歩んで来られました。 昭和59年吉田功さんが市長に就任したのは、東北新幹線駅設置指定からはずれた花巻市が長年にわたる陳情を重ねた結果、建設費全額地元負担という条件(請願駅)で駅の設置が決まり、その工事のさなか現職の藤田市長が急逝したためでした。なにせ40億円を超える駅建設費全額を地元が負担なので、新市長は財政通の人をということで対立候補無し、無投票当選での新市長就任でした。 吉田市長さんは、非常に厳しい財政事情の中でも新花巻駅には随所に宮澤賢治の世界をイメージした工夫を取り入れました。 何と言っても、吉田市長さんが力を入れたのは、昭和63年、時の総理大臣竹下登が創設した、いわゆる「ふるさと創生一億円事業」への対応でした。この事業は全国の自治体大小を問わず自由に使えるお金1億円ずつを交付し、地域活性化事業を行ないなさいというものでした。 市では、議論の末「宮澤賢治学会を創設する」こととしました。いろいろな案、厳しい財政事情の中でも、ゴーサインを出した吉田功市長の心中には、賢治ゆかりの農学校で学び、そして北海道の極寒の地での気象観測と賢治に通ずる太い道筋が脳裏にあったのだと思います。そういえば、職員に対する年頭の挨拶でも賢治に触れた話が多くありました。 この事業をまとめるにあたっては、宮澤清六さんのご了解を頂き、青森・宮城・岩手に在住する諸先生のご協力を取りつけ、最後は市長が自ら東京に行って原先生、入沢先生へ、翌日は新潟大学で斎藤文一先生にそれぞれお願いしました。 後で原先生は、花巻から宮澤賢治の銅像を造りたいなどと言ってきたらいっぺんに断るつもりだった、と言っておられました。吉田市長は、地域の活性化を目的とした「ふるさと創生事業」として宮澤賢治学会を創って頂きたい。行政としては財政の負担はするが、口は出さない。という主旨の約束をしました。 その後吉田市長は、宮澤賢治のことになると著名な先生方が一生懸命になってくださる。本当にありがたいことだ。その言葉はまるで賢治に代わって語るまことの言葉でした。 時を経て、先年賢治記念館20周年、イーハトーブ館10周年開館記念の式典に吉田功さんは元気で参加しておりました。原先生は両館を姉妹に喩えていましたが、そんな意味で、子供達に人気のある賢治童話村は孫施設でしょうか、それぞれ機能を分担して賢治の理解を深めていると思います。 吉田市長は賢治のことを地元の人がもっと理解しなければというのが強い信念でした。そんな意味で、風のセミナーには、吉田市長さんも恐らく天国からやって来て、微笑んで聞いているのでないかと思います。 花巻市は今年1月1市3町が合併し新花巻市が誕生しました。新市の人事体制になっても、ふるさと創生事業により賢治学会を創設した崇高な理念を継承されることを願うものであります。 学会の更なる発展を願い吉田功市長さんへの追悼の言葉とします。 (元理事 花巻市)
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イーハトーブ 〈エスペラント〉学 |
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| 投稿エッセイ |
高田三郎はタカサブロウだった?粟飯原 幸子
高田三郎の名は、植物のタカサブロウに似ている。タカサブロウは水田や湿地に咲くキク科の一年草で、目立たない白い花を咲かせる。漢字で高三郎の名をあてている文献も少なくないが、この高三郎が誰のことかはわかっていない。また、人の名だということもわかっていない。さらに擬音や、古語が転じたものなどの説もある。 しかし、タカサブロウを人の名前とし、昔、貧しい高三郎という人が、この草の茎を使って紙に文字を書き勉強をしたという説話がある。この草の茎を切ってしばらく置くと、酸化して切り口が黒ずむ。それで文字が書けるのだ。だから墨斗草(ぼくとそう)という別名もある。タカサブロウにまつわる、こういう話はいかにも、賢治好みではないだろうか。 おりしも、高田三郎の転校した学校は、タカサブロウの好む湿地のある谷川の岸にあった。タカサブロウの花期は7月から9月、最盛期はすっぱいかりんや、青いくるみの今の時期にぴったり重なる。だからタカサブロウは二学期の初めには田の畦も、小さな白い花をたくさん咲かせていたに違いない。 賢治は、タカサブロウを念頭において高田三郎という名前をつけたのだと思う。「中国では花びらが落ちて、ガクの残ったところが、ハスの花のように見えるため旱蓮草(かんれんそう)とも呼ばれる」(朝日百科植物の世界)ということを、賢治が知っていたかは、わからないけれど、それが文字の書ける草であり、ハスの花と似ていることも知っていたと思う。畦にいっぱいのタカサブロウ。それはこの導入のしかたが「ポランの広場」の「つめくさ」にも似ていなくもないし、「転校」をしてきた高田三郎とも符丁があう気がする。 賢治はタカザブロウを、熟知していたに違いないと思う。そしてその謂れとともに愛していたに違いない。 タカサブロウは稲作の渡来に合わせて、ついてきた史前帰化植物で、日本でも縄文後期以降の遺跡で、種が見つかっていることを考え合わせると、タカサブロウは盛岡でも咲いていたはずだ。さらに、三代将軍、家光が好んでおひたしなどにして食べたという記録さえある。 「風の又三郎」のなかの鉛筆、木ペンの描写もタカサブロウを暗示していると思える。賢治は周到にこの草の名をとった。そして一郎、と数字にちなんだ名前を入れた。だから、「三郎」なのである。 高田三郎の名は、タカサブロウがモデルだったと考えたい。 (千葉県千葉市)
賢治の小学校時代(その2)泉沢 善雄 一、音楽の原体験 「音楽まで余計な苦労をするとお考へでありませうがこれが文学殊に詩や童話劇の詞の根底になるものでありまして、どうしても要るのであります。」(書簡222)とまで書かせた音楽。その原体験はどこにあるのでしょう。 大正七年、賢治は従弟の家でクラシック音楽に接してカルチャーショックを受けます。ベートーヴェンのレコードを聴いては「俺もこういうものを書かねばならない」と言い、詩の朗唱伴奏に音楽を求め、オペラまで自作した賢治。その後ジャズや流行歌まで多くのレコードを買い求め、生命ある限り音楽を愛好し続けました。 そのクラシック・レコードとの遭遇以前の音楽体験に関しては、子守唄、軍楽、宗教音楽等がすでに指摘されており、また、レコードを借りて採譜したとか一緒に讃美歌を歌ったというエピソードから、妹トシが女学校や女子大で受けた音楽教育が大いに影響していると思われます。 しかしここでは特に小学校での音楽教育についてのみ検討してみました。 二、学校での音楽教育 賢治の音楽授業について小学校の記録は残っておりませんが、実施していたと推測できる資料があるので以下に要約します。 明治十四年に公布された小学校教則綱領には学科として唱歌があり、「小学唱歌集」全三篇から教材として選択、音楽教育に着手しますが岩手県では実施されていません。 明治二十四年六月、文部省令によって祝日・大祭日の儀式唱歌が定められ、翌年の改定によって「君が代」、「一月一日」、「紀元節」など八曲が指定されます。 明治三十三年小学校令改正により、唱歌は尋常小学校では加設科目、高等小学校では正課となりました。儀式唱歌の制定、高等小学校の正課昇格によって、この頃から県下でも音楽教育が普及し始めたと思われます。 石川啄木が渋民小学校の代用教員時代にオルガン等を使って唱歌を教えたのは三十九年四月からの一年間でした。 花巻小学校(四日町)では明治三十四年、尋常科に裁縫・唱歌を加えており、里川口小学校でも各種資料から同年に唱歌を加設したものと考えられております。 当時の生徒の回顧談から、三十七年頃から風琴(オルガン)を使用した教育が行われたようで、校舎焼失を報じた三十九年二月二十四日付岩手毎日新聞の記事の中に「残りしは只オルガン一臺のみ」とあります。 また、四十年には唱歌会や学芸会も開かれています。その詳細は不明ですが、『花城小学校此処にありき』に掲載された四十二年の花巻小学校学芸会のプログラムを例としてあげます。 一、開会の部 校長 また、明治三十五年に東公園を会場に始まった運動会は後々まで続き、学校から東公園まで「行進歌」や「運動会の歌」を歌いながら目抜き通りを晴れがましく行進したといいます。賢治も当然この中にいたはずですが成績にはあまり期待しないほうが良さそうです。 尋常六年の国語綴方帳には「唱歌や姿勢を練習しております。」とか、「君が代」を歌ったという記述もあり、学校で音楽教育を受けたのは間違いありません。 しかし、少年時代のエピソードとしては同級の阿部孝が「賢治の美声は少年の頃から自他ともに許していた。賢治のうまい節回しが未だに耳に残っているものに土井晩翠『星落秋風五丈原』や薩摩琵琶『石童丸』、軍歌『橘大隊長』などがある。」(四次元二百号)と紹介したくらいで、音楽的に特に優れた才能を見せたとも思われず、ごく普通の歌好きの少年であったといえましょう。 賢治の音楽的特質は鑑賞力と音感にあったようです。音楽熱をさらに高めた親友、藤原嘉藤治は音楽は視覚的に刺激を与えたと指摘しています。音楽から想起されるインスピレーションは光や風、自然景観から得ると同等以上に鮮烈なものがあった。だからこそ「詩や劇にどうしても必要だ」と言わせたのでしょう。 学校関係の追加資料と訂正 会報二十九号に校舎の変遷と図版を掲載させていただきましたが、花城尋常高等小学校の新設と火災について述べた部分で冬休みの記述が誤っておりましたので訂正致します。 明治三十六年四月二十七日付、岩手県令第二十七号によって学期休業日規程が次のように改定されました。 ・夏期休業 八月一日〜八月三十一日
参考文献 (花巻市)
「南斜花壇所要種苗表」にある「兵庫県牡丹園」のカタログを発見坪井 由美子
植物学や花壇という言葉に惹かれ一昨年買い求めた伊藤光弥著『イーハトーブの植物学』の第二部「賢治と花壇」を読み進むうち、「南斜花壇の所要種苗表にはアンテルリナム(金魚草)十種各二袋ずつ、ペチュニア七種各二袋ずつを兵庫県牡丹園から購入すると書かれており…」という文中の「兵庫県牡丹園」が目に止まった。その時、脳裏に浮かんだのは私の知る街の牡丹園であった。私が勤める宝塚園芸振興センターは歴史ある植木の街、兵庫県宝塚市山本にある。その街の一角にある牡丹園が文中の牡丹園なのか確認するために本書の著者にその住所を手紙でお尋ねしたところ、間もなく兵庫県川辺郡長尾村山本という旧住所である旨の返事をいただいた。やはり間違いなかった。さらに伊藤氏のお返事には、もし昭和二年春のカタログを見る機会があればその結果を教えてほしいとあった。昨年四月、郷土歴史研究家の阪上太三氏、当代牡丹園主阪上弘仁・弘子ご夫妻のご尽力により、この昭和二年春発行の山本牡丹園「園芸報知春季目録第百一号」を手にすることができたのである。
「園芸報知春季目録第百一号」は山本牡丹園が昭和二年二月に発行したものである。昭和二年の春に賢治が南斜花壇を設計した際、花巻温泉遊園地に勤務する冨手一に送った南斜花壇所要種苗表にアンテルリナム(金魚草)と千重咲ペチュニアの購入先として兵庫県牡丹園の名を記している。その日付が昭和二年四月九日であることから賢治はこのカタログを持っていたのではないかと思われる。 このカタログにはアンテルリナム(矮性鉢植及花壇植用)は十九色の栽培品種が、千重咲ペチュニアは十二品種が記載されているが、賢治はその中のアンテルリムナ十種を、千重咲ペチュニアは七種を選んでいる。まず、アンテルリナムについて見比べてみるとカタログも賢治の注文予定表もアムバークインから始まり、記入された品種名の順番も一致する。千重咲ペチュニアについても同様に順番は一致する。数量と価格に関しては賢治はアンテルリナムを各色二袋ずつ、価格を六十銭と記している。カタログでは一袋三十銭となっているので計算が合う。他方、千重咲ペチュニアも数は二袋ずつであるが価格を一律八十銭と書いている。カタログでは種類によって五十銭、六十銭、七十銭などの違いがあるが、更に詳しく見てみると五種揃一組が二円とある。したがって一種に付き四十銭の割りになり、賢治はその割安の価格で計算したようである。 ![]() (大阪府箕面市)
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