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宮沢賢治学会・会報第33号 | |
「もうだめだ。あんなにうしろへ行ってし まったから。」/カムパネルラが、さう云 ってしまふかしまはないうち、次のりん だうの花が、いっぱいに光って過ぎて行 きました。/と思ったら、もう次から次 から、たくさんのきいろな底をもったり んだうの花のコップが、湧くやうに、雨 のやうに、眼の前を通り、三角標の列は、 けむるやうに燃えるやうに、いよいよ光 って立ったのです。 (「銀河鉄道の夜」) 表紙写真 撮影・大塚 常樹 |
第33号●りんだう 2006年9月21日発行
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「雁の童子」の絵 司 修
一九八〇年、ぼくが四四歳の初夏、トルファン・ウルムチへスケッチ旅行に行った。ウルムチの招待所前にはNHKの取材ジープが数台駐車していたから、シルクロードシリーズが放映されていた時期だろう。 孫悟空の舞台となった火焔山近く、ベゼクリクの丘をくりぬいた千仏堂を見たとき、「これは雁の童子の絵を作るのに参考になるなあ」と思った。この記憶から思い出すのは、その前年あたりに、偕成社から賢治の童話を絵本にするよう依頼されていたことだ。 偕成社の編集者Mと、賢治のどの作品をを絵本にしたらいいかひとしきり話してから、「雁の童子」を絵本にしたいといったのは編集者Mだった。その理由を訊くとMは、初めての子どもが、生まれて間もなく他界してしまったので、許してもらえるものならその子に捧げたいといった。せっかくこの世の光を受け、呼吸を始め、母の乳の味も知りつつ、何も見ないで天空に消えてしまったその子の魂に、一冊の絵本を贈りたいというのだ。ぼくは賢治の物語にふさわしい理由がついたことを喜んだ。 雁の童子の発掘現場までは行けなかったが、シルクロードの砂漠や、そこに住む人々の暮らしを見てこられたので、ベゼクリクのスケッチブックを広げ、束見本に「雁の童子」のシーンを描いていった。千仏堂で見た壁画のように、単純でありながら細かな表現で、雁の童子の壁画が発掘されたシーンと、柳に囲まれた泉のシーンを描いた。樹木の中に雁の童子が仏画のごとく置かれ、小さな祠の話が始まる。 Mはできあがった二枚の絵を取りに飛んで来ると、一週間もしないうちに絵は印刷され、色刷りを持ってきた。絵は厚いベニヤ板をくりぬいて描き、半ば立体なのでMは心配していたが、印刷効果はとてもよかった。 そこまでは特急列車のように進行した。だがどうしたことかぼくはそれ以上描けなくなってしまった。象徴的なシーンは絵にしやすいが、絵本には説明部分もあり、そこが描けなかったのだ。そうして一年経ち、二年経ちして十年も過ぎたのに絵本は 出来なかった。Mはどこでぼくの個展が開かれてもやって来て、静かに絵を見て帰っていった。彼の無言の請求は胸を痛めたが、物語の背景を見られたからといっても画面は構成されない。賢治の深い死の世界と生の世界の中間世界を描くのに、何か足らなかった。 敦煌へ行って、洞窟内の仏教世界を見て歩き、「雁の童子」のイメージを膨らませた。いっそのこと、この壁画のような様式を取り入れて描こうと思った。がそれからまた数年経ってしまった。幼くして他界した子どもの魂に届けなければならない気持ちが、ぼくのどこかで進行を止めているのを感じた。 インドへ、ブッダの歩いた道を辿るために行った。母の菩提寺の壁画を描くための取材だったが、「雁の童子」の手がかりを求めているぼくが常にいた。インドは死者の魂を感じる景色に満ちていた。オールド・デーリーには、砂の道に砂でつくられたかの様に立つ、砂色をした少女がいた。彼女のあわせた手のひらから光が放たれているように感じた。ぼくは、この子にだったら神は降りてくるな、と思った。雁の童子のイメージにぴったり過ぎるほど、その子の表情は貧しく、賢く、美しかった。 絵は何枚も何枚も描けた。けれど、Mを呼んで「出来たよ」といえなかった。 再び敦煌へ行ったのは、「雁の童子」を絵本にすることとなってから二十年は過ぎていた。敦煌周辺の村を見て歩き、雁の童子の家を思いながら絵を描いた。が、絵本にはならなかった。ぼくはMに会う度に苦しいいいわけをいった。 二〇〇〇年に入ってから、目的もなく絵を描くと、テーマは雁の童子的になっていた。ぼくはそれに気づかず、京都や名古屋や広島で個展を開いていた。ぱらぱらと売れて残った絵を見ると、みんな雁の童子がテーマである。そんなとき、旧友のM子に出会った。M子はフリーの編集者で、ぼくのタブローを見ると、「このまま絵本にしなさいよ」といった。何枚か描き足せば「雁の童子」の絵本になる。 「なぜかここんところ、絵を描くと雁の童子になってしまうんだ」 「こんなチャンスはないよ。わたしが担当してあげるから描きなさいよ」 冗談のような会話は現実化して、M子は何ページ何画面と束見本まで作ってぼくに渡した。 ぼくの胆嚢が炎症を起こし、激痛が襲ったのはそのような時で、即入院、摘出手術であった。入院も初めてなら手術も初め てである。自分の命についてぼんやり考える日々を持つようになり、ぼくは夢中になって、新たな「雁の童子」の絵を描きだ した。いい考えが浮かんだとか、インスピレーションを得たとかというのではない。二十五年の歳月が押し出してくれている のでもない。理由はなにもない。ただただ絵が生まれてくるのだった (画家)
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| 【報告】 |
第16回 宮沢賢治賞イーハトーブ賞決まる 第16回宮沢賢治賞・イーハトーブ賞は、先の理事会におきまして次のとおり承認され、花巻市より発表されました。 受賞された方々にお喜びを申し上げますとともに、これからのますますのご活躍をご祈念いたします。 経過及び選考理由について宮沢賢治学会イーハトーブセンター賞選考委員会 委員長 栗原 敦
《宮沢賢治賞》宮沢賢治賞については計30点を選考対象とした。本賞の高橋源一郎氏は、『ミヤザワケンジ・グレーテストヒッツ』において、宮沢賢治作品(およびその章題)と同じ表題を用いた二十四の短篇連作の形で氏独特の手法と表現によるオリジナルな作品世界を展開した。各編には、賢治作品の諸々がちりばめられている。そのありようは、小は断片、人名、あるいは創作への触発から、主題的照応などまで様々だが、いずれも宮沢賢治の世界に対する親愛と深い読み込みの反映に他ならない。各編をA・Bのセットにする仕掛けをはじめ、配列その他、雑誌初出とは面目を一新したところも多い。個々の今日的装いを越えて、連作全体を通して味読されるべき、生への深い本質的な問いかけが提示されている。 奨励賞の岡澤敏男氏は、『賢治歩行詩考 長篇詩「小岩井農場」の原風景』において「心象スケッチ」された「小岩井農場」の「原風景」と呼ぶ1922(大正11)年の「実景」を確実な資料に基づいて明らかにした。従来知られていなかった多くの事実によって、作品世界の重なりやズレを通して「心象スケッチ」の本質を深めるための新たな手がかりをもたらしたとして評価された。 《イーハトーブ賞》イーハトーブ賞については計25点を選考対象とした。本賞の内橋克人氏は、一貫して「生きる」「働く」「暮らす」ことの統合体として人を捉える立場から、「全体的な整合性(インテグリティ)」を重視し、グローバリズムに対する多元的経済社会、節度ある経済行動、市民的社会規制を踏まえた共生経済を可能とする社会の実現を求めて、40年をこえるジャーナリスト、評論家としての活動を続け、無原則な規制緩和や市場競争至上主義への鋭い批判と問題解決への現実的提言を行ってきた。氏における地域の暮らしへの眼差しやあるべき共生社会の追求には、宮沢賢治の願いと通底するものがあり、高く評価された。 もう一人の本賞の服部匡志氏は、2002年にベトナムに渡って以来、眼科治療とベトナム人医師の技能向上に従事し、器材の不足を自費で補い、治療費に困窮する患者への無償診療に尽くし、定期的に往復して日本国内での資金の獲得に努めるなど、献身的な医療活動を重ねてきた。氏の行動と熱意が03年10月に「NGOアジア失明予防の会」(05年6月からはNPO)を生んでより大きな支援を導いているが、紛れもなくイーハトーブ賞で顕彰されるにふさわしい実践的な活動であると評価された。 奨励賞のコーラスせきれいは、1979年の創立以来、宮沢賢治の詩作品による合唱曲を演奏することを通じて、多年にわたり宮沢賢治の精神の普及と地域における芸術文化活動に寄与してきたことが認められた。 ■宮沢賢治賞
高橋 源一郎 宮沢賢治作品の深い読み込みを踏まえて、今日的装いのもとにオリジナルな展開を示した連作小説集『ミヤザワケンジ・グレーテストヒッツ』に対して。 ■宮沢賢治賞奨励賞
岡澤 敏男 著書『賢治歩行詩考』における、長編詩「小岩井農場」の舞台、素材となり得た現実的環境や事象、背景に関する実証的な研究に対して。 ■イーハトーブ賞
内橋 克人 「生きる」「働く」「暮らす」を貫く共生を支える社会のあり方を求めて、批判と提言を続けてきたジャーナリスト・評論家としての業績に対して。 ■イーハトーブ賞
服部 匡志 ベトナムにおける眼科治療とベトナム人医師の技能向上に努める、眼科医としての献身的な活動に対して。 ■イーハトーブ賞奨励賞コーラスせきれい 創設以来、宮沢賢治の詩作品による音楽活動を通して、人々に安らぎと喜びを与えるとともに、宮沢賢治の精神を普及してきた実践に対して。
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受賞者の略歴と
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【宮沢賢治賞】
■高橋 源一郎(たかはし・げんいちろう)氏
1951年 1月1日、広島県尾道市生まれ。 □高橋 源一郎氏の業績について 2005年5月に刊行された高橋源一郎氏の『ミヤザワケンジ・グレーテストヒッツ』(集英社)は、雑誌「すばる」の 02年1月号より04年11月号まで「ミヤザワケンジ全集」の表題で32回にわたって連載したものを、新たに改訂・改編・改題して誕生した、全24編よりなる短篇連作集である。初出の表題からもうかがえるように、宮沢賢治作品を縦横無尽に渉猟した成果に立って、各編には様々な形で宮沢賢治作品による触発の反映がちりばめられており、借用やコラージュ、飛躍や異化、パロディーや転用、主題的照応などなど、接触や言及のあらゆるパターンを駆使しつつ、オリジナルな作品世界を創造している。風俗や社会現象の今日的装いを取り込みつつ、それらを通じて現代的な課題の底に潜む生と世界の普遍的な本質に対する問いかけを示すことに成功している。 【宮沢賢治賞奨励賞】
■岡澤 敏男(おかざわ・としお)氏 1927年2月20日、盛岡市仙北町生まれ。1949年3月、盛岡農林専門学校(獣医畜産科)卒業。県立釜石高等学校教諭として6年間勤務。のち上京して日動火災海上鞄結梔c業部に12年間勤務。1975年より小岩井農牧鰍ノ途中入社し、小岩井乳業鰍経て、1984年定年退社。1991年より7年間小岩井農場展示資料館長として勤務。小岩井農牧・乳業勤務中の大半を場内社宅に独居しながら宮沢賢治の長篇歩行詩「小岩井農場」の原風景を農場現場から解読にとりくんだ。現在はフリーライターとして、賢治作品について雑誌や新聞に寄稿している。雑誌『ワルトラワラ』第4号(1995年10月)より第11号(1999年5月)まで長篇歩行詩「小岩井農場」の〈農場現場からの解読〉を発表した。この連載記事を基として、2005年12月、『賢治歩行詩考』(未知谷)を刊行。詩篇「小岩井農場」のほか、小岩井農場及びその周辺を舞台とした賢治作品について、その現場よりの解読を雑誌『ワルトラワラ』第12号(1999年11月)より20号(2004年5月)まで連載した。また滝沢村を中心とした岩手山および山麓を舞台とした賢治作品について、「盛岡タイムス」に「オークランドの旅人」と題して、2002年10月3日より2005年12月1日まで164回の連載を行った。 □岡澤 敏男氏の業績について 岡澤敏男氏は、小岩井農場展示資料館長を務め、その在任中から宮沢賢治と小岩井農場に関わる様々な新事実を発表して注目されたが、それらをもとに、改めて一書として構成し直したのが本書『宮沢賢治歩行詩考 長篇詩「小岩井農場」の原風景』(未知谷、2005年12月)である。大正11年(1922年)の小岩井農場を客観的な歴史資料に基づいて再現することに努め、長篇詩「小岩井農場」の生成の秘密に迫ろうとした労作である。作品生成の文学的側面での判断や議論には今後にさらなる検討の要を残すが、とりわけ、著者が「小岩井農場」の「原風景」と呼ぶ「実景」を裏付ける多くの客観的資料は、宮沢賢治に関心をもつ全ての者にとって共有の財産となる貴重な成果であり、高く評価される。 【イーハトーブ賞】
■内橋 克人(うちはし・かつと)氏 1932年7月2日、兵庫県神戸市生。1957年神戸新聞・経済記者を経て、1967年より経済評論家として著述活動に。テレビ、ラジオ、雑誌などのメディアを舞台に、技術・経済・国際などの領域で常に人間を基底に据えた発言をつづけ、2007年、ジャーナリスト生活半世紀を迎える。『共生の大地』(岩波新書 1995年)、『内橋克人同時代への発言』(全8巻 岩波書店1998年)は、ともにグローバル化、市場化の急進する世界経済のなか、現実に「生きる・働く・暮らす」多彩な人間を主体に、新たな共生経済の展望を提示したもの。はやくから市場競争至上の「経済のあり方」に対し警鐘を発しつづけた。NHKラジオ『ビジネス展望』レギュラーを20年余(毎週火曜日朝)。この間、立命館大学客員教授など。現在、日本農業賞「食の架け橋賞」、石橋湛山記念早稲田ジャーナリズム大賞選考委員、神戸新聞客員論説委員。自らの生死を分けた神戸大空襲の悲惨な体験に基づく半自伝小説『荒野渺茫』(『世界』04年1月号より)を長期連載中。 ●著書 □内橋 克人氏の業績について ジャーナリスト、評論家として40年をこえる活動を重ねてきた内橋克人氏は『匠の時代』(講談社文庫)、『共生の大地』(岩波新書)等の著作、テレビ・ラジオ等への出演で多くの人々の知るところである。領域は経済・社会を中心とするが、一貫して、現在を生きる私たちを「生きる」「働く」「暮らす」ことの統合体として捉え、「全体的整合性(インテグリティ)」を重視してものごとを判断し、全国各地を歩き、地域と暮らしに根ざした経済社会の発展と維持を求めて課題の解明と具体的提言を行ってきた。90年代の仕事の多くは『内橋克人・同時代への発言』(全8巻、岩波書店)に集成されたが、その後も、『”節度の経済学“の時代』(朝日新聞社)、『「共生経済」が始まる.競争原理を越えて.』(日本放送出版協会)をはじめとして、無原則な規制緩和や市場競争至上主義への鋭い批判とあるべき共生社会に向けた発言を続けている。 【イーハトーブ賞】
■服部 匡志(はっとり・ただし)氏 1964年1月8日大阪生。1993年京都府立医科大学医学部卒業、同年京都府立医科大学眼科レジデント。1994年多根記念眼科病院勤務(大阪)。1996年愛生会山科病院勤務(京都)。1997年出田眼科病院勤務(熊本)。1998年聖マリア病院眼科(福岡)、海谷眼科勤務(静岡)。2002年ベトナム国立眼科研究所網膜硝子体手術指導医。2004年同研究所客員教授。日本眼科学会専門医、日本眼科手術学会、日本糖尿病眼科学会、日本網膜硝子体学会各会員。 ●活動概略 高校2年生の時、父親を胃がんで亡くしたことが医者を志す転機となった。それまでは文化系志望。京都府立医科大卒業後、外科を志望していたが眼科の木下教授に出会い、その人柄に惚れて眼科の道に進む。京都、大阪、熊本、福岡、静岡の民間病院で研鑽を積み、網膜硝子体手術の分野では日本のトップレベルの技術を持つ。 2001年10月、母校の京都府立医科大学で開催された「臨床眼科学会」でベトナム人医師と出会い、患者の治療と眼科医の指導を懇願される。2002年4月、ベトナムに渡る。以来、治療した患者は2000人を数え、医療スタッフの教育や意識改革は進んでいるものの、器材不足は否めず、自腹を切って器具を買い揃える。月給はわずかに1万円相当のため、ベトナムでの生活費にもならないため、定期的に帰国してスポット勤務医として資金を工面する二重生活が続いている。 2004年7月4日、川口外務大臣がベトナム国立眼科病院を視察した際、ベトナムとの懇談会の席上で、その献身的な活動に対して謝意を表しその功績を称えた。 2005年5月13日、町村外務大臣よりベトナムの医療技術の向上のみならず、日本とベトナムの草の根レベルでの相互理解、有効関係の促進の功績を称えられ、感謝状を贈呈される。 現在、ベトナムの「赤ひげ先生」として、また「患者は肉親」を座右の銘に、ベトナムの貧しい人々に対し無償で治療を行うとともに、ベトナム人医師に網膜硝子体手術の最新技術を伝えようと情熱を燃やす熱血医師として孤軍奮闘の日々を送る。 □服部 匡志氏の業績について 服部匡志氏は、2001年に母校京都府立医科大学で開催された「臨床眼科学会」でベトナム人医師に会い、患者の治療と眼科医の指導を懇願されたのを契機として、翌02年4月にベトナムに渡り、以来、ベトナム国立眼科研究所網膜硝子体手術指導医(現在は同研究所客員教授)として患者の治療とベトナム人眼科医の医療技術の向上に努める。器材の不足を自腹で補い、定期的にベトナムと日本を往復して、日本国内七カ所の医療機関でのスポット勤務医として資金を工面するなどして活動を続けている。それに応えて03年10月に「NGOアジア失明予防の会」(05年6月からはNPO)が発足して支援を開始しているが、これも当初以来の「患者さんは自分の家族と思え」の信念による氏の献身的行動によって導き出されたものに他ならない。 【イーハトーブ奨励賞】
■コーラスせきれい(代表 黒川禎子) 1976年6月、中村伸一郎先生を指揮者として結成。 その他、あひるの会ダークダックスコンサート、国際交流(カナダと盛岡)、長岡輝子先生への感謝のつどい、江間章子の詩をうたう(盛岡ゾンタクラブ)、全日本おかあさんコーラス東北支部大会 仙台・秋田・山形・盛岡・福島に出演等。 □コーラスせきれいの業績について 1979(昭和54)年発足以来、一貫して宮沢賢治の作品による音楽の演奏活動を通して、宮沢賢治の精神を普及してきた。特に、岩手公園詩碑の碑前祭では、鷹觜洋一作曲「岩手公園」を継続して演奏し、地道に地域に根ざした演奏活動を行っている。また、盛岡市「障害者の日」に賛助演奏を行い、県芸術祭合唱祭、市民音楽祭、宮沢賢治生誕百年祭、宮沢賢治学会地方セミナー(盛岡、春季セミナー)等に出演し、芸術の美しさ、素晴らしさを人々に伝える演奏活動を行っている。 ■宮沢賢治賞
■イーハトーブ賞
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イーハトーブ 〈天文〉学 |
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| 投稿エッセイ |
賢治哲学に思う 農学徒としての論考中野 定幸 賢治哲学とは、十八歳にして異常な感動を覚えたという『漢和対照妙法蓮華経』、そして『日蓮聖人御遺文』、その一方で盛岡高等農林時代に座右の書とした『化学本論』全十編二十五章一千頁余の大冊、この宗教書と科学書が織りなす第四次元の宇宙について、その芸術をいうのです。 これは、宮沢賢治記念館、そして賢治没後五十周年記念誌から学んだ私の受け止め方であります。 ついては、私自身が農学徒として、所謂、賢治哲学の側面に対し、一つの論考を試み度い、これが願望であります。 注、宮沢賢治(C大7)と松田甚次郎(Z昭4)の両先輩に対し、その「敬称」を省略させて頂き度く、大方の各位の了解をお願いする次第。 一、母校の創立百周年記念式典に出席して、思いを新たにした印象 平成十四年の五月、岩手大学農学部創立百周年記念式典に出席、久方振りに盛岡に三泊四日の滞在で思いを新たにしたのは三点であります。 第一点、農学部長太田義信氏が、国立の農学校として札幌(北大)、駒場(東大)、その次の三番目が盛岡高等農林である旨を強調した岩手日報特集号の記事 第二点、文部科学省高等教育局長工藤智規氏が開口一番、宮沢賢治が学んだ盛岡高等農林と呼び掛ける祝辞に感激したこと 第三点、農学部キャンパスの農芸化学科実験室跡に建立した梅太郎と賢治の顕彰碑について、鈴木梅太郎ビタミンの研究ここに始まる、宮沢賢治ここに学ぶと印した碑文に思いを新たにしたということ この三点について、宮沢賢治ぬきでは語れない岩手大学農学部創立百周年記念式典であったと思っているのです。 二、農業改良普及所の「原型」となった羅須地人協会の先進性 賢治が農芸化学科と同研究生を合わせて五ヵ年の農学を修め、農学徒なるが故に対応したのが羅須地人協会であると思う。 時は大正十五年の五月、それも宮沢家の別荘に開設、この羅須地人協会について、昭和二十三年施行の農業改良助長法に基づく「農業改良普及所・現在はセンター」と比べて見ると、多少の大同小異はあっても、農業改良普及所の「原型」となったのが羅須地人協会に他ならない。 これは、かつては農業改良普及所の事業を身をもって推進してきた者の偽らざる見識であります。 三、賢治の「分身」松田甚次郎の生涯 羅須地人協会で手薄なのが演劇を通して農村の改良を図るという賢治特有の持論であります。 昭和二年の三月、松田が賢治の羅須地人協会を訪問、そこで賢治に悟される形で賢治の「分身」になったのが松田甚次郎であると思っている。 分身とは、弟子とか門弟を通り越えた一心同体の人間関係をいうのです。 問題は、地主の倅が小作人になって、小作人の立場から演劇を通して農村の改良を図るという「盟約」であります。 この盟約の集大成が松田の最上共働村塾であると明言し度いのです。最上共働村塾については、昭和十三年の五月、十年の記録を「土に叫ぶ」の題名で出版、続いて新國劇で上演、その時松田が農林大臣有馬頼寧先生の招きで観劇、その後、昭和三十五年になって時の農林大臣羽田孜先生が再版の冒頭に推奨の言葉を述べるという巡り合わせであります。 これは、賢治哲学松田イズムが現代に息づいている何よりの証拠であるということであります。 その理由として、私が日本列島四島を二周りしてみて出会った人物として、九州で一村一品運動の元祖となった大山の村長(故)八幡治美氏、奥出雲で集落企業を立ち上げた木次乳業相談役の佐藤忠吉氏、破波平野で廣域営農に成功したサカタニ農産代表の(故)酒谷實氏、旭川市の山奥で山地酪農を確立した斎藤晶氏、オホーツク興部で若者の集団を形成したノースブレンファーム代表の大黒宏氏など、まさしく賢治哲学松田イズムの共働体を具体的化した身近な事例であると思うのです。 そして、不思議にも雨ニモマケズの詩と絵はミレーの晩鐘という好みに、言葉では言い尽くせない「繋がり」を感じる。 しかし、人生五十年の時代といっても、賢治が三十七歳、松田が三十四歳という早死を思うとき、何とも虚しい、そして羅須地人協会跡に建立の賢治の碑の側に松田の分骨を祀っていることを知って、少しは安堵したのです。 四、砕石工場の技師になった賢治の苦悩 昭和六年の二月、賢治が東北砕石工場の技師に就任、その名刺を拝見して、「顧問」でなくて技師とは何故にという疑問が浮かんでくるのです。 だいたい、炭酸石灰は土壌酸性を矯正する土壌改良剤でありますから、その営業先は第一に地主、第二に雑穀商人、第三に農家の購買組合という様に尋常ではないということです。 この辺に賢治が疲労困憊した苦悩があると推察するのです。残念なことであります。しかし、戦後の食糧増産に携わった者として、東北・北海道の開拓地でみた農地造成と、集約農家の草地造成に投入した炭酸石灰の数量は、国策ならではの膨大な数量に達したのです。 土壌肥料の専門家である賢治にあやかり度い一点は、まさにここに集約されるのです。 結びに、賢治哲学松田イズムの共働体方式は、現代の農村に息づいているということであります。 即ち、自給自足の下に、生産・加工・販売の全行程を「自己完結」するやり方は、地場資源と自家労働力を組み合わせた付加価値の高い商品化を実現、しかも社会・経済の変動に強い耐震性を示しているのです。 これは、平成五年度産米の米不足を下支えした自家保有米の放出について、岩手県・福井県・岐阜県・京都府・徳島県・熊 本県の農家民宿に泊まって、私が実地に確認した私の持論であります。 (北海道函館市)
元国柱会資料室室長、神野進氏のこと秋枝 美保 『新校本宮澤賢治全集』の年譜、大正十一年十一月二十七日の項に、「なお、この日の夕方、青森・北海道方面へ巡教にむかう国柱会教職長滝智大の花巻通過に際して、賢治は関徳弥とともに花巻駅頭へ出て、出迎え、面会する。」という記述がある。妹トシの臨終の日である。この記述を、「天業民報」の妙高旅信」の内に発見したのは、元国柱会資料室長、神野進氏である。そのことは、研究者の間にもあまり知られていない。筆者は、「天業民報」の調査のために、国柱会資料室を何度か訪れ、神野氏にいろいろ教えを受けた。その神野進氏が、昨年、十二月二十七日に、船橋市内の病院で八十四歳で亡くなった。宮沢賢治研究についての基礎資料の提供者の一人として、ここに一言紹介しておきたい。 神野進氏との出会いは、平成十年のことであったかと思う。拙著『宮沢賢治 北方への志向』出版後、「手宮文字」「ダルケ」について、「天業民報」を調査にいったときのことであった。神野氏はいつも資料室横の閲覧室の机に坐っておられ、私はそこで自由に資料の閲覧をさせていただいた。その調査は午前中から夕方に及ぶことが常であったが、その合間に国柱会のことをそれとなくいろいろと話してくださった。 その何気ないおしゃべりの中から賢治と国柱会との関わりの一面が見えてきたのである。たとえば、賢治が大正十年に東京に出奔し国柱会を訪ねて数ヶ月後に、智学が国柱会総裁を辞任したこと。また、そのとき高知尾智耀から玄関先で対応を受け、「東京に親戚があればそこに落ちつくよう」すすめられたということであるが、これについても神野氏は、そのころ国柱会の経営状況は芳しくなく、田舎から出てきた青年にアルバイト料を出すほどの力がもはやなかったというのが実情ではなかったかということを言われていた。 一方、私の質問がなかなか氏の記憶に届かないこともあった。私が国柱会を訪ねて最初に聞きたかったのは「ダルケ」のことであった。初めての訪問のとき神野氏に紹介される前に、本部玄関横の応接室で事務局の方にそのことを言うと、どなたかがダルケの『仏教の世界観』の原書をどこからか持ってきてくださったのには驚いたが、肝心の神野氏からは「ダルケ」のことについてなんら情報が出てこなかった。ところが、拙著『宮沢賢治の文学と思想』刊行直前に、表紙にダルケの原書の写真を載せたいと思い、再度ダルケの原書を見せてもらおうと思って神野氏に連絡したところ、その原書はなぜか行方知らずになっていた。方々探してくださったようだが、ついにわからなかった(それで、結局国会図書館所蔵のものを撮影した)。その反面、神野氏はそれまでダルケについて一言も言わなかったのに、このときにはなぜかいとも簡単に「ダルケ」について話をしてくださったのである。つまり、ダルケについては、智学の息子の里見岸雄がドイツで実際に会っており、その対談の記事を「天業民報」に掲載していると。(これについては『論攷 宮沢賢治』四号、及び昭和文学会の平成十七年度四月例会で発表。)その後、里見岸雄について話してくださり、その著書『西洋人の痘痕と靨』・『甦る日蓮』の二冊をいただいた。思えば、これが形見となった。 その他、一昨年冬季セミナーで、「宮沢賢治と知理幸恵」について講演したときに紹介した智学とアイヌの関係についての資料は、神野氏の提供によるものである。智学とアイヌの関係についての資料は、神野氏の提供によるものである。智学とアイヌの青年についての記事が「天業民報」に載っているとのことで、調べてみるとそのアイヌ青年とは違星北斗のことなのであった。 神野氏は大正十年、シアトル生まれ。大正十三年、氏が三歳のとき、父の出身地松山市に一家で帰国。その年に智学は、関東大震災後の対応として、全国で講演会を開いていた。松山会場でその講演を聞いた父馬次郎氏が智学に心酔して入会されたとのことである。熱心な会員であったようで、「天業民報」に記載された父上の名前を示してくださったこともあった。神野氏本人の智学への敬意も静かなものながら、強いものがあるように感じられた。拙著出版については喜んでくださったが、内容については改めて感想を述べたいというはがきを出版直後に受け取っていた。それについては、自らの中で、神野氏との対話を続けていくしかない。 一月十五日、学会編集委員会の翌日、国柱会本部を訪ねたところ、ちょうど納骨式が始まるところで、偶然にも参列することができた。長く研究を続けていると、思わぬ縁につながるものである。あの資料室で教えを乞うことはもはやかなわなくなったが、氏のご冥福を心からお祈りしたい。 (広島県広島市)
塵の中のただ一抹も、神の子のほめ給うた、 聖なる百合に劣るものではありません白木 健一 童話の「めくらぶだうと虹」で虹がめくらぶどうに語った言葉です。 童話「貝の火」で、ひばりの子を救ったホモイは宝珠をさずかり、お父さんから、この宝物を一生持っている事ができたのは、鳥に二人、魚に一人だけだった、と教えられます。 紀野一義さんは『賢治文学と法華経』で、この宝珠とは法華経の事であり、鳥の二人とは中国の天台大師、日本天台宗の伝教大師に当ると述べています。 その天台大師の教えを記した書、摩訶止観(まかしかん)の巻第五に 一方、「聖なる百合」はよく知られているマタイ福音書、第六章の一節 それぞれ仏教とキリスト教の教えに由来するものと考えられますが、この後「私を教えてください…。」のめくらぶどうの叫びをよそに虹は消えさります。 更には天台にたずねなさい! との黙示のように……。 (東京都世田谷区)
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陽は織れどかなし酒井 早苗 虹の根本に美しい宝物があるという。それを探しに二人の子供が駆けて行く。王子は大臣の子の言うことが自分と違っていても、それもそうだね、と言う。大臣の子は王子の顔色を伺わず、素直に意見を言う。二人の間には信頼がある。そんな子供達だからこそ、不思議な世界へと迎え入れられる。良いものに対する素直さは、美しい心の宝物だ。真実の世界への切符だ。 自分の心持ちが変わると、世界が変わって見えるという、気付かなかったものに気付き、愛しく思えてくるという。迷いの中では、イライラし追われ逃げたい気持ちで心が固まり、見えなかったものだ。霧の中の風景は、それを表しているようにも感じられる。それでも二人は、十力の恵み(仏の慈悲)に導かれてゆき、世界は美しさを取り戻す。いや、取り戻したのは心の優しさ、ゆとりだろう。 眩しく輝いていた草花が、本来の柔らかさを取り戻し、幸福に満ちる。私達は賢治に導かれてその道を辿ることができる。本当の心を取り戻す旅。賢治は耳を澄ませ、美しい世界からの言葉を紡ぐ。私も耳を澄ませてみよう。心の内に宝物を求める旅。希望の虹を、自分の中に見つけられるだろうか。残る疑問は「陽は織れどかなし」。悲しいのは誰か。霧の中で迷う私達か? それとも、私達を慈悲の心で見守る仏か? (栃木県宇都宮市)
短歌「鎌倉・師走」藤原 政子 光則寺に雨ニモマケズの碑を訪ねて土牢に日朗上人幽閉す 文永5年の日蓮聖人御真筆の碑 聖人門下田中智学・山川智応の 苔の花白雪に見ゆ賢治の碑 境内の草花枯れて冬らしく カサカサと落葉集める音寂か 同郷の父子眠る墓参りして 宮沢賢治も又逆縁の子なりなん 平成17年12月16日(東京都世田谷区)
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宮沢賢治セミナー篠山〜イーハトーブのコウノトリ〜全国の宮沢賢治を愛する仲間たちを紹介します二〇〇六年五月二十日
2006年5月20日(土)兵庫県篠山市の市民センター・多目的ホールで、河合雅雄氏(京大名誉教授)・池田啓氏(兵庫県立コウノトリの郷公園研究部長)・稲葉哲郎氏(豊岡市祥雲寺地区長)・工藤直子氏(詩人)を講師に迎え、「宮沢賢治セミナー篠山〜イーハトーブのコウノトリ〜」が開催された。人口5万人にも満たない山間の小さな城下町・篠山市で、宮沢賢治地方セミナーが開催できたのは、2002年よりHOO工房(ホーコーボー)で催している「宮沢賢治の童話を語る会」を支えてくださった方々の、篠山でもぜひ地方セミナーをという熱い要望があったからです。 2005年9月「宮沢賢治セミナー篠山実行委員会」を結成し、早速有志を募って賢治の故郷花巻へ旅しました。黄金色に実った田んぼと緑豊かな山々に囲まれた花巻は、賢治の「イーハトーブ」そのものでした。それは篠山の風景とよく似ておりました。 そして、タイミングよく9月24日、同じ兵庫県の豊岡市にある県立コウノトリの郷公園から5羽のコウノトリが野生化に向けて大空に放たれました。1971年国内の最後の野生のコウノトリが亡くなってから実に34年が経っていました。コウノトリの放鳥は単なるコウノトリの野生化だけではなく、コウノトリの餌となる生きものたちが棲めるまわりの環境を整えなければなりません。 宮沢賢治が思い描いた「イーハトーブ」は人と生きものが共生する世界です。コウノトリの野生化の目指すものは、まさに現在の「イーハトーブ」です。 河合雅雄先生の了解を得て、セミナーのテーマを「イーハトーブのコウノトリ」に決定いたしました。 セミナー当日は午前中の悪天候にもかかわらず、たくさんの方々に全国各地から集まっていただき、今更ながら賢治ファンの多いことに驚かされました。 篠山市長、教育長そして栗原敦氏(宮沢賢治学会イーハトーブセンター副代表理事)のあいさつの後、地元村雲小学校の生徒による元気いっぱいの「雨ニモマケズ」の朗読と「星めぐりの歌」の合唱で幕を開けました。 第一部講演は、篠山出身の霊長類研究の第一人者河合雅雄先生の「宮沢賢治の童話と動物」。動物学者らしく、賢治の童話に登場する動物は158種類にものぼり、里や里山に棲むネコ・イヌ・ウマ・キツネ・タヌキなどの動物たちと里山と奥山を行き来するワシ・タカ・クマ・サルなどの動物たちが描かれているが、カモシカやオコジョ、テンなど奥山に棲む動物たちは登場しない。賢治童話の動物たちは、すべて人間に身近な生き物たちである。奥山は人間が入り込めない霊域であり、そこに棲む生き物たちも霊力を持っていると考えられ、畏敬し、畏怖する対象であっても、生活を共に、命を交歓しあう動物ではなかったのだろうと分析しておられる。 次に池田啓氏が、「コウノトリの野生化と環境再生に向けて」と題して、江戸時代、日本各地に棲息していた天然記念物のコウノトリが、明治期の乱獲、戦時の松の伐採、戦後の農薬の使用などにより絶滅した経緯と、その保護活動、人工増殖、野生化へ向けての放鳥などの経緯をパワーポイントで分かりやすく説明された。そして、スクリーンいっぱいに写し出された大空に羽ばたく優美なコウノトリの姿に、会場から歓声と拍手が湧きおこりました。 食物連鎖の頂点に立つコウノトリが自然の中で生きてゆくためには、フナやドジョウ、カエルなどの生きたエサが豊富にあり、巣を作る松の木が必要です。まわりの環境を整え、コウノトリが棲みやすい場を作ることが大切です。それは又人間が住みやすい環境でもあるのです。生きもの文化をはぐくむ環境共生型の持続可能な社会、これが賢治がめざした現在版イーハトーブ(人間と生きものたちの共生社会)に繋がるのではないかと、示唆されました。 第二部は工藤直子さんの司会で、先の2講師と稲葉哲郎氏を加え、「イーハトーブのコウノトリ」を論じていただきました。 稲葉氏はコウノトリの郷公園のある祥雲寺地区の区長として地区をあげてコウノトリを育む農法を実践しておられます。農薬を使わず、水田の冬期湛水や中干しの延期、魚道の設置などにより、コウノトリのエサとなる魚やカエル、虫たちがたくさん棲むようになり、成果を挙げられておられます。そして、これらの田んぼでとれたお米は人間にとっても安心・安全で美味しい食べ物であり、今では「コウノトリ米」のブランドで消費者から高い評価を受けています。この農法が全国各地に広がり、コウノトリがかってのように全国どこでもみられるようにしたいと抱負を語っておられました。 工藤直子さんは自作の詩「かまきり・りゅうじ」「あいたくて」そして賢治の『おきなぐさ』を朗読してくださいました。動物たちと同じ目線に立ち、紡ぎ出された工藤さんの詩は、賢治の目線でもあると思いました。 セミナーに来ていただいた沢山の人々の心に賢治さんの「イーハトーブ」のイメージが刻まれ、コウノトリの郷公園の取り組みを通じて、自分たちのまわりから「イーハトーブ」を創っていこうと誓われたことと思います。そして、いつの日にか幸せを運んでくるというコウノトリが飛来してくれることを願われたことでしょう。 セミナーのプレイベントとして、4月15日(土)、たんば田園交響ホールにおいて宮沢賢治の童話と音楽で奏でる「イーハトーブ音楽会」を開催しました。 篠山の合唱グループ、オーケストラ、小学生、朗読グループなど、総勢70名の方々が出演して下さり、楽しい音楽会になりました。又、4月から5月にかけて、「コウノトリ」と「宮沢賢治の童話を語る会」の写真展や朗読グループによる「宮沢賢治童話」の朗読会など関連行事を開催しました。 賢治さんが旅の途中に篠山に立ち寄り、身近に語りかけ、やさしく見守ってくれている様に感じられる、幸せな時間でした。 こうした機会を与えてくださった賢治学会イーハトーブセンターの方々に心より感謝いたします。 (宮沢賢治セミナー篠山実行委員会事務局)
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宮沢賢治イーハトーブ館『宮沢賢治と温泉』展
宮沢賢治イーハトーブ館では、6月20日より、「宮沢賢治と温泉」展を開催しております。本企画展は、岡村民夫、杉浦静のお二人による企画監修のもと、明治末期から昭和初期にかけての、花巻温泉や大沢温泉関連の図絵やパンフレット、そして花巻温泉で飼育していた羆の毛皮などのおよそ50点の現物展示、当時の志戸平温泉復元模型等、さらには昭和5年制作「花巻温泉宣伝映画」の抜粋映像など、当時の貴重な資料展示を通して、宮沢賢治と温泉の関わりを探っております。また芸術家・岡本太郎氏が昭和32年に、花巻温泉南斜花壇にて鹿踊りを撮影した写真3点を特別展示しております。 展示は、来年2月末日までですので、どうぞ皆様おでかけください。
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第三回宮沢賢治国際研究大会宮沢賢治の生誕一一〇年を記念して、第三回宮沢賢治国際研究大会が八月二十五、二十六、二十七日にわたって開催された。それに先立って二十四日には前夜祭、二十二、二十三、二十四日には合併後の花巻市の全幼稚園・小中学校・高等学校での「風のセミナー」も開催された。その「み祭三日」の間、花巻の八月下旬にしては暑いぐらいに「そらはれわた」り、全ての行事が盛会のうちに進められた。 【前夜祭】国際研究大会ではあるが、午後六時から花巻市文化会館大ホールを会場に、賢治作品の重要な主人公である子どもたちによる行事で、大会の前ぶれとした。市内の小中学校児童生徒による演劇「鹿踊りのはじまり」「風の又三郎」は、一生懸命な演技が会場の喝采を浴びた。シンポジウム「童話「グスコーブドリの伝記」を読んで『今』を考える」では、自然災害の問題・自然と科学の関係・自己犠牲の問題について、中学生六名の意見が提出された。最後に、若葉小学校の児童と岩手県出身でかつてフォークグループ「飛行船」で活躍したあんべ光俊さんが、イーハトーブを題材にしたあんべさん作の三曲を歌い、アンコールでは会場を巻き込むほどだった。 【第一日】午後一時から花巻市文化会館大ホールで、代表理事天沢退二郎の挨拶、花巻市長大石満雄氏の歓迎の言葉、岩手県知事増田寛也氏の祝辞に続き、三本の記念講演があった。イヴ=マリー・アリュー氏による「二人の太陽の子:宮沢賢治とアルチュール・ランボー」は、自然との合一・歩行による詩作という共通点をめぐって確かな分析を提出した。高橋源一郎氏による「賢治と胎児」は、長男の胎教に賢治作品を読み聞かせると胎動があったことを紹介し、賢治作品の近代的発想に汚されない言語と、現代文明における力の非対称の問題にまで発展した。荒川修作氏による「死なないために」は、理事岡村民夫を聞き手に、近代的発想に汚されなかった賢治の文学をさらに越えて、「位相的生命圏」に生きるための建築理論を、独特の口調で語った。 引き続き六時から、中ホールで講演者を囲み賢治にゆかりの料理を食べながらレセプションが行われた。バスで移動し、なはんプラザCOMZホールで八時から、賢治が見たであろう映画「ファウスト」(ムルナウ監督、昭和三年三月日本公開、サイレント)が上映された。ファウスト博士の魂の堕落を愛が救う壮大な劇が表現主義的な舞台装置で展開され、弁士の澤登翠さんが一時間半を語った。 【第二日】午前と午後になはんプラザCOMZホール(A会場)とホテルグランシェール花巻(B 会場)で、左記の十一本の研究発表が行われた。熱のこもった発表と質疑が続き、いずれの会場でも時間は超過気味だった。国際大会らしく中国・韓国・インド・アメリカ・ポーランド・ポルトガルの出身の発表者を迎え、内容も賢治作品に関する考察はもちろん、地質学・民俗学・宗教観・性愛観・翻訳の問題・環境の問題などを考察し、大会の全体テーマ「驚異の想像力 その源泉と多様性」にふさわしいものであった。昼食時には駅前商店街のご協力で「なはん市」も開かれた。 午後三時からはCOMZホールで、シンポジウム「世界から見たイーハトヴ」が行われた。西成彦さんの基調発表は賢治の想像力を「北」と「注文」をキーワードに解説した。周龍梅さんは「マグノリアの木」の他の西域ものとはちがう主人公や情調に中国鞏県石窟の影響を想定した。ドミニック・パルメさんは「永訣の朝」を翻訳した経験から、この詩の清い悲しみの由来するところを丹念に分析した。トリン・T・ミンハさんは「銀河鉄道の夜」へのオマージュとして制作した映画「夜のうつろい」(ナイト・パッセージ)の制作意図を、「パッセージ(通過)」や「トランス(横断)」をキーワードに解説した。 胡四王山にバスで移動して二つのイベントを楽しんだ。まず六時半からイーハトーブセンター近くの南斜花壇で、田中泯氏の独舞「賢治のかけら」が上演され、ヴァイオリン演奏が続く星天の下、斜面上部からゆっくり現われ一時間余を舞った。引き続きイーハトーブセンターホールで、ミンハさんの「夜のうつろい」が一時間半上映された。夢の中で親友と汽車旅行をする枠組といくつかのエピソードを借りつつ、主人公を女性二人と少年一人にし、「ほんたうの神様」の問題より、他の乗客と併せて民族や国籍を横断しつつ生きる意味を問うようだった。 【第三日】午前は第二日と同じ会場で六名の研究発表が行われ、同じく多様な国籍の発表者と多様な内容をめぐって、活発な質疑が続いた。閉会式の後、十二時半にバス三台に分乗して北上し、小岩井農場へのエクスカーションに向かった。小岩井駅で、バス移動するA班、『宮沢賢治歩行詩考 長篇詩「小岩井農場」の原風景』で本年度宮沢賢治奨励賞を受賞された岡澤敏男さんの解説つきで徒歩移動するB班とに分かれ、農場本部―「聖なる場所」―四階倉庫―陳列館―賢治詩碑―狼森前の小岩井工場をたどって、A班は盛岡駅へもどり解散。B班は賢治が雨に遭いUターンした地点までバスで足を伸ばし、新花巻駅へもどり解散した。陳列館の農場日誌によれば「小岩井農場」の制作日には降雨がなく、雨に遭ったその二週間前とのモンタージュだったことも分かったが、この大会は最後まで晴天に恵まれた。 (大沢)
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