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宮沢賢治学会・会報第34号 | |
山ではふしぎに風がふいてゐる/嫩葉がさまざま にひるがへる/ずうつと遠くのくらいところで は/鶯もごろごろ啼いてゐる/その透明な群青の うぐひすが/(ほんたうの鶯の方はドイツ読本 の/ハンスがうぐひすでないよと云つた) (「小岩井農場」パート1) 表紙写真 撮影・大塚 常樹 |
第34号●ウグイス 2007年3月31日発行
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会いたいな、ツェ鼠。 本上 まなみ 《ドッドド、ドドウド、ドドウド、ドドウ、ああまいざくろも吹きとばせ、すっぱいざくろも吹きとばせ》 「ほんじょさんは、文章書くときオノマトペ上手に使ってますよね」と、その昔言われたことがあります。えっほんと !?とびっくりしつつ、なぜかはあはあと息が上がってくる私。まるで『どんぐりと山猫』の褒められた馬車別当みたいに、単純でわかりやすくて、自分でも恥ずかしくなる(《息をはあはあして、耳のあたりまでまつ赤になり、きもののえりをひろげて、風をからだに入れながら》)。 ところでオノマトペって、何だっけ? 大急ぎで国語辞典を開くと「擬音語、擬態語」の文字。ふむ。確かにあらためて読み直してみるとけっこう目につくかも。 拙作です。《だがしやのおばけけむりは十えんで んぱっんぱっと いつまででもでる》の、「んぱっんぱっ」とか。《タケノコを食べるとノドが「けーけー」になりませんか》の、「けーけー」とか。《旅館のゆかたって、たいていすごくのりが効いていて広げるとき「めしめしめしめし」っていうよね》の、「めしめし」とか。確かに多いかも。 でもまあオレの場合はですね、ほかの表現が見つからないのでつい出てきてしまっているという気もします。つまり単に語彙が少ないからではないかしらん。そういえば、以前に雪道ドライブをしていたとき、雪が道路の表面をうねるように撫でるように舞うのを見て「あっ、めーよーっとしてるねえ」と同行者に言ったことがありましたが、「何、めーよーって?」と聞き返されたのであった。ほらほらあの道路の表面を這う雪、そんな風に見えないかい?と、あわてて説明したものです。どこまでその状況が伝わったかしら? 改めて賢治の童話をひもといてみると、なんと的確になんと豊かにオノマトペを使っているんだろうと感動します。オノマトペだけじゃない。これ以上にぴったりな表現はありえない!と思われる描写の数々。冒頭に好きなフレーズ、文章の一部を抜き書きしてみましたが(みなさんにはどれが何か、おわかりですよね?)、もちろんもっともっともっとあって、選ぶのも悩ましいほど。わがままなツェ鼠が小さな口を一生懸命動かして半ぺんを食べてるところが、映像を見ているように目の前に浮かび上がってきますよね! そもそも幼稚園に通っていたとき全員で『雨ニモマケズ』を暗唱したのが賢治との出会いでした。いま思えばおチビにはなかなか難解な詩ですが、何度も繰りかえし声に出して練習したこと、未だに忘れていないもんなあ。玄米四合がどのくらいの量か知ったときは、子ども心に(どんだけ食べるねん!)と衝撃を受けたことまで覚えている。 童話を読めるようになってからは外で遊んでいても、木の葉が風に吹かれただけで(あっ、今りすがあそこを通ったのかな)なんて思ったり、ざわざわ波打つ田んぼを見ると(ここには又三郎がやって来そうだ)とわくわくしたり。自然の中へ飛びだしていくと、そこにはいつも賢治の世界が広がっているように思えました。《きれいにすきとほつた風》や《桃いろのうつくしい朝の日光》があって、好きなだけカラダに取りこむことができる。きのこが馬車になったり、どんぐりが金色に輝いたり、そんなことがほんとに起きるような気がしてしまうのです。たぶん、賢治は本当にこういうものを見ていたんじゃないだろうか。本当に《ドッドド、ドドウド》って音が鳴っていたんでしょう。 じつは今これを書いているすぐ横で、生まれたばかりの娘が毛布にくるまってくーくーと寝息を立てています。まだほんの数回しか外に出ていないこの子を散歩に連れていけるようになったら、草木が芽吹くところや、空にかかる月が丸くなったり細くなったりするようすを見せてあげたい。落ち葉のかさかさを踏ませてあげたい。寒いと息が白くなるんだって、気づかせてあげたい。新しいものをひとつずつ吸収していくとき、人はどんな反応を示すのか。いちばん近くで見守っていたいなあと思います。 そしてもちろん賢治の童話を読んで聞かせよう。 うるうる、どっこどっこ、ぼかぼか、かんこかんこ、ぐうんぐうん、……子どもにはオノマトペが本当に似合うのです。 私がそうだったように、賢治の書いたいくつものお話が娘にとっての《すきとほつたほんたうのたべもの》になったらいい なと思っています。 (童話の引用はすべてちくま文庫『宮沢賢治全集』より) (女優)
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| 【報告】 |
第十七回定期大会 二〇〇六年度定期大会が、会員ほか一八〇名の参加を得て、昨年九月二十二日と二十三日の二日間にわたって、花巻市のNAHANプラザ、宮沢賢治イーハトーブ館を会場に開催されました。十七回目の大会の様子をご報告いたします。 第16回宮沢賢治賞・イーハトーブ賞贈呈式
前日二十一日は、どこまでもすみきった秋晴れのもと、花巻農業高校創立100周年を記念しての「賢治立像」除幕式が花巻農業高校羅須地人協会前にてあり、その夕方からの詩碑前での生誕110年記念賢治祭では、賢治記念館の「賢治チェロ」が6年ぶりに演奏されました。二十二日も快晴となり、午前十時から花巻市主催による第十六回宮沢賢治賞・イーハトーブ賞贈呈式が、NAHANプラザにて開催されました。平日で、そして八月には「第3回宮沢賢治国際研究大会」を終えたばかりにもかかわらず、全国各地そして多くの市民の方もお祝いにかけつけ、会場は満席となりました。 今回の賢治賞は「宮沢賢治作品の深い読み込みを踏まえて、今日的装いのもとにオリジナルな展開を示した連作小説集『ミヤザワケンジ・グレーテストヒッツ』に対して」高橋源一郎さんに贈られ、続いて賢治賞奨励賞として、「著書『賢治歩行詩考』における、長編詩「小岩井農場」の舞台、素材となり得た現実的環境や事象、背景に関する実証的な研究に対して」岡澤敏男さんに贈られました。 また、イーハトーブ賞は「「生きる」「働く」「暮らす」を貫く共生を支える社会のあり方を求めて、批判と提言を続けてきたジャーナリスト・評論家としての業績に対して」内橋克人さんと、「ベトナムにおける眼科治療とベトナム人医師の技能向上に努める、眼科医としての献身的な活動に対して」服部匡志さんのお二人に、そして、イーハトーブ賞奨励賞は「創設以来、宮沢賢治の詩作品による音楽活動を通して、人々に安らぎと喜びを与えるとともに、宮沢賢治の精神を普及してきた実践に対して」コーラスせきれい(代表 黒川禎子さん)に贈られました。 花巻市長から賞が贈られ、各受賞者からのスピーチ、その後、本賞受賞者である高橋源一郎さん、内橋克人さん、そして服部匡志さんによる記念講演が行われ、最後は花巻ユネスコ・ペ・セルクルの皆さんにより、受賞記念「岩手公園」・「曠原淑女」の合唱にて閉幕となりました。本賞および三人の受賞の言葉等は本号に掲載しているとともに、受賞者の皆さんの横顔につきましては、会報三十三号にて紹介しておりますのでご参照ください。 定期総会午後一時半から定期総会が行われました。まず天沢代表理事のあいさつでは、@「理事改選方法」について今回の総会には間に合わず、引き続きの検討事項となったこと、A学会として政治問題に関わろうするものではないが、戦争と平和をめぐって難しい問題に直面しつつあること、B学会として今後いくつか実現していきたい事業があり、会員の皆さんのご意見を聞きながら展開していきたいと話されました。 続いて出席会員の中から花巻市の押切郁さんを初の女性議長に選出した後、議事に入り、まず二○○五年度事業報告及び収支決算が原案通り承認、続いての二○○六年度事業計画及び収支予算ついても原案どおり可決されました。なお、事業計画「5資料及び情報の収集並びに提供」中、「花巻方言音声資料」収集における「時期的制約」の内容についての質問があり、語り手が高齢になっており急ぐ必要があるとの回答がありました。 議案の最後の役員改選については、理事会より提案された改選案について審議され、満場一致で可決承認されました。 本号にて、新役員の構成そして新しく役員に就任された方々のプロフィールを掲載しております。 賢治研究リレー講演恒例のリレー講演は、持ち時間一人十五分という中で、宮沢賢治賞奨励賞を含む三人の方からそれぞれの賢治をテーマに密度の濃いお話をしていただきました。講演の要旨は本号に掲載しております。 イーハトーブ・サロン−私と賢治−
参加者が気軽に所感を述べ合う本コーナーでは、参加会員の中から九名の方々が登壇され、一人五分ずつのスピーチをいただきました。今年は記念品として、天沢代表理事直筆訂正文付き『宮沢賢治万華鏡』(新潮文庫)が贈呈されました。登壇いただいたのは次の方々です。 小川とく子さん(宮崎県)、杉田英生さん(東京都)、三浦辰郎さん(岩手県)、内田有香さん(東京都)、泉澤竹男さん(岩手県)、林敦子さん(岩手県)、外山正さん(千葉県)、村上英一さん(千葉県)、後藤秀樹さん(宮城県)。 会員交流・懇親会
初日の日程の最後となる会員交流・懇親会は、はじめに天沢代表理事、そして大石花巻市長の挨拶があり、入沢顧問の乾杯の音頭の後、歓談に入りました。 今回のお楽しみイーハトーブ料理メニューは、「賢治をめぐる人々の味に舌鼓」ということで、草野心平居酒屋「火の車」メニューから八品の再現と、「六穀ひっつみ」など「イーハトーブの雑穀料理」九品が並べられました。中野由貴さんによる「メニュー解説」があり、草野心平記念館の小野浩さんより「火の車」解説と、続いて「火の車テーマソング」を、花巻「賢治の里で賢治を歌う会」の河内範雄さんに歌っていただきました。 やがて会は宮沢賢治賞・イーハトーブ賞受賞の各皆様からの改めてのコメントと続き、時は瞬く間に過ぎていきました。 研究発表二日目は、会場をイーハトーブ館に移しての研究発表です。今回は応募者多数により、一階ホールと二階講義室の二会場開催となり、午前十時から一人三十分の持ち時間で七人の発表がありました。この研究発表の記録集を頒布しておりますので、ご希望の方は事務局までお申し込みください(一部会員価格七百円。送料別)。
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新役員紹介昨年九月二十二日に開催されました二〇〇六年度定期総会におきまして、理事及び監事が改選されました。任期は二〇〇八年九月の定期総会までの二年です。なお、新理事会におきまして、代表理事・副代表理事の選出と各委員会の担当も決まりましたので、あわせて学会役員を紹介いたします。
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イーハトーブ 〈毒物〉学 |
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| 投稿エッセイ |
子どもの質問から思わぬ展開河野 通 平成17年の秋、白石市の白川小学校で賢治の作品を語った時、「『雨ニモマケズ』はどうしてカタカナを使っているのですか」という質問があり、児童たちの感覚の素直さと鋭さに驚かされました。そういえば、花巻農業高校の準校歌「精神歌」にもカタカナが使われています。賢治は「雨ニモマケズ」にも曲をつけたかったのでしょうか。私の勝手な類推ですが…。 そこで、地元紙(河北新報の投書欄「声の交差点」)を通じて音楽家に協力をお願いしたところ、「雨ニモマケズ」には既に曲がつけられていて、合唱曲とボーカル、それぞれのCDが出ていることもわかりました。 (1)混声合唱「作曲・指揮…高平つぐゆき仙台レコーディング合唱団」 さらに今年の1月、仙台市青葉区の音楽家・菊地宏明氏は、ボーカルのほか、背景音楽(BGM)を作曲し、CDを出されました。「雨ニモマケズ」朗読のBGMは、恐らく過去に例がないと思います。この曲を聞いたら、どなたでも「雨ニモマケズ 風ニモマケズ…」と口ずさみたくなるに違いありません。 児童の素直な質問がキッカケで、思わぬ展開となりました。音楽との融合で色とりどり、賢治の世界が広がりました。 (宮城県仙台市)
インドにおける賢治詩講義報告〜ネルー大の場合〜望月 善次 1 はじめに代えて〜講義に至る経緯〜
二〇〇六年の十月末から二週間、インドを訪問した。直接的には、勤務先の岩手大学学長裁量経費を得て、インドにおける三大学〔ネルー大(Jawaharlal Nehru Unuiversuity:JNU)、デリー大(University of Delhi)、ベナレス・ヒンドゥー大(Banaras Hindu University:BHU))との交流の促進・打診を目的にしたものであった。その期間が、丁度インドにおける「日本文化月間」に当たっていて、その一つである国際啄木学会インド支部による「日本詩歌DAY(Japanese Poetic Aesthetisc)」にも参加したが(その模様については、『岩手日報』〔二〇〇四年十一月二十四日(金)夕刊〕に報告している)、合間を縫う形でネルー大とデリー大の大学院生に講義をする機会も与えられた。 ネルー大については、Chairpersonのジェイン(Dr.Shusima Jain)教授の、またデリー大についてはウニタ(Unita Sachidanand)博士の御高配によるものであった。 この場では、ネルー大学の場合を紹介したい。 2 ネルー大・日本語科の紹介 ネルー大は、インドを代表する大学院大学であるが、語学関係のみは例外的に学部生もいる。日本語科(Centre for Japanese and N-EAsian Studies)は、言語・文学・文化研究科(The School of Language,Literature andCultures)に属しそのスタッフのほとんどが日本語関係のスタッフであり、日本語教育・研究に関して教員・学生ともインド第一の充実振りである。ちなみに、教員の全員及び大学院生のほとんどは日本留学を体験し、教員に至っては、そのほとんどが数年に一度は、日本への長期の研究的渡航を行っている。 宮沢賢治研究に関しては、本学会の宮沢賢治賞・奨励賞(二〇〇四)を受賞したジョージ博士(P.A.George)がいる関係もあり、関心も深い。筆者のネルー大との縁も、このジョージ博士に関係するものである。原子朗門下の博士が、やはりネルー大の客員教授もなさった原先生のアドバイスもあり岩手大学の客員研究員を勤められたことを発端としている。そうした経緯もあり、二〇〇五年一月〜三月に同大学客員教授を務めたのである。 3 受講者 今回の受講生は、その時教えた大学院生達(当時は修士課程)で、現在は博士課程に進学した者達を中心にし、当時は学部生であった修士課程の学生も含むものであり、先生方の数人も参加された。 4 教材 上述したJapanese Poetic Aesthetiscのこともあり、これにもネルー大関係者の参加も予定されていたから、内容的に重複しないように、賢治の詩についての講義とした。 教材としては、賢治の詩六編を選んだ。テキストとしては、学生達の理解のし易さも考えて、英訳もあった方が望ましいと考えてロジャー・パルバース(Roger Pulvers)訳の『英語で読む宮沢賢治詩集』(筑摩書房、一九九七)を用いた。 具体的に選んだのは、次の六編であった。(括弧の中の英語は、パルバース訳。頁は、テキストのもの。) 5 講義の進め方と言語事情 当初考えていたのは、先ず英語によって、詩の大体の意味を把握し、その後、日本語で音読し(詩歌の場合、音読が非常に重要だとするのが、筆者の考えであり、日本における様々な講義等においても、音読・朗読を講義の核に据えている)、最後に各自の最も気に入った作品を選び感想を述べるというものであった。 しかし、講義の冒頭で、こうした進め方について説明したところ、直ちに「英語の部分は要りません」という反応があった。従って、英語の部分を省いて、それ以外の部分を、当初の予定通りに行うこととした。
ちなみに、彼等の語学力は驚くばかりのもので、先ず母語を話す。(この母語も、日本における方言のようなものを想像するとその具体相を誤るだろう。一千万人を越える人が話す母語も二十五以上もあり、大きな母語は、その母語によるテレビ番組 もあるのである。)次いで、準共通語でもある英語を話す。そして、デリーなどの北部では、ほとんどの人がヒンドゥー語を話す。つまり、日本語に関わる人達は、日本語は、「第四言語としての日本語」なのである。 それなのに、日本語操作力についても、特に、話し言葉を中心として驚くばかりである。例えば、彼等の話すのを聞いていると、今英語で話していたかと思うとヒンドゥー語に変わり、私の存在に気づいた場合などには、たちまち日本語になり、郷里を同じくする人同士の場合は母語となるのである。それ等の切替えが素早く、しかも自然なのである。 「なぜ、私は英語くらいも満足に話せないのだろう」と自分の語学力の無さが不思議に思われるほどの語学力である。 6 受講生のコメントの概要 気に入った作品を尋ねたところ、その分布がそれぞれの作品に万遍なく及んだのは印象的であった。以下、学生達の関心がどんなものであったのかを簡潔に紹介したい。 「恋と病熱」=妹への思いを「透明薔薇」に集約した表現的センス。 「〔何と云われても〕」=「何と云われても〜である」の形がいい。 「眼にて云ふ」=深刻な状況を淡々と語っているところに賢治の表現力を見る。 「政治家」=政治家は、いつの時代もどこの地域でも同じ。 「報告」=二行の短さの中に虹をとらえ切っている。 「〔雨ニモマケズ〕」=流石にほとんど全員の人が読んだ体験があった。やはり、デクノボー的人生観が印象的。 7 結語 要するに、彼らが賢治の詩を読めているということが第一の印象であった。今回は、誌面の関係もあり、その詳細に及ぶことはできなかったが、作品を通しての心と心との対話も十分に可能であったことのみを述べておきたい。賢治作品は、インドにおいても確かに読んでもらえる、読まるべき存在なのである。 (岩手県盛岡市)
資料発見 ―「浮世絵展覧会目録」―森岡 京子
二〇〇四年の暮れ、「東武古書の市」(宇都宮市・東武百貨店にて開催)に初めて足を運び、私は、表記の資料を見つけました。 表紙に「御大典記念徳川代各派名作 浮世絵展覧会目録」の文字。裏には「昭和三年六月六日至六月二十五日於上野公園東京府美術館主催報知新聞社」(一星堂発行)との記載があります。この年、賢治は上京し、浮世絵展覧会を観ていました。(写真右がその目録) 賢治は、一九二八年(昭和三)六月、一五日から二一日まで在京し、メモ(宮沢賢治全集一〇・ちくま文庫)によると、一五、一六、二一日と、東京府立(現、都立)美術館に足繁く通っていました。 今回入手した六月発行の目録ではなく、改訂版の、東京国立博物館所蔵の七月発行目録(写真左がそのコピー)によると、この時の浮世絵の陳列は、一五日が第二回陳列最終日で清長五三枚歌麿一五二枚、一六日が第三回陳列の初日で春信一二八枚春章七〇枚春重七枚、二一日が第四回陳列の初日で初期浮世絵一二二枚写楽七〇枚とあります。 ところで、六月発行の目録と、改訂版の七月発行の目録の違いですが、二カ所あります。(以下、六月発行の木力を初版、改訂版の七月発行の目録を再販と明記します) まずひとつ、初版に掲載された肉筆画「紅毛寫眞しゃしん鏡」(昇亭北壽ほくしゅう・京都帝国大学)は展示されず、再販によると、次の二点の肉筆画、「御物南蛮人来朝図」(筆者不明・六曲一双)、「浴後美人図「(窪俊満・一幅)に入れ替えられています。よって、会期中の肉筆浮世絵の展示総数は、初版より一点多い、一七二点の展示がなされたことがわかります。 もうひとつは、四回目の初期浮世絵の展示数の違いですが、初版の四回目陳列は一二一枚、再販は一二二枚とあり、一枚違います。再販は、六月の展示後に印刷されたと思われ、その作品の順番は、初版の目録順とはかなり前後していましたが、二冊の、四回目陳列の初期浮世絵目録の頁をすべて比較したところ、再販は、二重に登載されていた浮世絵が一枚ありました。再販の七七頁の浮世絵「人形つかひ 佐野川市松」(奥村政信)、再販の八〇頁の浮世絵「人形つかひ」(奥村政信(無落款))は同じ作品と思われます。その裏付けとして、初版、再販とも一九頁の「浮世絵筆者人名別(年代順)」は、〈統計五二名(八三七枚)〉と同じ記載があり、またその内訳も全て同じです。ちなみに両方の内訳には、奥村政信三二枚とあります。以上のとおり、会期中の浮世絵版画は、総数八三七点の展示がなされました。さて賢治が購入した可能性がある六月発行の目録、そして、改訂版の七月発行の目録、この二点があることに着目したいと思います。定価弐拾銭の、それも図版のない目録が販売され、短期間の内に目録が再版された背景に、浮世絵展覧会に寄せる当時の人々の関心の高さを垣間見ることができます。 一九二三年に起きた関東大震災は、版画の変革に拍車をかけました。残された作品の価値が再認識され、伝統的な版画の筆致と美質に人々は熱い視線を注いだのです。次のような当時の記事があります。 ……震災紀聞其五 斯の如き凄惨事を眼前にしながら悠々として浮世絵を鑑賞しようというような気分は起こらない、というのが震災当時に於ける一般の与論であったが、事実はそれを裏切って、災害幾ばくもなきに早くも浮世絵蒐集に熱中する人々が激増し…(後略)(『浮世絵研究』9/10号 1924年4月) 賢治もそんな市井の人々を詩「浮世絵展覧会印象」の中で《やさしく勇気ある日本の紳士女の群》として登場させています。さらに彼らの表情に《すべての苦痛をもまた快楽と感じ得る》とし、農民芸術概論綱要の《詩人は苦痛をも享楽する》と通底する賢治の想いを感じます。詩の中で己自身をも鼓舞していたのではないでしょうか。 ※目録の内容については、杉浦静氏論考「巨きな四次の軌跡をのぞく窓―「浮世絵展覧会印象」(東京ノート)の浮世絵―」『賢治研究』50号に詳しく紹介されています。 (栃木県宇都宮市)
「満州・幻のイーハトーヴ」(東北放送)を聴いて天沢 退二郎 賢治在世中の一九三一年に満州事変が起こり、その翌年に現在の中国東北部に「建国」宣言の出た「満州国」という日本の傀儡国家は、一九三八年になって首都新京(現長春)に国立の「建国大学」を開設した。この大学は、「民族協和」を掲げて、第一期生百五十人(日本人75名、中国人50名、モンゴルその他25名)により発足したが、この大学の最初期、若い教師藤田松二と学生たちの一部がここで宮沢賢治の理想の農業を展開しようとしたという話は、すでに安彦良和の劇画『虹色のトロツキー』で物語られ、他にも山田昌治『興亡の嵐』や、川村湊『満州崩壊』でも扱われている。このテーマを二〇〇四年十月に東北放送が、ドキュメンタリー・ラジオ番組として放送するというニュースを建国大学同窓会報で知りながら、そのままにしていたところ、現理事の小関和弘さんを通じて、上野卓哉さんの御好意によりテープを入手することができた。本会会報にその紹介を――と思いつつ、これまた多忙に紛れていたので、以下とりあえず内容を略述したい。 番組は、04年の6月横浜での建大同窓会で平均年齢89才の参加者たちが、六十年前におぼえた賢治の「精神歌」を合唱するところからはじまっている。少なくとも開設時の建国大学は、全寮制で同国人が同室にならぬように部屋割りされ、異民族間の協和、相互理解を旨として、主食も米ではなくコーリャンとし、図書館では共産主義の本を読めるなど、自由な空気を特色としていたが、これがむしろ、朝鮮や中国の学生たちの民族意識を高め、いわゆる「反満抗日」の気運を強化して一九四二年以降、官憲の弾圧を受け、中国人学生たちが重慶(国民党)や延安(共産党)へと脱走していく成りゆきが、当時の日本人学生や中国人学生たちへの取材・インタビューによってあとづけられていく。 さて、《宮沢賢治》との関わり、「精神歌」がもたらされた経緯とはというと、広大な大学キャンパスの緑化運動、〈校内造園計画〉を企てた「植樹班」のリーダーが、一期生の岩淵克郎という、岩手県水沢出身の、宮沢賢治に心酔していた学生で、この人が「宮沢賢治の精神で木を植えよう」と言って、当時まだそれほど知られていなかった〈宮沢賢治〉の精神や「精神歌」を広めたという。この岩淵氏の感化を受けて活躍したのが、藤森孝一、佐藤善二、そしてロシア人のセルゲイ・セリョートキン(この人も一期生)といった人たち。 このセリョートキンは、父がコサックの首領で、革命のときハルビンへ亡命したといういわゆる白系ロシア人。建大で賢治の精神・作品に出会い、「雨ニモマケズ」など、賢治の詩を紹介するにいたる。のちに逮捕されて、十年間ウラル山脈で強制労働に耐えた。一九五五年に釈放されて、名誉回復、モルドバ共和国の首都キシロフに安住している。宮沢清六さんにも会っているという。番組でも直接取材を受けて、あの「つかの間のイーハトーヴ」に夢中になったのは、一種の逃避だったかもしれない。ほんとうに夢のようだ…と語っている。 私の父が建国大学に助教授として赴任したのは一九三九年で、私は三歳だった。同じ頃の父の同僚の一人で家族ぐるみで親しくしていた石田興平氏は、宮沢政次郎の法友高橋勘太郎の四男であり、生前の賢治をよく知っているし、私が満州で小学二年のとき賢治童話をまとめて読んだのは、当時の建大職員西川伍朔氏のすすめによると想定されるが、この石田先生や西川氏と、岩淵、藤森、セリョートキンらの賢治心酔学生たちとの間に何らかの交渉があったかどうかは、このラジオドキュメンタリーではまったく扱われていないので、不明なままである。(前出の藤田松二助教授についても、言及がない) なお、本稿中の人名漢字表記は、『建国大学同窓生名簿』(03年)に拠っている。 (千葉県千葉市)
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| ポラーノの広場 ―第十二夜― |
第一回全国宮澤賢治学生研究会
宮澤賢治生誕一一〇年となった二〇〇六年の十月二十一日。岩手大学、岩手県立大学、盛岡大学ら岩手県内の大学が中心となり、「全国宮澤賢治学生研究会」(以降、学生研究会とします。)が発足しました。ここからまず学生研究会発足までの流れに触れ、次に具体的な会の方向性や活動についてご紹介したいと思います。 ●学生研究会発足までの軌跡・宮澤賢治センター(岩手大学内)発足
まずは、学生研究会の親元であり、会設立の出発点でもある「宮澤賢治センター(岩手大学内)」を紹介したいと思います。 岩手大学は、2006年の6月1日、学内の宮澤賢治研究機関を集約させ、「宮澤賢治センター」を発足させました。同センターは、学内の教職員だけでなく、広く学生や周辺地域の方々をも含めた形で組織されており、現在は約350名(2007年1月段階)にまで会員数が膨れ上がりました。2006年度における具体的な活動としては、多く存在するため、ここでは大きなものだけを挙げると、毎月1回のペースで学内外の研究者が賢治研究の成果を発表する定例研究会、賢治ゆかりの地を訪れる実地研究、そして「第1回全国宮澤賢治学生大会」の3つがあります。それらの活動は、いずれも学内外に発信されており、岩手における賢治研究をだんだんと活性化させてきているのではないかと思われます。 特に、最後に挙げた第1回学生大会については次の項目で紹介しますが、先に予告をしておくと、学生大会は学生研究会設立に大きく関わっています。さらにいうと、センターの活動のほとんどが教職員を主体としている中で、学生がいわば受身になることなく、主体的かつ積極的に賢治に向き合うことのできた活動、それが学生大会なのです。 ・第一回全国宮澤賢治学生大会開催学生大会は、2006年8月28日、29日の2日間に亘って開催されました。主催は、宮澤賢治センター(岩手大学内)でしたが、主管を学生のみの組織である実行委員会が務めました。 同大会は、学生が主体となり地域をも視野に入れた形で開催することにより、全国に向かって発信していくことを目的としましたが、学生の見る「宮澤賢治」とはどのようなものかを明らかにし、研究だけでなく学部横断的な形で賢治を見ていく場を作ることができたと思われます。 また、この大会では3つの交流を掲げて開催しました。一つ目は、「賢治の交流」です。宮澤賢治という名前は知っていても、その人自身は知らないという学生または一般の方には、賢治の生き様、賢治作品の魅力をこの大会で感じてもらえたのではないでしょうか。 二つ目は、「学生間の交流」です。学生大会の名称に「全国」を入れたのはこのためで、大会開催を通して、各分野のたくさんの学生が交流し、次世代の賢治研究者ないしは賢治の魅力を伝える伝道者相互のネットワーク作りの第一歩を踏み出しました。 そして三つ目は、「地域との交流」です。同大会は、賢治を愛する地域の方々も含めた形で行いました。学生がいかに地域の方々に学べるか、いかに地域の方々に発信していくかという考えのもとで、地域との架け橋になることができていたら幸いです。
大会1日目は、賢治ゆかりの「岩手大学農学部附属農業教育資料館」(元の盛岡高等農林学校)で、宮沢賢治イーハトーブ館・館長である原子朗先生やインド・ネール大学准教授であるP.Aジョージ先生を講師に迎えた「基調講演」、学生による賢治研究の成果を発表する「研究交流」、「学生の見る宮澤賢治」をテーマとする「パネル・ディスカッション」を行いました。また、2日目には、盛岡市内の賢治に関係のある場所を巡る「実地研修」を行いました。いずれも多数のメディアに取り上げられ、また、多数の方々のご協力のもとで大盛況に終る事ができました。もちろん、学生大会は今後も継続して開催していく予定であります。
2007年10月には第2回を予定しておりますので、奮ってご参加ください。(学生大会HP→ http://kenji.bokunenjin.com/ ) しかし、これではただ大会をやってお終いとなってしまう。それではこのように学生が積極的に関わり開催してきた流れがもったいない。という考えのもとで発足したのが「全国宮澤賢治学生研究会」なのです。 ・全国宮澤賢治学生研究会発足
これまで、学生研究会発足までの軌跡を追ってきましたが、ここからは具体的な会の内容についてご紹介したいと思います。 学生大会の流れを汲み、そこで掲げた3つの交流のうち「学生間の交流」に重点を置いて発足したのが学生研究会です。まず、研究会が今後目指していく方向性を紹介したいと思います。学生研究会の今後の方向性としては、学生の横の繋がりを広げ、一人でも多くの仲間と共に宮澤賢治の理解を深める輪を広げていくこと、に尽きるでしょう。そして、この会自体、また会によって生み出したものを、新たな歴史の1ページとして刻んでいくことを目標にしております。 規模に関しては、発足時50名にも満たなかった会員が、今では他大学の学生、高校生も含め約100名となりました。ただし、メンバーのほとんどが岩手県内であるため、徐々に岩手県外にもその輪を広げていくつもりであります。具体的な活動としては、これまで定例研究会を4回に亘って行い、内容としては研究内容の発表(研究交流)、読書会、研究者の講演の聴講等を行ってきました。研究会を行う場所は、岩手大学、岩手県立大学、盛岡大学の3大学をローテーション制で回るという形で行い、会場となるそれぞれの大学が企画、準備を行っております。 ただし、これは岩手県内の話であり、全国を視野に入れると、一部でしかありません。そういった意味では、規模がまだ全国に追いついていないという現状でしょう。また、設立して間もないためか、活動内容が狭まり、コミュニケーションらしいコミュニケーションを学生間で成り立たせているともいえないような傾向にあります。そういった現状を踏まえ、今後としては、全国的に知名度を上げていき、徐々に会員の地理的範囲を広げていくと共に、活動の種類も音楽会、賢治ツアー(盛岡・花巻等)、野外合宿(スキー・登山・各種レクリエーション等)を入れるなどして、本当の意味で学生間のコミュニケーションを形成していきたいと考えております。(今後の研究会の展開については、全国宮澤賢治学生研究会ホームページを開設いたしますので、そちらをご覧いただき、ご意見ご感想などをいただけると幸いです。) 最後に、「全国」と銘打っている以上、その名にふさわしい研究会作りを目指し、今後も頑張っていきたいと思いますので、どうぞよろしくお願い申し上げます。 全国宮澤賢治学生研究会代表
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