宮沢賢治学会・会報第34号

山ではふしぎに風がふいてゐる/嫩葉がさまざま にひるがへる/ずうつと遠くのくらいところで は/鶯もごろごろ啼いてゐる/その透明な群青の うぐひすが/(ほんたうの鶯の方はドイツ読本 の/ハンスがうぐひすでないよと云つた)

(「小岩井農場」パート1)

表紙写真 撮影・大塚 常樹


第34号●ウグイス
2007年3月31日発行
  1. 「会いたいな、ツェ鼠。」 本上まなみ
  2. 報告
  3. 新役員紹介
  4. イーハトーブ〈毒物〉学
  5. 投稿&投稿エッセイ
  6. 宮沢賢治資料(39) 杉浦 静
  7. 冬季セミナー「宮沢賢治と温泉2」
  8. ポラーノの広場―第十二夜― 第一回全国宮澤賢治学生研究会

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会いたいな、ツェ鼠。

本上 まなみ

《ドッドド、ドドウド、ドドウド、ドドウ、ああまいざくろも吹きとばせ、すっぱいざくろも吹きとばせ》
《松の木や楢の木が、つんつんと光のそらに立ってゐます》
《ツェ鼠はプイッと中へはひって、むちゃむちゃむちゃっと半ぺんをたべて、又プイッと外へでて云ひました》
《ねずみとりは、思はず、はり金をりうりうと鳴らす位、怒ってしまひました》
《稲扱器械の六台も据ゑつけて、のんのんのんのんのんのんと、大そろしない音をたててやつてゐる》
《四郎とかん子とは小さな雪沓をはいてキックキックキック、野原に出ました》……。

 「ほんじょさんは、文章書くときオノマトペ上手に使ってますよね」と、その昔言われたことがあります。えっほんと !?とびっくりしつつ、なぜかはあはあと息が上がってくる私。まるで『どんぐりと山猫』の褒められた馬車別当みたいに、単純でわかりやすくて、自分でも恥ずかしくなる(《息をはあはあして、耳のあたりまでまつ赤になり、きもののえりをひろげて、風をからだに入れながら》)。

 ところでオノマトペって、何だっけ?

 大急ぎで国語辞典を開くと「擬音語、擬態語」の文字。ふむ。確かにあらためて読み直してみるとけっこう目につくかも。 拙作です。《だがしやのおばけけむりは十えんで んぱっんぱっと いつまででもでる》の、「んぱっんぱっ」とか。《タケノコを食べるとノドが「けーけー」になりませんか》の、「けーけー」とか。《旅館のゆかたって、たいていすごくのりが効いていて広げるとき「めしめしめしめし」っていうよね》の、「めしめし」とか。確かに多いかも。

 でもまあオレの場合はですね、ほかの表現が見つからないのでつい出てきてしまっているという気もします。つまり単に語彙が少ないからではないかしらん。そういえば、以前に雪道ドライブをしていたとき、雪が道路の表面をうねるように撫でるように舞うのを見て「あっ、めーよーっとしてるねえ」と同行者に言ったことがありましたが、「何、めーよーって?」と聞き返されたのであった。ほらほらあの道路の表面を這う雪、そんな風に見えないかい?と、あわてて説明したものです。どこまでその状況が伝わったかしら?

 改めて賢治の童話をひもといてみると、なんと的確になんと豊かにオノマトペを使っているんだろうと感動します。オノマトペだけじゃない。これ以上にぴったりな表現はありえない!と思われる描写の数々。冒頭に好きなフレーズ、文章の一部を抜き書きしてみましたが(みなさんにはどれが何か、おわかりですよね?)、もちろんもっともっともっとあって、選ぶのも悩ましいほど。わがままなツェ鼠が小さな口を一生懸命動かして半ぺんを食べてるところが、映像を見ているように目の前に浮かび上がってきますよね!

 そもそも幼稚園に通っていたとき全員で『雨ニモマケズ』を暗唱したのが賢治との出会いでした。いま思えばおチビにはなかなか難解な詩ですが、何度も繰りかえし声に出して練習したこと、未だに忘れていないもんなあ。玄米四合がどのくらいの量か知ったときは、子ども心に(どんだけ食べるねん!)と衝撃を受けたことまで覚えている。

 童話を読めるようになってからは外で遊んでいても、木の葉が風に吹かれただけで(あっ、今りすがあそこを通ったのかな)なんて思ったり、ざわざわ波打つ田んぼを見ると(ここには又三郎がやって来そうだ)とわくわくしたり。自然の中へ飛びだしていくと、そこにはいつも賢治の世界が広がっているように思えました。《きれいにすきとほつた風》や《桃いろのうつくしい朝の日光》があって、好きなだけカラダに取りこむことができる。きのこが馬車になったり、どんぐりが金色に輝いたり、そんなことがほんとに起きるような気がしてしまうのです。たぶん、賢治は本当にこういうものを見ていたんじゃないだろうか。本当に《ドッドド、ドドウド》って音が鳴っていたんでしょう。

 じつは今これを書いているすぐ横で、生まれたばかりの娘が毛布にくるまってくーくーと寝息を立てています。まだほんの数回しか外に出ていないこの子を散歩に連れていけるようになったら、草木が芽吹くところや、空にかかる月が丸くなったり細くなったりするようすを見せてあげたい。落ち葉のかさかさを踏ませてあげたい。寒いと息が白くなるんだって、気づかせてあげたい。新しいものをひとつずつ吸収していくとき、人はどんな反応を示すのか。いちばん近くで見守っていたいなあと思います。

 そしてもちろん賢治の童話を読んで聞かせよう。

 うるうる、どっこどっこ、ぼかぼか、かんこかんこ、ぐうんぐうん、……子どもにはオノマトペが本当に似合うのです。

 私がそうだったように、賢治の書いたいくつものお話が娘にとっての《すきとほつたほんたうのたべもの》になったらいい なと思っています。

(童話の引用はすべてちくま文庫『宮沢賢治全集』より)

(女優)



【報告】
第十七回定期大会

二〇〇六年度定期大会が、会員ほか一八〇名の参加を得て、昨年九月二十二日と二十三日の二日間にわたって、花巻市のNAHANプラザ、宮沢賢治イーハトーブ館を会場に開催されました。十七回目の大会の様子をご報告いたします。


第16回宮沢賢治賞・イーハトーブ賞贈呈式

 前日二十一日は、どこまでもすみきった秋晴れのもと、花巻農業高校創立100周年を記念しての「賢治立像」除幕式が花巻農業高校羅須地人協会前にてあり、その夕方からの詩碑前での生誕110年記念賢治祭では、賢治記念館の「賢治チェロ」が6年ぶりに演奏されました。二十二日も快晴となり、午前十時から花巻市主催による第十六回宮沢賢治賞・イーハトーブ賞贈呈式が、NAHANプラザにて開催されました。平日で、そして八月には「第3回宮沢賢治国際研究大会」を終えたばかりにもかかわらず、全国各地そして多くの市民の方もお祝いにかけつけ、会場は満席となりました。

 今回の賢治賞は「宮沢賢治作品の深い読み込みを踏まえて、今日的装いのもとにオリジナルな展開を示した連作小説集『ミヤザワケンジ・グレーテストヒッツ』に対して」高橋源一郎さんに贈られ、続いて賢治賞奨励賞として、「著書『賢治歩行詩考』における、長編詩「小岩井農場」の舞台、素材となり得た現実的環境や事象、背景に関する実証的な研究に対して」岡澤敏男さんに贈られました。

 また、イーハトーブ賞は「「生きる」「働く」「暮らす」を貫く共生を支える社会のあり方を求めて、批判と提言を続けてきたジャーナリスト・評論家としての業績に対して」内橋克人さんと、「ベトナムにおける眼科治療とベトナム人医師の技能向上に努める、眼科医としての献身的な活動に対して」服部匡志さんのお二人に、そして、イーハトーブ賞奨励賞は「創設以来、宮沢賢治の詩作品による音楽活動を通して、人々に安らぎと喜びを与えるとともに、宮沢賢治の精神を普及してきた実践に対して」コーラスせきれい(代表 黒川禎子さん)に贈られました。

 花巻市長から賞が贈られ、各受賞者からのスピーチ、その後、本賞受賞者である高橋源一郎さん、内橋克人さん、そして服部匡志さんによる記念講演が行われ、最後は花巻ユネスコ・ペ・セルクルの皆さんにより、受賞記念「岩手公園」・「曠原淑女」の合唱にて閉幕となりました。本賞および三人の受賞の言葉等は本号に掲載しているとともに、受賞者の皆さんの横顔につきましては、会報三十三号にて紹介しておりますのでご参照ください。


定期総会

 午後一時半から定期総会が行われました。まず天沢代表理事のあいさつでは、@「理事改選方法」について今回の総会には間に合わず、引き続きの検討事項となったこと、A学会として政治問題に関わろうするものではないが、戦争と平和をめぐって難しい問題に直面しつつあること、B学会として今後いくつか実現していきたい事業があり、会員の皆さんのご意見を聞きながら展開していきたいと話されました。

 続いて出席会員の中から花巻市の押切郁さんを初の女性議長に選出した後、議事に入り、まず二○○五年度事業報告及び収支決算が原案通り承認、続いての二○○六年度事業計画及び収支予算ついても原案どおり可決されました。なお、事業計画「5資料及び情報の収集並びに提供」中、「花巻方言音声資料」収集における「時期的制約」の内容についての質問があり、語り手が高齢になっており急ぐ必要があるとの回答がありました。

 議案の最後の役員改選については、理事会より提案された改選案について審議され、満場一致で可決承認されました。

 本号にて、新役員の構成そして新しく役員に就任された方々のプロフィールを掲載しております。


賢治研究リレー講演

 恒例のリレー講演は、持ち時間一人十五分という中で、宮沢賢治賞奨励賞を含む三人の方からそれぞれの賢治をテーマに密度の濃いお話をしていただきました。講演の要旨は本号に掲載しております。


イーハトーブ・サロン−私と賢治−

 参加者が気軽に所感を述べ合う本コーナーでは、参加会員の中から九名の方々が登壇され、一人五分ずつのスピーチをいただきました。今年は記念品として、天沢代表理事直筆訂正文付き『宮沢賢治万華鏡』(新潮文庫)が贈呈されました。登壇いただいたのは次の方々です。

 小川とく子さん(宮崎県)、杉田英生さん(東京都)、三浦辰郎さん(岩手県)、内田有香さん(東京都)、泉澤竹男さん(岩手県)、林敦子さん(岩手県)、外山正さん(千葉県)、村上英一さん(千葉県)、後藤秀樹さん(宮城県)。


会員交流・懇親会

 初日の日程の最後となる会員交流・懇親会は、はじめに天沢代表理事、そして大石花巻市長の挨拶があり、入沢顧問の乾杯の音頭の後、歓談に入りました。

 今回のお楽しみイーハトーブ料理メニューは、「賢治をめぐる人々の味に舌鼓」ということで、草野心平居酒屋「火の車」メニューから八品の再現と、「六穀ひっつみ」など「イーハトーブの雑穀料理」九品が並べられました。中野由貴さんによる「メニュー解説」があり、草野心平記念館の小野浩さんより「火の車」解説と、続いて「火の車テーマソング」を、花巻「賢治の里で賢治を歌う会」の河内範雄さんに歌っていただきました。

 やがて会は宮沢賢治賞・イーハトーブ賞受賞の各皆様からの改めてのコメントと続き、時は瞬く間に過ぎていきました。


研究発表

 二日目は、会場をイーハトーブ館に移しての研究発表です。今回は応募者多数により、一階ホールと二階講義室の二会場開催となり、午前十時から一人三十分の持ち時間で七人の発表がありました。この研究発表の記録集を頒布しておりますので、ご希望の方は事務局までお申し込みください(一部会員価格七百円。送料別)。



第16回
宮沢賢治賞・
イーハトーブ賞
受賞者あいさつ


宮沢賢治賞受賞

高橋源一郎


 こんにちは、高橋源一郎です。現在2歳2ヶ月になる長男がおりまして、今いろいろな本を読んであげています。勿論、本だけでは生きていけない現在の子供たちは、やっぱりアニメとか見るわけで、長男にヒットしているのは「となりのトトロ」です。朝起きると最初に発する言葉が「トトロ見る」で、寝る前も「トトロみないと寝ない」とかいうわけです。そうやって息子と一緒に宮崎アニメを見ているうちに、本当によく宮沢賢治に似ているのではないかと思いました。

 実は宮崎アニメと宮沢賢治の共通点ということで、ひとつの番組に携わったことがあります。それは「銀河鉄道の夜」は何に似ているか、似ている作品を探すという内容だったのですが、そこで見付けたのが、宮崎アニメ「となりのトトロ」だったのです。僕が考えたのはこんなことです。「銀河鉄道の夜」がもっている、あの独特な悲しい寂しい感じは何だろう、あれは鉄道に乗りますよね、銀河鉄道ですから。少年が列車に乗るとしたらお婆ちゃんが待っている田舎に帰る以外あり得ないだろう。とすると、あれは、銀河が見えるということからしても夏休みの出来事、夏休みに少年が田舎に帰るというお話じゃないか「となりのトトロ」は、とりわけ夏休みの物語ではないんですけど、都会を離れて田舎に戻って遭遇する出来事です。これが彼のアニメの根本的な形になっていると思われます。この何処かへ行って戻ってくるという時間感覚というものは、我々の最も深いところにある時間の感覚なのだろう。これが僕の、「銀河鉄道の夜」を読んで、それと似た作品を探していたときに宮崎駿さんのアニメを見て、その作品の共通性を感じて思いついたいわば一つの結論でした。

 どこかに行って戻ってくる、なぜこういう時間の流れを我々はとても大切にしているのか、なぜ懐かしく思うのか、これはよく考えれば分かることではないでしょうか。我々もまた、その出発点を知らない何処か暗いところから生まれて50年、70年、80年生きるという夏休みを過ごして、またどこか知らない暗い所に戻っていくわけです。この生きている時代が一つの長い夢のような夏休みだとしたら、我々はまた何処か来た場所に戻らなければなりません。この時間感覚がセットされている作品を読むときに僕らの中に、生きているとは長い夏休みを過ごすことなんだという感覚がよみがえってくるのではないかと思います。

 しかし残念ながら今の少年少女たちは長い夏休みを過ごすべき故郷がありません。それなのに、宮崎アニメを、なぜあんなにも子供たちが好きなのかといえば、それは彼らも知らない故郷の感覚を味あわせてくれるからではないかと、実際に訪れる故郷を知らなくても、我々の感覚の中というかDNAの中にそういう場所があって、夏休みはそこにいってまた戻ってくるということがセットされているからではないかと思います。逆にいうなら、我々の中にそういう感覚がある限り、同じ感覚を共有している作家の作品が読まれなくなることはないというふうに僕は思っています。国民的作家という言葉がありますが、今の国民的作家は宮崎駿でしょう。それは彼が我々日本人の内部に今もある故郷のDNAを感じさせてくれる数少ない作家だからです。

 「銀河鉄道の夜」に似た作品を探しながら、宮崎アニメを見付けるまで見付からなかったということを考えると、そういう精神を抱いた作家は、それほどいないのかもしれません。おそらく、これからも宮沢賢治は読まれ続けていくだろうと思っています。これまで日本にたくさんの作家が生まれましたが、ここだけの話ですが、たった一人残るとしたら宮沢賢治であるに違いないと僕は信じています。行って戻る、人生という長い夏休みがそこにあるという、人間的経験を本当に心の底から感じさせてくれる作家、詩人として、この100年、彼以上の存在はなかったからです。そのような宮沢賢治の名を冠した賞を頂けたことを、僕は本当に感謝しています。今日は皆さん、本当にありがとうございました。

(文責は事務局にあります)


イーハトーブ賞

内橋 克人


 細々と続けて参りました私のささやかな仕事に対しまして、思わぬご評価を頂きましたこと、心より御礼申し上げたいと思います。世界・日本経済を中心と致しまして、「経済」とか「技術」なる言葉で一括りされます事象を、単なる理論の世界からでなく、その経済を担う主体、つまりは「生きる・働く・暮らす」人間まるごとの視座からとらえ直す、そのような表現のあり方、評論・ジャーナリズムを求めて、ささやかな努力を重ねまして、来春、五十年を迎えることになりました。

 そのような生き方へと私を駆り立てた動機と申しましょうか、抑えがたい衝動と呼ぶほうがふさわしい、とも思いますが、いったい私を衝き動かしたものは何だったのか。静かに振り返ってみますと、決定的な契機というものに行き当たります。

 まずは、幾度にもわたる「ふるさと喪失」の辛い体験。私が生まれ、育ちました神戸という街は、あの苛烈な戦中、二度にわたる大空襲によって焼き尽くされました。最近では大空襲の犠牲者数にも匹敵するほどの死者を出した阪神・淡路大震災です。

 紙と土と木でできた日本の家屋を、最も合理的に、最も効率的に焼尽させる、そのために第二次大戦の末期に至って開発されたナパーム性焼夷弾の、その最初の標的が神戸であり、率先して強力な兵器の開発に当たったのは米石油会社の民間技術者たちでした。

 あの帝国ホテルを手がけたことで知られるフランク・L・ライトの助手として、ライトとともに来日し、数多くの名建築を日本に遺し、また多くの信奉者、後継者を日本で育てたアントニン・レーモンドという建築家がいますが、このレーモンドもまた戦中、日本を離れてアメリカに戻り、この新型焼夷弾の開発に協力しました。ユタ州の砂漠地帯に作られた爆撃実験場で、木造住宅群の建設などの指導に当たったのでした。

 レーモンドは八十八年の生涯のちょうど半分を日本で過ごし、まさに日本の建築を知り尽くした専門家です。その彼が日本の貧しい民家、長屋を最も効率的に焼き尽くす軍事技術の開発に大きく協力した、と知ったのは、学生時代のことでした。無差別都市爆撃の禁止を訴える運動に加わったこともある、と聞いていたそのレーモンド。にかかわらず、日本家屋の仕組み、都市の構造を知り尽くした彼の蓄積が、どれほど大きく、効率的な空爆に貢献したことでしょうか。ひとたび戦争となれば、知識人の「選択」はどうなるのか。

 最初の大空襲は昭和二十年三月十七日の深夜でしたが、その夜、私は急な盲腸炎(虫垂炎)の手術を受け、たまたま離れた外科の病院に入院しておりました。一人で家に残る姉を気の毒がって―その頃、母はすでに亡くなっておりましたから―近くの親切な女性の方が泊まりにきてくれていたのです。午前二時頃に始まった空襲にたたき起こされ、姉や近所の人びとと一緒に防空壕に逃げ、いつも私の座る場所に避難し、そして、その場所で焼夷弾の直撃を肩に受けて亡くなったのです。防空壕はそのまま、コンクリートと土と水のお墓になってしまった。旧制中学受験の当日の、まだ浅い春の頃のできごとです。

 少年の心に残った罪悪の意識は消えることがありません。が、長じて、私は知ることができました。「日本人は、誰ひとり、誰かの身代わりなくして、いまを生きるものはいない」。人びとを分断し、対立させ、互いに熾烈な競争に駆り立て、その隙間に利益チャンスをつくるという「市場競争原理至上」の新自由主義、つまりは「競争セクター」でなく、連帯・参加・協同の「共生セクター」、そして「共生経済」を求めて、私たちは二十一世の新たな社会的経済を築き直さなければならない、と思います。そう駆り立てられての五十年、それが私のジャーナリスト生活です。

 先人の偉業を人びとが慕うのは、あるいは真摯にたどり直すのは、単なる郷愁でもなければ、お国自慢であるわけもないでしょう。過去になしとげられた先人の居場所へとTVカメラをズーム・バックすれば、カメラの前にひろがる風景は一段と広がりをもちます。

 宮沢賢治の思い描いたArcadia(理想郷)こそ「すでに始まっている未来」としなければならない、そう私は期している次第です。ありがとうございました。


イーハトーブ賞

服部 匡志


 医療に失敗は許されない。患者さんとその家族は人生を賭けて私のところにやって来る。だから私も人生を賭けて手術に挑む。結果、患者さんの眼に光が戻り、笑顔が甦る。心からの笑顔。けっしてお金では買うことのできないその笑顔が、私に生きる勇気と力を与えてくれる。

 ベトナムでの無償の医療活動を続けて四年以上が過ぎた。初めは三ヶ月のつもりだったから、我ながらよく続いているなと思う。

 どの患者さんからも一切の金銭を受け取らず、渡航費、滞在費、医療用品代などすべてを日本でアルバイトをしながら手弁当でまかない活動してきた。患者さんが払うべき手術代を肩代わりすることもしばしばあるが、今までにもったいないと思ったことはない。

 なぜそこまでして続けられるのか? とよく聞かれるが、なぜだろう、自分でもよくわからない。ただ、目の前に困っている人たちがいる。失明の危機に直面している人たちがいる。彼らを見殺しにするわけにはいかない。私の技術で困っている人たちを救うことができるなら、遠慮などせず助けたい。その情熱だけが私を動かしている。

 もともと私は医師になりたかったわけではなく、父の死をきっかけに大きく自分の人生が変わった。物事が上手くいかない時、自暴自棄になってあきらめてしまっても、道を外れて自堕落になっても、すべては自分の責任だ。しかし当時の私は、たまらなくなって家出したこともあった。その頃から勉強がまったく手につかず、学力は一気にガタガタになった。数学、物理、化学はいつも赤点。進学校だったので授業の進みが早く、ひとつつまずくと次から次へと解らなくなっていく。完全なおちこぼれだった。医学部に合格するのに四年も費やした。パソコンで文字変換をしてみると三浪までは出てくるが、四浪は出てこない。「四労」と変換される。四年間の浪人生活は、経験しないにこしたことはなかったかもしれないが、不思議と今になって、この時の苦労や経験が私の人生に活きている。負けるが勝ち、ということわざがあるが、本当によく言ったものだと思う。負けることから得るものは、勝つことから得るものよりもはるかに大きい。

 私のことを、「ベトナムの赤ひげ先生」と呼んでくれる人がいるが、私は何も特別な存在じゃあない。ひとりの眼科医であり、どこにでもいる普通の42歳の男だ。人並みに挫折をして、泣いたり笑ったりして、それでもなんとか自分なりにがんばって生きてきた。

 ボランティアは何も崇高なものでも、カッコいいものでもない。とても地味な活動の連続だ。世界にはまだまだ自分の知らない世界があることを知ってもらい、そして健康な体で目が見えて、毎日美味しいごはんを食べられることがどれほど幸せなことかを感じてもらえたら、こんなにうれしいことはない。そして、ひとりでも多くの人が生きる勇気とよろこびを噛みしめてほしいと願っている。

 私がちょうどこの活動を始めたのが37歳。それは宮沢賢治さんがお亡くなりなった歳でもあり、その魂を私が受け継いだのかもしれない。世界を共生するという精神が私の中に宿っていることは確かだ。

 世界は広い。そして人間はすばらしい。



第16回
定期リレー講演
(要旨)


草野心平に託した「黄瀛の詩」

小野 浩


 草野心平の文学館が、福島県いわき市小川町に開館したのは1988年です。そこで9年間、学芸員として12回の企画展を担当しました。宮沢賢治展、火の車展、高村光太郎・智恵子展の際は、宮沢家・花巻市・宮沢賢治記念館・イーハトーブセンターに大変お世話になりました。

 本題に入る前に、草野心平が出会った「三人の巨人」について話します。三人とは、村山槐多(かいた)、宮沢賢治、高村光太郎のことです。

 心平が槐多と出会うのが、大正12(1923)年夏。槐多の没後出版された詩集『槐多の歌へる』を、心平は、大学の夏休みで帰郷したアルバイト先の書店で手にします。20歳の心平はそれに触発されて、7月初めての詩集『廃園の喇叭』をつくります。影響を受けたことは、『槐多の歌へる』の黒地の表紙など装幀が似ていることから想像できます。心平は当時の思いを「詩とはおもしろいものだ。詩は男子一生の仕事にしても恥ずかしくないものだ」と言っていました。詩人のスタートをきるきっかけになったのが、画家であり詩人の村山槐多だったのです。

 そして宮沢賢治と出会うのが、翌年の大正13年8月。当時、心平は中国広東省広州の嶺南(れいなん)大学の学生でした。そこに賢治の『春と修羅』が送られます。旧制磐城中学校の後輩、佐々木周雄(かねお・旧姓赤津)が、日比谷図書館に勤めていて、周雄により日本・東京から中国・広東省まで一冊の本が運ばれていくという、奇跡に近い結びつきがあったのです。賢治の詩に感動した心平は、「銅鑼」の同人に勧誘します。そして「現在の日本詩壇に天才がゐるとしたなら、私はその名誉ある『天才』は宮沢賢治だと言ひたい。」と言っていました。

 高村光太郎とは、大正14年8月に出会います。前月、心平は、排日英運動により、卒業直前にやむなく帰国し黄瀛の下宿に居候しました。光太郎の彫塑のモデルをしていた黄瀛により、心平は光太郎と出会うことになります。心平は、「私がじかに接した巨人は高村光太郎ひとりだった。」と言っていました。

 本題に入ります。「四人目、もしくは繋ぐ役目を担った」人が、黄瀛ではなかったかと考えています。心平と黄瀛の出会いは、大正12年春。「あなたは日本人なのでせうか。中国人なのでせうか」という問いかけの書簡が、青島の日本人学校に通う黄瀛から来ます。そして、黄瀛は、心平らの「銅鑼」の創刊同人となり、以後の「学校」「歴程」にもかかわっていきます。また、黄瀛は、心平と光太郎と出会いをつくり、昭和4年には賢治を訪ねました。心平論を雑誌に初めて発表するのも黄瀛なのです。

 戦後、黄瀛が来日したのは5回ですが、1回目が50年ぶりの1984年、4回目が賢治生誕百年の1996年・花巻、最後の来日になったのは2000年、文化学院時代の恩師・与謝野晶子について堺市で講演され、いわきまで足を延ばされました。残念ながら、黄瀛は昨年、2005年の7月30日、98歳で亡くなりました。

 配布資料の『高村光太郎研究』27号の拙文「草野心平に託した『黄瀛の詩』」は、草野心平記念文学館蔵の黄瀛差出心平宛書簡を精査してまとめたものです。それは、1949(昭和24)年1月差出の書簡で、南京・上海の消印あり、住所が心平の郷里・福島県小川ではなく賢治の郷里・岩手県花巻なのです。「宮沢清六氏気付、草野心平先生」と書いています。心平は点々とする中で、1948年8月から上京していました。この便箋6枚には新年の挨拶の他に、詩が6篇あり内5篇が未発表でした。

 国民党軍の将校・黄瀛が敗色濃い南京から出した手紙は、日本で文学活動を再開したが住所の定まらない心平のところではなく、日本岩手県花巻市、清六氏気付だったのです。一冊の詩集、一通の書簡に心平と賢治の運命を感じます。


小ささと遠さについて

吉田 文憲


 今日は、「小ささと遠さ」という題を掲げました。むろん、小ささ、遠さということは相対的なものです。これはスケールの問題でもある。私たちが象の時間を生きているか鼠の時間を生きているかによって物の大きさ、距離感、そういうものも変わってくるわけですね。

 今回、ここで話してみたいのは『やまなし』についてです。『やまなし』を初めて読んだとき、僕はとても驚いた。僕だけの小さな驚きかもしれませんが、そういうことから話してみたい。『やまなし』の第二章、谷川にせり出した木の枝からやまなしが落ちてくる場面があります。それを作者は、「トブン」と形容しています。例えばどんぐりなんかが落ちてきたら「トプン」かな、林檎くらいのものだと「ドブン」でしょうか。

 ところでみなさんはやまなしをごらんになったことがありますか。やまなしは梨の原生種で、実の大きさはせいぜい二センチくらいでしょうか。その二センチくらいのものが落ちてくる。それを作者は「トプン」でもなく、「ドブン」でもなく、「トブン」と形容している。一見なんでもない表現のようですが、これは凡庸な作家だったら「トプン」や「ドブン」とやっちゃうんじゃないでしょうか。「トブン」は、なかなか書けそうで、書けない。これはむろん、賢治さんはやまなしのことをよく知っていたからですね。そしてこの擬態語というのでしょうか、この「トブン」は、この作品のスケールにかかわっている。そのあとを作者はこんなふうに書いている。「黒い円い大きなものが、天井から落ちてずうつとしづんで又上へのぼつて行きました、」とこれはまるで水中カメラで落ちてきたやまなしの軌跡をスローモーション映像に見るかのようです。これが「トプン」だと、軽すぎて水のうえにぷかぷか浮かび流れていってしまうでしょう。「ドブン」だと逆に重すぎて、もっと激しく水底へ沈んでしまうかもしれない。これはある重さをもったやまなしだからこそ、賢治さんがそれをよく知っているからこそ可能になっている描写ではないか。そしてもっと大切なことは、それを見ているのが水底の子蟹たちですから、この子蟹たちに二センチくらいの大きさ(小ささ)のものが「円い大きなもの」に見えたということ、逆にここから想像されることはこの子蟹たちの小ささなんですね。ここにこの作品の一つのポイントがあるのだと思います。

 このことはこの作品の書き出し、「小さな谷川の底を写した二枚の青い幻燈です。」の、「小さな」にも微妙に呼応している。この「小さな」はむろん谷川のことを語っているのですが、同時にこんな山奥の谷川の上流、あんまり人が入り込まないような場所、人間の見ていない、誰も知らない場所、局限された世界の小ささ、ということもあるのではないでしょうか。こんな世界の小さな片隅にも、人間は知らないし見ていないし想像もしないかもしれないがたくさんの生きものが生きていて、たくさんのいのちの営みがあって、その生きものたちの息づきの象徴がこの物語の谷川の底の子蟹たちではないでしょうか、そういういのちの謎のような小ささにもそれは呼応している。

 だからここを「トプン」とやったり、「ドブン」にしたら、それだけでこの小さな、脆い世界はこわれてしまうのではないか。そしてこの小ささ、誰も知らないいのちの息づきは、『やまなし』の中の蟹語ともいうべきあのクラムボンは何か、という問いとも密接にかかわっている。クラムボンは何か、なぜ笑ったか、なぜ死んだか、それを容易に意味づけできないところで、しかしここでは当たり前のように何かが死んだり、木の実が落ちてきたりする。これは人間をはるかに超えたもののむこうと言ったらいいのか、そういうところに浮上してくる謎ではないか。そういう人間の世界を超えたところで起こっている当たり前のことのわからなさ、謎が、『やまなし』、賢治作品にはいつもいきいきと息づいている。それはいのちのはるかな近さ、それがやってきた場所の遠さの問題というか、ヴィジョンでもある。そんなふうに人間の秩序や言葉に意味づけられた世界のむこうで、なおかついまここで息づいているものに目を注ぐ、息を通わせる。それが賢治文学の魅力であり、新しさなのではないかと思うのです。


みじかい素朴な電話ばしら

岡澤 敏男


 賢治さんとのご縁について三つのお話をします。まず菊池暁輝さんのこと。暁輝さんは昭和八年に亡くなった宮沢賢治を慕い、詩の友人だった森荘已池さんと二人で翌年の九月に「宮沢賢治の会」を結成し「賢治の宣伝マン」となって活躍した人でした。啓蒙的な研究会のほかに暁輝さんは日曜日に自宅で「賢治子供会」を開いておりました。暁輝さんと私とは縁戚関係にあったし住まいも近かったのでお誘いをうけ「賢治子供会」に一度だけ参加したことがあります。宮沢賢治を知ったのはこのときが初めてでした。

 つぎに昭和二十三年の十一月に盛岡農林専門学校で開催した「賢治祭」についてお話します。この学校は賢治さんが学んだ盛岡高等農林学校の後身で、私は獣医畜産科の三年生でした。毎年行われる学園文化祭に獣医畜産科のイベントとして「賢治祭」を企画したが、当時の学内は賢治の母校でもあるにもかかわらず宮沢賢治を知る者は皆無といってよいほど寂しい状況でした。そこで「賢治祭」の意義を訴えるには、まず賢治をよく知る講師を必要としました。「宮沢賢治の会」を主宰する暁輝さんと森荘已池さんを講師に招聘することにして、暁輝さんを通じて森さんの承諾をいただきました。

 このイベントには賢治に関する「講演」と賢治作品の「演劇」、そして「詩・歌曲」の朗読・独唱の三本建としたので「講演」のつぎの難題は「演劇」でした。さいわい「賢治子供会」に関係していたらしい飯岡第二小学校児童による「風の又三郎」と「マッチ売りの少女」の出演となりました。「詩の朗読」は私と友人達が担当し、歌曲は当時農業科の助手でバスの美声で有名だった沢恩さんにお願いしました。会場は短編「大礼服の例外的効果」にでてくる卒業式の講堂で現在重要文化財となっている旧盛岡高等農林本館二階でした。しかし宮沢賢治に対する市民の知名度が心配だったので、私たちは学校周辺の電柱という電柱にバケツに糊を入れハケをもって「賢治祭」の宣伝ビラを貼って歩きました。嬉しいことに当日の観客は大講堂の座席を埋め尽くすほどの盛況で、翌日の新岩手日報には「賢治祭」に〈集まるもの二千余〉と報じていました。

 三つ目は表題の「みじかい電話ばしら」についてお話します。小岩井農場が平成三年に創立百周年を記念して「展示資料館」を開設し、その館長に私が就任することになりました。全国から訪れる来館者のなかには賢治ファンも多く〈賢治さんと農場の関係〉を質問するのです。それまで賢治作品の読者に過ぎなかった私でしたが、館長として賢治さんと深く向き合うことになったのです。その中でいちばん身を入れて取組んだのが詩篇「小岩井農場」でした。ちょうど「小岩井農場百年史」編纂の準備にとりかかっている頃で、この詩の書かれた大正十年代の小岩井農場をかいまみせてくれる文書・記録・地図・写真などを閲覧できたのです。賢治がスケッチした作品の情景は農場の保存資料によって当時の実景の描写だったことが推察されました。それによってパート三の「農場の入り口」が現在の県道(網張温泉線)コースではなく、網張街道の大清水コースから「小さな沢」(巡り沢)を渡る地点だったこと、そしてパート四の「みじかい素朴な電話ばしら」についてもなぜ電信柱ではないのか農場の時代考証によって理解されました。農場では明治三十九年より私設電話を導入し場内に電話線を架設しています。架線の柱は植林した山林から切出した松材をあてたものです。しかも「みじかい」し「右に曲がり左に傾き」という形状からみて、この「電話ばしら」は間伐材を利用したものとみられます。ちょうどその頃は間伐材の伐採が盛んで、パート三の三台の馬車に「生な松の丸太がいっぱいにつまれ」ていたのも間伐材の丸太だったのでしょう。




新役員紹介


 昨年九月二十二日に開催されました二〇〇六年度定期総会におきまして、理事及び監事が改選されました。任期は二〇〇八年九月の定期総会までの二年です。なお、新理事会におきまして、代表理事・副代表理事の選出と各委員会の担当も決まりましたので、あわせて学会役員を紹介いたします。

◆代表理事
天沢退二郎(再)
◆副代表理事
斉藤 征義(元 企画委員長)
森  三紗(再 賞選考委員長)
◆理事・企画委員会
奥山真由美(再)・菊池 善男(新)
栗原 俊明(再)・高橋 輝夫(新)
土岐  泰(新)
◆理事・編集委員会
岡村 民夫(再 委員長)
小関 和弘(再)・千葉 一幹(新)
平澤 信一(新)・山本 昭彦(理事外)
◆理事・賞選考委員会
澤田由紀子(再)・島田 隆輔(再)
照井 雄一(再)・信時 哲郎(新)
◆理事・電子メディア委員会
加倉井厚夫(理事外)・杉浦  静(理事外)
渡辺  宏(再・委員長)
◆全ての委員会に出席できる理事
及川 宣夫(新 花巻市教育長)
原  子朗(再 宮沢賢治イーハトーブ館長)
宮沢 雄造(再 宮沢賢治記念館長)
◆監  事
赤井 建夫(再)・阿部 一郎(新)
新理事のプロフィール
及川 宣夫(おいかわ のぶお)
岩手県花巻市在住。花巻市教育長。
菊池 善男(きくち よしお)
埼玉県さいたま市在住。東海銀行・現三菱東京UFJ銀行関係会社を経る。宮沢賢治研究会役員。
千葉 一幹(ちば かずみき)
一九六一年三重県生まれ。東京大学大学院博士課程単位取得。文芸評論家・拓殖大学教授。著書『賢治を探せ』 (講談社)『クリニック・クリティック』(ミネルヴァ書房)『『銀河鉄道の夜』しあわせさがし』(みすず書房)
土岐  泰(とき たい)
青森県弘前市在住。弘前・宮沢賢治研究会会員。「賢治の『MEMOFLOLA』手帳解析」(弘前宮沢賢治研究会誌8号)。現在ひろさき環境パートナーシップ21事務局員としてボランティア活動を楽しんでいる。
高橋 輝夫(たかはし てるお)
岩手県花巻市在住。花巻観光ボランティアガイド。宮沢賢治学会。花巻市民の会。
信時 哲郎(のぶとき てつろう)
兵庫県神戸市在住。甲南女子大学文学部助教授。目下、文語詩稿の評釈に取り組んでいる。生前批評から最新の論文まで含めた「宮沢賢治研究文献目録(http:file://www.konan-wu.ac.jp/? nobutoki/bunken/kenjironbun.html)」を作成・公開中。
平澤 信一(ひらさわ しんいち)
鳥取県米子市在住。米子工業高等専門学校助教授。論考に「宮沢賢治と〈映画的〉想像力」(「日本近代文学」第61 集)、「大正末/昭和初年の宮沢賢治評価」(『日本文学研究論文集成35宮沢賢治』)などがある。
新監事のプロフィール (肩書は3月現在)
阿部 一郎(あべ いちろう)
岩手県花巻市在住。花巻青年会議所理事長、花巻商工会議所青年部会長、花巻市PTA連合会会長等を歴任、現在花巻商工会議所2号議員。叶ホ神製作所代表取締役。


イーハトーブ
〈毒物〉学


賢治と有毒植物学

一戸 良行


 C・コロンブスが新大陸発見の頃、スイスで誕生の医化学開祖、略称、P・A・パラケルススは「梅毒」「鉱夫毒」を著す。それに“全ての物質は有毒で、その用量で薬にもなる”と書く。“美しい花には毒がある”のも一理。日本人がこよなく愛する桜の花、宮澤賢治は賛美しない。“幽霊”“気紛れ”で表現し、心象毒性を示している。自然科学領域において「毒物学」とは、“化学物質の毒性作用機構を研究する学問”である。個体差はあるが、「致死量」で示され、体重1キロ当りミリグラム単位で数値の少ないほど毒性が強い。「毒理学」の名まで見られる。系統学的に“宇宙の森羅万象は、一つの根本現象の変態なり”と看破したJ・W・ゲーテは一七九〇年「植物変態論」を刊行しており、賢治が「青森挽歌」で詠んだ生態学の定義者、E・H・ヘッケルの“系統樹”(一八六六)を念頭に置きながら語ることにしよう。

 A・アインシュタインの来日と妹トシの死は、殆ど時を同じくしている。その一九二二年、ケーニッヒスベルグ(現カリーニングラード)のC・メッツは蛋白質の抗原抗体反応を利用し、植物の類縁性を論じている。即ち双子葉植物モクレン科とキンポウゲ科は系統的に近縁関係にあり、形態学的には“木本系モクレン科は萼片と花弁とが区別できず、草本系キンポウゲ科は、花弁がないか、萼片が花弁のように目立っている”のである。賢治にとっては、花萼・音楽・慧学の三調子が揃わねばならず、この曖昧模糊とした形態学が、詩や童話に対する創作意欲をかき立てたものと推論する。いま一度の分析や実験あれば、類推概念も変わり、より文芸表現に差異を生じた事象も見えてくる。

 第二次世界大戦後、急速に機器の開発技術が発達し、生化学・天然物有機化学が進歩した。一九七五年、J・A・デュークは、約一,〇〇〇種の植物に関し、分析を施すと約七五〇種に有毒成分の存在を認める。これは宮澤賢治が既に認知していたことと合致し、有毒成分種の最大科、キンポウゲ科については、葉形態で“鳥”を“馬”と誤写した跡もあるが、「毛」の漢字名で示される。“ピオネア牡丹”、“オキナグサ白頭翁”、“トリカブト烏頭”、“アネモネ銀蓮花”、“オダマキ苧環”、“オウレン黄蓮”、“アドニス福寿草”などよく知られる。最近の分子遺伝学では“ボタン牡丹”と“シャクヤク芍薬”はボタン科と独立している。一番の猛毒は“ウズ烏頭”で、賢治の詩「国立公園候補地に関する意見」に“キチガイナスビ気違い茄子”、“マムシソウ蝮草”と並んで“黒いトリカブト烏頭”が詠まれている。北国産ほど温量指数に比例して毒性が強くなる。葉形態の似た“ヨモギ蓬”、“モミジガサ紅葉傘”は春に若苗を採り食用とする。後者はシドキ・シドケの別名あり、シドケ(洞)沢の地名もある。方言ブス(附子)シドケは“トリカブト烏頭”のことで、誤食に注意しなければならない。“オキナグサ翁草”は“ウズ烏頭のヒゲ髭”とも呼ばれ、“トリカブト烏頭”の親戚で“ぢい爺“を意味する方言に左袒する。この白頭翁は、牛・羊の家畜毒で口腔腫瘍・胃腸発熱・血便が観察される。“キンポウゲ金鳳花”は、花が毒性大で次いで葉茎と言われる。初期症状は口腔灼熱感、咀嚼困難、嘔吐で、疝痛、下痢、血尿を来たし、脈拍徐緩、呼吸困難も報告されている。賢治が詠んでいない福寿草も強心性配糖体を含む有毒植物であり、葉形態の異なる“リュウキンカ立金花”も同科に属する。

 少し視界を拡げ、双子葉から単子葉植物に入る。妹トシの死して“白い鳥”から連想される“白百合”は、百合根が食用でも薬用でもある。然し、君影草の名でも知られる“鈴蘭”も同じユリ科であるが、数株ではよい香を満喫できても、原野一面に咲く場にいれば頭が痛くなるほどで、泥酔して鈴蘭をいけた水盤の水を飲み命を落としたという話もある。天保大飢饉に役立ったヒガンバナ彼岸花(マンジュシャゲ曼珠沙華)の根は処理を間違えれば毒成分により大事に至る。サトイモ科の“テンナンショウ天南星”には去痰性の配糖体が存在し、別名“蛇の枕”の“水芭蕉”は、方言として“ベゴ(牛)の舌”があるが、“アルカロイド植物塩基”が分離されている。

 賢治作品に蟻や蛙の視野から観た“黴の木”、“木の子”がある。一般名“テングダケ天狗茸”は猛毒で下痢、視力障害、昏睡を来す。それを大関とすると、横綱は“タマゴテングダケ玉子天狗茸”でコレラ症状を呈し、その死亡率は七〇%と言う。関脇は“ツキヨダケ月夜茸”であろう。

 前述“気違い茄子”は名の如くナス科に属し、別名“チョウセンアサガオ朝鮮朝顔”、“マンダラゲ曼陀羅華”で知られる。華岡青洲の麻酔薬「通仙散」の主成分である。“ハシリドコロ莨宕”・“タバコ煙草(莨)”も同科植物で、賢治は阿片戦争をもじ捩って“ニコチン戦役”と称し、コカ葉(コカイン)同様の魔薬性を暗示し、習慣常用性を警告している。

 ここで被子植物と裸子植物を対比しての童話「ひのきとひなげし」を挙げよう。和名“火の木”でもなく真の“ケシ罌粟”でもない。“ヒバ桧葉とグビジンソウ虞美人草”である。“桧葉”の表象初形は“黒く”、終形は“若い”であるが、詩の先駆形「触媒」、発表形「嬰児」に酷似し、心象の変化が伺える。

 “コハク琥珀”乾留により琥珀油と水層に分離する。水層よりコハク酸が得られ、コハク油は細菌毒で殺菌効果から皮膚病薬として塗布される。特殊な植物種の毒性に関し、栽培処理方法によっては減毒することができる。

 最後に、満洲生活体験者の安部公房が「終りし道の標べに」で述べた“阿片”の魔薬・物象毒と異なり、演劇「愛の眼鏡は色ガラス」の主役男が第二〇景で語る毒に関し“……人間にとって一番の毒は希望と絶望の化合物なんだ。希望に近付けば絶望が深まり、絶望から逃れようとすれば、希望も消え去る。並みの毒とは違って死ぬこともできないんだ”と心象毒を意味する文芸的諺を示している。宮澤賢治作品を理解するうえで、参考になればと考え、幾ばくかの余韻を残して筆を置くことにする。

(神奈川県鎌倉市)



投稿エッセイ

子どもの質問から思わぬ展開

河野 通


 平成17年の秋、白石市の白川小学校で賢治の作品を語った時、「『雨ニモマケズ』はどうしてカタカナを使っているのですか」という質問があり、児童たちの感覚の素直さと鋭さに驚かされました。そういえば、花巻農業高校の準校歌「精神歌」にもカタカナが使われています。賢治は「雨ニモマケズ」にも曲をつけたかったのでしょうか。私の勝手な類推ですが…。

 そこで、地元紙(河北新報の投書欄「声の交差点」)を通じて音楽家に協力をお願いしたところ、「雨ニモマケズ」には既に曲がつけられていて、合唱曲とボーカル、それぞれのCDが出ていることもわかりました。

(1)混声合唱「作曲・指揮…高平つぐゆき仙台レコーディング合唱団」
(2)ボーカル「作曲とボーカル…後藤まさる上々颱風」

 さらに今年の1月、仙台市青葉区の音楽家・菊地宏明氏は、ボーカルのほか、背景音楽(BGM)を作曲し、CDを出されました。「雨ニモマケズ」朗読のBGMは、恐らく過去に例がないと思います。この曲を聞いたら、どなたでも「雨ニモマケズ 風ニモマケズ…」と口ずさみたくなるに違いありません。

 児童の素直な質問がキッカケで、思わぬ展開となりました。音楽との融合で色とりどり、賢治の世界が広がりました。

(宮城県仙台市)


インドにおける賢治詩講義報告〜ネルー大の場合〜

望月 善次


1 はじめに代えて〜講義に至る経緯〜

 二〇〇六年の十月末から二週間、インドを訪問した。直接的には、勤務先の岩手大学学長裁量経費を得て、インドにおける三大学〔ネルー大(Jawaharlal Nehru Unuiversuity:JNU)、デリー大(University of Delhi)、ベナレス・ヒンドゥー大(Banaras Hindu University:BHU))との交流の促進・打診を目的にしたものであった。その期間が、丁度インドにおける「日本文化月間」に当たっていて、その一つである国際啄木学会インド支部による「日本詩歌DAY(Japanese Poetic Aesthetisc)」にも参加したが(その模様については、『岩手日報』〔二〇〇四年十一月二十四日(金)夕刊〕に報告している)、合間を縫う形でネルー大とデリー大の大学院生に講義をする機会も与えられた。

 ネルー大については、Chairpersonのジェイン(Dr.Shusima Jain)教授の、またデリー大についてはウニタ(Unita Sachidanand)博士の御高配によるものであった。

 この場では、ネルー大学の場合を紹介したい。

2 ネルー大・日本語科の紹介

 ネルー大は、インドを代表する大学院大学であるが、語学関係のみは例外的に学部生もいる。日本語科(Centre for Japanese and N-EAsian Studies)は、言語・文学・文化研究科(The School of Language,Literature andCultures)に属しそのスタッフのほとんどが日本語関係のスタッフであり、日本語教育・研究に関して教員・学生ともインド第一の充実振りである。ちなみに、教員の全員及び大学院生のほとんどは日本留学を体験し、教員に至っては、そのほとんどが数年に一度は、日本への長期の研究的渡航を行っている。

 宮沢賢治研究に関しては、本学会の宮沢賢治賞・奨励賞(二〇〇四)を受賞したジョージ博士(P.A.George)がいる関係もあり、関心も深い。筆者のネルー大との縁も、このジョージ博士に関係するものである。原子朗門下の博士が、やはりネルー大の客員教授もなさった原先生のアドバイスもあり岩手大学の客員研究員を勤められたことを発端としている。そうした経緯もあり、二〇〇五年一月〜三月に同大学客員教授を務めたのである。

3 受講者

 今回の受講生は、その時教えた大学院生達(当時は修士課程)で、現在は博士課程に進学した者達を中心にし、当時は学部生であった修士課程の学生も含むものであり、先生方の数人も参加された。

4 教材

 上述したJapanese Poetic Aesthetiscのこともあり、これにもネルー大関係者の参加も予定されていたから、内容的に重複しないように、賢治の詩についての講義とした。

 教材としては、賢治の詩六編を選んだ。テキストとしては、学生達の理解のし易さも考えて、英訳もあった方が望ましいと考えてロジャー・パルバース(Roger Pulvers)訳の『英語で読む宮沢賢治詩集』(筑摩書房、一九九七)を用いた。

 具体的に選んだのは、次の六編であった。(括弧の中の英語は、パルバース訳。頁は、テキストのもの。)
「恋と病熱」(LOVE AND THE FEVER)[p.30〜31]
「眼にて云う」(SPEAKING WITH EYES)[p.80〜83]
「〔何と云われても〕」(WHATEVER ANYONESAYS[p.94〜95]
「政治家」(POLITICIANS)[p.96〜97]
「報告」(THE REPORT)[p.196〜197]
「〔雨ニモマケズ〕」(STRONG IN THE RAIN)[p.204〜209]

5 講義の進め方と言語事情

 当初考えていたのは、先ず英語によって、詩の大体の意味を把握し、その後、日本語で音読し(詩歌の場合、音読が非常に重要だとするのが、筆者の考えであり、日本における様々な講義等においても、音読・朗読を講義の核に据えている)、最後に各自の最も気に入った作品を選び感想を述べるというものであった。

 しかし、講義の冒頭で、こうした進め方について説明したところ、直ちに「英語の部分は要りません」という反応があった。従って、英語の部分を省いて、それ以外の部分を、当初の予定通りに行うこととした。

 ちなみに、彼等の語学力は驚くばかりのもので、先ず母語を話す。(この母語も、日本における方言のようなものを想像するとその具体相を誤るだろう。一千万人を越える人が話す母語も二十五以上もあり、大きな母語は、その母語によるテレビ番組 もあるのである。)次いで、準共通語でもある英語を話す。そして、デリーなどの北部では、ほとんどの人がヒンドゥー語を話す。つまり、日本語に関わる人達は、日本語は、「第四言語としての日本語」なのである。

 それなのに、日本語操作力についても、特に、話し言葉を中心として驚くばかりである。例えば、彼等の話すのを聞いていると、今英語で話していたかと思うとヒンドゥー語に変わり、私の存在に気づいた場合などには、たちまち日本語になり、郷里を同じくする人同士の場合は母語となるのである。それ等の切替えが素早く、しかも自然なのである。

 「なぜ、私は英語くらいも満足に話せないのだろう」と自分の語学力の無さが不思議に思われるほどの語学力である。

6 受講生のコメントの概要

 気に入った作品を尋ねたところ、その分布がそれぞれの作品に万遍なく及んだのは印象的であった。以下、学生達の関心がどんなものであったのかを簡潔に紹介したい。

「恋と病熱」=妹への思いを「透明薔薇」に集約した表現的センス。

「〔何と云われても〕」=「何と云われても〜である」の形がいい。

「眼にて云ふ」=深刻な状況を淡々と語っているところに賢治の表現力を見る。

「政治家」=政治家は、いつの時代もどこの地域でも同じ。

「報告」=二行の短さの中に虹をとらえ切っている。

「〔雨ニモマケズ〕」=流石にほとんど全員の人が読んだ体験があった。やはり、デクノボー的人生観が印象的。

7 結語

 要するに、彼らが賢治の詩を読めているということが第一の印象であった。今回は、誌面の関係もあり、その詳細に及ぶことはできなかったが、作品を通しての心と心との対話も十分に可能であったことのみを述べておきたい。賢治作品は、インドにおいても確かに読んでもらえる、読まるべき存在なのである。

(岩手県盛岡市)


資料発見 ―「浮世絵展覧会目録」―

森岡 京子


 二〇〇四年の暮れ、「東武古書の市」(宇都宮市・東武百貨店にて開催)に初めて足を運び、私は、表記の資料を見つけました。

 表紙に「御大典記念徳川代各派名作 浮世絵展覧会目録」の文字。裏には「昭和三年六月六日至六月二十五日於上野公園東京府美術館主催報知新聞社」(一星堂発行)との記載があります。この年、賢治は上京し、浮世絵展覧会を観ていました。(写真右がその目録)

 賢治は、一九二八年(昭和三)六月、一五日から二一日まで在京し、メモ(宮沢賢治全集一〇・ちくま文庫)によると、一五、一六、二一日と、東京府立(現、都立)美術館に足繁く通っていました。

 今回入手した六月発行の目録ではなく、改訂版の、東京国立博物館所蔵の七月発行目録(写真左がそのコピー)によると、この時の浮世絵の陳列は、一五日が第二回陳列最終日で清長五三枚歌麿一五二枚、一六日が第三回陳列の初日で春信一二八枚春章七〇枚春重七枚、二一日が第四回陳列の初日で初期浮世絵一二二枚写楽七〇枚とあります。

 ところで、六月発行の目録と、改訂版の七月発行の目録の違いですが、二カ所あります。(以下、六月発行の木力を初版、改訂版の七月発行の目録を再販と明記します)

 まずひとつ、初版に掲載された肉筆画「紅毛寫眞しゃしん鏡」(昇亭北壽ほくしゅう・京都帝国大学)は展示されず、再販によると、次の二点の肉筆画、「御物南蛮人来朝図」(筆者不明・六曲一双)、「浴後美人図「(窪俊満・一幅)に入れ替えられています。よって、会期中の肉筆浮世絵の展示総数は、初版より一点多い、一七二点の展示がなされたことがわかります。

 もうひとつは、四回目の初期浮世絵の展示数の違いですが、初版の四回目陳列は一二一枚、再販は一二二枚とあり、一枚違います。再販は、六月の展示後に印刷されたと思われ、その作品の順番は、初版の目録順とはかなり前後していましたが、二冊の、四回目陳列の初期浮世絵目録の頁をすべて比較したところ、再販は、二重に登載されていた浮世絵が一枚ありました。再販の七七頁の浮世絵「人形つかひ 佐野川市松」(奥村政信)、再販の八〇頁の浮世絵「人形つかひ」(奥村政信(無落款))は同じ作品と思われます。その裏付けとして、初版、再販とも一九頁の「浮世絵筆者人名別(年代順)」は、〈統計五二名(八三七枚)〉と同じ記載があり、またその内訳も全て同じです。ちなみに両方の内訳には、奥村政信三二枚とあります。以上のとおり、会期中の浮世絵版画は、総数八三七点の展示がなされました。さて賢治が購入した可能性がある六月発行の目録、そして、改訂版の七月発行の目録、この二点があることに着目したいと思います。定価弐拾銭の、それも図版のない目録が販売され、短期間の内に目録が再版された背景に、浮世絵展覧会に寄せる当時の人々の関心の高さを垣間見ることができます。

 一九二三年に起きた関東大震災は、版画の変革に拍車をかけました。残された作品の価値が再認識され、伝統的な版画の筆致と美質に人々は熱い視線を注いだのです。次のような当時の記事があります。

 ……震災紀聞其五 斯の如き凄惨事を眼前にしながら悠々として浮世絵を鑑賞しようというような気分は起こらない、というのが震災当時に於ける一般の与論であったが、事実はそれを裏切って、災害幾ばくもなきに早くも浮世絵蒐集に熱中する人々が激増し…(後略)(『浮世絵研究』9/10号 1924年4月)

 賢治もそんな市井の人々を詩「浮世絵展覧会印象」の中で《やさしく勇気ある日本の紳士女の群》として登場させています。さらに彼らの表情に《すべての苦痛をもまた快楽と感じ得る》とし、農民芸術概論綱要の《詩人は苦痛をも享楽する》と通底する賢治の想いを感じます。詩の中で己自身をも鼓舞していたのではないでしょうか。

※目録の内容については、杉浦静氏論考「巨きな四次の軌跡をのぞく窓―「浮世絵展覧会印象」(東京ノート)の浮世絵―」『賢治研究』50号に詳しく紹介されています。

(栃木県宇都宮市)


「満州・幻のイーハトーヴ」(東北放送)を聴いて

天沢 退二郎


 賢治在世中の一九三一年に満州事変が起こり、その翌年に現在の中国東北部に「建国」宣言の出た「満州国」という日本の傀儡国家は、一九三八年になって首都新京(現長春)に国立の「建国大学」を開設した。この大学は、「民族協和」を掲げて、第一期生百五十人(日本人75名、中国人50名、モンゴルその他25名)により発足したが、この大学の最初期、若い教師藤田松二と学生たちの一部がここで宮沢賢治の理想の農業を展開しようとしたという話は、すでに安彦良和の劇画『虹色のトロツキー』で物語られ、他にも山田昌治『興亡の嵐』や、川村湊『満州崩壊』でも扱われている。このテーマを二〇〇四年十月に東北放送が、ドキュメンタリー・ラジオ番組として放送するというニュースを建国大学同窓会報で知りながら、そのままにしていたところ、現理事の小関和弘さんを通じて、上野卓哉さんの御好意によりテープを入手することができた。本会会報にその紹介を――と思いつつ、これまた多忙に紛れていたので、以下とりあえず内容を略述したい。

 番組は、04年の6月横浜での建大同窓会で平均年齢89才の参加者たちが、六十年前におぼえた賢治の「精神歌」を合唱するところからはじまっている。少なくとも開設時の建国大学は、全寮制で同国人が同室にならぬように部屋割りされ、異民族間の協和、相互理解を旨として、主食も米ではなくコーリャンとし、図書館では共産主義の本を読めるなど、自由な空気を特色としていたが、これがむしろ、朝鮮や中国の学生たちの民族意識を高め、いわゆる「反満抗日」の気運を強化して一九四二年以降、官憲の弾圧を受け、中国人学生たちが重慶(国民党)や延安(共産党)へと脱走していく成りゆきが、当時の日本人学生や中国人学生たちへの取材・インタビューによってあとづけられていく。

 さて、《宮沢賢治》との関わり、「精神歌」がもたらされた経緯とはというと、広大な大学キャンパスの緑化運動、〈校内造園計画〉を企てた「植樹班」のリーダーが、一期生の岩淵克郎という、岩手県水沢出身の、宮沢賢治に心酔していた学生で、この人が「宮沢賢治の精神で木を植えよう」と言って、当時まだそれほど知られていなかった〈宮沢賢治〉の精神や「精神歌」を広めたという。この岩淵氏の感化を受けて活躍したのが、藤森孝一、佐藤善二、そしてロシア人のセルゲイ・セリョートキン(この人も一期生)といった人たち。

 このセリョートキンは、父がコサックの首領で、革命のときハルビンへ亡命したといういわゆる白系ロシア人。建大で賢治の精神・作品に出会い、「雨ニモマケズ」など、賢治の詩を紹介するにいたる。のちに逮捕されて、十年間ウラル山脈で強制労働に耐えた。一九五五年に釈放されて、名誉回復、モルドバ共和国の首都キシロフに安住している。宮沢清六さんにも会っているという。番組でも直接取材を受けて、あの「つかの間のイーハトーヴ」に夢中になったのは、一種の逃避だったかもしれない。ほんとうに夢のようだ…と語っている。

 私の父が建国大学に助教授として赴任したのは一九三九年で、私は三歳だった。同じ頃の父の同僚の一人で家族ぐるみで親しくしていた石田興平氏は、宮沢政次郎の法友高橋勘太郎の四男であり、生前の賢治をよく知っているし、私が満州で小学二年のとき賢治童話をまとめて読んだのは、当時の建大職員西川伍朔氏のすすめによると想定されるが、この石田先生や西川氏と、岩淵、藤森、セリョートキンらの賢治心酔学生たちとの間に何らかの交渉があったかどうかは、このラジオドキュメンタリーではまったく扱われていないので、不明なままである。(前出の藤田松二助教授についても、言及がない)

 なお、本稿中の人名漢字表記は、『建国大学同窓生名簿』(03年)に拠っている。

(千葉県千葉市)



宮沢賢治資料(39)


詩雑誌「太平洋詩人」

杉浦 静



 

 宮沢賢治の『春と修羅』を読んでみたくなった人がいた。

 宮沢賢治 春と修羅(ドラ社)

 この書き付けは、詩雑誌「太平洋詩人」、昭和二(1927)年三月号の裏表紙に残されていたもの。「太平洋詩人」は、渡辺渡という詩人が編集していた詩雑誌で、草野心平・岡本潤・小野十三郎・萩原恭次郎・黄瀛・尾形亀之助などが寄稿する詩的アナーキズムの傾向の強い雑誌。「市街戦」という欄を設けて、積極的に詩人同士の相互批判や論争を仕掛け、活気ある紙面を作っていた。草野心平は、この号に寄せたエッセイ「二月六日」で、「宮沢賢治は銅鑼における不可思議な鉱脈である。会ったこともないし、未来どんな風に進展してゆくか、予想さへつかない。岩手県で共産村をやつてゐるんだそうだが、お経を誦んだり、レコードをかけたり、木登りしたり、そんな事を考へても一寸グロテスクだ。」と紹介をした。この文章から興味を引かれたのか、この人は、上掲のような書き付けをしたのだ。草野心平は「二月六日」の最後には「詩集「春と修羅」はドラ社で取つぎます。」とも書いていたのだから。

 ところで、もう一つの書き付けは、「東野純、商業地帯(羅甸区社)」。東野純は、吉田一穂が主宰した雑誌「羅甸区」からでた詩人で、この「太平洋詩人」では、西谷勢之助が「三つの詩集」という評論の中で、「著者は商業地帯なる環境に身を置いて、いかにも青年らしい活気を爆発してゐるのだ。それは外形に破壊をとり、内に自覚と意志との約束を保つてゐる。」と絶賛している。

 この人は、そのほかに尾形亀之助の詩に「こんながわるけりやどんなでも/おまへのすきなやうに生きればいゝ」などとも感想を書いたりもしている。どんな青年?だったのだろうか。

(埼玉県草加市)


セミナー報告


冬季セミナー「宮沢賢治と温泉2」
二〇〇六年十一月二五日・二六日


◎二五日 講話


花巻温泉創業と宮沢賢治のかかわり

大原 皓二


 花巻温泉が「台遊園地新温泉」として開業してから今年(平成18年)で83年目になる。同年県立移管となり移転新築した花巻農学校には、自作劇を上演する教師賢治の姿があった。幸い花巻温泉は一度も火災に遭わず、創業当時の文書類が相当数保存されており、『花巻温泉物語』(佐々木幸夫著、熊谷印刷出版部 昭和63年)や企画展「宮沢賢治と温泉展」(平成18年6月〜平成19年3月)などに役立っていることは有意義なことである。

 会社自らが“彗星的”とまで称した事業の進捗ぶりは年譜で示した。

 「花巻温泉誌」の碑文からも、開発に賭けた創業者金田一国士らの「花巻に東北の宝塚を…」の熱い想いと高邁な理念を窺い知れる。今も花巻温泉竃{社に掲額されている創業当時の全景写真は、盛岡の写真家・唐健吾氏による日本初の大型写真(四尺五寸×六尺)であり、写真技術史の上でも貴重なものといえる(岩手日報昭和2年12月22日付記事)。

 この写真に写っている「南斜花壇」は壮大な構想の下に造成されたものであり、賢治直筆の「蔓草花壇」の図とは相当異なる。胡四王山麓に復元された「南斜花壇」開園披露式の際、それが嘗ての「南斜花壇」とのあまりの違いに落胆していた冨手一氏の姿を、私は傍で見ている。賢治の指導を受けながら一緒に花壇造りに汗した冨手氏は、盛岡電気工業且ミ員として昭和2年1月1日付正式採用され、以来11年余り花巻温泉の園芸係の職にあった。氏からは、賢治は昼休み時になると差しあげた昼食も摂らずに「遊戯場でピアノを弾いてきた」とか「釜淵の滝の上で昼寝してきたよ」などと話していたこと、また「会社から少しばかりの謝礼(例えば暮れにメリヤスのシャツなど)を差上げると、直ぐ高価な植物図鑑などお返しを寄こすものだから、会社ではとてもかなわないと考え、それ以降謝礼の支払いはやめてしまった」ことなど聴いている。

 花巻温泉園内の桜の樹は、数度に渡り植栽されていることを経理の支払い記録簿などから確認できた。しかし、大正13年4月に賢治が農学校の寄宿生を率いて行ったといわれる植樹を裏付ける資料は、残念ながら今のところ見つからない。今後もさらに調べを続けたい。

 再三訪れた賢治が目にしたであろう動物園舎には、羆熊をはじめ豊富な種類の動物たちが飼われていた。また『花巻温泉ニュース』“紅筆たより”などからも推察できるが、賢治詩との関わりのうえからも、急速に遊興歓楽の街に変貌していく紅灯化の実態については、尚検証しておきたいものと考える。


流域開発史のなかの宮沢賢治

岡村 民夫


 花巻西郊の温泉地帯は、豊沢川・台川の上流域と重なる。宮沢賢治と温泉の関係を、流域開発史という広がりのなかに置いて考えてみたい。明治44年に豊沢川の水力を利用した発電がはじまり、大正元年以降、電車によって市街地と温泉が漸次的に結ばれてゆき、花巻の温泉産業は飛躍的に発展した。〈川―電気―鉄道〉という連鎖は、賢治の文学においても極めて重要な意味をもっている(『春と修羅』の諸詩、「銀河鉄道の夜」)。

 川は温泉を水泳と結びつけてもいた。川は海の代用となり、温泉客は川岸で涼を取るばかりでなく、しばしば川で水泳をした。「イギリス海岸」や「風の又三郎」のさいかち淵のイメージは、こうした状況と無縁ではないだろう。

 豊沢川や台川(瀬川)の上流は、温泉と電気以外にも、木材、炭、鉱物、陶土、鳥獣等の恵みをもたらし、それらをめぐって様々な産業のネットワークが形成されていた。椀、コケシ、東北人形、台焼、熊の胆等の温泉土産は、地場素材を加工したものである。坑夫は温泉の重要な顧客であったろうし、温泉掘削や岩風呂造りは鉱山技術に基づいている可能性がある。岩手の農山村の振興を望んでいた賢治は、新旧様々な山の諸産業を作品のそこかしこで素描している。「早春独白」(第二集)を読むと、温泉電車が木炭などを運ぶ貨物列車でもあったことがわかる。台焼の窯元を賢治が訪ねたという逸話も伝わっている(杉村峰秀氏談)。

 花巻温泉の土壌改良や造園、温泉温室や新しい観光土産の提案、高等農林研究生時における林業や鉱業の志望といった、賢治の活動や構想の背景には、「稗貫郡地質及土性調査」を通して彼が花巻西部の河川流域の資源と産業の相関をしっかり把握していたということがあろう。通常の近代文学者と異なり、賢治は風景を資源開発者のまなざしで見ることができた。これは、近代的世界と民俗的世界とを自在に行き来する賢治の想像力の振幅にも与っているはずである。

 こうした賢治のあり方の先駆をなす地域的モデルとして、大工棟梁という宮沢家の前史と、神仏分離令以前の修験道を考えることができる。宮沢助五郎氏が『小頭と匠』『続小頭匠』(私家本)で明らかにしたように、宮沢家は本家を中心として花巻南部藩に仕えた大工を輩出している。彼らは温泉や船着場の「御仮屋」を含む藩の諸施設や、神社仏閣を建築・修繕した。いわば賢治登場以前から宮沢家はイーハトーブの建設者だったのだ。

 賢治が信仰心を抱いて熱心に登った岩手山や早池峰山は修験道の聖山である。花巻の温泉地帯も近世まで羽黒修験が活躍した行場にほかならない。しかもかつて修験は宗教者であるばかりか、鉱山開発、温泉や芸能の振興、観光旅行(「講」)の組織等にも携わる総合的な山の知識人であった。私たちは宮沢賢治をネオ修験として捉えなおしてみるべきではないだろうか。

25日 イーハトーブの郷土芸能(4) 岩手県立岩泉高校・中野七頭舞



◎二六日 シンポジウム


日本の遊園地と花巻温泉遊園

橋爪 紳也


 文化庁による「重要文化的景観」の登録指定が始まり、二〇〇六年これに関連した調査研究会が発足し、私はそのメンバーとなった。「文化的景観」という概念は、昔のままの景観を意味するのではなく、特定の産業が持続することで成り立っている現在の景観を意味する。周囲の山林も含めた温泉地全体を「遊園地」と規定することから創造され、今でもその名残りが多分に見られる花巻温泉は、別府や熱海に劣らず、「文化的景観」の名にあたいする大事な温泉地であると私は思う。

 日本の遊園地は、浅草的なもの、博覧会的なもの、宝塚的なものの三つに分けて捉えることができる。第一は、近代以前から伝統的に遊楽のために開かれていた場所が、近代化を通して、遊楽施設を含んだ公園へ転換したものである。第二は、明治以降の博覧会に現れた遊戯機械やアトラクションやエキゾチックな娯楽街が、博覧会から独立し常設化されるにいたったものである。第三は、19世紀のアメリカで都市郊外のビーチリゾートにできた遊園地(コニーアイランド、ドリームランド、アトランティックシティ等)をモデルにして形成されたものである(詳しくは拙著『日本の遊園地』講談社現代新書を参照していただきたい)。宝塚を意識したと思しき花巻温泉は、この第三の系譜に属していると考えられる。

 ニューヨークから鉄道で結ばれた郊外のコニーアイランドの遊園地「ルナパーク」に倣って、阪神急行の経営者は、明治末、大阪から郊外へ電車を延ばして「宝塚新温泉」という新たな温泉を開き、以後そこを遊園地化していった。その人気に刺戟を受けて、大正から昭和初期にかけて、大都市の郊外に宝塚的なリゾート遊園地がつぎつぎと開設された(阪神の甲子園、大阪の千里山遊園、金沢の粟ケ崎遊園等)。花巻温泉は、宝塚を初めとするこうした郊外リゾート遊園地と多くの共通点をもっている(遊具以外に、家族向けというコンセプト、温泉、川、スポーツ施設、花壇、農園等)。ただし、一つの事業者が何も無かった場所に小さな都市的環境を最初から計画的に造成し、景観全体を「遊園地」と規定した点は、画期的といえる。

 なお、花巻温泉の初期の構想を見ると、メインストリートの並木道にロータリーを設定して旅館のエントランスや売店がそこに集まるように計画されており、イギリスで生まれた「田園都市」の影響も考えられよう。


近代詩人たちの温泉的想像力―宮沢賢治と萩原朔太郎「猫町」を中心に

安 智史


 賢治文学における温泉は、一、伝統的な「湯治場」とその周辺文化に連なる要素(「なめとこ山の熊」)。二、大地と大気との循環といった、自然のエネルギーとしての温泉・泉(「台川」「グスコーブドリの伝記」)。三、各種イヴェント会場としても活用される近代レジャーランドとしての新開発温泉(「一九三一年度極東ビヂテリアン大会見聞録」)。四、遊蕩の地としての温泉、等に分類できる。うち、四には、賢治自身が花壇設計等、開発に協力していた花巻温泉遊園地を詩「悪意」で“いまに「魔窟」にかわる”と述べたことが関連している。そもそも尾崎紅葉「金色夜叉」前半の熱海・終盤の那須塩原温泉、川端康成「伊豆の踊子」「雪国」など、文学に登場する温泉には、駆落ち、心中などを含めて、何らかの意味での逃避、痴情、男達の遊びの地といったイメージがつきまとう。賢治がそれを連想したであろうことは間違いない。たいして一〜三は、花巻市街と温泉地とを結ぶ電車、花巻温泉に大々的に灯された電灯など、(自然エネルギーを変換したものとしての)山中の電力という要素を含め、賢治独自の温泉的想像力の発揮といえる。おそらく、伊香保温泉の浴医局長体験者を父とし、北陸地方の温泉地「U」周辺の町に、猫ばかりの住む大都会とその崩壊を幻視する「猫町」の作者である萩原朔太郎のみが、賢治に匹敵する独自の温泉文学的想像力を示していたといえるのではないか。

 朔太郎の場合、山中の水力を利用した水力発電所ができ、その電力を使って郷里前橋から伊香保温泉までを結ぶ電車が開通していたということ自体、賢治における花巻とその周辺の温泉郷との関係に比較しうる社会的条件としてあげることができる。ヨーロッパ型の温泉医(浴医局長)を父とした朔太郎は、よりヨーロッパ型クア・リゾートとしての温泉を求め、賢治は、より伝統的な東北の湯治文化に近い体験を有していたとはいえるが、いずれも家族ぐるみ温泉地での保養を習慣として生まれ育ち、温泉地をめぐる社会的条件の近代化(市街地と行楽地を結ぶ郊外電車の開発、大自然中の人工物、温泉およびその周辺への科学的なまなざしなど)に積極的な関心を有していた点で共通する。他の温泉地近辺出身の詩人達、たとえば、伊東温泉出身の木下杢太郎、磯部温泉出身の大手拓次、湯田温泉出身の中原中也などとは違った、二人の共通点といえる。

 賢治・朔太郎ともに、温泉と言うときに紋切り型に思い浮かべられるような口当たりの良さや遊楽気分を突き破る、より根源的な生命力の蕩尽、自分を保てなくなるような危機すらもたらす身体感覚の豊饒さや、過剰さに結びついている。それは、熱い湯を流す火山と一体化して身体を炸裂させようとするグスコーブドリに見られるものであるし、又、朔太郎「猫町」における、すべての感覚が過剰に解放され、屍臭が漂いはじめる描写にかかわるものでもあろう。温泉は登場しないが、「猫町」の先駆的作品と言える賢治「注文の多い料理店」のいかがわしさやグロテスクな味わいにも通じていくものであるかもしれない。そういう意味で、たしかに温泉は魔の空間であり、賢治自身の使ったニュアンスからはズレるかもしれないが、「魔窟」性をはらむといえるだろう。


ポラーノの広場 ―第十二夜―

第一回全国宮澤賢治学生研究会


 宮澤賢治生誕一一〇年となった二〇〇六年の十月二十一日。岩手大学、岩手県立大学、盛岡大学ら岩手県内の大学が中心となり、「全国宮澤賢治学生研究会」(以降、学生研究会とします。)が発足しました。ここからまず学生研究会発足までの流れに触れ、次に具体的な会の方向性や活動についてご紹介したいと思います。


●学生研究会発足までの軌跡

・宮澤賢治センター(岩手大学内)発足

 まずは、学生研究会の親元であり、会設立の出発点でもある「宮澤賢治センター(岩手大学内)」を紹介したいと思います。

 岩手大学は、2006年の6月1日、学内の宮澤賢治研究機関を集約させ、「宮澤賢治センター」を発足させました。同センターは、学内の教職員だけでなく、広く学生や周辺地域の方々をも含めた形で組織されており、現在は約350名(2007年1月段階)にまで会員数が膨れ上がりました。2006年度における具体的な活動としては、多く存在するため、ここでは大きなものだけを挙げると、毎月1回のペースで学内外の研究者が賢治研究の成果を発表する定例研究会、賢治ゆかりの地を訪れる実地研究、そして「第1回全国宮澤賢治学生大会」の3つがあります。それらの活動は、いずれも学内外に発信されており、岩手における賢治研究をだんだんと活性化させてきているのではないかと思われます。

 特に、最後に挙げた第1回学生大会については次の項目で紹介しますが、先に予告をしておくと、学生大会は学生研究会設立に大きく関わっています。さらにいうと、センターの活動のほとんどが教職員を主体としている中で、学生がいわば受身になることなく、主体的かつ積極的に賢治に向き合うことのできた活動、それが学生大会なのです。


・第一回全国宮澤賢治学生大会開催

 学生大会は、2006年8月28日、29日の2日間に亘って開催されました。主催は、宮澤賢治センター(岩手大学内)でしたが、主管を学生のみの組織である実行委員会が務めました。

 同大会は、学生が主体となり地域をも視野に入れた形で開催することにより、全国に向かって発信していくことを目的としましたが、学生の見る「宮澤賢治」とはどのようなものかを明らかにし、研究だけでなく学部横断的な形で賢治を見ていく場を作ることができたと思われます。

 また、この大会では3つの交流を掲げて開催しました。一つ目は、「賢治の交流」です。宮澤賢治という名前は知っていても、その人自身は知らないという学生または一般の方には、賢治の生き様、賢治作品の魅力をこの大会で感じてもらえたのではないでしょうか。

 二つ目は、「学生間の交流」です。学生大会の名称に「全国」を入れたのはこのためで、大会開催を通して、各分野のたくさんの学生が交流し、次世代の賢治研究者ないしは賢治の魅力を伝える伝道者相互のネットワーク作りの第一歩を踏み出しました。

 そして三つ目は、「地域との交流」です。同大会は、賢治を愛する地域の方々も含めた形で行いました。学生がいかに地域の方々に学べるか、いかに地域の方々に発信していくかという考えのもとで、地域との架け橋になることができていたら幸いです。

 大会1日目は、賢治ゆかりの「岩手大学農学部附属農業教育資料館」(元の盛岡高等農林学校)で、宮沢賢治イーハトーブ館・館長である原子朗先生やインド・ネール大学准教授であるP.Aジョージ先生を講師に迎えた「基調講演」、学生による賢治研究の成果を発表する「研究交流」、「学生の見る宮澤賢治」をテーマとする「パネル・ディスカッション」を行いました。また、2日目には、盛岡市内の賢治に関係のある場所を巡る「実地研修」を行いました。いずれも多数のメディアに取り上げられ、また、多数の方々のご協力のもとで大盛況に終る事ができました。もちろん、学生大会は今後も継続して開催していく予定であります。

 2007年10月には第2回を予定しておりますので、奮ってご参加ください。(学生大会HP→ http://kenji.bokunenjin.com/

 しかし、これではただ大会をやってお終いとなってしまう。それではこのように学生が積極的に関わり開催してきた流れがもったいない。という考えのもとで発足したのが「全国宮澤賢治学生研究会」なのです。


・全国宮澤賢治学生研究会発足

 これまで、学生研究会発足までの軌跡を追ってきましたが、ここからは具体的な会の内容についてご紹介したいと思います。

 学生大会の流れを汲み、そこで掲げた3つの交流のうち「学生間の交流」に重点を置いて発足したのが学生研究会です。まず、研究会が今後目指していく方向性を紹介したいと思います。学生研究会の今後の方向性としては、学生の横の繋がりを広げ、一人でも多くの仲間と共に宮澤賢治の理解を深める輪を広げていくこと、に尽きるでしょう。そして、この会自体、また会によって生み出したものを、新たな歴史の1ページとして刻んでいくことを目標にしております。

 規模に関しては、発足時50名にも満たなかった会員が、今では他大学の学生、高校生も含め約100名となりました。ただし、メンバーのほとんどが岩手県内であるため、徐々に岩手県外にもその輪を広げていくつもりであります。具体的な活動としては、これまで定例研究会を4回に亘って行い、内容としては研究内容の発表(研究交流)、読書会、研究者の講演の聴講等を行ってきました。研究会を行う場所は、岩手大学、岩手県立大学、盛岡大学の3大学をローテーション制で回るという形で行い、会場となるそれぞれの大学が企画、準備を行っております。

 ただし、これは岩手県内の話であり、全国を視野に入れると、一部でしかありません。そういった意味では、規模がまだ全国に追いついていないという現状でしょう。また、設立して間もないためか、活動内容が狭まり、コミュニケーションらしいコミュニケーションを学生間で成り立たせているともいえないような傾向にあります。そういった現状を踏まえ、今後としては、全国的に知名度を上げていき、徐々に会員の地理的範囲を広げていくと共に、活動の種類も音楽会、賢治ツアー(盛岡・花巻等)、野外合宿(スキー・登山・各種レクリエーション等)を入れるなどして、本当の意味で学生間のコミュニケーションを形成していきたいと考えております。(今後の研究会の展開については、全国宮澤賢治学生研究会ホームページを開設いたしますので、そちらをご覧いただき、ご意見ご感想などをいただけると幸いです。)

 最後に、「全国」と銘打っている以上、その名にふさわしい研究会作りを目指し、今後も頑張っていきたいと思いますので、どうぞよろしくお願い申し上げます。

全国宮澤賢治学生研究会代表
稲垣 大助