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宮沢賢治学会・会報第35号 | |
嘉十はもうまつたくじぶんと鹿とのちがひを 忘れて、/「ホウ、やれ、やれい。」と叫びなが らすすきのかげから飛び出しました。/鹿は おどろいて一度に竿のやうに立ちあがり、そ れからはやてに吹かれた木の葉のやうに、か らだを斜めにして逃げ出しました。銀のすす きの波をわけ、かゞやく夕陽の流れをみだし てはるかにはるかに遁げて行き、そのとほつ たあとのすすきは静かな湖の水脈のやうにい つまでもぎらぎら光つて居りました。 (「鹿踊りのはじまり」) |
第35号●鹿 2007年9月21日発行
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「やまなし」の周辺 みやこうせい
もの心がついたら、手の届く所に『風の又三郎』があった。函入りの堅牢な造りである。この本は、『注文の多い料理店』とともに、ぼくの原点で、物語りはむしろ真実と思われた。いまだ夢と現実がしかと判別できない自分である。慎古趣味は遠ざけているが、岩手を思うと想念はまっすぐ岩手山麓へ飛んで行く。小学六年まで、西山村(現在、雫石町)の奥の集落でくらした。毎日のように、小窓から対面する岩手山があった。霏々たる雪や大雨の時をのぞいて、いや、曇り日にも胸中の山と話をかわした。玲瓏たる空気のやまふところにひしと抱かれて、山は恋にも似たひたすらな渇仰の対象だ。 四季折々の山の表情を心に刻んだ。春さきにはドテラを着てふくれ上っているようで、凍れる二月には、峻烈な表情を見せ、特に、深夜、雪と氷に被われた岩手山が月に照らされて燐光色に底から輝やくさまに、神の存在を思った。美中の美に心をとらわれて、幼いながら感懐にうちふるえ、惟みるに、結局、美を追い求めるかの仕事を天職と心得るようになったのは、山の姿に魂を奪われ、草花の朝露を吸い、まま、気流に乗って、カッコウの声を胸に切なく積らせて、メルヒェンに親しんだことによるのか。 小学四年の時、親戚の静ちゃんが教師として赴任して来た。先生というより静ちゃんと呼んだ。小岩井の小学校の校長の娘で、子供心にも利発で清らな印象だった。この静ちゃんが、ぼくを自分の家へ連れて行った。小岩井農場までは、村から六キロぐらいの距離である。これを契機に、誇張抜きで、賢治の世界、あるいはミクロコスモスに近づいた。こちらのあゆみに共に弾む岩手山を従え、カラマツの列を横目に、たたなわる草原の緑に心身が染まった。まだ、メルヒェンの意味は知らなくとも、ここは、正に無上の空間で、アルカディアであると直感した。美にふれる快さをはじめて知覚したのだと思う。 爾来、小岩井通いを欠かさない。馬車鉄道に何度も乗った。草の匂いの風と、口笛まじりで流れる雲にたましいを預けて蹄の音といななきを楽しんだ。のちに、親友と草原でいい知れぬ光の超常現象にも出会っている。 小学四年生の時、ひしやげた木造校舎の講堂ではじめて幻灯を見た。「やまなし」である。その澄んでしたたる程甘やかな幻想にしたたか酔った。少年は、なお夢見がちになる。ぼくにとって「やまなし」は幻想であると同時にそのまま現実である。 当時住んだ、屋根の上にオニユリやカンゾウが咲く茅葺きの家から近くの小川に、半ばしなって走って泳ぎに行くことがあった。深さ一メートル二十センチぐらいの小川にどぶんと入るや潜りこんで、やおら目をあける。陽光が水にキラキラ散乱し、透明な泡が水面へと浮き上り、川底にメダカが反転し、無数の小さな刃となってかがやいた。水の世界があまりにも心地よく、ひと夏に何度も水車小屋の近くの小川にもぐって、いささか妖精気どりだった。ぼくの「やまなし」の世界は、いなかの小川の中にある。この川の中で、グミやスグリの匂いを確かにかぎ当てたような気がする。残念なのは、あの川に青月夜にもぐらなかったことである。しかし、月夜の川底の幻想は、賢治さんが十分かなえてくれた。文学はかくも実学である? 尤も『賢治歩行詩考』(未知谷)を足と目で書いた半ばシャーマンのきらいのある岡澤さんは「やまなし」の舞台になった川をその内特定できると少年のような目を輝かす。 とまれ、賢治さんにえにしを強くおぼえる。盛岡の友人との話で、一日にその名が数十回は出る。あの人ならどう考えるのか、どういうのか、えにしというのは、他でもない。詩を書いていた母が、よく病床の清六さんを見舞いに行って、次々と唱歌を一緒に歌っていた。ぼくは結局は賢治さんの縁で、高村光太郎さんの山荘へ母と赴き、花王石鹸に違いないと信じたチーズをおそるおそる口にして鏡を見て、おお山猫と叫んだ。 うち見ると、賢治さんと、それにまつわることどもに囲まれている。ふと知り合った人を出版社に紹介したら、素朴な木版で賢治童話の絵本を次々作っている。さる友人は「銀河鉄道の夜」を完璧なロシア語に訳し、絵がつき次第、モスクワの一流出版から近々刊行される。ロシアの読書界で大きな話題になろう。その友人は雰囲気をつかむため、岩手へやって来て霊感を得たと心やさしい友人たちに感謝している。 これまで森荘已池さんに接し、また、賢治さんとごく近い所にいた母木光さんとはよく会うことがあった。しかし、ぼくは、その著書でこと足りて、ゆかりの人達にこまかく問い質さなかった。ぼくは時に、賢治さんの詩を自分流の南部なまりで朗読することがある。誰に聞かすでもない。自分で読んで、イーハトーブを反芻し胸をあつくする。みずから美に求心し収斂し幻想の世界へ天駆ける。ぼくはこの頃、とみに賢治さんの歌や詩に生かされているとしみじみ思うのである。
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| 【報告】 |
第16回 宮沢賢治賞イーハトーブ賞決まる 第17回宮沢賢治賞・イーハトーブ賞は、先の理事会におきまして次のとおり承認され、花巻市より発表されました。 受賞された方々にお喜びを申し上げますとともに、これからのますますのご活躍をご祈念いたします。 経過及び選考理由について宮沢賢治学会イーハトーブセンター賞選考委員会 委員長 森 三紗
《宮沢賢治賞》宮沢賢治賞については計三十一点を選考対象とした。 本賞の菊池忠二氏は『私の賢治散歩』上巻・下巻において、若き日に「農民芸術概論綱要」を読んだ身の震えるような感動を源泉として、社会科学的な冷静な視座を持ち、生涯のライフワークとして賢治論考を行ってきた。時代を幅広く見渡し賢治と関わる人々、教え子、周辺の人々に地道に聞き書をし基礎調査を誠実に行ってきた。自らの目、耳、思いを重要視し関係文献、先行論文を綿密に調査し未調査、未発表の分野・事項まで言及した考察、研究を行ない継続的な研鑽が結実している功績が認められた。 奨励賞の加藤碵一氏は地質学者で豊富な研究歴があり地質学的知見を生かし『新校本全集』と関連資料を読み解き検討した。賢治の文学作品に数多くの鉱物・岩石・化石名が導入されその特徴が魅力となり、独自の世界を構成しているがその要素を分析し解き明かし新たに確固たる位置付けをした『宮沢賢治の地的世界』が評価された。 もう一人の奨励賞の中村三春氏は『係争中の主体 漱石・太宰・賢治』『修辞的モダニズム テクスト様式論の試み』の二冊の著書の賢治論において賢治テクストにパラドックスの核心を読み取り、展開の方法を修辞のめざましい統合の役割におきテクストを読むときに鮮烈な問題提起と論理展開、文献学的分析の的確さにより新境地を切り開き貢献したことが高く評価された。 《イーハトーブ賞》イーハトーブ賞については計二十二点を選考対象とした。本賞の受賞候補者について三回に渡り長時間の議論をしたが、残念ながら今年は見送ることになった。 奨励賞についてはネパールのナンダ プラサト ウプレティ氏が受賞した。花巻市を訪問した際に賢治の生き方、精神、作品に共鳴し二〇〇〇年に首都カトマンドゥに私財をなげうってケンジ インターナショナル スクールを創設した。当時の幾多の困難を克服し学校教育を軌道にのせ賢治の精神と作品を普及し幼児・児童教育に献身的に努力していることが認められた。 もう一人の奨励賞の「三朝温泉かじか蛙保存研究会」御舩道子さんは二十七年間、絶滅に瀕したかじか蛙の保存運動に取り組んできた。まず清流化のため里山をまもり、広葉樹を植樹する運動を地域住民と行い交流してきた。また、生命の大切さを考え、地元小学校の児童とともに、かじか蛙の観察日記の記録と孵化と放流を行い、環境保護教育に成果をあげ賢治精神を発信していることが評価された。 ■宮沢賢治賞
菊池 忠二 □『私の宮沢賢治散歩』上巻・下巻において社会科学的な視座により地道な調査に基づく考察と研究を行い継続的な研鑽が結実した功績に対して。 ■宮沢賢治賞奨励賞
加藤 碵一 □地質学の専門敵的知見を生かし、従来と現時点の用語・概念を対比して賢治作品を読み解き新たに位置づけた『宮沢賢治の地的世界』に対して。
中村 三春 □『係争中の主体』『修辞的モダニズム』の二冊中の賢治論において、賢治テクストの核心にパラドックス性を見る観点から生成を辿り、賢治テクストの様式論の方法を修辞の統合性に置き、新たな境地を示した貢献に対して。 ■イーハトーブ賞該当なし ■イーハトーブ賞奨励賞
ナンダ プラサト ウプレテイ □宮沢賢治の精神に共鳴しネパールに小学校を創設し、賢治の精神と作品を普及し児童教育に献身的に努力してきた功績に対して。 ■イーハトーブ賞奨励賞
「三朝温泉かじか蛙保存研究会」御舩道子 □絶滅に瀕したかじか蛙の保存運動に長年取組み、地域交流ならびにエコロジー教育に努力し、賢治、賢治精神発信の実践に対して。
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受賞者の略歴と
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【宮沢賢治賞】
■菊池 忠二(きくち ちゅうじ)氏
1926年12月4日、岩手県紫波町生まれ。 □菊池忠二氏の業績について 2006年3月に刊行された『私の賢治散歩』上巻・下巻の29編の論考のうち花巻市出身の佐藤寛による賢治研究会の機関誌だった『四次元』に12編発表し、その後の『賢治研究』に8編投稿しており、地元に住む研究者ならでの種々のテーマに沿った実地検証を行っているが、主として羅須地人協会時代の賢治の運動、創作をテーマに協会員の証言に耳を傾け資料の検証を行っている。「農耕生活の経済的基盤」において賢治の自活の経済内容を考察し、協会の特色にも迫り地味な論考であるが経済学史的な観点が反映している。また「岩手国民高等学校と「農民芸術」論」においては岩手国民高等学校の概略が明確にされ「農民芸術概論」が生成されていく詳細が記述されている。また「賢治と天皇制国家主義について」「伊藤与蔵への手紙」については従来議論された事柄がさらに深化して論究し、学問上真実に迫る論考と思考を行っており独自性を発揮している。 【宮沢賢治賞奨励賞】
■加藤 碵一(かとう ひろかず)氏
1947年9月14日、神奈川県横浜市生まれ。 □加藤碵一氏の業績について 加藤碵一氏は地質学者として実際に盛岡高等農林学校地質関係蔵書を調査し、賢治の在籍した関豊太郎教授の豊富な岩石・鉱物類の標本を実際に検分した。さらに賢治採集岩石標本の調査を行い、南昌山をはじめとした野外調査に基づき、可能な限り賢治の時代と現代の地質学的知見を対比させて論じ、賢治作品中の位置付けをしている。「函館港春夜光景」の『ヲダルハコダテガスタルダイト ハコダテネムロインディコライト』という表現が、賢治が知っていたであろう鉱物名に由来することなど、賢治の詩のリズム感と豊かな造語能力を指摘し、理路整然とした知見の展開が評価された。 【宮沢賢治賞奨励賞】
■中村 三春(なかむら みはる)氏
1958年12月3日岩手県釜石市生まれ。 □中村三春氏の業績について 『係争中の主体 漱石・太宰・賢治』(翰林書房)においては論述および叙述の主体性は複数あるのが論理の道筋ととらえ、不安定さや二律背反性を文芸テクストの本質とみなし、矛盾するメッセージが同時に存在することを、テクスト分析して述べている。「風野又三郎」から「風の又三郎」の草稿推移をパラドックス性の観点から論じており、鮮烈な論理展開を行っている。 『修辞的モダニズム テクスト様式論の試み』(ひつじ書房)では、様式の方法を「作品からテクスト」の方向に従って展開。文体やレトリックにこだわる手法によって、賢治のモダニズム文芸として論じている。『春と修羅』、『銀河鉄道の夜』において分裂をはらんだ統合のレトリックに着目し論が展開されたことが評価され、更に本格的な評論が期待される。 【イーハトーブ賞】■該当者なし 【イーハトーブ奨励賞】
■ナンダ プラサド ウプレティ(なんだ ぷらさど うぷれてぃ)氏
1966年6月29日、ネパール 東部 イラム生まれ。 □ナンダ プラサド ウプレティ氏の業績について ナンダ プラサド ウプレティ氏は1997年に青年交流事業で来日し、一週間岩手県滞在した際に花巻を訪問。賢治の偉大さ、作品の素晴らしさに深く感銘を受けた。仏陀の生誕地ネパールでこそ紹介されるべきであり、彼の思想哲学はわれわれを善に導き助け合うこと・世界を良くしていくことを、世代から世代へ伝える必要があるという信念から、ケンジ インターナショナル スクールを私財を投じて創設した。創立当初は8名の生徒であったが、現在は152名となった。 9月21日には賢治祭を行い、校歌にも賢治の名前が登場する。2006年10月には花巻小学校と姉妹校となり、相互に賢治作品を読んで絵画やDVDの交換を行っており、国際交流の進展も期待される。 【イーハトーブ奨励賞】
■御舩 道子(みふね みちこ)氏
1929年11月7日生まれ。 □御舩道子氏の業績について 「三朝温泉かじか蛙保存研究会」御舩道子さんは、かじか蛙の鳴き声に耳を傾け、その美しい音色を愛し、多くの生命を育ててきた清流を次の世代に引き継ぐことを願い川を守り育てて27年になる。毎年6月には「かじか蛙の声を聞く夕べ」を開催。参加者には俳句短歌を発表してもらい、ろうそく200本、夜のあかりの風景の中で美しい声で鳴くかじか蛙の歌声を聞く会を開き、かじか蛙を広く一般に紹介してきた。 また、かじか蛙が住める美しい川と水源と森林を守るため17年前から広葉樹を主体として、三朝の小学生や希望者とともに植樹活動を行っている。小学生はかじか蛙の飼育、観察、放流を行い、生命の美しさを育み、また、環境保全にも成果があがっており、地域住民の交流をさかんに行っている。自宅の資料館「カンパネルラの館」から賢治の友人であった実父・河本緑石(義行)と賢治との友情を顕彰し、賢治精神を発信していることが評価された。 ■宮沢賢治賞
■イーハトーブ賞
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イーハトーブ 〈建物〉学 |
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| 投稿エッセイ |
方十里の歌田中 良則 宮沢賢治が、大正七年に保阪嘉内あての手紙で、今来年中に読もうと思っている本と書いている中に、日下部四郎太著『物理学汎論』がある。賢治が読んだ本だからと思って読みはじめたら、「第一章量之測定及単位」のところに、次のようなことが書いてあった。長さの単位に里、丁、間、尺があると同時に、面積の単位にも里、町、段、畝、歩とあり、里は同一の文字を使用する。そこで支那の日記には、これを区別するために前者は単に一里と書き、後者は方一里と書いている。と、いうのである。 これを読んで「方十里稗貫のみかも稲熟れてみまつり三日空晴れわたる」の歌の方十里は、方一里の十倍のことではないかと思った。 私は、なんとなく方十里というのは十里四方のことだと思っていた。参考までに『新宮澤賢治語彙辞典』をひいてみても、そのように書かれている。しかし、方十里というのは面積で十里というように解するのが、よいと思われてきた。 詩吟の本で、乃木希典の「金州城外作」という漢詩を読んだが、「山川草木転た荒涼 十里風腥し新戦場……」という文句がある。この十里は面積のことだろう。それは新戦場のだいたいの広さなのであろう。 方十里というのはどれくらいの面積かというと、方一里が三十六町だから、方十里は三百六十町である。一町が三千坪とすると、坪数にして百八万坪になる。 また、一町が九九.二アールとすると三五六四七アールとなる。一アールは百平方メートルだから三五六四七〇〇平方メートルとなる。すると、この面積は二キロメートル四方よりも小さい広さである。 以上の方十里の解釈にあやまりがなければ方十里は賢治が実見した水田のひろがりの大きさであったと想像される。その方十里の水田の豊作から、稗貫群の水田の豊作を知り、さらに広い範囲に賢治の思いはひろがっていったであろう。 インターネットで調べると方十里の語は、たくさんあるが、方一里の十倍か、それとも一辺が十里の正方形の面積なのかは、まだよくわからない。しかし、方一里の十倍くらいの広さをさしていると思われる例はある。若山牧水の文章に「富士の南麓もあたり裾野を大野原と呼ぶ、方十里にも及びたらむか、見る限りの大野原なり。」とあるが、これだと広くて四キロメートル四方くらいであろう。賢治と同時代の文章例からすると、方十里というのは、四十キロメートル四方ではないようである。さらに調べてみたい。わかる人は教えて下さい。 (徳島県阿南市)
工学士異聞中村 節也
大正十五年の暮れのこと、上京中の賢治が父に宛てた書簡に「…午後五時に丸ビルの中の旭光社といふラヂオ事務所で工学士の先生からエスペラントを教はり…」とある。 日本エスペラント学会は一九一九年小坂狷二によって創立され、今年で八十八年の歴史があるが、日本では早くも二十世紀初頭には二葉亭四迷などの運動によって普及されていた。一九〇五年に第一回世界エスペラント大会が開催された。日本はかなり先進的だったといえよう。大正デモクラシーとエスペラントは密接な関連がある。当時の文化人の多くはエスペラントの洗礼をうけたようである。ところが自由が制圧される暗黒の時代ともなると、本来無国籍な「世界共通語」は迫害の憂き目にあう。かっての大杉栄も出口王仁三郎もエスペランティストであった。 小坂狷二は鉄道車輌学の専門家である。著名なエンジニアとして工学関係の専門書までエスペラントで書いた本を見たことがある。著作の「エスペラント捷径」は入門書、また独習書としてロングセラーの一冊だった。氏のエス訳「万葉集」は名訳のひとつ、つまり日本のエスペラント運動の最大の功績者として第一に挙げられるひとであろう。そんなわけで「工学士の先生にエスペラントを教はり…」といえば、まず小坂先生を彷彿するのがしぜんで、井上ひさし氏も劇作「イーハトーボの劇列車」のなかで、菊坂町の賢治の下宿部屋にまで小坂先生を登場させ、それを官権が尾行する…、またおなじ井上氏の「紙屋町さくらホテル」では特高警察がつきまとう手法も亦同様である。 一九六七年六月に私は“EL POEMOJ DE L'MONTOJ PER MI”(わが山の詩)という自作エスペラント詩に作曲した歌曲を日大芸術学部で発表したことがあった。当時私はエス学会の会員でもあったので、まえもってエス学会にそのことを連絡しておいた。コンサートの当日学会の三宅史平先生も聴きに来られて、たいへん恐縮したことを覚えている。すこしばかり交わした会話のなかで賢治のことに触れたが、三宅先生がふと漏らした言葉に「旭光社の先生は工学士ではなく法学士だ」と話された。終演後の慌ただしいときでもあったし、多く聞くことができなかったのは今もって残念なことであった。三宅先生はその人物をご存じだったとおもう。ラヂオ関係の事務所だから工学士がいるのはむしろ当然、と片付けていたのが私の迂闊で、実際の旭光社は外国語の輸入図書販売店であり、ラヂオ関係はサイドビジネスだった。 三宅先生の没後エス学会の人に問い合わせてみたところ、大正十五年の暮れは小坂先生は外遊中であり、旭光社の先生は法学士との返事が返ってきた。したがって三宅先生の話は間違いではなく、工学士と法学士の相違は賢治の聞き違えということになる。 かって東洋一を誇った旧丸ビルは一九九九年取り壊され、現在は地上一八〇メートル三十七階の超高層ビルに生まれ変わったが、低層部分は旧丸ビルの外観の面影をとどめているのが、旧世代の私にはせめてもの慰みである。 (東京都北区)
「銀河鉄道の夜」のこちら側太田 浩幸 昨年、イーハトーブセンターに立ち寄ったさい、『宮沢賢治「銀河鉄道の夜」の原稿のすべて』を買い求めた。 賢治のいくつかの自筆原稿の様子は、全集等で眼にしていたが、本作品、全八十三葉すべてに触れてみると、改めて賢治の創作課程のすさまじさを知った思いであった。 私がこの自筆稿の中で特に気になったのが、紙葉第七十六葉の最終行である。 この部分は、初期形第三次稿として、新修全集には、次のように収録されている。一行前の途中から引用すると、 ──あゝごらん、あすこにプレシオスが見える。おまへはあのプレシオスの鎖を解かなければならない── 引用した部分を自筆稿、第七十六葉で確認すると、《おまへはあの》と《プレシオスの鎖》との間に、カナで《アルテ》と読める箇所が、鉛筆による棒線で削除されている。 校本・新校本全集ともに、校異において、 この《アルテ》とは、一体何を意味しているのだろうか。 賢治の思考の過程を凡人である私が推し量るのも無理があるのだが、頭に噛んだ事柄を述べたいと思う。 《アルテ》以下につづくプレシオスを実在の星団プレアデスとすれば、《アルテ》とは、ギリシャ神話の中で、プレアデス七人姉妹が仕えたとされる女神アルテミスのことなのだろうか? または、実際にプレアデス星団の近くで輝く一等星、アルデバランの書きかけなのであろうか? 両者とは、全くかけ離れた語句なのであろうか。 《アルテ》以下につづく、なんらかの語句で、《プレシオスの鎖》部分の補足的エピソードの導入を一時、企てたのだろうか。 私の無軌道な解釈は、連鎖的に疑問と謎を生み、止まるところを知らない。 結局のところ、賢治のみぞ知ると、いったところだろうか。 しかしながら、こうした自筆稿のなかの様々な試行の痕跡を、読み手が見てとる事によって、「銀河鉄道の夜」における賢治の深遠なる思考の一端に、触れられる機会を与えられたようでもある。 私にとっては、本作品のみならず、賢治によって編みだされた数多くの作品のなかの言葉が、互いに、不思議な響きをもって共鳴しているようにも感じられるのである。 そうした響きは一方では、普遍的な調べを奏で、他方では、まるで、「賢治の活動した時代」をそのまま[標本]にでもしたように、生き生きとした調べを奏でている。 ある種のハーモニーの様なものとでもいったらいいだろうか。 賢治作品に触れることの私の最大の愉しみは、そうしたハーモニーのような響きを感じることなのである。 (福島県西白河郡) 参考文献
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