宮沢賢治学会・会報第36号

小十郎はなぜかもう胸がいっぱいになってもう一 ぺん向ふの谷の白い雪のやうな花と余念なく月光 をあびて立ってゐる母子の熊をちらっと見てそれ から音をたてないやうにこっそりこっそり戻りは じめた。風があっちへ行くな行くなと思ひながら そろそろと小十郎は後退りした。くろもじの木の 匂が月のあかりといっしょにすうっとさした。

(「なめとこ山の熊」)

表紙写真 岩手日報購読者メディアセンター


第36号●熊
2008年3月31日発行
  1. 「光・風・水」畑中 純
  2. 報告
  3. イーハトーブ〈博物〉学
  4. 投稿&投稿エッセイ
  5. テクスト・クローズアップ(28) 天沢退二郎
  6. 宮沢賢治資料(41) 杉浦 静
  7. 夏季特設セミナー「長期企画「風の又三郎」の謎に迫る(第四回)」
  8. 冬季セミナー「宮沢賢治的建築学」
  9. 新刊案内
  10. 追悼・力丸光雄さんを悼む

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光・風・水

畑中 純

そらの散乱反射のなかに
古ぼけて黒くゑぐるもの
ひかりの微麈系列の底に
きたなくしろく澱むもの

 賢治さんの四行詩「岩手山」の視点の自在さ、造形の確かさはどうだろう。風の目になって吹き抜けていく壮快感があり、 同時に仏の慈悲に包みこまれてどっしりと坐った存在感もある。ただ、今回接した岩手山は、くたびれ果てて病院のベッドに横たわる自分の姿にも思えた。

どうも変だった。十年程前から一年に一、二度、ひどい倦怠感、酸欠で体が動かなくなっていた。知人の追悼会に急ぐ坂道で、真夏日に息せき切って掛けつけた上野の博物館で、調子に乗って二時間半も講演でしゃべった後で、本を買いすぎてから立ち寄った逓信博物館で、薪を担いで河原に降りていた奥多摩の遊歩道で… うっ、おかしい、水くれ、風くれ、ちょっと寝かせてくれ、と、なっていた。過労からきているのだろう、熱中症だろう、と勝手に決めていた。以前、左肘にヒビが入っていたらしい時も、三日間うなって一ヵ月不自由したが自然治癒にまかせたことがある。骨折したことがないから痛さの度合が分からなかった…では済まされないことだけどね。ある日、だるいだけではなく、心臓がギュンと痛んでキャンと泣いた。ご近所の先生の見立て通り、冠動脈の一本が詰まっていて、金属を入れて広げる手術をしたのだった。

 貰った命、といえば五八歳の若僧が、その程度の手術で何を大ゲサなと笑われるかも知れない。が、私にとっては、この入院が生活の変調に抗っていた気分に一ツの結論を出した。あるがままの自分を受け入れて、ゆっくり、じっくりのサイクルに移行し、納得することだ。長年マンガを描き続ける生活に身も心も動脈硬化を起こしていた。新たな光と風と水を求めていたのだろうし、同時に抱え込みすぎた欲望を出来るだけふるい落として身軽になる必要を感じた。全部は捨てない。欲望こそが生命力だから。

 幾つかの継続中の作品、家族と友人と猫たちとの変わらぬ付き合い、故郷とマンガ界へささやかなお礼、など、捨てられない重要課題を指折る中に私のマンガの師表として娯楽として今日まで興味対象であり続けた人物の版画作品化が大きく立ちあがってきている。その代表格が宮沢賢治さんだ。自分の足跡に熱を入れるのは、老いに突入した証拠かもしれないが、今、体感しなければいけない場所は、一に生まれ育った町内、次にイーハトーブだと、これもまた病院のベッドで決めた。

 そうだ、風の又三郎に会いに行こう。二〇〇八年の東京でも会えなくないけど、ここはやっぱりイーハトーブだ。それも二五年前に子供達を連れて歩いた所を追経験するのがいい。花巻のイギリス海岸、羅須地人協会、賢治記念館の周辺、花巻温泉、それから小岩井農場。岩手山を眺める場所は小岩井農場がいいだろう。

わたくしはずゐぶんすばやく汽車からおりた
そのために雲がぎらつとひかつたくらゐだ
             小岩井農場 パート一

 過去二回小岩井駅に降り立ったが、一度は慌てていて、もう一度は忘れていて雲はひからなかった。今度ぎらっとひかるのは風の又三郎だと思う。悩みや悪徳や、醜いものを凝視しすぎて濁った心も、まだあるかもしれない身体の故障も、一向に光明の見えない不景気の暗雲も”どっどど どどうど どどうどどどう“と全部吹き飛ばしてくれ。そして、ちょっとでいいから”すきとほつたほんたうのたべもの“をくれ。このごろインチキな食べ物も多いし、私はカロリー制限していますから。

 注文が多すぎて又三郎さんに嫌われますか?



【報告】
第十八回定期大会

二〇〇七年度定期大会が会員他一五〇名の参加を得て、昨年九月二十二日と二十三日の二日間にわたって、花巻市のNAHANプラザ、宮沢賢治イーハトーブ館を会場に開催されました。大会の様子をご報告いたします。


第17回宮沢賢治賞・イーハトーブ賞贈呈式

 今年も例年どおり九月二十二日に、午前十時から花巻市主催による第十七回宮沢賢治賞・イーハトーブ賞贈呈式がNAHANプラザにて開催されました。土曜日という日程にも恵まれ、全国から多くの方がお祝いにかけつけ会場は満席となりました。

 今回の宮沢賢治賞は、社会科学的な視座により地道な調査に基づく考察と研究を行い継続的な研鑽が結実した功績から、著書『私の賢治散歩』上下巻に対して菊池忠二さんに贈られました。

 また宮沢賢治賞奨励賞としては、地質学の専門的知見を生かし、従来と現時点の用語・概念を対比して賢治作品を読み解き、新たに位置づけた著書『宮澤賢治の地的世界』に対して加藤碵一さんと、『係争中の主体』『修辞的モダニズム』の二冊中の賢治論において、賢治テクストの核心にパラドックス性をみる観点から生成を辿り、賢治テクストの様式論の方法を修辞の統合性に置き、新たな境地を示した貢献に対して中村三春さんへ、それぞれ贈られました。

 なお、今回はイーハトーブ賞の該当はありませんでしたが、イーハトーブ賞奨励賞として宮沢賢治の精神に共鳴しネパールに小学校を創設し、賢治の精神と作品を普及し児童教育に献身的に努力してきた功績に対してナンダ・プラサド・ウプレティさん、絶滅に瀕したかじか蛙保存運動に長年取組み、地域交流ならびにエコロジー教育に努力し、賢治精神発信の実践に対して御舩道子さんのお二人が受賞されました。

 大石満雄花巻市長から賞が贈られ、各受賞者からのスピーチ、その後、本賞受賞者の菊池忠二さんによる受賞記念講演、最後は、元学会理事の宮城一男さんの御息女、弘美さんによる「スライド読本「イギリス海岸」」の上映が行われ閉幕となりました。

 なお、宮沢賢治賞受賞の菊池忠二さんによる記念講演の内容につきましては、本号に掲載しているとともに、受賞者の皆さんの横顔につきましては、会報三十五号にて紹介しておりますのでご参照ください。


定期総会

 午後一時半より定期総会が行われました。出席会員の中から花巻市の押切郁さんを議長に選出した後、議事に入り二〇〇六年度事業報告及び収支決算が原案どおり承認、続いての二〇〇七年度事業計画及び収支予算についても原案どおり可決されました。

 議案の最後の役員改選については理事会より提案された改選案について審議され、訂正を加えることで可決されました。この議事で可決された規程が、次回の理事選出に適用されます。


賢治研究リレー講演

 恒例のリレー講演は、持ち時間一人十五分という中で、宮沢賢治賞奨励賞・イーハトーブ賞奨励賞の方々からそれぞれの賢治をテーマに内容の濃いお話をしていただきました。講演の要旨は本号に掲載しております。


イーハトーブ・サロン−私と賢治−

 参加者が気軽に所感を述べ合う本コーナーでは、参加会員の中から十名の方々が登壇され、一人五分ずつのスピーチをいただきました。今年は記念品として『賢治のイーハトーブ花巻―ゆかりの地ガイドブック―』(イーハトーブ館猫の事務所)が贈呈されました。登壇いただいたのは次の方々です。

 岡部和保さん(神奈川)、平野利幸さん(岩手)、キティズ・ギミラさん(ネパール)、高橋進さん(岩手)、吉浦伸二さん(東京)、藤原道子さん(東京)、浅沼利一郎さん(大迫)、大口栄一さん(石川)、佐藤成さん(宮城)、鈴木努さん(宮城)。


会員交流・懇親会

 恒例の会員交流・懇親会は、はじめに天沢代表理事、そして及川花巻市教育長の挨拶があり、森副代表理事の乾杯の音頭の後、歓談に移りました。

 今回のイーハトーブ料理メニューは、「ポランの広場の秋まつり」をテーマに、「水」「山羊の乳」「ハム」「パン」などといった童話中に登場する多くの食材から作られた料理が並べられました。毎年恒例となった中野由貴さんによる「メニュー解説」や、宮沢賢治賞・イーハトーブ賞受賞の各皆様をはじめ遠方から来られた会員の皆様のお話と続き、楽しいときは瞬く間に過ぎていきました。


研究発表

 二日目は、会場をイーハトーブ館に移しての研究発表です。今回も応募者多数により、一階ホールと二階講義室の二会場開催となり、午前九時半から一人三十分の持ち時間で十人の発表がありました。研究発表者と発表題目は次のとおりです。

A会場(イーハトーブ館ホール)

  1. 福士春男
    宮沢賢治のトランスパーソナル心理学者的側面
  2. 八重樫新治
    「雨ニモマケズ」を手帳から読む・その2 正しく読めば見えてくる修羅の姿
  3. 小林俊子
    宮沢賢治の慣習的オノマトペによる表現―〈繰り返し〉と〈組み合わせ〉
  4. 稲垣大助
    ディベート的観点からみる「ビヂテリアン大祭」
  5. 高橋直美
    「銀河鉄道の夜」の風景―道教の星祭と孟蘭盆会

B会場(イーハトーブ館講義室)

  1. 望月善次
    「歌稿〔B〕脱落歌」から見た賢治歌稿の意味.「青びとのながれ」を中心として
  2. 石島崇男
    詩「住居」の生成過程についての一試論―ベートーベン「第九」交響曲の意味―
  3. 一戸良行
    賢治「春と修羅」の教理学的論考
  4. 小野寺賢一
    【風の又三郎】考.「ちょうはあかぐり」の謎に迫る.
  5. 泉澤竹男
    カメラから見た作品関連の地など


第17回
宮沢賢治賞・
イーハトーブ賞
受賞者あいさつ


宮沢賢治賞受賞

菊池 忠二


副級長の見た賢治の姿

 ここに一冊の本がある。題名は『思い出の山川・思い出のまち・思い出の人々』(A4版三七〇頁)。著者は塩井義郎、その自伝である。大正四年盛岡高農に入学した時、賢治が級長、塩井は副級長の間柄であった。塩井は三重県松阪の出身で、県立一中から現役で入学し、卒業後はすぐ渡米し、十九年間農園・造園業をやり、昭和十二年に帰国後は、宮城・岩手の中学や農学校で英語教師となり、敗戦後に日詰農学校(現紫波高校)へ転勤、ここに永住することとなった。

 私は昭和四十三年頃、九州の高校教諭・境忠一(『評伝宮沢賢治』の著者、のち立正大教授)を案内して、七十歳の塩井と会った。取っ付きはよくなかったが、賢治関係を聞くとテキパキ答え、記憶力の良さと頭脳の明晰さを感じた。

 この本は塩井の晩年に書かれたもので、その中から次の三点を取り上げてみたい。

 一つは、高農一年の秋に賢治と二人で、小岩井農場へ散策に行った帰り道で、「世界中の人が皆幸福にならなければ、個人の幸福はありえません」と賢治が語った。

 当時の学生たちは、みな自分だけの成功を夢みていた時に、「宮沢君の言ったことが、ひどく耳新しく面白い考え方だと思った」ので、記憶していたという。

 今から六年前に、詩人・評論家の宗左近が主宰する塾で、塾生の一人から「世界の人がみな幸福にならないうちは、個人の幸福がありえないとするならば、私たち個人は、いつまでたっても幸福になれないのではありませんか」と質問された。

 これに対し宗は、「個人がみな幸福にならないうちは、世界が幸福にはなりえない」と答えた。という記事がある新聞のコラムに出ていた。ニューヨークのテロ事件後のことであった。このまるで相反する意見を、私はどう関連づけ、解釈したらよいのか、よく分かりかねている。

 それに「世界がぜんたい幸福に」という賢治の言葉が、「世界ぜんたいが幸福に」と、誤用されることが多い。かつて私の同僚だったN氏は、この”ぜんたい“という言葉が、幸福の意味を強調するもので、全体主義のぜんたいではないことを論証している。

 次に塩井の自伝からは、リベラルな考え方が伝わってくる。特に彼は生徒の成績に赤点をつけなかった。卒業時の就職でいつも問題になるからであった。私もこれには大いに同調した。しかし問題は、塩井がアメリカや教師時代を貫いて、日本人としての精神的な独自性の根拠を、「教育勅語」に求めている点である。

 ところが賢治は、国柱会員でありながら逆に天皇制を相対化しており、むしろ平民宰相の原敬に近い考え方だと、最近私は気がついた。

 明治維新の戊辰戦争では、薩長中心の官軍に対して、盛岡南部藩は賊軍とされ、会津藩に次ぐひどい処罰を受けている。

 賢治の祖父喜助は、若い時新渡戸稲造の祖父伝の三本木開拓を手伝っており、二十八歳で維新を迎えた。賢治が幼少時から、維新にまつわる裏話を祖父から聞いた影響が、あるのではないかと私は推測している。

 三つめは、昭和二十七年頃の日詰高校職員室で、国語教師へ生徒がきて、「先生、宮沢賢治の羅須地人協会のラスって、どういう意味ですか」と質問した。向かいにいた塩井が、「ラスか、ちょっと待ってよ」とすぐ辞書をしらべ、「それはlassで、イギリスのスコットランド地方で、詩などによく使われる乙女とか、未婚の娘、恋人の女性の意味だよ」と教えた。

 塩井は三年間賢治と机を並べて、「宮沢君はまことに純真で真面目な人だったが、反面、英語やドイツ語、エスペラント語の辞書から面白い言葉を見つけては喜んでいる、茶目っ気のある人だった」と回想している(「イーハトーブ短信」25号)。

 この塩井説をひきついで、前記のN氏が、このlassは賢治の妹トシであると、鋭く指摘している。菅谷規矩雄氏も『宮沢賢治序説』で、”妹の菩堤を弔うためトシの霊と、自分で(羅須地人)協会をつくった“と述べている。

 賢治は初恋の看護婦名と、ラスの語義についてだけ、生涯沈黙を守った。ラスの語義解釈は多種に及んでいるが、私はこの塩井説プラスN氏説が、最も賢治の真意に近いものだろうと考えている。

 以上、副級長塩井の回想を通じて、賢治の問題点を三つ取り上げてみた。



第18回
定期リレー講演
(要旨)


賢治を「物語」から救済すること

中村 三春


 宮澤賢治は、有名な『注文の多い料理店』の「序」で、「なんのことだか、わけのわからないところもあるでせうが、そんなところは、わたくしにもまた、わけがわからないのです」と述べています。賢治の作品は、「わけがわからない」ものに覆われていると考えられます。ここでは、賢治作品の「わけのわからなさ」が、いかに彼の文芸において本質的な事柄であるかについて、私の考えを述べます。

 理解できるということは、言葉による象徴的な場である作品を、ある実体、すなわち物語という実体として再構成するということです。それは、事実と同じ力を持って私たちに迫ります。私たちは、よだかやホモイやジョバンニの運命に心を動かされます。しかし、物語そのものが、その物語が確実なものでないことを表明している場合はどうでしょうか。「茨海小学校」や「ポラーノの広場」がその例です。物語なるものは、賢治作品にとって最終的な境地ではないのです。それらは、自らが虚構=フィクションであることを同時に語っています。物語の構造の内部にまで分け入って、その先にまで及ぶ言葉の豊かさを見せつけてくれる、それが賢治のテクストなのです。

 また、賢治という人は、どうやら、きちんとした順序数の秩序を嫌う傾向があったようです。「小岩井農場」「オツベルと象」「風の又三郎」などには、章番号が飛び飛びになる箇所があります。それらは単なる省略ではありません。これは省略という名の表現なのであり、すなわち賢治作品は、順序数的秩序で構築されるような完成を嫌うのです。それは、自己と他者との間のコミュニケーションのあり方を問い直そうとするテクストに対して、最も外側のところで大枠をはめているのです。

 物語を完成させないこと、それは言うまでもなく、何度も書き変え書き直し、同じタイトルの別のヴァージョンを次々と量産していった賢治のテクスト生成の方法に通じます。もしかしたら賢治は、よりよいテクストを作ろうと思って推敲を重ねたのではないのかも知れない。その行為は、物語が完成することへの恐れ、あるいは、完成された物語を核とするようなテクストへの否定をも含んでいたのかも知れません。そのことは、推敲とともに、物語じたいの内部にも書き込まれていることがあります。「毒もみのすきな署長さん」「ビヂテリアン大祭」「風の又三郎」では、意想外の結末や、真相の不明が示唆されます。これらはいずれも、物語の完成に対する抵抗であり、一応完成された物語であっても、決してそれは真の完成ではない、と示唆する設定なのです。

 そのような完成への拒絶を、最も極端で典型的に示しているテクストは、「薤露青」です。「本稿は、いったん記されたのち、全面的に消しゴムで消されている」(『新校本全集』第三巻校異篇)。この抹消行為の書き込みによって、天・地・人が融合一体化する「薤露青」という美しい詩の内容は、肯定されたのか否定されたのか分からない状態に置かれます。完璧に完成した物語を、その完成度のままに、絶対的に相対化する。それが、見えるように消された「薤露青」というテクストの担ったメカニズムにほかなりません。

 私は賢治の作品群の中から、物語や詩を完成することに対する違和感を取り出してみました。「農民芸術概論綱要」の「結論」に、「われらに要るものは銀河を包む透明な意志巨きな力と熱である」云々、そして、「永久の未完成これ完成である」と書き付けたことを、賢治の愛読者ならば誰でも知っています。しかし、今まで、このフレーズが文字通りにとらえられたことはなかったのではないでしょうか。私は、賢治は実にこの命題を身をもって実践したのであり、その意義は、物語を「物語」から救済することによって、より広大で豊かな物語や言葉の可能性を拓こうとした、ということであろうと考えます。

 これからも私は、「宮澤賢治は○○である」というあらゆる断定に対して、「宮澤賢治は、決してそういうものではない」と言い続けていくような気がいたします。


宮澤賢治の地質―関豊太郎と早坂一郎を通して

加藤 碵一


 賢治作品の背景の重要な一部である彼の地質学に影響を与えた二人、すなわち盛岡高等農林学校での指導教官であり、「グスコーブドリの伝記」でクーボー大博士のモデルとされている関豊太郎と、例えば「銀河鉄道の夜」におけるプリオシン海岸で化石採集を指導監督していた学者のモデルとされている早坂一郎とのかかわりを若干紹介したい。

1.関豊太郎:明治二年東京牛込生まれ。明治二十二年に東京農林学校へ入学し、フェスカから土性調査法を、ケルネルから土壌肥料学を学んだ。フェスカは地質調査所の土性係長でもあり、彼の指導のもとに明治十八年に地質調査所から発行された十万分の一土性図第一号「甲斐国」は、わが国における土性調査の基本ともなるもので、盛岡高等農林学校の蔵書でもあり、後に関を通じて賢治の土性調査に影響したものである。明治二十五年に帝国大学農科大学を卒業し、明治三十八年に盛岡高等農林学校に赴任した。明治四十年頃から火山灰土壌の顕微鏡的分析に着手し、コロイド化学に関心を深めたが、これらは後に賢治と彼の作品世界に大きな影響を与えた。明治四十三年には、ドイツに留学してケルネルに再度師事し、火山灰土壌中に粘土鉱物の一種であるアロファン(独)を発見、さらに帰国後日本で始めて関東ロームと岩手火山灰中にも発見することになった。この成果は同年発行の盛岡高農校友会報二十一号に公表掲載され後に賢治も当然読んでいたはずである。

関が盛岡高等農林学校に赴任以来、なぜ初めて大正五年に賢治らに盛岡地域の地質土性調査指導をしたのかについては、以下の三つの理由が考えられる。

(1)地質調査に関する賢治の意欲と能力が関教授に高く評価されたこと

(2)山根新次(1915)1/20万「盛岡地質図幅」及び「盛岡図幅地質説明書」, 115p.地質調査所出版による当該地域の地質概要の把握

(3)地質調査に不可欠な1/5万地形図の発行(例えば「盛岡」は大正四年十二月二十八日大日本帝国測地測量部発行)によりルートマップ・地質図が作成可能となった。

・唯一残っている賢治作成の花巻西方地域のルートマップに記載されている英語の岩石名等のうち(以下、日本語は筆者訳)、「プロピライト・変朽安山岩・粒状安山岩」:propyr.→propylite、「多少ともプロピライト化作用を受けている」:more or lesspropyritized → more or less propylitized、「礫岩」Congromerate→conglomerateは、おのおの複数個所でrとlのスペルミスが見られることを指摘しておく。

2.早坂一郎:明治二十四年仙台市に生まれる(関二十二才、賢治生誕五年前)。大正元年に東北帝国大学理学部地質学古生物学教室第一期生として入学し、同四年東北帝国大学卒業、同大学院進学。大正六年中途退学して同講師、大正七年同助教授となる。同年理学博士論文「新潟県青梅石灰岩の地史学的(下部石炭系発見)研究」提出。

・東北地方における石炭系は当時発見されておらず賢治作品における「石炭紀」は仮想的・教科書的なイメージであるが、「地質時代」と「年代層序区分」が厳密に区分されているのは、賢治の地質学理解が深いことを意味する。例えば、『春と修羅』第一集「真空溶媒」(大正十一年)では「おれなどは石炭紀の鱗木のしたの」とあり、一方「種山ヶ原パート三」で「古い地質図の古生界に疑いをもつてゐた」と表現したことは正しい。

・大正十四年夏、「イギリス海岸」で化石バタグルミ調査を賢治の案内で実施し、翌年「岩手県花巻町産化石胡桃に就いて」(地学雑誌, 38, 55-64.)で賢治に謝辞を呈したことは知られている。その後台湾に赴任し、賢治と会う機会はなかった(昭和二十四年帰国)が、彼は、当時日本における生痕学の第一人者であり、「イギリス海岸」における足跡化石についての賢治の関心にも大きく影響したことが推測される。


かじか蛙と共に

三朝温泉かじか蛙保存研究会 会長 御舩 道子


 花巻市に来させて頂く様になり十七年になり、毎年九月二十一日が待ち遠く思っています。かじか蛙と共に遊び学ばせて頂いたそんな事を書かせて頂きます。私の住んでいる所は鳥取県三朝温泉の町中を流れる三徳川のそばで、河川工事や生活排水などで川が汚れ一時は激減していたのですが、今から三十年程前から四月中頃から美しいかじか蛙の鳴き声にみせられて五人程の人に声をかけ「かじか蛙の声を聞く会」を発足しました。

 かじか蛙は昔万葉集、文人などが夏の風物詩として詠んでいます。日本人の感受性を育んできた静寂にひとつの鮮やかなアクセントを刻んでいます。其の頃からかじか蛙が大変少なくなっていたのでかじか蛙を守り育てる事を考えました。かじか蛙を守る事は清流を守る事であります。源流を訪ねると国有林である森のの木が根元から切られ、緑のダムにしなければいけない森に杉や桧の苗が植えてあるのです。こんな事では源流の山としてはだめです。ショックを受け、二十年程すれば三徳川の水は無くなる、これではいけないからと考え、次の年から源流の山に一機奮発してと広葉樹を植えようという事になりました。しかし私達だけではなく町民の皆さんにも呼びかけようと「かじか蛙サミット」を開催し町民の皆さんに源山の状態を説明しました。自分たちの水を守るのはやはり自分達でしなければならないと、次の年から植樹をする事を決め、広葉樹を植え、其の年から毎年三朝の山に植えています。しかし源流の国有林は、民間人には植樹させてくれません。一番大事な深山に橅が植えられない事に心をいためています。今は里山に植えさせて頂いてます。

 今年で十七年になりますが、地元の小学校の子供等を中心に大人の人達も八十人程参加して下さいます。そして前年に植えた木にドングリが五ヶ実を付けていて、子供たちは大きな声で私に知らせてくれ、皆が写真を取ったり大歓声をあげ、すばらしい感動をし、すばらしい実体験をしたのです。山ならではの楽しい中で、大切な森と川と海とのつながりを子供達は知りました。植樹をする山に海の大漁旗を海からの応援の方たちにつけて頂き、青空の中にひらめく様は大感動でした。子供達はなぜ海の旗だろうと思った様ですが、其のつながりを話しをして納得してくれました。

 又かじか蛙の少なくなった事を小学校の子供達と話し合い、かじか蛙のお父さんかじかと、お母さんかじか蛙を、川に入り皆でさがし、持って帰り、水槽で飼う事になりました。それより本年まで八年学校で子供達に飼っていただいています。この間には色々な出来事があり、飼っているうちにお母さんかじかが死んで、皆なで涙をながし命の大切さとか命の問題を話し合ったり、性の問題が持ち上がったりして、とっても子供達の成長を感じました。こんな小さな生き物に愛情をかけて育てている事が本当に嬉しくなり、つくづく子供達とかじか蛙を飼って良かったと思いました。これからも、かじか蛙を通して地域の自然や水環境を考えたり、やはり温泉ですので他県からのお客様に此のすばらしい心をいやすかじか蛙の声を聞いて頂くために、毎年六月中は毎週一回ですが「かじか蛙の声を聞く夕べ」を開いて、川辺で来られた方に静かにかじか蛙の声を聞いていただき、俳句とか川柳を作って用意した短冊に書いて持って帰って頂いています。

 お客様はすばらしい声にびっくりしてよろこんで帰って行かれます。この様にかじか蛙の鳴き声は精神安定の波動が出ますので、医学的にも安心をかじか蛙は与えているのです。今大雨が降ると濁流が出て鉄砲水が出る時があり、一人一人が自覚し源流の森を皆で守り育だてる事が一番大切だと考えております。深山が昔の様なすばらしい山になる事が、私の大きな願いです。

 どうも有り難うございました。


宮沢賢治とケンジ・インターナショナルスクール

ナンダ プラサド ウプレティ


 ケンジ・インターナショナルスクールについて皆さんにお話したいと思います。この場に立ち、このような機会を与えていただいたことは、私にとって大きな喜びです。

 私は宮沢賢治を尊敬し、ネパールに彼の作品と名前を紹介したいという思いから、この学校の名前をつけました。初めての日本訪問で私は花巻市を訪ねる機会がありました。私は賢治さんのことを知ったとき、彼の並外れた高い人格に感銘を受け、わが国に、彼を紹介するために何らかの仕事をしよう思いました。賢治さんとは、第二の仏陀として紹介されるべき人ではないかと思います。そして、この仕事は仏陀の生誕の地、エベレスト山の膝元のネパールから始めるべきだと思いました。しかし当時、私のその考えが具体的に現実性があるのかどうかわかりませんでした。

 私は、花巻市訪問についての旅行記を「感動する岩手の始まり」、「賢治の故郷で」、「わが心の賢治、思い出の盛岡」という三つのトピックで執筆しています。しかし、その本だけで私は満足することはできず、彼を永遠に紹介したいと思ったのです。賢治は何代にもわたって知られるべきであり、彼が描いた道を歩こうと努力することは、人間にとってより良いことだと私は思います。

 彼の哲学は、我々自身を幸福にするために他の人々を助け、世界をより良くしようとするものなので受け入れることができます。彼の宗教や科学の理想像のおかげで、私たちは、人生をさらに良くすることができるのです。また、自然や環境についての彼の考えはとても評価できるものです。彼の理想は子供の頃から紹介されるべきだと私は思いました。彼は子供たちにとって、とても良い作家です。そこで、私はこの偉大な人を記念して学校を設立することを決めたのでした。

 私は、それまでの仕事を辞め、宮沢賢治の名前で学校を設立するために私の全財産を投じました。ケンジ・インターナショナルスクールは二〇〇〇年四月に貸ビルで開始され、現在もまだ同じ環境にあります。私はお茶やコーヒーなどをやめ、さらに節約するため、ホテルやバー、レストラン等で食事するのをやめました。今日まで私は全ての時間を奉仕活動として捧げています。私の妻は家計をやりくりするために稼いでいます。私の前には、様々な問題や困難がありましたが、強い決意と自信によって私は仕事を続けることができています。

 本校は今年から、日本語を教えることを始めました。このため生徒は日本という国とその社会について知ることが面白くなり励みとなっています。

 将来の計画として「賢治記念インターナショナルチャイルド図書館」を設立し、また、才能があり援助を必要としている生徒には奨学金を与えるように努めたいと考えております。さらに「賢治子供の園」というものをつくり、もし私たちが将来適切な設備を持つことができたら農業学校として発展させる計画も考えています。

 最近、私は宮沢賢治について、ネパール語で執筆するため、資料を収集しています。彼の絵本をつくりネパール語での翻訳をする予定です。この本はネパールの子供たちのための本になります。また、それによってケンジ・インターナショナルスクールは、ネパールで宮沢賢治を紹介するということに成功するでしょう。それがきっかけとなり世界中で彼を紹介する助けとなることを望んでいます。将来、宮沢賢治はより広く世界中の国々に知られるでしょう。多くの人々が宮沢賢治を知るようになり、そして世界をより幸福にするために、彼の思想に沿って努力していきたいと思います。その願いが叶ったときに、私は世界一、幸福な人間ではないかと思っています。ご静聴ありがとうございました。

(文責は事務局にあります)



イーハトーブ
〈博物〉学


鳥羽源蔵と賢治のこと

佐藤 成


 宮沢賢治に有形無形の影響を与えた博物学の泰斗鳥羽源蔵の存在を決して忘れることはできない。彼の大正十二年のポケット日記の中に「花巻町の内で 小舟渡という北上川の岸 イギリス海岸 花巻農校 宮沢賢治」とのメモがある。

 源蔵と賢治との直接の関りは、大正十一年賢治がイギリス海岸で発見したクルミの化石の同定を源蔵に依頼した事に始まる。(この化石は源蔵がかつて師事した東北帝大の早坂一郎博士のもとにおくられ、早坂によってバタグルミの化石であることが判明、大正十五年「地学雑誌」を通じ学会に発表された。)

 源蔵は岩手県博物界の太陽といわれた人、大正十一年から昭和二十年までの二十三年間、岩手師範学校で教鞭をとった県教育界の偉材である。また一方岩手県史蹟名勝天然記念物調査委員として、県内各地の調査申請指定など文化行政面にも顕著な功績を残している。

 岩手山・早池峰山高山植物帯、石割桜、厳美渓、椿島、碁石海岸など国の指定は岩手県内四十ヶ所にも及ぶ。中でも賢治が「春と修羅 第二集」「三三七 国立公園候補地に関する意見」の冒頭〈どうですか この鎔岸流は/……どういふわけで、/国立公園候補地に/みんなが運動せんですか/いや可能性/それは充分ありますよ〉と詩った焼走り鎔岩流は、後年源蔵の調査申請により昭和十九年国の天然記念物に指定され、続いて二十七年特別天然記念物となった。

 また博物学徒としての源蔵は植物学会、昆虫学会の重要なメンバーとして嘱望され、研究報文は植物・昆虫・鳥・貝など百六十余編を数え、特にも日本貝類学会創設に寄与、三十種を越す新種、変種、新品種を記録、早坂命名のシゾダストバイ始めトバと名のつくものにトバイシニナ、トバマイマイ、トバシヤヂグ、「トバスキー」をおもわせるトバニシキなどがある。

 ところで源蔵は明治五年一月、岩手県気仙郡小友村(現陸前高田市)に生まれ、小学校卒業後明治三十三年(二八歳)、小友小学校准訓導となったが明治四十一年(三六歳)抜擢され台湾総督府農事試験場技手として、テグス蚕試(飼)育調査に係わった。(彼は既に明治三〇年”テグス虫に就いて“の論文を発表している)この時の報文が台湾総督府殖産局発行(大・元)の『テグス蚕試育報告』である。任を解かれ四年後再び小友小学校に復職、大正十一年岩手師範学校たっての要請に応じ同校教諭心得として転じた。彼五十歳の五月である。この時賢治二十六歳稗貫農学校教諭に就任して数ヶ月、「イーハトーボ農学校の春」初稿執筆に取り組んでいた。

 賢治の童話「猫の事務所」の文中源蔵は、ベーリング地方有力者〈トバスキー・ゲンゾスキーとして登場、徳望あり。財産家、……眼光炯々たり。〉と象徴され、「ポラーノの広場」ではモリーオ市の博物局員〈前十七等官 レオーノキュースト〉を連想させる。博物館長、学芸員などを”キュレーター(curator)“というからキューストはそのもじりといってもおかしくあるまい。(キューストは役所の中でも下の方、源蔵自身も大正末年まで教諭心得であった)

 本文中の〈五、センダード市の毒蛾〉短編「毒蛾」に描かれた毒蛾発生騒ぎや、毒蛾に刺された人の手当に使われた薬は〈「アムモニア二%液」と親方が落ち着いて答へました。〉とある事などは、大正十一年夏盛岡を中心に大発生した毒蛾について源蔵が「岩手日報」「岩手毎日新聞」に発表した「毒蛾の発生」「恐ろしい毒蛾の乱舞」が素材となったものであり、更には「グスコーブドリの伝記」〈二、てぐす工場〉の章、ブドリが見附けた〈古いボール紙の函〉の中の〈本のまねをして字を書いたり図をうつしたりしてその冬を暮らしました〉というその本は、前記『テグス蚕試育報告』がモデルになったと考えられる。寓話「鳥箱先生とフウねずみ」の鳥箱先生は「鼠の事共」という論考がある島羽源蔵先生の風刺表現であろう。

 此のように源蔵の研究成果は賢治にとって直接的或いは間接的に意義のある情報源となっていたことは否めない事実であったと思惟できよう。

 拙著『証言宮澤賢治先生』私考「賢治と源蔵とバタグルミ」を参照願えれば幸甚である。

(宮城県仙台市)


鳥羽源蔵

明治五年(一八七二)一月二十日生
「岩手県気仙郡小友村(現、陸前高田市小友町)字谷地館三十六番地」
昭和二十一年(一九四六)五月二十三日死去(享年七四)
「孝順院大究清源居士」

資料提供 海と貝のミュージアム



投稿エッセイ


賢治のことば散策
「それ一芸あるものはすがたみにくし」

白木 健一


 童話「とっこべとら子」第一話に出てくる、侍が唸る謡曲のようなへんなものの文句です。秋の十五夜の晩に、欲張りの金貸し六平は、狐が化けた侍から、本当は砂利俵の千両箱をあずかって背負い、余りの重さによたよた歩きだします。そして侍は扇をかざして月に向かって、

「それ一芸あるものはすがたみにくし、」
と何だか謡曲のようなへんなものを低くうなりながら向ふへ歩いて行きました。
となります、この侍の文句は何となしに逆説めいてきになる言葉です。

 この言葉は謡曲の中には見当たらず賢治の独創ではないかと『新宮澤賢治語彙辞典』には記されています。

 似たような意味合いの言葉は心象スケッチ「春と修羅」第二集の「告別」に

……おれは
すこしぐらゐの仕事ができて
そいつに腰をかけてるやうな
そんな多数をいちばんいやにおもふのだ
とあり、賢治は心に宿る主張を、狐が化けた侍に語らせたのだろう思います。

 一芸や仕事等の業績を身についたもののように思い、慢心や怠りの心を持つのは、砂利を小判と思って満足しているようで醜い、という批判でしょうか?

 ちなみに、狐と人が主人公の童話は、満月の夜の「雪渡り」と、太陰暦が支配する狐社会の「茨海小学校」があります。いずれの童話でも賢い狐が登場し、後者では「最高の偽(うそ)は正直なり」などといった警句を発します。

(東京都世田谷区)


「市蔵」と「とっこべとら子」について

高橋 進


 必要があり、「二郡見聞私記」という、江戸時代の花巻地方の話を集めたもの(南部叢書第九冊所収)を読んでいたら宮沢賢治の童話に出てくる人名(?)二個に出会った。

 一つは、「市蔵」と言う名前だ。承知のように、この名前は「よだかの星」に出てくる名前で、よだかという名を「市蔵」 に変えろと、鷹に強要された名前である。

 私記の巻二に「市蔵から事」と題されている。

 話の内容は、宝暦年中に豊沢町の染物屋の使用人に市蔵という、七十余歳の独身の者がいた。この男は佛神を信仰し、毎年、高山参詣を欠かしたことがない。中にも岩手山、早池峰山、釜石の尾崎には杉を植えたいと思い、毎年春、杉苗を持っていった。宝暦十三年のことだが、例年の通り岩手山へ参詣しようとして五月二十二日出発し、柳沢別当 云々。という話である。

 これを見て、アレッと思った。賢治自身の行動に大分ダブルところがあるような気がする。それに、よだかの星に出てくる名前ではないか。と。

 話の最後は、十三年の参詣の時、財布を盗まれた市蔵が、岩手山の加護により、無事、財布が戻ってきたという他愛ない結論であるが。既に恩田逸夫が「市蔵という名前」の論考(『宮沢賢治論3 童話研究他』所収)において、「市蔵」という名前については、一つの結論を出している。が、しかし、この私記を読んだ今、名前そのものの出所は、この物語の豊沢町の「市蔵」だったのではないだろうか、と思われてきた。念のため、他に「市蔵」という名前に言及した論文等はないかとさがした。遠藤祐が『宮沢賢治の〈ファンタジー空間〉を歩く』の「よだかの星―ひとすじの物語」、において、恩田の説と多少ニュアンスを変えて、「才覚も技量ももたぬ平凡なつまらぬ男」としての名前ということで、さほど、具体的名称にこだわらない立場で述べていた。

 もう一つは、有澤裕紀子が、アルス梅光公開セミナー「宮沢賢治を読む」論集所収の「よだかの星―燃えている星」の中で、「歌舞伎役者を暗示させる名前を意識して使ったのではないだろうか」という主旨を述べていた。市蔵という名前に対する肯定的立場が鮮明であった。

 次に、自分に生じた疑問は、何故今まで、「豊沢町の市蔵」という考えが出てこなかったのだろうか、ということだった。「二郡見聞私記」は文政年間に書かれ、花巻地方にはかなり流布したと思われるものだ。現代の活字と言う形で世に出たのは、昭和三年七月に「南部叢書第九冊」という形でである。見方を変えれば、それだけ流布していたから、昭和三年に活字本が出されたとも言える。鈴木健司『宮沢賢治という現象』「第四章 よだかからジョバンニへ」(一一八頁)、によれば、「よだかの星」は大正十年頃成立(推定)、とのことだ。もし、活字本が世に出る前だとしても、賢治及び周辺の人々が「豊沢町の市蔵」の話を誰も知らなかっただろうか。賢治の父母などは当然知っていた話だったのではないだろうか。

 さらに考えると「豊沢町の市蔵」さんが、「よだかの星」のモデルの一部だったということも可能ではないだろうか。はたまた、更に飛躍すれば、賢治自身が市蔵と改名したかったのか、もしくは、市蔵になりたかったのではないだろうか。少なくとも「市蔵」は賢治にとってプラスイメージの名前だったろう。毎年、岩手山に登り杉苗を植える市蔵の行動に共感をもっていたのだろう。逆に、よだかは新しい名前の良し悪しではなく、改名を強制されるという、基本的権利の蹂躙が耐えがたかったのではなかろうか。等々、想像の種は尽きない。

 二つ目は巻十の最後の「白はた稲荷御託宣」という話に出てくる。稗貫郡八幡村の白幡という地区で、大きな家を取り壊そうとした時、そこの下女が、狐に憑かれ、色々演説し、長崎から始まり、国中の稲荷神社の名を挙げ、後半になり、岩手郡の神社を挙げるときに「岩手郡にほしか稲荷、むかし聞得し馬場松子とつこべ虎子に石合稲荷」と書かれていた。「とつこべ虎子」=「とっこべとら子」である。

 念のために、賢治の「とっこべとら子」の内容に似た話は掲載されていないかと思い、「二郡見聞私記」を再度見直したが、狐に騙された話はいくつもあるが、金貸しの話は出てこなかった。比較的内容が近いのは、お城の御金奉行がお城で当番中、夜中に魔生のものから「金がほしくないか」と言われ、「ほしい」と言ったら、金の紙包みが投げ出された。翌朝になっても、その金は、本物の金だったので、これ幸と家にもって帰った。そして、今迄蓄えてあったものと一緒にまとめようと箪笥を探したが、今迄蓄えてあった金はどこにもなくなっていた。おかしいと思い持ってきた紙包みをよく見たら、それは自分が既に蓄えていたお金だった。という話。(巻七「田頭氏化物に逢事」)ぐらいであった。「見聞私記」の説話とこの童話とを直接関連づけることは今の段階では、難しいような気もする。

 もっとも、多少飛躍して、賢治は狐物語に家の職業(金貸)を取り込むという創作行為を施し、結果として、「見聞私記」から遠ざかった、のかもしれない。

(岩手県花巻市)


風の又三郎「ちやうはあかぐり」の響きを求めて

小野寺 賢一


 賢治の書いた物語を読んでいると、不思議な表現に出会い、どう解釈して良いのかわからなくなることがしばしばある。この「風の又三郎」も例外ではない。ここでは得に、冒頭部に出てくる表現「ちやうはあかぐり」という響きについて私の思うところを述べたいと思う。

 この説の発端は、聞こえてきたトンビの声が私の耳に偶然「ちやうはあかぐり」と聞こえたことによる。この仮定を検証していくと、一応ながら話の整合性はかなり高いものとなった。そこでこの説を誰かに聞いてもらいたい、意見を色々ぶつけてもらいたい、それぞれの篤い思いを共有してみたい、と思ったので報告してみようということになったわけである。

それでは、まとめてみると以下のようになる。

〜作品冒頭部より〜

・風野又三郎(初期の段階の作品)

 ちやうどそのとき 川上から「ちやうはあぶどり、ちやうはあぶどり」と高く叫ぶ声がして それから いなづまのやうに嘉助が、かばんをかゝへてわらって運動場へかけて来ました。

・風の又三郎

 ちやうどそのとき川上から「ちやうはあかぐり ちやうはあかぐり」と高く叫ぶ声がしてそれからまるで大きな烏のやうに嘉助が かばんをかゝへてわらって運動場へかけて来ました。

(作品本文に傍点なし。上記引用では必要箇所に傍点を付けた。)

(1)傍点の部分から、鳥が急降下してくるようなイメージが連想される。
(2)高く叫ぶ声であることとあわせると、鳥の鳴き声とみるとつじつまが合う。

(参考:この後の場面で先生が「林の中で鷹にも負けないくらゐ高く叫んだり」という表現もある。)

 このことから私は、「ちやうはあぶどり」、「ちやうはあかぐり」は、賢治が感じたままに表現した鳥の声だと考えた。この鳥は、おそらくはトンビであろう。

 理由として、

(3)一般的に、トンビは烏よりも一回り大きい。
(4)トンビの鳴き声が私の耳にそう聞こえたこと。
が挙げられる。

「ピィーヒョロロロロ」が「チョァーカグリリリ」と聞こえた。

 これはちょうど鳥の鳴き声の表現として、「ピィピィ」、「ちょちょ」と表現する関係に非常によく似ていると確認できると思う。ノスリの声も近いが、私の調査ではトンビのほうがより自然であると感じた。

 鳴き声については人それぞれ感じ方が違うので、確認してみたい方は参考文献の項にあるウェブサイトなどを参考にしてもらうといいと思う。

 ちなみにトンビ、ノスリ、のどちらもタカ目タカ科である。

 賢治が地名にエスペラント語を使っていることはよく知られているが、擬音語には賢治の感じたとおりの表記が多いことから、この表現も同様だと考えられる。

 加えて、この「風の又三郎」は、冒頭の風の表現をはじめとして、賢治の感じたままの世界の表現が力強く現れている作品である。

 以上のことからこの場面において、嘉助は現代の小学生が「ブーン」、「キーン」と飛行機の真似をするのと同じように、「ちやうはあぶどり」、「ちやうはあかぐり」とトンビの真似をして学校にやって来ているところなのであろうと推察した。

 先日の第十八回定期大会発表会でこのトンビの声説を発表したところ、私の知らなかった解釈も提示していただいた。せっかくなのでこれも含め、今私が知る限りの説をここで紹介したいと思う。(その場の記憶を頼りに記述したのでもし細部に相違があればご容赦ください。)

●他の説

・「方言を使ったはやしことば」という説

ちやう(今日)は あかぐり(赤栗)

・「仲間のあだ名をはやして言うことばをまねて変化させたもの」という説

ちやうはあ(長吉は)ぶどり(葡萄売り)
→かぐり

・意味のない謎めいたはやしことばを使うことの効果をねらったという説

 こうしてみると、これまでの説では「はやしことば」とされていた中で、「鳥の声」であるとした発想が私の説の特徴のようである。

 さて、私の説はこのようになったわけだが、短所もある。トンビの声がその人にはそうは聞こえないと言われればそれまでという所と、定期発表会でのご指摘の通り、原文では「ちやうはあかぐり」と書いてあるものを「チョァーカグリ」と読んで(発音して)よいものかという所などである。

 結局のところ、特別な証拠でも出ない限り、賢治自身しかその答えはわからないということになる。我々にできるのはただあれこれ類推することだけである。

 しかしながら、それぞれの説に一定の説得力があり、それによってまた色々な味わい方ができる。つまるところ、それぞれの味わい方をすればよいのではないだろうか。『注文の多い料理店』の「序」での賢治のかたりかけにあるとおり、我々がそれぞれの「すきとほつたほんたうのたべもの」にするのならばそれぞれの解釈もすべてが正解たりえるのではないか、賢治も許してくれるのではないかという思いを胸に、ちょっぴり変わった私の説もその一助となればと願う次第である。

(山形県山形市)


グランヴィル幻想

中村 節也


 ―青い琴の星が、三つにも四つにもなって、ちらちら瞬き、脚が何べんも出たり引っ込んだりして、たうとう蕈のやうに長く延びるのを見ました―

 天気輪の丘でジョバンニが体験したイリンクス(眩暈)である。賢治はしばしばこのような「ぼかし」の手法で舞台の転換をおこなっている。これがいわゆる「暗転」でフェードアウトからフェードインする往年の映画の常套手法である。舞台は天気輪の丘からいつのまにか銀河鉄道の車両へかわっている。このような「暗転」は「シグナルとシグナレス」や「注文の多い料理店」にも見ることができる。

 それというのも映画好きだった賢治の創作時期が、映画の発達史と重なっているからだろう。

 「蕈のやうに…」という形容も奇抜だがこれも賢治流の意外性で、虚子の句にも「爛々と昼の星見え菌(きのこ)生え」とあるように、天空をイメージする「星」と、大地をイメージする「きのこ」を対極させた面白さがある。

 さて「きのこ」の譬喩に関連して、ふと私はJ.J.グランヴィル(1803.1847)の絵を想起した。風刺画家として出発した彼は、やがて幻想と奇想に満ちた作品を描き続け、晩年の『星々と妖精』(物語はジョゼフ・メリーによる)Les etoiles:Derniere ferie(textepar Mery)では痩せた月が次第に北斗七星へと変貌してゆくプロセスを描いている。

 だれでも子供の頃ノートの端へいたずら書きしたパラパラのアニメーションの経験はあるだろう。このグランヴィルの絵も二十五夜のような月が「きのこ」の笠に変わり、それが「こうもり傘」へ、そして「こうもり」から「三頭立ての馬車」になって、しまいには北斗七星へと変貌してゆく。

 それらのプロモーションは多少のぎこちなさはあっても、一枚の絵のなかに抛物線状に描かれている。このような絵を異時同図というのであろう。あの「信貴山縁起絵巻」飛蔵の図にもある時空感覚である。

 グランヴィルの作品は一九三七年以降のエッシャーの「だまし絵」の先駆にもなるのだが、後にグランヴィルのこれらの未発表作品はT・ドロールによってストーリーが与えられ、「もうひとつの世界」(Un autre mondepar T.Drole)というタイトルで陽の目をみることになる。それは妖しく美しい幻想世界である。

 それかあらぬかルイス・キャロルが「不思議の国のアリス」を執筆中、つねにグランヴィルの「花の幻想」(変身する花)の絵が念頭に去来していたという話を想いだすのである。この画集が擬人化された花々たちの乱舞である。想像を逞しくすれば、賢治は「アリス」を通じて、グランヴィルの画集にも目を通していたかもしれない。

 また賢治はキャロルの「アリス」や「もつれっ話」から多くの言語遊戯を学んだと思われるし、また「栄花物語」「古今集」などから沓冠や折句のヒントを得たようでもある。これらの古典は言語遊戯の領域を超えて芸術的格調までもそなえている。

 きのこ(mush-room)のmushの語源が「こうもり傘」、また「馬車屋」の意もあることからイメージが膨らんでいった結果であろうか、賢治もまたおなじように「どんぐりと山猫」のなかでつぎのように描写する。

―白い大きなきのこでこしらへた馬車が、ひつぱりだされました。そしてなんだかねずみいろの、をかしな形の馬がついてゐます。―

 初版本の菊池武雄画伯の挿絵をご覧いただきたい。どんぐりたちが裁判をしている彼方にきのこの馬車が控えているのである。

(東京都世田谷区)




テクスト・クローズアップ(28)


絵画作品・下絵?

天沢 退二郎



絵画A
日輪と山




絵画B
ケミカルガーデン




 昨年度、萬鉄五郎記念館をかわきりに、今年も全国数箇所を巡回中の「絵で読む宮沢賢治展」に実物出品されている二点の、よく知られた賢治絵画のそれぞれ裏面に、別作品の下絵(?)かとおぼしきものが、出品準備時に発見されていた。ここにその二点を林風舎の好意により、同舎所有の精密複写をもとにして、紹介させていただく。(いずれも近く、新校本全集別巻の「補遺」篇に収録を予定している。)

A・「日輪と山」裏面

 何を描いたものか、わかりにくいが、壷か、帽子か、缶か・・・。木炭紙に鉛筆画。14.1cm×18.3cm

 とりあえずここに挙げたのは、表の「日輪と山」と上下が逆になる。このことは、表の絵柄があざやかに滲み写っていることから知られよう。制作年月日は不明だが、「日輪と山」よりも前か。

B・「ケミカルガーデン」の裏面

 とりあえず、鉛筆で五弁の花を二つ描き、その背景を緑っぽい水彩えのぐ(テレベルト?)で色付けの途中で中断したものに、赤い線の擦過が施されている。その赤色が印象的。私はこれに仮題として「赤の擦過」と名付けて、試みに、

時は赤き擦過を雪に残しけり
赤は花を彩るより先づ擦過せり
の二句をよみ、《赤の擦過ゆえ花の着色は放棄された》とメモしておいた。

制作年月日不明。14.8cm×19.4cm

(千葉県千葉市)


宮沢賢治資料(41)


岡本弥太書簡(岡崎澄衛宛て)

杉浦 静


書簡1


書簡2


 昭和7年に、詩人岡本弥太から岡崎澄衛に宛てたはがきで、1は、4月27日の消印、2は6月1日の消印。2通ともに宮沢賢治への言及がある。岡本弥太は、表書きにあるように、高知県岸本に在住する詩人で、この年には、第1詩集『瀧』を上梓した。賢治没後には、「随想宮沢賢治」という追悼文を書き、「南海の宮沢賢治」とも呼ばれた詩人。岡崎澄衛は、当時盛岡の岩手医専在学中で、後に賢治童話が掲載された「天才人」の同人でもあった。岡崎は、折に触れ岡本宛に、岩手の詩人たちの動静を知らせていたようだ。

 1では、森佐一に言及する中で森を「宮沢氏系統」と位置づけているのみだが、2では、

 「宮沢さん生きてよろこびです。日本にない人。あんな人がもつと欲しいものです。喧ましいガラガラ詩壇。」と、病が快方に向かっているという情報を得ての感懐が述べられている。詩人宮沢賢治の人間としてのありようが、当時の「喧ましいガラガラ詩壇」と対比されて慕われている。すでにこのころから、〈宮沢賢治〉の人間像が形成され流通しはじめていることがうかがわれる。

 1は、楠公はかき 一銭五厘 9.1×14.0センチ。消印は「高知・赤岡 7・4・27后0―4」。筆記具はブルーブラックインク。2は、楠公往復はかきの返信葉。一銭五厘 9.1×14.0センチ。消印は「高知・赤岡 7・6・1 后0―4」。筆記具はブルーブラックインク。

(埼玉県草加市)


セミナー報告


夏季特設セミナー
長期企画「風の又三郎」の謎に迫る(第四回)

 長期企画として二〇〇三年に始まった夏季特設セミナー「「風の又三郎」の謎にせまる」も第四回目となり、二〇〇七年は七月二十八日・二十九日の二日間、宮沢賢治イーハトーブ館を会場に行われました。前年は国際研究大会が夏に開催されたため二年ぶりの開講となりましたが、シリーズ化された企画ということもあり、会員の皆様をはじめ多くの方々に参加いただきました。

 初日のシンポジウムは「「さいかち淵」草稿嵌入の意味と役割」をテーマに行われ、はじめにコーディネーターの天沢退二郎さんにより「何故「さいかち淵」はかくも深いか」と題しての基調報告があり、その後パネリストとして秋枝美保さんと平澤信一さんに語っていただきました。

 二日目は、一九七六年にNHKで放送された「風の又三郎」(NHKエンタープライズよりDVD化されている)を鑑賞し、終了後、脚本を手がけた別役実さんを迎え、天沢退二郎さんを聞き手にインタビュー形式の講話となりました。撮影時の様々なエピソードをはじめ、大変興味深く、貴重なお話を聞くことができました。なお、今回のセミナーを受講した本学会員の森岡京子さんより、このセミナー二日目の「感想&報告」として、事務局へ投稿いただきましたので本号に掲載しております。どうぞご参照ください。

☆初日

会場:宮沢賢治イーハトーブ館

(1)シンポジウム
「「さいかち淵」草稿嵌入の意味と役割」
基調報告
天沢退二郎(宮沢賢治学会代表理事)
「何故「さいかち淵」はかくも深いか」
パネリスト
秋枝 美保(福山大学人間文化学部教授)
平澤 信一(米子工業高等専門学校准教授)

(2)交流会

☆二日目

会場:宮沢賢治イーハトーブ館

(3)映像
「風の又三郎」(NHKTV一九七六年)

(4)講話「別役実さんに聞く」別役 実(劇作家)
インタビュー/天沢退二郎



映像「風の又三郎」、三十年ぶりの謎解き―自然と現実と幻想と―

森岡 京子


 誰にでも忘れがたい映画・映像というものがあると思いますが、私にとって心に強く刻まれた映像のひとつ、それは一九七六年NHK少年ドラマシリーズで放送された別役実さん脚本によるテレビ映画、「風の又三郎」でした。この中で、転校生高田三郎と、転校生を受け入れる側の緊張感が幻想的に表現されていて、不思議な余韻が残る作品であったな、と記憶しています。唯一、「風の又三郎」だけは原作ではなく映像を通して最初に知りえた作品で、さらに当時自分は受験生であり、不安に満ちた時期という背景もあって強く心に残ったのかもしれません。

 二〇〇七年の夏季特設セミナー開催のチラシが届いた昨年、映像版の「風の又三郎」に会いたいなという郷愁を覚え、さらにこの作品に対して抱えていた疑問点がふつふつと沸き上がってきたのです。謎めいた幾つかの心象的なシーン……、あれは一体何だったのか? その謎を知りたい、三十年ぶりの「風の又三郎」は私の問いに応えてくれるかもしれない、そんな願いも相まって夏季特設セミナーに参加しました。

 さて、別役実さんの映像「風の又三郎」ですが、一九七六年当時は全部で四回連続の放送でした。しかし、現在は第一回目の放送分は残っていないとのことで、二回目、三回目、四回目の三回分の放送を観ました。各二十分ずつの放送ということで、六十分の映像でした。懐かしい思いで画面を見つめながら、いつしか遠い日の記憶の糸を手繰り寄せていました。そうそう、あの謎と不思議に満ちた、サーカス、チンドン屋さん、白いスーツ姿が眩しい高田三郎のお父さん、独特な存在感を醸し出していた先生、そして、三郎が仲間のなかで一人浮いてしまった場面での物憂げな表情―。三十年前、テレビの前の私は夢中で画面を追いながら、三郎がときおり見せる心もとない目差しに、どこか自分を重ね共感を覚えていたのかもしれません。

 上映後に、天沢退二郎さんのインタビューを受けて別役実さんが話してくださったご自身の満州体験、および「風の又三郎」体験は、映像のエピソードとして大変興味深く引き込まれました。戦後、小学校二年の時に満州から日本に引き揚げてこられ、小学校時代は三度の転校を経験し、その度によそ者として扱われていたというのです。

 「……いじめられたりとかはなかったのですが、でも何となくよそよそしい感じがあって、それが高田三郎の、心のおののきというのと非常によく似ていたということがありました。それでシナリオを頼まれたときも、おそらくよそ者と定住者とのデリケートないきさつが僕にとっては一番刺激的だったですね」

 つぎに、別役さんは謎めいたシーンに込めた想いを語ってくださいました。

 「……それから、チンドン屋は僕の幼児体験でして、満州に住んでいると人さらいというのが来て、チンドン屋の格好とか、サーカスの誘い手として来たという伝説があって、実際にあったかどうか分からないのですけれど。要するに自分たちの生活圏の外側からチンドン屋やサーカスの格好をしたりしてやってくるという、よそ者の無意識のイメージとして、高田三郎のイメージとして出て来たのかなという感じですね」

 私は、この二つのシーンに通底する別役さんの想いに触れ、以前抱えていた疑問点がゆるゆると氷解していく思いがしました。一方、登場する先生については「何者か」にしたかったそうです。その別役さんがイメージされた先生は、「星の話や方角の話を子どもにする人」「全体を見通して押さえている人」として登場します。これを受けて、天沢さんがお話しされました。「一日目のシンポジウムで、この物語は現実か幻想か、という点で活発に意見交換がなされましたが、先生についてのご説明は、前日の議論と通じるものでしょう」。

 天沢さんのご指摘は大変示唆的で、自分の報告考えを深めることが出来ました。画面の中の先生は、先生自身が現実と幻想の両方を注視する者として、または、子供の世界と宇宙とをつなぐ架け橋として、子供たちに星について語りかけていたのでしょうか。

 さらに、三郎のお父さんについてですが、「近代的で立派な職業人としての鉱山技師であると同時に、前近代的ないかがわしい山師としての二重性を持っていた」人物として設定されたそうです。別役さんのお話しを伺ううち、遠い日に観た映像の断片が脳裏に浮かびました。それは、第一話の冒頭、とりわけ印象的なシーンです。突然、教室の後ろに白いスーツ姿のお父さんが現れたかと思うと、その直後には今度は教室の中を吹き抜けた一陣の風と共に消え、数秒ののち、白いこうもりを差した姿でなぜか校庭に佇んでいるという箇所です。今回改めて二回目から映像を観る機会を得、あの最初の場面についていろいろと思いを馳せることが出来ました。お父さんの二重性とは、山師と鉱山技師、内なる教室の世界と外なる自然界、土着と外来、という風に幾つものイメージが重なり合っていたように思えます。想像が尽きないシーンです。

 帰りの新幹線の中で、車窓から北上川をつらつらと眺めていたらふと、別役さんが仰っていた「この映像は自然が主役なのですよ」というメッセージが想起されました。実は、私は若い頃に同世代の映画好きの仲間と自主映画を制作していた時期がありました。もしかしたら私自身、「自然が主役」という映像「風の又三郎」からの影響を無意識のうちに受けていたのかもしれません。なぜならあの頃、撮影で小さな島を訪れていた私たちは、身の周りの自然の音、水滴、風、波、砂浜を歩く音……などなど、そんなさまざまな音を、登場人物の流動的で曖昧な感性を表現するひつとの手だてとして、または、過去の記憶を呼び覚ます沈黙の時間として、会話と会話のすき間に織り込む演出を何より大切にしていたのですから。

※現在、テレビ映画「風の又三郎」はNHKエンタープライズよりDVDが発行されています。尚、本文・別役氏の談話をご紹介するにあたり、宮澤明裕さんにお世話になりました。

(栃木県宇都宮市)


セミナー報告


冬季セミナー 「宮沢賢治的建築学」
二〇〇七年十二月八日・九日

 二〇〇七年度の冬季セミナーは、十二月八日・九日の二日間にわたって開催され、今回は宮沢賢治の生涯や作品に関係する「建築」というテーマで行われました。

 今回のセミナーの趣旨は、賢治が言葉で描こうとした様々な建物から、賢治の建築空間を探っていこうという試みで企画されました。賢治が描こうとしたイーハトーブという世界をもし建築で捉えるとしたら、一体どのような図面が描かれるのか…などと考えると非常に広がりのあるテーマに感じられます。おそらくこのテーマは、作品の中で出てくる建物だけを列挙しても今回だけでは終わるのは不可能と思われますので、今後もこの企画をシリーズ化し、それぞれの専門分野からもゲストをお招きするといった方法などで、更に深めていきたいと思っております。

 初日のシンポジウムでは三人の講師の方々に「賢治の周辺」という共通の視点で、一人目の宮澤助五郎さんには「宮澤家と建築への関り」について、二人目の山根知子さんには「賢治の宗教建築に関する描写」について、三人目の山本昭彦さんには賢治と関係がある「建物としての病院」について語っていただき、とても有意義な時間となりました。

 シンポジウム終了後には、冬季セミナーの恒例行事となっている「イーハトーブの郷土芸能」が行われ、今回は花巻市大迫町の早池峰岳神楽保存会の皆さんに「岳神楽」を披露していただきました。今回は、限られた時間内での演目となったため全ての舞を披露していただくことは叶わず、一部のみの公演となりましたが、勇壮で激しく迫力のある舞は、とても満足のゆく内容でした。

 二日目には、米地文夫さんに「賢治作品「黒ぶだう」と花巻・菊池邸」、外山正さんに「重要「な」文化財「羅須地人協会」」というテーマで講演を頂戴いたしました。また、二つの講演に先立ち「菊池捍邸」と「羅須地人協会」の事前見学を行い、参加者の方々には二つの建物から得られた、それぞれの印象や視点を持ち講演に臨んでいただきました。

 冬季セミナーというだけあり今回も寒さ厳しい中での開講となりましたが、全国から会員の皆様を始め多くの方々に参加していただき、たいへん内容の充実したセミナーとなりましたことを事務局より心から御礼申し上げます。

☆初日

会場:宮沢賢治イーハトーブ館

(1)受 付  13:00

(2)シンポジウム 14:00
パネリスト
宮澤 助五郎(宮澤商店常務)
「宮澤家と建築への関り」
山根 知子(ノートルダム清心女子大学文学部准教授)
「賢治の宗教建築に関する描写」
山本 昭彦(岩手大学人文社会科学部教授)
「建物としての病院」
司 会
天沢 退二郎(宮沢賢治学会イーハトーブセンター代表理事)

(3)イーハトーブの郷土芸能(5)16:00
「岳神楽」/早池峰岳神楽保存会(花巻市大迫町)

(4)交流会・懇親会 17:00

☆二日目

会場:花巻市内/宮沢賢治イーハトーブ館

(5)事前見学  8:45分
1「菊池捍邸」(花巻市御田屋町)
2「羅須地人協会」(花巻農業高)

(6)講 演   10:30
米地 文夫(ハーナムキヤ景観研究所)
「賢治作品「黒ぶだう」と花巻・菊池邸―その意義と保存問題―」
外山  正(宮沢賢治研究会会長)
「重要「な」文化財「羅須地人協会」」




新刊案内

宮沢賢治没後七十年の展開(あゆみ)

修羅はよみがえった

(財)宮沢賢治記念会


 「おれは一人の修羅なのだ」と断言して1933年9月にこの世を去った詩人の作品と精神はどのように広く受容されてきたかを明らかにする記録文集『修羅はよみがえった』が昨秋刊行された。編集委員長故奥田弘氏をはじめ、本会の新旧理事、会員諸氏が多く執筆している。

発行・宮沢賢治記念会  発売・ブッキング  定価3,990円


宮沢賢治―驚異の想像力その源泉と多様性
宮沢賢治生誕110年記念第三回宮沢賢治国際研究大会記録集


 多面体・宮沢賢治に誘われて、2006年8月、世界各地から研究者とアーチストがイーハトーブに結集した。再度の内省と分析をへて、第三回宮沢賢治国際研究大会の記録集、遂に刊行!

 宮沢賢治イーハトーブ館、および全国有名書店にて好評発売中!

発行・朝文社  編集・宮沢賢治学イーハトーブセンター編集委員会
定価3,570円
※学会員は宮沢賢治イーハトーブ館にて5%割引いたします。



故力丸 光雄さん


追悼・力丸光雄さんを悼む

 宮沢賢治学会イーハトーブセンター代表理事(一九九八〜二〇〇〇)を務められた力丸光雄氏が二〇〇八年二月にご逝去されました。謹んで哀悼の意を表します。


弔辞

宮沢賢治学会イーハトーブセンター

代表理事 天沢 退二郎


 力丸光雄さん。われらの親愛なる力丸さん。しばらくお逢いできずにいるうちに、すーっと、いなくなってしまわれるなんて、あんまりではありませんか。

 力丸さん。あなたは長い腕と、おだやかな声と、やさしいまなざしとで、宮沢賢治さんと、私たちと、世界とのあいだを、なかだちし、とりもって、複雑な小枝を振り分けながら、みちを開いて下さった。

 とくにまた、宮沢賢治学会イーハトーブセンターの代表理事として、力丸さん、あなたは私たちが安心して研究や普及の仕事に専念するのを、みちびき、助力と教示を惜しまれず、私たちの計画や進言を聞き入れ、見守りながら、御自身の苦労もいとわれなかった。

 私事ながら、私のことをいつも雨男だとおっしゃって、雨が降るとは、天沢さんがまた雨を連れてきたといって、おからかいになりました。もうこれからは、雨が降るとき私が花巻へ来る張り合いが、なくなるではありませんか。

 宮沢賢治さんの、驚異の想像力、多様多彩な仕事を前にして、とくに私のような科学的精神を欠いた研究者にとって、力丸さん、あなたの存在が、何とありがたく、頼りに思われたことでしょう。

 これからも、せめて夢の中ででも、あるいは研究の隘路で途方にくれているときの、幻覚の中へでも、あらわれてはげましの声をおかけ下さいますように。

 いつまでも親愛なる力丸光雄様。

二〇〇八年二月七日


”日景の友“
―力丸光雄さんの死を悼む―

吉見 正信


 力丸光雄さん、君の急逝は信じがたい、いや信じたくない衝撃です。

 宮城一男さん、力丸さん、そして僕という組合せトリオで事挙げした、グループの皆さんも、みんな君を思いガックリきておりました。宮城さんにつづき、もう力丸さんが逝ってしまうなんて、いったいどうしたことでしょう。ほんとうに淋しく辛いことです。

 東北圏の賢治の会の交流・親睦を深める母体として、宮城さんが提案し推進し、第一回は秋田の日景温泉で、第二回は花巻の台温泉で集い、今のところ東山町、石鳥谷町、そして青森、秋田、盛岡といったメンバー構成で、実に愉しく有意義な賢治仲間でした。

 いまここに至って、宮城さんにつづき力丸さん、君までガパッと消えてしまうなんて、ほんとうに慚愧にたえません。

 第一回が秋田の日景温泉で集われた一夜、ポツリと口にした君のひと言、「日蔭の友でもヨガンスベ」をきっかけに、「日景の友」というグループ名は誕生しました。

 そんな具合に、集い語らいは、いつも君のさり気ないギャグによって盛り上がりましたね。ライバルの僕も脱帽しばしばでした。

 仮面蒐集家の君らしく、気負いもないその虚言は、いつも本論を超えた、欄外・余白のごとく、大きな雰囲気をかもすものでした。

 まさに、道化師の技そのものでした。仮面の内側に隠されている君の素顔が、あえてそうさせている謙譲の美徳というものです。

 ほんとうに淋しいことだが、もう銀河鉄道での君の旅を見送るしかありません。君に伝える最後の僕の言葉です。「沢山のこと有難う― いってらっしゃい。」

合掌