宮沢賢治学会・会報第37号

「こら、狸、おまへは狸汁といふことを知っ てゐるかっ。」とどなりました。すると狸の 子はぼんやりとした顔をしてきちんと床に座 ったまゝどうもわからないといふやうに首を まげて考へてゐましたが、しばらくたって 「狸汁ってぼく知らない。」と云ひました。

(「セロ弾きのゴーシュ」より)


第37号●狸
2008年9月21日発行
  1. 宮沢賢治と裁判の話 那珂川裕次郎
  2. 第18回宮沢賢治賞イーハトーブ賞決まる
  3. 受賞者の略歴と業績
  4. イーハトーブ〈植物〉学 −自然とともに生きた詩人− 伊藤光弥
  5. 投稿エッセイ
  6. 宮沢賢治資料40 〔住所録B〕「猟キ社」について
  7. テクスト・クローズアップ(29)「ここはいったいどこの停車場だ」天沢退二郎
  8. 夏季特設セミナー 「風の又三郎」の謎に迫る(第5回)

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宮沢賢治と裁判の話

那珂川裕次郎

 宮沢賢治と裁判? みなさんは、どう繋がっていると思いますか?宮沢賢治と裁判はあまり関係がないと言う人もいるでしょう。しかし、賢治は有名な「雨ニモマケズ」の詩の中で、「ソショウガアレバツマラナイカラヤメロトイヒ」と言っています。法律専門家の間でも「この詩はどういうことなのだろうねえ」と大いに関心を持っている人が多いのです。

 賢治の作品の中には、犯罪と裁判に関する興味深い話がたくさんあります。「カイロ団長」にはあまがえるの無銭飲食詐欺罪が成立するのか、とのさまがえるの水増し請求が成立するのか微妙な話がでてきます。「ネネムの伝記」にはフクジロの恐喝罪が成立するかどうか微妙な問題や出現罪を裁かれるザシキワラシとウウウウエイの話も出てきます。「税務署長の冒険」はどぶろく密造の話ですが、サスペンスドラマを見ているような大変おもしろい話です。子供のころ、片岡知恵蔵主演の探偵映画がおもしろくて見に行った記憶がありますが、この作品は税務署長が変装までしてどぶろく密造摘発に赴き、犯人に見つかって松の木につるされてもう少しで殺されそうになるところを、駆けつけた部下と警察に助けられる話です。実は、この作品から、賢治は農村・農民問題から目を離さなかったと言う人がいます。賢治は、消費者問題、サラ金問題、いじめ、過労死についても目を離さなかったことがわかりました。「カイロ団長」は、今問題になっている消費者問題を取扱っているように思います。過労死の問題も含まれています。とのさまがえるがあまがえる達を酷使するので、最後に王様が出てきてあまがえる達は救われるのですが、その時に王様がとのさまがえるに命じた内容は重要な意味があります。今過労死が問題になっています。賢治の作品には現代の社会問題を解決するヒントがちりばめられているように思います。

 賢治の作品の中には、犯罪にかかわる話のほか、裁判官や訴訟の話もたびたび出てきます。「どんぐりと山猫」には、訴訟や裁判官が描かれています。既にこの童話を読んでいる人が多いと思いますが、再読してもう一度賢治のメッセージを裁判の視点から考えてみましょう。来年から裁判員制度が始まります。「迷惑だ。やりたくない。」という人が多い中で、「めんどなさいばんしますから、おいでんなさい」とのはがきを受け取ったかねた一郎は、うれしくて夜も眠りませんでしたと描かれています。これは、賢治の裁判に対する関心の高さを物語っていると思うのです。最後の部分に、「山ねこ拝といふはがきはもうきませんでした。やっぱり出頭すべしと書いてもいゝと言へばよかつたと一郎はときどき思ふのです。」と描かれていますが、これは、一郎が、一度裁判に関与して、充実感・満足感を味わったので、これからも裁判に関与してみたいとの気持の表れであり、これは、すなわち賢治の気持でもあると思うのです。

 ところで「ネネムの伝記」に「ネネムはまっ白なちゞれ毛のかつらを被って黒い長い服を着て裁判室に出て行きました」と描かれています。この「まっ白なちゞれ毛のかつら」とはなんでしょうか。イギリスの裁判所では、裁判官は今でも白いかつらと黒い法服を着ているようです。賢治はイギリスなどにおける裁判官が被る白いかつらを描いたのでしょう。皆さんの中に、出現罪で裁かれるザシキワラシの年齢が二十二歳と聞いてザシキワラシのイメージがわかないと言う人はおりませんか。妖怪座敷童子には子供のイメージがあります。賢治の作品「ざしき童子のはなし」も子供として描かれています。ところが、出現罪を裁かれるザシキワラシは二十二歳の大人です。賢治はどうしてこのように区別して描いたのでしょうか? それは、犯罪の成立要 件として、刑事責任能力というものがなければならないからです。刑法四十一条は「十四歳に満たない者の行為は、罰しない」と規定しています。つまり、十三歳以下の少年は、犯罪が成立しないのです。せいぜい触法少年として問題になるだけなのです。賢治は、刑事責任能力を意識して出現罪で裁かれるザシキワラシの年齢を二十二歳にしたのではないでしょうか。

次に、「ネネムの伝記」に描かれているザシキワラシとウウウウエイの裁判の違いを見てみましょう。ザシキワラシの裁判では、賢治が起訴状を朗読しました。ところが、ウウウウエイの裁判では、起訴状を朗読したのは検事ではなく判事でした。これは一体どういうことでしょうか。これは刑事訴訟手続の違いを描いているのです。ザシキワラシの裁判は、検事が起訴をしているので、その訴訟手続は弾劾手続であることは間違いないのですが、ウウウウエイの裁判は、裁判官が犯罪を見つけて起訴をし、自ら審理するいわゆる糾問手続の可能性が高いのです。治罪法と明治刑訴法には未だ糾問手続が残っていたのです。賢治はその刑事訴訟手続の違いを鋭く見抜いていたのです。

 最近、法教育が重要視されてきているように思います。日本の法教育の第一人者、筑波大学の江口勇治教授は「子どもたちは学校でも家庭でも法や司法を学びたいと思っている。教員や法曹三者はそのための知恵を出して欲しい」と呼びかけています。私も何かやらねばとの思いに駆られ今年三月に「賢治の童話で模擬裁判」を企画し、多くの人の協力を得て実施しました。見に来て下さった社会科の久保田亘先生から、後日、授業で宮沢賢治と裁判を講義したとの便りをいただき、甚く感動しました。長野県松本市歴史の里から明治時代の法服(レプリカ)をお借りして模擬裁判を演じたので好評を博しました。今後も、このような模擬裁判を企画したいと考えています。



【報告】
第18回 宮沢賢治賞イーハトーブ賞決まる

第18回宮沢賢治賞・イーハトーブ賞は、先の理事会におきまして次のとおり承認され、花巻市より発表されました。

受賞された方々にお喜びを申し上げますとともに、これからのますますのご活躍をご祈念いたします。


経過及び選考理由について

宮沢賢治学会イーハトーブセンター賞選考委員会 委員長 森 三紗

 選考対象の推薦については、会員からの推薦と申し合わせによる選考委員会の推挙を受けて具体的な検討に入った。三次の選考会議を経て選考を終えた。

《宮沢賢治賞》

 宮沢賢治賞については計33点を選考対象とした。

 本賞のロジャー・パルバース氏は、来日した時に日本の詩人・作家のなかで最も美しく素晴らしい作品を書いた人物として知人から宮沢賢治を推薦された。『春と修羅』「ざしき童子の話」に感動して以来40年間、賢治の詩、童話を英語に翻訳し、劇作家として劇化も行い、紹介することに取り組んで来た。英国で刊行された『STRONG IN THE RAIN』(『雨ニモマケズ』)においては、はじめに賢治の生涯を魅力的に紹介し、次に92の詩作品を本格的に翻訳し、巻末で註解を行った。また『英語で読み解く賢治の世界』では、青少年に向けて特色のある章立てと註解を行い、賢治の詩の英訳しがたい語句を分かり易く説明し賢治の詩の世界を読み解いた。長年の労苦と識見、取り組みの業績が高く評価された。

 奨励賞の浜垣誠司氏は『宮沢賢治の詩の世界』(mental sketches hyperlinked)のサイトを立ち上げ、インターネット形式で即座に賢治の詩の世界を旅することを可能にし、賢治の生き方や作品を愛する人々が容易にアクセスし貴重な情報を得ることが出来るようにした。また、ブログに作品紀行・関連本等を置き検索し双方向に交流を楽しむことが可能で、精神科医の人間の心を尊重する視座を生かしており、このサイトを開始して以来10年に及ぶぼう大な時間と愛情を注ぎ、時代の先端を行く調査と研究実績が認められた。

《イーハトーブ賞》

 イーハトーブ賞については計18点を選考対象とした。

 本賞については、高嶋由美子氏が受賞した。国連難民高等弁務官事務所ウガンダ リラ事務所所長を務め、一瞬にして家族・財産を失ったケニアの難民の問題を解決するために命懸けで、親身に難民の立場になり、粘り強く積極的に他との交渉にあたり平和的な解決に努めた。宮沢賢治の「雨ニモマケズ」の、厳しい状況にある人々のところに、「ジブンヲカンヂャウニ入レズニ」「行ッテ」じかに実践し解決し理想郷を目指す精神を持って、ウガンダで活躍していることが認められた。

 奨励賞は、『原爆詩一八一人集』(日文・英文)の刊行の三人の編者が受賞した。第二次世界大戦中に広島と長崎に原爆投下されてから60余年が過ぎ、戦争によってひき起こされた原爆の被害と惨劇を風化させまいとして長津功三良氏・鈴木比佐雄氏・山本十四尾氏が熱心に話し合い企画を立てた。被爆した詩人のみならず、企画に賛同した詩人たちへの呼びかけが実り核廃絶の願いと祈りの詩集を刊行したことが高く評価された。

■宮沢賢治賞

ロジャー・パルバース

□英国で刊行された『STRONG IN THE RAIN』(『雨ニモマケズ』)、青少年のための『英語で読み解く賢治の世界』で、長年賢治の詩、童話作品の研究・翻訳に取り組んだ努力と貢献に対して。

■宮沢賢治賞奨励賞

浜垣 誠司

□インターネットのサイトに『宮沢賢治の詩の世界』を立ち上げ「全詩一覧・草稿一覧」、詩稿の下書きなど、パソコンでの調査研究を可能にした先駆的な研究業績に対して


■イーハトーブ賞

高嶋由美子

□国連難民高等弁務官事務所ウガンダ リラ事務所所長として、一瞬にして家族・財産を失ったケニアの難民問題を積極的に粘り強く、献身的に解決した国際的な寄与に対して。


■イーハトーブ賞奨励賞

長津功三良・鈴木比佐雄・山本十四尾

□『原爆詩一八一人集』(日文、英文)において原爆被害を風化させまいとする企画・編集によって、核廃絶の願いと祈りの詩集を刊行した三人の編者の平和運動に対して。


受賞者の略歴と
業績

【宮沢賢治賞】

■ロジャー・パルバース(Roger Pulvers)氏

 1944年ニューヨーク生まれ。作家、劇作家、演出家。現在東京工業大学世界文明センター長。

 UCLAおよびハーバード大学大学院で学ぶ。ワルシャワ、パリに留学後、1967年に初来日。

 1982年には映画「戦場のメリークリスマス」助監督を務め、2008年の映画「明日への遺言」の脚本を担当。

●著書
『英語で読み解く賢治の世界』
『旅する帽子 小説ラフカディオ・ハーン』
翻訳書『英語で読む 銀河鉄道の夜』
『STRONG IN THE RAIN』(BLOODAXEBOOKS)
『英語で読み解く賢治の世界』(岩波書店)

□ロジャー・パルバース氏の業績について

 『STRONG IN THE RAIN』(『雨ニモマケズ』)(BLOODAXE社2007年刊行)において、「雨ニモマケズ」の詩の冒頭を《STRONG IN THE RAIN…》と翻訳された。今まで、賢治のこの詩の翻訳は数々行なわれ、否定語で始める訳が多く、原詩の雰囲気が伝わる適訳かどうかという意見があるが、本書の詳解によれば賢治は健康な丈夫な強い体を持つことを願望し、否定語で訳し始めると英語では賢治の祈りの精神が弱まり、STRONGで始めた方がより深い宗教的な祈りの境地まで表現することができると記述しており、個性的な翻訳である。

 旧著の『英語で読む宮沢賢治詩集』(ちくま文庫)の50編に新たに40編を加え、旧訳も深化発展させ、註解により読者は賢治の詩の理解が可能になった。イギリスでも「著者は今世紀の天才を世界の読者に紹介している」と評されている(岩波版ジュニア版「はじめに」)。

 『英語で読み解く賢治の世界』(岩波ジュニア新書2008年刊行)では、「永訣の朝」「風景とオルゴール」「『春と修羅』序」を含め7編の詩を取り上げ、賢治の詩と翻訳した英詩を短く区切り、懇切丁寧に翻訳の妙味を披露し読みごたえがある。各章末でパルバース氏が翻訳した「注文の多い料理店」「セロ弾きのゴーシュ」「雪渡り」「虔十公園林」「ひかりの素足」に言及し、賢治と方言・ユーモア・自然現象・孤独・死・動物との関係・宗教について解説し、読者は賢治の生涯を辿ることが可能である。また著者は日本で初めて「銀河鉄道の夜」を英字新聞に連載、ちくま文庫版で改訂を重ねてきた。著者の今日までの英語による翻訳への深い情熱と造詣と貢献が高く評価された。

【宮沢賢治賞奨励賞】

■浜垣 誠司(はまがき せいじ)氏

1960年11月21日 京都市生まれ
1985年3月 京都大学医学部卒業
京都大学医学部助手等を経て2001年10月より医療法人高木神経科医院 院長
専門は、精神医学
京都大学医学部非常勤講師。

●著書(いずれも共著)
『メンタルヘルスはどこへいくのか』(2002、批評社)
『リハビリテーションの森』(2008、かもがわ出版)
『被服と化粧の社会心理学』(1996年、北大路書房)

□浜垣誠司氏の業績について

 浜垣誠司氏は、宮沢賢治の作品を絵本や童話の本で知り、幼い頃から賢治の作品に慣れ親しんで来た。1999年の夏に花巻の宮沢賢治記念館、宮沢賢治イーハトーブ館を訪問して、たいへん感動し、賢治に関する表現活動をするため、Webサイトを立ち上げた。

 サイトの中心は全詩一覧・草稿一覧で、特に「宮澤賢治全詩一覧」「『春と修羅』第一・第二・第三集関連草稿一覧」の草稿類一覧表からリンクされたすべての逐次形草稿のテキストを見ることができる。冒頭にブログを設置し、作品・賢治紀行・賢治関連本・賢治情報・イベント・月別過去の記事などデジタルメディアならではの宮沢賢治研究の可能性を追求しているが、双方向性の平等さを維持することが課題と思われる。

 インターネットの持つ機能を活用し歌曲・石碑の部屋を設け、コンテンツに詩作のグラフ・推敲過程の動的表示・連作詩群の展望なども設け、インターネットで” 新校本“を開いたことは画期的であり先駆的な研究実績として評価された。

【イーハトーブ賞】

■高嶋 由美子(たかしま ゆみこ)氏

 1969年10月24日生まれ。

 現職はUNHCRウガンダ、カンパラ事務所、上席フィールド・コーディネーター。

□高嶋由美子氏の業績について

 高嶋氏は、紛争により一瞬にして家族や財産を失い命の危機に瀕している難民を救うことに全力を尽くしている。国連難民高等弁務官(UNHCR)事務所ウガンダ リラ事務所長を30代の若さで務め7人の職員とともに協力し、積極的に根気強く献身的に、しかも冷静な判断力をもち、指導力を発揮して問題の解決に努めた。

 今年3月下旬に、ウガンダのケニア難民の一時避難所で、祖国に帰還を望む人々の立場に立って、人生を切り開くことができるように、難民の意志や気持ちを尊重して、親身に耳を傾け続け、彼らの希望に添った決定ができるようにした。担当は3県40ヵ所のキャンプ。問題解決のため1カ月近く宿舎に戻れないときもあり、ウガンダの国内避難民の約80万人の帰還に尽力した。

 東京生まれで、英国エセックス大学で政治学を専攻し、帰国後に学習院大学大学院に入学して研究者を目指したが、ルワンダの駐日大使から民族紛争による悲劇を聞き、人生を変えた。スーダン、東ティモール、タイ、ミャンマー、アフガニスタン、ケニアでの勤務を経てウガンダ リラでの勤めとなった。1999年東ティモールに派遣され、難民を自宅に送り届けた際に、家族が涙で再会し、再出発していく姿に感動した。それ以来、人々が自立するのを傍らで支える共苦共感の姿勢は、まさに宮沢賢治精神をもってのものであり、難民問題解決の国際的な貢献が認められた。

【イーハトーブ奨励賞】

■長津 功三良(ながつ こうざぶろう)氏

1934年9月2日生まれ。
広島舟入高校卒。三菱銀行(現三菱東京UFJ銀行)定年退職後、郷里に戻る。
社会福祉法人美和苑理事
日本現代詩人会理事(西日本ゼミナール担当)
中四国詩人会理事
広島県詩人協会幹事

●著書
『影たちの葬列』(2003年幻棲舎)第四回『陽』現代詩平和賞受賞
『新日本現代詩文庫35』(2005年土曜美術社出版販売)
『影たちの墓碑銘』(2006年幻棲舎)第九回 小野十三郎賞受賞

■鈴木 比佐雄(すずき ひさお)氏

1954年7月9日 東京都荒川区生まれ。祖父や父は石炭屋を営んでいた。
1979年 法政大学文学部哲学科卒業。
1987年 宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」の中に出てくる「石炭袋」を借りて、宮沢賢治のような自己の内面を見つめ世界の苦悩を汲みあげて詩作する詩人達の詩を「石炭袋」に溢れさせようと、個人誌「COAL SACK」(石炭袋)を創刊する。詩の批評活動も開始する。
2006年8月、個人詩誌「COAL SACK」を詩書の専門出版社と改めて株式会社コールサック社とする。代表取締役となり、詩集・詩論集などの製作を開始する。
2007年8月6日の発行日で長津功三良・鈴木比佐雄・山本十四尾の選者で『原爆詩一八一人集』初版3000部を7月中旬に刊行し、全国で発売する。
12月に『原爆詩一八一人集』の英語版『Against Nuclear Weapons A CollectionPoems by 181Poets』を刊行し、核保有国の駐日大使や、カーター元大統領、ゴア元副大統領など世界の指導者や世界のジャーナリスト達に贈呈する。

●著書
1981年 第一詩集『風と祈り』
1987年 第二詩集『常夜燈のブランコ』
1989年 第三詩集『打水』
1990年 第四詩集『火の記憶』
1993年 第一詩論集『詩的反復力』
1994年 第五詩集『呼び声』
1997年 第六詩集『木いちご地図』
      第二詩論集『詩の原故郷へ』
2003年 第七詩集『日の後』
2005年 第三詩論集『詩の降り注ぐ場所』
2006年『長詩 リトルボーイ』

■山本 十四尾(やまもと としお)氏

 1935年6月7日 東京生まれ。

 明治大学卒業。古河文学館に詩集など収蔵・展示されている。ボランティアで「詩の教室」を月1回開いて70回に及んでいる。詩人に対する賞として第2回モデラート賞受賞。

 日本現代詩人会常任理事・日本文芸家協会会員・茨城県詩人協会名誉会員・日本詩人クラブ会員。詩誌『墓地』『衣』発行人。文芸誌「コールサック」顧問。2008年国民文化祭いばらき「現代詩」最終選考委員・「1ページの絵本」選考委員。下野新聞社詩の選者。

●著書
詩集『葬花』(横浜詩人会賞)・『風呂敷』(茨城文学賞)・『雷道』(第17回現代詩人賞・茨城新聞社賞)・詩集は他に『舞雪』『水の充実』『鬼捜し』など。

□長津 功三良氏・鈴木 比佐雄氏・山本十四尾氏の業績について

 1945年8月6日広島、8月9日長崎に原爆投下されてから60年経た年、被害者が高齢化しつつあり被爆の惨状を語り継ぐことが減り風化しているという問題意識と危機感が詩人たちを動かした。長津功三良・鈴木比佐雄・山本十四尾の三氏は刊行の企画を話しあった。広島生まれの故浜田知章の、15年前の「平和の哲学を発信せよ。」との教えを誠実に心に刻み刊行を決意したのであった。亡くなられた方々の詩を冒頭に掲載し、全国の心ある詩人に呼びかけ参加してもらうことを企画した。

 長津功三良氏は広島に生まれたが、小学校のとき疎開して被爆を免れ、それが負い目で詩に書けなかった。ここ20年…30年直視出来るようになり、広島の体験を記録すべく詩作を継続しており、全国の知り合いの詩人たちに参加を呼びかけた。

 鈴木比雄氏は詩誌「COAL SACK」(石炭袋)を主宰し、この詩集の出版社主である。コールサックは宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』のブラックホールや暗黒星雲を意味し、「ほんたうのさいはひ」の入り口を考え、湯川秀樹、小倉豊文などの作品を掲載しようと奔走した。

 山本十四尾氏は鈴木氏の相談役で長津氏とも古くからの詩友である。原爆への関心を持ち全国の詩人たちに声をかけ、被爆する、しないにかかわらず原爆の認識を全国の詩人達に持ってもらうようまとめ、核廃絶の精神の持続を祈り刊行を実現した。三人のチームワークの結実した刊行が高く評価された。


■宮沢賢治賞

【主催者】
花巻市
【選 考】
宮沢賢治学会イーハトーブセンター理事会
【選考方法】
会員からの推薦(所定の用紙)にもとづき、賞選考委員会が選考し、理事会の承認を経て花巻市長に答申する。
【選考対象及び基準】
宮沢賢治の名において顕彰されるにふさわしい研究・評論・創作など。おおむね過去三年以内に発表されたものを対象とする。なお、本賞に準ずるものとして奨励賞を置く。
【贈賞式】
宮沢賢治学会イーハトーブセンター総会の同日・同会場において行う。
【賞・賞金】
本 賞 賞状、正賞、副賞(百万円)
奨励賞 賞状、記念品、副賞(三十万円)

■イーハトーブ賞

【主催者】
花巻市
【選 考】
宮沢賢治学会イーハトーブセンター理事会
【選考方法】
会員からの推薦(所定の用紙)にもとづき、賞選考委員会が選考し、理事会の承認を経て花巻市長に答申する。
【選考対象及び基準】
宮沢賢治の名において顕彰されるにふさわしい実践的な活動を行った個人または団体。なお、本賞に準ずるものとして奨励賞を置く。
【贈賞式】
宮沢賢治学会イーハトーブセンター総会の同日・同会場において行う。
【賞・賞金】
本 賞 賞状、正賞、副賞(百万円)
奨励賞 賞状、記念品、副賞(三十万円)。


イーハトーブ〈植物〉学


―自然とともに生きた詩人―

伊藤 光弥


早池峰山頂風景 タカネツリガネニンジン
シラネアオイ ガンコウランとコケモモ

 宮沢賢治は盛岡中学の先輩石川啄木の影響を受け、中学校時代から盛岡高等農林学校を卒業するまでの十数年間に約千首の短歌を残している。賢治の植物好きは短歌にも良く表れており、中学時代に岩手山麓で「み裾野は雲低く垂れすゞらんの白き花咲きはなち駒あり」と詠んだり、小岩井農場遠足で「こぬかぐさうつぼぐさかもおしなべて かぼそきその実風に吹かるゝ」などと詠む豊かな才能に驚かされる。少年の頃から草や木に囲まれて遊ぶのが大好きだったのだろう。

 高等農林学校では気象、地質鉱物、土壌学などの新しい学問を学ぶ。三年生の夏、友人と種山ヶ原の地質調査に出かけ、霧に迷い野宿したり、一生懸命に働く山麓の子供達が忘れ難く、後年「原体剣舞連」を詠み、また農学校の生徒に学校劇「種山ヶ原の夜」を演じさせたりした。劇中に樹木の霊が登場するのは、森林の樹木を伐り倒せば牛馬の採草地も荒廃する自然の理を教えたもの。

 大正七年に高農を卒業して研究生となるが、肋膜に症状あり八月に依願退学をする。稗貫郡の依頼による地質調査を九月まで続けるが、単独行も多かった。ススキの原野を通り抜けたり、渓流を遡ったりしながら、地質岩石のみならず自然に生きる動植物を間近に観察できた。鹿や猿に出合えたかもしれない。岩手の森の体験は、童話や心象スケッチなどに登場する動植物にも生き生きとした生命を与えた。

 賢治が生きた時代は「岩手」の旧仮名遣いが「イハテ」だった。イーハトーブは「岩手の自然」の意味だったのではなかろうか。

 『春と修羅』の「東岩手火山」は、大正十一年秋、農学校生徒を連れて岩手山に登った体験であるが、詠んだ植物の名は蔓草のセンニンソウだけ。大正十四年夏の学校登山は山頂近くに野宿、この山行が新聞掲載される。生徒の投稿文となっているが、実は、麓のオキナグサやスズラン、山頂に咲くコマクサやタカネスミレ、岩石、夜の星座など、どこを読んでも賢治の指導だったことがわかる。

 大正十二年の「オホーツク挽歌」や「樺太鉄道」は、他界した妹を偲びサハリン(旧樺太)の浜辺を彷う挽歌である。オホーツク海の浜辺に咲くハマナス。寒い北国では海岸にも生育する高山植物のガンコウランやコケモモ。「不思議な釣鐘草(ブルーベル)」はハマベンケイソウらしい。

 「樺太鉄道」では、車窓にヤナギランの赤紫色の花の群落や大きなセリ科のエゾニュウの花の賑わいが映る。様々な植物を詩に描くことが出来たのは、植物知識が豊かだったからに相違ない。

 大正十三年夏、花巻の東方にある早池峰山に登り「北いっぱいの星ぞらに」「早池峯山巓」を詠む。また、翌年の夏遅い登山では「渓にて」「河原坊」「山の晨明に関する童話風の構想」を詠んだ。どれも「第二集」に載せる詩であった。前年は天気良く、イワカガミ、タカネツリガネニンジン、コケモモ、ウメバチソウなどの植物が登場するが、翌年は山頂の風激しく、視界が最悪だったらしい。

 「渓にて」は、岳川の支流を遡り七折ノ滝まで行くが雷や豪雨に見舞われ、退路を断たれるかもしれない恐怖を詠んだもの。こんな状況でもイタヤカエデやシラネアオイを見つけては詩の題材にする。「山の晨明に…」は、山頂の強風に飛ばされそうになるが辛うじて視界に映るハイマツやコメツガ、ミヤマウイキョウ、タカネツリガネニンジンなどを美味しいお菓子にして楽しむというもの。

 賢治の所蔵本に、牧野富太郎著『日本植物図鑑』(北隆館・大正十四年)や英国サットン商会の『種子や根茎から育てる野菜と草花』(邦訳なし)があるという。『日本植物図鑑』は二千五百五十種の植物を丹念に描き解説した大冊で、本邦最初の植物図鑑と言ってよい。

 英文の本は野菜や草花を育てる解説本で、イギリスの種子販売業社サットン商会発行のもの。昭和三年六月、上京して伊豆大島に伊藤七雄兄妹を訪ねたとき、日本橋の丸善(書店)で求めたものか。

 大正十五年三月、農学校退職。大正十五年と昭和二年の二年間は花巻共立病院や花巻温泉遊園地の花壇造成をしたり、羅須地人協会の活動を広めた。しかし、昭和三年四月、労農党解散命令があり諸活動が挫折する。労農党幹部だった伊藤七雄を伊豆大島に訪ねたのも癒しの旅だったと思われる。花巻に戻り、衰弱した身体で再び農村の巡回を始めるが、喀血で入院後、自宅療養となる。

 昭和五年春、小康を得て自宅裏に草花などを育てていたが、二ヶ月半ほどで再び病床生活に戻る。以後、昭和八年に病没するまで園芸に関わることは殆どなかった。

付記 本稿で詳細を伝えられなかった部分については、拙著『宮沢賢治と植物』(砂書房)、『イーハトーヴの植物学』『森からの手紙』(洋々社)などをご覧願いたい。

(山形県天童市)



投稿エッセイ

「北守将軍と三人兄弟の医者」― モチーフの幾つかについて

高橋 進


 平成十九年十二月八・九日開催の賢治学会、冬季セミナーに参加しました。賢治と建築がテーマでしたが、色々得る物がありました。その一つが、今回の主題について調べてみようと思ったことです。

 そのきっかけは、次の二点によります。第一が天沢代表理事のシンポジウム司会の際のコメントでした。すなわち、北守将軍の訪れた「病院が、崖の上」にあるという賢治の表題と、氏の居住する千葉市の千葉大学医学部がそのような場所に所在していることについてのなにげないお話がありました。私には、その時、花巻の総合花巻病院が、地形的にそれに該当する、と、反射的に感じられました。

 第二は、二日目の米地文夫氏の「黒ぶどう」の講演です。精緻な論理で、展開する話を、前日からの思いに何となく重ね合わせながら聞いておりました。そうだ、そのような感じで「北守将軍と三人兄弟の医者」のモチーフを他にも探せないかと。

 そのようなきっかけに基づいて自分なりに得たことを、これから述べます。

第一 病院について

 先ず、最初は、今回のきっかけになった、病院の所在地です。都ラユーのマクロ的所在地は中国と推定されているようですが(註一)、ここではラユーについての検討ではなく、ミクロ的に考えた、病院の所在地もしくはモチーフの推定です。

 三人の病院は、「町のいちばん南にあたる、黄色な崖のとっぱな」に建っている、と、書かれています。意外な事実ですが、総合花巻病院(旧花巻共立病院)は、旧花巻町の中心部では一番高い場所にあたる所に所在しています。北側、即ち、四日町・一日市町方面から病院をみれば、正に「がけのとっぱな」であり、その地区の住民から見れば「町のいちばん南にあた」ります。また、病院の南側、即ち賢治の生家の豊沢町は「坂のふもと」に当たる場所です。どうも花巻共立病院が、三人の病院についてのモチーフになったような気がします。

 地理的にそうだとして、次に、病院が「三つならべて建」っているという、賢治の一見何気ない設定に関しましても、この仮説はうまく当てはまります。というのは、花巻共立病院(大正十二年開設)は、稗貫農学校(花巻農学校の前身・大正十年開校・十二年他所に移転)、稗貫郡役所(明治三十五年建設)と短期間ですが三軒並んで所在していたという事実です。なお、その「短期間」の期間には、最初の稿本が成立したと言われている「大正十一年頃」が重なりあっていることも注目されます(註二)。賢治は、花巻共立病院を「普通の人の医者」と言い、隣の稗貫農学校の職員(彼自身を含めて)を「馬や羊の医者」及び「草だの木だのの医者」として見たのではないでしょううか。

 そこの農学校で一年四ヶ月教えた賢治は、本当に「草や木だのの医者」でした。かつ、そのような人を育てようと一生懸命頑張った人でもありました。

 賢治は、「北守将軍と三人兄弟の医者」の複数の稿本(題名が異なるものも含む)で、医師たちの名前を二種類使用しているので、その各固有名詞の意味づけはそれほどの重要性はないかもしれませんが、昭和六年に発表された定稿(註三)の医師たちの名前、リンパー、リンプー、リンポーを筆者が聞くと、当時の花巻共立病院の院長佐藤隆房、我々は「リューホー」さんと呼び慣らしている方の「呼び名」と何か類似性が感じられます。ひょっとして、賢治は、自身の主治医でもある氏の名前をこっそり、半分ユーモラスに借用したのかもしれません。

 だとすれば、上記の仮説が益々フィットします。

第二 北守将軍について

 次に、七十歳で故郷に帰ってきた主人公について考えました。中村稔氏はこの童話の魅力を「北守将軍の人格の魅力にあるように思われる。」(註四)とし、作中の軍歌は唐詩選巻七の詩から依拠していることを大分以前に承知されていた旨、同論文に書いておられます。しかしながら、具体的人物モデルについての発言はされていません。また、他の論文等にも、モデルについての具体的言及がありません。(例えば、註一論文六頁)勿論フィクションですからモデルはあってもなくても構わないわけですが、今回それに近い人、言い換えればモチーフを与えた人とも言うべき人が見つかりました。

 実は、花巻の人にとってはあまりにも有名な将軍に北松斎がいます。南部家の重臣として、かつ花巻城代としてなじみが深く、開町の恩人とも言われています。この北松斎が北守将軍のモチーフではないでしょうか。ちなみに時間的には大分離れていますが、彼の居城、花巻城(の跡)と共立病院の間にはお堀があるだけです。全くの隣同士です。

 この人、北松斎、は南部藩主南部信直の名代として天正十五年(一五八七年、松斎六十七歳)に加賀に前田利家を訪ね(註五)、同じく天正十八年(一五九〇年、同七十歳)、秀吉のいわゆる奥州仕置に際しては宇都宮まで行っております(註五)。更に、文禄元年(一五九二年、同七十二歳)の秀吉の朝鮮出兵の折にも、九州名護屋まで従っており、故郷に帰ってきた時は「もう七十」以上だったのです。当時としては、かつ、彼の年齢にしては驚くべき行動範囲の広さだったと言えます。しかし、寄る年なみには勝てず、文禄の初めの頃七十余歳となり、目もほとんど見えなくなったこともあり、引退を藩主に願い出ました(註六)。ところが、彼はあまりにも藩にとり、重要な人物であったので、彼の願が認められず、慶長十八年九十三歳で亡くなるまで仕えたという人物です。彼こそ「愚直ともいうべき誠実な人物」(註四 論文八十一頁)と思われます。

 賢治の物語では、将軍は引退を認められましたが、その点に関してはストーリーが異なっています。

 以上、残念ながら、モデルと言い切るほどのデータもそろっていないので、あえて賢治の作品のモチーフと言う程度の紹介です。今後何かの参考になるかと思い報告させていただきました。

註一 村上衛「北守」と「ラユー」(十代二十六巻六号 二五六号 二〇〇六年十二月)六頁
註二 植田信子「「北守将軍と三人兄弟の医者」改稿考―将軍像を中心に」(名古屋女子大紀要、第四十六号 二〇〇〇年三月)三三〇頁
註三 西田直敏「北守将軍と三人兄弟の医者」の一考案(四次元 第十巻 第四号 昭和三十三年四月)十三頁
註四 中村稔「北守将軍と三人兄弟の医者」(ユリイカ 一九九四年四月)八十頁
註五 「北左衛門信愛之覚書き」(南部叢書第二「聞老遺事」所収)
註六 「北尾張守信愛剃髪之事」(南部叢書第三「祐清私記」所収)

(岩手県花巻市)


ぎんがぎがのすすき

佐々木 淑子


ゴウと 風が音をたて
さんざ 木々をゆさぶって
渦を巻きながら 谷を駆け上って行く
風の通り道なのだ

そこに その谷のそばに
ひとむらの刈られないままのすすきがある
風にゆれると まるで
嘉十(かじゅう)の見た ぎんがぎがのすすきのように
夕陽を受けて 銀色に光る

私はなぜ 刈るのを止めてしまったろうか
いつか 鹿(しし)踊りのようなものが
そこで始まると 夢見たろうか
そんなこと そんなこと

風が谷を鳴らす ある日
私は鎌を手にもって
刈ろうとこころみたのだった
すすきの根元をわしづかみにして
すすきの穂を斜めに払いのけ
スパッと鎌を振り落とした

「イタッ」

私の人差し指を深く切り裂いたのは
鎌ではなかった
すすきの細い刀のような葉だった
どっと噴き出す真っ赤な血と
私が私であることの指紋の渦を
しばらく じっと見ていた

頬に当たるすすきの穂は
動物の毛並みのようになめらかだった

すすきよ おまえは
風と歌う生命の歌を
青天の銀河に響かせていたのか

風の通り道にある ひとむらのすすき
宇宙のカオスにゆれる ひとむらのすすき
私の庭のぎんがぎがのすすきは
今も 刈られないまま そこにある

嘉十 宮沢賢治「鹿踊りのはじまり」の主人公の少年の名
詩集『未生MIU』より

(神奈川県横須賀市)


宮沢賢治資料42


「〔住所録 B〕」「猟キ社」について

杉浦 静


『新校本宮澤賢治全集』第十五巻「書簡」に未収録の葉書一通を紹介します。

〔住所録 B〕92頁
『性画の研究』表紙 『性画の研究』目次 『性画の研究』 『性画の研究』奥付

 宮沢賢治が生前用いていた住所録が二種類残されている。『校本宮沢賢治全集』以来、これらを「〔住所録 A〕」・「〔住所録 B〕」とよんでいるが、これらはいずれも、東北砕石工場技師時代に、Aは、宣伝物発送のために、Bは、炭酸石灰・搗粉等の訪問販売のために、用いられたと推定されている。したがって、昭和六年春から夏にかけての作成・使用と考えられる。

 このなかに一件、ほかとは性格が異なると思われる不思議な住所があった。「〔住所録 B〕」最終頁の92頁に書かれている「小石川区 水道端二の二六 猟キ社」である。賢治と猟キ社という取り合わせは興味深いものだが、この住所の猟奇社が不明であった。猟キは〈猟奇〉のこと、エロ・グロ・ナンセンスが流行した昭和初期の風俗のひとつでもある。昭和初年代から戦後にかけて、いくつかの猟奇社という版元が存在したが、一部によく知られているのは、最初京都で始まりのちに大阪に移った出版社で、夢野久作・国枝史郎・大泉黒石らのエッセイや犯罪研究記事などを載せた「猟奇」という雑誌の発行元であろう。

 「〔住所録 B〕」のものは「小石川区」で東京だから、もちろんこれとは違う。東京小石川区の猟奇社については、「匂へる園」第二輯(昭7・8、日本愛書家協会)掲載の『現代軟派文献大年表』に次のような記載があった。猟奇社は、「昭和五年九月頃、「世界文学研究会」内に創立、世界文学叢書を刊行している同会の機関誌として「エロ」の刊行あり、後には小石川区水道端町に独立した事務所を置いたが「世文」と同一系統のものである」。ここにいう、「世文」=「世界文学研究会」とは、浦司若浪により設立され、「軟文学」の復刻ものを「世界文学叢書」として刊行していたが、会費制会員組織で、「非合法的出版方法を採つてゐた」。そのため、浦司はしばしば逮捕投獄されている。ただ、猟奇社自体は非合法ではなかった。機関誌「エロ」は、創刊号は発禁であったが、二・三合併号は、昭和五年十一月に無事刊行されている。この号以後は刊行されていない。

 確かに「エロ」の版元は猟奇社だが、発行所は「東京市小石川区大塚町七十三」で、「〔住所録 B〕」のものとは違う。『現代軟派文献大年表』には、猟奇社の刊行物として、「エロ」の他に和田信義『香具師の研究』と赤木妖三『性画の研究』の二著が掲げられているので、これらの発行所を確認すると『性画の研究』の住所が、まさに「東京市小石川区水道端二ノ二六」であった。発行日は、「昭和六年四月五日」、住所録の作成使用時期とも合致する。猟奇社が、小石川区水道端のこの住所にあった時に刊行されたのは、現在確認できるのはこの一冊だけである。そしてこの本以外に「小石川区水道端二ノ二六」の住所が記されているのは、この本の広告ちらしだけである。とすると、この本と、賢治がつながることになるのだが、賢治はこの『性画の研究』を入手したのか、それともどこかで広告ちらしを見て、註文しようと住所を書き留めておいたのか、それは今のところ不明である。

 赤木妖三の『性画の研究』について、『現代軟派文献大年表』では、「『猟奇文献叢書』の第一篇として刊行されたが、同叢書は其後未刊に終つてゐる。」と解説されている。目次を掲げたが、見ての通り内容は、古今東西の性画の歴史と日本におけるその流行について記したものだが、そのなかでも、「江戸期の性画大観」として菱川師宣から河鍋暁斎に至る浮世絵師の春本・春画のリストを四六頁にわたって掲げているところが圧巻である。画の性質上、「諸賢御珍蔵の性画を対象されんことを願ふことゝし、断然本書には口絵挿絵の類を挿入しないことにした。」と断っているのもおもしろい。

 浮世絵のコレクターとしても知られる賢治が、この本に興味を持ったのもなるほどと思わせられる内容である。

(埼玉県草加市)


テクスト・クローズアップ(29)


ここはいったいどこの停車場だ(「青森挽歌」第八行)

天沢 退二郎


『春と修羅』詩集印刷用直筆原稿
けれどもここはいったいどこの停車場(ば)だ
枕木を焼いてこさえた柵が立ち
 (八月の よるのしづまの 寒天凝膠(アガアゼル))
支手のあるいちれつの柱は
なつかしい陰影だけでできてゐる
黄いろなラムプがふたつ點(つ)き
せいたかくあをじろい駅長の
真鍮棒もみえなければ
じつは駅長のかげもないのだ

 《こんなやみよののはらのなかをゆくときは》という第一行ではじまる全二百五十二行のこの詩篇は、おそらくたとえば(一九二三年七月三十一日の)夜の九時台に花巻を出発して夜通し走り、翌日早朝五時過ぎに青森に到着する列車を舞台に設定された旅の詩、ロード・ポエムであるとして、この第八行の、「ここ」は「どこの停車場(ば)」であろうか?

 すでによく知られているように、「停車場」と「駅」とは全く同じ概念ではない。当時の国鉄の「規定」によれば「停車場」とは、1・駅、2・操車場、3・信号場の三つを含み、他に「信号所」というのがあるが、これは「停車場」ではなくて、「構内」を有(も)たないとされている。つまり「青森挽歌」第九.十六行の詩句を見れば、このとき詩人をのせた列車が一とき停車・・したのは、「駅」ではなくて「信号場」であったと考えられる。

(当時の東北本線、花巻青森間には、点々と「信号所」や「信号場」があり、その中には、明治から大正、昭和にかけて信号所から信号場へ、信号場から駅へと昇格したものも少なくない。)

 以上については、本年五月十八日の函館セミナーでの私の講演でふれたが、そのとき言わずにおいたことが一つある。詩人もおそらく、以上のことを知っていたが、わざと「信号場」という語を使わなかったのではないか――なぜなら「信号」という語は、死せるとし子からの「通信」の可能性を問い求めるこの詩篇の基本主題にとって、むしろ隠蔽すべき、微妙な、一種の禁句だったからだ、と。

 もう一つ。第八行を富山英俊氏らは
But where in the world is this station?
と訳しているが(言語文化、第二十四号)、実際この停車場は、現世のでなくて、中有の、死出の旅路のそれかもしれないと詩人が思った可能性は、もちろんある。

(千葉県千葉市)


報告


夏季特設セミナー
「「風の又三郎」の謎に迫る」(第5回)

二〇〇八年八月二日・三日


第1日:基調報告 第1日:シンポジウム 第2日:大迫町バスツアー
第1日:イーハトーブの郷土芸能【大償神楽】 第1日:イーハトーブの郷土芸能【大償神楽】

 二〇〇八年度の夏季特設セミナーは八月二日、三日の二日間にわたって開催され、会場は昨年の十月に完成したばかりの花巻市大迫交流活性化センターで行なわれました。この会場の別館である旧稗貫郡役所の建物は、賢治の寓話「猫の事務所」のモデルともいわれ、現在は「早池峰と賢治」の展示館として公開されています。

 さて、長期企画としてスタートした「「風の又三郎」の謎に迫る」も今年で五回目となり、いよいよ最終回となりました。会員の皆様をはじめ、参加者の方々には二〇〇三年からの長期に渡る企画に参加、協力いただきましたことを心より感謝申し上げます。

 セミナー初日はコーディネーターの天沢退二郎さんによる基調報告後、詩人の吉田文憲さんと彫刻家の栗原俊明さんを交えてのシンポジウムが行われ、「九月二日の章は、なぜ?ほんとうに?最後に書かれたのか」と「物語「風の又三郎」の正体とは」をテーマに、それぞれの視点で語っていただきました。

 続いての「イーハトーブの郷土芸能」は、早池峰大償神楽保存会の皆さんに「大償神楽」を披露していただきました。大迫町には「大償神楽」と、前回の冬季セミナーで披露された「岳神楽」との二つの神楽座があり、その総称が早池峰神楽と呼ばれるもので、古くから伝承されてきた由緒ある芸能です。本来、「イーハトーブの郷土芸能」は冬季のみ行なわれてきましたが、今回のセミナーが大迫会場であったため、地元の皆様の好意により披露していただきました。たいへん熱のこもった舞は、見ごたえ充分なもので、セミナー参加者の皆様も満足されたのではないかと思います。

 セミナー終了後は、「旧稗貫郡役所」の建物見学や、地元大迫町の皆様による心のこもった交流会が盛大に行われ、たいへん心地よい夏のひとときとなりました。

 二日目は、「早池峰賢治の会」の浅沼利一郎さんの案内で大迫町内の「賢治ゆかりの地」をバスで巡り、童話「風の又三朗」の舞台を彷彿させる「火ノ又分教場」や「たばこ畑」、賢治が宿泊したとされる「石川旅館跡」等を見学しました。

 二日間をとおして暑い中での日程となりましたが、全国から会員の皆様をはじめ多くの方々に参加していただき誠にありがとうございました。

☆初日

会場◎花巻市大迫交流活性化センター

■基調報告(13:30〜14:00)

「九月二日の章は、なぜ? ほんとうに?最後に書かれたのか」
「物語「風の又三郎」の正体とは」
報告:天沢 退二郎(宮沢賢治学会代表理事)

■シンポジウム(14:15〜15:30)

パネリスト:吉田 文憲(詩人)
栗原 俊明(彫刻家)
司   会:天沢 退二郎

■イーハトーブの郷土芸能(15:45〜)

「大償神楽(おおつぐないかぐら)」/早池峰大償神楽保存会

■旧稗貫郡役所建物(早池峰と賢治の展示館) 見学

☆二日目

会場◎花巻市大迫町内

■大迫町バスツアー(9:30〜12:00)

火ノ又(ひのまた)分教場跡 たばこ畑 石川旅館
案内/浅沼利一郎(早池峰賢治の会)