宮沢賢治学会・会報第38号

「あゝ、さうだ。みんながさう考へる。けれどもい っしょに行けない。そしてみんながカムパネルラ だ。おまへがあふどんなひとでもみんな何べんも おまへといっしょに苹果をたべたり汽車に乗った りしたのだ。だからやっぱりおまへはさっき考へ たやうにあらゆるひとのいちばんの幸福をさがし てみんなと一しょに早くそこに行くがいゝ、そこ でばかりおまへはほんたうにカムパネルラといつ までもいっしょに行けるのだ。」

(「銀河鉄道の夜」初期形三より)


第38号●りんご
2009年3月31日発行
  1. 昭和六年の新聞スクラップブックと宮沢賢治 杉浦 静
  2. 報告
  3. イーハトーブ〈染物〉学
  4. 投稿&投稿エッセイ
  5. 宮沢賢治資料(43) 杉浦 静
  6. 函館セミナー「青森挽歌」と「函館港春夜光景」 巨きな水素のりんごのなかを

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昭和六年の新聞スクラップブックと宮沢賢治

杉浦 静

 このあいだ古書展で、「昭和六年/新聞経済記事切抜/岩手県穀物検査所」と表紙に書かれた古い手製のスクラップブックを見つけた。穀物検査所は、県産米や、他県への移出米等の品質や等級、その他の検査をする機関だから、そこでの新聞経済記事の切り抜きには関心があったので、早速購入した。

 帰宅後、中をじっくり見てみると、昭和六年一月八日から、十二月三十日までのほぼ毎日の岩手日報・岩手毎日新聞からの切抜だった。その中心は米の買入価格や、先物取引の相場やの記事で、その他の経済記事も米穀の売買に関するものが大部分であったが、眺めていると僅かながらも、昭和六年の作柄や農村の経済状況を報じた記事も見られた。それらを見てゆくと、昭和四・五年を農村恐慌としている記事があった。米や繭等が大正期以来次第次第に増産傾向にあったにもかかわらず価格は低落気味だったが、四・五年に至ってついに暴落して、「驚くべき米・繭価の低落」「労して効なき農民」と報じられる状況になっていたということだ。

 昭和六年は、夏に向かって作柄不良が確実になっていった。六月十七日付の切抜は、「一般に温度低く日照度少なく殊に東北、北海道は苗の発育悪く植付も五日乃至十五日遅延し、引続き本田の発育も不良にして」と報じた。

 八月には天候も回復して持ち直したかに見えたが、十月二日には「開花結実期に至りまた降雨早冷のために登熟充分なるを得ざるものあり殊に北海道及東北地方において甚だしく地方によりては螟虫、稲熱病の被害または水害等あり」として「五年ぶりの不作」を農林省が発表するに至った。さらに一月後の十一月十二日には再び減収の予想が発表され「十数年来の不作」に転じた。これに金の輸出再禁止政策による円安・インフレが重なり、現金収入の激減した農村は一層の疲弊の度を高めた。これ以後、スクラップ記事には、「農村没落」「農業窮境」(十二・十九)、「農村の疲弊困憊」(十二・二十九)などの文字が非常に目につくようになる。

 これらの切り抜きからうかがえるのは、この年の不作・凶作だけに拠って農村が疲弊したのではなく、いくつもの社会的経済的な要因が農村に重層することによってもたらされたものであるということだ。

 宮沢賢治の昭和六年は、二月から東北砕石工場技師として炭酸石灰の販売にまさに東奔西走した末、九月二十一日には東京にて発熱臥床。帰郷後、十一月には病床で「雨ニモマケズ」を書いている。宮沢賢治の眼には窮境に陥っていく〈イーハトーブ〉は、どのように映っていたのだろうか。「王冠印手帳」から「雨ニモマケズ」手帳に至る手帳に書き留められたスケッチや断片によって、それを辿ることが出来るのだが、その中でも気になるのは、「兄妹像手帳」の冒頭近くに書きとめられた次のようなスケッチだ。

すでに土用の七日には
南方の都市に行ってゐた画家たちや
ableなる楽師たち
次々郷里に帰ってきて
いつもの郷里の八月と
まるで違った緑の種類の豊富なことに愕いた
それはおとなしいひわいろから
豆いろ乃至うすいピンクをさへ含んだ
あらゆる緑のステージで
画家は曽って感じたこともない
ふしぎな緑に眼を愕かした
けれどもこれら緑のいろが
青いまんまで立ってゐる田や
その藁は家畜もよろこんで喰べるではあらうが
人の飢をみたすとは思はれぬ
その年の憂愁を感ずるのである

 大正末に農学校の教員を務めていた頃には、「若し生徒等この旅を終へて郷に帰るの日新に欧米の観光客の心地を以てその山川に臨まんか孰れかかの懐かしき広重北斎古版画の一片に非らんや。実に修練斯の如くならざるよりは田園の風と光とはその余りに鈍重なる労働の辛苦によりて影を失ひ、農業は傍観して神聖に自ら行ひて苦痛なる一のskimmed milkたるに過ぎず」と現実認識の転換・変化による変革の可能性にかけて〈イーハトーブ〉を構想したりしていたのだったが、昭和六年夏に画家を喜ばせた「ふしぎな緑」は、「人の飢をみたすとは思はれぬ」「憂愁」をもたらすものでしかなかった。

 美的認識は現実の飢えを克服できないのだ。「あらたなるよきみち」(「王冠印手帳」)だった東北砕石工場技師としての炭酸石灰の販売普及は、土壌改良を通じて現実の飢えの克服へとつながるはずだったが、宮沢賢治は九月二十一日以降「熱病にあえぐ」身となってしまった。

 闘病生活のなかで書かれた「〔雨ニモマケズ〕」は、その中で、「東ニ病気ノコドモアレバ/行ッテ看病シテヤリ」から「南ニ……」まで、東西南のすべてに「行ッテ」……シテヤリという窮者たちへの積極的行動の願望が込められている。北には、「北ニケンクヮヤソショウガアレバ/ツマラナイカラヤメロトイヒ」と「行ッテ」はないのだが、後の手入れで前頁末尾に書き込まれた「行ッテ」は文字の配置から見ると次頁の「北ニ……」につながるように書き込まれたようにも見える。ここに用いられた赤鉛筆は、「雨ニモマケズ」手帳の中では、後の頁の詩「不軽菩薩」の記入に使用されるのみで、他にほとんど使用されていない。「不軽菩薩」は、追われても罵られても、いつのまにか現れ出てきて人の中にある仏性を拝する菩薩を描いたもので、ここでの菩薩の行動性に、「雨ニモマケズ」の「行ッテ」に共通するものが感じられる。「不軽菩薩」の執筆が、「雨ニモマケズ」への書き入れを惹起したと想像してもよいのではないだろうか。

 このような、「行ッテ」を書き入れた時、向こう側には新聞記事の切り抜きから垣間見たような農村の疲弊困窮があり、賢治自身は「あたらしき道」に中断して病床にあった。その時の宮沢賢治の思いの深さというか切なさのようなものが、この一語から迫ってくるように思われてならないのである。



【報告】
第十九回定期大会

 二〇〇八年度定期大会は、会員他一五〇名の参加を得て、昨年九月二十二日と二十三日の二日間にわたり、花巻市のNAHANプラザ、宮沢賢治イーハトーブ館を会場に開催されました。大会の様子をご報告いたします。

第十八回宮沢賢治賞、イーハトーブ賞贈呈式


 今回も例年どおり九月二十二日、午前十時から花巻市主催による第十八回宮沢賢治賞・イーハトーブ賞贈呈式が開催されました。

 今年の宮沢賢治賞は、英国で刊行された『STRONG IN THE RAIN』(「雨ニモマケズ」)と、昨年、日本で刊行された『英語で読み解く賢治の世界』の著者であり、長年にわたる賢治の詩や童話の研究、さらに翻訳に取り組んだ努力と貢献に対してロジャー・パルバース氏に贈られました。また宮沢賢治奨励賞は、WEBサイト上に『宮沢賢治の詩の世界』を立ち上げ「全詩一覧・草稿一覧」、詩稿の下書きなど、パソコンでの調査研究を可能にした先駆的研究業績に対して浜垣誠司氏に贈られました。

 同じくイーハトーブ賞はウガンダ・リラ事務所長として、ケニアの難民問題を積極的、また献身的に解決した国際的な寄与に対して国連難民高等弁務官の高嶋由美子氏に、そしてイーハトーブ賞奨励賞は『原爆詩一八一人集』(日文、英文)の共同編者三名の長津功三良氏、鈴木比佐雄氏、山本十四尾氏に贈られました。

 花巻市長から賞が贈られ、各受賞者からのスピーチ、その後、本賞受賞者のロジャー・パルバース氏、高嶋由美子氏による記念講演となり閉幕となりました。「本賞受賞者のことば」は本号に掲載するとともに、受賞者の皆さんの横顔につきましては、会報三十七号にて紹介しておりますのでご参照ください。


定期総会

 午後一時半からは定期総会が行われました。出席会員の中から花巻市東和町の川村哲夫さんを議長に選出した後、議事に入り二〇〇七年度事業報告及び収支決算が原案どおり承認、続いての二〇〇八年度事業計画及び収支予算についても原案どおり可決されました。続いての役員改選についてでは、今年度から会員による選挙で選出されることになったが、理事候補者への事前連絡や選挙結果についての報告が上手くいかなかったのではという指摘がありました。今後は規約を含めた役員改選のあり方について更に検討していくこととし、次回の課題として慎重に取り組ませていただきます。なお、今年度からの新役員の構成及び、新しく役員に就任された方々のプロフィールにつきましては本号に掲載しております。


賢治研究リレー講演

 恒例のリレー講演は、持ち時間一人十五分というなかで、宮沢賢治奨励賞・イーハトーブ奨励賞を含む三名の方々からそれぞれの賢治をテーマにお話をしていただきました。講演の要旨は本号に掲載しております。


イーハトーブ・サロン−私と賢治−


 毎年恒例となっている参加者が気軽に所感を述べ合う本コーナーでは、七名の方々が登壇され一人五分ずつのスピーチをいただきました。登壇頂いたのは次の方々です。

 松野洋子さん(宮城)、小川とく子さん(宮崎)、泉澤竹男さん(岩手)、林洋子さん(東京)、佐藤成さん(宮城)、中野由貴さん(兵庫)、小野浩さん(福島)


会員交流・懇親会


 初日の日程の最後となる会員交流・懇親会は天沢前代表理事の乾杯で始まり、花巻副市長の挨拶のあと歓談となりました。

 今回のイーハトーブ料理メニューは、「花巻で賢治さんと光太郎さんの晩餐会」をテーマに、現在イーハトーブ館で開催中の「高村光太郎展」(二〇〇八年八月〜二〇〇九年八月末まで)との関連から企画されました。メニューの考案は学会員の中野由貴さんによるもので、賢治と光太郎のエピソードや作品に因んだ飲みもの四品と料理九品が会場に並べられました。

 会員をはじめ宮沢賢治賞、イーハトーブ賞の受賞者や花巻市関係者も加わり、たいへん賑やかなひとときとなりました。


研究発表


 二日目は、会場をイーハトーブ館に移しての研究発表です。今回も応募者多数により、一階ホールと二階講義室の二会場開催となりました。様々な角度からの研究が聞けることもあり毎年、会員をはじめ多くの方々に参加頂いております。午前九時半から一人三十分の持ち時間で八人の方の発表がありました。研究発表者と発表題目については次のとおりです。

A会場(宮沢賢治イーハトーブ館ホール)

  1. 中路 正恒
    『なめとこ山の熊』:最後のシーンの小十郎と熊たち
  2. 佐藤 啓一
    「北守将軍と三人兄弟の医者」考
  3. 青木 静枝
    紫紺染めに魅せられて
  4. 宇佐美怜子
    『黄色のトマト』が語るもの―ペムペルとネリの「かあいさう」を探る

B会場(宮沢賢治イーハトーブ館講義室)

  • 米地 文夫
    「銀河鉄道の夜」原稿6分割論
  • 福士 春男
    『銀河鉄道の夜』における「或る心理学的な仕事」―トランスパーソナル心理学の視点から
  • 姉歯 武司
    詩「雨ニモマケズ」を「十界論」より見た一考察
  • 神代 瑞希
    宮沢賢治の粒子感について


  • 第18回
    宮沢賢治賞・
    イーハトーブ賞
    受賞者あいさつ


    宮沢賢治賞受賞

    ロジャー・パルバース


     私が初めて日本の地を踏んだのは、昭和四二年です。かれこれ四一年の歳月が流れているわけですが、当時、私は日本語が一切できませんでしたので、はやく覚えようとしたのですが、やっぱり読み書きもしたいと思って「一番美しい日本語を書いているのは誰ですか」と友人に聞きました。幸いにその方が、宮沢賢治だと教えてくれました。もし太宰治だといわれたら私は津軽賞をもらったかもしれないですね。そしてこの前なくなった河原町の丸善にいって、文庫本の童話集を買い、読み始めたんです。最初は短いものから、「ざしき童子のはなし」だったと思います。短いものだからいけると思って読み始めたのです。擬態語と擬声語とかがあって、あのときから宮沢賢治を「ミヤザワザワケンジ」と呼ぶことにしました。

     それから二年後、一九六九年に初めて花巻へ足を運ぶ機会がありました。そのときには賢治の作品を全部読んでいて、「ざしき童子のはなし」から始まり詩も読み始め翻訳もしていました。何よりも賢治の美しい文章に取りつかれた。我々がこれから宮沢賢治という現象をどのように考えていかなければならないかということを、歴史を交えて簡単にお話させて頂きたいと思います。

     十八世紀には科学革命がおこり、もはや信仰だけでは人間の暮らしは良くなり心も癒されるということは不可能ではないかということをヨーロッパでは考えるようになりました。衛生学の基本もできて進化論に必要な知識とか基本的な分析とかも既に十八世紀にはできていたと思われます。十九世紀は近代国家の世紀ですね。

     フランス革命が起こったのは十八世紀後半ですがアメリカ合衆国ができたのは、ほぼ十九世紀、ドイツやフランス、イタリアという近代国家が成立った。この科学が生み出すテクノロジーをどう利用したらいいかと国家として人々が考えるようになったんです。当然、武器とか悪い結果ももたらしたのですが、科学利用の世紀だと考えております。奴隷制度がほぼ地球から姿を消し、後に多くの国が植民地的地位から脱却したわけです。

     私からみれば二〇世紀は女性と子供の解放の世紀だと一〇〇年、二〇〇年たったらそのように見られるのではないかと思います。しかし、もしかしたら、今がここ三〇〇年で一番、厄介で解決しにくい問題に我々は直面しているのではないかと思います。それは私たちの周りの動植物をどのように扱うかということです。場合によっては、これを環境問題とよび、あるいは気候危機とか、不都合な真実とか色々とあるのですが、これらが一番大変なことではないかと思います。人間というのは遠くにある問題に関しては、すごく関心があります。

     オーストラリアのアボリジニーを解放しなくてはならないとか、そういう問題は言いやすいのです。でも身近な問題だと自分の利益にも関係するわけですから、そうではないですね。だから、私は思うのですが、他人に対しての暴力は自分への暴力です。自然破壊は自分破壊だと。これが二十一世紀への最大のメッセージだと思うんですね。これから自然を乱暴に扱うと絶滅するのは、ベンガルの虎でも、オーストラリアのコアラでも西表のヤマネコでもなく人間そのものだと思います。もちろん、ここでは賢治の豊かな現象学というか思想が入ってきているわけですね。人間は動物と植物と平和共存的な暮らしを創りださなければなりません。

     人間は、みんなを幸せにしないと自分も幸せになれないという賢治の有名なことばを、しみじみ感じる時代となりました。一番はっきりと、一番深く、一番美しく、そういうことを我々に教えてくれたのは、他ならぬ宮沢賢治です。こういう人は日本だけではなく、世界中でも百年に一人しか生れてこないと思います。その人は、たまたま日本人として花巻で生まれたわけですが、もはや日本人だけの知的所有物ではありません。世界の宮沢賢治ですね。賢治の作品の中には、たくさんのキーワードがあります。私の好きなことばは、本当にたくさんあって語りきれないですが、何が一番大切か、真髄かと考えますと、「ひかりはたもち、その電燈はうしなはれ」ということばがありますよね。その電燈というのは、私の解釈では「体」です。媒体です。みんな生まれて、いつか死ぬわけですが、すべての生命に満ちる光が保たれているわけです。なくならないのです。

     いい人も悪い人も、クジラもコアラも西表ヤマネコも、必ずその光が宇宙の中に旅立つ。賢治の光をいつまでも保てるように、これはみんなの責任だと思います。


    イーハトーブ賞受賞

    高嶋 由美子(国連難民高等弁務官事務所)


     皆様に話をさせていただくということでとっても緊張してしまい、先ほど廊下でうろうろしておりましたら、「賢治さんはデクノボーが好きだから、あなたが失敗しても大丈夫だよ」ととても暖かいお声をかけて頂き、せっかく落ち着きかけていたのに、今のロジャーさんのすばらしい日本語のスピーチを聞いて、また膝がガクガクし始めています。

     最初にイーハトーブ賞のお話を頂いたとき、実は私が受けさせていただいてよいのだろうかとホロホロ十日ほど悩みました。なぜかと申しますと、このような素晴らしい賞はもちろん個人的には身に余る光栄ですが、人道援助の世界では、NGOや各種機関で文字道りに身を挺して活動していらっしゃる方々が大勢いらっしゃいますし、もちろんUNHCRでも私よりもっと経験の深い方やプロの方がいらっしゃいます。また、私自身「難民の方々を助けに行く」という感覚ではなく、「たまに誰かの役に立つことのできる幸せな仕事をさせてもらっている」ことを自覚しているからです。このことを先輩方に相談したら、多くの方から「世界では難民ってなにかあまり知られていないから、そのイメージを広めるための仕事の一環として考えてみれば」とアドバイスを受け、本日、人道援助に携わる駆け出しの一人として、皆様と話をさせていただいている次第です。

     さて、皆様は「難民の人」というとどのようなイメージがあるでしょうか? 私は、アフリカの砂漠でぼろをまとったお母さんに手を引かれた大きくおなかを膨らした子供や、ただひたすらに食料を待つ人々の列でした。つまり、難民は何もできない人、弱い人々と勝手に想像していました。でも国連難民高等弁務官事務所に入り、実際に難民の人々に接してみて、最初に感じたのは、驚きでした。どうして難民は自分のせいではないのにこんなつらい目にあっているのにもかかわらず、絶望しないんだろう、なんて強く生きているのだろうと。どういうことか、少し説明させてください。

     難民の方々は、多くの場合、紛争や迫害のためどうしても自分の国にいることができなくなり、着の身着のまま自分の家から、国境を越えてきた人々です。その人達にも勿論、難民になる以前は、社会的・経済的地位があり、家にはテレビやステレオがあったり、家族があったりと私たちが楽しんでいるような日常的な生活をしていたわけです。それが、一瞬にして、物質的なものをほとんど失ってしまいますし、紛争に巻き込まれ歩けなくなってしまったり肉体的にも傷ついたり、家族と離れ離れになったり大切な人を失ってしまい、私には想像がつかないほど大きな精神的ダメージも受けます。

     それなのに難民キャンプにたどり着いた彼らはいつまでもめそめそと泣いて寝込んでいたり、誰かに助けてもらおうとぼっと援助を待っているのではなく、とっても不条理な状況に追い込まれてしまっても、まず難民生活の現状に気づき、少しでもその状況を良くしていこうといろいろな工夫や努力をします。テントの生活でも、周りに野菜や花を植えたり、私ならば「なぜ私がこんな目にあわなくてはならないの」と思ってやけになってしまうと思うのですが、そこで、多くの難民の人々は無力になってしまうのではなく、絶望的な現状をまっすぐ見据えて少しずつ難民生活を始めます。そのような人間の底力を目のあたりにすると、ヒューンと自分自身の存在や悩みがとってもとっても小さく感じられ、そして、それ以上にそのような人間の強さに畏怖します。またすごく悲惨な状況から立ち上がる力に、どうにかして改善してゆこうと努力する人々に、繰り返し繰り返し接するたびに、自分ももっと頑張らなくちゃっと感化され励まされますし、パワーをもらいます。

     勿論、自分の悩みをほかの人のそれと比較することはできないのですが、今までいろいろあったものをすべて失った人が、それでも生きてゆこう、人生の道を再出発してゆこうという姿を目のあたりにすると、私の中で何か気負っているものがすとんと落ちて、同時に私ももっと何かできるかもしれない、うまくいかなかったこともやり直してみることができるかもしれないと感じさせてくれるのです。そのようなエネルギーを肌身で直に受けられる仕事、――皆様の寄付によって成り立っている仕事ですが、――に携わる事ができ本当にラッキーだと思います。

     また、難民の人々と接していると、人にとっての本当の幸せって何なんだろうと考えさせられます。たとえば噂に聞いたレストランで食事をしたり、雑誌で見て欲しくなった洋服を買ったり、また好きな人から好意を寄せてもらったり、仕事でたまぁーに褒めてもらったり、勿論とっても嬉しいのですが、幸せってもっと違うところに存在しているのではないかと思うのです。愛する人を奪われたり、今まで蓄えてきたものを失くした難民の人でも、徐々に小さな喜びや笑顔が現れてきます。それは、外部から与えられた要因を自分の中で同意はできないけど何とか飲み下して、そしてそんなことに負けずに生きていこうとする難民の、その人の尊厳の中にあるのではないかと思う場面に多く出会います。つまり、幸せは自分の内部で自分で育んでいくもので、他人から与えられたり、逆に自分以外の人によって取り上げられることはできないのではないかと。それを知っているので難民が強くなれるのではないかと。

     先ほど「本日の受賞が、あなたのこれからの活動にどのような影響を与えますか?」と聞かれました。とってもいい質問だと思いましたし同時にこの賞を頂く重い責任も感じました。この賞をNGOや国連の方々の代表として頂くことにより、人道援助の魅力をもっともっと多くの人々に知っていただきたいと思いますし、難民ひいては人間の強さをもっと多くの方に実感して貰いたいと思います。微力ですが少しでも難民のことを紹介し、そしてこれからも皆様と一緒に学んで行ければと思っています。

     本日は素晴らしい機会を与えて頂き、本当にありがとうございました。



    第19回
    定期リレー講演
    (要旨)


    賢治とイソップの出会い

    浜垣 誠司


    一、はじめに

     賢治は若い頃から、アンデルセン、グリム、ルイス・キャロルなど様々な西洋の童話に親しんでいたことが、これまで種々の証拠から推測され、研究されてきた。

     一方、西洋最古の「古典」とも言うべきイソップの物語も、博識な賢治ならば読んでいた可能性は大きいと思われるし、実際に賢治の初期の短い寓話的作品の中には、イソップの動物寓話を連想させるものも少なくない。しかし具体的に、いつどういう形で賢治がイソップを読んでいたのかということについては、まだ十分には明らかになっていない。

     本日ここで提示したいのは、賢治がいかにしてイソップ寓話と出会ったかということに関する、私なりの一つの仮説である。

    二、寄宿舎舎監排斥事件

     ところで賢治が盛岡中学四年生の時に、寄宿舎の「舎監排斥事件」という出来事があった。当時の寮生としては新任の舎監に何か不満があったのか、夜になると集団で寮の廊下をドンドン踏み鳴らしたり、舎監室の電気を消したり、舎監が様子を見るために二階に上がろうとすると邪魔するために階段に戸板を立てておいたり、生徒たちはいろいろな悪さをしたという関係者の証言がある。

     おそらく舎監の教師も困り果てた結果、学校としてはかなり厳しい処分を出して、寮生のうち四年生と五年生は、全員退寮ということになった。このため四年の賢治も寮から出て、以後は下宿生活をすることになる。この事件において、賢治が実は「陰の黒幕」だったとする説もあるが、そうではないという説もあって、具体的なところはわからない。

    図1

     しかし賢治が、この事件に対してどんな思いを抱いていたかということは、晩年に書き付けていたいわゆる「「文語詩篇」ノート」(図1)から、うがかい知ることができる。

     図において、「18」という数字は当時の賢治の数え年齢、「1913」はその西暦年で、下には「一月 寄宿舎舎監排斥」と書かれている。枠で囲まれた中には、「かの文学士などさは苛めそ。家には新妻もありてわれらの戯れごとを心より憂へたり。なれらつどひて石投ぐる、そはなんぢには戯なれどもわれには死ぞと云ひしとき、口うちつぐみ青ざめて異様の面をなせしならずや」と書いてあり、下の枠には、「杉崎鹿次郎。同。」とある。

     ここで私として非常に印象的で、なおかつ不思議に感じるのは、この「なれらつどひて石を投ぐるそはなんぢには戯なれどもわれには死ぞ」という、舎監の教師が言ったと思われる言葉である。

     まず疑問点の一つは、寮生がこの悪戯の際に「つどひて石を投げる」ということが、事実としてあったのか、ということである。先に記したように、関係者の証言には「石を投げた」という話は出ていないし、それにいくら悪戯とは言え、生徒が集団で教師に石を投げつけるというのは、ちょっと行き過ぎに思える。

     これ以外にも不思議な点はある。確かに舎監は、生徒の執拗な行為に悩まされていたのだろうが、それでも所詮は中学生の悪ふざけにすぎない。それに対して、大の大人である教師が「われには死ぞ」とまで言うというのは、あまりにも大げさな表現ではないだろうか。

     このような疑問の説明として考えられる一つの可能性は、この「なれらつどひて石を投ぐるそはなんぢには戯なれどもわれには死ぞ」という言葉は、客観事実や舎監の感情のそのままの表現ではなく、あたかも芝居の台詞のように発せられた一節であって、そこには何か出典があるのではないか、ということである。

    三、イソップ寓話「少年と蛙」

     ここで、イソップの「少年と蛙」という一つの寓話が注目される。そのあらすじは、次のようなものである。

     少年たちが、池にたくさんの蛙がいるのを見つけて、蛙に石を投げつけて遊び始めた。そのうちに石が当たって、何匹かの蛙が死んでしまった。ここで一匹の蛙が水から顔を出して、次のように言った。「坊っちゃんたち、どうかやめて下さい。あなた方にとっては遊びでも、私たちにとっては死なのです。」

     右記において、蛙が言ったという最後の言葉「あなた方にとっては遊びでも、私たちにとっては死なのです」を文語体に言い換えると、まさに先ほどの舎監の言葉「そはなんぢには戯なれどもわれには死ぞ」になるではないか。さらに、その前に舎監が「なれらつどひて石を投ぐる」と言ったことも、実際に生徒たちが石を投げたわけではなくても、このイソップ寓話からの引用だったとすれば、辻褄が合う。

     すなわち、この事件の際に舎監の教師は、イソップ寓話の一節を引用することによって、寮生たちの行動を戒めようとしたのではないか。この寓話は、たとえ軽い気持ちの行動であっても、相手にとっては残酷な仕打ちともなりうる、だから相手の立場に立って考えよ、という教訓を示すものであろうが、舎監の教師は、生徒たちの悪戯がまさにそれに当てはまるものであることを、この言葉によって悟らせようとしたのではないだろうか。

     ただし、ここでこの寓話の引用が効果を上げるためには、一つの前提が必要となる。それは、生徒たちもこのイソップ寓話をすでに知っているということである。もしも生徒がこの「少年と蛙」という話を知らなければ、舎監が大仰に「われには死ぞ」と言ってみたところで、こいつは何と情けない教師だと、逆に寮生に呆れられかねない。舎監があえてこんな芝居がかった台詞を言えたのは、生徒にもこの話が共有されているという保証があったからだと思われるのである。

    四、当時の舎監と担当教科

     さて、ここで舎監と寮生というのは、中学校の教師と生徒なのであるから、両者の間で何かの知識が共有されている状況として最も可能性が高いのは、それが授業において取り上げられたという場合である。

     「新校本宮澤賢治全集」第十六巻(下)「補遺・伝記資料篇」所収の「岩手県立盛岡中学校学校行事」を参照すると、一九一三年(大正二年)一月時点における盛岡中学寄宿舎の舎監は、服部品吉(国漢)、千田宮治(国漢)、杉崎鹿次郎(英語)、矢口恵之助(博物)の四名であり、舎監補助として津田清三(英語)がいた。括弧内はそれぞれの担当教科である。

     一方、賢治の「「文語詩篇」ノート」では、問題の舎監が「かの文学士」と表現されていることから、担当教科は右記のうちでは国漢か英語のいずれかであったと推定される。さらに「イソップ寓話」を旧制中学の教材で取り上げるとなると、国漢の授業とは考えにくいため、英語の授業だったのではないかと考えられる。

     右記で英語の教師は杉崎鹿次郎、津田清三の二人であるが、杉崎鹿次郎教諭は一九一一年四月から舎監となっていて事件当時すでに二年近くが経っていたのに対し、津田清三教諭は一九一二年十二月から舎監補助となったばかりで、舎監排斥事件が「新任舎監への嫌がらせ」であったとする説があることとも、符合する。

     いずれにせよ、当時の盛岡中学における英語授業の教材として「イソップ寓話」が取り上げられたのではないかと、私としては推測するのである。

    五、英語教材における「イソップ寓話」

     それでは当時、英語教材として「イソップ寓話」を採用したとすれば、それにはどのようなテキストが用いられたのだろうか。

     国会図書館の蔵書の中から、一九一三年(大正二年)以前に刊行された「イソップ寓話」の書籍で、英語テキストを掲載しているものを検索すると、次の3点があった。

    1. 河島敬蔵註釈「英文伊蘇普物語註釋」浜本明昇堂刊(1903)
    2. 『英語研究』記者編著「初等英語叢書第二十一篇イーソップの話」英語研究社刊(1910)
    3. 菅野徳助、奈倉次郎訳註「伊蘇普物語(年英文學叢書)」三省堂刊(1911)
    これを、新しい順に見ていくことにする。

    図2 図3

     まず(3)の「伊蘇普物語(年英文學叢書)」(図2)の「少年と蛙」において、問題の「なんぢには戯なれどもわれには死ぞ」に相当する部分の和訳は、(図3)のように「皆さんには非常に面白からうが、私等には命騒ぎです」となっている。これは、舎監の言葉とはかなり違っている。

    図4 図5

     次に(2)の「初等英語叢書第二十一篇イーソップの話」(図4)においては、該当箇所は「皆さんには遊び事でも私共には死生の問題です」(図5)となっており、これも舎監の言葉とはニュアンスを異にしている。

    図6 図7

     最後に(1)の「英文伊蘇普物語註釋」(図6)では、その部分の訳は「汝には遊戯なれど我れには死なり」(図7)となっている。これは、「なんぢには戯なれどもわれには死ぞ」という舎監の言葉と、非常に似通っている。

     さらにこれをもう少し細かく見てみると、この部分の英語原文は、Pray stop, my boys: whatis sport to you ; is death to us.であって、ここに出てくる'you'は'boys'を受けるものであり、「二人称複数」なのである。従って、(2)および(3)においてこれを「皆さん」と複数に訳しているのは適切と言えるが、(1)において「汝には…」と単数に訳しているのは、厳密には不正確であり、本来なら「汝らには…」とすべきところであろう。ところが、賢治の「「文語詩篇」ノート」に記されていたのも、「なんぢには戯れなれども…」と、やはり単数になっているのである。このように、英語原文からの小さな逸脱が共通しているところも、この舎監の言葉が河島敬蔵註釈「英文伊蘇普物語註釋」の訳文を下敷きにしていたことの、一つの傍証になると考える。

     ちなみに、このテキストの註釈者の河島敬蔵氏は、明治時代後半に活躍した英文学者・翻訳家で、シェークスピアの翻訳では坪内逍遙と並び称される人だったという。「ロミオとジュリエット」を初めて邦訳したのもこの人で、当時の題名は、「露妙樹里戯曲春情浮世之夢」とされていた。

    図8

     さらに河島敬蔵氏は、こういった高尚な文学の翻訳研究だけではなく、中学生向けの英語教科書や参考書も多数執筆しており、(図8)の広告にあるように、「文部省検定済・中学校教科用書」として、「英会話教科書」「英作文初歩」「学生会話」などという本も出していた。当時の中学生にとっては、英語の大御所の一人だったのであろう。

    六、小括

     以上をまとめると、賢治は盛岡中学の英語授業の教材として使用されていた河島敬蔵編「英文伊蘇普物語註釋」において、イソップ寓話と出会ったのではないかと、私は考える。そして、「寄宿舎舎監排斥事件」の際には、英語担当の津田清三または杉崎鹿次郎教諭が、その寓話の一節を引用して、「なれらつどひて石投ぐる、そはなんぢには戯なれどもわれには死ぞ」と言って生徒を戒めるのを聞いたのだと推測する。

     ただその後、事件から二十年近くが経過した晩年になって、賢治が「「文語詩篇」ノート」に当時の舎監の言葉をほぼ正確に書き残しているのは、驚くべきことである。それだけこの言葉は、当時の賢治に強い衝撃を与えたのだと思われるし、その後も賢治は何度もこれを反芻しては、自分たちが新任舎監を集団でからかい悩ませたことへの罪責感を、苦く噛みしめていたのではないだろうか。

    七、「手紙四」との関連・罪責感の伏流

     ここから先はやや本題からは逸れるが、この「少年と蛙」というイソップ寓話から、どうしても連想してしまう賢治の作品がある。それは、彼がオホーツク方面への旅行の後に作成し配布したと言われる、「手紙四」である。

     「手紙四」は、チュンセという兄がポーセという妹を亡くすという、賢治とトシの運命と相同の設定を持っている。冒頭では、チュンセが幼いポーセをいじめた様子が何度も強調されるが、ポーセが病気になると、チュンセは当惑し何とかポーセを力づけようとする。しかしポーセはあえなく息絶え、その悲嘆を経たある日、ふと蛙を見つけたチュンセは、「かへるなんざ、潰れちまへ。」と言って蛙を石で叩く。その後、チュンセの夢にポーセが現れ、「兄さんなぜあたいの青いおべべ裂いたの。」と兄に問うたことで、チュンセが傷つけた蛙は、ポーセの転生した姿だったことが判明する。チュンセはまた動揺する。

     さて、ここに出てくる蛙のエピソードは、イソップの「少年と蛙」と同じ構造を持っている。すなわち、少年は石で蛙を打つが、少年自身には自覚的な悪意があったわけではなく、ただ無分別な気晴らしをしようとしただけだった。しかし、後になって蛙の言葉によって、少年は自分がいかに残酷なことをしてしまったかを知るのである。

     さらに同じ構造は、「舎監排斥事件」にも見られる。この事件でも、賢治を含む少年たちは無思慮な行動をしたと言わざるをえないが、後になって相手の言葉から、自分たちが若い教師に与えていた苦悩について知った。

     すなわち、「手紙四」と「舎監排斥事件」に共通するのは、「無知ゆえの残酷さ」と「それを知った後の悔恨」である。しかしそうであるならば、なぜ賢治はトシの死と関連した問題を扱った「手紙四」の中に、「蛙を石で打つ」というエピソードを挿入したのだろうか。トシの死に関しては、賢治は何ら責めを負うべき事情はないはずなのに、である。

     その潜在的な理由は、やはり賢治自身が、トシの死という現実に直面すればするほど、愛する妹に自分がしてやれなかったこと、何とかして救ってやれなかったことを思い、後悔し自責を続ける日々を過ごさざるをえなかった、ということではないだろうか。「手紙四」には、チュンセがポーセをいじめる話が可哀相なほど出てくるが、賢治の妹への態度はこれとは全く異なっていたにもかかわらず、あたかも自分もそんなことをしていたと同じほどに、悔恨や罪責感を深く感じていたのではないかと思うのである。

     そしてこの悔恨や罪責感を「手紙四」の基調音として表現する際に、賢治の心の奥底には、状況は違えども同じような自責の念を少年時代に体験した「舎監排斥事件」の顛末が、甦ったのではないだろうか。そして、当時の状況の象徴であった「少年と蛙」のテーマを、「手紙四」の小さなエピソードとして嵌め込んだのではないかと、私は思うのである。


    宮沢賢治と『原爆詩一八一人集』

    鈴木 比佐雄


     私は昨夜、賢治祭に参加しました。篝火の下で、花巻市の方々の詩の合唱・朗読・演劇・剣舞などに大変感動しました。賢治さんの精神は、この場所に生きる人々の心に生き続けているという実感を新たにしました。賢治さんのエネルギーは、人々の血の中を駆け巡っていくのだと思います。私もその一人で、浪人・大学の頃に新聞配達をしておりました。

     夜明け前に起きて朝日が昇る頃の一瞬の情景には、賢治さんの言葉でシトリン(黄水晶)の色彩が現れます。二十歳前後の私は、その瞬間に賢治さんを感じていました。その後も社会人になり勤めに行く前に早朝に起きて詩誌の編集や詩・評論を書く時の楽しみは、このシトリンの光景を見ることでした。そんなこともあり、賢治さんは昨夜の賢治祭や今日この場におられる皆さんの心に息づいていると思われるのです。

     私は一九八七年に「COALSACK」(コールサック)という詩の雑誌を創刊しました。「コールサック」とは「石炭袋」を英語で言い直したものです。賢治さんの『銀河鉄道の夜』九章に出てくる暗黒星雲とかブラックホールという言葉ですが、賢治さんは「異次元の入り口」とか「ほんたうのさいはひ」を問われる場所という意味を付加していると思われます。

     私の家は石炭屋だったもので、よけいその言葉に惹かれて詩誌「コールサック」(石炭袋)と賢治さんから借りて名付けました。私は日本は広いのできっと宮沢賢治のような詩人がいるはずだと思い、そんな詩人たちの詩の原石を入れて、石炭袋を詩的エネルギーで燃やしたいと願って、二十年以上も年に三回ほど刊行し続けてきました。

     その間に多くの詩人たちが集まってきてくれました。その中でも私が最も影響を受けたのは、浜田知章さんという詩人です。浜田さんは、広島原爆の実相を一九四九年に知らしめた『絶後の記録―広島原子爆弾の手記』や「賢治の手帳」研究で有名な小倉豊文さんを尊敬していて、一九九四年には小倉さんの『ノーモア・ヒロシマ』を企画・編集発行しました。小倉さんは一九九六年に亡くなりますが、他の賢治研究者と私や浜田さんは、お嬢さんの三浦和子さんを呼んで講演をしてもらい、偲ぶ会を開きました。

     翌年の一九九七年に浜田さんは長津功三良さんら広島の詩人達に招かれて「ヒロシマの哲学」という講演をしました。そこで一九五二年に浜田さんが戦後に創刊した「山河」という詩誌で原爆詩特集をしたことに触れて、「本当に被爆した人々は言葉に出来ないくらい衰弱しているので、被爆していない詩人こそが代わりに詩を書き、世界に広島の悲劇を発信し、核兵器廃絶を目指すべきだ」と熱く語ったのです。

     私は浜田さんの詩「太陽を射たもの」、小倉さんの『絶後の記録』や『ノーモア・ヒロシマ』を手に持って広島の街を歩きまわりました。『絶後の記録』で小倉さんは爆心地に近い奥さんを探しに行き、多くの人々の悲劇を目撃しそれを記しました。奥様は八月十九日に「花巻にはやくゆきたいわね」とか「はやく銀河鉄道にのりましょうね」とかいいながら亡くなります。そして子供たちと「雨ニモマケズ」の合唱をする「宮沢賢治葬」を行うのですが、とても感動的です。

     私は小倉さんや湯川秀樹さんのような平和運動家の原爆詩、峠三吉や原民喜などの一流の詩人たちの詩篇の中に潜んでいる原爆詩を集めて一冊の詩集にして「ヒロシマの哲学」を世界に発信したいと考え始めたのです。それが十年後の二〇〇七年に『原爆詩一八一人集』に結実したのです。その根底には賢治さんなら「世界がぜんたい幸福に」なるために、今ならどんな行動をとるだろうかと考えて実行しようと願ったのです。

     今年二〇〇八年は、賢治さんの詩「永訣の朝」などのような方言や地名を使用した『生活語詩二七六人集』を刊行しました。また来年二〇〇九年は『大空襲・三一〇人詩集』をいま公募しています。空爆は一九一一年イタリアがトルコを爆撃したことから始まり第一次世界大戦以降の戦争は総力戦になり、空爆などが本格化して、民間人を巻き込む多くの悲劇をいまも生んでいます。日本が上海や重慶を爆撃したことを中国人が記した詩も含めて、日本の一八〇もの都市への空爆、そして現在のアフガン、イラク、パレスチナなどの空爆の中で人間を描いた作品を一冊にまとめる予定です。

     私はいつも賢治さんに励まされております。迷ったときは、いつも賢治さんに聞くのです。そうすると賢治さんはいつも答えてくれる、掛け替えのない存在です。これからも賢治さんから多くを学んでいこうと願っております。


    藤原嘉藤治のこと

    賢治・嘉藤治こだまの会 会長 瀬川 正子


     私は花巻と盛岡のちょうど中間位に位置する、紫波郡紫波町というところに住んでおりまして、仕事は造園業の会社を夫と一緒に経営しております。その関係から、平成十一年にガーデンセンターの開設場所を探しておりましたときに候補地として出会った場所が、嘉藤治さんが開拓した牧野だったのです。それまでは嘉藤治さんのことは何も知りませんでした。

     藤原家に通って資料を調べるうちに嘉藤治さんが成し遂げた大きな仕事に気がつき、皆さんにお知らせしなければならないと思うようになりました。

     嘉藤治さんの生い立ちを簡単に紹介しますと、賢治さんと同じ年の明治二十九年に紫波町水分に生まれ、不幸な家庭の事情で隣の不動村に貰われていきました。

     不動村の菅原家では大切に育てられ、師範学校まで出してもらいます。大正五年に師範学校を卒業してからは県内の小学校訓導として勤めますが、持ち前の性格が野性的というか自然的というか、のちに賢治さんと出会ったときに感覚が響きあうような人だったと思われます。学生時代から詩や論文を書き、歌も歌いピアノも独学でこなしチェロも弾くといった才気溢れる教師だったようです。

     大正十年秋、花巻高等女学校の音楽教師として抜擢され、同じ時期に農学校の教師になった賢治さんと出会う事になります。それから交流を深めていき、皆様御存知のいろいろなエピソードが残っています。しかし賢治さんが亡くなった後、嘉藤治さんは教師を退職し、大きな決意を持って東京に出て行きます。

     当時、たくさん出てきた賢治さんの作品をどうしても世に出すことになり、実行する為だったという資料が出てまいりました。彼は非常に事務能力に優れており、宮沢家に送っている手紙の控えには、作品を世に出す為の段取りやその他を細やかに書き送っており、それに関する清六さんや花巻の方々とのやりとりがたくさん残されています。

     一般に、研究家の間では生前の賢治さんとどのような付き合いがあったのかということが主に問題にされたようですが、嘉藤治さんにとっては自分自身の仕事として賢治さんのために何をするべきかが、明確に彼の決断の中に位置づけられていました。

     昭和十年秋から昭和二十年夏までのちょうど十年間、文圃堂版、十字屋版の全集を出すという非常に気の長い作業を東京で行いました。地元での清六さんの整理をもとに出版社やいろいろな人との交渉を成し遂げ、昭和十九年秋には最後の別冊が出され完結します。

     高村光太郎さんや中島健蔵さん、谷川徹三さんといった錚々たる文学者の皆様とともに編集者として名前を連ね、完成祝いの銀座の料亭「濱作」での記念写真が残されています。

     時節柄、テーブルの上はとっくりとリンゴが並ぶだけですが嘉藤治さんや皆さんの満足そうな表情が印象的です。現在、イーハトーブ館で開催中の高村光太郎展にも資料を提供させていただきました。

     終戦後、「やはり農業だ」との思いから開拓に入りますが、現実は大変厳しく食べるものにも事欠く有様でした。そんな中でも人のために何かをという賢治精神で農林省や県知事とかけあい、資金獲得に奔走したようです。

     今でこそ世界中に広まった賢治精神ですが、当時は辺境の地の変わった作家といった認識しかなかった時代に、「賢治さんの人格、芸術を世界に広める為…」と明言しやり遂げた嘉藤治さんの生き方に感銘を受けております。勿論一人でやれたことではなく、菊池武雄さんや森惣一さん、草野心平さんなど同じ志を持つたくさんのお仲間と一緒だったようです。

     いろいろな資料を見ていくうちに、このように人知れず土台の石となって、賢治精神を広めていった人たちが沢山いたんだろうな、そのお陰で今は永久に消えることのない、世界の賢治思想が脈々と繋がってきたのだろうなと感じております。



    イーハトーブ
    〈染物〉学

    三年物のムラサキの根
    (県立盛岡農業高校)

    立涌絞り紫根初め名古屋帯
    (秋田県無形文化財保持者 栗山文一郎作)

    草紫堂南部紫染
    デザイン 初代藤田謙
    染め 三代目藤田繁樹
    絞り 中六角京子


    ―紫根染と紫紺染 それは岩手山の恵み―

    青木 静枝


     紫根染は古く中国から伝わり紙や布を紫色に染色する技法です。聖徳太子が隋国の制度に倣って定めた冠位十二階の最上位が深紫、当時から希少ゆえに庶民は使ってはいけない禁色でした。平安時代の律令『延喜縫殿式』には染色材料が規定されていました。「深紫綾一疋に紫草三十斤、酢二升、灰二石、薪三百六十斤」綾一疋は絹二反に相当し、紫草(ムラサキ草の根を乾燥させた紫根)を約六sも必要なのです。

     延喜式には九二七年武蔵国から約二t、九六七年下野国から約二百s供したという記録があります。その他全国に紫根を探したのでしょう、鎌倉時代の古文書に〈巖手根紫〉が記載されました。

     ムラサキ草の栽培も行なわれるようになり、十五世紀には禁色ではなくなりましたが、領主南部家が盛岡に居城を移してから「南部紫根」の名称で主要産物として保護育成されました。産出は一定ではないものの一八四七年には約五・四tとあり、主産地は沼宮内、野田、三戸、鹿角地方で岩手山麓の天然物紫根は上品と高い評価を得ていました。江戸紫などは椿の木炭を用いましたがサワフタギを使うなど技法も発達し、南部紫根染は献上品の役割も担いました。

     しかしイギリスで開発された化学染料が明治維新後輸入されると、栽培も染色も価値を失い、自生地も壊滅し、技法も秘法ゆえに途絶えてしまいました。

     ところが第一次世界大戦の影響で輸入品が入手困難になり岩手県では大正三年「臨時工業原料調査会」を発足、その調査項目に紫根が選ばれました。栽培試験四ヶ所、染色試験三ヶ所に依頼、その筆頭は盛岡高等農林学校でした。大正四年に農芸化学科に入学した賢治はここで紫根の研究を目の当りにしたはずです。また染色試験を確立するため設立された南部紫根染研究所では主任研究員として京都で染色を学んでいた藤田謙氏を呼びよせました。さらに明治末期鹿角で先に紫根染の技法の復興に成功した栗山工房から熟練の職人さんも一年間派遣要請しました。

     私も草木染講座で紫根染を体験しましたが難度が高いのです。紫根染の媒染にはアルミを含む木灰が使われたのですが藤田氏は化学処理で簡便にするなど工夫しました。それぞれの紫根染を表にしてみました。

     そして大正十一年の平和記念東京博覧会で紫根染研究所の羽二重の作品が褒状を受賞、さらに皇后陛下の御目に留まり、御買上げになったという記事が八月二日付けの岩手日報に掲載されたのです。この報道を賢治は知り心より賞賛されたのでしょう。

     懐かしい盛岡での学生時代を思い出し、先のような歴史のひとこまから童話の構想に膨らんだのでしょう。鹿角の職人さんは山男に、工芸学校の先生は恩師を思い出してか、かつて食事をした内丸の西洋レストランを主会場にしたのです。存在感ある山男には野菜と産業についての賢治の想いを託しています。

     紫根染ではなく紫紺染にしたのは童話の染色であることと賢治の色への感性からと考えられます。この違いを印象づけるために紫根染では使わない〈黒いしめった土をつかふ〉と山男に思い出させたと思います。また大正十三年の賢治の詩「亜細亜学者の散策」では雲の色を紫紺色と表現しています。紫紺色という呼び方は江戸時代までは使われてなく、『日本の傳統色』(長崎盛輝著)によると明治三十年代に流行したとあります。


     草稿一葉の六行目には〈南部の紫根染〉と書かれてあり、これは南部藩時代のことを指しているので〈昔は大へん名高い〉と続きます。ちくま文庫版全集の後記では賢治が訂正を忘れたと解釈し、〈紫紺染〉に校訂されました。

     新校本でも本会報三十二号のテクスト・クローズアップ「紫紺染について」によると、この六行目は賢治が見落としたと判断しておられますが、草稿八葉ではまだ思い出せない山男の状況を〈しこん、しこんと。はてな〉と、ひらがなで書いている箇所があり、私には賢治は意識的に書き分けたと思えます。

     絶滅危惧種となってしまったムラサキ草の保護と人工培養で成果をあげた県立盛岡農業高校生物工学科の研究によると、用土は岩手山の焼走りの土と山砂を混ぜたものが最適とのこと、酸性土壌でこそ紫色素ができるそうです。まことに火山である岩手山の恵みだったのです。

     この紫根の色素の研究はなんと大正七年、東北帝国大学の女性初の化学者黒田チカにより構造決定されシコニンと命名されました。



    投稿エッセイ


    賢治と修羅―七十三通の手紙が語るもの―

    正海 澄恵


     宮沢賢治という人を知って、はや三十年近く。その時の自分の状況や年齢によって賢治に対する見方や感じ方も変わってきたような気がします。賢治は一時期、まるで聖者や救世主、或いは超能力者のように崇められる風潮にあったし、今でもそれは続いているように感じることもあります。私自身はいつも等身大の賢治を求めてはいたつもりでも、賢治はどこかベールの向こうにいる人のようでした。それはきっと、ひとつの疑問、賢治を知れば知るほど深まっていった疑問―「何故に賢治は修羅だったのか」ということによるような気がします。

     妹・トシ子さんの死は賢治に深い悲しみと無力感、そしていっそうの法華経への求道心をもたらしたことはわかります。しかし、凄まじいまでの詩「春と修羅」が描かれたのは彼女の死の数ヶ月前のことです。それまでさんざん確執のあった父とも一応の決着がつき、天職ともいえそうな農学校の教師という職を得て賢治の未来は決して暗いものではなかったはずなのに…。彼はいったい何に怒り、苦しみ、もがいていたのでしょうか。心に深い深い悲しみを抱えて。

     その答えを解く鍵を得たのは、一昨年の秋のことでした。あることをきっかけに、様々なことが突如として見えてきたのです。

     山梨で開催された「宮沢賢治・若き日の手紙展」には、素晴らしいことに、賢治の直筆の手紙七十三通すべての実物が展示されていました。そこで私を待っていたのは、賢治から心友・保阪嘉内に宛てた、あまりにもまっすぐな心の叫びであり、ふたつの魂のひたむきな生き様でした。さらに私は韮崎の「宮沢賢治・保阪嘉内誕生一一〇周年記念事業実行委員会」の活動と『心友 宮沢賢治と保阪嘉内』という本から、嘉内がどう生き、どんな作品を残したかを知りました。

     嘉内が賢治に与えた影響は計り知れません。賢治のほとんどの作品は嘉内がいたからこそ生み出されたと言っても決して過言でないと思います。賢治にとって嘉内がどれほど大きな存在だったか。『宮沢賢治 友への手紙』(保阪庸夫・小沢俊郎編著)と『宮沢賢治の青春』(菅原千恵子著)は、すでに読んでいたはずなのに、私はいったいそれらのどこをどう読んでいたのかと恥ずかしくなりました。

     大正十年七月十八日、二人は宗教とこれからの生き方などをめぐって激しく口論したと言われています。「あの日」以来、賢治は己の道、「ほんとうのさいわい」を求めて悩み、迷い、苦しむ修羅となりました。

     嘉内を知ることは賢治を知ること、賢治を知ることは嘉内を知ること。

     賢治がしばしば作品に紛れ込ませた暗号のような言葉、一本杉やデンシンバシラのように、ふたりは一心同体のような存在でした。ただの友達ではなく、どこまでも「みんなのさいわい」を求めて一緒に行こうと誓い合った魂の結びつき。賢治が死ぬまで激しく恋し求めたのは、保阪嘉内だったのではないでしょうか。

     直筆の七十三通の手紙により、私は初めて、賢治の苦しみ、悲しみを感じることができたような気がします。あらゆる方面からまるで天才や神様のように祭り上げられたとらえどころのない賢治像ではなく、ただ数十年前にこの世に生きていた賢治というひと。私達と同じ血の流れる一人の人間としての賢治が、私の目の前に現れたのです。

     今、作品を読めば、私はすぐそばに彼の魂を感じるような気がします。

     賢治は晩年、知人への手紙に「全くさびしくてたまらず、美しいものがほしくてたまらず、ただ幾人かの完全な同感者から『あれはさうですね。』といふやうなことを、ぽつんと云はれる位がまづのぞみ」と書きました。「幾人」とありますが賢治の頭にあったのはまぎれもなく「保阪嘉内」その人だったと思います。

     叶わぬ願いを胸に深く秘めた賢治のその悲しみ。そうして作品を読んでみると、はっきりと見えてくるものの何と多いことか。初めて私は賢治の悲しみを、本当に胸が痛くなるほど感じるようになったのです。

     

     詩集『春と修羅』を送られた嘉内は、その本を生涯大切に手元に置き、読み込んでいたといいます。二人は決して「決別」したのではなく、真剣な結びつきであったからこそ真っ向からぶつかり合い、まことの道を求めて突き進んだ究極の友情だったのではないかと私は思います。

    (愛知県西尾市)


    福島市の獣医師千葉喜一郎について

    菅野 俊之


     宮沢賢治と私の在住する福島県との関連について興味をもって、些か調べている。その一端を賢治の生誕百年に当たる平成八年の十月『文化福島』二九八号に「フークトーブと宮沢賢治」と題して寄稿し、他にも当時幾篇かの駄文を書き散らしたが、そのころから気にかかっている人物に、福島市の獣医師千葉喜一郎がいる。晩年の賢治は東北砕石工場の技師となり、酸性土壌改良にも効果のある農業用肥料として、石灰岩抹(炭酸石灰)販売のセールスマンみたいな仕事に情熱を傾けた。石灰の見本を詰めた重たい鞄を持って、東北各地を連日巡り歩き体調を崩して命を縮め、遂に亡くなってしまう。そのような、農民のために炭酸石灰の普及に一途に挺身した賢治の行動に、大きな影響を与えた人物の一人が千葉喜一郎ではなかっただろうか。

     彼のことは、『新校本宮澤賢治全集』(以下『新校本』と略す)第十五巻本文篇に収められた東北砕石工場の経営者鈴木東蔵宛の賢治書簡のなかに出てくる。書簡番号四一二と四五三aで、同巻校異篇と併せて参照いただきたい。また『新校本』第十六巻(下)収録の「年譜」昭和七年四月十七日の項には、前述の賢治書簡を典拠として次のように記載されている。

    「福島市獣医千葉喜一郎、村松舜祐博士の紹介により来訪。農林省委託として砕石工場搗粉と房州砂、三春産のものを家畜に与える飼養試験を行い、その結果工場産のものは薬用炭酸石灰に劣らぬ良成績をあげ、他産のものとうてい及ばざるを確認したという。これにより千葉は農林省佐藤繁雄博士と共名で報告に工場名を明記する一方、福島・栃木・新潟方面の一手販売を引きうけたいとのことである」

     文中の工場は東北砕石工場のことで、千葉喜一郎はわざわざ花巻の賢治宅を訪問し、同工場産の炭酸石灰を使った家畜飼料は優良なので、一手販売をしたいと告げたのである。

     石灰岩抹の新たな販路に、賢治が欣喜雀躍したことは想像に難くないし、セールスマンの仕事に一層邁進する励ましにもなったであろう。晩年の賢治の行動に喜一郎が影響したと推測する所以である。彼の略歴が『新校本』第十五巻校異篇にあるので転記する。

    「千葉喜一郎氏……(明三五・一一・四.昭五九・八・一)。福島市出身。大正一二年盛岡高等農林学校獣医学科卒業後、出身 地で獣医師開業。その間母校教授、家畜病院長に就任。獣医学博士」

     この程度のことがわかれば賢治研究には十分なのだが、彼の経歴について若干の情報を知り得たので次に報告しておきたい 。

    *福島県内新聞の訃報記事

    『福島民報』昭和五十九年八月三日

     千葉 喜一郎氏(ちば・きいちろう=千葉家畜病院小動物クリニック病院長、前県獣医師会長)一日午後十一時四十分、急性心不全のため済生会福島病院で死去、八十一歳。自宅は福島市野田町字背燔六ノ一三。告別式は五日午後一時から同市黒岩のたまのや斎苑で行う。喪主は妻のタカ(たか)さん。
     県獣医師会長、日本獣医師会副会長を務めた。畜産業の振興と公衆衛生の発展で四十二年に藍綬褒章、四十九年に勲四等瑞宝章を受けた。

    『福島民友』昭和五十九年八月三日

     千葉喜一郎氏(ちば・きいちろう=千葉家畜病院小動物クリニック病院長)一日午後十一時四十分、急性心不全のため福島市桜木町の済生会福島病院で死去、八十一歳。自宅は同市野田町字背燔六ノ一三。告別式は五日午後一時から同市黒岩のたまのや斎苑で。葬儀委員長は河原田穣福島市長、喪主は妻タカさん。
     長年にわたり県獣医師会長を務めた。

    *喜一郎は旧制福島中学を大正九年三月に卒業した。同校第十八回生。

    *昭和十六年四月、喜一郎は北海道大学より獣医学博士の学位を授与された。博士論文名は「本邦ニ於ケル馬ノ所謂骨軟症ノ骨ノ組織学的研究」で、この論文は北海道大学附属図書館に保管されている。

    *『日本獣医学雑誌』四巻四号(昭和十七年八月)に喜一郎の論文「本邦ニ発スル馬ノ所謂骨軟症骨質ノ組織学的研究」が掲載されており、前述の博士論文と同一と推定される(英文論文名もほぼ一致する)。

    *喜一郎は昭和四十四年九月に創立された東北家畜臨床研究会(現在は日本家畜臨床学会と改称)の初代会長を務めた。当時彼は福島県獣医師会の会長でもあった。

    *昭和三十五年当時、喜一郎の医院は千葉家畜病院と称し、福島市太田町四―八にあった。

    *昭和五十七年当時、喜一郎の医院は千葉家畜医院(前出の新聞訃報記事には病院とあるが、当時の電話帳広告による)小動物クリニックと称し、福島市野田町字背燔六―一三にあった。

    *現在は、千葉小動物クリニックと改称し、福島市内にある。

    *福島県獣医師会は平成二十年に創立六十周年を迎え、記念誌を編纂中である。この記念誌が出版されれば、喜一郎の福島県獣医師会会長在任期間などが確認できるであろう。

     以上、断片的なことばかりで恐縮だが、千葉喜一郎の業績が以前よりは少しわかってきたと思う。しかし、肝心の宮沢賢治との関連はあまり見えてこない。喜一郎が花巻の賢治宅を突然訪問したのは、賢治が盛岡高等農林学校の先輩であり親近感を抱いたことも大きな要因であったろう。佐藤通雅『宮沢賢治東北砕石工場技師論』(洋々社 平成十二年)によれば賢治も炭酸石灰の販路拡張に、盛岡高等農林同窓生の緊密な人脈ネットワークをかなり活用していたという。実際に賢治に会ったことのある喜一郎が、賢治の想い出を書いたものが東北家畜臨床研究会の機関誌に載っていそうな気がして、福島県獣医師会へ照会してみたが、古い機関誌は保存していないとの返信であった。今後も、喜一郎による賢治回想文などの探索を続けたい。

     それにしても、賢治の人生の岐路に喜一郎以外にも、福島県関係の人物が幾人も深く関わっていることは決してお国自慢でなく、注目してよいのではなかろうか。賢治に関心のある方たちにとっては周知の事実なので詳しくは述べないが、詩人の草野心平や賢治に仏教文学の執筆を奨めた国柱会の高知尾智耀。北条常久が「赤津周雄がいなければ、今日の宮沢賢治は存在したか」(『うえいぶ』第二十七号 平成十四年)と揚言した赤津周雄。さらに、賢治が生前最後に送稿した詩篇「産業組合青年会」を掲載した福島の詩誌『北方詩人』の中心であった寺田弘と大谷忠一郎。その『北方詩人』第二巻第七号(昭和八年十月)の実物を所蔵しているので、「産業組合青年会」の一部を最後に転記しておく。旧字は新字に改めた。

    部落部落の小組合が
    ハムをつくり羊毛を織り医薬を頒ち
    村ごとの、また、その連合の大きなものが
    山地の肩をひととこ砕いて
    石灰岩末の幾千車かを
    酸えた野原にそゝいだり
    ゴムから靴を鋳たりもしやう

    (福島県福島市)


    「れいろうの天の海から」

    酒井 早苗


     いてふの実が旅立つ頃、風について考えた。又三郎が、君達を好きだと言う時、私は何ともいえず嬉しい。賢治は風を好きだったのだと思う。ある書簡には、病床から「風のなかを自由にあるける」ことの価値を一番に挙げる。「春と修羅」では、気層の底から聖玻璃の風を仰ぎ、風になれない苦しみを語る。

     風とは何か。「風野又三郎」「かしはばやしの夜」の又三郎と画かきはどこか似ている(画かきは風ではないが)。少し自分勝手な感じだ。それは、決して人の都合だけでは動かない、時に恵み時に災害をもたらす自然の姿と重なる気がする。「氷河鼠の毛皮」「鹿踊りのはじまり」の風は、何処からかお話を運んでくる。この風は単なる大自然ではなく、私達の生活するこの世界と異世界との橋渡し役になっている。現れたり消えたりする又三郎もそうだ。

     賢治の言う第四次延長の世界。賢治は確かに異世界を知っている。それは「青森挽歌」をはじめ、様々な作品に描かれ、美しい安らかな世界も、恐ろしく暗い世界もある。賢治は、自分の心の状態に応じた世界へ通じてしまうとも言ったそうだ。「風野又三郎」を読むと、見えない世界は本当にあるよ、だけど君達は今生きているこの世界を、人をうらやんだり馬鹿にしたり、卑怯であったり遁げたりしないでね、しっかり駆けていくんだよ、と透明な風(賢治)が心の中を吹き抜ける気がする。

    (栃木県宇都宮市)


    賢治と私の出会い

    河南師範大学 王静


     一九九八年、京都橘大学に留学中、三年生の夏休みだった。日本人のクラスメートに誘われて、東北旅行に出かけて、花巻市にある宮沢賢治記念館と童話村を訪れたときのことである。

     宮沢賢治は日本人にもっとも愛されている作家の一人であるが、私は宮沢賢治について何も知らなくて、初めての出会いだった。記念館に展示されている生涯紹介を見ていくうちに、私は強い感動に襲われて涙が止まらなくなった。彼の三十七年間の短い生涯で、こんなにもたくさんの作品とファンタジーの世界を私達に残してくれたことに、深い感銘を覚えたのである。

     それ以来、私は賢治の作品をいくつか手に取りそれなりの感銘を受けはしたが、系統的研究に手を染めることはなかった。しかし、二〇〇五年九月河南師範大学で教鞭を取ることになったのを契機に、宮沢賢治研究をライフワークにしようと思いたった。本格的に研究した最初の作品は「『旅人のはなし』から」である。二〇〇七年十月洛陽での「東アジア日本学国際シンポジウム」に出て発表し、後に論文集(『日本学研究』二〇〇七年十二月)にも載せてもらった。公表された初めてのものであった。嬉しさのあまり、ちくま文庫『宮沢賢治全集 第八巻』の扉に貼られた賢治の写真(友人から貰った切手)を見て、「旅人」賢治に改めて惹かれなおした。立派さやすごさも、お腹のこどものように、日を追って私の中に育ってきている。そんな賢治に出会えたことに感謝する気持ちがいっぱいである。これからも賢治と一緒に本当の幸せを探す旅を続けたいと私は思う。

    (中国河南省)



    宮沢賢治資料(43)


    佐伯郁郎宛岡崎澄衛葉書

    杉浦 静





     昭和六年当時、岩手医専の医学生であった詩人岡崎澄衛が、佐伯郁郎に宛てた葉書。消印は、六年十月十五日。岡崎は、この年四月に岩手医学専門学校に入学したが、入学後、「文学志向の学生や盛岡の街の人達の間に詩中心の雑誌を発行したいとの機運」(岡崎「宮沢賢治を守る会と若松千代作」)が盛り上がり、翌七年に「天才人」を刊行した。宮沢賢治は請われて昭和八年三月刊の第六輯には「童話 朝に就いての童話的構図」を寄稿している。

     この書簡は、当時、東京在住で、詩誌「詩洋」等に属し、第一詩集『北の貌』(六年五月)を出版して新進詩人として注目されていた佐伯郁郎に宛てたもの。近況報告と挨拶の手紙だが、佐伯の郷里である岩手の詩人たちの名前を列挙するに際して、宮沢賢治を筆頭にしているところに岡崎澄衛の評価がうかがわれるように思われる。この葉書で言及されている佐伯郁郎の「わが郷国と詩」(「愛誦」昭和六・七)にも賢治の名前が出てくるのだが、そこでは、最初が石川啄木で、詩壇では、「詩壇に富田砕花氏、宮沢賢治氏、森佐一氏を持ち」と二番手になっていたのだ。

     本葉書は、佐伯研二編『佐伯郁郎と昭和十年代の詩人たち』(平成六年十一月、盛岡市立図書館発行)に発表されたものの再録です。佐伯研二氏に感謝申し上げます。

    (埼玉県草加市)


    セミナー報告


    「青森挽歌」と「函館港春夜光景」 巨きな水素のりんごのなかを

    木田和子 宮沢賢治函館セミナー実行委員会 委員長

     宮沢賢治は北海道を三度訪れている。三度目の一九二四年(大十三・五・十九)には、花巻農学校の北海道修学旅行で生徒を引率し、午後函館に着いた。直ちに瓦斯会社、過燐酸工場等を見学して夜の函館公園を訪れている。その様子を詩「函館港春夜光景」に詠い、童話「猫の事務所」の中では函館の名を記している。

     今回のセミナーは、賢治が北海道・樺太への旅で亡き妹トシとの交信を求めた作品群からの「青森挽歌」と、北海道修学旅行引率の旅の作品群からの「函館港春夜光景」とふたつの詩をテーマに、天沢退二郎先生と栗原敦先生をお迎えして、全国各地から二百名の受講者で開催された。

     セミナーで、《賢治が歩いた夜の函館散歩》を実行委員の猪野勝江氏とガイドする事になったが、NHKカルチャーアワーで栗原敦先生の宮沢賢治講座の中で耳にした程度の「函館港春夜光景」であった。そこで改めて宮沢賢治全集を広げ、函館中央図書館で当時の函館の様子や歴史等を調べて函館での賢治の足取りを知ることが出来た。

     賢治達が函館で見学した瓦斯会社は、現在の北ガス株汪ル店である。次の見学先過燐酸工場は、旧大日本人造肥料株汪ル工場で、現在の北海道サンアグロ(株)函館工場であることが分かった。

     「修学旅行復命書」には、なぜか函館についてのことが書かれていないが、一緒に引率した白藤慈秀先生の日記には「…見学工場で肥料の製法や設備の説明に驚く(中略)燐鉱砕粉せるによりて起る濠々たる中に立働く工業労働と諸君の晴天の下耕鋤の方と何れが幸なるかを思へ 彼の人々の瘠身青ざめ徒らに身長を増すに比し諸君は筋骨逞しふと申して差し支ない 何ぞ実習の辛きを訴ふるや」と記されている。生徒達の中には、貧しくて修学旅行にも参加できない者がいる様子を見た賢治は、土壌の改良をして農家に役立てたいとの思いや、生徒に自然の中で汗を流し農業労働する喜びを知ってほしいとの願いがあったと思う。

     一七九〇年、高田屋嘉平衛が北前船で箱館(明治二年函館となる)に訪れて以来、嘉平衛は函館に本店を置き、函館を拠点として択捉島等で貿易を行った北洋漁業の先駆者となり、函館市と函館港の発展の基礎を築いた。

     函館は一八五九年(安政六年)、日本最初の貿易港として開港し、西洋文化にふれたハイカラな街となった。その後、ますます社会動向は北海道や樺太に拓殖が向けられ、サケ、マス、蟹などの北洋漁業が盛んになり、函館港も根拠地になり、函館の街は北洋漁業で栄えてきた。でもそこで働く女工などは過酷な労働を課せられた。その様子を小林多喜二は『蟹工船』で書いている。

     日本政府は明治三十年に、遠洋漁業奨励法を公布し、ラッコ等の海獣業が盛んになった。函館港は、外国ラッコ・オットセイ猟船の寄港となり函館に多大な利益をもたらした。「或る農学生の日誌」には次のように書かれている。「函館の公園はたったいま見て来たばかりだけれどもまるで夢のやうだ。/巨きな桜へみんな百ぐらゐづつの電灯がついてゐた。それに赤や青の灯や池にはかきつばたの形した電灯の仕掛けものそれに港の船の灯や電車の火花じつにうつくしかった。」と、とても賑わっていた頃の函館公園の様子がうかがえる。

     函館山の麓にある函館公園は、明治十二年当時のイギリス領事リチャード・ユースデンの呼びかけに、地元の有力者や多くの市民が参加して造られた公園である。月明かりとぼんぼりで風情を楽しんでいた函館公園の夜桜に、明治の末頃、函館水電鰍笆k海道瓦斯鰍ェ、電灯やガス灯を寄付した。電飾された桜のしたでは、趣向をこらした仮装をして繰り込むのが盛んでたいへん賑わっていた。当時としてはびっくりするような装置と発想に賢治も驚き、美しさに見とれていたようである。

     セミナーの交流会では、恒例の「精神歌」を輪になって合唱した後、ここち良い気分で《賢治の歩いた夜の函館散歩》へと出かけた。夜の函館公園を、大型バス二台の人数でぞろぞろ歩いている様子を見た人は不思議に思ったようだが、受講者は賢治の足取りを楽しみ公園内の賢治の登った築山(明治山)に登った。ここで天沢先生・栗原先生・加倉井厚夫先生・斉藤征義先生達と、「函館港春夜光景」の最初の箇所である「地球照ある七日の月」の七日の月はどちらの方向に見えたかなど、受講者が一緒に語ることができた。賢治が見た函館港は、現在では建物や木立で公園から眺めることが出来ないので、バスで函館山へと向かった。山頂近くになるにつれて見える函館の素晴らしい夜景に、バスの中から大歓声が沸き上がった。

     翌日は場所をサン・リフレ函館に移して、天沢退二郎先生と栗原敦先生の講演会が行われた。天沢退二郎先生は「『青森挽歌』から北へ」と題して賢治が乗車した夜汽車の客車のまどから水族館のまどへと、窓の様子が変わったことを話してくださった。

     栗原敦先生は、「『函館港春夜光景』を読む」と題して、当時の北海タイムスなどの新聞をもとに分かりやすく講演してくださった。「地球照ある七日の月」にトシを思い浮かべたようである。

     賢治は、北海道で見た近代的な農業や新しい街作りを、花巻などの東北の貧しい農村にはない理想とする農業へ近づけたい思いで、後に羅須地人協会を立ち上げていった。

     宮沢賢治生誕百年目の平成八年の春、駒ヶ岳と噴火湾に囲まれた緑豊かな街森町で、賢治の勉強をしながら陶芸・版画・絵画等の工芸を学ぶ会《銀河工房》が発足した。

     賢治の詩「噴火湾」、「駒ヶ岳」の詩をもとに私達の小さな活動が、やがて『賢治の集い』という集会になり今日まで続けることができた。更に多くの方々と賢治の輪を広めるために《函館宮沢賢治の会:代表・猪野勝江》を立ち上げることができた。斉藤征義先生や函館セミナー実行委員会事務局長:磯尾延行氏と関係者にお力添えをいただき【宮沢賢治函館セミナー】を開催することができたことに深く感謝する。

     また、このたび地元、函館市立函館高等学校文芸部の生徒が参加され『宮沢賢治』をテーマに函館セミナーのことを取材、部活の文芸誌に綴られたときいた。これからも賢治の輪が広がることを願いセミナーで学んだことや体験をもとに、賢治文学を読み・学び・語り・楽しみ、賢治童話を陶芸などで表現した作品づくりや紙芝居、絵本で賢治の願いを伝えて行こうと思っている。(文責は事務局にあります)