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宮沢賢治学会・会報第38号 | |
「あゝ、さうだ。みんながさう考へる。けれどもい っしょに行けない。そしてみんながカムパネルラ だ。おまへがあふどんなひとでもみんな何べんも おまへといっしょに苹果をたべたり汽車に乗った りしたのだ。だからやっぱりおまへはさっき考へ たやうにあらゆるひとのいちばんの幸福をさがし てみんなと一しょに早くそこに行くがいゝ、そこ でばかりおまへはほんたうにカムパネルラといつ までもいっしょに行けるのだ。」 (「銀河鉄道の夜」初期形三より) |
第38号●りんご 2009年3月31日発行
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昭和六年の新聞スクラップブックと宮沢賢治 杉浦 静
このあいだ古書展で、「昭和六年/新聞経済記事切抜/岩手県穀物検査所」と表紙に書かれた古い手製のスクラップブックを見つけた。穀物検査所は、県産米や、他県への移出米等の品質や等級、その他の検査をする機関だから、そこでの新聞経済記事の切り抜きには関心があったので、早速購入した。
帰宅後、中をじっくり見てみると、昭和六年一月八日から、十二月三十日までのほぼ毎日の岩手日報・岩手毎日新聞からの切抜だった。その中心は米の買入価格や、先物取引の相場やの記事で、その他の経済記事も米穀の売買に関するものが大部分であったが、眺めていると僅かながらも、昭和六年の作柄や農村の経済状況を報じた記事も見られた。それらを見てゆくと、昭和四・五年を農村恐慌としている記事があった。米や繭等が大正期以来次第次第に増産傾向にあったにもかかわらず価格は低落気味だったが、四・五年に至ってついに暴落して、「驚くべき米・繭価の低落」「労して効なき農民」と報じられる状況になっていたということだ。 昭和六年は、夏に向かって作柄不良が確実になっていった。六月十七日付の切抜は、「一般に温度低く日照度少なく殊に東北、北海道は苗の発育悪く植付も五日乃至十五日遅延し、引続き本田の発育も不良にして」と報じた。 八月には天候も回復して持ち直したかに見えたが、十月二日には「開花結実期に至りまた降雨早冷のために登熟充分なるを得ざるものあり殊に北海道及東北地方において甚だしく地方によりては螟虫、稲熱病の被害または水害等あり」として「五年ぶりの不作」を農林省が発表するに至った。さらに一月後の十一月十二日には再び減収の予想が発表され「十数年来の不作」に転じた。これに金の輸出再禁止政策による円安・インフレが重なり、現金収入の激減した農村は一層の疲弊の度を高めた。これ以後、スクラップ記事には、「農村没落」「農業窮境」(十二・十九)、「農村の疲弊困憊」(十二・二十九)などの文字が非常に目につくようになる。 これらの切り抜きからうかがえるのは、この年の不作・凶作だけに拠って農村が疲弊したのではなく、いくつもの社会的経済的な要因が農村に重層することによってもたらされたものであるということだ。 宮沢賢治の昭和六年は、二月から東北砕石工場技師として炭酸石灰の販売にまさに東奔西走した末、九月二十一日には東京にて発熱臥床。帰郷後、十一月には病床で「雨ニモマケズ」を書いている。宮沢賢治の眼には窮境に陥っていく〈イーハトーブ〉は、どのように映っていたのだろうか。「王冠印手帳」から「雨ニモマケズ」手帳に至る手帳に書き留められたスケッチや断片によって、それを辿ることが出来るのだが、その中でも気になるのは、「兄妹像手帳」の冒頭近くに書きとめられた次のようなスケッチだ。 すでに土用の七日には 大正末に農学校の教員を務めていた頃には、「若し生徒等この旅を終へて郷に帰るの日新に欧米の観光客の心地を以てその山川に臨まんか孰れかかの懐かしき広重北斎古版画の一片に非らんや。実に修練斯の如くならざるよりは田園の風と光とはその余りに鈍重なる労働の辛苦によりて影を失ひ、農業は傍観して神聖に自ら行ひて苦痛なる一のskimmed milkたるに過ぎず」と現実認識の転換・変化による変革の可能性にかけて〈イーハトーブ〉を構想したりしていたのだったが、昭和六年夏に画家を喜ばせた「ふしぎな緑」は、「人の飢をみたすとは思はれぬ」「憂愁」をもたらすものでしかなかった。 美的認識は現実の飢えを克服できないのだ。「あらたなるよきみち」(「王冠印手帳」)だった東北砕石工場技師としての炭酸石灰の販売普及は、土壌改良を通じて現実の飢えの克服へとつながるはずだったが、宮沢賢治は九月二十一日以降「熱病にあえぐ」身となってしまった。 闘病生活のなかで書かれた「〔雨ニモマケズ〕」は、その中で、「東ニ病気ノコドモアレバ/行ッテ看病シテヤリ」から「南ニ……」まで、東西南のすべてに「行ッテ」……シテヤリという窮者たちへの積極的行動の願望が込められている。北には、「北ニケンクヮヤソショウガアレバ/ツマラナイカラヤメロトイヒ」と「行ッテ」はないのだが、後の手入れで前頁末尾に書き込まれた「行ッテ」は文字の配置から見ると次頁の「北ニ……」につながるように書き込まれたようにも見える。ここに用いられた赤鉛筆は、「雨ニモマケズ」手帳の中では、後の頁の詩「不軽菩薩」の記入に使用されるのみで、他にほとんど使用されていない。「不軽菩薩」は、追われても罵られても、いつのまにか現れ出てきて人の中にある仏性を拝する菩薩を描いたもので、ここでの菩薩の行動性に、「雨ニモマケズ」の「行ッテ」に共通するものが感じられる。「不軽菩薩」の執筆が、「雨ニモマケズ」への書き入れを惹起したと想像してもよいのではないだろうか。 このような、「行ッテ」を書き入れた時、向こう側には新聞記事の切り抜きから垣間見たような農村の疲弊困窮があり、賢治自身は「あたらしき道」に中断して病床にあった。その時の宮沢賢治の思いの深さというか切なさのようなものが、この一語から迫ってくるように思われてならないのである。
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| 【報告】 |
第十九回定期大会 二〇〇八年度定期大会は、会員他一五〇名の参加を得て、昨年九月二十二日と二十三日の二日間にわたり、花巻市のNAHANプラザ、宮沢賢治イーハトーブ館を会場に開催されました。大会の様子をご報告いたします。 第十八回宮沢賢治賞、イーハトーブ賞贈呈式
今回も例年どおり九月二十二日、午前十時から花巻市主催による第十八回宮沢賢治賞・イーハトーブ賞贈呈式が開催されました。 今年の宮沢賢治賞は、英国で刊行された『STRONG IN THE RAIN』(「雨ニモマケズ」)と、昨年、日本で刊行された『英語で読み解く賢治の世界』の著者であり、長年にわたる賢治の詩や童話の研究、さらに翻訳に取り組んだ努力と貢献に対してロジャー・パルバース氏に贈られました。また宮沢賢治奨励賞は、WEBサイト上に『宮沢賢治の詩の世界』を立ち上げ「全詩一覧・草稿一覧」、詩稿の下書きなど、パソコンでの調査研究を可能にした先駆的研究業績に対して浜垣誠司氏に贈られました。 同じくイーハトーブ賞はウガンダ・リラ事務所長として、ケニアの難民問題を積極的、また献身的に解決した国際的な寄与に対して国連難民高等弁務官の高嶋由美子氏に、そしてイーハトーブ賞奨励賞は『原爆詩一八一人集』(日文、英文)の共同編者三名の長津功三良氏、鈴木比佐雄氏、山本十四尾氏に贈られました。 花巻市長から賞が贈られ、各受賞者からのスピーチ、その後、本賞受賞者のロジャー・パルバース氏、高嶋由美子氏による記念講演となり閉幕となりました。「本賞受賞者のことば」は本号に掲載するとともに、受賞者の皆さんの横顔につきましては、会報三十七号にて紹介しておりますのでご参照ください。 定期総会午後一時半からは定期総会が行われました。出席会員の中から花巻市東和町の川村哲夫さんを議長に選出した後、議事に入り二〇〇七年度事業報告及び収支決算が原案どおり承認、続いての二〇〇八年度事業計画及び収支予算についても原案どおり可決されました。続いての役員改選についてでは、今年度から会員による選挙で選出されることになったが、理事候補者への事前連絡や選挙結果についての報告が上手くいかなかったのではという指摘がありました。今後は規約を含めた役員改選のあり方について更に検討していくこととし、次回の課題として慎重に取り組ませていただきます。なお、今年度からの新役員の構成及び、新しく役員に就任された方々のプロフィールにつきましては本号に掲載しております。 賢治研究リレー講演恒例のリレー講演は、持ち時間一人十五分というなかで、宮沢賢治奨励賞・イーハトーブ奨励賞を含む三名の方々からそれぞれの賢治をテーマにお話をしていただきました。講演の要旨は本号に掲載しております。 イーハトーブ・サロン−私と賢治−
毎年恒例となっている参加者が気軽に所感を述べ合う本コーナーでは、七名の方々が登壇され一人五分ずつのスピーチをいただきました。登壇頂いたのは次の方々です。 松野洋子さん(宮城)、小川とく子さん(宮崎)、泉澤竹男さん(岩手)、林洋子さん(東京)、佐藤成さん(宮城)、中野由貴さん(兵庫)、小野浩さん(福島) 会員交流・懇親会
初日の日程の最後となる会員交流・懇親会は天沢前代表理事の乾杯で始まり、花巻副市長の挨拶のあと歓談となりました。 今回のイーハトーブ料理メニューは、「花巻で賢治さんと光太郎さんの晩餐会」をテーマに、現在イーハトーブ館で開催中の「高村光太郎展」(二〇〇八年八月〜二〇〇九年八月末まで)との関連から企画されました。メニューの考案は学会員の中野由貴さんによるもので、賢治と光太郎のエピソードや作品に因んだ飲みもの四品と料理九品が会場に並べられました。 会員をはじめ宮沢賢治賞、イーハトーブ賞の受賞者や花巻市関係者も加わり、たいへん賑やかなひとときとなりました。 研究発表
二日目は、会場をイーハトーブ館に移しての研究発表です。今回も応募者多数により、一階ホールと二階講義室の二会場開催となりました。様々な角度からの研究が聞けることもあり毎年、会員をはじめ多くの方々に参加頂いております。午前九時半から一人三十分の持ち時間で八人の方の発表がありました。研究発表者と発表題目については次のとおりです。 A会場(宮沢賢治イーハトーブ館ホール)
B会場(宮沢賢治イーハトーブ館講義室)「銀河鉄道の夜」原稿6分割論 『銀河鉄道の夜』における「或る心理学的な仕事」―トランスパーソナル心理学の視点から 詩「雨ニモマケズ」を「十界論」より見た一考察 宮沢賢治の粒子感について
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投稿エッセイ |
賢治と修羅―七十三通の手紙が語るもの―正海 澄恵 宮沢賢治という人を知って、はや三十年近く。その時の自分の状況や年齢によって賢治に対する見方や感じ方も変わってきたような気がします。賢治は一時期、まるで聖者や救世主、或いは超能力者のように崇められる風潮にあったし、今でもそれは続いているように感じることもあります。私自身はいつも等身大の賢治を求めてはいたつもりでも、賢治はどこかベールの向こうにいる人のようでした。それはきっと、ひとつの疑問、賢治を知れば知るほど深まっていった疑問―「何故に賢治は修羅だったのか」ということによるような気がします。 妹・トシ子さんの死は賢治に深い悲しみと無力感、そしていっそうの法華経への求道心をもたらしたことはわかります。しかし、凄まじいまでの詩「春と修羅」が描かれたのは彼女の死の数ヶ月前のことです。それまでさんざん確執のあった父とも一応の決着がつき、天職ともいえそうな農学校の教師という職を得て賢治の未来は決して暗いものではなかったはずなのに…。彼はいったい何に怒り、苦しみ、もがいていたのでしょうか。心に深い深い悲しみを抱えて。 その答えを解く鍵を得たのは、一昨年の秋のことでした。あることをきっかけに、様々なことが突如として見えてきたのです。 山梨で開催された「宮沢賢治・若き日の手紙展」には、素晴らしいことに、賢治の直筆の手紙七十三通すべての実物が展示されていました。そこで私を待っていたのは、賢治から心友・保阪嘉内に宛てた、あまりにもまっすぐな心の叫びであり、ふたつの魂のひたむきな生き様でした。さらに私は韮崎の「宮沢賢治・保阪嘉内誕生一一〇周年記念事業実行委員会」の活動と『心友 宮沢賢治と保阪嘉内』という本から、嘉内がどう生き、どんな作品を残したかを知りました。 嘉内が賢治に与えた影響は計り知れません。賢治のほとんどの作品は嘉内がいたからこそ生み出されたと言っても決して過言でないと思います。賢治にとって嘉内がどれほど大きな存在だったか。『宮沢賢治 友への手紙』(保阪庸夫・小沢俊郎編著)と『宮沢賢治の青春』(菅原千恵子著)は、すでに読んでいたはずなのに、私はいったいそれらのどこをどう読んでいたのかと恥ずかしくなりました。 大正十年七月十八日、二人は宗教とこれからの生き方などをめぐって激しく口論したと言われています。「あの日」以来、賢治は己の道、「ほんとうのさいわい」を求めて悩み、迷い、苦しむ修羅となりました。 嘉内を知ることは賢治を知ること、賢治を知ることは嘉内を知ること。 賢治がしばしば作品に紛れ込ませた暗号のような言葉、一本杉やデンシンバシラのように、ふたりは一心同体のような存在でした。ただの友達ではなく、どこまでも「みんなのさいわい」を求めて一緒に行こうと誓い合った魂の結びつき。賢治が死ぬまで激しく恋し求めたのは、保阪嘉内だったのではないでしょうか。 直筆の七十三通の手紙により、私は初めて、賢治の苦しみ、悲しみを感じることができたような気がします。あらゆる方面からまるで天才や神様のように祭り上げられたとらえどころのない賢治像ではなく、ただ数十年前にこの世に生きていた賢治というひと。私達と同じ血の流れる一人の人間としての賢治が、私の目の前に現れたのです。 今、作品を読めば、私はすぐそばに彼の魂を感じるような気がします。 賢治は晩年、知人への手紙に「全くさびしくてたまらず、美しいものがほしくてたまらず、ただ幾人かの完全な同感者から『あれはさうですね。』といふやうなことを、ぽつんと云はれる位がまづのぞみ」と書きました。「幾人」とありますが賢治の頭にあったのはまぎれもなく「保阪嘉内」その人だったと思います。 叶わぬ願いを胸に深く秘めた賢治のその悲しみ。そうして作品を読んでみると、はっきりと見えてくるものの何と多いことか。初めて私は賢治の悲しみを、本当に胸が痛くなるほど感じるようになったのです。
詩集『春と修羅』を送られた嘉内は、その本を生涯大切に手元に置き、読み込んでいたといいます。二人は決して「決別」したのではなく、真剣な結びつきであったからこそ真っ向からぶつかり合い、まことの道を求めて突き進んだ究極の友情だったのではないかと私は思います。 (愛知県西尾市)
福島市の獣医師千葉喜一郎について菅野 俊之 宮沢賢治と私の在住する福島県との関連について興味をもって、些か調べている。その一端を賢治の生誕百年に当たる平成八年の十月『文化福島』二九八号に「フークトーブと宮沢賢治」と題して寄稿し、他にも当時幾篇かの駄文を書き散らしたが、そのころから気にかかっている人物に、福島市の獣医師千葉喜一郎がいる。晩年の賢治は東北砕石工場の技師となり、酸性土壌改良にも効果のある農業用肥料として、石灰岩抹(炭酸石灰)販売のセールスマンみたいな仕事に情熱を傾けた。石灰の見本を詰めた重たい鞄を持って、東北各地を連日巡り歩き体調を崩して命を縮め、遂に亡くなってしまう。そのような、農民のために炭酸石灰の普及に一途に挺身した賢治の行動に、大きな影響を与えた人物の一人が千葉喜一郎ではなかっただろうか。 彼のことは、『新校本宮澤賢治全集』(以下『新校本』と略す)第十五巻本文篇に収められた東北砕石工場の経営者鈴木東蔵宛の賢治書簡のなかに出てくる。書簡番号四一二と四五三aで、同巻校異篇と併せて参照いただきたい。また『新校本』第十六巻(下)収録の「年譜」昭和七年四月十七日の項には、前述の賢治書簡を典拠として次のように記載されている。 「福島市獣医千葉喜一郎、村松舜祐博士の紹介により来訪。農林省委託として砕石工場搗粉と房州砂、三春産のものを家畜に与える飼養試験を行い、その結果工場産のものは薬用炭酸石灰に劣らぬ良成績をあげ、他産のものとうてい及ばざるを確認したという。これにより千葉は農林省佐藤繁雄博士と共名で報告に工場名を明記する一方、福島・栃木・新潟方面の一手販売を引きうけたいとのことである」 文中の工場は東北砕石工場のことで、千葉喜一郎はわざわざ花巻の賢治宅を訪問し、同工場産の炭酸石灰を使った家畜飼料は優良なので、一手販売をしたいと告げたのである。 石灰岩抹の新たな販路に、賢治が欣喜雀躍したことは想像に難くないし、セールスマンの仕事に一層邁進する励ましにもなったであろう。晩年の賢治の行動に喜一郎が影響したと推測する所以である。彼の略歴が『新校本』第十五巻校異篇にあるので転記する。 「千葉喜一郎氏……(明三五・一一・四.昭五九・八・一)。福島市出身。大正一二年盛岡高等農林学校獣医学科卒業後、出身 地で獣医師開業。その間母校教授、家畜病院長に就任。獣医学博士」 この程度のことがわかれば賢治研究には十分なのだが、彼の経歴について若干の情報を知り得たので次に報告しておきたい 。 *福島県内新聞の訃報記事 『福島民報』昭和五十九年八月三日 千葉 喜一郎氏(ちば・きいちろう=千葉家畜病院小動物クリニック病院長、前県獣医師会長)一日午後十一時四十分、急性心不全のため済生会福島病院で死去、八十一歳。自宅は福島市野田町字背燔六ノ一三。告別式は五日午後一時から同市黒岩のたまのや斎苑で行う。喪主は妻のタカ(たか)さん。 県獣医師会長、日本獣医師会副会長を務めた。畜産業の振興と公衆衛生の発展で四十二年に藍綬褒章、四十九年に勲四等瑞宝章を受けた。 『福島民友』昭和五十九年八月三日 千葉喜一郎氏(ちば・きいちろう=千葉家畜病院小動物クリニック病院長)一日午後十一時四十分、急性心不全のため福島市桜木町の済生会福島病院で死去、八十一歳。自宅は同市野田町字背燔六ノ一三。告別式は五日午後一時から同市黒岩のたまのや斎苑で。葬儀委員長は河原田穣福島市長、喪主は妻タカさん。 長年にわたり県獣医師会長を務めた。 *喜一郎は旧制福島中学を大正九年三月に卒業した。同校第十八回生。 *昭和十六年四月、喜一郎は北海道大学より獣医学博士の学位を授与された。博士論文名は「本邦ニ於ケル馬ノ所謂骨軟症ノ骨ノ組織学的研究」で、この論文は北海道大学附属図書館に保管されている。 *『日本獣医学雑誌』四巻四号(昭和十七年八月)に喜一郎の論文「本邦ニ発スル馬ノ所謂骨軟症骨質ノ組織学的研究」が掲載されており、前述の博士論文と同一と推定される(英文論文名もほぼ一致する)。 *喜一郎は昭和四十四年九月に創立された東北家畜臨床研究会(現在は日本家畜臨床学会と改称)の初代会長を務めた。当時彼は福島県獣医師会の会長でもあった。 *昭和三十五年当時、喜一郎の医院は千葉家畜病院と称し、福島市太田町四―八にあった。 *昭和五十七年当時、喜一郎の医院は千葉家畜医院(前出の新聞訃報記事には病院とあるが、当時の電話帳広告による)小動物クリニックと称し、福島市野田町字背燔六―一三にあった。 *現在は、千葉小動物クリニックと改称し、福島市内にある。 *福島県獣医師会は平成二十年に創立六十周年を迎え、記念誌を編纂中である。この記念誌が出版されれば、喜一郎の福島県獣医師会会長在任期間などが確認できるであろう。 以上、断片的なことばかりで恐縮だが、千葉喜一郎の業績が以前よりは少しわかってきたと思う。しかし、肝心の宮沢賢治との関連はあまり見えてこない。喜一郎が花巻の賢治宅を突然訪問したのは、賢治が盛岡高等農林学校の先輩であり親近感を抱いたことも大きな要因であったろう。佐藤通雅『宮沢賢治東北砕石工場技師論』(洋々社 平成十二年)によれば賢治も炭酸石灰の販路拡張に、盛岡高等農林同窓生の緊密な人脈ネットワークをかなり活用していたという。実際に賢治に会ったことのある喜一郎が、賢治の想い出を書いたものが東北家畜臨床研究会の機関誌に載っていそうな気がして、福島県獣医師会へ照会してみたが、古い機関誌は保存していないとの返信であった。今後も、喜一郎による賢治回想文などの探索を続けたい。 それにしても、賢治の人生の岐路に喜一郎以外にも、福島県関係の人物が幾人も深く関わっていることは決してお国自慢でなく、注目してよいのではなかろうか。賢治に関心のある方たちにとっては周知の事実なので詳しくは述べないが、詩人の草野心平や賢治に仏教文学の執筆を奨めた国柱会の高知尾智耀。北条常久が「赤津周雄がいなければ、今日の宮沢賢治は存在したか」(『うえいぶ』第二十七号 平成十四年)と揚言した赤津周雄。さらに、賢治が生前最後に送稿した詩篇「産業組合青年会」を掲載した福島の詩誌『北方詩人』の中心であった寺田弘と大谷忠一郎。その『北方詩人』第二巻第七号(昭和八年十月)の実物を所蔵しているので、「産業組合青年会」の一部を最後に転記しておく。旧字は新字に改めた。 部落部落の小組合が (福島県福島市)
「れいろうの天の海から」酒井 早苗 いてふの実が旅立つ頃、風について考えた。又三郎が、君達を好きだと言う時、私は何ともいえず嬉しい。賢治は風を好きだったのだと思う。ある書簡には、病床から「風のなかを自由にあるける」ことの価値を一番に挙げる。「春と修羅」では、気層の底から聖玻璃の風を仰ぎ、風になれない苦しみを語る。 風とは何か。「風野又三郎」「かしはばやしの夜」の又三郎と画かきはどこか似ている(画かきは風ではないが)。少し自分勝手な感じだ。それは、決して人の都合だけでは動かない、時に恵み時に災害をもたらす自然の姿と重なる気がする。「氷河鼠の毛皮」「鹿踊りのはじまり」の風は、何処からかお話を運んでくる。この風は単なる大自然ではなく、私達の生活するこの世界と異世界との橋渡し役になっている。現れたり消えたりする又三郎もそうだ。 賢治の言う第四次延長の世界。賢治は確かに異世界を知っている。それは「青森挽歌」をはじめ、様々な作品に描かれ、美しい安らかな世界も、恐ろしく暗い世界もある。賢治は、自分の心の状態に応じた世界へ通じてしまうとも言ったそうだ。「風野又三郎」を読むと、見えない世界は本当にあるよ、だけど君達は今生きているこの世界を、人をうらやんだり馬鹿にしたり、卑怯であったり遁げたりしないでね、しっかり駆けていくんだよ、と透明な風(賢治)が心の中を吹き抜ける気がする。 (栃木県宇都宮市)
賢治と私の出会い河南師範大学 王静 一九九八年、京都橘大学に留学中、三年生の夏休みだった。日本人のクラスメートに誘われて、東北旅行に出かけて、花巻市にある宮沢賢治記念館と童話村を訪れたときのことである。 宮沢賢治は日本人にもっとも愛されている作家の一人であるが、私は宮沢賢治について何も知らなくて、初めての出会いだった。記念館に展示されている生涯紹介を見ていくうちに、私は強い感動に襲われて涙が止まらなくなった。彼の三十七年間の短い生涯で、こんなにもたくさんの作品とファンタジーの世界を私達に残してくれたことに、深い感銘を覚えたのである。 それ以来、私は賢治の作品をいくつか手に取りそれなりの感銘を受けはしたが、系統的研究に手を染めることはなかった。しかし、二〇〇五年九月河南師範大学で教鞭を取ることになったのを契機に、宮沢賢治研究をライフワークにしようと思いたった。本格的に研究した最初の作品は「『旅人のはなし』から」である。二〇〇七年十月洛陽での「東アジア日本学国際シンポジウム」に出て発表し、後に論文集(『日本学研究』二〇〇七年十二月)にも載せてもらった。公表された初めてのものであった。嬉しさのあまり、ちくま文庫『宮沢賢治全集 第八巻』の扉に貼られた賢治の写真(友人から貰った切手)を見て、「旅人」賢治に改めて惹かれなおした。立派さやすごさも、お腹のこどものように、日を追って私の中に育ってきている。そんな賢治に出会えたことに感謝する気持ちがいっぱいである。これからも賢治と一緒に本当の幸せを探す旅を続けたいと私は思う。 (中国河南省)
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