宮沢賢治学会・会報第40号

つめたい海の水銀が
無数かゞやく鉄針を
水平線に並行にうかべ
ことにも繁く島の左右に集めれば
島は霞んだ気層の底に
ひとつの硅化花園をつくる

(「〔つめたい海の水銀が〕」)


第40号●硅化花園(ケミカル・ガーデン)
2009年3月31日発行
  1. 宮沢賢治の先祖 前田 司郎
  2. 報告
  3. イーハトーブ〈宗教〉学
  4. 投稿&投稿エッセイ
  5. 福山セミナー 読んで語って 賢治と鱒二

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宮沢賢治の先祖

前田 司郎

 私事で恐縮ですが、僕は寝付きがよくありません。眠りも浅い方だと思います。父も若い頃はそうだったようです。母は今でもそうだと言います。小説を書いたり戯曲を書いて芝居を演出したりを生業としていますので、毎朝決まった時間に起きたり規則正しい生活をしなくていいので大分助かりますが、それでも早く起きなくてはいけない日などはとても不便です。東京の真ん中に住んでいるのもあり、夜中にちょっとした騒音などがあると起きてしまい、そのあとも動悸がして眠れなかったりします。その度に思うのは「なんでこんなに寝付きが悪く、眠りの浅い僕のような人間が、この長い歴史の間に淘汰されずに残ったのだろう?」という疑問です。寝付きが悪いので結局遅くまで寝ていないと、必要な睡眠時間を確保できないのです。眠りが浅いので必要な睡眠時間も他人よりも長い気がします。

 こんな者が村にいたら原初の生活では邪魔にしかならなかったのではないでしょうか? 集団生活の和を乱すし、労 働力としてもあまり多くを期待できません。

 なんで俺の祖先は生き残れたんだろうか? そんないつも眠いような奴がどうやって。

 そう思ってずっと不思議だったのですが、つい数年前に思いついたのです。人間が危険にさらされるのは、食べているとき、排泄しているとき、性交しているとき、そして寝ているときじゃないだろうか。中でも寝ている時は一番危ないだろう。そうか、集団生活をするには俺のように眠りの浅い奴がいた方がいいのだ。

 そういう奴が居て、屈強で働き者の奴らがぐっすり眠って居る間に、浅く眠って何か異変があったら起きるのだ。そういう臆病者が居なければ、集団は全滅してしまう。そう考えると眠りの浅い僕がこうして現代に生き残っているのにもうなずける。弱い者を淘汰し強い者だけ生き残らせていたら、人類は滅びていたかも知れない。宮沢賢治は、と、ここでやっと宮沢賢治の話をはじめるのだけど、僕は賢治についてほとんどなにも知らないから賢治論のごときものを付け焼き刃で語っても、みなさまからすれば片腹痛いわけで、どうしたものかと考えて、私事から話しはじめさせていただいた次第なのです。

 僕は勝手に賢治にシンパシーを感じているのですが、その根拠になるのが右に書いたようなことなのです。宮沢賢治がもし現代に生きていたら、僕なんかよりも全然生き辛いように思います。宮沢さんの本読みました。小学校以来でした。

 小学校の頃読んだときは物語にばかり気を取られてしまい、というか、物語を追うことに夢中になって気づかなかったのですが、あ、違うかも知れない、子供だったからそれが自然に感じていたのかも知れない。あ、それっていうのは、情景描写のことです。

 32歳になった今読むと、その情景描写の凄まじさに嫉妬と無力感を覚えます。

 ああ、これは自分にはできない、と。

 子供を殊更、才能の塊のように言うことに僕はあまり賛成していないのですが、それでももしかしたら、子供の頃の 感性のまま今のボキャブラリーがあれば賢治のように書けたかも知れない、などと夢想するのですが、多分そういうことではないんだろうな。

 賢治はきっと何かがおかしくて、おかしいということは大多数の人とは違っていて、人と違っていることは悪いことのようにとられがちですが、僕が人より眠りが浅いことなんかも、他人より劣っているようですが、実は何かの役に立っていたかも知れないように、人と違うことは良くも悪くも無い。という話はこの辺にしておいて、賢治の話に戻ります。

 賢治には世界があのように見えていたんじゃないだろうか。技術ではない気がする。技術もあるんだろうけど、技術だけでは到底書けない。実際にみてきた者だけが持つ説得力がある。賢治は僕たちと同じ世界に住んでいながら、違う世界を見ていたのかもしれない。だとしたらうらやましいけど、本人はよっぽど大変だったに違いない。

前田司郎

1977年東京生まれ。和光大学卒業。劇作家、演出家、俳優、小説家。五反田団主宰。1997年、劇団「五反田団」を旗揚げする。2004年、「家が遠い」で京都芸術センター舞台芸術賞受賞。2005年、「愛でもない青春でもない旅立たない」で小説家デビュー。同作品は第26回野間文芸新人賞候補にもなる。2007年、小説「グレート生活アドベンチャー」で第137回芥川龍之介賞候補。2008年、戯曲「生きてるものはいないのか」で第52回岸田國士戯曲賞受賞。2009年、小説『夏の水の半魚人』で三島由紀夫賞受賞。NHKドラマ「お買い物」のシナリオを担当。第46回ギャラクシー賞テレビ部門優秀賞受賞。


【報告】
第二〇回定期大会

 二〇〇九年度定期大会は、会員他一五〇名の参加を得て、昨年九月二十二日と二十三日の二日間にわたり、花巻市のNAHANプラザ、宮沢賢治イーハトーブ館を会場に開催されました。大会の様子をご報告いたします。


第十八回宮沢賢治賞、イーハトーブ賞贈呈式


 今年も例年どおり九月二十二日、午前十時から花巻市主催による第十九回宮沢賢治賞・イーハトーブ賞贈呈式が開催されました。晴天に恵まれた九月の大型連休と、二〇〇八年度より行われているイギリス海岸の地層を一時的に出現させようという試み(国土交通省)も話題を呼び、花巻には全国からたくさんの方々が訪れました。

 今回の宮沢賢治賞は、宮沢賢治の考えと所業を「わたしの思想にとっても永続的な課題のひとつ」ととらえ、永年にわたり賢治研究、評論活動を行った業績に対して吉本隆明氏に、同じく宮沢賢治賞奨励賞には、賢治の生涯と作品を花巻の「温泉文化」に育まれた視点と領域から、文献研究とフィールドワークによって解く『イーハトーブ温泉学』(二〇〇八年)の刊行と、その研究に対して岡村民夫氏に贈られました。またイーハトーブ賞の該当はありませんでしたが、イーハトーブ賞奨励賞に、宮沢賢治の作品をライフワークとした朗読やライブ活動を続け、DVD『イーハトーブ朗読紀行』(二〇〇三年)の刊行などの熱意ある活動に対して声優の桑島法子氏に贈られました。

 花巻市長から賞が贈られ、各受賞者からのスピーチ、その後、本賞受賞者の吉本隆明氏による記念講演となり閉幕となりました。「本賞受賞者のことば」は本号に掲載するとともに、受賞者の皆さんの横顔につきましては、会報三十九号に紹介しておりますのでご参照ください。


定期総会

 午後からは定期総会が行われました。出席会員の中から花巻市東和町の川村哲夫さんを議長に選出後、議事に入り二〇〇八年度事業報告及び収支決算が原案どおり承認、二〇〇九年度事業計画及び収支予算についても原案どおり承認されました。

 また、宮沢賢治記念館は平成二十四年に開館三十周年を迎え、これを機に花巻市では同館の「展示リニューアル」を構想中で、現在は事前協議の段階ですが、本会にも「リニューアル推進委員」としての協力要請があったとの報告がありました。


賢治研究リレー講演

 恒例のリレー講演は、持ち時間一人十五分というなかで宮沢賢治奨励賞受賞者を含む二名の方々から賢治をテーマにお話していただきました。

 講演の要旨につきましては本号に掲載しております。

 また今回は、二〇〇七年の授賞式にも披露された故宮城一男さん制作のスライドの第二弾、「弘前、山田野を訪ねて」の上映も行われ、解説を奥様の宮城淑子さんにしていただきました。



イーハトーブ・サロン−私と賢治−


 参加者が気軽に所感を述べあう本コーナーでは、七名の方々が登壇され一人五分ずつのスピーチをしていただきました。登壇されたのは次の方々です。

岡田幸助さん(岩手県)、上島祈一さん(岡山県)、外山正さん(千葉県)、内山昭子さん(栃木県)、手塚奈々子さん(東京都)、三浦達郎さん(岩手県)


会員交流・懇親会

 初日の日程の最後となるのは、毎年好評のイーハトーブ料理メニューが並ぶ会員交流・懇親会です。会員をはじめ、賞の受賞者、花巻市関係者も加わりたいへん賑やかなひとときとなりました。今回もメニュー考案を担当して頂いた中野由貴さんによる投稿エッセイが本誌に掲載されておりますので、どうぞそちらもご覧ください。


今回の料理のテーマは「銀河鉄道の夜 食堂車ディナー」


研究発表

 二日目は、会場をイーハトーブ館に移しての研究発表です。様々な角度からの研究が聞けることもあり、毎年会員をはじめ多くの方々に参加頂いております。午前九時より一人三十分の持ち時間で七名の方の発表がありました。研究発表者と発表題目については次のとおりです。

1.姉歯 武司  「雨ニモマケズ」を十界互 具論より見た一考察その2

2.石島 崇男  『銀河鉄道の夜』第四次稿の成立についての一試論―「ベートーフェンの幻想を」に「第九」交響曲の可能性を 探る―

3.後藤 和彦  宮沢賢治『春と修羅』試論

4.白木 健一  風野又三郎の「大循環」、ジェット気流予見の謎

5.仙北屋 崇  賢治の2つの曼陀羅と銀河鉄道の夜に関係する考察

6.大明 敦   宮沢賢治と保阪嘉内の「訣別」をめぐって

7.田知本 正夫 「稲作挿話」に関する土壌肥料学的考察



第19回
宮沢賢治賞・
イーハトーブ賞
受賞者あいさつ


宮沢賢治賞受賞

吉本 隆明


 僕の好きな宮沢さんの「雨ニモマケズ」という詩が、学校の天井に貼ってあり、僕はいつもその下で、それを眺めていました。この人はどういう人で、どういうことを考えていたのだろうということを、毎日のように思っていて、「自分もこの人とおなじような人になれるんじゃないか」ということが、僕の青春時代の夢でもありました。

 この夢を、自分なりにたどって、そして自分なりの勉強も含めて今までやってきましたけれど、宮沢賢治って人は、とんでもない人で、なんといいますか格違いで、こんな人に僕もなれると思ったこと自体がお話にならない、馬鹿げた青春のいたずらだって思っています。宮沢賢治の思索や所業を思うと、自分の行ないとか、やる事がどんどん落ちていくばかりだっていう体験をして現在に至っております。

 宮沢さんの詩の中で、僕が好きで最初の言葉にしたいことは、「我々は農民である」ということを一人称で、ものを言っていることです。貧乏で、暮らしも仕事も辛いけど、どこかで救われる事、どこかで休める所、どこかでもしかしたら、希望を持てるんじゃないか、宮沢さんは、そういう事をおっしゃっている様に思います。

 僕の記憶にある「農民芸術概論」を含めて申し上げますと宮沢さんは、我々は銀河系の中の、太陽系の中の衛星の、陸中の住人だというような言い方をしています。皆さんもご存知の通り、我々は日常、人と人との関係、あるいは自分が存在している社会との関係などを横の関係としてとらえています。例えば隣の人、おなじ会合に出る人、社会組織に属している人、政治組織に属している人、それらの関係を、我々はいつでも、横に求めていくわけです。横から飛び上がる事が出来ないし、飛び上がらなくても、横の関係で、大体人々と自分との間の関係というのは、了解できると思って生きているわけです。

 そしていちばん身近なのは家族です。つまり、男性と女性との性の関係を元にしてできた家族も横に横にと、人間と人間との関係を求める世界、あるいは、そういう現実社会に、我々は住んでいると思います。あらゆる者が、横に横にと関係を持っていって、そこから何ごとかを学んでいくというのが人間の社会だと思います。

 僕の考えでは、宮沢さんは、初めから横に求める事よりも、縦に求めようじゃないかという事を、主張している様に思えます。つまり自分は銀河系の一員であり、銀河系の地球をめぐらせている太陽系の中の陸中、宮沢賢治の言葉で言えばイーハトーブだっていうふうに言っていると思います。人が何を相手にして、何と無言のうちに会話しながら、ときには独り言を言い、何と関係して、なんで生きているかというとき、宮沢さんは何よりも、それを縦にとらえているわけです。となりの人と関係してというよりも、真っ先に人は天の星と関係していると考えている。宮沢さんの非常な特徴であります。宮沢さんの思想というのは、そこから生まれてきたんです。宮沢さんの一生というのは人との関係はあまり得意な人ではなくて、あまりなかったですけど、宗教の神様とか仏様っていうのとは関係をしました。自分は天の川の星の一員で、天の星との関係がはじめにあったんだということを、ことさら強調したと思える人です。人間の生き方、あるいは関係、社会の作り方、政治集団の作り方、それを、みんな自分と銀河系との関係が元になっているという事を重要な要素として、その問題を自分も農民だと言いながら、そういう世界についての考え方を、真っ先に置いています。人間の生息や、人間自体の存在にとって横の関係が重要な考えになっていますが、宮沢さんは、「それはぜんぜん違いますよ」と本当は言いたかったんでしょう。「農民芸術概論」の中で、そういう縦の関係の事を、とても大きな要素の特徴として挙げていると思います。

 それからもうひとつ、ここには、ただ何かを書いている現在の自分があるだけだという言い方をしています。単に、現在の宮沢賢治の考え方があるだけで、意味をつけてもらいたくないということを、あらゆる著作や信仰で、非常によく宮沢さんは考えておられると思います。

 つまり、いま申しました二つの事をうまく解く事が出来れば、宮沢賢治がどういう生き方をしてきたのかという事が、とてもよく分かるのではないかと僕は考えます。その二つを中心に考えて、宮沢さんがどのように考えて、宮沢さん流に言えば、自分は宗教家で自分が書き記した童話とか詩というものは、みんな迷いの跡だと親に述べているという事を僕らは読んでおります。宮沢さんの考え方というのは、今申し上げましたこの二つの事、つまり縦の問題なのです。

 書く関係というのは縦であり、その大元には要するに銀河系、つまり自分が一番近く属している自然というのがあって、それと人間との関係が最も重要であり、また特色ある事だよという事を、宮沢さんは色々な言い方や作品で、ことごとく述べていたと思います。そして自分は科学者でもありながら宗教家として自分を規定しているので、その両方で考えを推し進めたり、深めたりしていくと分けることが出来ないという、そういう問題に宮沢さんは当面しています。これを宮沢さんは、別のことばで言おうとしています。皆さんも御存知だろうと思いますが、「ほんとうのほんとう」ということばで表しております。一つの考えがあり、それに反対の考え方があって、国家と国家で言えば、戦争になったり宮沢さんも御自分でも体験しているし、僕も体験しております。だけど、「ほんとうのほんとう」はどうだろうか。どちらも「ほんとう」だろうと主張しながら、どちらもどうも「ほんとう」とはいえないのだということを宮沢さんは言いたかったのではないかと思います。実際に軍事的なこと、殺伐なこと、残酷なことに一切関与しないで、一生過ごされたということは、そこから来ていると思います。

 飢餓であるとか、宮沢さん流に言えば、寒さの夏は穀物も野菜も発育が悪く、少ししか採れないときに、一途に自分が身をもって農家のお年寄りの手を引くように、収穫の分かる事を考え、理論的に言いますと肥料を土壌の性質にしたがい設計し農民の人に与える。もし、そこに田畑を耕しているおじいさん、おばあさんがいたら、必ず手を差し延べ、手助けする。そういうことを本格的にやった人だと思います。

 宮沢賢治が持っている「ほんとうのほんとう」の実践・実行というのは、このことに尽きるわけです。理論的、論理的に威張って集団を作り「何もしないくせに」と人から言われる様な事をしている集団も沢山ありますし、また何もしないで言うだけ言っているとかそういう場合もあります。けれども宮沢さんは、そういうことは全然ないんです。そういうことも含めて「ほんとうのほんとう」というのを地下から、上に向かって縦の関係を求める事によって、それを自分の思想としているし、また自分が現実に、手足を動かして実行するということもやりました。だから僕はこれまで色々な人の悪口を言ってきましたけど、あまり悪口を言わなかった人は宮沢賢治ぐらいです。偉い人です。

 最後に自分が到着するところの「ほんとうのほんとう」についてですが、「ほんとうのほんとう」とは何か? これは、宮沢さんの「銀河鉄道の夜」を例にしたいと思います。

 まず、自分になぞらえた主人公をジョバンニと名付け、それからその親友をカムパネルラと名付けています。作品のなかで二人が列車を降り、外に出てみようとなり銀河の流れのすぐそばまで行く所があります。銀河には濃い水素が流れていて、ジョバンニがその流れに手を入れると、手首の辺りに透明なよどみができます。その後すぐにカムパネルラの姿が消えてしまうわけで、あとは一人ぼっちのジョバンニだけが残って、寂しくて仕方がない。これからどうしようか。これから「ほんとうのほんとう」の道を行くしかない。自分はその道を行くのだと、独り言を言うところで「銀河鉄道の夜」は終わりです。

 これは宮沢さんの宗教の非常に重要なところです。銀河鉄道から見える銀河の流れに手を浸したら、濃い水素の流れが施されていて、その流れが、手のそばで透明な渦巻きができる。そこが、宮沢さんが「ほんとうのほんとう」といっていることの中の化学ですけれども、全体的に科学といっていいでしょう。宮沢さんが考えた科学と、結局自分は宗教家だと言っているその二つの事を、何かで言い表そうとした場合に、宮沢賢治は「銀河鉄道の夜」の中の二人が、列車を降りて銀河のほとりまで行って、ジョバンニがそこに手を浸し透明な水素のよどみができ、カムパネルラがそれを見てすぐ消えてしまうという場面で言い表していると思います。そこの所が宮沢賢治の銀河鉄道の様な、つまり童話の作品として、僕は一番好きですが、宮沢さんが童話を書いて、「ほんとうのほんとう」とは何かと言った場合に科学が「ほんとうのほんとう」の大きな部分を占めていて、それでいて宗教的な「ほんとうのほんとう」がある、と言おうとしているのだと思います。われわれは貧乏であり、銀河の光と自分の光をつなげるところにいなきゃいけない。宮沢賢治は科学者であり、芸術家であり、そういう事の矛盾にというか、それは違うことなのだという事を、十分深く追求した挙句に、自分の中で宗教と芸術を一緒にさせようとする、そういう意図が、「銀河鉄道の夜」の中の、ジョバンニとカムパネルラが、銀河のほとりで、一人が手を浸し、一人がそれを見ていて、それからすぐに消えてしまう。そういう宮沢さんの童話芸術の中でそれがよく表されている。「ほんとうのほんとう」と言われているのが、何を意味しているのかという事を、具体的に僕らにはこうじゃないかと色々な事を推測するのですけれど、これが確かだって事は言えません。しかし、それを推測することが僕らにとって宮沢さんを知るということなのだと思います。

 一つ示唆されることがあるとすれば、中国 の詩人に黄瀛という人がいます。その詩人が、宮沢賢治が晩年の病床にあって起きる事も自由でないときに宮沢さんを訪ねています。訪ねたときの事を黄瀛は自分で書いていますが、僕が印象に残っていてやまないのが、宮沢賢治は自分にも分からない様な、でも聞いていると何か恐ろしい様な宗教の話をしてくれたというところです。黄瀛は日本語で詩を書いていましたから、日本語を知らない、言葉を知らないという事はありえないだろうと思います。中国の軍人で、日本に留学に来た人です。黄瀛が本当の意味を自分は分かっているとは言えないのだけど、聞いていると恐いという感じがして、宗教的な事を自分に話してくれたと書いております。聞いていると何か恐いのだけど、聞いていても本当は分からないのだけど、これが宮沢さんの最後の頃の、いわゆる「ほんとうのほんとう」と言っているときの、宮沢さんの宗教的な姿ではないかと思います。それがどういうものなのだというふうに言われたら、僕は言葉がありません。でもそれは重要なのだと思います。それが宮沢さんの姿じゃないのかなということを、その姿をわからないながら求め、今でも広げよう広げようと自分はしています。

 これだけのことです。



第20回
定期リレー講演
(要旨)


「黄瀛の光栄」

岡村 民夫


 私は駄洒落が好きなので、「黄瀛の光栄」というタイトルにしました。先ほどの吉本隆明さんの受賞講演のなかに黄さんのお話が出たので、うまい具合にいったと思いました。午前中の受賞挨拶で私が「宮沢賢治賞奨励賞を頂き光栄です。」と言ったのは、午後のリレー講演の伏線だったのです。

 黄瀛は、宮沢賢治に直接面会した中国人の詩人として知られています。日本語で詩を書いた黄瀛は、一九二五年、弱冠一八歳にして当時詩壇の登竜門だった『日本詩人』の新人第一席に選ばれています。つまり、賢治生前においては、賢治より黄瀛の方がはるかに名声のある中央詩壇の詩人だったということです。中国と日本という二つの言語文化の境界で書かれた黄瀛の詩業は、賢治研究を離れて再評価する必要がある、そう私は思っているのですが、今回は「温泉」と関わるかぎりで、黄瀛と賢治の交流についてお話ししたいと思います。一九〇六年、黄瀛は重慶で生まれ、二〇〇五年、つい最近ですね、生まれ故郷で九八歳で亡くなりました。昨年のちょうど今頃(二〇〇八年九月二五日.二六日、彼が晩年に日本語教授をした四川外語学院で、黄瀛をめぐる「詩人黄瀛と多文化間アイデンティティー」と題された国際シンポジウムがあって、私も口頭発表を二本しました。今日お話しするのは、その一部をピックアップしまとめたものになります。

 黄瀛が花巻で賢治に会ったのは、賢治がハードな肥料設計の過労から肺結核を再発させて病床にあった、一九二九年(昭和四)六月です。なぜ黄瀛は、わざわざ東京から花巻の賢治に会いに行ったのか。『銅鑼』の同人として賢治の詩業を知っており、賢治を詩人として尊敬していたということが第一にありますが、それだけでは条件を満たしていない、それだけでは賢治との出会いは生じなかったはずです。

 黄瀛は当時、陸軍士官学校中華民国留学生という身分で卒業を間近にしていたのですが、その卒業旅行が北海道・東北方面旅行となり、宿泊先に花巻温泉が含まれたのです。この旅程を知ってから、黄瀛は賢治に会おうと考えました。そして彼の重病も知らずに花巻温泉から温泉電車に乗り、花巻駅で人力車に乗りかえ、豊沢町の実家の賢治を訪ねたというわけです。ちなみに、彼らが面談したのは一九二九年の春というのが定説ですが、花巻温泉の当時のPR誌「花巻温泉ニュース」の同年七月号を見ると、六月の修学旅行団として「陸軍士官学校・支那留学生」が載っていますから、実際は六月だったということがわかります。

 私の持論ですが、「温泉」というものは、離れた存在どうしを媒介させる、コミュニケーションさせるというはたらきを持っています。花巻の伝統的な湯治場の場合、「温泉」は、平地民と山の民、あるいは平地民と山の霊的なエネルギーを媒介する役目を果たします。また一方で「温泉」は、たがいに離れた村や町に住む人々の社交場になります。一九二〇年代に形成されたモダンな花巻温泉の場合、山の民との出会いや宗教的な媒介機能の方は希薄になりますが、そのぶん後者の世俗的媒介機能が一気に大きくなった。花巻の湯治場に集っていた人々が大体は岩手県民にかぎられていたのに対して、日本全国の人が、さらには外国人までが花巻温泉へやって来ることになりました。

 つまり、宮沢賢治の花巻は、花巻温泉を通じて「世界」に開かれていた。黄瀛と賢治の出会いの背後には、そうした花巻温泉の強力な集客力があったということになります。さて、黄瀛は賢治がじかに会った数少ない中央の有名詩人であり、唯一の中国人作家です。その経験が賢治と黄瀛の文学のなかに刻まれていないのでしょうか。

 「一九三一年度極東ビヂテリアン大会見聞録」という未完の賢治作品がありますが、私はそのなかに密かに刻印があると仮説しています。一九二三年頃執筆されたと推定されている先駆形「ビヂテリアン大祭」の舞台が北米大西洋沿岸のニューファンドランド島だったのに対して、賢治は「見聞録」の舞台を花巻温泉へ変更しています。そして中国人ビヂテリアンの名前を「陳」から「洪丁基」へ変更しています。「洪丁基」という名前は、賢治の草稿の異文のなかに出てくるのですが、音に注目してみてください。コウ・テイキKo Teiki。このなかには、コウ・エイ KoEiという音が丸ごと含まれているじゃないですか!

 賢治が黄瀛の側に影響を与えたことは確かです。黄瀛の詩には「心象スケッチ」と題されていたり、「心象」とか「心象スケッチ」という語彙が登場する詩があります。つまり、詩を書く方法論の次元で、黄瀛が賢治の影響を受けたということを確認できるのです。では、賢治との病床の面会は、なにか黄瀛の作品に影響を残していないのでしょうか。

 ここで私の第二の仮説を述べます。黄瀛と面会した時の賢治は、床から身を起こせないほどの重症だったのにも関わらず、黄瀛に会うと「黄瀛さんにお会いできて光栄です」と駄洒落を言ったそうです。黄さんは晩年この逸話を、今日会場に来ていらっしゃいますが、黄瀛の評伝を書かれた佐藤竜一さんに語り、佐藤さんはそのことを『ずっぱり岩手 岩手さハマるキーワード事典』に記しています。黄瀛の重要な詩集『瑞枝』は、日本で一九三四年に出版されました。この詩集の最後は、こういう印象的な一行で終わります―「自分は中国人だといふことを無上の光栄に思ふた」まさにコウエイなんですね。

 『瑞枝』の刊行は賢治の死の翌年、一九三四年になってしまいましたが、黄瀛の後書きによれば、当初の刊行予定は一九三二年でした。ですから黄瀛は、宮沢賢治が読むということを念頭に『瑞枝』を編纂したと思うのです。今年ついに刊行された『新校本宮澤賢治全集』.別巻.には、黄瀛が『詩人時代』一九三三年六月号に発表した詩が収録されています。国民党将校として中国に戻り、日本での『瑞枝』の刊行を待ちわびていた時期です。その附記のなかで黄瀛はこれが宮沢賢治に対する「近況に代へて」であると述べており、当時、彼が賢治を思いやっ ていたことがわかります。「自分は中国人だといふことを無上の光栄に思ふた」という詩行は、中国へ帰国する黄瀛の決意表明であると同時に、私には「黄瀛さんにお会いできて光栄です」という賢治のジョークへの、いわば暗号化された返信に思えてならないのです。


『うずのしゅげ』刊行について

高橋 輝夫


 地元の高橋と申します。「賢治の地元だから方言には詳しいでしょう、是非方言の話をして」と云うことでしたので、賢治方言作品音声資料『うずのしゅげ』もようやく発刊にこぎつける事ができましたので併せてお話しさせて頂きます。

 学生時代は東京の方にいましたけれども、それ以外生まれた時からずっと花巻です。いずれにしても花巻の方言とのお付き合いは何十年にもなります。会場には地元の方言に詳しいベテランの方もいらっしゃいますので、ちょっと違うのではと思われるかもしれませんが、私なりに今までの色々纏めたものをお話ししたいと思います。

〈『うずのしゅげ』発刊の経緯〉

 このたび、限定五百部ということで音声による宮沢賢治方言作品『うずのしゅげ』を発行させて頂きましたが、これは長い間の賢治学会としての懸案事項でもございましたから、地元の者として取り組ませて頂きました。

 賢治の作品には、沢山の方言作品がございます。作品を読まれている方は、感じられると思いますが、方言というものを理解できなければ、物語の面白さも半減、あるいは間違って解釈すればとんでもない事になってしまいます。

 賢治学会の企画として、「宮沢賢治方言作品の資料収集と音声化」を地元会員の協力を頂いて発刊することを決定しましたので、早速「花巻市民の会」の有志や、賢治作品を朗読したり、かつて「花巻賢治子供の会」として賢治作品を上演していた市内のグループに呼びかけ、プロジェクトを組ませて頂き取り組みました。

 なにせ素人集団でもございますから、何回も何回も集まっては私共なりに約二年間かけやっと刊行することができました。これは、『新校本宮澤賢治全集』をベースとしたもので、「これくらいは知って頂いた方がいいのではないか」と言うような作品と作品の中によく出てくる単語を纏めたものでございます。冊子巻末には作品を朗読したCDを付けておりますが、あくまでも「賢治の時代に花巻で話していたであろう」という事を意識して収録しました。ちょっと違っている所もあるかもしれませんがご勘弁頂きたいと思います。

〈東北地方の方言の特質〉

 今、日本全土で方言が消えつつあり、裏返しに標準語というか共通語で話をする人が多くなりました。これは日本だけでなく、フランスでもドイツでも同じような現象が起こっているといいます。

 特に東北地方の方言言葉の文化は独特で、縄文言葉が営々続いてきており、長い間他の地域に比べ人の交流が非常に少ないことが、その要因と言われております。

 ところが現在、交通網が非常に発達し、それに伴って人の往来も激しくなりました。それから、テレビとかラジオといったメディアを通して共通語が直接家庭に入り込み、方言が段々消えてきています。

 それからもう一つ、私はこれが重要だと思っています。それは今と違い戦後、高度成長の波に乗って、労働者が非常に日本で不足したことに関連します。だいたい昭和二十年代後半から三十年代にかけて、地方から中学を卒業したての若い労働者が、集団就業で何万人も首都圏に行ったのです。金の卵とか言われ持て囃され、就職列車まで仕立てられ「上野、上野へ」と親元を離れて行きました。ところが、何ヶ月か経ってとても耐え切れないといって辞める子が出てきました。なぜ辞めるのか、仕事が辛いから辞めるのではないのです。たった十五歳ですから故郷が恋しくなって、そういうこともあったかもしれません。辞める要因に予想だにしなかった言葉の問題があったのです。

 この事態を重く見た関係者が、打開策として学校も、地域、家庭も「標準語で話そう」の一大キャンペーンが展開されました。特に青森、秋田、岩手の北東北の教育関係者はつまり「方言ではなく共通語で話をさせる」ためにどうしたら効果が上がるか、大変苦労されたようです。

 何年も前から他の都道府県から花巻にいらっしゃっている方は、お解りと思いますが、来る度に方言で話される人が少なくなって来ていることに気付かれているかと思います。

 特に昭和二十年代の花巻を知っている方にとっては尚更と思います。花巻の子供たちも全くといっていいほど方言を話せなくなったのです。話す事が、お国訛りで悩み続けた以前に比べ良いことだと思う反面、私の様な世代の者からすれば、是非残しておきたい方言も沢山あります。

 その中には、賢治作品に出てくるような方言も多いわけで、作品を正しく解釈するためにも生かしておきたい、あるいは知って頂きたいと思っています。おそらく賢治作品を読まれている方も、そう思っているのではないでしょうか。

〈賢治の方言作品〉

 数ある賢治作品の中で調べてみましたら、方言が含まれている作品は童話作品が短編も含めて二十九作品、それから劇作品が二つ、その他に詩が二十一編ありました。それから短歌が九首ぐらい、手帳その他三というように、賢治作品の物語では実に四分の一を占めているのです。花巻で生まれ育ち、生活をした賢治が、こういう作品を残したことは当たり前で、別に珍しい事ではないのですが、それを理解するためには、花巻周辺の方言を理解しないと困るのも当然でしょう。そういった意味合いからも音 声による賢治方言作品『うずのしゅげ』を発刊でき皆さんの手元に届ける事ができ安堵しています。

〈「永訣の朝」における方言表記〉

 私が賢治作品を目にしてからおおよそ六十年になりますが、中学一年の時に「永訣の朝」を国語の先生から読んでいただいた事があるのですが、そのとき詩の意味もよく理解できませんでしたが、それ以上に何故かしっくりこないというのがありました。それは方言の部分です。今日そのことを申し上げたいと思います。

 『永訣の朝』における方言部分「あめゆじゆとてちてけんじや」、「Ora Orade Shitori egumo」、「うまれでくるたて こんどはこたにわりやのごとばかりで くるしまなあようにうまれてくる」こういう言葉でございます。私から見れば、比較的長い詩でございますけれども、その中の一つ「あめゆじゆ とてちて けんじや」、この事に焦点を絞って、お話しさせて頂きます。

 「あめゆじゆ」これは、雨雪そのものでございますから、「みぞれ」ですね。「とてちて」は「とってきて」、「けんじや」は「くださいませんか」という事なのですが、どうもこの表現がしっくりこないのです。

 なぜ、「あめゆじゆ」と書いたのかなぁというのが、第一の疑問でございます。妹トシさんがそう言うであろうか。その当時、そういう言い方をしていたでろうか。第二に「とてちて」これも大人が言うであろうか。大正とか、昭和の初めの時代に、この様な言い方をしたとは思えないのです。

 それから第三の疑問「けんじゃ」です。これも私からすると言うはずがない。にも拘わらずこういう言葉で妹トシさんの最後の願をこう綴っているのは、なぜでしょうか。私は先程も言った様に、「あめゆじゆとてちて けんじや」などと花巻では本当は言わないし、言ってもいなかったんです。花巻に長く住んでいる方ならお分かりと思うのです。やはり普通は「あめゆじゆ」ではなく「あめゆぎ」といいます。それから次は「とてちて」は共通語の様にそのまま「とってきて」となります。当時の女性の言葉としてです。次が私にすれば大変です。「けんじや」ですが、『け』と『ん』の間に本当は『で』という文字が入るのです。つまり「けでんじぇ」または「けでこねえ」となるのが、目上の人に対して言う言葉、それが当時の花巻弁なのです。くどいようですが自分と対等な場合又は目下の人に対する依頼は、「とってけろ」となり、命令なら「とってこ」となるのです。

 憔悴しきった妹トシさんの亡くなる寸前の会話なのです。最も信頼する兄賢治に対する妹さんのお願いなのです。そういうことを考えた場合に、今、色々な方がおっしゃっていること、研究されていることは、間違っているとはいいませんが、当時の花巻弁として敢えていうなら次のようになるのではないかと思います。

 「あめゆぎ とてきて けでんじぇ」と、以上がこの件についての私の結論でございます。

 その事の裏付けとして、トシさんの妹シゲさんが、「姉が亡くなる時は、まるで赤チャンのいうような言い方をした」と話しておられました。

 私事で大変恐縮ですが、私も四年ほど前に、娘を癌で亡くしました。その時病院で付き添っていたのですが、担当の先生から「持っても、あと何日も」といわれたとき、娘からの願い事を私なりに聞いたのですが、そのころは本当に全身を込めて途切れ途切れに何かボソボソ言うのです。「どことなく甘えているのでは」と思うようにも聞こえ るのです。生死をさまよっているときそんなはずがないのですが、「そう聴こえたのです」。もしかして賢治もそのように感じたまま詠んだに違いないと、私は初めて何年も疑問だった「永訣の朝」に於ける方言が、娘の死によって、目からうろこが取れたような気がします。勿論そのときは、そのようなことなど考える余地など全くありませんでしたが、その後この詩を目にしたとき「アッ これだ!」と思いました。

 そこで、この方言作品音声化資料作成にあたり、方言に詳しい何人かの高齢者に賢治の「永訣の朝」にあるような方言を話していたかどうか尋ねてみました。「言ったような気がするなあ」とか「そんなふうに言わないよ、大人は」とか「この辺では言わないよ」等の答えが返ってきました。どうやらこの作品を目にしている方と、そうでない方で答えがわかれるようでした。

 「あめゆじゆ とてちてけんじや」、「おら おらで しとり えぐも」、「うまれでくるたて こんどはこたにわりやのごとばかりで くるしまなあよにうまれてくる」この方言が入った事によって、「この詩がものすごく生きている。むしろ方言が、他の文面を包んでしまっている。」と花巻出身の宗教学者山折哲雄氏は論考しています。

〈賢治作品に於ける方言言葉〉

 賢治作品における方言は、方言をそのまま単純に表記するだけではなく、言葉の意味や響きを大切にしながらも自ら感ずるまま、時には脚色・編曲しながら表現されているのだと考えた方が良さそうです。

 読者を意識してか、漢字で方言言葉を充当したり、学会前代表の天沢先生も指摘しているように、会話等の語尾を小書きで表記しています。これが賢治独特の『方言』表現方法で、非常に大事なところです。

 花巻の方言が作品中に表記している通りと誤解されては困るし、書いている通り読んだらやはり間違った解釈をされる場合があります。

 約四百余の方言単語を駆使して、地元の者でも方言なのか共通語なのか、ごちゃまぜにした様な、私から言わせると方言の造語といってもいい様な紛らわしいものもあります。

 だからといって、間違った方言表記をしている訳では勿論ないし、それが賢治作品なのだと理解していただければいいのではと、私なりの結論です。

 全国の色々な方々から、賢治作品の方言について「分からないから教えてほしい」、という要望に対して、地元の者が親切に対応してこなかったことが、大変悔やまれるわけですが、不備ながらこの度刊行した『うずのしゅげ』が何らかの足しになればと願っています。

 どうもありがとうございました。



イーハトーブ
〈宗教〉学


近角と賢治

岩田 文昭


 近角常観(一八七〇―一九四一)を本郷区森川町に賢治が訪ねたという年譜の記載(大正八年一月二十二日の項)がある。トシの看病のために在京中であった賢治が国柱会館を訪れ、田中智学の演説を聞いたのは、この年の二月十六日であった。このような記述があるものの、近角と賢治との関係については、明治三十七年八月、大沢温泉の夏期講習会で近角が講師をしたことが知られている程度であった。

 近角常観は、明治末期・大正・昭和初期の青年知識人に大きな影響を与えた真宗大谷派の僧である。東京帝国大学のすぐそばに、説教所である求道会館と、求道学舎という学生寄宿舎を建て、一高生・帝大生を中心に多くの若者を集めた。その影響力はキリスト教の内村鑑三に比すべきものがあったと推察される。しかし、近角に関する研究は、皆無といっていい状態であった。近角研究の基礎となる資料が未整備だったこともその一因である。そこで、岩田文昭を研究代表者とし、国際宗教研究所宗教情報リサーチセンター研究員の碧海寿広氏らを研究協力者とした、科学研究費補助金による近角研究が平成二十年四月から遂行されている。

 求道会館には、一万通に及ぶ書簡が残されていた。この中に宮澤一族からの書簡が二十通ほど見出された。現在までに判明したのは、政次郎発が十二通、トシの長文の手紙が二通、磯吉が四通(ただし一通は封筒のみ)、梅津善次郎が二通である。賢治本人の書簡は発見されていないが、これらの書簡と近角が中心になって刊行した雑誌『求道』との記述から、宮澤一族と近角とのおおよその関係が描ける。

 この中で一番古い書簡は、大沢温泉での説教直後、雑誌『求道』の購入希望について書かれた明治三十七年八月二十三日の政次郎発の手紙である。その後、宮澤一族は近角の説教を何度か聞くことになる。『求道』第三巻第四号には、「大沢講習会にて結縁せし強健なる信仰を実験せる宮澤政次郎君は来京し、宮澤梅津両家一族七人熱心に、求道して余念なく、・・・」という記述がある。この来京した七人とは、宮澤政次郎・いち・善治・直治・恒治・磯吉、それに梅津せつである。かれらはその後、何度か近角の説教を聞いているが、とくに磯吉は、求道学舎に寄宿し近角に親しく接した。『求道』第十一巻四号には磯吉の書簡が掲載されている。近角の言葉により、信心が定まったことへの感謝の手紙である。確認できる最後の書状は、昭和十四年の政次郎からの年賀状であり、近角の晩年まで関係があったことがわかる。

 今回発見された書簡の中で資料的価値が最も高いと考えられるのは、トシからの大正四年の二通の手紙である。日本女子大に通いはじめたトシが近角に面談を求めた書状と、面談の礼状である。才媛だったトシらしく綺麗な字で書かれた手紙からは、花巻で起こした「恋愛事件」以降のトシの心境が読み取れる。注目すべき点は、トシが真宗の信心を獲ることができないと嘆いていることである。宮澤一族は、熱心な真宗信者であったが、そのことは一人一人が確固とした信仰を持っていたことを意味しない。かれらの信奉したのは檀家制度に立脚する仏教ではない。近角の説く真宗の教えは、個々人の内的覚醒を要求するものであった。そのため、形のうえで聞法し念仏を称えていても、いまだ信仰が確立されていないという表明は当然ありえた。その後、賢治が法華経の行者になったとき、トシはいち早く賢治に従ったとされるが、そこには賢治からトシへの一方的感化だけがあったのではなく、トシの中に存在していた精神的空白に賢治が呼応したという面も見るべきだと思われる。

 賢治と近角との間には、もう一つ別の間接的関係がある。それは谷川徹三との関係である。実は、谷川も近角のところで熱心に信仰を求めた時期がある。一高生時代、精神的に悩んだ谷川は、近角に頼み、求道学舎に二年ほど寄宿した。しかし、谷川は結局、真宗の信心を獲ることはなく、ホイットマンの『草の葉』を読み、大きな安心を得たという。その後、谷川の関心は芸術にうつり、芸術との関係の中で宗教を理解しようとした。近角の説いた真宗世界を断念した谷川が、近角的真宗の世界を離れた賢治に共鳴し、それを紹介したことは偶然ではなかろう。近角が谷川や賢治に直接に影響を与えたとはいえない。また谷川の賢治理解は一面的なものであったろう。しかし、近角の教説で満足できなかった二人の思想世界が共鳴しあい、その共鳴が多くの読者の獲得につながったとはいえる。賢治と谷川が開いた思想世界は、近角の思想を否定し、切り開いていったものとして考察する余地があると思われる。

 現在、碧海氏と協力して、トシらの手紙の翻刻を試みている。また、雑誌『求道』はすでに全巻電子情報化してDVD一枚に収めている。御関心のある方は、岩田までメールなどたまわれば幸甚である。

近角常観


求道会館外観



投稿エッセイ


賢治と「こつなぎ」

小関 和弘


 昨二〇〇九年一〇月の山形国際ドキュメンタリー映画祭で中村一夫監督「こつなぎ.山を巡る百年物語」(配給協力 パンドラ、一二〇分)を観る機会があった。「こつなぎ」とは岩手県二戸郡小繋村(現一戸町)とその入会地・小繋山のこと。映画は小繋で百年にわたって続けられてきた入会権確認訴訟と刑事「事件」裁判の推移、そして農民たちの暮らしと闘いの記録である。

 この映画に描かれる小繋集落は盛岡市から北へ五〇キロあまり、旧東北本線小繋駅の近傍に存在する。そこは賢治の心象スケッチ「一本木野」に「七時雨の青い起伏は/また心象のなかに起伏し」、また「国立公園候補地に関する意見」には「向ふの山は七時雨/陶器に描いた藍の絵で」と描き出される七時雨山の東に位置している。

 小繋集落の人びとが生存の基盤をめぐる闘いに引き込まれたのは一九一五年七月の山火事が端緒であった。この山火事で集落二八戸のうち二六戸が焼失、家屋再建のために山の木を伐採した人びとに対して、当時地主となっていた鹿志村亀吉は用材に仮差押をかけ、代金の支払いを要求したのである。

 先祖代々、小繋山に入って薪を取ったり、キノコや木の実を採取したりするなどして山里の暮らしを立ててきた小繋集落の人びとは、自分たちの暮らしと山との密接な関わりを突如突き崩されたことに驚きつつ、法的権利についての学びも積み重ねながらくじけることのない戦いを組んでいった。

 農民側が「入会権確認並妨害排除」の民事訴訟を起こした一九一七年一〇月に賢治は盛岡高等農林の三年生であった。新校本全集の「年譜」によれば、この訴訟の起こされた翌一一月に、賢治たち盛岡高農の三年生は、納豆菌の研究で有名な村松舜祐教授の引率で二戸郡下を見学したとされてもいる。そして原告敗訴の一審判決が下された一九三二年二月に賢治は病いの床に伏してはいたが、東北砕石工場の技師として意欲を燃やしていた時期であった。第一次小繋訴訟は賢治の後半生とぴったり重なっていたのである。

 牽強附会に聞こえるかも知れないが、小繋は花巻、盛岡の北方に位置し「北ニケンクヮヤソショウガアレバ」の「北」にあたる地域である。また「なめとこ山の熊」での「木はお上のものに決まったし」という小十郎の述懐は一八九六年の「山林原野官民所有区分」に関わるものだろうし、「グスコーブドリの伝記」中の「てぐす工場」の章の「この森は、すつかりおれが買つてあるんだ」という言や、「かしはばやしの夜」で林の持ち主に酒を買ったことを伐採の正当性の根拠とする清作の言など、賢治作品中に山林の所有権をめぐる記述は散見できる。そして裁判という事象に関して賢治が並並ならぬ関心を持っていたことは「どんぐりと山猫」は言うに及ばず、「ペンネンネンネンネン・ネネムの伝記」を思い出すなら、容易に気付くことである。さらには栗原敦氏が「〈加害〉の影を―「山火」再読」(『宮沢賢治透明な軌道の上から』新 宿書房、一九九二。所収)で「四六 山火」下書稿(一)の手入れに「訴訟に負けた山の部落の人たち」という表現があることを取りあげつつ、地主との契約上の紛争、草刈場の入会権をめぐっての事かと想像していることとも考え合わせてみたくなる。ただし「四六山火」の日付は「一九二四、四、六、」であり、同日付の他作品の背景が外山と考えられるので、小繋訴訟とのつながりは考えづらいようであるが…。戒能通孝『小繋事件』(岩波新書、一九六四)には、一九一九年から二〇年にかけて小繋以外でも岩手県北で入会訴訟、小作争議など法廷闘争に持ち込まれたものが多数あったとあり、こうしたものの一つが「山火」の世界の現場かと思われる。

 なお、小繋は二戸郡に属しており、そこは賢治の父政次郎と宗教上の深い交流を持った高橋勘太郎が行動範囲としていた地域であったことも気になる点と言えるだろう。そして小繋山の所有権に関わって最初に名前が挙がるのが盛岡の法輪院の末寺であった小繋の長楽寺(天台宗)の関係者ということ、訴訟時の小繋山の「地主」鹿志村が北海道でラッコとオットセイの密猟で財をなしたことなど、「小繋」というトポスの周辺には賢治の生活史や作品世界と微妙な接点を持つようなトピックがいくつも散らばっていたりする。

 映画「こつなぎ」を直接、宮沢賢治に結びつけることは難しいかも知れない。また、新校本全集の索引などをあたっても、賢治の著述の中に「小繋」を直接描いたものはないようである。しかしこの映画に描かれた小繋の「物語」からは、賢治の生きた時空、そして賢治が耳を傾けたであろう岩手の地の声が聞こえてくるように思えてならない。

*本稿の執筆に際し、栗原敦氏から直接、多くのサジェスチョンをいただきました。




写真提供:川島浩/村林三枝子/前島典彦
(※モノクロ下二枚)

(会員・東京都町田市)


永遠の不思議 天気輪

酒井 早苗


 ジョバンニは独り丘に登る。琴の星の様子から泣いていると解る。やがて天気輪の柱が彼のすぐうしろに立つ。この時、何か大きな天の力がジョバンニを包み込む。テンキリン、この不思議な響き。輪という文字から仏陀の教えという意味の法輪を連想させる。しかし賢治は南無妙法蓮華経とは書かない。唐草模様、をかしな文字。そしてハレルヤではなくハルレヤ。自分は法華経信者であるけれども、出会う人みんなを救いたいという切なる願いと悩みをそこに感じる。次々と過ぎ去るりんどうは、たくさんのカムパネルラ(カンパニュラ:鐘状の花)だ。また、カンパナーロは鐘撞き修道僧のこと。私には銀河鉄道が、聞こえないくらいに透きとおった鐘の音の中を走っているように思える。それは賢治の書簡にある、人々を幸福に導こうとする宇宙の意志の愛の思いではないかと思う。列車の中で青年の話を聞き、ジョバンニは両親の愛に気付く。人は愛されていることに気付いた時、自らも誰かを愛したいと願う。そこに本当の心の安らぎもある。孤独や無理解や現実生活の苦難、また未来への不安などという自分の石炭袋を背負いつつも、愛したいという祈りによって人は希望を抱いて生きてゆける。熱い牛乳の瓶を胸に家路を急ぐジョバンニは、希望の光を胸に抱いて未来へと走るかのようだ。彼の心には天気輪の柱がすきっと立ち、その生き方により法輪が転ぜられる時、彼の人生は美しい響きを生み出すのだろう。

(栃木県宇都宮市)


セロのような響き

太田 浩幸


 とある総合病院の待合廊下、知人の見舞いのため迷い歩いていると、外来の診察室の方から、お医者さんの声だろうか、患者さんに何か語りかけているらしい。声の響きだけで、言葉は聞きとれない。なぜか、その声の響きに私は不思議さを感じ、心が揺れ動いた。

 病院からの帰り際、ふと「セロ弾きのゴーシュ」のなかのセロの音で、病が癒される動物たちのエピソードが思い浮かんだ。

 後日、親友に、この病院での出来事を話すと、彼いわく「多分、本当に心の底から人が声を発する時、楽器のように快い倍音の成分が含まれるのでは。」と語っていた。音楽的素養のない私は、「倍音」ということばは聞いたことがあっても意味がよくわからない。

 調べてみると、「基音の整数倍の部分音」とか、難解な数式まで、でてきて余計、混乱してしまう。現象自体は物理的なものだが、音が響いている時、快いか、そうでないかは聞き手の人間の感覚に左右されるものと、勝手に解釈した。

 結局、なぜ私自身がその声の響きに強く惹き付けられたかは、わからない。おそらく、そのお医者さんは、患者さんに深いいたわりの心をもって接しているのではなかろうか。

 そういう響きは、薬や最新の医療技術よりも患者さんに力を与えるのかもしれない。

 案外、私達の周りは、ゴーシュが奏でるセロのような響きに満ち溢れているのでは、と肌で感じた次第である。

(福島県西白河郡)


羅須地人協会の床板についての報告

外山  正


 花巻農業高校同窓会では同会の百周年(注1)記念事業として農業高校敷地内の羅須地人協会建物前庭に賢治の立像を建立した。これはずいぶんと話題にもなったのでどなたもご承知のことと思う。そしてその事業の一環として羅須地人協会建物(同窓会所有および管理)全体の手入れも行った(注2)のであるが、その際に今まであった床板をすべて撤去して新しく張り替えるということをした。

 これらの事実とその意味を正しく認識している方は本会報の読者の中にどのくらいおられるだろうか。新材に張り替えられたと言っても、古色を帯びた塗装をしてあるので一般的には気づきにくい状態にある。しかしこれはどう考えてみても文化財の毀損に他ならない。今回、この件について公にしておく必要を感じ筆をとった次第である。(注3)

 羅須地人協会建物と言えば、賢治生前の活動を彷彿させる実体的な空間として大変に重要な役割を担っている。特に、ビジュアルな要素であるあの集会室の「古びたオルガンや黒板、火鉢を囲んだ丸椅子の映像」は往時を追体験する道具として、大変分かり易く、強い説得力を持つことから旅行案内書の類を筆頭として随所に引用されて来たところである。我々賢治愛好者も、その風景が醸し出す賢治的世界にどっぷりと身をゆだねて来たのであるが、そもそもその追体験自体も既に歴史化が始まっていると言ってもよいくらいの時間が経過している。

写真1 残っていた板材。ただし、後の時代のものと思われる。


 その風景の構成要素として大変重要な存在であった、あの飴色の松材の床板一切が、どこかからか持って来たごく普通の「フローリング」に張り替えられてしまった。平成十九年の冬頃のことである。その後、筆者は撤去された板の捜索も試みたが、結局は比較的新しい時代に張り替えられたと覚しき一部の材が見つかったのみで(写真1)、その他は二酸化炭素になって空の微塵にちらばってしまったのだろうか。今後現場に出向かれる方々は良く確認していただければと思う。(写真2・3)

写真2 張り替える前の床材。


写真3 張り替えられた後の床材


 確かに、なぜこのようなことになったのかということに考えをめぐらせば大方の想像はつく。すなわち、施設管理者としての考え方が全面に出てくるのであろう。年間相当数の閲覧者が来場する施設として注意すべき点としての「安全確保」は大切な事項である。この建物は元々が古い建物である上に、移築後四十年以上が経過している。観光客が床板を踏み抜きでもしたら一大事である。安全管理という概念を持ち出せばこの判断はあながち間違いではない。しかし、その一大事の防止のために行ったのであれば、さらにうわての一大事になってしまったことになる。もっと大局的な「賢治の事跡の保存=文化財としての理解」という判断としては、これは間違いである。少なくとも管理者にこの観点が欠落している。それともお客様をお迎えするのだからと、畳の表替えをする様な感覚での作業だったのだろうか。

 その話は現場で維持管理をされている方から直接伺った。「床の張り替えをしたんですよ。」「えっ!?」文字通り「我が目を疑う」ということはこのことである。確かに張り替えられてしまっていた床材の視覚情報は目に入っていたのだ。しかし、その意味をはっきりと認識するには言葉による補助が必要で、目に写っている情報と意味の摺り合わせに一瞬の間があったのがリアルなところである。続いて背中の辺りがぞっとし、立っている膝が脱力するような反応(腰が抜けるとはこのことか)が追いかけた。

 羅須地人協会建物自体の価値やその建物の歴史や、またその建物が桜町から移築されて以降、その買い戻し・復元・維持管理に尽力された関係者の努力などについて筆者はそれなりの理解は持っているつもりである。今回問題として取り上げ苦言の形で提示するが、現在の関係者・当事者を含め、我々はこの期にその意味合いと、そうなってしまった原因について良く考えてみる必要があると思う。

 正確性を期するために、多少の説明を加えておく。羅須地人協会の建物は、賢治が使用した以降、少なくとも三回の移転(うち一回は農業高校敷地内の移転)とそれに伴う改築を経て現在の場所にたどり着いている。一度、人手に渡った建物が花巻農業高校という考えようによってはもっとも適切な関係者の手に舞い戻って来たこと自体、いくつかの偶然のなせるわざであった。それらを、手間暇かけて維持管理をし、整備をし公開してこられた歴代の関係者の努力の結果、我々は十分な恩恵に浴して来た。羅須地人協会の建物にしばらく滞在すれば、掃除のために巡回する生徒さんに会うこともある。また、不特定多数の出入りがあればいくつかのトラブルも発生するだろう。周りの庭園には管理の方が張り付いている。これらのことは十分評価するものである。

 もちろん現在の建物としても当時の古材に加えて改築の途中で加えられた新材が含まれている。これらの状況は同じ賢治の遺したものとして同類の「原稿」に譬えることにより多少の理解の足しになるかもしれない。すなわち、賢治ゆかりの施設ということを基準に考えれば、羅須地人協会活動時の形状が「本文」であり原型である。その後、他の人により数次の「手入れ」がなされ、その後段の「手入れ」は原型復元を理想とした「手入れ」に変わっていることは言うまでもない。したがって、まさしく賢治の原稿と同じような「本文校訂」の問題が横たわるのである。この言い方を踏襲すれば、今回の一件はその本文校訂作業からすっかり外れてしまったとしか言いようがない。

 さて、ここまでの説明の中で、実は何がどのように問題であるのかという点についてまだ触れていなかった。このことは結構重要ことである。すなわちあまりに当然のことは、通常は話題として省略されることが少なくないからだ。しかし、前提が変わればその常識が通用しないと言うことは今回の一件が証明することになってしまった。したがって、確認のために以下に記してみることとする。

第一
 建物が当時のままでなく、後世の者が復元したことが明らかな施設であっても(どの部分をどのように復元したか不明であっても)、それがそのまま、当時の物の残存を否定することの証明にはならない。
 すなわち無くなってしまった床材が、賢治の羅須地人協会活動当時の物であったという可能性は否定できないのでもっとも大事な部分を毀損した可能性がある。
第二
 残っていたかもしれない賢治の痕跡を確認するすべを失ってしまった。
 想像をふくらませれば、賢治が弾いたセロのエンドピンの刺さった痕などが残っていたかも知れない。これらを確認するすべを失ったのである。
第三
 たとえその床板が賢治後の世代に属する物であったとしても、往時の状況を良く表現していた文化財としての価値があったはずである。
 大小様々な床材をパズルの様に組み合わせて張っていたということは、少なくとも板材の製材が自由でなかった時代の産物であることが想像され、使用の起源がかなりさかのぼれる。
第四
 そして、何よりもあの板材の視覚的な(見た目の)価値。
 無造作に釘打ちされた板材は、複雑な板目模様を呈し、その色 合いはチェロやバイオリンの名器にも匹敵する存在感を持っていたのではないか。無残にも病気で撤退しなければならなかった賢治の無念が様々な傷と一緒に染みついていたのではないか。壁材は塗り直された新材であるので、実は床材こそが主役であってセールスポイントであり、さらに言えばもっとも重要な観光資源であったのではないか。

 などと指摘出来る。価値から言えばやはり一番目と四番目辺りであろう。確かに、買い戻しから、移転・復元・管理と続く作業は地元花巻(あるいは花巻農業高校同窓会)の掌中にあるという意識があるのかもしれない、しかしどこかでポイントが外れてしまっているのである。ある文化財が、その所有・管理する組織によってその文化財の文化財たる部分を滅失させてしまう様なことが起こってしまったのである。ということはその組織を含めて、関係者が文化財としての理解と、その管理をする能力を有していない事実を示し、何らかの対策が必要とされているという信号を発している。

 文化財保護法という法律がある。これは文化財有効利用法でもなく、文化財管理援助法でもない。ちょっと内容に踏み込めばすぐに知れるが、基本的に文化財の毀損や滅失を防止するために網をかけるための法律である。しかし、世の中には、今回の例を持ち出すまでもなく、法の網がなかった時代に失われた文化財は多い。この法律はまさにその部分、文字どおり、ほおっておくと様々な理由により、文化財が無くなってしまうこと、そもそも文化財という物がそういう性質を持ち備えていることを端的に示している。

 もっとも、良く考えるとポイントはもう少し手前にある。「保護対象」と考える前段に「文化財である。」という認識が先立たないと機能しないのである。そういう意味では粗雑な床板(そもそも畳の下地材であるところの荒床にニスを塗ったものでしかない。)を文化財と見極めること辺りに第一のハードルがありそうである。単に文化財と言っても、人によってはただの古めかしい張替対象の板材にしか見えないという事実があることを肝に銘じなければならない。文化財保護法は価値を見出すこと(鑑定作業)の「危うさ」故の法律であるのかもしれない。なお、同じ建設材料でも、時間の経過とともにどうしても消耗する物があり、これらは消耗品として更新される分類になる。家屋で言えば、恒久的でない屋根材、畳、襖や障子の紙、一部の壁材などが当たるので、そういう消耗部材を更新しても、とやかく言うつもりは無い。しかし木材は法隆寺の例もあるとおり、優に千年をこえる寿命を持つのである。それほど強度が不足していたとも思えない。

 賢治の事跡は、通常は文化財保護法の対象にはならない。これは普遍性を欠くという分類に入るからである。しかし、たとえば割と数多く存在する土中の土器の破片が文化財保護法により埋蔵文化財として調査対象となり手厚く保護されている一方で、賢治の活動を文字通り支えていたかも知れない床板が消えてしまうということは、どこか仕組みに問題がある。だれがどのように判断を下したのだろう。管理者には、何が賢治の文化財であるか、文化財の文化財たるところはどういう部分に存在するかということの明解な価値基準とそれに基づいた正しい判断が不可欠である。

 これらは宮沢清六という偉大な監修者の存在を失って以降、その存在に変わる機能が働いていない例として記憶・対処すべき事項と考える。賢治賢治と言ってみてもその一部は既に風化が始まっているのかもしれない。法の網のかからない隙間の部分への対応が望まれるのである。

 筆者は平成十八年から十九年にかけて、イーハトーブ学会理事在任中に、花巻農業高校および生徒さんのご協力を得て、羅須地人協会建物の計測調査を行い図面を作成した(資料1)。計測調査をかける理由として、何気なく滅失の可能性などを口に出していたが、まさにその通りに動いて行くことは考えになかった。板材全面の写真は結果的に撮りそびれてしまった。また、生徒さんが板材一つ一つの寸法を(一部は釘の位置も)計測してくれたのであるが、少々精度を欠くのが現実的なところである。

 床板張替の一件はその何回かの調査の間に起こったものである。せっかく建物の計測調査で関わりを持ちながら、文化財毀損に相当するこの経緯を知ることなく、この事態を止められなかったことも残念であるが、調査に際し農業高校にこころよくご協力をいただいたにもかかわらず、このような意見を記さなければならなくなりつくづく残念である。また、事後の板材追跡調査においては、阿部彌之氏、花農同窓会八重樫良康氏並びに宮沢賢治学会イーハトーブセンターのご協力を得たことを記しておく。なお言い訳になるが、筆者在住地との距離の関係で調査に多くの時間がかかり、ご報告が遅れたことを申し添える。


(注1)平成十九年で満百年

(注2)「ワレラヒカリノミチヲフム」花農百年史 平成十九年三月花巻農業高校同窓会

(注3)二〇〇七年度の冬季セミナー「宮沢賢治的建築学」で一端は 触れたが、今回はその後の調査も含め新たに内容をまとめ直したものである。


資料1 羅須地人協会建物東側立面図

(千葉県浦安市)


懇親会のおいしいものたち

中野 由貴


 雑穀、野菜、乳製品、海の幸…岩手には、おいしいものがたくさんある。そして賢治作品にも。毎年9月の定期大会後に行われる、参加者交流・懇親会の料理メニュー提案にかかわらせていただき2009年で10回目になった。賢治作品に登場するたべものには、ハイカラさ、洒落た雰囲気をもっているものが多く、それらが作品を飛び出して会場にもまたそんな空気が漂う。回を重ねる度に楽しい出会い、愉快な拡がりが生まれている。それは大変「口福な」こと。私自身、このような機会にかかわれることに大変感謝している。

 始まりは97年、当時、学会理事で企画委員の斉藤征義さんが、「賢治さんの世界を楽しめる料理を考えてみませんか」と声をかけてくださったことから。賢治作品のたべものに“少々”食い意地のはった私には大変うれしい宿題だった。その97年はサラド(「注文の多い料理店」)、塩鮭(「どんぐりと山猫」)、藁のオムレツ(「ペンネンネンネンネン・ネネムの伝記」)など9種類+αを。2009年には「銀河鉄道の夜」をテーマにトマトでなにかこしらえたもの、白金豚の塩釜焼プリオシン海岸風、黒米のパエリア石炭袋風など、作品に登場する食材や印象を取り上げたものや、郷土料理や飲み物など22種類+αがテーブルに並んだ。会員の方からの「めったにないごちそう」も並ぶ。御舩道子さんは三朝から「鹿踊りのはじまり」にちなんで栃もちを会場に届けてくださる。また今回は三浦辰郎さんが作られた陸羽132号の新米をおにぎりにして、その賢治ゆかりのお米をみんなでほおばるという機会が生まれた。

 毎回、料理に腕をふるい、食材や調理のアイデア、テーブルセッティングまでも趣向を凝らしてくださるのは、北上パークホテルの小石修司さんとスタッフのみなさんだ。中でも初回に登場した藁のオムレツは、そのもしゃもしゃした食感を出すため、小石さんが試行錯誤し、春になると生えてくる岩手の「ある食材」(あえてここでは伏せておきます)を使って愉快なオムレツが完成した。それは懇親会の人気メニューのひとつになった。

 ある年には「水仙月の四日」のカリメラ焼きが「大会」になった。カリメラ焼き作りの難しさに皆が真剣になり、リクエストが出て翌年には「第2回大会」を。1年のうちにカリメラ焼きの腕をあげた方も。「ポラーノの広場」がテーマの年は、テーブルの上につめくさの花を並べ、乾杯に「酒を呑まずに水を呑む」ため花巻近郊の飲用可の湧き水を集めた。その中には泉澤竹男さんが岩手山麓で汲んできてくださった水もある。ポラーノ広場になくてはならない「歌声」は河内範雄さん指揮で、会場全体で「歌」というごちそうも味わったのだった。

 賢治を取り巻く人たちも、おいしい。フランス漬けや天下逸品のテールスープなど花巻で3年間過ごした高村光太郎の当時の再現料理や、森荘已池のグリンジュース。草野心平記念文学館の小野浩さんにお世話になり、心平の居酒屋「火の車」の暖簾をくぐり丸と角、黒と緑など心平の居酒屋メニューを味わった年もある。

 すべての方を紹介できず大変申し訳ないが、会員はじめ多くの方のお世話になって成り立つ懇親会である。貴重な食材、あたたかいご協力、アイデアが、毎回のメニューの大切なエッセンスになっていることを伝えたい。懇親会がはじまると、おいしい料理とともに、参加者同士の会話もはずみ、笑い声や、時に歌や音楽も流れる。その空間、そしてそこにいる一人ひとりがつまり「イーハトーブのおいしいもの」になる。いつか「すきとほったほんたうのたべもの」の香りさえ漂ってくるのでは、と思うのだが、さてどうだろうか。

(「銀河鉄道の夜」の印象で)鮭のムニエル・シャンパンソース(2009年)


藁わらのオムレツ(2006年)


会場風景(2009年)


(兵庫県芦屋市)



セミナー報告


福山セミナー 読んで語って 賢治と鱒二

二〇〇九年十一月二十一日・二十二日

秋枝 美保

 宮沢賢治(一八九六年・明治二十九年.一九三三年・昭和八年)と井伏鱒二(一八九八年・明治三十一年.一九九三年・平成五年)は、生まれ年が近く、同時代を生きたということ以外には、ほとんど共通点も接点もないといってよい。しかし、筆者は、福山大学で四年間にわたって福山市出身の作家井伏鱒二の「在所もの」と言われる作品についてフィールドワークを行い、賢治の晩年の作品との話題の共通性に気付くようになった。特に一昨年度から、戦時下の金属供出を題材とした小説「鐘供養の日」(昭和十八年)について調査を行った結果、昭和初年からこれらと関連する鐘の鋳造や地元の鋳造所への関心が見られることがわかり、地域産業の動向から時局を眺める視点があることがわかった。そこには、島田隆輔氏の論文、文語詩「悍馬」(注)において、軍馬として珍重されるアラブ種の馬を取り上げて描いている点に戦時体制を見る賢治の視点があるとの指摘に相通ずるものがあった。そこで、二人の作家における地域文化への姿勢に、共通性を指摘できるのではないかという仮説を持ったのであった。

 そこで、井伏鱒二の「在所もの」と賢治の文語詩との間にある共通性を論じるというシンポジュウムを企画することになった。井伏鱒二は東京の文壇作家であったが、郷里の世界に一方の足場を置きながら時代社会の動向を眺めるという視点を確立した。井伏の描き出した地域の住民たちを、柳田國男の「常民」に比する批評もある。生涯郷里に住み地域社会に深く係わった賢治は、特に晩年の文語詩において、地域の様々な人物や事件について描いた。それは、井伏の「在所もの」に匹敵する。

 この難しいシンポジュウムの司会は、中四国宮沢賢治研究会の代表伊藤眞一郎氏である。シンポジュウムにおいては、まず「宮沢賢治の文語詩の魅力」と題して、入沢康夫氏から基調講演をいただいた。氏は文語詩について「先駆作品一覧」「文語詩定稿の詩型一覧」という詳細な資料を用意された上で、賢治の文語詩の多くがそれまでに書かれた口語自由詩から題材を得て文語定型詩へと改作されたものであることを示され、他の詩人の多くが文語詩から口語自由詩へ移行したことと対比して、賢治の独自性を指摘された。また、推敲のたびに「非個人化」「一般化」が進み、詩の内容が「人間の『普遍』」へと昇華されていくことを指摘され、賢治が文語詩にかけた情熱と思いを考えれば、口語詩「春と修羅」と文語詩は「同じ地平にあって流通可能なものではなかった」という評価を示された。次に、もう一つの基調講演を、昭和文学研究の立場から、前ふくやま文学館長磯貝英夫氏にお願いした。氏は、小林秀雄が「故郷を失った文学」(昭和八年)において、当時の青年における「故郷を失った精神」の「不安な感情」と、その生活における「具体性」の「欠如」について強い感慨を述べたことを挙げ、そこに昭和文学の大きな特徴を示された。その中で宮沢賢治と井伏鱒二は、そこから郷里へと深く突き入ることによって、自らの文学的立場を確立した稀有な作家であることを指摘された。二つの基調講演によって、宮沢賢治の文語詩と両作家の大きな枠組みによる捉え方が明確になった。

 休憩を挟んで、島田氏と筆者とが、具体的な作品を取り上げて、前述のような各論を展開した。両作家について昭和初期からの年譜を資料として提示したが、両作家が、災害時の農業の被害や農村の窮状に心を砕いている様が見て取れた。また、農村の困窮との関係で、鉱山文化について関心が深かったことやそれらを背景に軍事産業に直結した地域の産業について着眼していることを指摘した。

 二日目は、福山市内を中心に二人の作家の朗読を続けておられる朗読家藤井康治氏による、井伏鱒二の小説「丹下氏邸」と賢治の「革のトランク」の朗読とトークを楽しんだ。また、福山市は琴の名産地として知られており、琴の師範野田祐子さん(高校教諭)に、オリジナルアレンジ「星めぐりのうた」を演奏、歌っていただいた。午後は、福山大学スクールバス2台で、小説「丹下氏邸」の舞台、丹下氏邸と井伏鱒二生家、ふくやま文学館を訪ねた。丹下氏邸では、井伏鱒二文学愛好会である「在所の会」主催「鱒二忌」が開かれ、茶会に参加した。そこでは、生前の井伏と親交のあった舘上敬一氏の お話を伺った。また、井伏鱒二生家では、井伏の甥にあたられる御当主、章典氏から思い出話を伺った。

 参加申し込みは仙台から福岡まで学会員20名あまり、地域から100名あまり、二日間で述べ200名あまりの参加者があった。開催場所は、福山駅前の福山大学社会連携センター(宮地茂記念館)ホール。会のスタッフとして、福山大学人間文化学科の学生たちが参加した。また、一日目の交流会には30名あまりの参加者があり、私設美術館ミュージアム花代表の塚本登志枝さんをはじめとするお仲間の手料理で、地元の食材を楽しんだ。また同じく塚本さんが山で採取され、アレンジされた「びなんかずら」などの野の花が会場を彩った。

 なお、シンポジュウムについては、地元紙『中国新聞』文化欄で、詳細に紹介された。

(注)島田隆輔「貴きアラヴの種馬を追う―文語詩稿『悍馬』〔一〕の詩層」『賢治研究』98号 二〇〇六年二月

井伏鱒二生家