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宮沢賢治学会・会報第40号 | |
つめたい海の水銀が (「〔つめたい海の水銀が〕」) |
第40号●硅化花園(ケミカル・ガーデン) 2009年3月31日発行
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宮沢賢治の先祖 前田 司郎
私事で恐縮ですが、僕は寝付きがよくありません。眠りも浅い方だと思います。父も若い頃はそうだったようです。母は今でもそうだと言います。小説を書いたり戯曲を書いて芝居を演出したりを生業としていますので、毎朝決まった時間に起きたり規則正しい生活をしなくていいので大分助かりますが、それでも早く起きなくてはいけない日などはとても不便です。東京の真ん中に住んでいるのもあり、夜中にちょっとした騒音などがあると起きてしまい、そのあとも動悸がして眠れなかったりします。その度に思うのは「なんでこんなに寝付きが悪く、眠りの浅い僕のような人間が、この長い歴史の間に淘汰されずに残ったのだろう?」という疑問です。寝付きが悪いので結局遅くまで寝ていないと、必要な睡眠時間を確保できないのです。眠りが浅いので必要な睡眠時間も他人よりも長い気がします。 こんな者が村にいたら原初の生活では邪魔にしかならなかったのではないでしょうか? 集団生活の和を乱すし、労 働力としてもあまり多くを期待できません。 なんで俺の祖先は生き残れたんだろうか? そんないつも眠いような奴がどうやって。 そう思ってずっと不思議だったのですが、つい数年前に思いついたのです。人間が危険にさらされるのは、食べているとき、排泄しているとき、性交しているとき、そして寝ているときじゃないだろうか。中でも寝ている時は一番危ないだろう。そうか、集団生活をするには俺のように眠りの浅い奴がいた方がいいのだ。 そういう奴が居て、屈強で働き者の奴らがぐっすり眠って居る間に、浅く眠って何か異変があったら起きるのだ。そういう臆病者が居なければ、集団は全滅してしまう。そう考えると眠りの浅い僕がこうして現代に生き残っているのにもうなずける。弱い者を淘汰し強い者だけ生き残らせていたら、人類は滅びていたかも知れない。宮沢賢治は、と、ここでやっと宮沢賢治の話をはじめるのだけど、僕は賢治についてほとんどなにも知らないから賢治論のごときものを付け焼き刃で語っても、みなさまからすれば片腹痛いわけで、どうしたものかと考えて、私事から話しはじめさせていただいた次第なのです。 僕は勝手に賢治にシンパシーを感じているのですが、その根拠になるのが右に書いたようなことなのです。宮沢賢治がもし現代に生きていたら、僕なんかよりも全然生き辛いように思います。宮沢さんの本読みました。小学校以来でした。 小学校の頃読んだときは物語にばかり気を取られてしまい、というか、物語を追うことに夢中になって気づかなかったのですが、あ、違うかも知れない、子供だったからそれが自然に感じていたのかも知れない。あ、それっていうのは、情景描写のことです。 32歳になった今読むと、その情景描写の凄まじさに嫉妬と無力感を覚えます。 ああ、これは自分にはできない、と。 子供を殊更、才能の塊のように言うことに僕はあまり賛成していないのですが、それでももしかしたら、子供の頃の 感性のまま今のボキャブラリーがあれば賢治のように書けたかも知れない、などと夢想するのですが、多分そういうことではないんだろうな。 賢治はきっと何かがおかしくて、おかしいということは大多数の人とは違っていて、人と違っていることは悪いことのようにとられがちですが、僕が人より眠りが浅いことなんかも、他人より劣っているようですが、実は何かの役に立っていたかも知れないように、人と違うことは良くも悪くも無い。という話はこの辺にしておいて、賢治の話に戻ります。 賢治には世界があのように見えていたんじゃないだろうか。技術ではない気がする。技術もあるんだろうけど、技術だけでは到底書けない。実際にみてきた者だけが持つ説得力がある。賢治は僕たちと同じ世界に住んでいながら、違う世界を見ていたのかもしれない。だとしたらうらやましいけど、本人はよっぽど大変だったに違いない。
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| 【報告】 |
第二〇回定期大会 二〇〇九年度定期大会は、会員他一五〇名の参加を得て、昨年九月二十二日と二十三日の二日間にわたり、花巻市のNAHANプラザ、宮沢賢治イーハトーブ館を会場に開催されました。大会の様子をご報告いたします。 第十八回宮沢賢治賞、イーハトーブ賞贈呈式
今年も例年どおり九月二十二日、午前十時から花巻市主催による第十九回宮沢賢治賞・イーハトーブ賞贈呈式が開催されました。晴天に恵まれた九月の大型連休と、二〇〇八年度より行われているイギリス海岸の地層を一時的に出現させようという試み(国土交通省)も話題を呼び、花巻には全国からたくさんの方々が訪れました。 今回の宮沢賢治賞は、宮沢賢治の考えと所業を「わたしの思想にとっても永続的な課題のひとつ」ととらえ、永年にわたり賢治研究、評論活動を行った業績に対して吉本隆明氏に、同じく宮沢賢治賞奨励賞には、賢治の生涯と作品を花巻の「温泉文化」に育まれた視点と領域から、文献研究とフィールドワークによって解く『イーハトーブ温泉学』(二〇〇八年)の刊行と、その研究に対して岡村民夫氏に贈られました。またイーハトーブ賞の該当はありませんでしたが、イーハトーブ賞奨励賞に、宮沢賢治の作品をライフワークとした朗読やライブ活動を続け、DVD『イーハトーブ朗読紀行』(二〇〇三年)の刊行などの熱意ある活動に対して声優の桑島法子氏に贈られました。 花巻市長から賞が贈られ、各受賞者からのスピーチ、その後、本賞受賞者の吉本隆明氏による記念講演となり閉幕となりました。「本賞受賞者のことば」は本号に掲載するとともに、受賞者の皆さんの横顔につきましては、会報三十九号に紹介しておりますのでご参照ください。 定期総会午後からは定期総会が行われました。出席会員の中から花巻市東和町の川村哲夫さんを議長に選出後、議事に入り二〇〇八年度事業報告及び収支決算が原案どおり承認、二〇〇九年度事業計画及び収支予算についても原案どおり承認されました。 また、宮沢賢治記念館は平成二十四年に開館三十周年を迎え、これを機に花巻市では同館の「展示リニューアル」を構想中で、現在は事前協議の段階ですが、本会にも「リニューアル推進委員」としての協力要請があったとの報告がありました。 賢治研究リレー講演恒例のリレー講演は、持ち時間一人十五分というなかで宮沢賢治奨励賞受賞者を含む二名の方々から賢治をテーマにお話していただきました。 講演の要旨につきましては本号に掲載しております。 また今回は、二〇〇七年の授賞式にも披露された故宮城一男さん制作のスライドの第二弾、「弘前、山田野を訪ねて」の上映も行われ、解説を奥様の宮城淑子さんにしていただきました。
イーハトーブ・サロン−私と賢治−
参加者が気軽に所感を述べあう本コーナーでは、七名の方々が登壇され一人五分ずつのスピーチをしていただきました。登壇されたのは次の方々です。 岡田幸助さん(岩手県)、上島祈一さん(岡山県)、外山正さん(千葉県)、内山昭子さん(栃木県)、手塚奈々子さん(東京都)、三浦達郎さん(岩手県) 会員交流・懇親会初日の日程の最後となるのは、毎年好評のイーハトーブ料理メニューが並ぶ会員交流・懇親会です。会員をはじめ、賞の受賞者、花巻市関係者も加わりたいへん賑やかなひとときとなりました。今回もメニュー考案を担当して頂いた中野由貴さんによる投稿エッセイが本誌に掲載されておりますので、どうぞそちらもご覧ください。
今回の料理のテーマは「銀河鉄道の夜 食堂車ディナー」 研究発表
二日目は、会場をイーハトーブ館に移しての研究発表です。様々な角度からの研究が聞けることもあり、毎年会員をはじめ多くの方々に参加頂いております。午前九時より一人三十分の持ち時間で七名の方の発表がありました。研究発表者と発表題目については次のとおりです。 1.姉歯 武司 「雨ニモマケズ」を十界互 具論より見た一考察その2 2.石島 崇男 『銀河鉄道の夜』第四次稿の成立についての一試論―「ベートーフェンの幻想を」に「第九」交響曲の可能性を 探る― 3.後藤 和彦 宮沢賢治『春と修羅』試論 4.白木 健一 風野又三郎の「大循環」、ジェット気流予見の謎 5.仙北屋 崇 賢治の2つの曼陀羅と銀河鉄道の夜に関係する考察 6.大明 敦 宮沢賢治と保阪嘉内の「訣別」をめぐって 7.田知本 正夫 「稲作挿話」に関する土壌肥料学的考察
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投稿エッセイ |
賢治と「こつなぎ」小関 和弘 昨二〇〇九年一〇月の山形国際ドキュメンタリー映画祭で中村一夫監督「こつなぎ.山を巡る百年物語」(配給協力 パンドラ、一二〇分)を観る機会があった。「こつなぎ」とは岩手県二戸郡小繋村(現一戸町)とその入会地・小繋山のこと。映画は小繋で百年にわたって続けられてきた入会権確認訴訟と刑事「事件」裁判の推移、そして農民たちの暮らしと闘いの記録である。 この映画に描かれる小繋集落は盛岡市から北へ五〇キロあまり、旧東北本線小繋駅の近傍に存在する。そこは賢治の心象スケッチ「一本木野」に「七時雨の青い起伏は/また心象のなかに起伏し」、また「国立公園候補地に関する意見」には「向ふの山は七時雨/陶器に描いた藍の絵で」と描き出される七時雨山の東に位置している。 小繋集落の人びとが生存の基盤をめぐる闘いに引き込まれたのは一九一五年七月の山火事が端緒であった。この山火事で集落二八戸のうち二六戸が焼失、家屋再建のために山の木を伐採した人びとに対して、当時地主となっていた鹿志村亀吉は用材に仮差押をかけ、代金の支払いを要求したのである。 先祖代々、小繋山に入って薪を取ったり、キノコや木の実を採取したりするなどして山里の暮らしを立ててきた小繋集落の人びとは、自分たちの暮らしと山との密接な関わりを突如突き崩されたことに驚きつつ、法的権利についての学びも積み重ねながらくじけることのない戦いを組んでいった。 農民側が「入会権確認並妨害排除」の民事訴訟を起こした一九一七年一〇月に賢治は盛岡高等農林の三年生であった。新校本全集の「年譜」によれば、この訴訟の起こされた翌一一月に、賢治たち盛岡高農の三年生は、納豆菌の研究で有名な村松舜祐教授の引率で二戸郡下を見学したとされてもいる。そして原告敗訴の一審判決が下された一九三二年二月に賢治は病いの床に伏してはいたが、東北砕石工場の技師として意欲を燃やしていた時期であった。第一次小繋訴訟は賢治の後半生とぴったり重なっていたのである。 牽強附会に聞こえるかも知れないが、小繋は花巻、盛岡の北方に位置し「北ニケンクヮヤソショウガアレバ」の「北」にあたる地域である。また「なめとこ山の熊」での「木はお上のものに決まったし」という小十郎の述懐は一八九六年の「山林原野官民所有区分」に関わるものだろうし、「グスコーブドリの伝記」中の「てぐす工場」の章の「この森は、すつかりおれが買つてあるんだ」という言や、「かしはばやしの夜」で林の持ち主に酒を買ったことを伐採の正当性の根拠とする清作の言など、賢治作品中に山林の所有権をめぐる記述は散見できる。そして裁判という事象に関して賢治が並並ならぬ関心を持っていたことは「どんぐりと山猫」は言うに及ばず、「ペンネンネンネンネン・ネネムの伝記」を思い出すなら、容易に気付くことである。さらには栗原敦氏が「〈加害〉の影を―「山火」再読」(『宮沢賢治透明な軌道の上から』新 宿書房、一九九二。所収)で「四六 山火」下書稿(一)の手入れに「訴訟に負けた山の部落の人たち」という表現があることを取りあげつつ、地主との契約上の紛争、草刈場の入会権をめぐっての事かと想像していることとも考え合わせてみたくなる。ただし「四六山火」の日付は「一九二四、四、六、」であり、同日付の他作品の背景が外山と考えられるので、小繋訴訟とのつながりは考えづらいようであるが…。戒能通孝『小繋事件』(岩波新書、一九六四)には、一九一九年から二〇年にかけて小繋以外でも岩手県北で入会訴訟、小作争議など法廷闘争に持ち込まれたものが多数あったとあり、こうしたものの一つが「山火」の世界の現場かと思われる。 なお、小繋は二戸郡に属しており、そこは賢治の父政次郎と宗教上の深い交流を持った高橋勘太郎が行動範囲としていた地域であったことも気になる点と言えるだろう。そして小繋山の所有権に関わって最初に名前が挙がるのが盛岡の法輪院の末寺であった小繋の長楽寺(天台宗)の関係者ということ、訴訟時の小繋山の「地主」鹿志村が北海道でラッコとオットセイの密猟で財をなしたことなど、「小繋」というトポスの周辺には賢治の生活史や作品世界と微妙な接点を持つようなトピックがいくつも散らばっていたりする。 映画「こつなぎ」を直接、宮沢賢治に結びつけることは難しいかも知れない。また、新校本全集の索引などをあたっても、賢治の著述の中に「小繋」を直接描いたものはないようである。しかしこの映画に描かれた小繋の「物語」からは、賢治の生きた時空、そして賢治が耳を傾けたであろう岩手の地の声が聞こえてくるように思えてならない。 *本稿の執筆に際し、栗原敦氏から直接、多くのサジェスチョンをいただきました。 ![]() ![]() ![]() 写真提供:川島浩/村林三枝子/前島典彦 (会員・東京都町田市)
永遠の不思議 天気輪酒井 早苗 ジョバンニは独り丘に登る。琴の星の様子から泣いていると解る。やがて天気輪の柱が彼のすぐうしろに立つ。この時、何か大きな天の力がジョバンニを包み込む。テンキリン、この不思議な響き。輪という文字から仏陀の教えという意味の法輪を連想させる。しかし賢治は南無妙法蓮華経とは書かない。唐草模様、をかしな文字。そしてハレルヤではなくハルレヤ。自分は法華経信者であるけれども、出会う人みんなを救いたいという切なる願いと悩みをそこに感じる。次々と過ぎ去るりんどうは、たくさんのカムパネルラ(カンパニュラ:鐘状の花)だ。また、カンパナーロは鐘撞き修道僧のこと。私には銀河鉄道が、聞こえないくらいに透きとおった鐘の音の中を走っているように思える。それは賢治の書簡にある、人々を幸福に導こうとする宇宙の意志の愛の思いではないかと思う。列車の中で青年の話を聞き、ジョバンニは両親の愛に気付く。人は愛されていることに気付いた時、自らも誰かを愛したいと願う。そこに本当の心の安らぎもある。孤独や無理解や現実生活の苦難、また未来への不安などという自分の石炭袋を背負いつつも、愛したいという祈りによって人は希望を抱いて生きてゆける。熱い牛乳の瓶を胸に家路を急ぐジョバンニは、希望の光を胸に抱いて未来へと走るかのようだ。彼の心には天気輪の柱がすきっと立ち、その生き方により法輪が転ぜられる時、彼の人生は美しい響きを生み出すのだろう。 (栃木県宇都宮市)
セロのような響き太田 浩幸 とある総合病院の待合廊下、知人の見舞いのため迷い歩いていると、外来の診察室の方から、お医者さんの声だろうか、患者さんに何か語りかけているらしい。声の響きだけで、言葉は聞きとれない。なぜか、その声の響きに私は不思議さを感じ、心が揺れ動いた。 病院からの帰り際、ふと「セロ弾きのゴーシュ」のなかのセロの音で、病が癒される動物たちのエピソードが思い浮かんだ。 後日、親友に、この病院での出来事を話すと、彼いわく「多分、本当に心の底から人が声を発する時、楽器のように快い倍音の成分が含まれるのでは。」と語っていた。音楽的素養のない私は、「倍音」ということばは聞いたことがあっても意味がよくわからない。 調べてみると、「基音の整数倍の部分音」とか、難解な数式まで、でてきて余計、混乱してしまう。現象自体は物理的なものだが、音が響いている時、快いか、そうでないかは聞き手の人間の感覚に左右されるものと、勝手に解釈した。 結局、なぜ私自身がその声の響きに強く惹き付けられたかは、わからない。おそらく、そのお医者さんは、患者さんに深いいたわりの心をもって接しているのではなかろうか。 そういう響きは、薬や最新の医療技術よりも患者さんに力を与えるのかもしれない。 案外、私達の周りは、ゴーシュが奏でるセロのような響きに満ち溢れているのでは、と肌で感じた次第である。 (福島県西白河郡)
羅須地人協会の床板についての報告外山 正 花巻農業高校同窓会では同会の百周年(注1)記念事業として農業高校敷地内の羅須地人協会建物前庭に賢治の立像を建立した。これはずいぶんと話題にもなったのでどなたもご承知のことと思う。そしてその事業の一環として羅須地人協会建物(同窓会所有および管理)全体の手入れも行った(注2)のであるが、その際に今まであった床板をすべて撤去して新しく張り替えるということをした。 これらの事実とその意味を正しく認識している方は本会報の読者の中にどのくらいおられるだろうか。新材に張り替えられたと言っても、古色を帯びた塗装をしてあるので一般的には気づきにくい状態にある。しかしこれはどう考えてみても文化財の毀損に他ならない。今回、この件について公にしておく必要を感じ筆をとった次第である。(注3) 羅須地人協会建物と言えば、賢治生前の活動を彷彿させる実体的な空間として大変に重要な役割を担っている。特に、ビジュアルな要素であるあの集会室の「古びたオルガンや黒板、火鉢を囲んだ丸椅子の映像」は往時を追体験する道具として、大変分かり易く、強い説得力を持つことから旅行案内書の類を筆頭として随所に引用されて来たところである。我々賢治愛好者も、その風景が醸し出す賢治的世界にどっぷりと身をゆだねて来たのであるが、そもそもその追体験自体も既に歴史化が始まっていると言ってもよいくらいの時間が経過している。
写真1 残っていた板材。ただし、後の時代のものと思われる。 その風景の構成要素として大変重要な存在であった、あの飴色の松材の床板一切が、どこかからか持って来たごく普通の「フローリング」に張り替えられてしまった。平成十九年の冬頃のことである。その後、筆者は撤去された板の捜索も試みたが、結局は比較的新しい時代に張り替えられたと覚しき一部の材が見つかったのみで(写真1)、その他は二酸化炭素になって空の微塵にちらばってしまったのだろうか。今後現場に出向かれる方々は良く確認していただければと思う。(写真2・3)
写真2 張り替える前の床材。
写真3 張り替えられた後の床材 確かに、なぜこのようなことになったのかということに考えをめぐらせば大方の想像はつく。すなわち、施設管理者としての考え方が全面に出てくるのであろう。年間相当数の閲覧者が来場する施設として注意すべき点としての「安全確保」は大切な事項である。この建物は元々が古い建物である上に、移築後四十年以上が経過している。観光客が床板を踏み抜きでもしたら一大事である。安全管理という概念を持ち出せばこの判断はあながち間違いではない。しかし、その一大事の防止のために行ったのであれば、さらにうわての一大事になってしまったことになる。もっと大局的な「賢治の事跡の保存=文化財としての理解」という判断としては、これは間違いである。少なくとも管理者にこの観点が欠落している。それともお客様をお迎えするのだからと、畳の表替えをする様な感覚での作業だったのだろうか。 その話は現場で維持管理をされている方から直接伺った。「床の張り替えをしたんですよ。」「えっ!?」文字通り「我が目を疑う」ということはこのことである。確かに張り替えられてしまっていた床材の視覚情報は目に入っていたのだ。しかし、その意味をはっきりと認識するには言葉による補助が必要で、目に写っている情報と意味の摺り合わせに一瞬の間があったのがリアルなところである。続いて背中の辺りがぞっとし、立っている膝が脱力するような反応(腰が抜けるとはこのことか)が追いかけた。 羅須地人協会建物自体の価値やその建物の歴史や、またその建物が桜町から移築されて以降、その買い戻し・復元・維持管理に尽力された関係者の努力などについて筆者はそれなりの理解は持っているつもりである。今回問題として取り上げ苦言の形で提示するが、現在の関係者・当事者を含め、我々はこの期にその意味合いと、そうなってしまった原因について良く考えてみる必要があると思う。 正確性を期するために、多少の説明を加えておく。羅須地人協会の建物は、賢治が使用した以降、少なくとも三回の移転(うち一回は農業高校敷地内の移転)とそれに伴う改築を経て現在の場所にたどり着いている。一度、人手に渡った建物が花巻農業高校という考えようによってはもっとも適切な関係者の手に舞い戻って来たこと自体、いくつかの偶然のなせるわざであった。それらを、手間暇かけて維持管理をし、整備をし公開してこられた歴代の関係者の努力の結果、我々は十分な恩恵に浴して来た。羅須地人協会の建物にしばらく滞在すれば、掃除のために巡回する生徒さんに会うこともある。また、不特定多数の出入りがあればいくつかのトラブルも発生するだろう。周りの庭園には管理の方が張り付いている。これらのことは十分評価するものである。 もちろん現在の建物としても当時の古材に加えて改築の途中で加えられた新材が含まれている。これらの状況は同じ賢治の遺したものとして同類の「原稿」に譬えることにより多少の理解の足しになるかもしれない。すなわち、賢治ゆかりの施設ということを基準に考えれば、羅須地人協会活動時の形状が「本文」であり原型である。その後、他の人により数次の「手入れ」がなされ、その後段の「手入れ」は原型復元を理想とした「手入れ」に変わっていることは言うまでもない。したがって、まさしく賢治の原稿と同じような「本文校訂」の問題が横たわるのである。この言い方を踏襲すれば、今回の一件はその本文校訂作業からすっかり外れてしまったとしか言いようがない。 さて、ここまでの説明の中で、実は何がどのように問題であるのかという点についてまだ触れていなかった。このことは結構重要ことである。すなわちあまりに当然のことは、通常は話題として省略されることが少なくないからだ。しかし、前提が変わればその常識が通用しないと言うことは今回の一件が証明することになってしまった。したがって、確認のために以下に記してみることとする。
などと指摘出来る。価値から言えばやはり一番目と四番目辺りであろう。確かに、買い戻しから、移転・復元・管理と続く作業は地元花巻(あるいは花巻農業高校同窓会)の掌中にあるという意識があるのかもしれない、しかしどこかでポイントが外れてしまっているのである。ある文化財が、その所有・管理する組織によってその文化財の文化財たる部分を滅失させてしまう様なことが起こってしまったのである。ということはその組織を含めて、関係者が文化財としての理解と、その管理をする能力を有していない事実を示し、何らかの対策が必要とされているという信号を発している。 文化財保護法という法律がある。これは文化財有効利用法でもなく、文化財管理援助法でもない。ちょっと内容に踏み込めばすぐに知れるが、基本的に文化財の毀損や滅失を防止するために網をかけるための法律である。しかし、世の中には、今回の例を持ち出すまでもなく、法の網がなかった時代に失われた文化財は多い。この法律はまさにその部分、文字どおり、ほおっておくと様々な理由により、文化財が無くなってしまうこと、そもそも文化財という物がそういう性質を持ち備えていることを端的に示している。 もっとも、良く考えるとポイントはもう少し手前にある。「保護対象」と考える前段に「文化財である。」という認識が先立たないと機能しないのである。そういう意味では粗雑な床板(そもそも畳の下地材であるところの荒床にニスを塗ったものでしかない。)を文化財と見極めること辺りに第一のハードルがありそうである。単に文化財と言っても、人によってはただの古めかしい張替対象の板材にしか見えないという事実があることを肝に銘じなければならない。文化財保護法は価値を見出すこと(鑑定作業)の「危うさ」故の法律であるのかもしれない。なお、同じ建設材料でも、時間の経過とともにどうしても消耗する物があり、これらは消耗品として更新される分類になる。家屋で言えば、恒久的でない屋根材、畳、襖や障子の紙、一部の壁材などが当たるので、そういう消耗部材を更新しても、とやかく言うつもりは無い。しかし木材は法隆寺の例もあるとおり、優に千年をこえる寿命を持つのである。それほど強度が不足していたとも思えない。 賢治の事跡は、通常は文化財保護法の対象にはならない。これは普遍性を欠くという分類に入るからである。しかし、たとえば割と数多く存在する土中の土器の破片が文化財保護法により埋蔵文化財として調査対象となり手厚く保護されている一方で、賢治の活動を文字通り支えていたかも知れない床板が消えてしまうということは、どこか仕組みに問題がある。だれがどのように判断を下したのだろう。管理者には、何が賢治の文化財であるか、文化財の文化財たるところはどういう部分に存在するかということの明解な価値基準とそれに基づいた正しい判断が不可欠である。 これらは宮沢清六という偉大な監修者の存在を失って以降、その存在に変わる機能が働いていない例として記憶・対処すべき事項と考える。賢治賢治と言ってみてもその一部は既に風化が始まっているのかもしれない。法の網のかからない隙間の部分への対応が望まれるのである。 * 筆者は平成十八年から十九年にかけて、イーハトーブ学会理事在任中に、花巻農業高校および生徒さんのご協力を得て、羅須地人協会建物の計測調査を行い図面を作成した(資料1)。計測調査をかける理由として、何気なく滅失の可能性などを口に出していたが、まさにその通りに動いて行くことは考えになかった。板材全面の写真は結果的に撮りそびれてしまった。また、生徒さんが板材一つ一つの寸法を(一部は釘の位置も)計測してくれたのであるが、少々精度を欠くのが現実的なところである。 床板張替の一件はその何回かの調査の間に起こったものである。せっかく建物の計測調査で関わりを持ちながら、文化財毀損に相当するこの経緯を知ることなく、この事態を止められなかったことも残念であるが、調査に際し農業高校にこころよくご協力をいただいたにもかかわらず、このような意見を記さなければならなくなりつくづく残念である。また、事後の板材追跡調査においては、阿部彌之氏、花農同窓会八重樫良康氏並びに宮沢賢治学会イーハトーブセンターのご協力を得たことを記しておく。なお言い訳になるが、筆者在住地との距離の関係で調査に多くの時間がかかり、ご報告が遅れたことを申し添える。 (注1)平成十九年で満百年 (注2)「ワレラヒカリノミチヲフム」花農百年史 平成十九年三月花巻農業高校同窓会 (注3)二〇〇七年度の冬季セミナー「宮沢賢治的建築学」で一端は 触れたが、今回はその後の調査も含め新たに内容をまとめ直したものである。
資料1 羅須地人協会建物東側立面図 (千葉県浦安市)
懇親会のおいしいものたち中野 由貴 雑穀、野菜、乳製品、海の幸…岩手には、おいしいものがたくさんある。そして賢治作品にも。毎年9月の定期大会後に行われる、参加者交流・懇親会の料理メニュー提案にかかわらせていただき2009年で10回目になった。賢治作品に登場するたべものには、ハイカラさ、洒落た雰囲気をもっているものが多く、それらが作品を飛び出して会場にもまたそんな空気が漂う。回を重ねる度に楽しい出会い、愉快な拡がりが生まれている。それは大変「口福な」こと。私自身、このような機会にかかわれることに大変感謝している。 始まりは97年、当時、学会理事で企画委員の斉藤征義さんが、「賢治さんの世界を楽しめる料理を考えてみませんか」と声をかけてくださったことから。賢治作品のたべものに“少々”食い意地のはった私には大変うれしい宿題だった。その97年はサラド(「注文の多い料理店」)、塩鮭(「どんぐりと山猫」)、藁のオムレツ(「ペンネンネンネンネン・ネネムの伝記」)など9種類+αを。2009年には「銀河鉄道の夜」をテーマにトマトでなにかこしらえたもの、白金豚の塩釜焼プリオシン海岸風、黒米のパエリア石炭袋風など、作品に登場する食材や印象を取り上げたものや、郷土料理や飲み物など22種類+αがテーブルに並んだ。会員の方からの「めったにないごちそう」も並ぶ。御舩道子さんは三朝から「鹿踊りのはじまり」にちなんで栃もちを会場に届けてくださる。また今回は三浦辰郎さんが作られた陸羽132号の新米をおにぎりにして、その賢治ゆかりのお米をみんなでほおばるという機会が生まれた。 毎回、料理に腕をふるい、食材や調理のアイデア、テーブルセッティングまでも趣向を凝らしてくださるのは、北上パークホテルの小石修司さんとスタッフのみなさんだ。中でも初回に登場した藁のオムレツは、そのもしゃもしゃした食感を出すため、小石さんが試行錯誤し、春になると生えてくる岩手の「ある食材」(あえてここでは伏せておきます)を使って愉快なオムレツが完成した。それは懇親会の人気メニューのひとつになった。 ある年には「水仙月の四日」のカリメラ焼きが「大会」になった。カリメラ焼き作りの難しさに皆が真剣になり、リクエストが出て翌年には「第2回大会」を。1年のうちにカリメラ焼きの腕をあげた方も。「ポラーノの広場」がテーマの年は、テーブルの上につめくさの花を並べ、乾杯に「酒を呑まずに水を呑む」ため花巻近郊の飲用可の湧き水を集めた。その中には泉澤竹男さんが岩手山麓で汲んできてくださった水もある。ポラーノ広場になくてはならない「歌声」は河内範雄さん指揮で、会場全体で「歌」というごちそうも味わったのだった。 賢治を取り巻く人たちも、おいしい。フランス漬けや天下逸品のテールスープなど花巻で3年間過ごした高村光太郎の当時の再現料理や、森荘已池のグリンジュース。草野心平記念文学館の小野浩さんにお世話になり、心平の居酒屋「火の車」の暖簾をくぐり丸と角、黒と緑など心平の居酒屋メニューを味わった年もある。 すべての方を紹介できず大変申し訳ないが、会員はじめ多くの方のお世話になって成り立つ懇親会である。貴重な食材、あたたかいご協力、アイデアが、毎回のメニューの大切なエッセンスになっていることを伝えたい。懇親会がはじまると、おいしい料理とともに、参加者同士の会話もはずみ、笑い声や、時に歌や音楽も流れる。その空間、そしてそこにいる一人ひとりがつまり「イーハトーブのおいしいもの」になる。いつか「すきとほったほんたうのたべもの」の香りさえ漂ってくるのでは、と思うのだが、さてどうだろうか。
(「銀河鉄道の夜」の印象で)鮭のムニエル・シャンパンソース(2009年)
藁わらのオムレツ(2006年)
会場風景(2009年) (兵庫県芦屋市)
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