「イギリス海岸」というのは、ご承知のように、花巻市郊外の北上川河岸に賢治自身がつけた名前です。文字通り海を想わせるような広々とした美しい風光の中で、賢治は花巻農学校の教え子たちと一緒に、あるときは水泳ぎや石拾いに興じたり、あるときは地層を調べたり、くるみ化石を採集したり、巨獣の足跡らしき化石を発掘したりして、その大地のおい立ちに想いをはせました。そして晩年にはイギリス潅岸の
想い出をつづった詩、「煙」をつくりました。まさにイギリス海岸は賢治の教育者、科学者、詩人の集大成の場だったといっても過言ではありません。本展示をごらんいただき、改めて賢治ゆかりの地としてのイギリス海岸を知っていただけたら、こんな嬉しいことはありません。
展示にあたり、ご協力いただいた関係各位に厚く御礼申し上げます。
地質調査中の宮沢賢治
作業服にむぎ藁帽、足にはゲートルと地下足袋、腰にハンマー、クリノメーター、首にルーペ、ポケットに野帳、背に石のサンプルをつめこんだリュック―これは地質・土壌調査にたずさわる人のスタイルです。賢治もこんな姿で、イギリス海岸や北上山地の山々を元気に歩き廻っていたのです。
賢治先生の授業風景
この賢治の授業風景の写真は花巻農学校教師時代、卒業アルバム用に撮られたものです(大正14年)。どうりで賢治先生は礼服を着ています。
そして黒板に花巻、イギリス海岸を中心にした地質断面図が描かれているところに、賛治の理科教師(とくに地質、土壌)としての誇りがうかがえます。
イギリス海岸の風景
花巻市の郊外、北上川河岸に、賢治自ら名付けたイギリス海岸の、紺青の水は、今日も悠久の歴史を秘めて「夜、昼 南へ流れて」います。最近、この地は賢治の科学や文学の息づかいが残された憶い出の場所として、賢治を愛する多くの人たちが訪れ、いってみれば「賢治名所」のひとつとなりつつあります。
空から見たイギリス海岸
2つの写真とも、画面正面の幅広い川が北上川。矢印で示した地点1が、その支流の瀬川との合流点で、おおむねこの付近からイギリス海岸がはじまり、地点2一帯がその中心地で、泥岩の地層が露出しています。そして地点3が朝日橋、このあたりまでが、イギリス海岸の範囲といってよいでしょう。〔引用(1)(2)〕
ひと昔前のイギリス海岸
ひと昔前のこの地には、賢治の時代のイギリス海岸の風情が現されていました。「波は青ざめ、支流はそそぎ、たしかにここは修羅の渚」という『イギリス海岸の歌』の一節が書かれたなつかしい広板や岸辺に残った胡桃の森が、賢治の時代のイギリス海岸のたたずまいを今に伝えていたのです。
イギリス海岸の川底
賢治の時代の北上川は現在よりその水量が少なく、イギリス海岸でも今よりもっと広く川底を露出させていました。ですから泥岩層もくるみ化石も巨獣の足跡らしき凹みもよく観察できたのです。この写真は、賢治の実弟・清六氏が、水が退けたときのイギリス海岸の姿をみごとにとらえた貴重な映像です。〔引用(3)〕
イギリス海岸の命名
賢治はどうしてこの地をイギリス海岸とよんだのでしょう。左の写真は10数年前まではみられた花巻のイギリス海岸の崖で、白い速読岩凝灰岩の壁が連なっています。上の写真は有名な本物のイギリス、ドーバー海峡の海崖のチョーク(白亜)とよばれる岩石から成る白い壁。賢治の連想が二者を結びつけたのです。
随筆風作品
『イギリス海岸』
賢治は『イギリス海岸』と題する随筆風作品(以下「作品」と略称)を書きました。原稿の末尾に「1923、8、9」とあります。執筆日か体験日かとにかく賢治の花巻農学校教師時代です。その原稿の1、2枚目は文字通り“プロローグ”で、イギリス海岸の位置、川や川岸の様子、地質や地史などが述べられています。
イギリス海岸が生まれた時代
「作品」では、イギリス海岸のおいたちの解説場面に「第三紀」「洪積」という地質時代区分の名前が登場しています。前者は正確には「新生代第三紀」、さらに「第三紀の終り頃」とあるので「鮮新世」ということになります。また、後者の「洪積」とは、正しくは「第四紀洪積世(更新世)」とのことです。〔引用(4)(5)〕
『銀河鉄道の夜』のプリオシン海岸
有名な賢治童話『銀河鉄道の夜』に「北十字とプリオンン海岸」という章があります。「プリオシン」とは「第三紀鮮新世」の原名。白鳥ステーションで下車し、その海岸を訪れたジョバンニとカムパネルラはそこでくるみ化石を採集し、学者たちの「ボス」(牛の先祖)の足跡化石発掘の光景を見学します。
イギリス海岸のおい立ち
左の図は「作品」中に、賢治がイギリス海岸の地層の分布やおい立ちについて述べている説明を図化したもの。賢治は第三紀未、この付近一帯は浅い海におおわれていたと考えていました。上の図は現在の学者たちの考えで、賢治の推論どおり、その時代には南北性の細長い海域が存在していたのです。
『イギリス海岸の歌』
賢治が自ら作詞、作曲した『イギリス海岸の歌』という曲があります。当時賢治の親友で花巻女学校の音楽教師だった藤原嘉藤治が採譜したとされます。歌詞中の「Tertiary」とは「第三紀の原名、mudstoneとは「泥岩」の原名。「お−、若き第三紀の泥岩よ」とよびかけたのです。
イギリス海岸の地層
イギリス海岸の地層の主役は「泥岩」です。賢治は「作品」の中で、「川に沿ってってずいぶん広く露出し、その南のはじに立ちますと、北のはずれに居る人は、小指の先よりもっと小さく見えました」と書いています。赤い酸化鉄を含んだ涌水に染められているところもあります。巨獣たちが斗いで流した鮮血なのかも。
「泥岩」とは
砂や泥が海、湖、川などの底に堆積したもの(砕屑性堆積物)はその粒子の大きさや未固結、固結の区別から上の表のごとくに分類されます。「泥岩」とは、径1/16ミリ以下の粒子の集まりの固結物(岩石)であることがわかります。左の写真はイギリス海岸の泥岩、ハンマーで割ると青灰色の岩肌が現われます。〔引用(6)〕
「凝灰岩」とは
「作品」の中に「火山灰」「火山礫」「凝灰岩」など火山から放出された物質(火山砕屑物)の名が盛んに登場しています。その分類はやはり粒子の大きさや未固結、固結の区別を基にしています。上の写真はイギリス海岸の凝灰岩。黒っぼい火山礫がたくさん含まれているので「火山礫凝灰岩」というところ。〔引用(7)〕
岩手県の地質図
岩石、地層の分布、断層、褶曲などの地質構造、化石、地下資源の有無などを地形図上に着色、記号で表現したものが地質図です。岩手県の地質は複雑で、数億年前の古生代、中生代の岩石から新生代第三紀の地層、そして新生代第四紀の岩手火山まで、バラエティに富み、賢治の地質勉強にもこと欠かない地域でした。
イギリス海岸産くるみ化石
「作品」ではイギリス海岸の地層から舞見されたくるみ化石の産状や成因がくわしく語られています。左の写真は地層中に埋もれていたくるみの樹の幹の化石。上の写真は右が現生種、左がイギリス潅岸産の化石種で、学名を「バタグルミ」といい、第三紀に繁栄した種で、現在は絶滅種とされています。
くるみ化石と二人の学者
賢治が発見したくるみ化石は当時の岩手師範学校の鳥羽源蔵(博物学)[写真上の右]と東北大学の早坂一郎(古生物学)[写真上の左]によって鑑定されました。この二人の学者と賢治が一緒に現地調査もしました。のちに早坂は当時の権威ある学会誌「地学雑誌(44号、大正15年)」に、その研究成果を発表しました〔引用(8)〕
シカマシフゾウの足跡化石
「先生、岩に何かの足痕あらんす」と、花巻農学校の生徒たちは、イギリス海岸の地層面から珍らしい獣の足跡の化石を発見したのです。最近になって、古生物学者の亀井節夫氏は、この足跡化石が第三紀に栄えた「シカマシフゾウ」という学名で知られる大型のシカのものであると鑑定しました。〔引用(9)〕
騎兵隊の渡河訓練(1)
「あ、、騎兵だ、騎兵だ。」「作品」の中で、賢治と生徒たちが、イギリス海岸で馬と兵の渡河訓練を行っている騎兵隊の姿を見物する場面が出て釆ます。当時、盛岡市には全国にその名をはせた「騎兵第二十三、四聯隊」が駐屯していました。そしてしばしば北上川で渡河訓練を実施していたのです。〔引用(11)〕
騎兵隊の渡河訓練(2)
「岩手毎日」の大正5年6月30日付の朝刊紙上に、騎兵第二十四聯隊の演習の模様がくわしく報ぜられています。演習は花巻が中心だったようで、おそらく北上川の渡河訓練も大々的に行われたのでしょう。平和なイギリス海岸にはなじまぬ光景が想像されますが、それが当時の当り前の社会状勢だったのです。〔引用(2)〕
イギリス海岸の憩い
イギリス海岸は、その昔、町民や子供たちにとって絶好の休養地であり、水泳ぎや石拾いに興ずる人たちの姿が絶えなかったといいます。「作品」の中にも、「花城や花巻の生徒がたくさん泳いで居りました」と記され、また賢治の生徒たちも「素敵に高尚な」水面めがけて次から次と飛び込んで行きました。
花巻地区の河道変遷図
この地区の北上川旧河道は、葛、田力、庫里村などの外周を大きく湾曲して流れていたものと地質図等から推定される。この河道が何を原因に、何時変遷したか明らかではないが、近世初期には、北上川の十八崎北側の湾流は、東に移り、愛宕山下の四日町、一日市町の東裏を流れるようになっており、この地域は洪水のたびに浸水の被害を受けるようになったという。この対策として、1645年(正保2年)から2度の河道切替工事に失敗した。成功したのは、3度目の1678年(延宝6年)花巻城代野々村卯右衛門による上似内付近から高木村西部を横断する新川開削である。旧河道を三条で締切り、新川への通水を成功させ、洪水の脅威からのがれることとなった。
現在の河道は、ほとんどその当時のままである。
イギリス海岸付近空中写真(米軍撮影)
この写真は、昭和22年に米軍が投影した写真を複写したものである。
現在の瀬川は、上小舟液付近で北上川へショートカットされているが当時は、北上川上流方向へ湾流してから合流していたことがわかる貴重な資料である。
イギリス海岸の詩『煙』(1)
賢治は晩年、イギリス海岸をモチーフにした『煙』という詩をつくりました。「1926、10、9」という日付が付され、賢治が花巻農学校の教壇を去った年の秋の詩作で、『春と修羅・第三集』におさめられています。
この詩の前半部では、生徒たちと愉しく学び遊んだイギリス潅岸の懐い出がつづられています。
七四一 煙
一九二六、一〇、九、
川上の
煉瓦工場の煙突から
けむりが雲につゞいてゐる
あの脚もとにひろがった
青じろい頁岩の盤で
尖って長いくるみの化石をさがしたり
古いけものの足痕を
うすら濁ってつぶやく水のなかからとったり
二夏のあひだ
実習のすんだ毎日の午后を
生徒らとたのしくあそんで過ごしたのに
いま山山は四方にくらく
一べんすっかり破産した
煉瓦工湯の煙突からは
何をたいてゐるのか
黒いけむりがどんどんたって
そらいっぱいの雲にもまぎれ
白金いろの天末も
だんだん狭くちゞまって行く
イギリス海岸の詩『煙』(2)
『煙』の後半部では、当時河岸にあった煉瓦工場の古びた煙突から出る煙がこ空一面に広がる雲に混じてゆく様子が描写されます。晩年の少し暗い賢治の眼に映じたイギリス海岸。左の写真は当時の煉瓦を積み重ねたとされる工場跡地に残る塀で上の写真は、工場の煙突が立つ風景です。 〔引用(13)〕
イギリス海岸の想い出
ここまでイギリス海岸の美しい風光と情緒、泥岩や化石をめぐる科学の物語、教師と生徒の暖かいふれ合い、そして当時の社会状勢の反映など、イギリス海岸に寄せる賢治のさまざまな想いをつづって来ました。改めて賢治ゆかりの地としてのイギリス海岸の意義を知っていただけたら、こんな嬉しいことはありません。